続・七言絶句

こんばんは。夜分に失礼。ごきげんよう、あやめです。残念ながら私はごきげんではありません。

秋雨だからです。雨が降ると頭痛がするタチなので、雨が降る季節はごきげんななめになります。また、今日のような休日は、せっかくのお休みなのに丸一日何もしないで無駄に過ごさないと、後の一週間不調を引きずります。ので、日中は大抵冬眠中のクマみたいに閉じこもっています。そのうえ今日は雨でした。雨だと体調がすこぶる悪い。朝起きられないのはもちろんのこと、気力がなくなって本当に何もできなくなります。夜になってようやく元気が出てきたのに、今度は眠気に押しつぶされそうになっております。マヌケなことです。そういうわけで、本日のお相手は湿度が高い私であります。

さて、ここから、前回書いた内容の解説をはじめます。随分お待たせしてしまいました。もうそういうのはお腹いっぱいですよの方は読み飛ばしてここでお別れしましょう。まだ読める!という体力自慢はもうしばしお付き合いくださいませ。

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タバコの匂いが染み込んだ車のシートに深く沈む体を、支えることすら能わずに、臭くて嫌なそれに安心している私の嗅覚がそこにあった。

→父親がタバコを吸います。それが嫌で、匂いが嫌で、煙いのが嫌で、父親が嫌で、いやなくせに、しかし、体調が悪い時にふいに流れてきたタバコの煙に、なんだかんだで安心しているような私がいることに、最近気が付きました。結局タバコの匂いも父親のことも好きなんだな、と思いました。体調が悪ければ悪いほど、様々に香る空気の中からタバコの匂いをわざわざ拾って、それで気持ち悪くなったり、ならなかったりしながら、それで安心している節があります。馬鹿なことだなと思います。

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暑くてかなわない、内側から湧いて出る水滴に、醜さを覚える。

→うだる暑さが、どうしても一匹の「生物」になりさがってしまう暑さが、大した功績もないのに人間の顔をしたつもりで生きている途中で「その」現実をつと突きつけてくるかたまりの様に感じる。自分はやっぱり醜い一匹なのだな、と思い知らされる。汗が、あとからあとから湧き出してくる。ぬぐっても、ぬぐっても、しまいには背中を伝って。この伝う汗の気持ち悪いこと。私の内面も、状態も、外見も、醜い一匹なんだと、思いました。とはいえ、まわりにいるみなさまだって、等しく汗びしょになっているのに気が付けば、あ、私だけではないや、と我に返る・自意識の過剰さに気が付くことができるのです。それを、苦しい満員電車の中で、白昼夢のように想い起こします。人がたくさんいるところでは、不思議と「ひとり」を強く感じるものです。

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優しくして差し上げよう、という隣人救済の気持ちは、実は区別意識から来ていて、抗えない劣等感は、これに起因していた。

→昔、小学生のころだったか、クラスで仲間外れにされている男の子がいた。私も仲間外れにされた経験があったから、その子のことを庇ったり、一緒に話したりしよう、と思った。その子は心に傷を負い、あまり登校しなくなってしまった。その時は本気でその子に寄り添っているつもりだったし、本気で「やさしく」「してあげて」いたつもりだった。が、これって、どれだけ彼のためになることだったのだろう。私の勝手な「加害者」「被害者」という区別のせいで、「加害者」の意見も聞かず、肩入れをしていた、その「エゴ」のキツさに、中学生で気が付き戦慄した。ああそうか。やさしさ、とはこんなに難しいことなのか。身勝手なものなのか。私はなにか、取り返しのつかない嫌なことをしたのではないか。と、おののいた。なんて自意識の強い、なんて身勝手な、なんて上から目線の行いだったことか。彼はそんな私のことを軽蔑したっておかしくなかったのに、中学生になっても、特に変わらず接してくれた。それもすごくかなしく思った。確か、そのころから私は、飄々としている、と言われるようになったんだったと思っている。

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優等生は、とうの昔に優等で無くなっても尚、そのレッテルに縛られる。

→遠い昔、それこそ小学生とか中学生のころ、私は優等生で通っていた。狭い地域だったから、同級生のお母さん方や、ご兄弟方にも、優等生だと評されてきた。中学生で初めての定期テストで、どのくらいが「ふつう」かわからなくて(裏を返せばどのくらいから「すごい」のかも分かっていなかった。完璧主義の酷かったあの頃の私はその点数を価値のない、ゴミのように扱って、満点をとれない自分を呪っていた)、同級生の「テスト何点だった?」という無色の質問に、純粋にシンプルにありのままに答えて(私には無価値な点数だったので、誰に言ったところで大したことはないと思った)、それが有り得ないくらい高いことが周囲の反応からようやくわかった。よくわからなかったので先生にも聞いた。先生は目が飛び出んばかりに驚いていた。しかもそのテストの点数が、3年生の先輩にも広がってしまっていた。どうやら驚愕した同級生が、3年生のご兄弟にも話したのだろう。そしてそれが広がったのだろう。人の口に戸は立てられぬ。

さて、高校に進学して、優等生から劣等生に真っ逆さまに転落した。残念ながら高校では全くの問題児となってしまった。不登校(私は「五月雨登校」だったと言い張っている)なので、勉強には当然ついていけなかったし、部活は通いもできなかった。みんなにお荷物に思われているような気がして、怖かった。マア、今思い返せば、中学の頃が異常だったのだ、と思うが、高校時代も異常だったので、「異常」に気が付かなかった。

劣等生がしょんぼりしながら街を行く。そこに中学時代の同級生が「最近どう?」と、これもまた無色の質問をする。これが怖い。高校では本当にたいへんな落ちこぼれをやっているのに、それが理解されない。確かに進学した高校は(質問したその同級生と比較したら多少は)偏差値が高いけれど、それだけだと思った。高校時代に逆転されることなんてザラだと思っていたし、私は落ちこぼれなので逆転されたと思っていた。が、どんなに言葉を割いても、そのことが理解されない。いやまああやめちゃんは賢いからさ、みたいな言葉で線を引かれて、それにくらべてあたしはさ、のような言葉が続いた。

その線から内側に入れてもらえたことは、ついぞ、無い。

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自己理解が進む程、新たな自分の可能性に心躍らせ、新たな情報を求めて外へ出て行く、と見せかけて、世界が狭く・独善的に、嬉しくない情報を棄てて殻にこもる内向になっていく。

→大学生になって、高校時代の不登校不健康ライフがあまりに苦しく、もうあんなのは嫌だ、と思い、原因を探るべくとりあえず自分を知らなければならない、と思って徹底的に自己分析をしました。おかげで自分の新たな面に気が付いたし、自分の行動の原因がなにだったのかわかりました。とても面白く、ためになる活動だったと判断しています。一方で、苦手、あるいは嫌な事象にぶち当たると、私は向いていないから、と投げやりになるようになった、と思います。自分を知って、もっと良くしていこうと思っていたのに、私を構成するピースが何なのかを集めるだけの機械になってしまったのかもしれません。あるいは、私が「私らしい」モノを拾い集めて、それこそを「私」としてくみあげているような不自然さ、ぎこちなさ。悲しくて嫌なことは排除して、私に都合のいい、わたしだけの楽園を築いて、そしてきっと、その楽園の運営をするのにも飽きて、またデカダンスを気取るのだろうか。それを憂いて、また内側に向くのでした。

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目指すはあの丘。たった1人で何が出来るか、いや出来やしない、それなのに、どんどん独善になる、そこに劣等を感じる、筈である。

→人は一人で生きていけない、という言葉があります。私が恐れる言葉の一つです。私はできたら一人でいきていきたい。でも、人より強いか、といえば、むしろ逆で、よわっちいのだと思います。だから、とてもひとりではいきていけません。恐らくこのギャップに「恐れて」いるのだと思います。なにもひとりで成し遂げられやしない薄ぺらな自分を認めると、完璧主義の私が【error】を表示します。自分を赦したことは、これまで一度だってなかったように思います。そもそも私は、「私」をただの「機関」だと思っているのかも。

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エンドループ。賢い私は同じ夢を見る、いつも同じところを廻る、どこから入っても、行き着く先は、出口は同じ。出られた試しは無い。

→上記のようなことを、しつこくしつこく思い返している私がいます。誰に責められたわけでもなく、ひとりで悲しく自分を責めます。どうアプローチしても、結局ここにたどりつきます。即ち「自意識過剰」。だから、なにか。全く生産性のない思考。前に進まない会議。むしろ勝手に傷つくのでマイナスでしょうか。今日はうまく自分を認められるだろうか、と全く違った切り込み方をしても、最後たどり着くのはいつもここ。そんな時は布団にくるまってカーテンを閉め切って、無理やり無駄な情報を脳みそに流し込んで、訳が分からなくなってきたところで電源を切ります。そうすると、一時的に問題を先延ばしにできるのです。

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七言絶句、というタイトルは、カッコつけてみただけで、ほんとうは全く七言絶句ではないことはお判りでしょう。ただ、7つの塊を、連想ゲームみたいにつなげたことと、全部ニヒルみたいに気取った言葉でできていること、それを聞いたあなたが、絶句しちゃうような自意識の強さがあるのは確かだから、「七」「言」「絶句」と言えばそうなのかもしれませんね。

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ため息が出るような一日でした。雨だからです。否、明日早期選考の二次面接があるからです。吸ってはため息、吸ってはため息。頭痛のタネが増えて、呼吸が浅くなります。昨日はとっても元気だったのに。人生万事塞翁が馬。運命論者になってしまいそう。と、くだらない・役に立たない・問題解決にならないことをネチネチ考えついては、ぽつり、ぽつり、とやることを思い出しています。そしてまた、ため息。ため息ばかりついていては、幸せが逃げてしまうという言葉を、タイミング悪く、今、思い出して、新鮮なため息がうまれました。元気な男の子です。はあ。

七言絶句

タバコの匂いが染み込んだ車のシートに深く沈む体を、支えることすら叶わずに、臭くて嫌なそれに安心している私の嗅覚がそこにあった。

暑くてかなわない、内側から湧いて出る水滴に、醜さを覚える。

優しくして差し上げよう、という隣人救済の気持ちは、実は区別意識から来ていて、抗えない劣等感は、これに起因していた。

優等生は、とうの昔に優等で無くなっても尚、そのレッテルに縛られる。

自己理解が進む程、新たな自分の可能性に心躍らせ、新たな情報を求めて外へ出て行く、と見せかけて、世界が狭く・独善的に、嬉しくない情報を棄てて殻にこもる内向になっていく。

目指すはあの丘。たった1人で何が出来るか、いや出来やしない、それなのに、どんどん独善になる、そこに劣等を感じる、筈である。

エンドループ。賢い私は同じ夢を見る、いつも同じところを廻る、どこから入っても、行き着く先は、出口は同じ。出られた試しは無い。

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今度は弟に読ませて、なかなかいいじゃないの?と言われて有頂天になっている内弁慶でございます。改め、あやめでございます。ご機嫌よう。まだまだ暑いですね。

