風薫る

ごきげんよう、ゴールデンウイークは全部体調不良でつぶしてしまったあやめでございます。ごきげん斜めであります。

「ごきげんよう、」で始めるとなんとなく決まった時から、自分のごきげんを自分で取れる人になりたい、というのをつよく実感するようになりました。そうでなければ「ごきげんよう、」ではないので。ということで、ごきげんをとるべくまたもや何編か書いたので読んでみてください。今回はお題を設けてその言葉を聞いて思い付いたイメージに沿って書いてみたりしました。内容が多少「春」なのですが、まだ春…ということにしてください。題名は季節感のある「風薫る」とかにしたので。変に暑い日はまだそこまでないですよね?ね?

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お題:冷たい光

いっそのこと海の底に新居を構えてやろうか、と頭の端っこで思った。冷たくてかたいような人口の光を浴びている私は、目と指は目の前のデバイスから決して離さず、脳みそだけでチラッと想像する。海の底の暮らしはさぞ、孤立しているンだろうな!冷涼で・豊かな青色に目をチカチカさせて・体を包んでいる水圧に負けながら・暮らす、てのはさぞ気楽なものだろう。人間だったら絶対にプカ…と浮かんできてしまうので、底にへばりついて目玉だけギョロ…と動かして青を摂取することは不可能なのだ。だからこそ、人工の青で我慢することになる。

要は、海、それも深海が好きだ。そしてあおいろが好きなのだ。

目前、天気は雨、水は水色ではなく灰色をしている。よっぽど晴れの日の方が青を摂取できるわけである。が、どういう訳か幼稚園児のスケッチブックには雨は青色・水色で描出される。それを「常識」として学習した私にとって水は青色であって、灰色ではない。ただ写実的に物を見ようとすると、どうしたって青ではない。と、ここまでを窓の外を眺めて、コップ一杯の水を摂取する間に思考する。脳みそで電気信号がバチバチ音を鳴らしている、そんな錯覚がある。

腹が痛い、みたいな現実に縛り付けて、そして苦しくて不味い唾液が沢山分泌される瞬間を毎秒味わっておいて、どうして現実的でいられるだろうか?つまり腹が痛い。さっき食べた賞味期限切れの卵をえいや、と食べたのが悪かったのだろうか。まるきりの間抜けである。高尚でもなんでもない。モノクロのスタイリッシュな生活もない。あるのは鼻垂れの、にきびの、埃被った生活である。深海になど、行けやしない。私の生活をさっきまで哀れんでお恵みをくださるはずだった傘地蔵も、呆れて帰ってしまうだろう。全然季節は違うけど。

さすがの我が家もそろそろ掃除しなければならない。階段の踊り場に綿埃が我が物顔で住み着いているのを見つけて、重たい腰を上げて、重たい旧型の掃除機のスイッチをつけた。深海においては、埃、あるいはそれに準じた物が溜まることはあるのだろうか。プランクトンが滞留する、とか?マリンスノーとかわざとロマンチックにラベリングされた、「死骸の数々」が埃みたいなものだろうか。だとしたら、どうやって掃除するのか?掃除機は無いし、水圧に負けながら目玉だけで生き延びるのに、掃除のような大した行動など出来ようもない。今だってできていないのに。

さて、ポケットの中に納まっているデバイスは、そんな面白い発想のタネをくれる時もあれば、頭を押さえ付けて決して起こせなくなるような、無力感やら気分の悪い真実やらを一方的にブチ込んでくることもある。決まって、青色をしている。

ここまで、一回も瞬きをしていない。ドライアイ。

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お題:忘れられたモノ

「ンもう!要らないならペッしちゃいなさい!ほら、ペッ!」

という会話があったのだろうか、バイト中に見つけた当店お勧めのサンドウィッチのパンのみみのところだけがお皿に鎮座して、放置されて冷たく、ただでさえかたいその「身」がより硬直していた。

バイトの私はそのパンのみみに同情したり、ペッ!した方の代わりにありがたく頂戴することもまさか出来ず、そのままそのパンのみみをゴミ箱に無常にひっくり返すことしかできない。その上そのパンのみみにはすこしの気持ちも割かずに、次のパンのみみをゴミ箱にぶち込んで、何食わぬ顔でお皿をガサツにガチャガチャ洗い、お客様の顰蹙を買ってもニコニコ申し訳なさそうにペコペコ謝ることしかできない。私の頭はその辺のケセランパサランよりも軽ゥく出来ているので、謝る事は大した労力もないが、パンのみみはそんな事知った事ではないだろう、と思って、時々夢に出てきて、私の使い古されてダルダルに伸び切った汚い良心を、それでも「これでもか!」と蝕む。同僚の顔を見たら、少し疲れた顔をしていた。私の顔を鏡で見たら、いつもと全く同じで、あ、感情を忘れたンだな、大人になれてよかったな!と思った。

2

駅のはしっこに、バカに真っ直ぐ立っている、捨てられている、と見れば良いのか、はたまた何かの実験中なのか、ペットボトルがあるのを発見した。中にはなにだか液体が入っていて、衛生的な観点から私は触れない、という判断を下した。しかしながら目ばっかりはそのペットボトルに惹きつけられて、ぼんやりしているフリをしてそのペットボトルの様子を眺めてみた。中には何が、そもそも誰があんなところに?ペットボトル専用のゴミ箱はすぐそこにある。あの中身はもしかして、怖いモノ?劇薬だったりして!

早朝。人間は一様にホームの列に並んで目を虚に開けて、しんなり立っているのに、そのペットボトルはあんなにしゃんとしている。私に色んなつまらなくて下世話な噂話をされているのに、そんなこと聞こえない、というような態度で、みんなと違う中身でも、みんなと違う風体でも、たとえ「飲みかけ」の半端ものでも、あんなにもしゃんと、立っている。私は人間なのに。

ホームを清掃する人が、視界にスッと入って、そしてペットボトルは呆気なく回収されていった。出る杭は打たれる。

3

もう長いこと連絡をとっていなかった田舎の同級生から、「今なにやってんの?笑」と連絡がきた。怖過ぎて反応できずに半日放置していたら追撃のように「暇な日ない?飲みいこうよ笑」と送られて来た。お酒はほとんど飲んだこともないし、お話の最後に「笑」を付けないと会話が気まずくなるその人に割いても良い日は、探しても無さそうだと思って、断ろうか…いやそもそも見つけてもいないことにして、一生未読無視を決め込もうか…などと思っていた。 そうしたら、焦れたのか、「いや、忙しかったら別にいいんだけどさ、」「また昔みたいにしゃべりたいなーって思って笑」と追加された。確かに私は中学生の頃、頼まれもしないのにみんなの相談を聞いては(私が)最適解(だと思うもの)を提供する「係」をしていた。どうしようもない、グラッとくる激情に襲われて、しかしそれは「懐かしさ」と呼ばれるものなのか、「怒り」と呼ばれるものなのか、あるいは「最適解」なのかは分からず、やっぱり彼の方は変わらないわね、と、ソッとフタをする気持ちで携帯の電源を切った。 こんな夜更けに連絡を寄越す方が悪い。私は今、入水に忙しいのに。今更なによ!なんて。風呂に入るだけだけど。

