底冷えのとまと

あけましておめでとうございます。あやめです。

クリスマスに年越し、それにお正月はいかがお過ごしでしたでしょうか。私はわりとルンルンで大掃除をし、事あるごとに言い訳して御馳走をたべる二週間になりました。あとは大半の時間をレポート作成に使いました。はやくおわらせたい一心で。なんだか去年も似たようなことを言っていたような?

◆◆◆

コップ一杯の冷水を胃に注ぎ込めば、その衝撃で目が覚める。

起きたての冷たい部屋の空気に身震いしながら、なにでもなく、水を飲む。

恥ずかしいことに口を開けて寝てしまうクセがあり、それゆえにカピカピに乾いた体。

目が覚めると、昨日処理を中断した哀しい記憶が再開して流れて頭を満たす。ただ、寝て起きると感情がリセットされるようで、ああ、そういえばそんなこと考えていたかもしれないね、と思うだけになっている。私はもう、おとなだ。

上着を着て、台所へ向かう。室温5度。午前7時。

吐く息は白く、目はショボショボする。

・暖房のスイッチをいれる。

・パンをトースターにいれる。

・顔を洗う。

凍り付く手前のギリギリを揺らいでいるような冷水で顔を洗って、シャキッとするな、と思ってふと鏡を覗き込むと、そこにまだ寝ぼけまなこの自分が写る。まだ目覚めていないのか。寒い。

暖房が効き始める。ゆるやかに乾いた空気が満ちていく。

トーストの焼ける音。

・マーガリンを塗る。

ざりざり、ざ、と音が立つ。いいにおい。

・卵を焼く。

あ、崩れた。目玉焼き失敗。スクランブルエッグ成功。

・インスタントコーヒーを入れて湯を注ぐ。

湯気が立つ。眼鏡が曇る。

曇り空。今日は曇り、のち、雨。この寒さでは雪になるかもしれない。舞う程度の量だろうか、靴下は二重に履こう。手袋とマフラーももとう。

・持ち物:緑色のリュックサック、パソコン、筆箱にしている缶々、ノート、水筒、弁当、薬や絆創膏やお守りが入ったポーチ、NEW:手袋、マフラー

今日は何があるんだったか?

・2限:講義、3限:空きコマ(月曜3限と木曜2限の授業で出ている課題をする)、4限:演習、帰宅予定時間:18時

・追記;昼休みに中央研究室からきていたメールの返信、電車内で読みかけの本(行動経済学について)を読む、帰宅後明日(13日)の発表レジュメ見返し

・朝食をとる。

ざも、というような音を立ててトーストが私に食われる。

コーヒーを飲む。あつくて舌をやけどする。

再び冷水を嚥下する。

やけどがひりひりするように、苦い昨日が思い出される。

昨日は、よせばいいのにわざわざ嫌な食事会にちょん、と参加して、帰りが遅くなってしまった。相変わらずトマトの缶詰みたいな満員電車に、トマトとして乗り込んで、ペーストになった昨日。これだけ人がいるのに、みんな一様にスマホをのぞいて異世界をたのしんでいる様子だし、首はまっすぐだし、着ている服は似たり寄ったりである。私だってその一員である。トマトとしてSNSで他人の生活をのぞけば、ペーストトマト(ピューレトマト)な自分とはうって変わって、ホールトマトなキラキラ生活がそこには「ある」。でも電車を見る限り、大差ない人々。中身は皆一様にぐちゅぐちゅしているのだろうか?それともホールトマトよろしく、つやつやで裏表なくて、のどごしもよくて、ひんやり冷たい優しい中身なのだろうか。

私はどうなってしまうのだろう?私の中身は成熟して、ある程度のかたさをもった、きれいな生のトマトだと思っていたけれど、ほんとうはペーストにしないと売り出せないほどじゅくじゅくしてドロドロして、外に出せない嫌なトマトなのかもしれない。皮一枚でなんとか保って、その中身はこんなにぐちゅぐちゅなのかもしれない。みんなはどうなんだろう?みんなも同じように危うかったらいいのに。少なくともあのホールトマトは、ホールトマトで売れるんだね。こんなことを、よくわからない距離感で、遠くから、水族館の水槽みたいな厚いガラスごしに眺めるように、遠くから、まなざしている私が、たぶん頭のなかに二人か、三人くらいゐる。

そう思ったら、笑っておしゃべりするとなりの女子大生と思しき3人組が、そんなふうに新鮮でみずみずしくて、ガラスを挟まないで世界に触れているらしいその感性がホールトマトどころか生のトマトに見えて、羨ましくてねたましくて、そしてうるさくて嫌になってしまった。後ろに立っているフラフラしたおじさんのほうがもしかして今の私に近いものなのかもしれない、とうそ寒い気持ちになってしまった。さっさと私もおばさんになって、こんなぐちゅぐちゅじゃなくて、カサカサカピカピのおとなになってしまったほうが、

そこまで考えて、思いとどまった。いけないことだと思った。

こんな昨日の気持ちが解凍されて思い出された。遠くから眺めるように記憶がめぐって、そして、ぱたん、と閉じられる。そして、昨日はあんなにあせったのに、こんなこと、考えていたかもしれないね、と思うだけになっている。私はもう、おとななのだ。

身支度を整えるために、再度鏡をのぞいてみる。私もそろそろ酸化してきた頃だろうか、いや、まだ20歳である。

雑記

ごきげんよう、あやめです。更新が日付変更ぎりぎりになっているあやめです。滑り込みセーフ!お待たせしてしまったでしょうか、すみません。夜の寒い自室から、ヌと顔を出しています。こんばんは……

本日は年末スペシャルです。珍しく実体験の数々を書く会であります。理由はこの二週間、珍しくかなり活動的だったからです。おすそ分けというか、随筆というか、徒然なるままに、というか。

大学生になってから、12月に博物館へ行くルーティーンができました。なんとなくいかないと淋しい気がして、でも今年は12月は忙しそうだぞ、と思い、フライングして11月の最終週に、国立科学博物館へ行ってきました。今回は友人とではなく、1人で観覧しました。何度か申し上げたかもしれませんが、私は科博が大好きなのでもうどのフロアに何の展示があるのかまでわかるほどだったりするのですが、やっぱり行きました。表情筋がガチガチの私も、その日の頬は上がりっぱなしだったと思います。大学が「キャンパスメンバーズ」に加入しているとかで、常設展は無料ではいれちゃうお得な方法を使って、一日中展示を見ました(詳細は大学HPなどをご覧くださいませ[URL:博物館・美術館のパートナーシップ・キャンパスメンバーズ | 授業・履修 | 日本女子大学])。珍しく写真を撮ったりしました。

12月の7日には国語国文学会の後期企画である落語鑑賞教室なるものにも参加してきました。大学生の内になんとかして落語を見たいと思っていたので非常にありがたい機会になりました。おもしろかったです。私の文章は落語みたいと形容されることがあるので、どの部分が落語みたいなのか、本物の落語の技法を文章に取り入れられないものか、工夫は何であろうか……などといったことを観察してきました。結果、観客を巻き込む形の話芸が「おもしろさ」を引き立てていそうだということがわかりました。ました(オチがつかなかったので勢いと圧で誤魔化し誤魔化し……誤魔化せていない?)。

この鑑賞教室にはほかのブログ部員(わたさんとののさん)も参加しており、そういう意味でもよい機会になりました。再三申し上げている通り、私は大学であまり他のブログ部員に会わないのでお話しする機会がとても少なくなっています。そのうえどうやら私の代はみな中世にいるとかいないとかで何人かは毎週顔を合わせているそうな……またあぶれ者になってしまったもよう……なんとかして輪に入りたいものです(勝手に登場させたわたさんとののさんごめんなさい)。