さて、その弟にもらったアドバイスに、自分で自分のブログの意図を解説すると新しい視点を得られていいんじゃない?というものがあったので、なるほどと思って取り入れようと思います。が、自分で自分のタネ明かしをする、というのは、これほど恥ずかしい作業だということを失念していたので、下唇を噛みながら書いております。

それから、文学、あるいはもっといえば芸術ぜんぶに言えることだと思っていますが、作品に対する解釈(うけとり方)は絶対に1通りではありません。私なりの書き方(と解釈)、読んでくださるあなたの読み方(すなわち解釈)は違います。それが面白いのだと思うし、「こたえ」みたいなものは無いのが文学の自由さだと思っています。

ですが残念ながら、これが思ったより時間のかかる作業でしたので、これは次回に回そうと思います。期待させておいて落としてごめんなさい、かわりに何か、もう一品出して終わりましょう。

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前期の授業で、漢詩を自分で作れるようになる、という内容のものを履修しました。おかげで2作品だけはそれらしいものが完成しました。なかなか楽しい世界で、新しい表現方法を得たと思います。

漢詩の世界で秋は物悲しくて嫌な季節のようですが、私はそれだけではないと思います。だからこそもっと悲しいのだとも思います。授業ではそれを表現した作を一生懸命ひねりだしました。この秋を、このこうようを、どうしよう!という気持ちでしたためました。出来上がった作品は、履修したみんなで鑑賞会をして味わいましたが、鑑賞会でいただいたコメントから察するに、みなさんにあまり伝わらなかったようで、表現力の乏しさを思い知りました。秋は、ただ悲しいだけではないからこそ、かなしいのだと、真夏に思いました。その日は雨でした。

暦上ではもうじき秋が来てもいいころになったと思いますが、まだまだ暑いですね。体調に気をつけてお過ごしくださいませ。自戒。

なつやすみのにっきにしては

ごきげんよう。夏休みを満喫しているあやめでございます。

こちらはやっとこさ課題に解放され、マア今度は就活に追われることになりましたが、なんとかたのしげにやっているところであります。みなさまいかがお過ごしでしょうか。打ち水してかき氷食べて、足をたらいに入った氷水にひたし、扇風機の前で「あ゛~~~」とか言いながら風鈴の声を聴く、などという風流な生活ができる程度の暑さならよかったのですが、残念ながら関東山地に入っているような我が家も、酷暑から逃げられる訳もなく、冷房の効いた部屋から出られずにおります。でも、せっかくの太陽をいかさない手はなく、布団を干したり掃除をしたり、洗濯物を何度も干したり、せっせこ働くこともありまして、汗びしょになりながら、目をバッテンにする日もございます。

それから、アルバイトを一生懸命にやっているところであります。そんなにたくさんシフトに入れているわけではないのですが、あんまり上達せず、というかあんまり気性にあっているところではない職場であるようで、なかなかなじめずにおります。おやア?と思っているのですが、はじめてしまったので、もうすこしやってみようか、と、こちらも目をバッテンにしております。そんなアルバイトで出会った人々は私ととことん趣味が?志向が?思想が?……上手に表現できませんが、なにかがおおきく違っていて、話すたびいちいちカルチャーショックをうけております。そう思っていたら、むこうもどうやらそうらしく、「あやめさんってめっちゃおもしろいよね」といわれてしまい(おもしろいことはなにひとつ言っていないので、その方はあるいは「滑稽」と表現したかったのかもしれません)、「?」となったり、その帰り道に、たしかに私はヘンな日本語の選び方をしているかも知れないな……?と思ったり、今後このヘンな選び方をするクセは人(交友関係)にどんな影響を与えるのだろうか……?(壮大)と思ったり、私は面白くて、かつ適切でExactlyなチョイスをしていると思っていたけれど、伝わっていないならそうでもないのか……?と思ったり、わたしってやっぱりハズレなのかな、としょんぼりしたりしました。わたしはどうやら、この「はずれ」ている感覚と一生付き合うようです。しょんぼり。

さて余談ですが、先日日本女子大学文学部日本文学科(大学院文学研究科日本文学専攻)の公式X(旧Twitter)で宣伝されていた「太宰治ワークショップ」なるものに、実は私も勇んで参加いたしておりました(こちらに関してはまどかさんの8月8日分のブログに詳しいです、勝手に登場させたまどかさんすみません)。ただ、私は太宰治に深い造形があるわけでも、(それこそたとえばまどかさんほど)熱意!!があったわけでもなく、(舐めた態度で)でかけて行ったために、あまり有用なお話をすることはできませんでしたが、参加されたみなさまは、どのかたもとても博識でらして、とても勉強になりました。へえ、太宰治ってそんなことになってるんだ……?とおもって、びっくりしてかえってきました。一応「文豪ストレイドッグス」は読んだことがあったのですがネ。私の造詣が浅かった。さておき、このワークショップは、ほんとうにおもしろかったのでみなさまにもぜひ議事録などをチェックしてみてほしいな、とおもいました。ただし今年の分はまだ公開されていないので、もう少々お待ちください。余談、宣伝?でした。日文の公式ブログ部なのでね……とドキドキしながら言ってみました。

本当に余談ですが、上記のイベントでそんなまどかさんとお話しすることもできました。意外にもブログ部員のなかまを大学内でお見掛けすることがなく(お会いしていても私の視界が狭く、気づいていないだけなのかも知れませんが……その場合はシンプルに私がご無礼を働いているのでお詫びいたしますが……)とても嬉しかったのでここに記しておきます。まどかさん、お話ししてくださってありがとうございました、と、今回は何度も登場させてしまいまして、ごめんなさい、の気持ちと共に間接的に申し上げておきます。みてるのかな……

あこがれはオレンジ色をしている

家具屋があった。

通学路の道路を挟んで向こう側にある。

3年間通ったこの通学路の向こう側に、臆病者の私は行ったことがない。大したことではないのに、向こう側に行けないでいる。

その家具屋の照明がオレンジ色をしている。

彼女はしかし、道を渡って向こう側に行こうとしない。効率主義の彼女は寄り道ができない。あるいは「寄り道」ではなく、「常」から外れることこそが嫌なのかも知れない。

家具屋はそんなことを知らない。いつもオレンジ色の照明をつけて、(彼女の目には)ひっそり営業している(ようにみえた)。そこに、えもいわれぬ憧れがあった。

彼女の友人に、横澤というのがいた。横澤は目が悪く、ビン底眼鏡をかけていた。コンタクトレンズはポリシーに反するからつけないらしかった。そういう「我」がおもしろくて、彼女は横澤に惹かれていった。荷物はいつもパンパンで、そのパンパンのカバンからなんでもでてきた。絆創膏、修正テープは序の口で、ウェットティッシュ、マスク、ホチキス、替えの靴下などがあることを、すでに彼女は見て確認している。なんでも入っていた。出して、と頼めばエプロンとかも出てくるだろう。しらんけど。

横澤はいつもオレンジか黄色を着ていた。彼女はファッションやら流行やらはからきしだが、横澤は(流行かどうかはさておき)好きなファッションの系統がハッキリしていて、それが妙に似合う人であった。それが、オレンジか黄色だった。時々赤も着た。彼女はそれがすごいのかなんなのかもわからず、似合っているんだろうな、と思った。ギラギラの黄色ではなくて、見るとホッとするような黄色だった。それは横澤そのものでもあるように思えた。なぜなら横澤は、いつもパッと花が咲くように笑うからだ。彼女は無愛想で有名だったが、横澤はビン底眼鏡でも人気者だった。ビンぞこメガネはなにも悪くないのだと知った。彼女もまた、目が悪く、ビン底メガネである。

さて、彼女には趣味がない。仕方ないから暇を持て余すと、チミチミ将来について考える。腹の足しにもならないのに、と思いながら、妄想を膨らませて、脳みそが四角四面に整理されたら、満足して思考をとめる。図書館に朝1番に行って、気が済むまで思考をガサゴソ、ああでもない、こうでもない、として、気がついたらもう閉館時間だったこともある。横澤は、とりあえず動くタイプなので、彼女をみて、「うへぇ」と言った。ちなみに横澤は多趣味なので、そんな暇は持ち合わせていない様子だった。

繊細についての一考

葉っぱの上に水滴が乗っているのをみて、ただの朝露にすぎないのだけれど、やっぱり、葉っぱから液体が溶け出したように見えてしまい、全然そんなわけがなくて、1人でがっかりしてしまう。目に鮮やかな緑色をしたその葉は多分私よりずっと若くて強い。その上にのった水滴だから、それをのんだら若返るのかも、などと思い、いや、お腹を壊しておわるか、と思い直す。だから、何というワケではない。ただ、この、お腹を壊すだろうな、という考えが先に出るようになったら、おとなになったということなんだろうな、と思う。今の私は、つまらない事実ひとつひとつに丁寧に反応する柔なんだろうか。はやくつよくなりたい。もっと水分が抜けてほしい。はやくおとなになりたい。

なんだかんだの予定が出来て、私は割と長期休暇中も大学に行くことがある。長期休暇中にわざわざ大学に来る人はやはり稀と見え、建物のワンフロア貸し切り状態のこともよくある。誰もいない杏彩館。とてもスッキリした気持ちになる。そういえば、私は昔から、誰もいない教室が好きだったな、と思い出す。小学生時代は学級委員みたいなものになりやすかった私が、もろもろの仕事を終え、遅くなってから教室に戻った時の、あの満足感とか、高校生時代の、体調不良のなか、出席数の関係で今日はどうしても来なければならない、と(しぶしぶ)登校するも、今は移動教室の授業中で、教室(クラスルーム?ホームルーム?)には誰もいなかったときの、あの安心感とか、ひとりで何か考え事をするのが好きな内気な気性が、この気持ちを生んでいるのかな、と思う。逆に申し上げれば、普段、人がたくさんいる教室みたいなところは、大の苦手という事である。特に大学は、制服みたいなものももちろん無く、色とりどりな人々が、いろんなお話を、一堂に会してしているので、匂い・色・音があふれかえっている、といえる。刺激が強い、というと、かえって私の「繊細さ」が強調されるようで、それは不本意だから、情報が多い、と表現しようと思う。さっき葉っぱと朝露だけであれだけ感動できるのをお伝えしたところだから、あなたならきっと、私の弱さ・つまらなさ・取るに足らない様子が、ありありとわかっているだろうから、確かに情報量が増えれば増えるほど私にとっては息苦しいのが、理解できると思う。若さ、と、それだけで片付くことだろうか。私が悪いのか。

