校歌を聴くのは2回目だった。1回目は喜ばしくも成績優秀者賞を受賞し、創立記念式典に呼ばれた時だ。私はその日初めて自分の大学の校歌というものを聴いた。涙した。

  ここに生まれて 日本の
  文化をおこす 使命あり
  女子大学の その名こそ
  永久に我等が ほこりなれ

ずっと何者かになりたかった。この世に生まれたからには、何かを成し遂げなければならないと思って生きてきた。伝統ある小学校に、中学校に通い、皆の期待を背で感じ、活躍する姿を見せることに喜びを感じていた。しかし、中学の後半からか、高校に入ってからか、そもそも「期待」を感じなくなっていた。いつからか、期待されるのは、面にたって活躍するのは、男だった。授業中も、課外活動も、学校行事も、キラキラ輝いているのはいつも男子で、女子はその補佐だった。合唱祭や文化祭など、女子が輝ける行事もあったけれど、なんとなく重要視されていなくて、学校行事で一番大事なのは体育祭で、体育祭は男子のためのものだった。

6歳離れた姉がいる。姉は中学も高校も、県内で有名な女子校に通っていた。私は小学生の頃、姉の学校の体育祭を見に行った。体育祭の主役は、もちろん女子だった。勇ましい声で応援歌を歌い、力強い演舞を披露していた。女が女を担ぎ上げ、騎馬戦をやっていた。

応援団も、騎馬戦も、私がやることはなかった。やる権利がなかった。でも、やりたかったのだと思う。

女だからと言って、遠慮していたことが沢山あったのだと知った。知らず知らずのうちに、男子に譲っていたことが山ほどあった。女子大に来たら、誰の目も気にせずに、のびのびと勉学に励むことができた。授業中に、いくら質問してもいいのだ。どれだけレポートを書いてもいいのだ。熱心に何かに励むことを馬鹿にする人はいない。むしろ褒めてもらえる。自分が自分らしく輝ける環境があった。

賞をいただいた時、あなたはあなたのままでいいんだと、言われた気がした。輝ける場所で輝けばいいのだと、背中を押された気がした。そんな時に聴いたから、校歌が刺さった。

  ここに生まれて 日本の
  文化をおこす 使命あり

いつからか、文化をおこすのは、自分ではないと思っていた。しかし、文化をおこすことは、使命であった。自分は、文化をおこす側の、人間であった。

校歌を聴くのは2回目だった。ご唱和くださいと言われ、歌えるわけがないと、ざわつく椿山荘に、ニヤリ、とした。今から流れるのは、ざわざわした雰囲気を一瞬で変える、凛々しい歌だ。校歌が流れ始めると、やはり空気が締まった。モニターに映し出される歌詞をみた。また、涙が出そうになった。

  女子大学の その名こそ
  永久に我等が ほこりなれ

行きたい大学ではなかった。たった1点足りずに落ちた大学のことを、ずっと引きずっていた。センター試験の点数しか、誇れるものがなかった。人前で大学名を言うのが恥ずかしかった。そんな私が、堂々と、袴を着て、学位記を持ち、卒業する。間違いなく、本学が、私を変えた。

ずっと何者かになりたかった。この世に生まれたからには、何かを成し遂げなければならないと思って生きてきた。間違ってなどいなかった。自信をなくす必要はなかった。使命を持って、誇りを持って、自分の足でわだちを作る。私の後ろには、私の生き方が広がっている。

私は今日、日本女子大学を旅立つ。

輝く4年間に、ありがとう。

(2024年3月20日)

昨日を脱いだら、春

歩道橋の上で水を飲んだら、太陽が目に刺さった。春。アウターを持たずに家を出た。電車に乗ると、東京ソラマチの広告が目に入った。「昨日を脱いだら、春」。いいキャッチコピーだ。

脱いで着込んで、慌ただしい大学生活だった。新入生の頃は、“関東人”に舐められたくなくて、沢山着込んだ。逆に浅ましかった。関東生まれの人にとって、関東は特別な場所ではないから、着込む必要なんてない。気張っていることは、ああこの人は地方から来たんだなという、メッセージになる。

弊社には地方から上京してくる人が多数いる。新入社員向けのミーティングで、入社してから楽しみなことはなんですか?という質問に、「東京で働けることが楽しみです!」と答えた同期が多数いた。冷めた目で見た。自分だって上京3年目で、関東人ではないのに。過去の自分を見ているようで、拒絶反応が出る。「東京」というものに憧れる人々に、芋臭さを感じて、距離を置きたくなるのだ。東京なんて、そんないいもんじゃないよと、スカして、冷めて、“東京”ぶりたいのだ。

23歳、生まれて初めてディズニーランドに行った。九州からディズニーランドに行こうとすると、1人10万円の費用がかかる。飛行機代、ホテル代、滞在中の飲食費、交通費、お土産代、そんなものを考えて、10万。4人家族で行くなら、40万。当然、幼い頃にディズニーなんて行ったことがなかった。東京に来て、人生で一回もディズニーに行ったことがないというと、よく驚かれたものだ。仕方がない。伝える気もない。

人生初、ディズニーには、Dオタの友人と行った。ディズニーに行って、塗装が剥げていないことに驚いた。それを伝えると、「そりゃあ夢の国だから」と、いとも当然というように、返された。全然当然ではない。私が行ったことのある遊園地は、みな塗装が剥げていた。どこか、寂しかった。ディズニーにはそれがない。完璧で、栄えていて、生きている。それが当然だと思っているなら、恵まれているということだ。キョトンとした顔で、とぼけないで欲しい。恵まれているからと、幸せそうな顔をするな。転勤のない会社に絞って転職したんです。地方に行くのは勇気が出なくて。丁寧な言葉で、貶すな。気づかないふりをするな。