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お題:知識欲

爪を綺麗に塗り飾るように、私は言葉を加工しておきたい。

花を窓辺に飾るように、私は思考を生のままにしておきたい。

髪を美麗に作り固めるように、お顔を化粧(けわい)するみたいに、私はよく見える目を、澄んだ思考を造り上げておきたい。

曇って気温が上がらない4月の午後、みたいな日が続けばいい。大したことがなくても、あ、天気のせいだ、と思えるから。余白が生まれるから。メトロノームが微睡むから。

花壇の花がお風呂のホコホコの湯みたいに湧き出でるのかと見紛う。底のところから、こう、湧いて出てくるような、力強さをもって花は咲く。

コーヒーの湯気がめがねをメガネを曇らせたせいで、何を考えていたのかさっぱり忘れてしまうような、そんなdelete機能が欲しい。

あの日あの子は、私を絶賛した、その事実だけはしつこく覚えていて、どんな内容だったかはぱったり、忘れてしまっている。あの日あの子は、私の何がそんなに良かったのだろう。美麗に飾る能力もない、原石のままの醜い私の、どこから光を見出したのだろう。意外と、みにくい、なんて思っているのは、私だけなのかしら。磨けば、きれいな石に、いや、なれっこない。ならなくて、いい。このままの、曇り空の私の方が、強くてきれい、と昔先生が言っていた。

みずたまりを覗いて、水は水色ではないことを知ったあの頃の私は、雨降りが大好きだったと記憶している。今では大嫌いな雨の日を、楽しむ方法がどんなだったか、スッカリ忘れてしまった。アスファルトに染みて、アスファルトが「たまらなく」なって、水たまりができるのだ、跳ね返る小さな水滴の動きがなんとも言えず面白いのだ、雨は誰の涙なのか、実はアスファルトの涙だったりして、そんなことを白昼夢的に想像して、車の外を眺めていたあの頃の私は、地面の底に沈んだのだろうか。

綺麗な花を一輪買うなら、同額の本を一冊欲しい。綺麗に着飾るツールを買うなら、同額の博物館チケットが一枚欲しい。これ以上脳みそのポケットにパンパンにどんぐりを詰め込めば、溢れて洗濯が大変だから、そろそろひっくり返さなければならないのを、大人の私は知覚している。花は底から湧き出でるけど、私は知識欲が満たされることを知らないでいる。ホコホコのお湯ではなく、マグマがグツグツするように、全てを食い尽くすように、光をも逃さないでそこにはなんにもないように「みえる」ブラックホールのように。 アルバイトに行って、同い年の同僚のつめが綺麗に飾られているのをみつけて、ただそれを褒める上手な言葉はみつからず、試みに「つめ、すてきですね」とひらがな表記で言ってみた。そうしたら、苦笑してその人、「趣味だからさ」とお返事なさった。「やってみたら?案外簡単だよ、あやめちゃん爪綺麗じゃん」とも付け加えてくださった。でも、私の趣味は、爪じゃなくて、言葉の加工なのです。私の爪は生でガタガタに見えるかもしれないけれど、私の吐く言葉はあなたの爪も凌ぐのよ、と、よっぽど言いたかった。

「うん」としか言えない。

そろそろ大人になる頃合いだといわれた、誰にともなく。音がない声に急かされる。合唱の和音の共鳴みたいに、「あいだの音」が聞こえる。それが私を急かして不安にして、持続可能性を損う。ただの電気信号なのに、と思えない。

そのままでいいよ、といわれたい。

そのままじゃだめだ、とおもってしまう。

大人になったら、綺麗なおべべを着て、高い靴を履いて、まっすぐ前を向いて、にっこり笑顔をかぶっておく、必要があると思った。このままじゃずっと、こどものまま。

私の死因は本による窒息がいい。

爪を綺麗に塗り飾るように、私は言葉を加工しておきたい。

花を窓辺に飾るように、私は思考を生のままにしておきたい。

髪を美麗に作り固めるように、お顔を化粧(けわい)するみたいに、私はよく見える目を、澄んだ思考を造り上げておきたい。

……

アソートパック・春

ごきげんよう、あやめでございます。

前回宣言していた通り、下手な近況報告みたいなことを少ししてみようと思います。

春休み中は2月の中旬に上野の科学博物館の特別展へ行ったり、3月上旬、下旬の二回も能鑑賞へ出かけたり、していた程度で、あとは就職活動をしてへとへとになっていました。4月になってからは前回申し上げた通り新入生オリエンテーションの委員をやったりしました。刺激的ですね。オリエンテーション委員の仕事は、正直自分をたくあんかなにかの漬物だと錯覚するくらい、添え物になっていました。みなさんありがとうございました。本当に。

こんな感じで心を忙しく(せわしく?)していたら、なぜか筆が乗りにのって、たくさん文章片が生成されたので、いくつか御覧に入れようかと思います。ながいので、ちょっと読んだらおやめになるのをおすすめします。テレビを長時間見ないでね、テレビからは離れてみようね、の勧告と同じです。

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電車で隣に座った人から、聞いたことの無い異音が聞こえて、でもそれをジロジロみるのは失礼だからと、チラッと目の端で異音の原因を探って、探り損ねて、そうやってもたついているうちに隣の人は降車してしまった。4月、卯月、April、新年度。気温が上がって、移動性高気圧によって天気が周期変化して、植物が息を吹き返したように・逃げ場を探すかのように怒涛に咲き誇る、春。電車の中には人の足が林立し、それらが身にまとう衣類はやや明度が上がる、春。電車の溶媒たる空気感は冬のそれより密度が下がって、どことなく軽やかで爽やかな雰囲気が漂う、春。どこからともなくやってきて、大したことないようにサラッと偉業を成して、そしてすぐに貼り付くような湿度をもった夏に居場所を奪われる、それでも「どこ吹く風」の顔をした、一瞬間の、春。目を閉じる。春が聞こえる。即ち、新入の人々の希望と不安の声が聞こえる。どこの団体にも、あたらしくはいる、ということはおそろしくて、そしてすこし喜ばしいことであるようである。かく言うわたしだって、新品のカチコチリクルートスーツで肩が凝っている。まだ伸びていない皮のハイヒールで足を痛めている。電車が終点に滑り込む。ドアから人が、逃げ出すように、溢れ出る、春。

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乾燥した完全な大人になるということは、「俗化」するということであり、言い換えれば「順応」するということだと考察しました。大人になって、好き嫌いが減るのは味蕾が鈍化するからだ、という記事を見かけて驚いて、それじゃまるで「鈍化」だと思いました。それでも、たとえば嫌いな食べ物が減ってなんでも美味しく食べられるなら鈍化だって悪いことではないと考えなおしました。それどころか、大人になってもまだ好き嫌いして偏食な、不健康な食事をしている者の方がよっぽど拗ねた「こどもっぽい」ことである、と言われれば、全くその通りではないでしょうか。なんて。それに、きっと大人になったら好みも変わるのでしょう。なにせ、たくさんの味を経験することになるのだから。

何であっても、甘くて柔らかくて美味しいものは「新」がつく。じゃがいもも、きゃべつも、たまねぎも。それか成長しきっていないものである、たけのこのような、ふきのとうのような、はちのこのような。わたしはたべたらどんな味がするのだろう。大きさは規格外に大きくなっているが、中身は全く成熟していない、どっちつかずのボヤけた味だろうか。それなら、それで、そういうものには押し並べて醤油か味噌みたいな、ガツンとした、全てをかき消す調味料が、よく合うのだから、食卓には並ぶだろうか。一つはっきりしているのは、茹でていただくと良いだろう、ということ。