そこまで考えて、杏彩館に人が入って来たので、しょんぼりしながら、ここにはもう居られないな、とおもい、荷物をまとめた。

たとえ話

たとえ話が昔から得意だ。というのも、誰かに説明をするときに何かに例えることが多く、しかもそれがなかなか好評だったから、ああ、たとえ話がうまいのか、と判断したに至る。

たしか高校時代の化学の授業中に、「mol」とかいうヤツにであったとおもう。そいつがなかなか難解な奴で、教室はおののきの声で満ちていたように覚えている。重さは違うけどこれも1mol?1molのこれと2molのこれが反応してできたのが1mol?どういうこと????というような混乱があったような記憶がある、が、いかんせん五月雨登校の不真面目学生であったから、確かなことは覚えていないし、全く間違えている可能性すらある。ただ、これに対して、1個の飴ちゃんを2枚の包装紙で(丁寧に)包装している、1つの商品(飴)ということなんじゃない?とか適当を申し上げたところ、困っていたその方が賢かったおかげで、私の適当を聞いて10を知ったと見え、「おおなるほど」、と腑に落ちた様子になっていたことはしっかり覚えている。自意識の塊である私には「ほめられた」とか「評価された」とかが一大事件なので、そんなことばかりはしっかりちゃっかり覚えている。

さて、つっかけをズルズルやって、ダラダラ歩いていると、雨が降ってきた。春雨じゃあ、濡れていこう、というのもさすがに気取りすぎなので、なにか別な言い方がないものか、と考えている。懐手をして。していない。

できること

ごきげんよう。まだまだまだまだレポートに泣いているあやめでございます。

なかなか上手に進められず、母には効率の悪さを指摘されてしまいしょんぼりしておりますが、なんとかやっております。が、私は大層いじけたので、ここでは、できないことばかりではなく、できることを書いていこう、という気持ちでおります。私のことを知るいいチャンスですね。あるいは?

地球儀

地球儀をはじめてもらったのは、おじいちゃんに社会の授業が始まったことを嬉々として報告した時だったとおもう。おじいちゃんは特に何も言わずに立派な地球儀を送ってきて、何も知らされていない私は不意のプレゼントにワクワクしながらおじいちゃんからのお届け物の包みを無駄に丁寧に丁寧に剥がしたものである。小学3年生の私には、持つのに苦労する重量感の、持て余す地球儀は、届いたばかりは私が、また弟妹が毎日クルクル回して眺めて、日本はここ、アメリカはここ、イギリスはここ…このグルジア、という国はなんだ?地図だと「ジョージア」になっているぞ?どういうことだ??間違いか??などと遊んだものの、ものの数日で飽きて、それから置き場にも困り、かさばる立体の地球儀ではなく、持ち運びにも保管にも都合のいい平面の世界地図のほうばかり頼って、徐々に部屋の隅へ隅へ追いやられていった。埃をかぶって、私のあの憧れの気持ちも埃をかぶっているようにみえた。年末の大掃除の時だけ、チラッと撫でるように埃をとってやるが、その習慣ももう、中学卒業のタイミングで使わないからと箱にしまって以降、無くなってしまった。

先日、一人暮らしをするんだ、と決意して、持ち物を整理しているときに、箱を開けてはしまい、箱を開けては出して整理して、またしまい、を繰り返すと、ある箱の中から、貰った時と同じくらいヒョイと、その地球儀が私の目の前に現れた。思いがけない再会を果たした、懐かしい地球儀は、今持っても(地球儀にしては)重たく感じた。憧れの重み。地球儀はなにも変わらずクルクル回るだけだった。

小学生の私には一つの仮定があった。この地球儀の中にも人が住んでいるのかもしれない。この地球儀、という地球には、私の住む地球と全く同じ世界が展開していて、その世界にも当たり前に地球儀が存在するのだ。そしてその「地球儀のなかの地球」にある地球儀も、我が地球と同じく無数に存在するのだ。その全てにまた、小さな地球が存在して…とどんどん小さな世界が繋がっているのではないかしら。そして、我が地球もまた、誰か大きな世界の人の一地球儀に過ぎないのではないかしらん。私は大きな人の部屋の机の上で、しゃんと立っている地球儀のなかの、ちいさな人なのかもしれない。そう思って、うっとりと、クルクルしたのだ。

私はこの地球儀を、新居へ持っていくことにした。家族は誰も欲しがらなかったどころか、新居へ地球儀を大事に持っていく私を笑った。私も照れ隠しのために笑った。

水の匂いを嗅ぎ分けることができる。雨が降りそうな匂い、川の水の匂い、水道水の匂い、雨が降った後の匂い、水たまりの(あまりきれいではない)水の匂い。以前に私は青が好きな話を、わりと何度もした気がするが、水も好きなんだな、と思っている。

描出

物語をかこう!と思ったのに、会話文がうまく「生成」できなくて、いつも頓挫してしまう。それでいつも、随筆・エッセイか、もはや詩(それもなんだか、「ポエム」的になる)のような体になってしまう。毎回「この作品は私の中では物語(フィクション)です」と注釈をつけるのも、なんだな興醒めでおせっかいな気がするので、それもできないでいる。いちいち分かっていることを、何度もうるさく言ってくるのは私のすごく嫌なことの一つであるから、私があなたにそれを強要するのが、本当に心苦しく思う。そもそも私がここでおはなしすることは、どれも私の本当の姿、本音ではなくて、脳内の小さい私の訴えを聞いて、ふむ、なるほど?と思いながら、伝聞の気持ちでしたためているものである。コップにかろうじてはまったが、底に落ちないで浮いている氷が、室温で少しずつとけて、水になって、ガラスのそのコップに溜まっていく、私はそれを写しとっているだけ、観察者に過ぎない、そんな気持ちで書いている。ただ、それが前面に押し出されて、私は観察者です!と大声で主張するのは、ガラスのコップと氷ととけた水には関係しないので、黙っていようとおもう。それなのに、ここに書かれていることが観察者フィルターを通したに過ぎない、ただの観察であることは伝わっているのか、隠している筈の私が1番心配になって、気になってしまう。小さな私は雄弁で、普段は言ってはいけないようなことも訴えかけて、憤慨、あるいは狂喜している。みいみい、小さな声で、小さいなりに怒鳴るように訴える。その訴えは本当は、大きな氷、なんて綺麗なものではない。もっと、混じり気の多い、歪な形の、毒々しい、ただのエゴ(「これは私のエゴです」という表現を私は好かない。言葉はそもそも自分本位でしか吐けない、あるいは人間はエゴにしかなれない、という私の哲学、美学がそうさせるのだと思う。もちろん強要したいわけでも「布教」したいわけでもないので、「※個人の感想です。」にすぎないけれど、注釈をつけるつもりで、このことも書いてみました。が、今回は特に「エゴ(利己主義)」的であったため、(これも私の中の小さな人が嫌がる声を聴きながらあえて)この表現を採ろうと思う、こんな考え方はやはりエゴ)だろう。それを、いかに綺麗らしく映し出せるか、それは私の力量によるのだとおもう。私はまだまだ力不足なので、うまくきれいにうつせないでいる。だから「ポエム」な苦しさと未熟さが出るのかもしれない。

現実

驚くほど、現実感がないまま、ここまで生きてきた。いつも「天然」ではなく「不思議ちゃん」と呼ばれてきたのだが、まわりから見てもそうならば、おそらく現実感のなさは、私の感覚だけではなく、思考の面にまで及んでいるらしい。不思議ちゃんといえば、まだ優しい言い方なのだろうが、要するに外れた、ということなのではないか、と思って、浮世離れしたままかなしんでいる。雲の上で霞をたべていれば、かなしむこともないのかもしれない。庵でもこさえて、質素な隠居暮らしを、仕事に就いたこともないのに、したいと思う。これは甘えだろう。大きな世界に出ていくのが怖いから、こう思うのだと思う。

さて、現実感であるが、いつまでも養えないままここまできてしまった。危機感を抱いている。いつまでもふわふわやさしいせかいに籠る訳にもいかない。が、なぜか残念ながら、理解もできなければ興味も一向に湧きそうにもない。ここでやはり「現実感のなさ」を再確認する。そういえば昔から痛みに鈍い気がする。やっと感じた痛みも、我慢して耐えて耐えてうずくまって、なかったことにしてきた気がする。体が発信するSOSを何度も黙殺して、平気なフリをして自分を痛めつけてきたのかもしれない、とうそ寒い気がしてくる。そのクセが功を奏して、私の意見は霧散したのかもしれない。あるいは、感じたことは「なかったことに」されるものだと、私の中でとっくの昔に変換されてしまって、やりたいことは(本当はいくつかあるのに)無いものとされてしまって、気づかなくなってしまったのかもしれない。確かに私は、「描出」のところで書いたように、小さな私の訴えを、聞いたり聞かなかったり、黙殺したりしている。

また、小さな私が使っている言語が、どうやらふつうの日本語ではなさそうなことに、最近気が付いた。もちろん、頭のなかで考え事をするときにきちんとした文法じゃない、ぐちゃぐちゃのままでやっている、ということはよくあることだと思うので、つまり私もその一種だと思っていただきたいのだが、問題は私自身がそれを「通訳」して外の世界に発信している、ということにある。だから、本音を言う(小さな)私と、それを通訳して発信する私、それから多分、それを検閲する私がいることになる。世の中的に、それをいうのはどうなのか……?という理性のパート。こうして、私にもいろいろ種類がありますから、「本当の自分」とははてどれのことなのか、忘れてしまうのです。そんな面倒な手順を踏むから、私は現実味に欠けるのだと、靄の中で思っています。あなたは見つけられるでしょうか。

眠気

ねむい。

ねむい、という感覚は、おそらく頭をもたげさせる大きな力をもっている。甘くて優しい眠気が襲って、脳天からつまさきにむかって包み込んでくる。眠い、とはやさしいかおをした、美男か美女か、であるとおもう。あなたのりそうの(おうじさま・おひめさま)。眠気に溺れる。目が開かない。現に今私は眠気と闘いながらこの文章を書いている。気が狂いそうである。ねむい。

かえるぴょこぴょこ

こんにちは、あやめでございます。

まだまだレポート期間でございますから、まだまだネタがありません。どうしよう。

ということで、本日ものらりくらりやります。どうしようかなア。

お祭りのシーズンになってきたと思います。私が住む市でも先日祭りが行われていたようです。私は行っていませんが弟妹が友達といったようです。

お祭り、昔楽しく行った記憶がありますが、ほんの何回か行ったらもういやになってしまって、運営する側にあこがれの気持ちを持っていた気がします。私は、ぼんやり(たこ焼きやら綿あめやらの)屋台の列に並びながら、それを作っている・売っているおじさんを見ていました。「まだかな、はやくたべたいな」という気持ちももちろんありますが、そうやってつくられるのね、とか、屋台の狭いスペースにぎちぎちに詰め込まれたものとか、2、3人で「回し」ている感じとかを見て、それにワクワクしました。

裏方志望、ということでしょうか、あるいはシステムをつくったり守ったりするのが面白い、ということでしょうか、わかりません。わかるのは、素直にお祭りを楽しめる人ではない、ということですね。斜に構える、というか、妙にすかしている、というか、興ざめ人間ですね。ヨーヨーぽよぽよして、キツネのお面かぶって、金魚の水袋もって、わたあめとりんご飴もって、たこ焼き食べて、花火見ればいいのにね。そっちのほうが、きっとたのしいでしょうにね。

ただ、私は、花火を帰り道にフラとみる、ことのほうが風情があると思うタイプのひとでなしです。そうだ、わすれかけていましたが、わたしは昼に出る怪異、ヤな生物蛇ですね。わきみちを腕振って堂々とあるきましょう。

レポート期間、テスト期間になると、掃除したくなる人がよくいらっしゃるようですが、私は自分の思考を掃除したくなります。しかも、じ……っくりと、中身をよくほじくって考えてしまいます。そうすると、いつも、わたしは普通じゃないな、という自意識がムクムク湧いてきます。でも、ふつうって、なに?と、わからなくもなります。各駅停車の事でしょうか?それともちょうどいいってこと?「中」のこと?わかりませんが、それなのに、そこにいない、とおもってかなしくなります。だってほら、お祭りを楽しめないのです。そして、みんなは「ふつう」のところに居るから、わたしを置いて行ってしまうように思います。まって!いかないで!!まだ私、ここにいます!!!