「自分が好きなところに居ればよかたい」
と親からLINEが来た。私は福岡に帰る気がないのだ。福岡に帰省する度に、視線にやられる。ミニスカートを履いていれば、おじさんの視線が刺さる。派手な格好をすれば、同性の視線が刺さる。ゴンチャで、ほうじ茶ラテLサイズタピオカナダテココミルクフォームトッピングを頼んだ。スタンプカードが全部貯まったからだ。すると後ろのギャルに「うわデカ」「タピオカ以外もあるくね?」「やばすぎ」とヒソヒソ言われた。そうだった、と思い出すのだ。実家の隣のおばちゃんに「大企業に就職したらしいね😊😊あとはケッコンだけね😊😊😊」と言われて、ハハハと返した。愛すべき地元は憎い。

どう足掻いても関東人にはなれなかった。育ちが悪い。擬態は性に合わなかった。普通に暮らしていたら、思想の強い地方人になった。仕方ない。地方では品がいい方だった。国立大附属の学校に通う、上品なお子様だった。鼻につくので、近所の同級生からは嫌われていた。公立小、中に行くのが普通の地元で、姉は私立中高に行って、私は国立小中に行った。色眼鏡で見られた。ずっと嫌だった。上京した。地方人だった。でも地元よりは過ごしやすかった。

春な忘れそ。忘れていない。痛々しいブログデビュー、ちゃんと覚えている。東京は好きになれたかい?私は私のことを、もっと愛せるようになった。

昨日を脱いだら、春。福岡を脱いだら、東京?

いや、福岡を脱いだら、本当の私。

もこシラバス

せっかく卒業するんだから後輩のためになることを書いてから卒業したいと言ったら、あなたそういうところがある、とみちるさんに言われた。ある。私は有益な情報を残す先輩でありたい。

4年間大学にいて、この授業、ためになったなあ、というものを書き記していく。担当教授が変わってしまっている授業もあるだろうし、誰かがこのブログを読む頃にはもう存在しない授業もあるかもしれないけど、きっちり書いておく。後輩のための情報である前に、私自身の学びの記録である。

教養『女性と芸術』
世界的に有名な芸術家を3人挙げろと言われ、その中に1人でも女性の名を入れることができるか。評価されている作品のその「評価」とは殆ど男性による。女性を視点に、女性の眼で芸術を鑑賞する授業。私は大学1年生でまだフェミニズムについて何も知らない時にフェミニズムの基本を教わった。世界の見え方が変わった。文学の読み方も変化した。

日文『日本文学史-中世』
正直、必修。日本文学科に所属しているのに履修しないという選択はない。中世志望以外の人に心からお勧めする。特に低学年の学生におすすめ。日本文学の基礎よりも日本文学の基礎を学べた気がしている。文学を読むとはどういうことなのかを知れる。それは扱う時代に限らない。また、論文をアブストラクトする(要約、要旨を作る)課題によって研究論文の型を学べるため、論文を読むのも書くのも格段に楽になる。通年の授業でかなり大変だが、この辛い一年が何度も未来のあなたを救う。

キャリア『現代男性論』
ブス!は絶対に言ってはいけない悪口なのに、なぜかハゲ!は許されている。なりたくてハゲになったわけではないのに、ハゲは明るいピエロでいることを求められる。なぜ?男性を差別する男性、ヘゲモニック・マスキュリニティの存在。軽視されがちな「男の生きづらさ」に真っ向から向き合う。人の心に巣食う差別の恐ろしさと、現代を「善く生きる」ための精神性を学んだ。

日文『中国思想演習』
漢詩を鑑賞し、漢詩を作る授業。あなたにも漢詩が作れます。コツは、漢詩っぽくしないこと。ほとんどの学生が旅先の景色など特別な経験を朗々と詠む中、とある先輩が自分のおばあちゃんの普段の様子を漢詩で詠んでおり、それがあまりにも素晴らしく、感動した。詩は心を詠むもの。

教養『政治学』
日本の政治の歴史なんかが学べる授業だと思っていたら、初回で「本授業で扱うのは『フェミニズム政治学』です」と言われ、非常に本学らしさを感じて良かった。内容はブログ部のルール上、書けませんが、おすすめです。

キャリア『社会に出るための自己表現』
元電通の方が講師の授業を受けた。4年間で受けた授業の中で一番面白かった。CMを沢山見て、広告に沢山触れて、伝わる表現、魅了できる自己表現を学ぶ。「そうだ京都行こう」が人の心を惹く理由は?「心も満タンに、⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎」と聞いて社名を当てはめられることのすごさ。「すぐおいしい、すごくおいしい」に見る繰り返しのテクニック。伝わる、耳に残ることは偶然ではない。表現の奥にある公式を学べは、今すぐ伝わる自己表現が実践できる。

日文『創作技法論I』
短歌創作の授業。いい短歌はある程度までは訓練で作ることができると知った。短歌を鑑賞し、実際に詠むことを繰り返せば、自然と身につく技法がある。短歌は三十一文字しかないから、詠む対象がかなり重要になる。どう詠むかより、何を詠むか。その上でどう詠むか。私が一番好きな短歌は「夢にわれ妊娠をしてパンなればふっくらとしたパンの子を産む」(渡辺松男)