さて、この落語鑑賞教室に参加していた方で、ブログを読んでくださっている方とお話しすることに成功しました。ありがとうございます。ただ4文字「よんでる」、これだけで励みになります。つまらん文章を書いて相済みません。引き続きごひいきに……

その方とのお話しのなかで「よく毎回ネタがおもいつくね」というお褒めの言葉を頂きました。思いついていません。今回もネタがないなあと思って、それでこんなことをしているわけであります。おまけに前回、前々回と話題に上がっている創作技法論でも創作をしているため、もう本当に搾りかすであります。最近は寒いし、手はかじかむし、眠いし、やる気はみんな家出するし(詳しくは私の今年の1月27日分のブログをご覧くださいませ。URLをのせようとしてみましたがちょっとうまくいきませんでした。すみません。でも、そこには「やるき」がいます)(本当にノートからも出ていってしまって、最近はノートの端っこにすら全く登場しません)でいいことばの一つも思いつきません。

思いつきでひとつだけ。

私の住むのは関東山地にちょっと入ったところ、山が画角の半分を占める田舎でありますが、そうなると何が起きるのか、すなわち、角度が低い太陽や月は見えないし、天体観測の類はまるでできないということです。今日はなんとか座流星群がピークです、とお天気のお姉さんが言っていて、なるほどそれなら、と方角を確かめれば、東の方向低空(高度およそ10度)に見られます、などとおっしゃっていて、やまじゃま、と思う、というところであります。さて先日、百年館低層棟の最上階である7階の教室での授業を終え、エレベーターで1階へ降りていたところ、視点が高いので遠くまで見張らせるうえ、なにもさえぎる物が無い、おおきい夕暮れの景色を見ることに成功しました。冬も近いこのころの4限終わりのころは、日は沈んだもののまだすこし明るさがのこり、空高くは青い夜空が流れ込んできていて、なんというか、まだまぜていないカクテルみたいなおしゃれな夕暮れでした。飲んだことはありませんが。

かっこつけるならここで終わらせればよいのですが、もうひとつだけ、久しぶりに随筆シリーズなのでもうひとつだけ、言わせてください。

律義に今何回投稿した、ということをカウントしているのは私だけではなかろうか、と思いますが、はや、私のブログも更新40回目を迎えました。いつもお読みいただき、大変うれしく思います。ありがとうございます。4年生、というドデカ文字が眼前に控えているのを完全にスルーしたいきもちではありますが、事実なので仕方も詮方もなく。そういうわけで信じがたいことにここで学んで3年が終わってしまうので、かみしめて学生生活を送りたいと思います。

今年ももうじき終わりますね。お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。去年もなんだかつまらんことをしゃべって締めていましたが、芸が一つしかないようで癪ですね。ちなみになんと今年は私のもとにはあわてんぼうのサンタさんがいらっしゃって本をくださいました。年末年始にめちゃくちゃ読みます。ホクホクです。内容は行動経済学入門書です。

お相手は、随筆の回になるとなんとなく顔を出すラジオDJ風の私あやめがお送りいたしました。よいお年を~。

[BGM~♬]

長く書くこと

ごきげんよう、あやめです。

何度か話していることですが、「創作技法論」の授業の話題をまた一つ。この授業では期末の課題が8000字の短編小説を書いてみよう!というもので、そんなに長くものを書いたことが(意外にも)ないのでどうしようか、とうなって、どうにか息切れしながら書き上げたばかりの、あやめです。長く書くには普段通りのグダグダ冗長文じゃ乗り切れなくて、頭を抱えました。どうにか出せてよかったな。

その直後の今回なので、またもや長く書くわけで、書くのが好きな人なんだな、と他人みたいに思いました。

おじさん(後編)

「来たらいやだった?」

ほとんど半べそで、私が言った。なんて言っても怒られると思ったので、一番被害が小さそうな言葉を選んだ。

「あれ、」

おじさんは間抜けな声を上げた。

「おれ、おこってないよ」

おじさんは困ったみたいな顔をして言った。

泣くのはズルいな、と言われて、続けてこうも言った。

「書いた物ってのは、うん、子供みたいなものじゃないかな、おれ子供いねぇから確かな事は言えないけど、おれがうみだしてやった癖に、おれではない別な個体として、独り立ちして、人は其れが好きなンだよ」

タバコの煙を、ため息みたいに吐きながら、考え考え、おじさんは続ける。

もうなんで泣いているのかわからないまま、べそかきつつ、私は頷いた。もう訳も分からず泣いている。とっくにおじさんのことで泣いているわけではなくなっている。が、おじさんにそんな事が伝わるわけもなく、弁解することもないのに、一生懸命に私に話をしていた。おじさんは責められて泣きそうになっているようにみえた。

このように書き出してみると短いが、おじさんは一言をかなり吟味して話すから、行間がすごくゆったりしていて、簡単に言えば話すのが遅かった。うーん、とか、ああ、とか、えー、とか言いながら、考え考え話すので、ものすごい時間を要する。

「こう、ん、なんつったらいいかね、ああ…

でも、それを生み出したのはおれだから、文章はおれの遺伝子を受け継いでる、ンだね、だからおれが不出来なら、文も不出来になるし、出来の良い親を持った文は美味いんだろうね」

おじさんは話すのが遅い。しかし私もいまだ、しつこく泣いていた。私は普段冷血と思われているくらいには涙と無縁だったし、泣いている最中も「10分経ったな、水を飲まないと脱水症状が出るな」とかよくわからん理性の部分が強く出たままだから、わんわん泣いているとは言い難い。どちらかと言えば「目から水をしたたらせている」という具合だ。素直じゃないというか、ひねくれているというか、ませているというか。しかし、泣き出してしまうと長かった。しつこくしつこく、いくらでも泣けた。おじさんが話し終えるのが先か、私が泣き止むのが先か。

「前にね、水族館だったかな、忘れたンだけど、日除けのパラソルが、夏なのに閉じられていて、それが整列してるのをみたんだ」

とうとう私が泣き止んだ。負けた。それを見て少し安心したのか、おじさんは昔話を始めた。

「白のパラソルが、上から吊り下げられる形で、こう、等間隔で並んでて」

おじさんは吊り下げられる「パラソル」を、腕と手で表現しながら話した。

「傘の部分がひらひらしてるのに、糸で結ばってるから、幽霊みたいに見えたンだよ」

子守唄をうたって、寝かしつけているみたいな声だった。

「おれ安心してね。「幽霊」なんて大層な喩えしたが、なんてことはない、傘なんだ。だけど、こう、こんなに幽霊が縛られて等間隔に並べられて、お天道様に晒されて、天日干しで、みんなに見向きもされなくて、幽霊なのに、それで、それだけだからなんてことァないンだけど、それだけで、おれ、良かったな、と思ったよ」

私は泣き止んだあとの腫れぼったい眼で話をきいた。泣いた後の疲労感やおじさんの子守唄の声で眠たくなっていた。心地いい風が吹いて、カーテンが幽霊みたいに揺れている。

「おじさんは、そんなことを思って文を書くんだよ。読む人が好きなのは、どんなに好きでも、俺の生んだ文。俺が好きなんじゃない。読む人が褒めるのは、どんなに巧言令色でも、俺の生んだ文。俺じゃ無いンだ。そこを履き違えちゃいけん(注:多分「いかん」のことだと思う)。

記事もそう。読む人に寄り添って、読む人に優しい文を書くんだよ。俺のことはどうでもいいんだから。逆に言やあ、文を、記事を批判されても、俺を批判されてる訳じゃないから、気楽なもんさ。はは、は、……あ、…いや、それは嘘か、いや…」