こうやって大声を出してワタワタかなしく主張したら、大抵「ああ、居たの。気付かなかった」と、アッサリ乗せてもらえます。ああ、そうか、ほら、わたしも「普通」ににんげんでした。日中に化けて出たマヌケ怪異ではない。ヤな蛇ではない。あの人には私が人間に見えたのです。大丈夫。安心安心。

でも、私は「常軌を逸し」ているのかもしれません。私が座ろうと思った席は、隣人には「席」と認識されていない様子でした。証拠に、あり得ないものを見る目をして、隣人に「そこにすわるの……?」と言われてしまったのです。おや?ひんやりしていて、風通しも良くて、てきどに薄暗くて、日光も差し込まない、良いところだと思ったのですが。「椅子まだあいているよ」と憐れみをもってちょっと心配そうに、親切に語りかけられたら、その優しさを突き放すことはできません。ううむ、空いている席はどれも居心地が悪そうなのに。結局終点に着くころにはがちがちに肩が凝ってしまいました。

でも、それを楽しもうかな、と思います。幸い大きな窓が付いているところに座れました。景色を見て気を紛らわそうと思います。湿度が高かろうが、暑かろうが、カピカピだろうが、極寒だろうが、狭かろうが、生きている動物がいます。要するにその環境に適するように進化できればいいのです。私も、うまくごまかしごまかし、やっていければ適応できたことになるのではないでしょうか。

無事列車を下りたら今日こそ、お祭りの日だったようで、花火があがっていました。人々はみんな、上を向いて笑っています。私はというと、下駄をカラコロやってあるき、ふと気づいて、浴衣の私が、水たまりをしゃがんでのぞき込みました。ラムネを飲んだばかりのシュワシュワした口で、目を凝らして見ました。深淵もまた、私を覗いているようでした。

にんげんは考える葦である。われわれはうちゅうじんだ。

これを、トマト缶の中で夢見ている、乙女がいましたとさ。井の中の蛙大海を知らず。

六無斎

なかなかネタが溜まらないでいるあやめでございます。前回まずい思いを大いにしたのにもかかわらず、授業の発表の準備エトセトラによって全然ネタが集まりません。マルチタスクが全くできない私。やることに忙殺されついに目玉が飛び出ました。飛び出ません。軽率にうそをつくのは止します。ごめんなさい。ネタが無いの。

さて、こんな調子でありますから、お目汚しをかます前に、今回は短く、私なりのさわやかさでお送りしたいです。さて、どこまで「それっぽく」できるでしょうか。この梅雨真っ最中の、実際に湿度高めな自室から、湿度を下げたわたくしがお送りいたしましょう、さアあやめの文章湿度は果たしてさがるのか。

青色のビーズと青色のビー玉と水道水を瓶詰めにして、コルクでしめて、かざっています。たぶん、前にもガラスやら瓶やらが好きだと言っていますが、その趣味が高じて、瓶をそのまま飾っています。青の瓶詰めです。あおが好きなのでしょう。

赤色のリボンを赤色の封筒にかけて、赤いインクで書いた手紙を貰いました。これではいささか血液を彷彿とさせるような言い方になってしまった気がいたしますが、そうではありません。どぎつい赤、ギラギラ力が湧いてくる、そういう赤ではなく、ただ、ピンクではなく、甘い赤色。赤いわりに力がないように見えて、やさしくて好きだな、とおもっています。差出人は不明でした。アラ不穏。

緑色の木が緑のカーテンをした窓いっぱいに広がっている、新緑が気持ちいいことも以前書きましたが、常緑樹のふかい緑は、見慣れるとそれなしではやっていけない安心があります。そこに霧がかかって、水墨画の世界観を現実に目の当たりにできます。緑と墨は似ているのでしょうか。

紫色の気配がする、と友人にいわれた、紫色のわたしであります。ほんとうは原色になりたかった。でもやっぱりプライドをぶらさげていきてしまう、ちなみに「アヤメ」の花ことばは一説によると「希望」や「信じる者は救われる」だそうです。なんと、あなた、信じてくれますか?こんなに疑わしいのにね!

やっぱりどうしても湿度が上がった、本日のあやめは雨にせいで頭痛がしている中お送りいたしました。ご機嫌麗しゅう。

うそ

ごきげんよう、あやめでございます。最近は色々様々やらねばならぬことが、わたくしの力量不足(主に体力不足)によってできずにおりますおかげで、口癖が「終わらない」になりました。はて、なにが終わらぬのやら。全貌も把握できぬまま、「終わらない」気になっております。いややはり季節の変わり目は苦手です。しんどくて仕方がない。そもそも湿度が高い私を、実際に湿度が高い環境においてはいけません。保管はどうか、冷暗所に。

だだっ広い空間のど真ん中に、私は捨てられた。

嘘だ。だだっ広い空間なんて知らない。雑多な、それほど田舎でもそれほど都会でもない、特徴のない街に生まれて育った。例えば海は「だだっ広い」かもしれないが、海無し県出身だから、旅行で何度か行って見たことがある程度で、とても、そのど真ん中に、捨てられたことなんて、経験はない。 捨てられてもいない。別にめちゃくちゃ良い親、家族、だとも思わないけど、かと言ってまあ、酷い家族でもない。普通。普通に喧嘩するし、普通に喋るし、普通。捨てられるとかは、まあ、ないと思う。まあ、一応尊敬もしてるし。育ててくれてありがとう、とは、一応、思う。 成績も見た目も運動神経も、普通。ものによっては中の下くらいで、ものによっては中の上くらいで、つまり普通。目立ちたくないし、怒られたくないし、要領悪いし。 これで、自分がどれだけ普通か、まあ、一般?的かわかったと思うし、これ以上やったら自分が傷つくのでやめる。だからなんか、就活とか?で個性が必要になったらヤバい。ガチで。なんもアピれる部分ないし。普通だし。目立ちたくないし、てか面接嫌すぎるな。 普通〜に流行りに乗るし、普通〜に恋人欲しいし、普通〜に勉強嫌だし、普通〜にマンガの設定に憧れるし。え、普通だよね? こういう人間だから、自信とかは、ない。自信の塊みたいな人見ると、うわ、って。それでまた、自信無くすし。 だから今日、学校でディスカッションみたいなことするダルい講義あったんだけど、いやダルかったんだけど、なんかめっちゃアイディア出す人がいたから助かったは助かったけど、やっぱりへこむな〜とは、思った。何食べてたらそんなこと思いつくんだろう、とか、なんでこのタイミングでそんなこと言えるんだろう、とか、ぐちゃぐちゃになって、ああ、自分って無力だな、何かできることってあるのかな、って、不安になった。しかも同い年。だから、「〇〇さんってすごいね、どうしたらそんなにいろいろ思いつくの?」って聞いた。雑談的なノリで。そしたらその人は、「ほんとですか?嬉しいなぁ…でも私そんなにすごくないですよ〜」って、ニコニコしながら返して、そのあともまた凄いことを思いついていた。 あれからずっと、その人が気になっている。ああいうひとが「主人公」なんだろうな、と思った。難しいことをたくさん、楽しそうに話してる。成績とかめっちゃ良いんだろうな。でも、「テストいやですよね…」と言って、困った顔で笑ってた。嘘つき。どうせめちゃくちゃ良い点取るに決まってるのに。 こっちがどれだけ頑張ってもがいてあがいて絞り出しても、むこうはなんでもないような顔でそれ以上を出してくる。生まれた時から決着がついている。何をしても勝てる相手じゃない。私がぶち当たっている壁は相手にとって壁じゃない。あーあ、起きたら天才にならないかな。

