楽屋紹介

こんばんは、あやめでございます。

今回は楽屋事情を夜らしく、コッソリお話しする回にしたいと思います。言い換えれば、「やりたいことは思い浮かんだけれども、締切に間に合わなかったんです」という言い訳の会であります。お付き合いください。

前回、小さい私と大きい私(佐伯と佐伯‘)によるラジオごっこをやってみて、たのしいなと思った私は、引き続きラジオごっこを考案しました。もう、10月31日のおばけの大祭は終わったのに、妙にポップでユニークな、哲学もどきを片手に珈琲嗜むマヌケおばけを語り手としたおばけラジオ、その名も「裏飯屋らじお」をはじめてみたく思ったり、小さい私と大きい私(今度は「佐伯」じゃない名前にしようと思います)による、前回みたいなほんわか会話劇ではなく、ペルソナをかけたバチバチのアイデンティティ争奪戦みたいなのを書いてみたいなと思ったりしました。これなら会話文生成が苦手な私でも書けるんじゃないかな!という期待を胸に。特に「裏飯屋らじお」はかなりあったまっていて、もうどんな工夫を凝らしたら、何度も読みたくなるんだろうかな、みたいな構成の案もバッチリあるのです。思わず「そういうことだったならもう一回頭から読み直さないとなぁ…」となる工夫。あんまりミステリーみたいなことはできないですけれど、なんちゃってでそれっぽくできないかな、などと案をもみもみねりねりしております。

おばけのイメージもあります。死因は溺死の、夏にうまれた(死んだ?)おばけです。ジャズで小躍りして、珈琲が好きで、きれい好きで、生前の体と記憶を文字通り?引きずって生きて…いない、死んでいる、おばけです。私の得意な「メタフィクション」の部分を活かして、曖昧な部分をザクザクかきたい。でも、そんな大層なことはできずに、ぐぬぬとなっています。ホテルのシーツみたいにまっさらな布片をすっぽりかぶった、足が生えたへんてこおばけ。こんなイメージをもって、長すぎる私の通学時間(往復3時間)でちみちみ草稿を書いていたら、まとまりのない掌編がわんさかうまれてしまい、編集作業が必要となりました。もうちょっと時間をかけて書いてみます。

今回は、導入編ということで、ボツにしようとしている(もしかしたら良いのが思いつかなくて、次回全くおなじ部分が登場するかもしれませんが…)頭の部分を掲載してみようと思います。

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こんばんは、ごきげんよう、神出鬼没。おばけは夜に出るものという先入観を破壊するわたくし、おばけであります。通勤ラッシュの地下鉄のなかからお届けいたします、午後六時、外気温14度、冷たい雨の大都会、東京の昼明けの時間です。人間の方向けに註釈。昼明けとは、「夜明け」のおばけバージョンです。長くてまぶしい昼が、漸く、終息しようとしております、その淡いの時間を喜ぶ気持ちと、人間プレス機に押しつぶされて、はやく実体を手放したい気持ちに、板挟みされる、アンビバレントでセンチメンタルな夜ですね。コーヒー片手に片手間でお聞きの親愛なる皆様に、恨み言を申し上げましょう、うらめしや。今晩の夢に化けて出てやりましょうね。Boo~

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「空」という字を見て、「青々と頭上に広がったそら」より先に「からっぽ」というイメージが先に立ちます。きっとそれは、私が下ばっかりみてとぼとぼ歩くからでしょう。空を見慣れていないかわいそうなおばけの私でございます。ごきげんよう。

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まよなかに目が覚めて、トイレに行きたくて部屋をこっそり抜け出した時、しょぼしょぼしてまだよくわからない脳みそでも感知できる寒さと、我が家なのに知らない匂いがふとかおってきて、はやく布団に戻りたくなりました。こんなに静かで、家族が寝ているはずのドアの向こうに、果たして本当に家族はいるのかしら。そこまで明瞭じゃないにしても、そんなようなことをぼんやり思って、それよりもっとはっきり寒いと思って、急いで布団に潜りました。努めて、もこもこの毛布の部分が肌に触れるようにして被って、地震が来た時にするみたいに丸くなって、もこもこして早く眠りにつくよう目をギュッと瞑り直しました。こんな晩は、決まってピッタリ1時間、眠れません。