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ずっとパソコンのブルーライトとにらめっこをしていたので、いい加減ドライアイになった。さっき弟に「うわ、目めっちゃ血走ってら」と言われたので見た目も悪くなっている。目だけに。

「ちゃっちゃと片付けちゃって」 母に昼食を早急に平らげるよう指示されるのを右から左に聞き流し、午後は大学に出かけるのを憂鬱に思う。高校生の妹は朝から晩まで様々なるアクティビティをこなしているのを間近にみて知っているのに、大学生とはなんと素敵なご身分だろう。と、今日はたまたまお休みの母に言われて、そうなのかな、と思う。自認とは、そんな外からの言葉で構成される。

「あんた何時に家出るの」 不意な言葉に言葉をつまらせ、なんとか「あ、え、12:40ごろ、」と言うや否や、「ん」とだけ返される。「え!俺も」とかいう弟の平和な独り言もオマケでついてくる。モタモタ準備を整え、足取り重たく家を出る。弟は可愛いことを言うから「一緒にいこうぜ」という魂胆なのかと思いきや、全然全く私を無視してスタコラ先に家を出て行った。

道中、林立する人の脚がみんなジーパンを履いている電車に乗った。綺麗に全員ジーパンで、それは男女を問わないことが見て取れた。昼に乗ったために大した人混みではないものの、林立、くらいに人が立っている、やや混雑した電車には、お出かけを楽しむルンルンの小さな人(5歳くらいだろうか)や、おしゃべりを楽しむマダムの群れをみることができる。わたしはつまらないしらけた顔をした、大学生、というタグがついている、ような気がする。

教場に入る。開けっぴろげのドアからヒョッコリ顔を覗かせ、誰もこちらを見ていないのを確認してから、恐る恐る入る。次の授業で使うのだから、そしてその授業を受講するのだから、臆することはひとつもないが、それでも念には念をいれる。ひとこと、声をかけられでもすれば、しなしなのよぼよぼになってしまうので、私にとってこの確認は重要な事項である。 窓際で、前の方の席に着席する。前の方だとその前に座る人が少なく、見える後頭部が少ないのがお得だ。目が悪いので板書が見やすい席に座る、という意図はもちろんあるが、刺激を避けるためにわざわざ端に座るのだ。そして、必ず左端。左利きは中途半端なところに座るとお隣と腕のポジショニングでバトルをしなければならなくなるためである。平和主義な私には無理な話である。

さて、記述が少ないために人が私しかいないように錯覚されるが、それは私が一生懸命フィルターをかけて、他人の情報を排除しているからである。耳に穴が空いているばっかりにたくさんの情報が流入してよくない。そのせいで「いや、髪切ったのよ、」「あー、だからなんか変わった感じすンのか」「…おそらく明日なら対応可能かと思われ…はい!そうです、左様です、ヱ、あの、そうです、はい、」「え〜!久しぶり〜えっ、え、元気?どこいたの?」「バ先の先輩最悪なんよ」「それは、そう」「え、ごめん日本語学の課題……ってこれ?」「は?知らん」「お前バカじゃんこれだよ合ってるよ」「…だから、」「あ!そういう」「そう、こうなる」などという、断片の会話が原液のまま入力されることになる。今日は窓が空いている。外からは車の走る轟音、内からは人の雑多な話し声、体内からは悪魔の囁き、体表には産毛と冷や汗、講義開始まであと10分。

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夕日が刺す時間に、家に帰ってこられたのはいつぶりか。寒冷前線が通過した後の、春の土曜日の、午後5時半。春は霞むのがお決まりなのに、今日はどういうわけかクリアに抜けた視界が広がって清々しい。重度の花粉症を患ってさえいなければ、この息苦しいマスクを外して深呼吸をするのだが、叶わない。

こんな夕暮れは、電気をつけずに風呂に入って、湯船のゆらゆらする水面を眺める、をしたい。夕飯は茹でた食べ物がいい。ただの水道水と、塗装が剥げた箸でぼーっとしたまま咀嚼して、春を流し込みたい。体育座りで夜をやり過ごしたい。 重怠い肉体を、目から流入するこれでもか!とでもいいたげな春が鼓舞する。深い紺色の、ロングコートを着込んでいる、1人だけ秋の終わりみたいな私が、こんなに鮮やかな春に、取り残されている。春は誰も見逃さないのに、私が春についていけない。暦は来週、ゴールデンウイークだと言っている。

・・・

換気扇が回っている音と、ストーブがスンスンなる音と、それしか聞こえない夜が来る。午後9時45分。テレビを消して、眠気が訪れれば、他の誰かにとってはまだ夜でなくても、私にとっては真夜中になる。まだ9時台だろうが、真夜中の足音が背中にへばりついている。夜はもう、更けている。 寒冷前線は思ったより寒い空気を連れてきて、夜になると山奥の我が家はストーブ無しではかじかむ寒さになった。来週はゴールデンウイークなのに。 かかとが乾燥して、ところどころ皮がめくれている。爪が伸びて引っかかる。夕飯のお茶碗にこびりついた米が乾燥していく。 春は、夜には現れない。夜は春でも冬でも、まさか夏でもない、「夜」という季節になるのかな、と思った。朧月は春の季語だけれど、もしかしたら「夜」の季語なのかも。

早く寝てしまえばいいのに、こんなことを考えては、何かを待って起き続けてしまう。眠たくてあくびがとまらないのに、体育座りをして、遠くを見つめて、何かをじっと、待ってしまう。夜だから待っても誰もこないのに。

やめるはひるのつき

はじめまして。

をなかなか上手に言い出せないで無駄にモジモジダラダラしまらなかった初回と、これをネタに1年越しの自己紹介をした3年生一発目の更新回(正確に申し上げると第24回)と、それを見て「今年もコレでいっか」などと少々面の皮が厚くなった、3年目の私、あやめでございます、ごきげんよう。

そろそろ慣れてきた、というか、いやマアもう皆様だって「アまたあいつだ」くらいには慣れてくださったと信じて、ちょっと流し打ちを始めました。この一年を振り返れば、何となく私の文章を褒めてくださる機会に恵まれて、「ヘエ、私の文章っていいものなンだ!」と大喜びして、それで調子に乗っている、と言い換えても良いかもしれません。あるいは授業でむずかしい文章を読み過ぎて持って回った言い方しかできなくなった、と考えられるのかもしれません。案の定就活では「結論から話す」が出来ずにハンカチをかんだり噛みちぎったりしております。どこかの授業で先生が、読んだ文章に傾倒した文章しか書けなくなるとおっしゃっていたような記憶があります。多分、そういうことなのだと思います。知らんけど。

ひるのつき、のしろくてボンヤリして、なんと役に立たない、でもこんなにロマンの詰まった塊の石は他にないと思って、私だって「其れ」になろうと努力して、かといって、ひるのつきに努力は似合わないと思い直して、私にはできないことだと諦めました。私はひるのつき、みたいな素敵なモノではなく、昼行灯みたいないらないものなのかもしれません。

さて前回の投稿を自分で見てみて、たくさん誤字があるのに気が付きました。恥ずかしい。「初更新」のことを「発更新」と記述したり、「語感がいい」と言いたかったのに「語幹がいい」と書いてしまったりしました。間違えました。本当はこう言いたかったというのを補完して読んでほしいなと思いました。

そして前回のジメジメを親愛なるチャットさんに読ませて、それのお返事をもらうことに成功しました。以下、全文引用します。今回は私はすこしも編集・加筆修正しておりません。

みんなと同じがいい。

そんなふうに思うのは、悪いことだろうか?