とでも、思っているような目で、睨め付けられるのに、もう、慣れている自分がいる。 ある授業で一緒の班になった人が、どうも最近、よく話しかけてくる。その度に「あやめちゃんはすごいよね…自分なんて…」と自分を卑下して喋って、満足して帰る。人を×××とでも思っているのだろうか。 同時にその人は、私を×××か何かだと勘違いしている。一応念の為申し上げるが、断じて×××ではない。人外ではない。歴とした人間、としてやらせていただいている(真相がどうであれ)。が、アレは多分私のことを信仰している。そうでなければ説明がつかない。ことあるごとに「アドバイス」を求めてきては、全くその通りにして、それで新たな「アドバイス」を求めて、の繰り返し。私が飽きてテキトー申し上げても、その「言いつけ」をチミチミ守って、四角四面に、解答を提出して、テキトーに褒めたら(褒めないと終わらない上に泣いたりしょげたり面倒が発生する)、救済されたかの如く大喜びして、大満足で、勇足で帰っていく。バカバカしい、と笑うなかれ、アレはアレで精一杯生きている、と、何故同類・同種・同年齢の×××に、「お慈悲」を差し上げてやらねばならないのだ。もう一度断っておこう。私は×××でもなんでもない。一匹の人間である。醜くつまらない、一匹でしかない。 ただ少し、「理性的」で、「合理主義」で、本質を追い求めて三千里、物分かりの良い子供を「演じる」のが得意で、勉強が好きなだけ。それだけ。人には何か一つくらいは特徴があるものだし、好きな思考傾向(パターン)があるものだし、好きなものの一つや二つあったってなんの違和感もないはずだ。それがただたまたま「勉強」だっただけである、知識欲が人より強いだけで、つまり「強欲」なのだから、(無欲を「良し」とする、と仮定すれば)ともすれば私は悪い人である、枠からはみ出すところが多いのだから、(枠に収まるのを「良し」とする、と仮定すれば)ともすれば私は欠陥品である。良い子、偉い子、真面目な子、これらは全く見当違いな評価であり、そして私は正当な評価以外は一切受け付けない主義であるから、学校の先生のあたりは、アレは少しも×××ていない。全く。あんなのその辺りに転がしておけば×××と大差ない。だから広く大人一般を×××ていない。なんだこんなものか、とその真実を知ったときは×××した。私如きのかわいい「うそ」にコロッと騙されるほど×××なのだ。 要するに、×××ではない、この一点である。だから嫌なことも緊張することも焦ることも不安なことも経験したことがないことも、当然ある。故に「あやめちゃんって何が起きても大丈夫そうだしめっちゃ頼りになるよね」とか言われても心外なのである。あんな目で見られたら、気分が悪くて×××たくなる。大した努力もしたことないくせに。大して脳みそ働かせたこともないくせに。お前は今まで一度だって自分の脳みそのせいで×××したことがあるのか。好きなことを好きと言えなかった経験があるか、口が裂けても「勉強が好き」だなんて、言えるか。「勉強が好き」と悟らせないように生きたことがあるか。「頭が良い」と悟らせないように気を配ったことがあるか。なんでも完璧を言外に求められる者の気を知らずに、言外の「言葉」を耳ざとく聞き分けて生きる人間の気を知らずに、「×××てやる」方の気を知らずに!お前は今まで一度だって自分の脳みそのせいで×××になったことはあるのか。毎日毎日その×××の繰り返しでうんざりしてガッカリしてまた「×××」を知って×××られて×××して×××して×××て×××ている、私の気持ちを、その小さな×××で考え直して、それからその×××ない口を動かしてみたらどうだ。お前の「ソレ」で、×××そうな人間もいることを、自覚しろ、×××のクセに。 私は醜い化け物たるアレが、憎くて羨ましくて、アレが羨ましいなんて信じたくなくて、苦しくて悔しくて、こんな×××しかいないド田舎抜け出したくて、地域で1番賢い学校に進学することを夢見て、それだけを心の支えにして、発狂しそうなのを堪え、なんとか生きながらえた。
X=おはな
 と、思っているのは?その原因は?と追求したところ、自意識過剰によるものだと判明した(当たり前)。実際にはあの人も、それほど私を見てはくれていませんヨ。残念こちらは、気付きたく無いところにハッキリフォーカスを当てる自動照準搭載の脳みそであります。醜さ汚さつまらなさ、これら私の恐れた全てが詰まったお得用ボリュームパックは如何ですか?残念でした!自分を追い詰めるのも高めるのも自分、自分を救うのも殺すのも、勿論、自分なのです。神様ごっこは終わりにして、良い加減現象を見ましょうネ。現代アートぶるのは主に私が恥ずかしいから止して、歴とした今を生きましょう。泥臭いのです。そんなモンです。 

拝啓、あの頃の荒んだ私へ。 あの頃あなたが気に病んで苦しんでいた「敵」は、その後大きな病気をもたらしました。 あなたがどうしても行きたかった高校に、あなたのその力量で見事合格して、そしてそこに、自らのせいで行けなくなりました。 おかげで3年を無駄にしました。 けれど私にはどうしても必要な、3年でした。 あなたの敵は、あなたが大学生の頃に、大都会・東京の、高層ビル群のど真ん中で、灼熱のアスファルトに熱されて溶け出し、溢れ、弾けて大都会に吸収されました。 あなたが「特殊」かどうか、なんて、あなたが思うほどの問題では、ありませんでした。 ×××(自主規制)だらけになってしまった、「醜き」叫び、「凡庸」にアイデンティティクライシスを発症したあなたの脳みそ。∴あなたの「敵」は、大したことのない、凡庸でしたよ。

親愛なる私へ 大学三年生になった「愚かなる」私より 大学三年の初夏、燕の鳴く頃 敬具

追伸:世間ではすっかりペーパーレスが、「定着」しました。

……きっつ笑。

近所のきつね

ごきげんよう、あやめでございます。本日、わたくしひそかに困窮しております。なぜなら、ストック命書き溜め系ブロガー(?)のわたくしにあるまじき事態ではございますが、ストックが尽きたからであります。そこで本日は、弾き語り(?)でやらせていただこうかと思います。

と、申しましたが、以前お話ししました通り、今!!書け!!と言われて書ける私ではありません。ふがいないが、こればかりはしょうがないのであります。から、だらだら続けるしか手はなく、かといって引くわけにもいかず、それだから困窮しております。なんだろう、なにをかいたらいいですか。自分の話でもしますか(いつもそうですけれども)。

もう少しくらい、愛想よく、心から疑問に思っている、少々間の抜けた、あるいは甘い顔の一つでもできれば(出来っこないので駄々をこねくり回してしいるの図、ヤダヤダ!!アタイだって、他愛なくかあいいんだい!!洟垂れの何が悪いんだい!!)、と思うことも幾度もありますが、生憎と、我が両親から賜ったこの御顔は、それ自体は全く!悪くないのに(※個人の感想です)、顔面の筋肉の使い方の心得がない持ち主をもったがばっかりに、その「可愛さ」を全く封印してしまい、悲しいことに、本人が何も考えていなくても、お顔は怒っているように見えるように成長いたしました。ごめんなさい、お父さん、お母さん、私は愚娘です。こういう時に使う言葉は、辞書的には「愚女」らしいですが、ここは間違いの方を押し通そうと思います。あと、高校時代には、全然そんなことないのに「あやめちゃんって頭良さそうだよね」と。ほとんど初めてお話しするクラスメイトにせっかくほめてもらったのに、ひねくれにひねくれ、尖りにとがっていたあの頃は、この言葉一つさえ素直に受け入れることができず、それどころかカチンときて、しかもそれをおくびにも出さず、「あたまよさそう?やったぁ~~🥳」みたいな、皮肉でもなければ嫌味でもない、なにだかよくわからない言い訳みたいな言葉が適当に発され、挙句相手に「いやその反応はめっちゃ頭悪そう笑」と言わしめるに至ったのです。選択ミス。愚娘です。頭良さそうな、飄々とした、綺麗にみえるのでしょうか。クールに素直に、ありがとう、じゃ、ダメですか、いいに決まっています。良いんだか悪いんだか、でいればいいんでしょうね。ふん!!大拗ねです。明日は雨なんだって!!!ふんだ!!!!

なるほど、下書きが無いと、「こう」なってしまうのですね。学びですね。こんなにつまらないとは思いませんでした。取るに足らないをおもしろく、これがモットーなのに、取るに足らないし、つまらない、では、そのまんまつまらないですね。趣向を変えて友人の話でもしましょうか。

友人はいやに首を気にする人でした。その人とは、小学生の頃急に引っ越して行ってしまった以来出逢っていませんから、もう9年以上も会わないことになりましょうか。首を気にする、とは、いつも首の後ろのあたりを掌でスリ、スリ、とこするような形でなでる癖がある、ということです。なにかあるたび、スリ、です。友人は賢く、そして穏やかでした。そのころの私は何を生き急いでいたのか(今もか?)ピリピリカリカリして、およそ穏やかではありませんでしたが、その友人に「まあ、ね」と、答えにならない答えを返されて、何度正気を取り戻したことか、数知れません。もちろん、そのどっちつかずでなるようにしかならないという態度は、高度成長期・上昇志向まっしぐらの私をイライラカリカリともさせましたがね。
その人は私を、名前の愛称で、すなわち、あやめちゃん、ではなく、「あやちゃん」、と呼びました。私も負けずにゆかちゃん、と呼んだりしましたが、恥ずかしいようなくすぐったいような気がして、すぐに「ゆかりちゃん」にもどりました。ニコニコして、あやちゃん、あやちゃん、と一緒に色々してくれました。あの頃の愚かなる私はまるで親分にでもなった気持ちで「ふふん!」としていましたが、ゆかりちゃんはそれをニコニコして見守っているかのようでした。
ゆかりちゃんは賢いだけでなく、運動もできる人でした。しなやかな動きで、軽やかな足取りで、何度も私の羨望を一身に受けていました(私は運動がド下手で、逆上がりは勿論、かけっこも、跳び箱も、全く出来ませんでした)。ごく稀でしたが、面白い話もしてくれました。ゆかりちゃんはなんでもできました。私はやはり、ゆかりちゃんに憧れて、いました。
ゆかりちゃんはしかし、自分の話はあまりしませんでした。好きなものも、嫌いなものも、「なんだろうね」としかいいませんでした。それが私にはすごく嫌で、なんで意見がないんだろう、と不満に思いました。あなたが好きなものを私も気になるし、あなたがいやなものも知っておきたいのに。賢いあなたと、他の子とは出来ないような、高度な会話…いわゆる「議論」だってしたいのに。あなたの立場がユラユラしていたら、議論なんてできないのに。しかし、その話をすると、ごめんね、と言って首をスリ、とするので、それもいやでした。そして、すごく怖くなりました。もうそれ以上は言えなくなってしまいました。
特にお父さんについてはまるでなにも教えてくれませんでした。いつもニコニコのゆかりちゃんが、「なるようにしかならないのにね」が口癖の、達観したゆかりちゃんが、お父さんの話題になると嫌がるのが、幼い私にもよくわかりました。ゆかりちゃんから直接、いやだ、と聞いた訳でも、嫌な顔をしたわけでも、まさか声を荒げたわけでも、ありませんが、私が自分のお父さんの話をすると、ちょっと困った顔で笑うのです。そして、首をスリ、とします。ニコニコ、ではないのがわかりました。だから自然と、家族の話は避けました。家族…お父さん以外の人の話でも、世界の狭い小学生時分では、なんだかんだでお父さんに行き着いてしまうからです。だから、長く一緒にいたはずなのに、私はゆかりちゃんのことを、多分良く知りません。お兄さんと妹さんがいて、全員年子で、優しいお母さんがいることだけは、なんとなく知ることができました。でも、それだけです。小学生の頃の私はよくよく風邪をひいたので、休んだ日に学校であったことや授業のことを教わったり、逆に私の辛かった話を聞いてもらったり、そういう一時的な話ばかりで、ついに込み入った話はしませんでした。
ある日、小学4年生だったと思いますが、記憶が曖昧でハッキリしませんが、その日はどんより曇っていました。湿度が高くて、嫌な天気でした。今にも雨が降りそうな様子です。でも小学生の私は、久しぶりに元気なので外で遊んでいました。するとゆかりちゃんもやってきました。一緒に遊ぼうと思って声をかけて手を振りました。ゆかりちゃんは、ハッとしたようにこちらを振り返って、それからいつものニコニコをしました。他愛無い話、小学生のおしゃべりをたくさんして、ちょっと走ったり、山に探検に行ったり、疲れてゆかりちゃんのお家におじゃまして、水をもらったりしました(お母さんがいました)。そこでお母さんがあまり優しいので、嬉しくなって色々話して、思ったよりも長居してしまったようです。ゆかりちゃんの家には時計がありませんでした(電池が切れて、変えなきゃと思っているところだった、と言って、ごめんね、とお母さんに言われました)から、どのくらい居たかは定かではありませんが、体感で長らく居座ったことがわかりました。気がついたら、向こうから、お父さんが(うるさそうに・不機嫌そうに)出てきました。夢中になって、元から大きい声をさらに大きくして喋っていたことに、フと気がつきました。あ、と思いました。多分、まずいんだ、と思いました。ところが、怒鳴られる、とか、暴力を振るわれる、とか、連れて行かれる、とか、想像した怖いことは一つも起きませんでした。お父さんもやっぱり優しくて、ちょっと髪がボサボサでしたが、「こんなところまでなにしにきたの」と優しい声を出しました。私は一生懸命(怒られないように、機嫌を損なわないように)ゆかりちゃんと一緒に遊んでいたこと、いつもゆかりちゃんには良くしてもらっていること、遠慮したけれど少し上がる分には問題ないと勧められてお宅にお邪魔していること、でもいっぱい喋ってしまって申し訳なく思っていること、今度はお土産でも持ってくることをなるべく敬語で、小4のもちうる語彙をフル活用して、ニコニコしながら言いました。お父さんは一生懸命聞いてくれて、「なにもないのに、ごめんね」といって、そこにフラ…と佇んでいました。どうしたら良いかわからない、というような様子に見えました。ゆかりちゃんは微笑んだような、強張った様な表情で、いつもの姿勢の良い背中はちょっと曲がって、少しだけ俯いて、手をぐっと握っている、ように見えました。私はゆかりちゃんのお父さんを、想像してたよりずっと怖くない(なんならうちのお父さんの方がこわい)と思ったけれど、ゆかりちゃんはこれが怖いんだな、と思って、だから、あくまであどけない子供のふりをして、お家を抜け出そうと思って、突然立ち上がって、「私、帰ります!でもゆかりちゃんに渡したいものがあるから、一緒に来てもらってもいいですか」と必要以上に大声で言いました。お父さんは目を細めて「うん」としか言いませんでした。なんとなく、まだ困っているような気がしました。怯んだのか、この隙を逃しちゃいけない、と思い、ゆかりちゃんの手をギュッと掴んで、全速力で走っていきました。ゆかりちゃんのおうちは山の中にあったので、私の家までは少し距離がありました。笹がうっそうと生えていて、ねこじゃらしが太ももくらいまで生い茂っていて、葉っぱの匂いがムワ、としました。枝がたくさん落ちていて、何度もこけそうになって、垂れ下がっているツタを避けて、くっつき虫がたくさんついて、でもその全てに構わずに、目が回るほど走りました。ゆかりちゃんはそのあいだ、ずっと黙っていました。
私の家の近くまで来て、やっともう大丈夫か、と思って道端に座り込みました。私は走るのが大嫌いで苦手で足が遅いのに、全速力で逃げてきたから、ゼェハァ息が弾んで、しばらく話ができませんでした。やっと息が整ってから、「ごめんね」としか、言えませんでした。なぜか泣いていました。きっと目に土が入ったのだと思います。ゆかりちゃんも「ごめんね」と言いました。やっぱりちょっと笑っていて、それがすごく綺麗な気がして、変だな、と思ったけど、さっき走っている間に帰りましょうのチャイムが聞こえたので、今度は私がお母さんに怒られてしまうので、ごめんね、ごめんね、とお互いに言いながら別れました。他の言葉を忘れてしまったように、お互いの姿が見えなくなるまで、ずっと手を振りながら、ごめんね、と叫んでいました(近所迷惑)。