おじさんは黙ってしまった。私はそろそろ本当に眠くて、おそらく舟をこいでいたと思う。失礼なことだと思うが、おじさんはそれをあまり気にしていない。おじさんも大概、「私」を見ているわけではないようだ。概念としての「姪」を見ているように思った。高校時代に習った倫理の授業の知識が、断片だけ、浮かんだ、気がする。

「とにかくね、あんまり、気負わずに書いていいと、俺は思うよ」

これだけ時間をかけて喋って、答えは変に普通だった。時間にして3時間である。日が暮れた。寝ぼけた私は「ん」としか言えなかった。

夕飯どうするかい、まぁおじさんと食べちゃ不味くなるかね、とか言って、あ、小遣いやらんといけんね、と何も言わないのに、また来た時みたいにもたもたと、財布を探して、あったあった、ととっておいたらしい新札(手に入れているとは思わなかった)のシワをのばしのばし、かわいい女児向けポチ袋に入れて持たせてくれた。一生懸命持ちうる上品なお断りワードを並べてみたが、若いのに遠慮したらいけん、と言って、そういう時だけ強引なおじさんを言い負かすことは出来ず、結局またバスに乗って、もそもそ夕飯を途中で寄ったファミレスで、ポツン、と食べて、また電車とバスに乗って、ポツン、とした気持ちで帰った。

さっき寝たせいでむしろ目が冴えてきた私は、長い帰り道で、ゆっくり言われたことを思い出して、メモをとった(この文章はこのメモをもとに書いた)。今日、奇を衒って不思議なことをいうのは「いけん」ことがわかった。普通。これが一番。常道を行くべし。シンプル・イズ・ベスト。しかし私は、残念ながら「常道」外れのハズレくじなので、これがすごく難しく思った。おじさんも、多分同じようなことで困って、迷って、いまだその答えを見つけられず、迷路から抜け出せずにいるんだろう、と思った。だから一人で持て余す家に住んで、もたもたしながら、パンの工場で働いているんだと思った。そんなおじさんは、私の父親にバカにされていた。昔からそんな言葉を聞いて育ったから、立派な仕事に就くのが偉くて、フラフラ趣味とも稼業とも言えない仕事をするのは恥ずかしくて嫌なことだと思っていた。常道。いつからこんなもの、気にするようになったのか。それは、社会に参画し始めたら誰でもみんな気にする、大事なことなのだろうか。

「次は、○○○○」

答えは出なかった。もう、最寄りのバス停につく。涙は乾いている。

おじさん

ごきげんよう、あやめです。

寒くなって、カイロが手放せなくなりました。私は末端冷え性なので手先だけが異常に冷たくなる人なのです。それから、前回もぼやいた記憶があるのですが、布団との決別が大変になりました。

今回は前後編二回に分けてみようと思います。切りどころがわからないので一気にいっちゃおうと思いましたがあんまりにも長いので前後編です。熱心な読者の方にはお判りでしょうが(そんな方がいらっしゃるかどうかはさておき)、前に言った「長編」とやらのことです。マア、来年あたりにリメイク版とか言って書き直したやつを再掲しようか、などと思って未完のまま出しちゃおうか、という気概で軽く書いています。なんて無責任なんでしょう。

おじさん(前編)

大学生の内に、たくさん経験を積みたいと思っている。思っているはいいが、それだけでズルズル来てしまって、結局すでに3年が過ぎてしまった。家に籠っていつもと同じことをひたすらこなすことに向いている気質で、何か外に出て経験を積むのが怖くて、体と勉強で身につく簡単な知識だけがどんどん大きくなっていって、経験値だけが乏しい人間になっていることに、危機感を覚えつつも何もできずにいた。

きっかけを作らなければ、と思って、親戚のおばさんに相談してみた。いつも一緒に過ごしている家族からは得られない新しい視点が与えられると思ったのだ。そうしたら、

「まあ、あやめちゃんはしっかりしてるからねぇ……大丈夫だと思うわよ、そんなにあせらなくても、若いうちは好きなことしてればいいのよ」

といわれてしまった。私には、考えすぎてしまう、という悪癖があったのだ。おばさんはそれを察知したのか、

「あ、じゃあ、好きなことばっかりしてきた正弘さんのところ行ってみたらどう?あの人色々大変だったみたいだけど、まあ要は好きなことしかしてないわけでしょ?あやめちゃんは良い子だからあんな風にはならないと思うけど……大学も行っているわけだしね、でも、ホラ、昔あやちゃんと仲よかったじゃない、じゃあそうにしたらどう?」

と提案をしてもらえた。

そんな流れで、ブログの参考というか、ネタになればいいや、程度の軽い気持ちで、あんまり会ったことのない遠方の親戚のおじさんのところへ行った。おじさん、昔少し新聞記者をやっていたとかで、なにか面白い話が聞けるのではないか、と思ったのだ。

おじさんは色々に疲れて山奥に住んでいる、と散々聞かされていたので、どんな日本アルプスかと思えば、我が家に比べたら大した山奥でもない、特徴のないところに住んでいた。一人で住むにはやや大きくて持て余しそうな一軒家の前まで来て、おじさん、きました、あやめです、と久しぶりに来た姪の言葉にしてはややぶあいそに簡単にいうと、ほいよ、と中から聞こえて、ようやく、なんだかはっきりしない顔のおじさんが出てきて、「あやちゃん、来たね(おじさんは私を「あやちゃん」と呼ぶ。会うのは中学生以来、5回目だった)」と言った。私はなんだかつられて、別に泊まる訳でもないのに「お世話になります」と、訳もわからずはっきりしない声で言った。

顔の皺が深いのと、白髪をそのままにしているのと、口数が極端に少ないのとでお爺さんのように見えたが、おじさんは私の父と同い年らしい。50歳。失礼だけどそうは見えなかった。おじさんはもたもたお茶を出してくれた。そのまま煙草を、こう、呑んでいた。おじさんも私の父もヘビースモーカーであることに変わりはないが、父のが「吸う」だとしたら、おじさんのは、多分「呑む」だと思った。

「あの、今日は、おじさんのお仕事のお話を聞きたくて、」

このままだと一生ここでおじさんの煙草が天井に上っていくのを見ていなければいけなくなりそうだった。それじゃここまで来た意味がなくなってしまうので、こんなこと言い出しにくいが、わざわざ尻尾を踏みにいった。私は親戚中で一番おじさんと仲がいいという、多少の自負があった(自信を持って・過大評価して・気負って)のだが、そんな自信は今しおしおに萎んでいる。それだけおじさんの口がかたくて、おじさんは私よりはるかに愛想が悪かった。

「んむ、学校の勉強でいるんだっけか」

おじさんは滑舌が悪いというか、顔の筋肉を最低限しか動かさずに、つまりモゴモゴ喋る。

「うん」

私はもう成人しているのに、顔はいつでも年上に間違えられる老け顔なのに子供らしく振舞おうとした。こんなことしなくてもおじさんにはどうせ「こども」と思われているのに、わざわざこっちから歩み寄って、つとめて「あの頃」の子供の私を演じるように、こどもらしく、かわいらしく、こくん、と頷いた、つもり。自我なんてこの際無いようなモンである。おぞましい姿であったろうか。

厳密には「学校の勉強で要る」のとは全然違うけれど、もうそういうことにした。おじさんのこの旧型の家は自然光があまり入ってこない形状をしているうえに電気をつけないから、暗い。早く帰りたくなった。どこか居心地がいいにおいもした。自分がどうしたいのか分からなくなってきた。

無言でたっぷり考え込んで

「あやちゃんはおれの本が好きなんだ、だから今日来たの」

ん?と、あくまで耳心地優しく、上がり口調で、子供を諭すように聞いた。(というより、前にあったのが中学生なので、おそらくおじさんは今でも私をほんの子供だと思っている(ただし私は中学生も充分大いに大人だと、少なくとも中学生時分は思っていたのだが)に、違いない、それに相応しい口調だといえる。)