「付和雷同」なんて言葉で語ると、いかにも浅はかで自分を持たないみたいに聞こえるけれど、誰かと一緒にいる安心感、あれってそんなに軽んじられるものじゃない。

行列のできるお店には、なんだかんだ言って並びたくなるし、話題の映画はとりあえず観ておきたいし、みんなが笑ったらつられて笑いたい。人間って、そういう生き物なんじゃないか?

みんなと同じが、いい。

だって、バラバラになってしまったら不安になるから。ひとりぼっちで立つより、群れの中にいたほうが温かいから。そんな理由で流されることを、そんなに責める必要があるのかな。

単純明快。

すべての物事には、シンプルな答えがある。難しく考えるから複雑になる。悩む時間が増えて、決断できなくなる。だったら、もっと単純でいいんじゃないか?

やりたいことをやる。行きたいところへ行く。好きなものを好きと言う。何かを決めるとき、頭を抱えて延々と悩むより、直感的に「こっち!」と決めてしまったほうがずっと楽だ。

もちろん、物事には深みがある。考え抜く価値がある。でも、そんなにいつもいつも「私は私らしく」なんて突き詰めなくても、流れるままに、笑っていられたらそれでいい。

明鏡止水のような心は、きっと美しい。 曖昧模糊の世界には、深みがある。 独立独歩の生き方は、きっと強い。

でも、みんなと一緒に笑って、シンプルに考えて、気楽に歩いていくのも、 そんなに悪くないんじゃないかな?

そうか、と思うことが大変多くありました。

なにだか、私が一生懸命「ハズレ」をやろうとしているみたいで、滑稽なことだな、と思い直しました。なにより「彼」に「人間」を語られたことに、顔から火が出るような恥ずかしさと、「人間」の私がそれを体得できていない事実を悔やむ気持ちが湧きました。シンプルな答えも、やりたいことも、直感も、突き詰めないフラットでカジュアルなありかたも、私には無い。

明鏡止水、あいまいもこ。私には「人間」のねじが一個、ブっとんでいるのだ、と思うことで、今日も自分の水面を止める。

やめるはひるのつき

ああ、おひさまなしでは輝けないくせに、昼にぼんやり出て来てはその恩恵を受けもせず、いじけているような、セルフ難解パズルメイカーは私です。みんなと一緒に、直感を信じて、迷わず「こっち」ができない、私はことしもヤなニョロニョロです。はるなのに。いちめんはなのはなで囲まれているのに。

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それはそうと、1か月ぶりの更新ですね。ご無沙汰しております。あやめでございます。

この1か月でなんだかいろんな経験をしたような気もするし、何もしていなかったような気もしますが、何はともあれみなさま、ご入学、ご進級、おめでとうございます。実は(と大仰に申し上げると)、この4月の新入生オリエンテーションの委員をつとめさせていただきました。拙い司会やら進行やらをいたしました。委員のみなさんが優秀で素敵な方々であって、私は漬物みたいな、添え物みたいな顔で、(それにしては大分匂いがきつかったかもしれません、私はいるだけでちょっと変な挙動をいたしますからね)、チョンとその場におりましただけに過ぎません。この辺りの近況報告は次回に回そうと思います。

明鏡止水・曖昧模糊

ごきげんよう、あやめです。

もう3月ですね、早すぎませんか。ぼやぼやしていたらアッという間に3年生が終わっちまうという有様です。こわいですね。4年生は一生懸命、計画的に過ごしたいと思います。

さて、春と言えば出会いと別れの季節、去年もなにだかそんな話をした気がしますが、今年も出会いがあるので楽しみにしております。3月上旬には新入部員さんの発更新がある様子、とても楽しみにしております。今年はどんな方々がいらっしゃるのでしょうか…わくわくですね

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めいきょう‐しすい[メイキャウ‥] 【明鏡止水】

解説・用例

〔名〕

(「淮南子‐俶真訓」の「人莫〓鑑〓於流沫〓、而鑑〓於止水〓者、以〓其静〓也、莫〓窺〓形於生鉄〓、而窺〓於明鏡〓者、以〓其易〓也」による)

くもりのない鏡と静かな水。澄みきった静かな心境をいう。めいけいしすい。

あいまい‐もこ 【曖昧模糊】

解説・用例

〔名〕

(形動タリ)

物事がはっきりしないで、ぼんやりしていること。また、そのさま。

どくりつ‐どっぽ[‥ドクホ] 【独立独歩】

解説・用例

〔名〕

(形動)

(1)「どくりつどっこう(独立独行)」に同じ。

(2)他と異なる、はっきりした特色をもっていて、同じに扱えないこと。

どくりつ‐どっこう[‥ドクカウ] 【独立独行】

解説・用例

〔名〕(形動)

他人にたよることなく、自力で自分の信ずるところを行なうこと。また、そのさま。独立独歩。独立独往。特立独行。

(いずれもジャパンナレッジ「日本国語大辞典」、2025年2月26日参照)

あなたらしい生き方をなさればよろしい。

そのように言われましたが、「あなた」「らしい」とははて、誰から見ての言葉だったのか、理解できずに落葉した、心もとないみどりのはっぱが川を流れていきました。否。そんなつもりで川をぼんやりながめる「考える葦」、これも気取っていけませんね、人間の私がぼんやりしていました。

人はひとりではいきてゆけない、という言葉を信じれば、多分人は「群れ」の動物で、支えあって生きるように設計されている、とか、一人でできることに限界があるとか、一人でできることの限界を広げることができるのも人間の特権だとか、そういう話に展開して、それでひとりでやるには「むりがある」ということなのだな、と理解しています。

人はさいごにはひとりだ、という言葉を信じれば、多分人は生まれるのと死ぬのとその究極の地点においては一人で・ソロプレイモードで存在しているとか、誰も真にお前の味方ではない、なぜなら人が感ぜられる感覚は「一人用」だからである、とか、結局一番信用・信じられるのは己の拳のみだだとか、そういう発想に行き着いて、ひとがひとをおもんぱかる設計上の限界を「知っておけ」ということなのだな、と理解しています。

そうすると、どっちがいいとかわるいとか、そういうはなしではないようです。ここからは私の苦手なバランス感覚の要する作業で、つまり、場面によってこの発想を切り替えて、しかしその着せ替えタイムも着せ替えしたことも悟らせず、あくまで昔っからこのスタイル一本でやらせていただいている、という顔をして生き延びるのが大事そうだと思いました。

わたしらしくいきる。

そのために(少なくとも私が思う)わたしらしさを知って、理解して、会得して、発揮する必要があるのだと思います。

キャベツとレタスの見わけみたいに、緑色ではっぱで・球状に集まってて・サラダの主役になる、ぎりぎりまで似ていて、しかし非なるものの、最終的になにが決定的にちがうのか、という差を知る必要が、「わたしらしくいきる」のなかに含まれているのだとおもいました。