次の日の朝、あんなに遊んで、普段は行かない所へ行って、変な本が埋まっているのを見つけたり、壊れた祠を見つけてお参りごっこをしたり、そのままそれがおままごとになったり、足だけ川につけてバシャバシャかけたりして遊んだせいで(怒られるのでこれらのことはお母さんには黙っていました)、そして、あんなに怖いことがあったせいで、やっぱりまた熱が出ました。いつもより苦しくて、暑いのか寒いのかわからなくて、そして、いつもより高熱で(40℃近くまで熱が上がっていました)、その晩は(私の)お父さんが隣で寝てくれました。お母さんも近くにいました。私としては、苦しいけれど、昨日に比べたらマァなんてことはない、と思っていましたが、体温計の「40.1℃」という表示を見た両親は何故か、かなり焦った様子で、急いで薬を飲ませて、いつもより優しくなって、はやく寝ちゃいなさい、と言いました。しかし、日中も寝ていた私はあまり良く寝られずにいました。お父さんもお母さんも疲れて先に寝てしまいました(いびきをかいていました)。
目を閉じて、はやくねないと、と焦って、どんどん寝られなくなっていった、多分3時頃だったと思いますが、そのころ顔の上をスッと何か、ふわふわするもの…?が通るような感覚がありました。なんだろう、とびっくりして、パッと目を開けてみましたが、その頃は今よりずっと目が良かったのに、その日は目が霞んでよく見えませんでした。何もありませんでした。怖がってお父さんを起こすと、「おきたの?…良かった、解熱剤が効いたんだね、熱がさがっているよ」とやさしく言われました。よく考えたら、たしかに苦しくなくなっていました。そして、ちょっとはっきりした頭で考えると、今起きたことを大人に話すのは、いけないことだと、何故かそう思いました。だから、うん、と言って、また寝ました。今度はびっくりするほど簡単に寝られました。

それからゆかりちゃんには会えませんでした。よく考えたら、「ゆかりちゃん」はクラスには居ない子なのです。同い年で、同じ地域にすんでいるのに、ゆかりちゃんを知っているのは、私だけでした。あの日、ゆかりちゃんのお父さんから逃げてきた日も、お母さんにひどく怒られる…のではなくすごく心配されて、ハテナ?と思ったのですが、後から聞いた話では、あの日あの時私は泥だらけ葉っぱだらけで顔を真っ赤にして息を弾ませて、涙目でいたようです(全速力で走ったからです)。走って来たと知らない母は、なにか、怖い目(誘拐されかけたとか)に遭ったのだ、と分かった母は、焦って、何があったのだ、と、諭したり、宥めたり、とにかく話を聞き出そうとしたそうですが、「ゆかりちゃん」という、知らない子のことを一生懸命言ってきたことと、よくわからないことを説明したのと、しきりに謝っているのとで、全く話にならなかったそうで、とりあえず風呂に入れて、夕飯を食べさせて、まあ、無事なようだから、良いか、と思って、話を終えるつもりだったようです。それから、その「お父さん」は、地域で1番山奥に住んでいる、(嫌われ者の、)おじさんだということも後から知りました。おじさんは、裏庭の畑を耕しているときに私…小学生の女の子が迷い込んでいるのを見つけて、こんな山奥まで人が来るのも珍しいのに、子供が1人でこんなところに?と不思議に思って近寄り、そしてそこでおそらく私が「1人で」何か言っているのを、哀れに思ったか、恐ろしく思ったか、話を合わせてくれただけのようでした。その山奥の家の裏庭(畑)にはいつも野生動物がよくよく出て、おじさんの農作物を荒らして行くのだそうです。シカやサルやイノシシや、それからキツネが頻繁に来るそうです。

熱が下がって、その日は天気雨が降りました。虹も出ました。多分ゆかりちゃんは、お嫁に行ってしまったのかな、といつか絵本で読んだことを思い出して、そう思いました。

◆◆◆

と、ここで終わらせれば、綺麗にやさしく終われたのでしょうが、マアそこは私のブログを愛読してくださるあなたさま方でありますから、そんな〈生半可〉な代物ではご満足いただけまい、それに、このひねくれヤなもの百鬼夜行(白昼堂々の行進でありますから、多分にマヌケではありますものの)の私としては、これじゃ物足りない、と思って、もう少し続けることに致しましょう(もう少し現実逃避をしたい、という作者の思惑が透けて見えるでしょうか)。もっと、醒めるようなつまらない浮世を描出したい。し、あなたにもできればこの「虚無感」「離脱感」を体感していただきたい。ああそうか、ここは。そうです!なんせ、ここは誰もが〈平等〉な浮世、楽しんだモン勝ち、なにくそと成長したモン勝ちの実力社会でありますからネ(個人の感想です)。御託はさておき、あのやさしい童話風は、以下のように続きます。せっかくのやさしさ、半熟卵のふわふわがお好きなあなたは、こちらでよしておくのをお勧めしますが、怖いもの見たさの野次馬根性十分なあなたには、止めたって無駄でしょうか。そして、あとで必ず恥ずかしくなって嫌になるのは、なにを隠そう私なのに、誰よりも「よせばいいのに」、なのはその実私自身ですし、野次馬なのは私であります。ですから読んで了った、と悲しまなくてよいのです。かなしいのは、わたしです。

◆◆◆

という、白昼夢を見ました(この「白昼夢」のうえに強調の「、」をつけたかったのですが、できませんでしたからしぶしぶ太字で表記します)。ただの夢に非ず、その実私の脳みそが見せた都合のいい現実逃避の様子を皆様にお見せしたにすぎませんでした。だからあんなにやさしくてふしぎな感が残るのです。当たり前です。私の都合のいいおともだちですからね。やさしくない夢は見たくないのです。ですが残念ながら現実には「そんな友達いません」し、子供の頃の私は気づかなきゃ善いことばかりわざわざ見つけて独りでしょんぼりする、元気に生きるのがへたくそなニョロニョロでしたから、あんなに快活に賢く危険から逃げられません、さしずめ食われてから、おや、と気づく程度。アハハ!未だ小学生時分の出来事にとらわれているマヌケはここに居ますよ!ア夢か、漸く気が付いて目をしばたたかせて、現実をしか、とみれば、確かに実像を結ぶ現実があります。それでも固執してあの頃を想うわたしがどうしてもここに居るのは、きっと大学に通ってむずかしいことばかり考えさせられて、ついにガタがきたのでしょうかね。良いことはほとんどスルー、悪いことばかり過剰に反応し吸収し記憶し記録し保管して、それで挙句こんなつまらない夢を見るに至るのでしょうか。目の奥に、まだ山の葉(山の端?)の濃いにおいが残って、否、こびりついているかのようです。まだまだ私は小学生を脱せずにいるのか。きつねに化かされたように。あるいはあの頃がきつねの見せた幻想だったのか。いずれにせよ私は、化かされちゃいない、とハッキリ否定できるような、確固たる私を持たないで、ここまで来て了った、ということだけお伝えして、今日はこれで止します。これからはきちんとストック管理を徹底いたします(猛省)。