おれの本、とは、昔おじさんが書いた絵本が一冊だけ、そして短編小説が一冊だけ出版されたのを指している。おじさんは(実績はともあれ)作家をしていたこともある。幼い私は(どんな形態であっても)文章を読むのが好きだったからその本を破けるほど読み込んでいた。だから親戚のあのおばさんには私とおじさんは仲が良い、と判断されたのだろうか。

おじさんは多分、それを言っている。今日来た理由を問いただしているのだ。つまり、私をそれとなく責めている。尋問だ。

「んむ」

うん、と言いたかったが、喉がこわばっていたのか、うまく発音できなかった。声がかすれた。きつく怒られているみたいに体をこわばらせて、きっと顔もこわばって、おじさんの目には私は子供が拗ねたような顔に映っているのだろう。当人としては気まずさで、それからおじさんの怒りに触れてしまって、怖くて、早く帰りたかったし、それこそ子供みたいに泣き出しそうだった。

「でもね、書いたものって、出来事が自分の脳みそを濾過して出てきたものだから、おれがいなきゃでてきやしねぇのに、書いたもの、は、おれではないんだ、とおもうよ。だから、あやちゃんがすきなンは、おじさんじゃなくて、それだ」

顎で本棚の方を指しながらおじさんは言った。

「お前が好きなンは、おじさんじゃ、ないよ」

極め付けにへら、と笑って、おじさんは私を拒絶した、と思った。

重たい沈黙がおりる。

秋晴れ

ごきげんよう、あやめでございます。

もともと朝起きるのが大苦手だったのに、寒くなって来て、余計に嫌になりました。布団が私を離そうとしません。

ええ、今回のネタは、前回にもおはなしした「創作技法論」という授業がきっかけです。「創作技法論」は前回も申し上げたような気もしますが、いろいろ書いて、受講するみなさんの作品を読んで、技術をぬすむ、みたいな授業です。そこでたくさんいろいろ書いては消し、書いては字数オーバーで断念し、しているので、今回はそのうちのひとつを、ブログ用に書き直して試しに載せてみようと思い立ってやってみています。あんまりいいものができたのに、ひとつしか載せられないので泣く泣くボツにしたうらみも含むので、ちょっと煙いかも。私はそろそろ、まとめる、ということを上達させなければならない。何度目か。

◆◆◆

リュックしょって、帽子かぶって、いさんで冒険に出かけましょう、といういでたちの自分を改めて鏡で見て、嫌になった。今日は町内会のイベントである、わくわくウォーキングデーなのだ。そこのあなた、わざわざ律義に町内会に参加しているくせに文句を言っている竜頭蛇尾人間だ、と思う勿れ、このイベントに参加すればお野菜たっぷり味噌汁を無料で味わえるというぜいたくができるのだから、このくらいはしなければならない。さらには完歩賞で近所の農家さんが育てたお野菜(ジャガイモ)をおひとり様一袋までに限りお配りなさるという大盤振る舞いの様子なのだから、ジャガイモ好きの私としてはいかないわけにはいかなかったのだ。であって勇んでいるにはいるのだが、普段は外に出て作業することが限りなく少ない、大学と家の往復ばかりで遊びにも行かない、バイトもしていない、インドアまっしぐらの趣味嗜好で、どうしてウォーキングなんてできるだろうか(いやできない)。だからチラシをいただいた時も、内心(何⁉ジャガイモ一袋だと⁉)と思った節はありつつも、(いや10キロは歩かないだろ、)と思い、しかしそれを顔には出さず、「はあ、ありがとうございます……小沢さんも行かれるのですか?」と言ってしまったが運の尽き、近所に住むウォーキング・ガーデニングなどに精を出していらっしゃる小沢さん(おそらく60代とお見受けするご婦人)につかまってしまった。

「行くわよもちろん!あたし町内会のイベントはみんな行ってるのよ!あ、そうよあやめちゃんも行きましょうよ、そうそう、大学生の参加者がすくなくて、うんそうおばあちゃんとかおじいちゃんばっかりで、ね、嫌になっちゃうのよ~、みーんな年取っちゃって、そう、だから、ね、行きましょうよ?あ、でも大学の授業の日か、そうよねぇ、いそがしいのよねぇ、ごめんね~」と一息に言われてしまえばもう、答えは一通りしか思いつかない。

「あ、そうなんですね……ちょ……っと考えてみますね」「え、良いの?やだありがとう嬉しいわ(発音的には「うれっしいわぁ」でした)!これね、参加証ね、日程とか当日のことはね、このプリントにね、書いてあるから、なにか困ったらなんでも聞いてね!」と、握手までして、大喜びしてくれたのでもう、あとには引けず、ひとり「ぉおおぉ………」と思っている私が遺されたわけでありました。

さて、ながいながい前置きはさておき、秋晴れのスカっとしたいいお天気のなか、最近は若者が都会に流出してしまってしにかけていた商店街のアーケードのところに集合でありましたから、昨今稀に見る活気に満ちた我が地元、参加者はほとんどが大人(大人のなかでも大人、いわゆるシニア世代の方々)、時々小学生もいらっしゃるご様子、そのなかでただひとりしょんぼりしている私であった。がりがりに痩せている上半身と、運動しないせいでブヨブヨしている下半身の最悪のコントラスト、似合わぬ帽子とリュックサック、久しぶりに出したためかびている(頑張って天日干ししたのだが駄目だった)靴、なにしても取れないクマ。こうして自分を再認識すれば、自分こそが天日干しされてしょぼしょぼしてやられているかびだと思った。そのかびを無慈悲にも、スポットライトみたく照らしている秋晴れの太陽、すっかり抜けるような青空。楽しそうな小沢さん。お味噌汁とジャガイモ(たったそれだけ)のために、私だけ決戦の前か発表会の直前みたいにガチガチに緊張して、気合を入れている。ひとりだけ、覚悟がガン決まっている女が、ひとり、勇み足で地元を征く。

千里の道も一歩より、論より証拠、百聞は一見に如かず、噓から出た実。

◆◆◆

これだけで起承転結の「起」のパートなので(それだけで1500字あります、さんすうができないマヌケはわたしです)、800字程度で物語を描くことの難しさを非常に強く感じているところであります。頭でっかちで内容がうすい、つまらないものしか書けないのでしょうか。ぐぬぬ。

◆◆◆

蛇足。

ごきげんよう、ではじめるのに味を占めてずっとこの形式でやってみてはいるものの、なんだかすごく優雅でごきげんなかんじになっているのを、私だけ気づいていなかったので、この間それに気づいたときに顔から火が出るくらい恥ずかしかったです。すてきなお姉さんを想像しているのであれば、それは実態に即していないので改めてください。私は昼間に間違えて化けて出るゆうれいなので。ごきげんよう、も、慇懃無礼で胡散臭いヤツ、みたいな、もっと口先だけのニュアンスなのです。わたしはこんなことをチミチミ弁解している小心者なのです。変なの。

カーソル

ごきげんよう、あやめでございます。

スランプです。

今回はネタが無いのもありますが、それ以上に、私に書く力がなくなっているように思います。

スランプ。

そんな大層な文章を書けたことはないのですが、たぶん一番近い言葉なので、かっこつけて言ってみました。いやぁ、なんかスランプっぽいんだよね、書けないわ、なんだかそういうことを言えるのってかっこいいですね。

段々焦ってきました、本当に書けないですね。いつもならこのくらい適当を言っていれば、なにかしらは言いたいことが生まれてくるので、それを期待して軽く流していたのですが。おかしいですね。