以上、厳選した7つの授業について記した。私は近代文学専攻のため、近代文学の授業を数多く履修したがそれについては一切触れていない。専攻分野のバイアスなく、忖度なく書きたかったからである。取り上げて書かなかったが、近代文学の授業はどれも興味深いものが多いのでぜひ受けてほしい。私は大学1年生の頃に受けた『日本文学史-近代』や2年次の『近代文学演習』で「テクストを読む」という行為について深く学んだことが、その後の自分の文学に対する姿勢に大きく影響した。かなり成長できた。国語的な解釈から、作者から、背景から、歴史から自由になったその先に、自分だけの読みがある。しかし自分の読みは自由にせず、厳しく突き詰めて、堂々と論じる。卒論発表会で、その姿勢を示せただろうか。言ったついでに卒論発表会の振り返りをしておくと、参加者一覧の中に同級生やブログ部の後輩など見知った名前を見つけては嬉しい気持ちになっていました。聞きにきてくださった方々、ありがとうございました。

偉そうに書いているが、私はそこら辺にいる普通の学生で、徹夜で課題をすることもあれば、バイトに追われて課題を飛ばすこともあったし、先生方にたくさんご迷惑をおかけして、その度に支えてもらった。大学は学びの場。学びたいという意志がある学生が輝ける場。この授業は大変そうだから履修しない、というのは勿体無い気がしている。履修したい授業をたくさん受けてほしい。「好き」に勝るものはないから。楽しい学生ライフを!

ひなたぼっこ

くろすけという犬を飼っていた。賢い犬だった。幼稚園の頃、じーじと遊びに行った公園にいたのだ。公園にいた人が「あれは捨て犬だよ。3日くらい前からここをウロウロしているんだ」と言っていた。捨て犬なら、拾っていいんだと思って、家に連れて帰った。私はその時たぶん6歳だったと思う。来年から小学生という年だった。3月4日に拾った。今でも覚えている。誕生日が分からないから、毎年3月4日にお祝いしていた。

くろすけはいい子だった。連れて帰ってすぐは、ビビリで、散歩もまともにできなかったけど、すぐに慣れて、ご飯をモリモリ食べて、スクスク育った。くろすけの犬種は分からない。シェパードみたいな感じはしたけど、野犬というやつだと思う。顔だけが黒くて、それが印象的だったから、くろすけという名前になった。

小学校が終わると、走って家に帰って、すぐにくろすけと遊ぶ。くろすけは室内で飼っていたから、ただいま!と家に帰れば、出迎えてくれる。ランドセルを放り投げて、くろすけと沢山あそぶ。くろすけと一緒におじゃる丸と忍たま乱太郎を見て、天てれを見て、リビングで宿題をして、親が帰ってくるまで、ずっと一緒。休日はパパと一緒に近所の野球場に行って、くろすけと走り回る。くろすけは賢いから、リードを外しても、必ず戻ってくる。一緒に走り回って、帰る時は「帰るぞー!」と言えば、帰ってくる。遊び疲れたら、2人で寝る。私はくろすけと一緒に成長した。

くろすけは本当に賢かった。人間の言葉がほぼ分かっていたと思う。例えば食事中に箸を落としたら、取ってくれた。まあ犬の唾液がつくから洗う手間が増えるのだが、それでもしゃがんで拾わなくていいのでありがたい。それ取って、とか、あれ頂戴、とか言うと、全部分かってやってくれた。あんまりにも言葉が通じるから、昔、くろすけに向かって「もし私の言葉が分かるなら、ワンって言って」と言ってみたことがある。すると澄ました顔で「ワン」と言ったのだ。ちょっと怖くなって「本当に分かるの?」と聞いたら、今度はワンと言わなかった。私が怖がったことも分かって、ワンと言わなかったのかもしれない。

くろすけは頭が良すぎた。あまりにも賢すぎた。人間の言葉を分かりすぎていた。犬にしては頭を使いすぎた。だから急に泡を吹いて倒れたんだ。てんかんだった。犬が老いてからてんかんになるのは珍しいと言われた。脳の病気かもしれないと言われた。片目が見えなくなった。左の目だけ瞳孔が開き切ってしまっていた。てんかんになって、目もおかしいから、心配なら都会に行って、MRI検査を受けてみては、と言われた。行かなかった。てんかんの薬を飲ませるだけで精一杯だった。

くろすけはてんかんで死んだ。私が中3の秋だ。毎日泣いた。小学生の頃からずっとずっと一緒だったくろすけ。くろすけがいない生活なんて考えられなかった。近所の山奥に犬の火葬をやってくれる寺があって、そこに行った。住職さんに、いい犬ですねと言われた。火葬のボタンは私が押した。くろすけは骨になった。遺骨は庭に埋めた。手頃な石を拾ってきて、お墓にした。今でも帰省したら手を合わせている。

東京の街を歩いていると、散歩中の見知らぬ犬が急に私の前で立ち止まることがある。飼い主もビックリして、どうしたの?なんて声をかける。犬が3分くらい私の前から動かなくて、飼い主さんがオロオロする時もあった。陽気な飼い主さんは話しかけてくれたりする。大抵「犬飼ってるんですか?」と聞かれる。「はい」と答えるが、東京では飼っていない。犬の匂いがするものも身につけていない。たぶん、くろすけが近くにいるんだろうな、と思っている。くろすけが死んでから、犬が異様に自分に興味を示すようになったから。

友人とローラースケートの話をした。そういえば小学生の頃は、ローラースケートを履いてくろすけの散歩に行っていた。ローラースケートを履いていれば、くろすけが勝手に引っ張ってくれるので、楽に散歩ができた。その話をした。すると友人に、「とても過ごしやすい日に縁側で寝ちゃって、そのときに見る夢の話かと思った」と言われた。そうかもしれないと思った。穏やかな春の日に、くろすけのことをよく思い出す。