押し入れ集・弐

ごきげんよう、今回はご機嫌のよろしいわたくし、あやめでございます。皆様のご機嫌はいかがですか。またまたお休みをいただき、1か月ぶりであります。サボっているわけではございません。

ア、どうなのか、どうなるのかわかりませんが、プロフィールを書いてみました(今更)。チラとみてみてほしいと思いました。オマケでした。

今回は去年の5月上旬にやった「押し入れ集」を、それこそ押し入れから引っ張り出すように思い出して、アレおもしろかったな(私が)、と思って、第2弾をやろうと決意いたしました。

押し入れ集、についてご存じない方に向けて、改めてお知らせしますと、暗くて変なにおいがしてひんやりして怖い、あるいは物が煩雑に置かれている単に物置としか思われない「押し入れ」が好きな私による、押し入れへの愛を語るもの…ではなく、押し入れのようにいろいろ詰め込んだ大小さまざまな文のまとまり、くらいの気持ちで名づけました文章集であります。随筆、なのでしょうか、わざわざ名前を付けるほどでもない文章のまとまり、というか、いわゆる「雑文」といいますか、「雑(ぞう)」といいますか、まあ今年も徒然なるままに書きたいと思います。久しぶりに・意気揚々とふすまをひらく音。

◆◆◆

ほら、急に開けては物が落ちます。ぎゅうぎゅうパンパンにいれているのですから。ドサドサ、ガラガラガン、バン!ドサン、ザラザラ、カラーン、カンッカンッカララ……だいぶため込みました。この耳をつんざく騒音が、追撃が、私はどうしても好かんのです。天気は晴、のち、曇りです。せっかく掃除をしようと思い立ったのに。ほこりが立つにおいと、かびくさい視界。

◆◆◆

次の目標として、こんなに長々々々しないで、淡々と短く、重い言葉を軽くパと吐けるような、重さ・重みのある人間になりたい、そういう事を掲げております。蛇足、即ち人間様に有害なヤな生物が、足をはやした滑稽な姿ではなく、この純粋な虫みたいな私が、地を這っている時代はもうおわりにして、そうではなく、もう堂々たる「おとな」なのだから、サッと一言で飛び去って行く、軽やかな優しい物言いができるようになりたい。いっぱいいっぱいがかわいく見えるこども時代はもう終わり。いっぱいいっぱい言葉を費やしてわたわたたどたどしくお話しするのではなく、ある適した一言で話を終えられる、完結させられる、重厚な人間に、語り手になりたい。ちなみにバイト先でもそのような指摘を受けました。もっと落ち着いて行動されたし、と。まあこの調子じゃしばらくは無理そうですが。あと、落語勉強したい。口上とか述べたい。ア、これは歌舞伎か。おっとっと。トンチンカン、ずっこけぶりはアイデンティティ?不変?普遍?不便?

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紙を霧に

ちがいます、髪を切りに、美容院へ行きました。人生初美容院です。病院ならいくらでも行ったことがあるんですが、ここ笑う所ですよ。髪を短くしてスッキリしました。ただ、たぶん自分の外見にそこまで躍起になっているわけではない私、ちょっと髪が短くなったくらいであまり心境に変化がなく、これしか書くことがありませんでした。ただ、びょういんとびよういんに一日で両方行ったという事実がちょっと面白かっただけなのです。蛇足、はじめの「紙を霧に」は、「かみをきりに」と打って初めに出て来た予測変換の結果です。あんまり綺麗な日本語だったので取っておきました。押し入れらしいでしょう。さあ、こうやって「ゴミ」が増えるのでしょう。だからヤな音、あの騒音が生まれるのです。そうおもうと騒音もいとおしく、思いません。むりでした。ちなみに、紙を霧にしたら、どうなるとか、そこは広げません。何色の虹がたつのでしょう、インクを載せていくらでも?紙を透かしたチンダル現象ってどんなでしょう。みなさまの豊かな想像力を使う所が来ましたよ、お葉書お待ちしております。

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過去の失敗を許せない悪癖があります。あれをこうすりゃよかったな。ブログもしかり、実生活もしかり、です。なんであんなことしちゃったのか。大きなことも、小さなことも、全部取っておいて、チクチク自分を攻撃してくる嫌な記憶を大事にしている、悪い癖です。あの時の私の頬をぶちたい。思い出して取り出しては悲しくて、苦しくて、つまらない気持ちになると、わかりきっているのに、わざわざ場所を取って残しておいて、自分を嫌な気持ちにさせて、何でもないのに。穴があったら入りたい、おや、ありました。失敗、error、mistake、fail、unsuccessful、色々種種様様ありますが、そのすべてを大事に過剰包装して、リボン掛けてとってあります。冷凍保存して奥底に押し込んでやれ。これこそが、わたしの押し入れの全貌。口の中に不味い味の唾がいっぱいに広がって、苦虫を嚙み潰した顔で、渋い思いをする羽目になるのです。誰に責められたでもなく、でもある日ある時急にそれらの封印が解けて、絶対零度の脳みそをぐちゃぐちゃに沸騰させて、貴重な脳みその一部が、目から口からあふれて俗世に飽和していきます。もったいない。だから、といって、誰もそれを知りませんから、私の損失、それで終わりです。幸い私には、一方的にお話しできる場としてこのブログを悪用する権利を有しているために、シメシメ、皆様を道連れにヤな気持ちにしてやれ!とできるのですが、そうでなければこの脳みその一部は(純真無垢、という名前です)、誰にも聞かれないで、音もたてずに瞬時に死んでいきます。併し、そんなものなのです。目の色がない人なんて、今時珍しくもない、だれもが、そうやっておとなになります。それをおいしく表現できるものが、上手な生き方を心得た方なのだと、おもいました。人生楽しんだもん勝ち。しかも、消化能力を鍛えるのではなく、他人に消化させて、当の本人はスタコラと次に取り組んでしまう、それが良いし、そのくらいが良い。蜘蛛の巣を払うとか、ほこりとりみたいなものです。持論。

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視界を狭めて生きています。どのくらい狭いのか、隣りにあなたが、知り合いが座っても気が付かないくらいです。わざとです。理由があります。なぜでしょうか。Guess what??答えは、小学生にさかのぼります。家族でレストランに訪れ、その時私だけお手洗いにいきました。はあ、ちょっと食べ過ぎてしまった、そんなしあわせな気持ちで満ちたころ、夕ご飯の時間だったため混んでいる店内、その隅にあるお手洗いに入ると、そこには自分と同じくらいの年恰好の方がいらっしゃって、手を洗っていました。同い年かな、あのかたは今日どうしてここへ来たのかしら?誕生日なのかな、と、見ず知らずの方に思いを馳せて、ちょっと長く見つめてしまったかもしれません。すると、その女の子(私も十分女の子でしたが)が、こちらをパッと振り返りました。そしてこう続けました。

「にらまないで!!!」

結構な声量、大声で怒られてしまいました。その時そこはわたしと彼女しかいない閉鎖空間。トイレ、特殊な湿度と温度を持つ息の詰まる空間。あの冷えびえした、たまの贅沢な夕飯に興奮している私の熱を冷ますだけの場所は一挙に冷たい戦場へと変貌を遂げ、私の額には今までにかいたことのない種類の汗が伝うのです。そして、驚いた私による、にらんだわけではない、という弁明を聞く前に、彼女は颯爽と去って行ってしまいました。瞬きの間の出来事です。脳裏には様々な疑問が浮かびましたが、つゆ知らず、目に映るのは勢いよく・後ろ手で閉められたドア。虚しく伸びた腕。ものを言いかけた形でこわばった喉。半端に閉まっている蛇口から垂れる水。これによってこれ以降、私はあんまり人をはっきりじろじろ見ないようにしております。

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なつかしい、これ、なんだっけ、と、取り上げた、あなたにとって、他愛ないもの

なつかしい、たしかあれだよ、白々と、私にとって懸命なもの

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知らないことを知らないふりしてそっとふすまを閉める音。ごめんね、見なかったフリして。やっぱり、片付かない。

卯月

ごきげんよう、あやめです、で始めれば恰好がつくことを覚えました、自分で自分のご機嫌を取れる大人になりたいと考えている、もう一度申し上げましょう、あやめです。

さて本日は題にあります通り4月(上旬)にあったことをお話しいたしましょう。

家に籠って(なるべくはやく)時間が過ぎ去るのをまつ、はやくおわってくれ今世、来世もできれば来ないでくれ、お布団かぶってヤな事をやり過ごす式に人生を無駄にして参りました(※個人の感想ですそしてフィクションです真に受けないでくだされ、親愛なる貴方様若しくは貴女様、)私(わたくし)としては珍しく、今月は、いや正しく申し上げると先月から体を忙しさに浸しておりました。なんてことも隠すこともございません、アルバイトを始めました。それに伴う様々な手続きで忙しく、新たな環境に慣れるので忙しく、お仕事と新たなお仲間を覚えるので忙しく、スケジュールが急にパンパンになって忙しくしていました。新たな出会い、新たな門出、を気持ちよく!迎えるにはあまりに忙しくあまりに身体に優しくないスタートダッシュ則ち(漢文の用法の則ち、即ち「すぐに」の意味で用いました。後者「即ち」は「つまり」です。ご機嫌よう、今日の言葉遊びのコーナーでした。さてここからは蛇を自称する私による蛇足ですが、こういう「シャレ」を自分で解説する作業ほど恥ずかしいことはありません。ですが今年のスローガンは「厚顔無恥(笑)(拡大解釈)」ですので恥ずかしがりません、私。)全速力の4月でありました。少なくとも私の人生で最も外に出かけていた期間であります。

アルバイト、覚えることが多くて苦心しました。記憶力にはやや自信がある、などと供述しているあやめ氏によると、その自称を撤回してお詫びし、打ちひしがれるほどには覚えることが多かった模様です。つまり覚えきれなかったということであります。そして身体的にもハード。長らくお布団とラブラブ生活をしておりましたために体力が無い。どこ探してもない。おかげですこぉし労働するだけで身体中が痛い、そして眠い、体力の枯渇、逃げ場はない。

私のような人間がアルバイトなどするのがいけないのではないか、と言えば、その通りに聞こえますが、よく考えてみましょう、就労しないと独り立ちはできない(、と私のちいっぽけな脳みそが訴えております)、そして私の将来の夢は独り立ちすること・1人で軽々・飄々と生きていくこと、であれば私の人生において就労は免れ得ないのです。やはり、働いてみて判る・解ること、ってあるでしょう、と、対してきちんと働いた事もないのに、分別顔で、何もわからない愚かな私は、そう思いました(感想文)。それだからアルバイトをはじめました、そして見事に疲労困憊している、というわけでありました。自業自得というか、読みが甘いというか、甘ちゃんというか。

もしかしたらこちらに、アルバイトしていない同盟を組んでくださっていた読者の方がいらっしゃるかもしれません。もし、もし仮にその方がいらっしゃるのなら、今回のこの私のアクションはあなたにとって、相当にショッキングな内容かもしれませんね。ただ、それだけが学生生活ではないので、あなたがショックに思われることは何もないし、今焦って新たに行動を起こさなくても、大丈夫だぞと、軽率に、軽口をたたくのであります。まじめに言いますと、私は3年生になってからアルバイトを始める、そして大学生になるタイミング(1年生)でアルバイトを始める方が多い、と仮定すると、私は「遅かった」人になるわけですが、自分では緻密な計画-狙っていた「時期」-がありましたために、引け目を感じる必要は何一つないと思っているのです。言い訳じみていますが、人には人の時期尚早。あなたにとっての「ここぞ」を見逃さず、計画立てていけばいいのです。持論です。つまり正解ではありません悪しからず。要するに、楽しくやれればいいのです。そしてこの文はたぶん、私が自分に向けて、自己満足とか言い聞かせるとかそういう意味を持たせたものになっています。だからあなたはたぶん、そんなことは全く思っていないで、画面の向こうから私に、(今回は特に)変なこと書くな、と思われているのでしょう?