◆◆◆

書けない

カーソルがチカチカ続きを急かすのに、続きの言葉が一つも繋がらない

言い出せない

なにも思わず生きてきたのか

自分の思いが他人の雑談かのごとく、耳元で「雑音」としてすり抜けていく感覚がある

凪になりたい、という願いがある

もしや、凪になったら何も書けないのではなかろうか?今すごく穏やかに、純粋に存在している感じがある。何も身に纏っていない、というよりは、必要最低限しか存在していない、の方が近い気がする。秋の青空が抜けるようにあおいのに似ている。秋の空気が脳みその後ろまでしみこんできて膨張して目を開かせるようなのに似ている。

◆◆◆

ポエムをかましてもダメですね。なにも浮かびません。すごいな、ここまできたらこれで粘るべきでしょうか。

申し上げたことがあったかどうか、忘れてしまいましたが、私は今「創作技法論」という名前の講義を受講しています。内容は短編小説の技法を学び、その知識を活かして書く、というものです。私は1年生の頃から応募しては落選していたのですが(人気の講義で、毎回抽選になります。講義の特性で受講人数に限りがあるのです)、今年ようやく受かったので喜んで受講しております。だけれど、今週の講義で書くとき、やっぱりなにも浮かばず難儀しました。ブログだから、とか、講義だから、という媒体やスタイルの問題ではなく、やっぱり私に理由がありそうです。書けない。浮かんできません。なかなか困ったものです。まずいです。すっぱい唾液がでてきました。うん、くるしい。

つまらないでしょうが、あまりに何も浮かばないので、しかたなく、自分の事でも書きましょうか?マア、確かに最近は就活で自分をアピールすることや、そのために自己分析をしたりしている時間が多かったので、嫌でも自分の特性はわかってくるものです。

Q:あなたの特徴を200文字以内で教えてください。

A:冷静に物事を捉えることが得意です。また、捉えた事象を分析することも得意です。一方、感受性が豊かという性質もあわせもっています。これらの性質を生かし、日本文学科では作品の構造に注目した研究を行っています。卒業論文では……

やめます。むりです。私はエントリーシートの類が絶望的に苦手なのです。自信がないからアピールポイントを考えると、「……無い?」というありさまです。憂鬱なのです。

スランプです。なんにもうまくかけませんでした。もう店仕舞いにしようと思います。ちっとも面白くもない文章片が生成されて終わってしまいました。読者の皆様ごめんなさい。無念。お相手は、実は上下編にわたる大作を作ろうとして、できなくて、それを引きずっている、しょんぼりあやめでございました。頑張って書き上げたいのですが、真ん中の部分を書いたら、満足してしまい、うまくその前後がかけませんでした。近いうちに上げたいな。むりかな。

追記

皆さんのブログを読んでいたら、ももこさんにブログでごはんに誘われました!私も何度か言及していますが、ブログ部員同士で会うことがあまりないので、ぜひ!ご一緒させてほしいです!とどくかな。

夢見が悪いのか

こんにちは、ごきげんよう、あやめです。もうこの挨拶無しではやっていけなくなりました。風邪をひきました。無茶したら体にハッキリ出るので、いいような、わるいような。

◆◆◆

「何をやったんですどうしたらそうなるんです今私が目を離したこれだけの時間であなたは、どうしてこんなに問題を作れるんです!?」

駅で友人を待っていたら向こうから、神経質な男の声がした。私は、といえば、その声に集中しつつ、しかしそちらには一瞥もくれないで、スマホをいじっている。よく見渡したわけではないが、まわりも似たような反応だったように思う。ちら、とそちらを見て、あとは興味を失った風を装っている(あるいは本当に興味を失っている)。

「ああもうここはいいですから、あなたあっちやりなさい」

きっちり分けて固めた髪も敬語も崩れかかって、焦燥し切った声である。駅員さんなのだろうか?仕事をしている風である。叱られている様子の相手は死角にいてこちらからは見えない。あらかた、こんな大衆のど真ん中で大声で責め立てられてしょんぼりしていることだろう。

怒り、そとから見ると多少滑稽に映るのは何故だろうか。必死だから?感情的になっているから?それは「人間的」とか「人間味があって良い」とはどんなふうに違うだろう?私があんまり他人に怒らないからそう見えてしまうだけなのか。でも、そんなに大きな声を出さなくても聞こえているし、めくじらたててキィキィ言っている間に改善策を提示した方が速いし、ミスを犯した人も萎縮せず、とりあえずその場の問題[error]は脱せるし、その後で教育をすれば良いのではないのかな、なによりなんでその人を「信用」したのか?わざわざ人間にお仕事を頼むのだったら、はじめから失敗することを計算に入れておいたほうが、きっと疲れずに済むだろうにな。ヒューマンエラーのことを知らないのか?いや、そもそもそれは体力が限られている私の考えであって、彼は疲れることはどうでもいいのかもしれない。

凡そ、怒りに任せた判断は誤りが多い。と思う。私が怒られて、その時に得られたことは、この人は、この行動をすると「怒る」のだな、という(なかば諦めのような)学習だけだった、と記憶している。やさしさ、とか、考えに共感・共鳴して、その結果怒った人……発信者とでも名付けましょうか?の言うことを守っているわけではない、のだと、おもう。こういうと、昔、小学生の頃国語の教科書にのっていた、『カレーライス』という作品と、それを音読したことを思い出す。ぼくはわるくない。ほら、感情は歩み寄りを拒む。むむむ、ならば今まで私が「怒られて」きた「諸事件」たちは、あれは問題解決したくて発生していたわけではなかったのか……?

そこまで考えて、怒られている人の顔が見えた。その人は、意外にも私の知り合いだった!ということもなかったし、顔が私と全く同じでギョッとした瞬間目が覚めて、そこでやっと私が悪夢を見ていたことに気づく、ということもなかった。ただ、知らない人が、かわいそうに、これまた知らない人に怒られているだけだった。そして、やっと、私がいままさに「悪夢」の渦中にいることを知るのだった。即ちしらない誰かが誰かに怒られるなんてありふれた、かつこの世に大量に存在するだろう「些事」で、ここまで展開できる私の脳みそこそが、私の悪夢だろう。そんな態度だから現実を夢見心地のふわふわでしか捉えられないのだ。私が私である限り、現実的になることは、ないのだ。私が私を放棄して(…ってどういうことだろう、しんでしまったらいいのか、もっとお手軽に、例えば体(デバイス)だけ残して脳みそ(CPUか、 OSあたりか?もっと違う気がしてきた……)を全取っ替えしたら「私」じゃ「なくなる」のかしら、感情を無くせば「人間」じゃなくなって、ひいては私じゃなくなるのかな)(ともかくも、私が「私」じゃなくなれば)ただの肉塊に成ってしまえば、こんな悩みはなくなるだろうが、それは「私」ではない。考え過ぎるのが、私なのだ。

それってどんなに悪夢だろう。人間はそんなに強くできてないのに。

チャットさんに聞いてみたら、私が他人の相談に乗ってあげたときと比べものにならないくらい「情緒的に」話を聞いてくれた。「情緒」もからくりなのかな、仕組みさえ覚えて適した時に適した語を出力できれば、あるいは。

駅ではいろんな人が行き交っていて、そのどれもが物語をもって生きているんだな、と思うと壮大な気分になる、なるのはいいが、自分にもどってくるのが難しい。規則正しい誘導チャイム(流れているピーンポーンという音はこんな名前が付いていたらしい)がまた、私を思案の渦にいざなうような気がする。友人は目の前にいるのに、気が付かなかった。悪夢も休み休み見なければ。浮世に生きるのだから。

