How high the Moon

「月に帰らなきゃいけないんですよ」
 丸眼鏡をきゅっと上げて隣を歩いてる後輩がぼそっと呟いた。家にとの聞き間違いだと思ってなんとなく聞き流してしまった。
「え、実家?」


「まあ、実家といえば実家ですね」
「ふーん」
 とことこと歩が進む。日が暮れる。影が伸びる。背中を赤い夕日が照らしている。
「実家どこだっけ?」
「月ですね」
「つき?」
 あれ、聞き間違えじゃなかった? つい首を傾げてしまう。後輩は髪を揺らしてとことこ歩いてる。
「そうゆう地名?」
「地名? 地名……。まあ確かに月じゃアバウト過ぎますよね。どこ住んでるの?って聞かれて地球って言ったらおかしいし」
 でも地名とか正直よく分からないんですよね。後輩はちょっと照れたように笑う。いや照れてる場合ではない。
「え、月って星?」
「まあ星ですね。でもそんなこと言ったら地球も星じゃないですか。正確に言うと惑星ですかね」
「そうだけど。え、月に帰るの?」
「帰りますね」
「え、そうなの」
 なんだかどう反応すれば良いのか分からなくて、上手く会話が繋がらなくなってしまった。月に帰るんだ、そうなんだ。それで? 聞きたいことはたくさんあるのに言葉が出てこない。鴉の声が遠くに聞こえて、さやさやと鳴る風が運んだ強烈な金木犀の香りに、もう秋だなと思った。
「それで、月に帰るの」
「そうですね」
「なんで?」
「なん……や、なんか帰っといでって言われちゃって」
「何?」
 後輩の顔が俯いている。寂しそうだなと思う。いや、月に帰るって何?
「えっと、かぐや姫みたいなこと?」
「や、そんな大層なものじゃないですけど。あの人は有名ですが……」
「かぐや姫って月で有名人なんだ」
 そうなんだ、そりゃそうかと思って、何言ってんだろって自分でつっこんだ。この後輩は昔から変わったところがあるなと思っていたが、やっぱり変わっていた。
「で、えっと……月に住んでる?」
「正確には住んでいた、ですね。まあ戻るんですけど」
「あっ、そうなんだ」
 そうなんだ、ではない。な、なに?
「えっと、月って酸素あるの?」
「酸素って……ああ人間の先輩には必要ですけど」
「ひょっとして宇宙人だったりするの?」
 話の流れで聞いたら、後輩はむぅと頬を膨らませた。
「今まで仲良くやってきたのに、宇宙人とか急に突き放すようなこと言わないでくださいよ。ひどいじゃないですか」
「あ、ごめんね」
 怒られてしまった。ってことは本当に宇宙人なのか。なのか? なんで?
「月って……その、人住めるの?」
「うーん、先輩だと無理そうですね。私は住んでましたけど……。でも人と言われるとまた難しいですね。先輩は何をもって人と定義するタイプですか?」
「哲学?」
 確かに人じゃないなら、そもそも宇宙”人”と呼ぶのも変な話だなと思って、いやいや。
「そういや、月って、そのぉ……うさぎとかいるの?」
「うさぎ?」
 怪訝な顔をされてしまった。やっぱり変なこと聞いたか。でも今さらこちらの発言に変も何もなくないか?元はと言えば相手の方がよっぽど
「いますけど……でもこっちのうさぎとちょっと違うから、あれをうさぎと呼んでいいのかどうか……」
「いるんだ」
 なんとなく嬉しくなってしまった。やっぱり餅つきとかしてるのかな。
「餅はついてませんね。最近は機械で済ませてしまうので」
「進んでるねぇ」
 予想の斜め上の答えだ。
「地球からは見えない月の裏側に住んでるんですよ」
「そうなんだ」
「だから先輩からは見えないと思います」
 くだらないことを話していたら赤くなっていた空もだんだん青を混ぜてきた。そろそろ星も見えそうだ。そういえば十五夜あったな。仲秋の名月、なんて。
「あ、そういう?」
「先輩が何を早合点したのか分かりませんけど」
「お月見だからってこと?」
「いや……?」
「違うのか」
 なんだ、そうなのか。と言って落ち着いてしまった。とぼとぼと歩く。どうしたらいいか分からなくって。
「とりあえず、帰らなきゃなので今日はこれで……」
 後輩がひらっと片手をあげる。
「えっちょっと待ってよ、あの、どうやって帰るの?」
 つい焦って後輩の手首を掴んだ。
「どうやって……? ああ、迎えが来るんですよ。それに乗って」
「乗り物が来るんだ。そうか、便利だな」
 まだ何か?と後輩は首を傾げた。
「いや、その。何ってわけじゃないけど」
 何ってわけじゃないけど、まだなんとなくこの手は離せなくて。
「正直その、いきなり月とか言われて、まだ信じてないけど、なんかこう、本気で信じて欲しいなら信じるけど」
「え?信じてなかったんですか?」
「え、ごめん。いやでもそれは仕方なくない?」
「正直に言ったのに……」
「ごめん……」
 辺りはもう暗くなってきている。夏のいつまでも明るい夕方も、もう終わったんだなと一人実感する。
「では、じゃあ」
「いや」
 どんな事情かは知らないけれど、謝ってもまだ信じてないけど。
「あんまり……帰らないでほしいかな……」
 だってかぐや姫だって、帰ったら全部忘れちゃったじゃないか。なんか、そういうのは悲しすぎる。悲しすぎると思うんだ。
 腕を握る力をぎゅっと込める。
「先輩……」
 後輩の瞳が揺れる。ざあっと少し冷たい風が通った。
「でも帰らなきゃいけないんです」
 後輩はきゅっと目を閉じてからゆっくり開いた。
「見たい番組があって」
「なに?」
「地球じゃやってないんですよ……一応録画してるけど、そろそろ始まっちゃうから。やっぱりリアタイで見たいので……」
「なに?」
「ってことで」
「いや待って」
 今のこの雰囲気、この、今生の別れみたいなやつ、見たい番組のために引き起こされたの?
「先輩の熱い想いは明日聞きますから……」
「明日戻ってくんの?」
「はい。普通に今日は月に帰るってだけで、明日も学校あるし……」
「え?」
「じゃ、また明日」
「あ、うん」
 思わず手を離すと、後輩はばいばいと小さく手を振った。思わず自分も振り返してしまった。

 翌日、昨日見たテレビの話を聞いたが、てんで分からなくて、月の放送局はすごいなと思った。