私のグダグダジメジメはさておき。というわけで忙しく、前回の更新日の頃は1番の繁忙期(?)でしたために、例によって書き溜め系ブロガーあやめの書き溜めでお届けいたしました。失礼いたしました。何が起きるか、それは、せっかく更新日が本学入学式であったにも関わらず気の利いた一言も残さないブログが出来上がるということです。なんと自己中極まりない、最悪でしょうか、という言い訳、恨み言、を申し上げ、お詫びいたします。嗚呼もったいない、新入生の皆様ごめんなさい、ただ今急いで(とってつけたみたいに)お祝いの言葉を申し上げます。ご入学おめでとうございます。

さて、お話を4月に戻します。忙しいと忙しいのその合間を縫いまして(この言葉を使う日が来るとは)、本の街・神保町へ行って参りました。わぉ、珍しいことって続きますね、私が日文らしいことをしています。

本の街・神保町。流石の本屋の量に圧倒されつつ、店をちょっとだけ覗いては全てを分かった顔をして歩く、また新たな店に顔を出す、をしました。ただの散歩です。結局好きな作家さんの本と、かわいくて一目惚れした本を、あんなにたくさん本があるのにわずか2冊だけ、大事に買いました。知的好奇心が大いに満たされ、かつムクムク湧いた一日になったと思います。

さぼうる、なる、さる有名な喫茶店にも行きました。混んでいたので並びました。こんなこと今までの私の経験にありませんでしたので、ワクワクしましたし、人気店に行く人になったンだ、とソワソワしました。ブレンドコーヒーとチーズケーキを食べてきました。美味しかったです。

もちろん、味も良いのですが、その店の雰囲気が良いものでした。地下に潜る席に通されましたが、秘密基地の様な空気が漂い、地下ならではの暗さを照らすオレンジ色の電灯、壁一面に来店者によるものと推測される「落書き」の数々、隣同士との距離、天井との距離、いずれも狭く、通常ならば圧迫感があるはずのそれも、「秘密基地」感を引き立てるのか、むしろ居心地良く感ぜられ、それで長居してしまいました。

例に漏れず説明が下手くそで、早速掲げたスローガンに背き(スローガンって背くものですか?)まして、なんとも恥ずかしいので、もはや恒例となってしまい恐縮ですが、是非行ってみてください、の一言で全てを赦してもらう魂胆です。嗚呼恥ずかしい、なんで説明の一つも出来ないのか、とりあえず罪滅ぼしにURLをまた載せておきます。(4月14日追記:と、調べもせずに申し上げている過去の私を叱責しつつ、もう一度皆様にお詫びしなければなりません。さぼうる、という喫茶店の公式なサイトを、私の乏しいリサーチ力では見つけることができず、仕方なく「公式なサイトは持っていらっしゃらないご様子」だと結論付けるに至りました。代わりに千代田区観光協会による紹介の記事をお載せします。ごめんなさいの連続です。)

【URL:さぼうる(スポット紹介)|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda (visit-chiyoda.tokyo)】

今回もしっかり写真を撮っていません。もう確信犯を疑われるレベルでしょうか、しかし私、本気です。正気です。写真を撮るという文化がないだけなのです。

さて4月、ひいては春、春と言えば出会いと別れの季節、すでに書きました通りアルバイトを始めたことで得られました新たなご縁、また我らがブログ部に新たに加入してくださったみなさんとのご縁、即ち出会いをたくさん経験した4月になりました。また、これは3月の話になりますが、我らがブログ部の諸先輩方の卒業にも立ち会い、様々思うことのあった別れの季節となりました。

例えば、同級生の部員であるわたさんに、久しぶりにお会いしました。一言二言、軽く話しただけですが、やはり生で会えたこと、お話しできたこと、嬉しくて、ここに記します。急に登場させてしまったわたさん、急でごめんなさい。

例えば、さる下級生部員の方に、「読んでます!!!!!」とおっしゃっていただけました。その時は恥ずかしいやら申し訳ないやら、宣告していただけるほど良いものを書いていない気がして気が引けるやらで、うまく表現できませんでしたが、やはり読者が実際に居る、ということだけで、単純なようですがすごく、嬉しかったです。しかしそれだけではなく、なんというか、嬉しいようなくすぐったいような恥ずかしいしやめてというような誇らしいような、そういう感情でありました。この感情のせいで、おそらく、もし、あなたが私に気が付いて、せっかく声をかけてくださっても「いや恥ずかしいからそんな、よしてくれ…」とか言いますが、ややこしいことにそれで喜んでいます、やはりヤな奴、ということです。まあ、昔から表情の表出が下手で、それは表情筋の問題もありますが、素直さ、という内面的な、思考的な問題も大いに関わっているようでありまして、喜んでも「わーーい(棒読み)(笑)」のようなナメた言い方になるし(これでいて最上級に喜んでいる)、残念ながら実の母親にもその喜び方であるがゆえに誤解を招き、つまり正しく私の喜びが受け取られていなかった、という歴史を持ちますから、まあ、血縁関係がないという意味での他人、である皆様が理解なさるのは、大いに難しいことかと、本人がそう思う訳であります。 それを避けてマスク、仮面ではなく、いやまあ勝手に下半分の顔を想像創造されるので仮面みたいなものでしょうが、そうではなくて花粉症がお世話になるあっちのマスクをつけ始めてはや6年が経ちますが(もはや病的)、おかげで表情筋はもっと衰えましたし、余計鼻炎は悪化し(より敏感になり)ましたし、副作用?として、どなたかと食事を一緒に摂ることに恥ずかしさを感じるようにもなりました。あーあ、どんどん上手に笑えなくなります。哀しきモンスターであります。

あ、また自分語りをしました。こんなことではなくて、その後輩さんにこんなところで小さな声でお礼を申し上げたかったのです、読んでくださって、面白がってくださって、ありがとうございます。これは皆様にも言えますね、ありがとうございます。

さてこの後輩さん、実名をわざと出さないようにして書いておきます。お返事が来るなどして続きとかもっと具体的な話とか、できるといいですね。こんな先輩にお返事くださるのでしょうかね。

というような出会いを経て、そして色々考えて、私も他の方々によるブログにお返事したい!と思いました。マア、他人のブログなのに私がのっとって、お話しを台無しにしてしまう可能性があるので、軽々しくそんなことできないので、ただの私の妄想話なのですが。本歌取?みたいに、パロディ……いやオマージュ?二次創作??してみたい気持ちです。いかがでしょうか。おこられますかね。私による一方的な返信でもいいから…(あきらめが悪い)。

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さて親愛なる皆様、今回は「私」をきちんと疑えましたか?今回は特に、私[ワタシ]ではなく、私[ワタクシ]だと思って読んでいただけるとテンポ良く読める上に胡散臭さも増すような文章を書いたつもりです。いかがでしょうか。そう思って読み返していただいても構いませんことよ?マァ今回の話は全部事実ですので疑ったところで「ノンフィクション」あるいは「随筆」どまりなんですけれど。こんばんは、と私があなたに、夜道でお会いしたらきっと、その晩のあなたはヤな夢を見るでしょう、そんな、実際にお会いしたらきっと鼻摘み者のあやめがお送り致しました。物好きなあなた、必ずまた次回お会い致しましょうね。ニョロ。

4月14日追記:と、カッコつけて終わらせたかったのですが、ここは私、そう簡単にカッコつけが許されません。と申しますのも、私はブログを今書け!!と言われても全く!書けないタチでございます。代わりに変なところ、お風呂の中・電車の中・トイレの中・食事中など、すぐにペンを持てないところで、パとネタ、案が降ってくるタイプであります。ですから、案が浮かんだら消えないうちにメモを取って、そしてそれをパソコンのWordに書き殴ります。その後それをチマチマコテコテ推敲・書き直しして、それを投稿するのに用いているサイトにコピペして、飲み下しやすい文章になりますように、と最終確認をし、語感を大事に、いろいろ言い回しを・持てる技術を・様々なる仕掛けを、頑張って考えて、手を変え品を変え、字面を見、フォントを見、よし!いける!これなら「面白い」ぞ!となって、そして大抵予約投稿(更新日に自動で更新してくれるように設定)して、こうして晴れて皆様に読んでいただける状態になっているわけでありますが、今回の私は大やらかしをしまして、このダラダラネチネチ長い、長すぎるブログ、しかも今回は自信作、面白い()言い回しをたくさん思いつき、言いたいこともたくさん!ボリュームマシマシでお送りしたいのに、なんと、その下書きを、保存し忘れました。叫びました。もう二度と、同じ言い回しはできません。なぜならば、思い付きでしゃべって(書いて)いるからです。ほとんど垂れ流し同然です。つまり今回のこの文章は、「オリジナル」ではありません。もっとおもしろいこと言ってたんですよ私。なのに忘れたし、保存し忘れたし、再現不可能なのです。原稿(原案、スマホのメモ段階のもの)はあったので一命をとりとめましたが、それだけです。そのあとの「のどごしを考えた言い回し・順番」などの推敲後の文章はまったくどこにも残されておりませんでした。これ書くのに何時間かかると思います?今、シンプルに自分にキレている私であります。ご機嫌いかが、如何もなにもございやせん、ここにきて過去の私による「自分で自分のご機嫌を取れる大人になりたいと考えている、」という一文がここまで(自分に)皮肉に効いてくるとは、自分でも思いませんでしたし、これは全く計算外(というこの一言で、あとはみんな「計画どおり……!」であることもバレましたが)でした。きつい(嗚咽、咽び泣き)。

今回はそんな、私の断末魔も、文章から読み取っていただきたい(無理)。