続・七言絶句

こんばんは。夜分に失礼。ごきげんよう、あやめです。残念ながら私はごきげんではありません。

秋雨だからです。雨が降ると頭痛がするタチなので、雨が降る季節はごきげんななめになります。また、今日のような休日は、せっかくのお休みなのに丸一日何もしないで無駄に過ごさないと、後の一週間不調を引きずります。ので、日中は大抵冬眠中のクマみたいに閉じこもっています。そのうえ今日は雨でした。雨だと体調がすこぶる悪い。朝起きられないのはもちろんのこと、気力がなくなって本当に何もできなくなります。夜になってようやく元気が出てきたのに、今度は眠気に押しつぶされそうになっております。マヌケなことです。そういうわけで、本日のお相手は湿度が高い私であります。

さて、ここから、前回書いた内容の解説をはじめます。随分お待たせしてしまいました。もうそういうのはお腹いっぱいですよの方は読み飛ばしてここでお別れしましょう。まだ読める!という体力自慢はもうしばしお付き合いくださいませ。

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タバコの匂いが染み込んだ車のシートに深く沈む体を、支えることすら能わずに、臭くて嫌なそれに安心している私の嗅覚がそこにあった。

→父親がタバコを吸います。それが嫌で、匂いが嫌で、煙いのが嫌で、父親が嫌で、いやなくせに、しかし、体調が悪い時にふいに流れてきたタバコの煙に、なんだかんだで安心しているような私がいることに、最近気が付きました。結局タバコの匂いも父親のことも好きなんだな、と思いました。体調が悪ければ悪いほど、様々に香る空気の中からタバコの匂いをわざわざ拾って、それで気持ち悪くなったり、ならなかったりしながら、それで安心している節があります。馬鹿なことだなと思います。

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暑くてかなわない、内側から湧いて出る水滴に、醜さを覚える。

→うだる暑さが、どうしても一匹の「生物」になりさがってしまう暑さが、大した功績もないのに人間の顔をしたつもりで生きている途中で「その」現実をつと突きつけてくるかたまりの様に感じる。自分はやっぱり醜い一匹なのだな、と思い知らされる。汗が、あとからあとから湧き出してくる。ぬぐっても、ぬぐっても、しまいには背中を伝って。この伝う汗の気持ち悪いこと。私の内面も、状態も、外見も、醜い一匹なんだと、思いました。とはいえ、まわりにいるみなさまだって、等しく汗びしょになっているのに気が付けば、あ、私だけではないや、と我に返る・自意識の過剰さに気が付くことができるのです。それを、苦しい満員電車の中で、白昼夢のように想い起こします。人がたくさんいるところでは、不思議と「ひとり」を強く感じるものです。

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優しくして差し上げよう、という隣人救済の気持ちは、実は区別意識から来ていて、抗えない劣等感は、これに起因していた。

→昔、小学生のころだったか、クラスで仲間外れにされている男の子がいた。私も仲間外れにされた経験があったから、その子のことを庇ったり、一緒に話したりしよう、と思った。その子は心に傷を負い、あまり登校しなくなってしまった。その時は本気でその子に寄り添っているつもりだったし、本気で「やさしく」「してあげて」いたつもりだった。が、これって、どれだけ彼のためになることだったのだろう。私の勝手な「加害者」「被害者」という区別のせいで、「加害者」の意見も聞かず、肩入れをしていた、その「エゴ」のキツさに、中学生で気が付き戦慄した。ああそうか。やさしさ、とはこんなに難しいことなのか。身勝手なものなのか。私はなにか、取り返しのつかない嫌なことをしたのではないか。と、おののいた。なんて自意識の強い、なんて身勝手な、なんて上から目線の行いだったことか。彼はそんな私のことを軽蔑したっておかしくなかったのに、中学生になっても、特に変わらず接してくれた。それもすごくかなしく思った。確か、そのころから私は、飄々としている、と言われるようになったんだったと思っている。

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優等生は、とうの昔に優等で無くなっても尚、そのレッテルに縛られる。

→遠い昔、それこそ小学生とか中学生のころ、私は優等生で通っていた。狭い地域だったから、同級生のお母さん方や、ご兄弟方にも、優等生だと評されてきた。中学生で初めての定期テストで、どのくらいが「ふつう」かわからなくて(裏を返せばどのくらいから「すごい」のかも分かっていなかった。完璧主義の酷かったあの頃の私はその点数を価値のない、ゴミのように扱って、満点をとれない自分を呪っていた)、同級生の「テスト何点だった?」という無色の質問に、純粋にシンプルにありのままに答えて(私には無価値な点数だったので、誰に言ったところで大したことはないと思った)、それが有り得ないくらい高いことが周囲の反応からようやくわかった。よくわからなかったので先生にも聞いた。先生は目が飛び出んばかりに驚いていた。しかもそのテストの点数が、3年生の先輩にも広がってしまっていた。どうやら驚愕した同級生が、3年生のご兄弟にも話したのだろう。そしてそれが広がったのだろう。人の口に戸は立てられぬ。

さて、高校に進学して、優等生から劣等生に真っ逆さまに転落した。残念ながら高校では全くの問題児となってしまった。不登校(私は「五月雨登校」だったと言い張っている)なので、勉強には当然ついていけなかったし、部活は通いもできなかった。みんなにお荷物に思われているような気がして、怖かった。マア、今思い返せば、中学の頃が異常だったのだ、と思うが、高校時代も異常だったので、「異常」に気が付かなかった。

劣等生がしょんぼりしながら街を行く。そこに中学時代の同級生が「最近どう?」と、これもまた無色の質問をする。これが怖い。高校では本当にたいへんな落ちこぼれをやっているのに、それが理解されない。確かに進学した高校は(質問したその同級生と比較したら多少は)偏差値が高いけれど、それだけだと思った。高校時代に逆転されることなんてザラだと思っていたし、私は落ちこぼれなので逆転されたと思っていた。が、どんなに言葉を割いても、そのことが理解されない。いやまああやめちゃんは賢いからさ、みたいな言葉で線を引かれて、それにくらべてあたしはさ、のような言葉が続いた。

その線から内側に入れてもらえたことは、ついぞ、無い。

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自己理解が進む程、新たな自分の可能性に心躍らせ、新たな情報を求めて外へ出て行く、と見せかけて、世界が狭く・独善的に、嬉しくない情報を棄てて殻にこもる内向になっていく。

→大学生になって、高校時代の不登校不健康ライフがあまりに苦しく、もうあんなのは嫌だ、と思い、原因を探るべくとりあえず自分を知らなければならない、と思って徹底的に自己分析をしました。おかげで自分の新たな面に気が付いたし、自分の行動の原因がなにだったのかわかりました。とても面白く、ためになる活動だったと判断しています。一方で、苦手、あるいは嫌な事象にぶち当たると、私は向いていないから、と投げやりになるようになった、と思います。自分を知って、もっと良くしていこうと思っていたのに、私を構成するピースが何なのかを集めるだけの機械になってしまったのかもしれません。あるいは、私が「私らしい」モノを拾い集めて、それこそを「私」としてくみあげているような不自然さ、ぎこちなさ。悲しくて嫌なことは排除して、私に都合のいい、わたしだけの楽園を築いて、そしてきっと、その楽園の運営をするのにも飽きて、またデカダンスを気取るのだろうか。それを憂いて、また内側に向くのでした。

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目指すはあの丘。たった1人で何が出来るか、いや出来やしない、それなのに、どんどん独善になる、そこに劣等を感じる、筈である。

→人は一人で生きていけない、という言葉があります。私が恐れる言葉の一つです。私はできたら一人でいきていきたい。でも、人より強いか、といえば、むしろ逆で、よわっちいのだと思います。だから、とてもひとりではいきていけません。恐らくこのギャップに「恐れて」いるのだと思います。なにもひとりで成し遂げられやしない薄ぺらな自分を認めると、完璧主義の私が【error】を表示します。自分を赦したことは、これまで一度だってなかったように思います。そもそも私は、「私」をただの「機関」だと思っているのかも。