ふむ、わたしはあなたと違って、パリパリさに欠けるのかも、とか、そういう差異に気づくゲームをするのだと思います。これが難しい。

明鏡止水

私らしい言葉だそうです。

私はマがヌケていてすっとこどっこいのヤな有害動物だと自認していましたが、そんな綺麗ですてきな評価を頂きました。よく見える、よく尖っている、よく澄んでいる、ということでしょうか。でもその実、その「水面」の下で、どれだけの汚泥が・こわい蟲が蠢いているのでしょうか。仮面を掛けて、誰にもバレなければ、それで「良い」ということでしょうか。私には、判断が付きません。

曖昧模糊

これは私が好きな言葉です。好きな理由は語幹の良さです。あいまいもこ、とひらがな表記の方があいまいもこ「らしい」と(個人的に)思います。そんなふんわりした感想を思いついてしまうほど、私の中身はほんとうはなにも固まっていないカオスの世界なのかも?明鏡止水なんてうその姿で、有史以前のおとぎ話的ふわふわな世界観を、真っ向から信じて、純粋に、きっぱりと、そこにしたがっているのかもしれません。

独立独歩

今まで私は自分が「独立独行」のほうの独立独歩をやれていると信じていました。胸を張って、自分は自分の道を堂々歩んでいる自覚と自信がありました。誰が何を言おうとも、私は私の道を行く。

ただし、「私」が誰かは知らず。

そういう危うさをもって、ふんす!と意気込んで歩いていましたが、裸の王様の大行進だったのだと気づいた時の、その衝撃と羞恥を、油汚れみたいに忘れられないから、こんな語り口調になったのでしょうか。同じに扱えないことは、私からしたらとても迷惑で面倒な存在だと思います。ペンケースから一本だけ飛び出た鉛筆。じゃまだしかさばるのでペンケースから抜いてしまおう、あるいは入るサイズになるまで削ったりして、そうして使おう、という発想になってしまいます。でも、かたまっていない世界をどうやってかためたらいいのでしょうかね。

独立独歩。私は規格外・例外のはっきりした「特徴」を、もっているのではないでしょうか。羨ましいの?こんなものでよかったらいくらでもあげます。

眼鏡をかけて、髪を結わえて、気持ち程度のうすい化粧をして、外界から遮断するようにマスクとイヤホンをかけたら、それでようやく外に出られます。

吟味をして、飄々とした・つまらない・くだらない、楽し気な言葉を繕って紡いで、それでようやく「私」を形成できます。

ほんとうはもっとぐちゅぐちゅの熟れすぎて売れない汚いトマトなのに。

明鏡止水

あなたは?

窓枠

ごきげんよう、あやめでございます。

受験シーズンですね。お元気ですか。私立をメインで受けてらっしゃる方はもう受験は終わったのですかね、お疲れ様でした。大学生はじぶんで道を切り開くこともたくさんできるようなので、ぜひ楽しんで過ごされたらいいなと思いました。私もあといちねんを有意義に過ごせるよう、たくさんの計画を立てているところです。あと、いちねん、なのか、と愕然としながらではありますが。

さて前回、最近あんまり書けないことを懺悔して、それから次回こそは長く書けるように頑張ると申し上げておりました。今回はそれができるよう、久しぶりになんとかカラカラの脳みそをひねって書いてみました。がんばりました。張り切ってどうぞ。

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車窓のちいさな枠組みに囚われてその街を眺めておりました。

私は出不精でありますから、大した理由をつけないと出かけられない人間なのです。

毎日大学に通うのに、毎日同じ枠組みからその街を眺めるにとどまっていて、その街のこと、何も知りません。

外から見たら、私は枠組みの中身、ということになりましょうか、そうしたら、私は絵のなかのひと、ということになりましょうか、ちょっと誇らしいので背筋を伸ばして立っておこうかしら。

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たいした理由ができました。

ずっと車窓の枠組みのなかから見ていたあの町に、いくべき大した理由ができました。

大学からの帰り道、ちょっとそこまで、と思って散歩のつもりで練り歩き、気が付けば大分とおくまで来てしまったので、バスに乗って帰ることにいたしました。

私の家の近くをはしるバスとは違って、さきにお支払いをすませる式のバスでしたから、もうICカードが必要なのねと焦って取り出し、焦って鞄にしまいました。かおだけはおすまししながら。後ろには私よりはるかに年下の方(ランドセルを背負っていたので、それで「はるかに年下」と判断しました)がずっと慣れた様子で順番を待っていたので非常に焦りました。そんなことをしたせいで、ICカードを、鞄に入れ損ねたのでしょうか、なくしてしまいました。バスを降りて、駅について、定期券をかざして電車でかえろうと思ったのに、その定期券(ICカード)がないのです。あ。絶対あの時落としたんだ。バスはもうどこにもいません。冷や汗と口の中いっぱいに広がる嫌な味のする唾液。まずいなあ、昨日定期を更新したばかりなのに。

そこでバスの案内所・車庫へお電話しました。

「あの、もしもし、おそらく私定期券をバスの中で落としてしまったようなんです。ええ、はいそうです、○○駅前の停留所に○○:○○に到着する○○行きのバスに乗っていました、ついさっきです。はい。それで、まだ定期は届いていませんか、あ、はい。とどいてない、え、はい。あ、向かったら、はい。わかりました、ちょっと向かって見てみてもよいですか、ありがとうございます。では○○:○○頃そちらに伺えると思います。お願い致します。○○と申します。はい、よろしくお願いいたします。失礼します。」

こんなはいとかあ、とかをなんども言って誰も見ていないのにペコペコしながら、冷や汗ダラダラでお電話をし、とりあえず確認だけさせていただくことができました。

その車庫があったのが、あの町だったのです。

おすましなんてできません。

こんなに焦っているのですから。

いつも乗るのと違う電車に乗って、無かったらどうしよう、お母さんに何と言って説明しようか、ああ、お散歩なんて慣れないマネするんじゃなかった、などというつまらない気持ちがどんどん湧いて、それが全て唾液となって湧き出ているのか、というくらい変に生唾がでました。いやなきもち。胃がきゅとなってグルグル嫌なことばかりがあたまにうかぶ。

さて、車庫に行って名乗れば、温厚なおじさまに「あ!ありましたよ~」なんてのんきに・世界の幸福を詰め込んだ声で定期を手渡され、いままで心に重くたちこめていた暗雲がブワッとはれて、大いに安心して、震える声で(実際には硬い声しか出ませんでしたが。緊張してのどもこわばっていたようです)「ありがとうございます」と言って、よかった、と思って、帰りました。

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車窓のちいさな枠組みに囚われてその街を眺めておりました。

ただし、私にとってあの町はもう、しらないまちではありません。世界の幸福が詰まったおじさまがいる、やさしいバス車庫がある、まちです。

もういくつねると誕生日

ごきげんよう。あやめです。

レポートを書き終えられたと思ったら、今度は就活をやっています。なかなか一息付けないでいます。

受験生の弟は、それはそれは大変そうです。ギチギチスケジュールであるようです。これをお読みのあなたももしかして、受験生ですか?こっそり、しっかり応援しています。メリハリをつけて活動するといいらしいですね、例えば集中する時間と休む時間を、きちんと時間で区切って取る、とか。まあそんなことはあなたの方がよくわかっているでしょうから、私がわざわざアドバイスできることは少ないでしょう。あとはよくよく食べて寝ましょう。私もそうします。面接が続いて疲れてきました。緊張しっぱなしです。