シンとして、重たく冷たくなった空気が、耳の部分を冷やしていきます。鼻頭が冷たくなって、瞼が今にもまなこを冷気に晒しそうになります。なんとなく頭がいたくなってきて、指先が凍るほど冷たくて、はやくあったかくなるよう、もこもこの部分を体に巻き付けてみました。なかなかあたたまりません。かといって、わざわざ階下におりて布団乾燥機をとってくるのも、湯を沸かして湯たんぽをつくるのも、なんとなく億劫で、なにより寒いから動きたくなくなりました。この頃になると冷気で頭も冴えてきて、寝起きのしょぼしょぼも、もやもやも、なくなっていました。秒針の音が嫌だから、部屋にはデジタル時計しか置いていないのに、カチカチ、急かされる嫌な音がするようでした。

こうなったらもう、眠れないと観念して、枕元に置いておいた水のペットボトルを掴んで飲み下し、もこもこする上着を攫うように掴んで着込み、布団の端に追いやられたクッションを抱き寄せ、座ってみることにしました。カチカチ、はやっぱり空耳であったようで、今はもう、重たいくらいの沈黙が耳を塞いでいました。鼻から吸って、口から吐く深呼吸をすれば、頭の空洞の行き止まりのところまで、夜の深くて冷たい空気が満ちてきて、目尻から空気が抜けていくような気がして、何度か試してみました。実際にはもちろん、横隔膜のおかげで肺が膨らんで、縮むだけでしたが。

何もせず、何も考えず、ぼんやりできるのは、こんな夜だけです。オレンジ色の常夜灯がなんとなくノイズに感じて、ビビりのくせに電気を完全に消してみました。こんなタイミングで緊急地震速報が鳴ったりしたら、飛び上がる自信がある。チラッとそんなことを考えたら本当に鳴り出す気がしてスマホを伏せてみました。イヤになって、また布団に潜りました。

脈絡のない単語の羅列を聞くと、人は眠気を引き起こすことができるそうです。試しにやってみましょうか。水道水、餅巾着、アリゲーターガー、虎ノ門、最大瞬間風速、夜行列車、ハビタブルゾーン、手すり、コピー用紙、コッペパン、虫取り網、ポリエチレンテレフタラート、花道、ポケベル、一面広告、ソリティア、コンクリートミキサー車、野球帽、サインポール、イヤホンジャック、ミシシッピアカミミガメ、消しカス、たこ焼き。眠れません。むしろこれらになんとか脈絡をつけようと頑張ってしまうマヌケな脳みそがあります。眠るためにやっているのに。

もっと突飛な事を考えることにします。オレンジジュースの皮を破らないようにして飲む方法を考えるとか。夜の帳が何色をした何の生地でできたものなのかを考えるとか。何センチ進めば「進捗」といえるのかとか。「敦盛」が教えてくれる通り「人間五十年」なのかとか。生産終了する蛍光灯の代わりに設置する光源をなににするかとか。おっと、まともなことを考えそうになってしまった。満員電車で林立する足々が示すのは何の指標かとか。スマホを持つのは右手と左手、どちらがいいのかとか。むむ、少し照準がぼんやりしてきた。いいぞ。電車の扉の2つの窓が対なのは何故かとか。私はなぜ羊を数えないのかとか。億千万は末尾にゼロが何桁続くものなのかとか。明日の朝食はなににするかとか。よしよし、突飛さがおちてきた気がする。靴下だけでいるときも果たしてその履き物は「靴下」なのかとか。コルクはなぜコルクであって「クリケ」ではないのかとか。何故朝にならないのかとか。

そこで目が覚めた。何という悪夢だろうか。

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おまけ。蛇足。生まれた草稿にあわせて浮かんできたおばけのイメージ図を描出してみました。みなさんとイメージを共有する目的でかきましたが、絵はへたっぴなのでこう、勘弁してくださいね。

夜更かしする人間に比べて、圧倒的に早寝をするおばけになってみたいです。おやすみなさい。

天高く馬肥ゆる、秋雨前線

ごきげんよう、あやめでございます。

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おや、秋の足音がするようですね。昨晩はもこもこの布団を引っ張り出して掛けました。おとといは金木犀の香りが脳髄を満たすほど濃厚に香っていたのに、今朝にはもうオレンジの星の形をした花が洛星しておりました。冷え性の私は足先がツンと冷えて痛いほど。曇り空続きでカーディガンでは寒くて足早になってしまう、かと思えば天高く馬肥える、秋ですね。本日は筆が乗ったのでこの調子でお届けいたしましょう、秋が好きで、生まれは真冬、名前は五月晴れを連想させるごきげんの私、失礼、ごきげんを「とっている最中」の、あやめでございます。