最近、死んだ人が生きている人の夢に出てくるのはとても難しいというような話を聞いた。どうりで私の大好きな人たちはなかなか夢に出てこないのだ。くろすけも全く夢に出てきてくれないのでずっと悲しかった。それでもたまに夢に出てきた時は、大抵二人で楽しく遊んでいるのだ。くろすけを抱きしめていたら、いつの間にか人間の男の子になっていて、私にとっての可愛い弟だったことを思い出して、より愛おしく感じて、もっと強く抱きしめたら、また犬に戻って、でも人間の男の子で、嬉しくて、そんな夢を見たことがある。夢の中で、人間の男の子になれるくらいには、やっぱり賢かったんだなあと思う。さすがに文字は読めないと思うから、このブログは読んでいないだろうけど、私が今でも大事に思っていることとか、大好きなこととか、そんなことは当たり前のように分かっていると思う。だからまた遊ぼうね。ずっとずっと大好きだよ。

私と大好きな国語へ

「初日の出とても小さい駅で見た」
伊藤園お〜いお茶新俳句大賞に8歳の子の句が選ばれたと聞いて鳥肌がたった。なんていい句なんだろう。
幅がある句だと思った。いつもは山から見ているのだろうか。何か事情があって今年は小さい駅から見た?しかし残念な気持ちは感じない。小さい駅で見たというのが、また思い出なのだ。技法は単なる大と小の対比だけではない。初日の出という雄大で特別な自然が、駅という普段使う日常の人工物とよく対比されている。これぞ俳句だ。ものすごく少ない文字で、その文字以上の光景がなだれ込むように入ってくる。

4年間日本文学科で色々と学んできて、文学というものは何なのか、分かった気になった。いい文章というものがなんなのか、少し分かるようになった。短歌と俳句に限って言えば、言い過ぎないことが美である。先程の俳句について、選者の人曰く、「初日の出」という言葉は詠むのがとても難しいのだそうだ。分かる。デカすぎるからだ。例えばクラス全員で短歌を作る機会があったとして、「運動会」から始まる短歌は大抵良くない。言及している対象が広すぎる。競技なのか、暑さなのか、熱気なのか、言いたいことが何なのか分からない。大事な文字数を無駄に使ってしまっている。例えば運動会でも応援団について詠みたいなら、

枯れた声絞り応援する君に応え声張る君を見ている

いま9秒で作った短歌だが、このくらい詠めれば中学生なら校内で選定されないか、思い上がり?とにかく、短歌や俳句を作るなら、言及する対象は絞った方が良い。今回は運動会でも応援団でもなく「君」にしてみた。中学生ぽいと思ったからだ。

なぜ中学生が全員で短歌を作る場合を考えて話をしているかというと、私の中学校がそうだったからである。毎年毎年短歌を作らされた。そして合唱コンクールで優秀作品の表彰があった。校内短歌大会がある学校なんて素敵だと思う。私は出来の悪い短歌ばかり作っていた。今の実力なら1回くらいは入選できただろうと悔しく思う。その頃は短歌がなんなのか分かっていなかった。

国語の成績は良かったけれど、なぜいいのかは分かっていなかった。今なら分かる。文章を読んで、文章に書かれていること以外を読み取る力があったからだ。「月が綺麗ですね」という言葉を聞いて、(ああ、この人は愛を伝えたいんだな)と感じるのか、(ふーん月が綺麗なんだ〜)と思うのか、ここが国語ができるかできないかの境目だと、今なら思う。だから読書が好きな人は国語が得意だし、自分で小説を作ったことがある人はもっと国語が得意なんだろう。数学は得意だけど国語は大の苦手だった友人が、俳句甲子園に出場するようになってから国語の成績が圧倒的に伸びたのを、今でも思い出す。中学の国語の先生になる予定の高校時代の友達に、国語の授業について熱く語ったけど、伝わっただろうか。

受験シーズン、出願先選び、私立大学受験、今が佳境なのか、どうなのか、もう忘れてしまったが、とにかく私は日本文学科に進学したことを全く後悔していない。日本文学科に進学して良かったと心から思っている。ブログ部の時点で大学からの回し者なので説得力に欠けるが、本当にそう思っている。就職に弱いとか言われているけれど、そもそも就職に強いか弱いかは本人のコミュニケーション能力次第で決まるので、文系に関して言えば学部学科はほとんど関係ない。文学部が就活に弱いというのはたぶん、文学部に進学する類の人が体育会所属とかではなかったから、パワーを求める企業にあまり刺さらなかったというのが実態だと思う。人で決まっているのであって学科では決まらない。だから、文学部に行きたいのに就活のことを考えて辞めるなんて思っている人がいたら全力で止めたい。4年間も学ぶんだから、好きなことを学んでほしい。大学は専攻した分野のことばかり学ぶから、せっかくなら好きなことで溢れる4年間にして欲しい。私はそうだった。卒業が名残惜しい。社会に出ても好きなことばかりできる会社だといいなあと思う。でも好きか嫌いかだって自分で決めるのだから毛嫌いせずになんでも楽しめるような大人になりたいと思う。短歌の一つでも読んでこのブログを締めたかったが、考えているうちに寝てしまって出来なかった。いつかひっそりと、このブログの後に短歌が追加されているかもしれない。

上京3年目

福岡という東京から1100キロも離れた土地からはるばる上京してくると、当然、文化の違いに戸惑うことがある。文化の違いというと、例えばエスカレーターに乗る時に東京は左側に寄るけれど大阪は右側に寄るといった、分かりやすいエピソードを人々は求めたがる。しかし、実際に私が体感してきた文化の違いというのは、実に地味なものである。ものすごく地味であるが故に、逆に苦労するのだ。今日はそんな文化の違い話を聞いて欲しい。ちなみに福岡は東京と同じでエスカレーターは左側に寄るので苦労はしていない。