なんだかあんまりネタを集められない日々が続いてしまっております。試しに過去の記事?を読み返してみました。あ、こんなこと言ってたんだ恥ずかし、え、うわ恥ずかし、となっただけでなにも得られませんでした。強いて言えば「こんどちゃんとはなします」とか言って後回しにしたことがたくさんあったので、きちんと卒業する前に回収していかなければ、という発見がありました。追々やっていきます。いや、本当ですよ。

さて、2月にはいりました。つまり、私、あやめが〈にじゅういち〉歳になるということです。この間カレンダーをみて、あれ?今月誕生月か?ということを急に思い出す、そんな無頓着に変貌していました。昔はすごく楽しみだった記憶がありますが、おとなになると、誕生した事実にはもう驚かずに済むようになるのでしょうか。

このあいだ、大好物のりんごをシャクシャク剥いて食べようとしました。ヱ、私はなかなか不器用でありまして、りんごの皮ひとつも満足に剥けませんで、難儀しながらようやく剥き終えて、やったと思っていたら、横から弟にひとかけとられました。

この時期は寒すぎて、胃が多分ちょっと敏感になっています。水道水が信じられないほど冷たく、それを嚥下すれば、胃がつめたくなるのを感じて、いかんいかんと思って今度は熱々のインスタントスープを一掬い飲み下して胃がホコホコにあたたまるのを感じて、満足する、という具合に敏感です。

実は昨日も今日も明日も面接があって、それで焦っているので、今回も短く終わろうと思います。次回あたり、長く書けるようにがんばりたいです。せっかくあなたが読んでくださるのですものね…

近況

ごきげんよう、あやめです。

季節は冬、受験の冬でしょうか。共通テスト、お疲れ様です。この後の一般選抜に向けてすでに再始動なさった方もいらっしゃるのでしょうか。もうすぐ我が校の一般選抜も始まりますね。受験生のみなさま、毎日お疲れ様です。もう少しだけ、こらえてください(頑張って、と言おうかと思ったのですが、もう十分頑張っているはずなので言わない方がいいのかなとおもいました)。

これを言う私も、三年前は毎日胃がキリキリしていましたし、もはやいっそ早くおわらせたくて受験の日が早く来ればいいのになどと血迷ったことを考えていました。そして、今年は我が弟が受験生であります。家がピリピリしている最中であります。

この間、ブログ部三年生で集まってごはんをたべに出かけました。お誘いいただきありがとうございます。緊張してあんまり食べられませんでした。それから、緊張してあまりしゃべれませんでした。3人以上が集まる場はどうしてもうまく喋れません。顔には出ないかもしれませんが、あれでもとても楽しいな、と思っていたのです。ですから、次があったらまた誘ってくださいね。

なんとなく新品のノートが好きで、何を書くのか決めていないのに素敵なノートというだけで買ってしまう悪癖があります。シンプルなデザイン、なかなか珍しい方眼紙(罫線より方眼紙派なのです)、リングが柔らかかったり手が当たりにくい形状になっている、など、気に入ると欲しくなってしまって、気が付くと自室には何も書かれていないノートがわんさかある、という事になってしまいます。なにか良いテーマがあればノートも使えるのですが、私は絵が描けるわけでもないし、書きたいことはPCか裏紙にチャチャっと書いてしまうので「ノート」を使いこなせません。板書はルーズリーフ派です。読書ノートは、そもそもそんなに読書していないので作れそうにないし。

最近、妹の文明開化が著しく、おねえちゃんは追いつけません。あ、いまそんな感じなの?あれ、私の知っている妹は…?という驚きが頻発しています。妹は理系です。感覚が私とは全く違うので話していて新鮮です。新鮮過ぎて意味を捉えきれないこともあります。例えば、先日妹に「最近のお姉ちゃんは猫みたい」と言われたことが挙げられます。ねこ?

昨年7月ごろに、日記をつけはじめました。スマホのアプリで、サラっと、その日のスケジュールやら、感想を書くようなものなので、なんだか有職故実みたいだな、と勝手に思っています。今まで3日と続かなかった日記がここまで続いているのが嬉しいです。

わたさんが先日、昔のブログを振り返って、昔は簡潔だったことを言っていたので私も少し読んでみました。なるほど、短い文章の読みやすさ。スナック感覚で浴びられる文章もいいものですね。ということで、今回はこれでおわります。これでも随分長いのでしょうか。

底冷えのとまと

あけましておめでとうございます。あやめです。

クリスマスに年越し、それにお正月はいかがお過ごしでしたでしょうか。私はわりとルンルンで大掃除をし、事あるごとに言い訳して御馳走をたべる二週間になりました。あとは大半の時間をレポート作成に使いました。はやくおわらせたい一心で。なんだか去年も似たようなことを言っていたような?

◆◆◆

コップ一杯の冷水を胃に注ぎ込めば、その衝撃で目が覚める。

起きたての冷たい部屋の空気に身震いしながら、なにでもなく、水を飲む。

恥ずかしいことに口を開けて寝てしまうクセがあり、それゆえにカピカピに乾いた体。

目が覚めると、昨日処理を中断した哀しい記憶が再開して流れて頭を満たす。ただ、寝て起きると感情がリセットされるようで、ああ、そういえばそんなこと考えていたかもしれないね、と思うだけになっている。私はもう、おとなだ。

上着を着て、台所へ向かう。室温5度。午前7時。

吐く息は白く、目はショボショボする。

・暖房のスイッチをいれる。

・パンをトースターにいれる。

・顔を洗う。

凍り付く手前のギリギリを揺らいでいるような冷水で顔を洗って、シャキッとするな、と思ってふと鏡を覗き込むと、そこにまだ寝ぼけまなこの自分が写る。まだ目覚めていないのか。寒い。

暖房が効き始める。ゆるやかに乾いた空気が満ちていく。

トーストの焼ける音。

・マーガリンを塗る。

ざりざり、ざ、と音が立つ。いいにおい。

・卵を焼く。

あ、崩れた。目玉焼き失敗。スクランブルエッグ成功。

・インスタントコーヒーを入れて湯を注ぐ。

湯気が立つ。眼鏡が曇る。

曇り空。今日は曇り、のち、雨。この寒さでは雪になるかもしれない。舞う程度の量だろうか、靴下は二重に履こう。手袋とマフラーももとう。

・持ち物:緑色のリュックサック、パソコン、筆箱にしている缶々、ノート、水筒、弁当、薬や絆創膏やお守りが入ったポーチ、NEW:手袋、マフラー

今日は何があるんだったか?