どういうことか。簡単です。卒業論文執筆が進まなくて焦る気持ちと裏腹に、進まない筆のコントラストがキツいのであります。まばゆいばかりに光る締切日の目印と、私の、どんより進まない筆。モノトーンコーデであります。

そう言った具合に腹に一物、と言ってよいのだろうか、この気持ちも利用してやらんという貧乏根性を携え、無い袖を振ってとっておきの芸をして御覧に入れましょう。芸は、身を助くのです。

この軽くてよく回る口でべちゃくちゃ言っているうちは、三味線とセッションする落語くらいコミカルでテンポよく飄々と語り得るワケであります。これまでにないほど高速でタイピングする私の指先。きっとこういう文章を書く人間の出現頻度は低い、珍しい個体なンだ!という自意識を以て、そしてそれをぎりぎりの自己肯定感に変換して語ってまいりましょう。ラジオ好きはおられますか。私の軽口はラジオのワンコーナー。ラジオCMの茶番劇みたいなのが大好きであります。どうでもよいですな。

こんな具合の、私の遠近両用レンズ用いて、いま流行りの、「私なりの方法」とやらで世界を切り取ってきて、パッチワークしてつくった作品もどきをご覧に入れているわけであります。ほら、バルーンアートの実演販売みたいなイメージです。こんな無駄話していたら一本、できあがり、みたいな、ね?

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マ、この要領で普段は一人語りをたのしんでおります私ですが、本日はもう一人を設置してお話ししてみましょうか。私が実況なら、もう一人には解説をしていただきましょうか、そうなったら、実況は私、佐伯が、お相手はこの方、幼少期のちいさな私、佐伯‘(ダッシュ)とでもしましょうか?いやわかりにくい?記述式なのを良いことに、なんとか記述上の工夫を凝らしてみましょうか、なにはともあれ佐伯さん、よろしくお願いいたします。

幼少期私(以下、小):ハイ。よろしくお願いいたします。

現在私(以下、大):便宜上、私はあなたのことを「佐伯さん」とお呼びいたしますが、あなたもまた私のことを「佐伯さん」で大丈夫です。記述式なので混濁はありませんでしょう。おそらく。

小:ハハ、そうですか。承知しました。

大:さて佐伯さん。季節はすっかり秋ですね。今年の夏も「酷暑」が猛威を振るった非常オに熱い夏になりましたが。

小:いやア暑かった。私なぞは近所の川に散歩がてら行って、そのまま浮き輪で浮く、を週に5回はしましたよ。

大:オ、いいですね。なんとも涼やか。

小:イヤ、それがですね、川では苦い思いを散々いたしまして。来年からはいかないかもしれません。

大:おや。それはまた何が?

小:お忘れですか?「佐伯さん」。ふふ、これ面白いですね。あなたも私なのに。ヱ、近所の川は、無論、近所の子供らが集まりますから、なんとなくみんなで川遊び、ということになるんですが、しばらくすると普通に潜水したり水泳するのに飽きるのですね。あるいは友人がそばにいるのでちょっとだけ気が大きくなるのでしょうか。それで大きな岩の上から飛込んだりだとか、川岸にある草むらに上がって虫取りするとか、そういうトリッキーな遊びが続くンですな。私みたいなのはビビりでありますから、飛込んだりは怖いしイヤだったのですが、友人がどうしてもやるんだと言って、それに巻き込まれてしまいまして、飛込んだはいいんですけれど。

大:いいけれど?

小:友人や、その遊びを開発した別な子は、飛び込み慣れているようでしたが、私に限っては飛込んだ経験なんてありませんで、今回きまぐれで参加した初心者だったもんでしたから、着水の際に体のあちこちをこう、べちんと打ったんですね。痛いのでもうやりません。そしてどうあがいてもまきこまれるので、もう川にもいきません。

大:成程。あの頃の記憶が鮮明に浮かび上がってまいりました。この頃からすでに水辺であがる黄色い声に対する耐性みたいなものがまるでなかったことが明らかになりますね。

小:それに比べて秋っていうのは好きですね。

大:おや。佐伯さんは運動は苦手ではありませんでしたか。てっきり私、運動会があるので秋はイヤとおっしゃるかと。

小:良い着眼点です。もちろんそれには同意できますが、運動会っていうのは家族総出で観戦に来るものですから、豪勢お弁当が振舞われるのです。ござに座って祖父母と共に、大量の唐揚げをほお張るのが素晴らしいため、運動会は好きです。練習や準備でちょっと騒がしくなるのも、非日常体験ができるようで実は嫌いではありません。徒競走は無論ビリですが。