私が東京に来て一番苦労したのは、「からい」という言葉だ。私は、関東の人が「しょっぱい」という言葉を使う場面で常に「からい」という言葉を使う。塩味が濃いものは全て「からい」になる。なんなら塩そのものも「からい」になる。学食などを食べて、少しでも塩味が濃いと「からい」と言う。例えばそばを食べて辛いとか、チキンカツの味が辛いとか言う。関東の人にとって、辛いという言葉を使わないであろう料理の感想でしょっちゅう辛いと言うから、大学の友達によく「辛い?」と聞き返されていた。こっちは聞き返される理由がよく分からないので、「うん辛い」と返していたが、東京で1年くらい過ごしてやっと気づいた。塩味のことを関東の人は辛いと言わないのだ!関東の人も、まさか文化の違いで「からい」という表現を使っているなんて思いもしないから、私は辛味を感じやすい奴ということになっていた。

文化の違いが地味というのはこういうことを言っている。あまりにも地味なので、ある個人が変な奴だった、と判断されて終わってしまうのだ。

似たようなことは蕎麦でも起こった。福岡の蕎麦、うどんの出汁の色は黄色い。緑茶のような色を想像してほしい。東京の出汁は麦茶のような色をしているし、醤油味が濃いから、それとは全然違うことが分かる。福岡の出汁は薄いから、麺と一緒に出汁を飲むのは普通だ。出汁も一緒に味わうのだ。うどんをズルズル食べて、汁を飲みほす、なんて普通である。飲んで美味しいのが出汁だからだ。ところが東京はどうか。麺の汁を飲む、という文化が一切ないのではないか?たまにつけ麺に出汁割りなんてものがあるが、基本汁は飲まず、飲むとしたら薄めて飲む、という文化のような気がする。福岡出身の私が東京で麺類を食べたらどうなるか、ここまで説明したら分かりそうなものである。学食で蕎麦を食べて、出汁を飲んだ。横の友人に「え、汁飲むの?」と若干引かれた。私「え、飲まない?」友人「飲まない」。沈黙。飲んだ後の私「辛い!」。こういうことが平気で起こる。関東の人間には私はこう映る。

『蕎麦の汁を飲んで辛いと言う変な奴!』

誰がこんなことを文化の違いと思うだろうか。誰も私が生きてきた福岡では普通だったからそのような行動に出たんだな、などとは思わない。ある個人の狂気で終わるのだ。この地味な文化の違いに苦労する人間は多いだろうし、変な奴とは関東の人もあまり関わりたくないだろうから、全く東京に馴染めずに福岡に帰ってくる人が一定数いるのにも頷ける。

ちなみに蕎麦うどん関連にはもう一つ話があって、東京のうどんはかたすぎる。最初食べて、茹でてないのかと思った。本当に。福岡のうどんはコシがないふにゃふにゃだから、うどんはそういうものだと思っていて、東京でうどんを食べて、歯で噛まないといけないことに驚いた。うどんは噛むものじゃないと思っていた。あれ以来東京ではうどんを食べていない。蕎麦ばかり食べている。うどんを食べたい気分の時は蕎麦を食べている。うどんだけは東京で食べられない。味も食感も見た目も違うので変な気分になるのだ。蕎麦は福岡では全く馴染みがないので東京でも食べられる。あと福岡にはつけ麺もない。福岡の人はつけ麺を、つけて食べる麺の上位概念だと思っている。ざるそばとかそうめんのように、麺を汁につけて食べる麺の総称と思っているので、つけ麺という料理があると思っていない。だから私は福岡から東京に来た友達にはつけ麺をオススメしている。みんなこんな食べ物があったんだ!と感心しながら食べてくれるので嬉しい。

お正月、餅には何をかける?もちろん、砂糖醤油。砂糖に醤油をかけたあの味がたまらなく美味しい。(え、醤油に砂糖……?)と怪訝な顔をするでない。砂糖と醤油は、おいしい。

コンビニで肉まんを買っても酢醤油が付かないので驚いた。

かしわめし、が通じない。

ごぼ天、ない。

住み慣れた街を飛び出すというのは大変なことである。自分にとっての普通が普通でなくなる感覚は、体験したことのある人じゃないと分からないだろう。東京の言葉を「標準語」と呼ぶからか、どうも東京の文化こそが標準で、それ以外は異質だと思っている人が多くてやりづらい。私にとっての標準は福岡で、それは変わらない。しかし、それを標準だと言って周りに押し付けることはしない。東京のことも知って、学んで、馴染んでいくのだ。上京3年目、離郷3年目。

ブログを振り返る 3

みなさん、こーんにーちはー!もこもこです。冬なので。最近バラエティを見て、錦鯉のまさのりさんにハマっています。あの人を見るとあの人が何を喋っていても笑ってしまいます。多分私のツボなんだと思います。

さて、12月後半に更新日がやってきました。毎年12月後半はこの内容です。一年のブログの振り返り。私は滅多にこういう自我をブログで出しませんが、12月後半だけは現れます。

先に卒論の振り返りをしておきます。卒論を出しました。20日が締め切りなのに、16日に出しました。4日間推敲してさらに良くなる未来が見えなかったのです。蛇足だらけの未来が見えたので、踏ん切りがついた段階で提出しました。卒論はもっと苦しいものだと思っていて、締め切りギリギリになるとか、作品に飽きるとか、そういうものだと思っていましたが、全くそんなことはなく、執筆中ずっとずっと楽しかったです。研究するたびに新しい顔を見せてくれる、『破戒』という作品に出会えて私は幸せです。卒業してしまうのが嫌で、楽しかった日文ライフが終わるのが嫌で、書き終わってからも提出したくないなあ、終わりが来てほしくないなあとずっと思っていました。もう卒論を書けないと思うとすごく悲しいです。