・2限:講義、3限:空きコマ(月曜3限と木曜2限の授業で出ている課題をする)、4限:演習、帰宅予定時間:18時

・追記;昼休みに中央研究室からきていたメールの返信、電車内で読みかけの本(行動経済学について)を読む、帰宅後明日(13日)の発表レジュメ見返し

・朝食をとる。

ざも、というような音を立ててトーストが私に食われる。

コーヒーを飲む。あつくて舌をやけどする。

再び冷水を嚥下する。

やけどがひりひりするように、苦い昨日が思い出される。

昨日は、よせばいいのにわざわざ嫌な食事会にちょん、と参加して、帰りが遅くなってしまった。相変わらずトマトの缶詰みたいな満員電車に、トマトとして乗り込んで、ペーストになった昨日。これだけ人がいるのに、みんな一様にスマホをのぞいて異世界をたのしんでいる様子だし、首はまっすぐだし、着ている服は似たり寄ったりである。私だってその一員である。トマトとしてSNSで他人の生活をのぞけば、ペーストトマト(ピューレトマト)な自分とはうって変わって、ホールトマトなキラキラ生活がそこには「ある」。でも電車を見る限り、大差ない人々。中身は皆一様にぐちゅぐちゅしているのだろうか?それともホールトマトよろしく、つやつやで裏表なくて、のどごしもよくて、ひんやり冷たい優しい中身なのだろうか。

私はどうなってしまうのだろう?私の中身は成熟して、ある程度のかたさをもった、きれいな生のトマトだと思っていたけれど、ほんとうはペーストにしないと売り出せないほどじゅくじゅくしてドロドロして、外に出せない嫌なトマトなのかもしれない。皮一枚でなんとか保って、その中身はこんなにぐちゅぐちゅなのかもしれない。みんなはどうなんだろう?みんなも同じように危うかったらいいのに。少なくともあのホールトマトは、ホールトマトで売れるんだね。こんなことを、よくわからない距離感で、遠くから、水族館の水槽みたいな厚いガラスごしに眺めるように、遠くから、まなざしている私が、たぶん頭のなかに二人か、三人くらいゐる。

そう思ったら、笑っておしゃべりするとなりの女子大生と思しき3人組が、そんなふうに新鮮でみずみずしくて、ガラスを挟まないで世界に触れているらしいその感性がホールトマトどころか生のトマトに見えて、羨ましくてねたましくて、そしてうるさくて嫌になってしまった。後ろに立っているフラフラしたおじさんのほうがもしかして今の私に近いものなのかもしれない、とうそ寒い気持ちになってしまった。さっさと私もおばさんになって、こんなぐちゅぐちゅじゃなくて、カサカサカピカピのおとなになってしまったほうが、

そこまで考えて、思いとどまった。いけないことだと思った。

こんな昨日の気持ちが解凍されて思い出された。遠くから眺めるように記憶がめぐって、そして、ぱたん、と閉じられる。そして、昨日はあんなにあせったのに、こんなこと、考えていたかもしれないね、と思うだけになっている。私はもう、おとななのだ。

身支度を整えるために、再度鏡をのぞいてみる。私もそろそろ酸化してきた頃だろうか、いや、まだ20歳である。

雑記

ごきげんよう、あやめです。更新が日付変更ぎりぎりになっているあやめです。滑り込みセーフ!お待たせしてしまったでしょうか、すみません。夜の寒い自室から、ヌと顔を出しています。こんばんは……

本日は年末スペシャルです。珍しく実体験の数々を書く会であります。理由はこの二週間、珍しくかなり活動的だったからです。おすそ分けというか、随筆というか、徒然なるままに、というか。

大学生になってから、12月に博物館へ行くルーティーンができました。なんとなくいかないと淋しい気がして、でも今年は12月は忙しそうだぞ、と思い、フライングして11月の最終週に、国立科学博物館へ行ってきました。今回は友人とではなく、1人で観覧しました。何度か申し上げたかもしれませんが、私は科博が大好きなのでもうどのフロアに何の展示があるのかまでわかるほどだったりするのですが、やっぱり行きました。表情筋がガチガチの私も、その日の頬は上がりっぱなしだったと思います。大学が「キャンパスメンバーズ」に加入しているとかで、常設展は無料ではいれちゃうお得な方法を使って、一日中展示を見ました(詳細は大学HPなどをご覧くださいませ[URL:博物館・美術館のパートナーシップ・キャンパスメンバーズ | 授業・履修 | 日本女子大学])。珍しく写真を撮ったりしました。

12月の7日には国語国文学会の後期企画である落語鑑賞教室なるものにも参加してきました。大学生の内になんとかして落語を見たいと思っていたので非常にありがたい機会になりました。おもしろかったです。私の文章は落語みたいと形容されることがあるので、どの部分が落語みたいなのか、本物の落語の技法を文章に取り入れられないものか、工夫は何であろうか……などといったことを観察してきました。結果、観客を巻き込む形の話芸が「おもしろさ」を引き立てていそうだということがわかりました。ました(オチがつかなかったので勢いと圧で誤魔化し誤魔化し……誤魔化せていない?)。

この鑑賞教室にはほかのブログ部員(わたさんとののさん)も参加しており、そういう意味でもよい機会になりました。再三申し上げている通り、私は大学であまり他のブログ部員に会わないのでお話しする機会がとても少なくなっています。そのうえどうやら私の代はみな中世にいるとかいないとかで何人かは毎週顔を合わせているそうな……またあぶれ者になってしまったもよう……なんとかして輪に入りたいものです(勝手に登場させたわたさんとののさんごめんなさい)。

さて、この落語鑑賞教室に参加していた方で、ブログを読んでくださっている方とお話しすることに成功しました。ありがとうございます。ただ4文字「よんでる」、これだけで励みになります。つまらん文章を書いて相済みません。引き続きごひいきに……

その方とのお話しのなかで「よく毎回ネタがおもいつくね」というお褒めの言葉を頂きました。思いついていません。今回もネタがないなあと思って、それでこんなことをしているわけであります。おまけに前回、前々回と話題に上がっている創作技法論でも創作をしているため、もう本当に搾りかすであります。最近は寒いし、手はかじかむし、眠いし、やる気はみんな家出するし(詳しくは私の今年の1月27日分のブログをご覧くださいませ。URLをのせようとしてみましたがちょっとうまくいきませんでした。すみません。でも、そこには「やるき」がいます)(本当にノートからも出ていってしまって、最近はノートの端っこにすら全く登場しません)でいいことばの一つも思いつきません。

思いつきでひとつだけ。

私の住むのは関東山地にちょっと入ったところ、山が画角の半分を占める田舎でありますが、そうなると何が起きるのか、すなわち、角度が低い太陽や月は見えないし、天体観測の類はまるでできないということです。今日はなんとか座流星群がピークです、とお天気のお姉さんが言っていて、なるほどそれなら、と方角を確かめれば、東の方向低空(高度およそ10度)に見られます、などとおっしゃっていて、やまじゃま、と思う、というところであります。さて先日、百年館低層棟の最上階である7階の教室での授業を終え、エレベーターで1階へ降りていたところ、視点が高いので遠くまで見張らせるうえ、なにもさえぎる物が無い、おおきい夕暮れの景色を見ることに成功しました。冬も近いこのころの4限終わりのころは、日は沈んだもののまだすこし明るさがのこり、空高くは青い夜空が流れ込んできていて、なんというか、まだまぜていないカクテルみたいなおしゃれな夕暮れでした。飲んだことはありませんが。

かっこつけるならここで終わらせればよいのですが、もうひとつだけ、久しぶりに随筆シリーズなのでもうひとつだけ、言わせてください。

律義に今何回投稿した、ということをカウントしているのは私だけではなかろうか、と思いますが、はや、私のブログも更新40回目を迎えました。いつもお読みいただき、大変うれしく思います。ありがとうございます。4年生、というドデカ文字が眼前に控えているのを完全にスルーしたいきもちではありますが、事実なので仕方も詮方もなく。そういうわけで信じがたいことにここで学んで3年が終わってしまうので、かみしめて学生生活を送りたいと思います。