大:ハハハ、懐かしいですね。おや、そろそろお時間がやってくるようです。

小:佐伯さん。こんなところで足踏みしていないで、執筆、してください。

大:これは手痛い。敗因はどこにあると見えますか。

小:完璧主義でしょう。クオリティよりなにより、形にすることが先決でありますが、この調子だとまあ…よくて40mでしょうか。

大:思い出したように「解説」の役割を果たしてくださる佐伯さんでありました。ありがとうございます。ながれる穏やかな秋風と季節に抗してまいります。ここまで解説は佐伯さん、実況は私佐伯で参りました。ありがとうございました。

小:ありがとうございました。

メタ思考

ごきげんよう、あやめでございます。

前回は大変きたない断末魔を聞きつけて、いろんなブログ部員のみなさまが後を引き継いでくださったこと、嬉しかったです。御礼申し上げます。ありがとうございました。つまらない先輩風もいいよって言って貰えて、にんまりしました。

秋の足音がして参りました。山間部の我が家では朝晩が冷え、もう長袖のパジャマじゃないと寒いし、掛ふとんもモコモコのものを押し入れから引っ張り出しました。ヒガンバナも色づいて、ハイキング客がバスを埋め尽くす季節になりました。季節の変わり目は大体不調を引き起こします私は先週、例に漏れず、花粉症?風邪?をこじらせてしまい、一週間ずっとゴホゴホ言っていたので喉が痛いです。内定式もありましたが、薬を飲んだり気合を入れたりしてなんとか乗り切れました。気を引き締めて参ります。

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私の隣に、まだ、人生というキャンディを口の中で転がして味わえている、子供の頃の私の顔をした悪魔、もといおばけが佇んで、悪口をいうので、そのさまを少しお伝えしたく思います。

脳みその隅でチラと、つかれたな、と思ったときの返事が以下のようなものです。

「ハ、笑わせる。大体ね、あなた感覚器官が鈍いンです。ありふれた毎日?これだけちがう毎日なのに?全く同様の条件が揃った同様の日なんてないンだから、新しい刺激が必ずどこかにおちている。それをきちんと拾い集めてたのしめるか。ここに鋭敏さが現れるはずでしょう。この鋭敏さを言い換えるならそれは教養だし、賢さでしょう。それを大声で「毎日がつまらない」なんて豪語して、一体どういうつもりなのサ。みずから「あたくしは自分の手でおもしろいことをみつけられないマヌケ個体であります」というようなものじゃないの。それでいいの?ふうん、最近の流行りの趣味嗜好はわかりませんネ。マァこんなに複雑で繊細なお味は味わいつくせないのね。わかりきったパキパキのこってりハンバーガーでも食べていればよろしいのでは?」

このざまです。チラと一言、つかれたな、で、この量。あまりにひどいので時々、脳内のノイズキャンセリングをしたいなと思います。

彼女との応酬をもう少し詳しくお教えしましょう。

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ここで光っているのは、電光掲示板だけである。

持病の薬がなくなるので通院にきた。田舎の総合病院には大抵お年寄りと、それに対応するのに慣れきった魚の目をした声の大きい看護師しかいない。そのなかで目立ちに目立っている若輩者で体のうすぺらい、釣り目の私は身分を持て余して、それから待ち時間を持て余して、ちょん、と椅子に座っている。

その隣に、同じ顔を15歳若くした子供の私が、やはりちょん、と座っているように見える。しかし、私よりは病院の長椅子に座り慣れているようにも見える。思い切って声を掛けた。

「慣れたもんだね」

隣におすまし顔で座っている小さな私は、病院を自分の家かの如くに使いこなして落ち着いている。

「ほぼ毎週来るんだもん。そりゃ慣れます」

「毎週?」返事が来たことに驚きつつ、こう返してみる。

「風邪ひくの、毎週毎週、1週間かけて治して、ようやく治って、嬉しくて遊んで、疲れて、風邪ひくの。だからまたすぐ病院」

「成程。それじゃよく慣れているね」

「小児科は混むのよ、子供っているものはよく騒ぐし場合によっては暴れるし、そうやって1人にかかる時間も長いのね。でもここの院長先生が〈すごうで〉だからみんなここにくるの」