では、ぬるりと振り返っていきましょう。
こんなに卒論が楽しいとは全く思わずに始まった4年生の4月、「東京の春は雨がよく降る」を書きました。ちょうど新入生向けのオリエンテーション委員をやっていて、新入生からブログを褒められて、いい気になって書きました。その後このブログを読んだあこちゃんからも褒められました。わーい。ちなみにブログ部4年生はお互いのブログでいいなと思うものがあればそれを直接本人に伝えて褒め合う文化がある気がします。だからみんなのびのびと楽しくブログを書いているわけです。

「虚構、もしくは春」、書くことが無さすぎて日記を切り貼りしました。
「そうだ 京都、行こう」、あのCMを聞いてずっと思ってたんです。〈僕〉は京都だろうなって。
「これでいいんだよ」、就活が終わってhappyだったのでああいう内容になりました。
「アイノ」、グラバー園で親子でドレス着て写真撮ったとかいう家族旅行の思い出話を一切せず、こういうことばかり書いてしまいます。
「要するに、暇」、七夕の日に更新が来たのに日付を無駄にしてごめんなさい。七夕に七夕のこと書かないやつ嫌いなのに。
「具体的で合理的で即効性のある何か」、スランプ。
「8月9日という日」、昨年も戦争話書いてるので是非。
「見て育つ」、ひもじい過去。
「大学四年生」、あまりにもスランプ。
「議事童話」、国会議事堂の上にある図書館でアルバイトをしていた時の話。文章としては良くないけど話としてはふむふむへえーとなると思う。

「土木と誇れる愛」
やっとちゃんとしたブログを書きました。長いスランプを脱してようやく書いたブログ、noteの方では17いいねも貰っちゃいまして、誰かに紹介もされたらしくて、本当によかった!やっぱり、じっくり何かを書く時間を取らないと本当にダメですね。時間をかけて一気に書くと、書くと言う行為によって気持ちが落ち着くし、できあがった作品に自己肯定感があがるし、そうするべきです。

https://note.com/jwu_nichibun/n/n25742b0493ce (いいねくーださいっ)

実は今年ブログ部4年生は日本文学科に表彰されました。よく頑張ったで賞を貰ったわけです(そんなライトな名前ではなく、ちゃんと歴史も権威ある日本文学科賞を受賞しました。ご推薦くださった皆様、本当にありがとうございます)。そこで、賞を貰えるんだったらちゃんと書かねば、と思って、しっかり書いたのがこのブログです。私は何か賞を貰うたびにずっと恩返しをしたいなと思っており、自分がたくさん支えてもらった分今度は後輩を支えたいなと思うわけです。そうなると社会に出てお金を稼いで寄付をするとかそういう話になってきて、社会のことを考えていたら、こういう内容になりました。

後輩にどう映っているかは分かりませんが、ブログ部4年生はいい感じの雰囲気です。先ほども書いたように、お互いがお互いのファンをやっているところがあり、いいと思ったものは素直に褒めあって、高めあって、ここまでやってきました。私はブログ部に入れてもらえて幸せ者だったなと思います。本学に来て、本学の良いところを沢山知って、大好きになって、自分を変えてくれたきっかけは色々とあるけれど、ブログ部で活動できたことは、かけがえのない同期たちの存在は、本当に大きかったと思います。

もうすぐ卒業してしまうのが悲しくて仕方がないですが、残りの大学生活もブログ部ライフも、後悔のないように楽しんでいきたいですね。

以上!良いお年を!

丑松の選択

この世に読まなければならない文学なんてものは存在しない。だからこれを読まないとダメだとか日本人なら必ず読むべきだとかそういうことを言っている人が私は好きではない。文学は所詮娯楽であって漫画やゲームと何も変わらないし文学だけが高尚なものだとか芸術の一種だとかそういう考えは一切捨てて普通にふむふむ面白いなあと軽い気持ちで読めばそれでいいのだ。

たまたま自分がふむふむ面白いなあと感じるものが近代文学であっただけで難しそうな本を読んでいて凄いねとか頭がいいねとかそういう話ではなくただ私が時代錯誤なだけだ。大抵の人はゐとかゑとかいう文字が出てくる小説をニコニコしながら読まないし現代人に親しみやすい分かりやすい言葉が溢れている時代にわざわざ旧仮名の小説を読む必要がどこにあろう。読書量が少ないとか近代文学を読んだことがないとかそんなものは恥ずかしいことでもなんでもないし自分がそういう文学が好きだからと言って文学に親しみのない人を馬鹿にすることがあってはならない。

しかし読むべき文学が存在しないといえど読んで欲しい文学は多数存在する。その一つが島崎藤村の破戒である。私は高校二年生の時に初めてこの小説を読んで読めば読むほど作品の中に飲み込まれていって最終的には丑松が告白する場面で丑松と共に涙してしまって今でもあの感動は忘れられない。壁に仕切られた塾の個室で誰にも見られないようにひっそりと涙をこぼしながら電子辞書で破戒を読んだ秋の日の寒さ。そんな高校時代のたった一ページが卒業論文になるのだ。