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エンドループ。賢い私は同じ夢を見る、いつも同じところを廻る、どこから入っても、行き着く先は、出口は同じ。出られた試しは無い。

→上記のようなことを、しつこくしつこく思い返している私がいます。誰に責められたわけでもなく、ひとりで悲しく自分を責めます。どうアプローチしても、結局ここにたどりつきます。即ち「自意識過剰」。だから、なにか。全く生産性のない思考。前に進まない会議。むしろ勝手に傷つくのでマイナスでしょうか。今日はうまく自分を認められるだろうか、と全く違った切り込み方をしても、最後たどり着くのはいつもここ。そんな時は布団にくるまってカーテンを閉め切って、無理やり無駄な情報を脳みそに流し込んで、訳が分からなくなってきたところで電源を切ります。そうすると、一時的に問題を先延ばしにできるのです。

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七言絶句、というタイトルは、カッコつけてみただけで、ほんとうは全く七言絶句ではないことはお判りでしょう。ただ、7つの塊を、連想ゲームみたいにつなげたことと、全部ニヒルみたいに気取った言葉でできていること、それを聞いたあなたが、絶句しちゃうような自意識の強さがあるのは確かだから、「七」「言」「絶句」と言えばそうなのかもしれませんね。

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ため息が出るような一日でした。雨だからです。否、明日早期選考の二次面接があるからです。吸ってはため息、吸ってはため息。頭痛のタネが増えて、呼吸が浅くなります。昨日はとっても元気だったのに。人生万事塞翁が馬。運命論者になってしまいそう。と、くだらない・役に立たない・問題解決にならないことをネチネチ考えついては、ぽつり、ぽつり、とやることを思い出しています。そしてまた、ため息。ため息ばかりついていては、幸せが逃げてしまうという言葉を、タイミング悪く、今、思い出して、新鮮なため息がうまれました。元気な男の子です。はあ。

七言絶句

タバコの匂いが染み込んだ車のシートに深く沈む体を、支えることすら叶わずに、臭くて嫌なそれに安心している私の嗅覚がそこにあった。

暑くてかなわない、内側から湧いて出る水滴に、醜さを覚える。

優しくして差し上げよう、という隣人救済の気持ちは、実は区別意識から来ていて、抗えない劣等感は、これに起因していた。

優等生は、とうの昔に優等で無くなっても尚、そのレッテルに縛られる。

自己理解が進む程、新たな自分の可能性に心躍らせ、新たな情報を求めて外へ出て行く、と見せかけて、世界が狭く・独善的に、嬉しくない情報を棄てて殻にこもる内向になっていく。

目指すはあの丘。たった1人で何が出来るか、いや出来やしない、それなのに、どんどん独善になる、そこに劣等を感じる、筈である。

エンドループ。賢い私は同じ夢を見る、いつも同じところを廻る、どこから入っても、行き着く先は、出口は同じ。出られた試しは無い。

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今度は弟に読ませて、なかなかいいじゃないの?と言われて有頂天になっている内弁慶でございます。改め、あやめでございます。ご機嫌よう。まだまだ暑いですね。

さて、その弟にもらったアドバイスに、自分で自分のブログの意図を解説すると新しい視点を得られていいんじゃない?というものがあったので、なるほどと思って取り入れようと思います。が、自分で自分のタネ明かしをする、というのは、これほど恥ずかしい作業だということを失念していたので、下唇を噛みながら書いております。

それから、文学、あるいはもっといえば芸術ぜんぶに言えることだと思っていますが、作品に対する解釈(うけとり方)は絶対に1通りではありません。私なりの書き方(と解釈)、読んでくださるあなたの読み方(すなわち解釈)は違います。それが面白いのだと思うし、「こたえ」みたいなものは無いのが文学の自由さだと思っています。

ですが残念ながら、これが思ったより時間のかかる作業でしたので、これは次回に回そうと思います。期待させておいて落としてごめんなさい、かわりに何か、もう一品出して終わりましょう。

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前期の授業で、漢詩を自分で作れるようになる、という内容のものを履修しました。おかげで2作品だけはそれらしいものが完成しました。なかなか楽しい世界で、新しい表現方法を得たと思います。

漢詩の世界で秋は物悲しくて嫌な季節のようですが、私はそれだけではないと思います。だからこそもっと悲しいのだとも思います。授業ではそれを表現した作を一生懸命ひねりだしました。この秋を、このこうようを、どうしよう!という気持ちでしたためました。出来上がった作品は、履修したみんなで鑑賞会をして味わいましたが、鑑賞会でいただいたコメントから察するに、みなさんにあまり伝わらなかったようで、表現力の乏しさを思い知りました。秋は、ただ悲しいだけではないからこそ、かなしいのだと、真夏に思いました。その日は雨でした。

暦上ではもうじき秋が来てもいいころになったと思いますが、まだまだ暑いですね。体調に気をつけてお過ごしくださいませ。自戒。

なつやすみのにっきにしては

ごきげんよう。夏休みを満喫しているあやめでございます。

こちらはやっとこさ課題に解放され、マア今度は就活に追われることになりましたが、なんとかたのしげにやっているところであります。みなさまいかがお過ごしでしょうか。打ち水してかき氷食べて、足をたらいに入った氷水にひたし、扇風機の前で「あ゛~~~」とか言いながら風鈴の声を聴く、などという風流な生活ができる程度の暑さならよかったのですが、残念ながら関東山地に入っているような我が家も、酷暑から逃げられる訳もなく、冷房の効いた部屋から出られずにおります。でも、せっかくの太陽をいかさない手はなく、布団を干したり掃除をしたり、洗濯物を何度も干したり、せっせこ働くこともありまして、汗びしょになりながら、目をバッテンにする日もございます。

それから、アルバイトを一生懸命にやっているところであります。そんなにたくさんシフトに入れているわけではないのですが、あんまり上達せず、というかあんまり気性にあっているところではない職場であるようで、なかなかなじめずにおります。おやア?と思っているのですが、はじめてしまったので、もうすこしやってみようか、と、こちらも目をバッテンにしております。そんなアルバイトで出会った人々は私ととことん趣味が?志向が?思想が?……上手に表現できませんが、なにかがおおきく違っていて、話すたびいちいちカルチャーショックをうけております。そう思っていたら、むこうもどうやらそうらしく、「あやめさんってめっちゃおもしろいよね」といわれてしまい(おもしろいことはなにひとつ言っていないので、その方はあるいは「滑稽」と表現したかったのかもしれません)、「?」となったり、その帰り道に、たしかに私はヘンな日本語の選び方をしているかも知れないな……?と思ったり、今後このヘンな選び方をするクセは人(交友関係)にどんな影響を与えるのだろうか……?(壮大)と思ったり、私は面白くて、かつ適切でExactlyなチョイスをしていると思っていたけれど、伝わっていないならそうでもないのか……?と思ったり、わたしってやっぱりハズレなのかな、としょんぼりしたりしました。わたしはどうやら、この「はずれ」ている感覚と一生付き合うようです。しょんぼり。