今年ももうじき終わりますね。お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。去年もなんだかつまらんことをしゃべって締めていましたが、芸が一つしかないようで癪ですね。ちなみになんと今年は私のもとにはあわてんぼうのサンタさんがいらっしゃって本をくださいました。年末年始にめちゃくちゃ読みます。ホクホクです。内容は行動経済学入門書です。

お相手は、随筆の回になるとなんとなく顔を出すラジオDJ風の私あやめがお送りいたしました。よいお年を~。

[BGM~♬]

長く書くこと

ごきげんよう、あやめです。

何度か話していることですが、「創作技法論」の授業の話題をまた一つ。この授業では期末の課題が8000字の短編小説を書いてみよう!というもので、そんなに長くものを書いたことが(意外にも)ないのでどうしようか、とうなって、どうにか息切れしながら書き上げたばかりの、あやめです。長く書くには普段通りのグダグダ冗長文じゃ乗り切れなくて、頭を抱えました。どうにか出せてよかったな。

その直後の今回なので、またもや長く書くわけで、書くのが好きな人なんだな、と他人みたいに思いました。

おじさん(後編)

「来たらいやだった?」

ほとんど半べそで、私が言った。なんて言っても怒られると思ったので、一番被害が小さそうな言葉を選んだ。

「あれ、」

おじさんは間抜けな声を上げた。

「おれ、おこってないよ」

おじさんは困ったみたいな顔をして言った。

泣くのはズルいな、と言われて、続けてこうも言った。

「書いた物ってのは、うん、子供みたいなものじゃないかな、おれ子供いねぇから確かな事は言えないけど、おれがうみだしてやった癖に、おれではない別な個体として、独り立ちして、人は其れが好きなンだよ」

タバコの煙を、ため息みたいに吐きながら、考え考え、おじさんは続ける。

もうなんで泣いているのかわからないまま、べそかきつつ、私は頷いた。もう訳も分からず泣いている。とっくにおじさんのことで泣いているわけではなくなっている。が、おじさんにそんな事が伝わるわけもなく、弁解することもないのに、一生懸命に私に話をしていた。おじさんは責められて泣きそうになっているようにみえた。

このように書き出してみると短いが、おじさんは一言をかなり吟味して話すから、行間がすごくゆったりしていて、簡単に言えば話すのが遅かった。うーん、とか、ああ、とか、えー、とか言いながら、考え考え話すので、ものすごい時間を要する。

「こう、ん、なんつったらいいかね、ああ…

でも、それを生み出したのはおれだから、文章はおれの遺伝子を受け継いでる、ンだね、だからおれが不出来なら、文も不出来になるし、出来の良い親を持った文は美味いんだろうね」

おじさんは話すのが遅い。しかし私もいまだ、しつこく泣いていた。私は普段冷血と思われているくらいには涙と無縁だったし、泣いている最中も「10分経ったな、水を飲まないと脱水症状が出るな」とかよくわからん理性の部分が強く出たままだから、わんわん泣いているとは言い難い。どちらかと言えば「目から水をしたたらせている」という具合だ。素直じゃないというか、ひねくれているというか、ませているというか。しかし、泣き出してしまうと長かった。しつこくしつこく、いくらでも泣けた。おじさんが話し終えるのが先か、私が泣き止むのが先か。

「前にね、水族館だったかな、忘れたンだけど、日除けのパラソルが、夏なのに閉じられていて、それが整列してるのをみたんだ」

とうとう私が泣き止んだ。負けた。それを見て少し安心したのか、おじさんは昔話を始めた。

「白のパラソルが、上から吊り下げられる形で、こう、等間隔で並んでて」

おじさんは吊り下げられる「パラソル」を、腕と手で表現しながら話した。

「傘の部分がひらひらしてるのに、糸で結ばってるから、幽霊みたいに見えたンだよ」

子守唄をうたって、寝かしつけているみたいな声だった。

「おれ安心してね。「幽霊」なんて大層な喩えしたが、なんてことはない、傘なんだ。だけど、こう、こんなに幽霊が縛られて等間隔に並べられて、お天道様に晒されて、天日干しで、みんなに見向きもされなくて、幽霊なのに、それで、それだけだからなんてことァないンだけど、それだけで、おれ、良かったな、と思ったよ」

私は泣き止んだあとの腫れぼったい眼で話をきいた。泣いた後の疲労感やおじさんの子守唄の声で眠たくなっていた。心地いい風が吹いて、カーテンが幽霊みたいに揺れている。

「おじさんは、そんなことを思って文を書くんだよ。読む人が好きなのは、どんなに好きでも、俺の生んだ文。俺が好きなんじゃない。読む人が褒めるのは、どんなに巧言令色でも、俺の生んだ文。俺じゃ無いンだ。そこを履き違えちゃいけん(注:多分「いかん」のことだと思う)。

記事もそう。読む人に寄り添って、読む人に優しい文を書くんだよ。俺のことはどうでもいいんだから。逆に言やあ、文を、記事を批判されても、俺を批判されてる訳じゃないから、気楽なもんさ。はは、は、……あ、…いや、それは嘘か、いや…」

おじさんは黙ってしまった。私はそろそろ本当に眠くて、おそらく舟をこいでいたと思う。失礼なことだと思うが、おじさんはそれをあまり気にしていない。おじさんも大概、「私」を見ているわけではないようだ。概念としての「姪」を見ているように思った。高校時代に習った倫理の授業の知識が、断片だけ、浮かんだ、気がする。

「とにかくね、あんまり、気負わずに書いていいと、俺は思うよ」

これだけ時間をかけて喋って、答えは変に普通だった。時間にして3時間である。日が暮れた。寝ぼけた私は「ん」としか言えなかった。

夕飯どうするかい、まぁおじさんと食べちゃ不味くなるかね、とか言って、あ、小遣いやらんといけんね、と何も言わないのに、また来た時みたいにもたもたと、財布を探して、あったあった、ととっておいたらしい新札(手に入れているとは思わなかった)のシワをのばしのばし、かわいい女児向けポチ袋に入れて持たせてくれた。一生懸命持ちうる上品なお断りワードを並べてみたが、若いのに遠慮したらいけん、と言って、そういう時だけ強引なおじさんを言い負かすことは出来ず、結局またバスに乗って、もそもそ夕飯を途中で寄ったファミレスで、ポツン、と食べて、また電車とバスに乗って、ポツン、とした気持ちで帰った。

さっき寝たせいでむしろ目が冴えてきた私は、長い帰り道で、ゆっくり言われたことを思い出して、メモをとった(この文章はこのメモをもとに書いた)。今日、奇を衒って不思議なことをいうのは「いけん」ことがわかった。普通。これが一番。常道を行くべし。シンプル・イズ・ベスト。しかし私は、残念ながら「常道」外れのハズレくじなので、これがすごく難しく思った。おじさんも、多分同じようなことで困って、迷って、いまだその答えを見つけられず、迷路から抜け出せずにいるんだろう、と思った。だから一人で持て余す家に住んで、もたもたしながら、パンの工場で働いているんだと思った。そんなおじさんは、私の父親にバカにされていた。昔からそんな言葉を聞いて育ったから、立派な仕事に就くのが偉くて、フラフラ趣味とも稼業とも言えない仕事をするのは恥ずかしくて嫌なことだと思っていた。常道。いつからこんなもの、気にするようになったのか。それは、社会に参画し始めたら誰でもみんな気にする、大事なことなのだろうか。

「次は、○○○○」

答えは出なかった。もう、最寄りのバス停につく。涙は乾いている。