島崎藤村はジットリした文章を書くので私のようなせかせかした文章とは真反対の位置にいると思う。だから文体という面では私は藤村からあまり影響を受けていないことになる。普段の私を見ていても格別藤村が好きな人には見えないと思うしそもそも藤村が好きな人が珍しい気もする。自然主義文学が大好きですという人に私はまだ会ったことがない。おじさんのせいよくが赤裸々に描かれていて気持ち悪いですという人には何人も会ったことがある。破戒は蒲団とか新生とかその辺とは違う自然主義文学だから破戒好きイコール自然主義好きにはならないけれどそれはそうと女子大生には安吾とか太宰が人気で流石だなあと思う。

破戒について研究した内容は全て卒業論文の中でぶつけるからブログでモジャモジャ言う気にはならない。こんなことを言ってしまうと過去の先輩方がこの時期に自身の卒論について分かりやすく説いていたことを思い出して涙が出てくる。ブログ部として活動してきてもう大学四年生になってしまったけれど一向に上品な文章が書けない。雑草がいくら頑張ってもペンペン草にしかなれなくて一生かけても花壇に咲いている花にはなれない。そんなことはどうでもよくてとにかく私は卒業論文を書くのが楽しくてワクワクしながら筆を進めているからみんなもそういう作品を題材にして欲しい。好きなものを題材にすれば全く苦ではないから。私は四年間好きなことだけ勉強してきて得意分野で戦ってきてとても楽しかった。

大学を歩きながらああもう卒業してしまうのか私は後何回この大学内を歩けるだろうかと考えて悲しくなった。行きたい大学ではなかったから他大学に編入しようとか院から違う大学に行こうとか考えていたけどあまりにも日本女子大学がいい大学過ぎて友達があったかくて先生が優しくて私は一生日本女子大学を背負うのだと決めた。大学在学中私生活は穏やかでない日も多々あったけれど大学の中で嫌な思いをしたことは殆どなかった。ずっとずっと楽しくて楽しくてこんな幸せな学生生活は初めてだった。

小さい頃に窓際のトットちゃんとかココシャネルの伝記とかを何回も読んでいた私は人生なんてのびのび生きていいなんぼだし自分らしく生きることが何よりも大事だと思っていたけれど自分が生きてきた田舎はそんな思いが叶う場所では全くなくてずっと苦しい思いをしてきた。のびのび生きれば出る杭と見なされ打たれてひっそりと生きれば地味だと馬鹿にされなんの特徴もないそこら辺の平凡な普通な女の子でいることが成功で目立たず騒がず大人しくしておくことが美徳だった。

でも私はやっぱりそんな普通の女の子たちより黒柳徹子さんが魅力的に見えたしココシャネルになりたかったしそういう自分の性格と平塚らいてうを輩出した大学がシンデレラフィットしたのだ。自分の気持ちを惜しみなく表現できる学部学科に手招きされたのだ。我が四年間に悔いなし。あれをすべしこれをすべしは一切ないけれど自分を信じ続ければきっと自分に合う環境は見つかるし人生なんて自分が輝ける場所探しだと思う。だから破戒の話に戻るけれど丑松のテキサス行きを誰も馬鹿にできないし逃避でもなんでもない。丑松の希望の選択を私は私のために推していきたい。

超シスコン

 どうやら姉に彼氏ができたようで、私は太陽が西から登ってきたかのような気持ちになった。いつかこんな日が来るだろうと、小学生くらいの頃から考えていたが、中学生になっても、高校生になっても訪れなかったので、じゃあ一生訪れないのかと思って、そんなことも考えなくなっていた日に、いきなり訪れた。
 相手は普通の人だった。趣味の話で盛り上がって、付き合うことになったらしい。姉と同い年で、29歳で、定職に就いておらず、バイトマンらしいが、そういうのは抜きにして、普通の人だった。
 実家に帰った時に、姉に服を借りようと思って部屋に侵入した時、ちょうど姉は彼氏と話している最中だった。彼氏のことは気にせずに私は姉と会話していたけど、そのまま彼氏とも会話することになって、大学生になって初めて、「姉の彼氏と会話する」というイベントが発生した。
 優しい声をした男性だった。声優志望らしい。姉を愛している感じがした。姉の妹だから、私にも親しい気持ちを抱いてくれているようだった。
 結局服は借りずに部屋を出て、姉は引き続き彼氏と話していた。
 なんだかモヤーっとした気持ちになった。姉に彼氏、姉に彼氏、姉に彼氏……?
 姉が世界で一番愛しているのは私だと思っていたが、違ったのか。いや、違うことは無いと思うけど、私と同時に、彼氏のことも愛しているのか。それなら、男性じゃなくて、いいじゃないか。てっきり姉は彼氏じゃなくて彼女を作ると思っていた。その方が、私も安心だったのに、どうして、男の人なのか。女の人に姉を取られるより、男の人に姉を取られる方が嫌だ。
 姉は、彼氏のためにクリスマスプレゼントを手作りしたそうで、嬉しそうに見せてくれた。何を手作りしていたかは言いたくないので言わないが、正直、ダサかった。手作りするより、オシャレなブランドで買った方が、よっぽどいいと思った。手作りの何かなんて、かなり上手く作らない限り、シロウト感が溢れ出て、芋臭い。そんなものを彼氏に使わせるなんて、どうかと思った。でもきっと、あの彼氏なら、めちゃくちゃ喜んでくれるんだろうなと思った。姉が手作りしたプレゼントを、大事に使うんだろうなと思った。余計に悲しかった。私は、姉から貰った羊毛フェルトのぬいぐるみを、飾らずに無造作に袋に入れて段ボールにしまってある。きっと姉の彼氏は、飾っている。姉も、彼氏からもらったらしい絵を、飾っている。ピンク色の髪の毛をしたキャラクターが微笑んでいる。アラサーなのに、中学生みたいな恋愛をしている姉と、姉の彼氏が、たまらなく憎くて、羨ましい。
 姉の彼氏は東京に住んでいるから、最近、姉は彼氏に会いに東京まで来た。東京なんて、私に会いにくる以外の目的で来たことないのに。東京に来て、私に会わずに帰って行った。母親から、ニコニコで帰宅した姉の写真が送られてきた。サンシャイン水族館で買ったらしい、コツメカワウソのぬいぐるみを抱いていた。買ってもらったんだなあと思った。姉はいつも私のお姉ちゃんで、なんでも私に買ってくれていたから、姉にも何かを買ってくれる人ができて、よかったなあと思った。涙が出た。姉には頼れる人がいただろうか。いつもみんなのお姉ちゃんで、妹の面倒を見て、親からも頼られて、姉が甘えられる人は、人生で何人いただろうか。
 姉は、最近の私のことを心配していた。私は私生活がゴタついていたので、しばらく実家に帰ったり、友達の家を転々としたりしていた。ようやく落ち着いたけれど、なんだか精神が不安定で、幻聴を聞いた。姉によく似た声が、意地悪そうに私を呼ぶのだ。やめろ、と私は言った。なんで?とその声はより近く私に問いかけた。うるさい、と言うと、奇妙な音が耳で鳴った。聞こうと思えば言葉に聞こえるような不気味な音だった。聞こえない、聞こえないと私は言って、顔をブンブン横に振った。声は聞こえなくなった。全身が痺れていた。すぐに姉に電話すると、私の話に呆れていた。なんだか安心した。怖い夢を見ると、決まって私は姉の部屋に行って、一緒に寝ていた。
 姉に彼氏ができたからと、変に構えたのは自分だった。姉はいつでも姉で、大好きなお姉ちゃんで、ずっと変わらない。