さて余談ですが、先日日本女子大学文学部日本文学科(大学院文学研究科日本文学専攻)の公式X(旧Twitter)で宣伝されていた「太宰治ワークショップ」なるものに、実は私も勇んで参加いたしておりました(こちらに関してはまどかさんの8月8日分のブログに詳しいです、勝手に登場させたまどかさんすみません)。ただ、私は太宰治に深い造形があるわけでも、(それこそたとえばまどかさんほど)熱意!!があったわけでもなく、(舐めた態度で)でかけて行ったために、あまり有用なお話をすることはできませんでしたが、参加されたみなさまは、どのかたもとても博識でらして、とても勉強になりました。へえ、太宰治ってそんなことになってるんだ……?とおもって、びっくりしてかえってきました。一応「文豪ストレイドッグス」は読んだことがあったのですがネ。私の造詣が浅かった。さておき、このワークショップは、ほんとうにおもしろかったのでみなさまにもぜひ議事録などをチェックしてみてほしいな、とおもいました。ただし今年の分はまだ公開されていないので、もう少々お待ちください。余談、宣伝?でした。日文の公式ブログ部なのでね……とドキドキしながら言ってみました。

本当に余談ですが、上記のイベントでそんなまどかさんとお話しすることもできました。意外にもブログ部員のなかまを大学内でお見掛けすることがなく(お会いしていても私の視界が狭く、気づいていないだけなのかも知れませんが……その場合はシンプルに私がご無礼を働いているのでお詫びいたしますが……)とても嬉しかったのでここに記しておきます。まどかさん、お話ししてくださってありがとうございました、と、今回は何度も登場させてしまいまして、ごめんなさい、の気持ちと共に間接的に申し上げておきます。みてるのかな……

あこがれはオレンジ色をしている

家具屋があった。

通学路の道路を挟んで向こう側にある。

3年間通ったこの通学路の向こう側に、臆病者の私は行ったことがない。大したことではないのに、向こう側に行けないでいる。

その家具屋の照明がオレンジ色をしている。

彼女はしかし、道を渡って向こう側に行こうとしない。効率主義の彼女は寄り道ができない。あるいは「寄り道」ではなく、「常」から外れることこそが嫌なのかも知れない。

家具屋はそんなことを知らない。いつもオレンジ色の照明をつけて、(彼女の目には)ひっそり営業している(ようにみえた)。そこに、えもいわれぬ憧れがあった。

彼女の友人に、横澤というのがいた。横澤は目が悪く、ビン底眼鏡をかけていた。コンタクトレンズはポリシーに反するからつけないらしかった。そういう「我」がおもしろくて、彼女は横澤に惹かれていった。荷物はいつもパンパンで、そのパンパンのカバンからなんでもでてきた。絆創膏、修正テープは序の口で、ウェットティッシュ、マスク、ホチキス、替えの靴下などがあることを、すでに彼女は見て確認している。なんでも入っていた。出して、と頼めばエプロンとかも出てくるだろう。しらんけど。

横澤はいつもオレンジか黄色を着ていた。彼女はファッションやら流行やらはからきしだが、横澤は(流行かどうかはさておき)好きなファッションの系統がハッキリしていて、それが妙に似合う人であった。それが、オレンジか黄色だった。時々赤も着た。彼女はそれがすごいのかなんなのかもわからず、似合っているんだろうな、と思った。ギラギラの黄色ではなくて、見るとホッとするような黄色だった。それは横澤そのものでもあるように思えた。なぜなら横澤は、いつもパッと花が咲くように笑うからだ。彼女は無愛想で有名だったが、横澤はビン底眼鏡でも人気者だった。ビンぞこメガネはなにも悪くないのだと知った。彼女もまた、目が悪く、ビン底メガネである。

さて、彼女には趣味がない。仕方ないから暇を持て余すと、チミチミ将来について考える。腹の足しにもならないのに、と思いながら、妄想を膨らませて、脳みそが四角四面に整理されたら、満足して思考をとめる。図書館に朝1番に行って、気が済むまで思考をガサゴソ、ああでもない、こうでもない、として、気がついたらもう閉館時間だったこともある。横澤は、とりあえず動くタイプなので、彼女をみて、「うへぇ」と言った。ちなみに横澤は多趣味なので、そんな暇は持ち合わせていない様子だった。

繊細についての一考

葉っぱの上に水滴が乗っているのをみて、ただの朝露にすぎないのだけれど、やっぱり、葉っぱから液体が溶け出したように見えてしまい、全然そんなわけがなくて、1人でがっかりしてしまう。目に鮮やかな緑色をしたその葉は多分私よりずっと若くて強い。その上にのった水滴だから、それをのんだら若返るのかも、などと思い、いや、お腹を壊しておわるか、と思い直す。だから、何というワケではない。ただ、この、お腹を壊すだろうな、という考えが先に出るようになったら、おとなになったということなんだろうな、と思う。今の私は、つまらない事実ひとつひとつに丁寧に反応する柔なんだろうか。はやくつよくなりたい。もっと水分が抜けてほしい。はやくおとなになりたい。

なんだかんだの予定が出来て、私は割と長期休暇中も大学に行くことがある。長期休暇中にわざわざ大学に来る人はやはり稀と見え、建物のワンフロア貸し切り状態のこともよくある。誰もいない杏彩館。とてもスッキリした気持ちになる。そういえば、私は昔から、誰もいない教室が好きだったな、と思い出す。小学生時代は学級委員みたいなものになりやすかった私が、もろもろの仕事を終え、遅くなってから教室に戻った時の、あの満足感とか、高校生時代の、体調不良のなか、出席数の関係で今日はどうしても来なければならない、と(しぶしぶ)登校するも、今は移動教室の授業中で、教室(クラスルーム?ホームルーム?)には誰もいなかったときの、あの安心感とか、ひとりで何か考え事をするのが好きな内気な気性が、この気持ちを生んでいるのかな、と思う。逆に申し上げれば、普段、人がたくさんいる教室みたいなところは、大の苦手という事である。特に大学は、制服みたいなものももちろん無く、色とりどりな人々が、いろんなお話を、一堂に会してしているので、匂い・色・音があふれかえっている、といえる。刺激が強い、というと、かえって私の「繊細さ」が強調されるようで、それは不本意だから、情報が多い、と表現しようと思う。さっき葉っぱと朝露だけであれだけ感動できるのをお伝えしたところだから、あなたならきっと、私の弱さ・つまらなさ・取るに足らない様子が、ありありとわかっているだろうから、確かに情報量が増えれば増えるほど私にとっては息苦しいのが、理解できると思う。若さ、と、それだけで片付くことだろうか。私が悪いのか。

そこまで考えて、杏彩館に人が入って来たので、しょんぼりしながら、ここにはもう居られないな、とおもい、荷物をまとめた。

たとえ話

たとえ話が昔から得意だ。というのも、誰かに説明をするときに何かに例えることが多く、しかもそれがなかなか好評だったから、ああ、たとえ話がうまいのか、と判断したに至る。

たしか高校時代の化学の授業中に、「mol」とかいうヤツにであったとおもう。そいつがなかなか難解な奴で、教室はおののきの声で満ちていたように覚えている。重さは違うけどこれも1mol?1molのこれと2molのこれが反応してできたのが1mol?どういうこと????というような混乱があったような記憶がある、が、いかんせん五月雨登校の不真面目学生であったから、確かなことは覚えていないし、全く間違えている可能性すらある。ただ、これに対して、1個の飴ちゃんを2枚の包装紙で(丁寧に)包装している、1つの商品(飴)ということなんじゃない?とか適当を申し上げたところ、困っていたその方が賢かったおかげで、私の適当を聞いて10を知ったと見え、「おおなるほど」、と腑に落ちた様子になっていたことはしっかり覚えている。自意識の塊である私には「ほめられた」とか「評価された」とかが一大事件なので、そんなことばかりはしっかりちゃっかり覚えている。

さて、つっかけをズルズルやって、ダラダラ歩いていると、雨が降ってきた。春雨じゃあ、濡れていこう、というのもさすがに気取りすぎなので、なにか別な言い方がないものか、と考えている。懐手をして。していない。