土木と誇れる愛

建設に興味があったの?と聞かれてウーンまあ親が建設コンサルタントだったからね…なんて答えて、本当は親が働いている姿なんて見たことがない。父親は私が小学生の頃には仕事を辞めていてずっと家にいたから、それが普通の家庭とはちょっと違うことは薄々気がついていて、さらにそのせいで父が卑屈になっていることも何となく知っていた。そんな父も酒を飲んで楽しくなって家族の夕飯の時間が楽しいものになれば、測量のために各地を駆け巡っていた話を楽しそうにするのである。測量のために手漕ぎボートで1人海に繰り出したら大型船がやってきて慌てて逃げたとか、大事な資料が海風で全部飛んでいき必死に集めたとか、スズメバチの大群に襲われかけて山を必死で下ったとか、自衛官に測量させた話、犬に測量のための棒を引っこ抜かれた話、禁足地に入ったとかで集落のドンに怒られたけどドンの勘違いだった話、色々ある。どれもちゃんと面白いから、私たちは大笑いで聞く。父は人を笑かすのが得意だと思う。

私が高校生になった時だったか、いきなり父が働きに出るとかで、何年もブランクがあるしとっくに定年なんて過ぎている年なのに、とにかくもう一度測量のアルバイトをするとかで、働き始めた。福岡で働くと知り合いに会いそうで嫌だとかなんとか言って、家から車で1時間以上かかる佐賀の端っこまで行って、そこから職場の車に乗り換えてまた各地を測量する日々が始まった。熊本地震が起こった後は熊本まで行って、球磨川が氾濫した後も熊本まで行って、たまに泊まり込みで仕事して帰ってきたりして、父は大事な仕事をしているんだなあと思った。家には作業服が並ぶようになって、街で見かける作業服のおじさんが父だと思うとなんだか誇らしかった。その仕事も私が大学に入る時には辞めてしまって、また父の引きこもり隠居生活が始まっているようだが、仕事の痕跡が消えないというのがこの仕事のすごいところである。年の瀬に必ず佐賀県の白石町にある道の駅でレンコンを買うのだが、その時に「有明海沿岸道路」というのを通る。その途中に架かっている六角川大橋を通る度に父は、ここも深くまで潜って測量したなあ、と言うのだ。私が今通っている橋も父親の仕事あって完成したものだと考えるとなんだかすごい。これが土木のやりがいだ。

文系なのにゼネコンに就職したと言うとみんなに驚かれ、そりゃものすごく仲のいい友人は基本的にあまり驚かずむしろ喜んでくれるけど、ゼミの知り合いとか後輩とか、そういう少し関係性が遠い子たちになるともう目を見開いて驚かれる。最近ゼミの子たちに私が現場に出て作業服を着ている写真を見せたら「えー!!」っと悲鳴のような声をあげられてしまい少しショックを受けた。慌てて自分は普段は現場には一切出ないことやオシャレな服を着て働けることなどを伝えたが、改めて若い女性にとって土木はものすごく抵抗感のあるものだと実感した。臭いとか汚いとかで3Kと言われているらしい。内定先で知り合った土木の同期も、土木なんて辞めとけと言われると言っていた。男性でこれなら女性はもっと当たりが強い。そういう人たちに対して社会貢献度がなんだやりがいがなんだと言って殊更土木の良さをアピールする気はない。ただ一つ言いたいのは土木は子どもたちに誇れる仕事だということだ。父は何も意識していなかっただろうが、高速道路を指差してここで仕事をしていたとか、トンネルを指差してここの設計を担当したとか、そういう話をしていたのを私は誇りに思っている。父が働いていた姿は見たことがない。でも高速道路に乗れば、トンネルをくぐれば、父の仕事がそこにある。父の仕事は子どもたちに誇れるものであった。そして私も、子どもたちに誇れる仕事をするのだ。