「…誰の受け売り?」すごうで、がひらがな表記に聞こえたから誰かの受け売りなのかと思った。

「オリジナル」

おや、驚いた。賢い子、なのかもしれない。悪魔とかおばけの類はなべて賢いもの、ときいたことがある。皮肉を言ってやれ、と思った。

「学校で浮いてない?」

「ここよりはマシ」

なかなかクセのある小癪な娘である。良い子ちゃんな私とは大した違いである。

「小学校は、たのしい?」

「楽しいよ。時間割が一日まるまる全部算数とか理科とかになってくれればなおよい。ただそこに居る人間はあまねく嫌い。無知は時に罪、ってよくいうよね。そんなの、」

そこで少女は口をつぐむ。その先は無粋だと判断したらしい。

「そんなこと言ったらまたせんせいに怒られるね」私は、ごく小さな子供をなだめる定型文をなぞった。

「他人軸?あなたそんなことばっかり気にして、あなたの意見はないの?そんなんでたのしいの?」

子供の声で、自分の声で、おばけは自分を否定する。パラドックス。なかなかパンチのある小娘である。

「…楽しい楽しくないではなくて、そういう眼差しの角度があるっていうだけ」

そりゃ、あなたほど真っ直ぐならたのしいでしょうよ、と声に出さずに目だけで訴える。その意はまっすぐ違わずに伝わったらしい。

「傍で羨んで足踏みしていないで、やってみればいいでしょ、後先なんてどうとでもなるんだから、靴だって服だって顔だって経験だって、求めれば与えられるってどっかの神様は言ってるよ」

おばけは少し焦ったように言葉を連ねた。

「小癪ね」

「あなたよりはマシ」

小さな私は語気を強めていった。

外界は晴れ。窓から刺す日光に目が眩む。待合室は清潔な香りがして、経年劣化の薄汚れた・座面の破れた椅子が狭そうにしていた。おばあさんが全身痛そうな苦悶が刻まれたの如くのシワをさすって、春も盛りで気温は23度近くあるのに、厚手の上着を着て座っている。

「あの看護師さん、太ってるね。食べることしか楽しみがないんだね、目なんて魚みたい。こんなに味わう余地がある人生なのに、その味を見つけられないんだ。魚眼レンズの魚の目だもん。つまんなさそうだね」

悪魔は私から標的を変えてそういった。

「…そんなこと、外からじゃ判断がつかないでしょ」

「あの顔だよ?顧客はあんな理論の通じないブラックボックスなのに、なんで楽しく仕事ができると思うの?」

「それは倫理的でない発言だから私は同意しない」

「でもそうでしょ?誰だって誰かを嫌って生きてるよ?」

「そうであることと、それを外に発していいこととは違う」

「でも言わないとこっちも病むよ?現にこんなところに来てるんじゃん」

「…通院理由については、私の元来の特徴によるから、誰のせいでもないの」

「嘘だね。毎晩無駄に泣いてる癖に。こんな脳みそで生まれなければよかった〜はやく人間になりたい〜みんながうらやましい〜って弱々しくさめざめ泣いてる癖に!みんながうらやむ高性能の脳みそ有してる癖に!やーい!ただの人間のくせに!たいしたことないくせに!!」

「こっちはどんな気で狂人やってると思ってンだ」

流石にカチンときた私は、怒鳴り散らかしておよそ大人気ない態度をとってやろうと思って煮詰めた嫌な言葉を吐きたかった、が、低くて地面を這う様な低音で、小さく一言、自信なさげに自嘲的にしか言えなかった。急激な機嫌の悪化に、喉はついていかなかった、ということになるのかもしれない。

天気は依然として晴れ、雲行きが怪しくなったり、まさか雷雨になどなっていない。この騒動を聞きつけて看護師さんが駆け寄ってくることもない。全ては脳内の、電気信号のなすわざである。隣は空席である。しかしながら気持ちだけは昂って、イライラして看護師さんに当たり散らしている、あそこの、廊下の突き当たりで揉めているお爺さんの声がハウリングしているようである。そんな自分の様子を、「この「噴火」の仕方なら、私は肌が白いのかな…ということは彼女は黒い肌かな…もう少し怒りの粘度を下げて…安山岩を多めにしたいな…富士山を目指そう…」などとふざけたことを織り交ぜながら観察するお茶目な私も存在するのだが、小さな私にはおそらく、かなりシリアスに、大真面目にブチギレている私しか見えないだろう。

少女は多少面食らった様である。まさか言い返すとは思わなかった、という顔色で、こちらの出方を伺って顔色を見定めている。

「ゴトウさん、2番の診察室へどうぞ」

私の番だ。小さな私は萎縮したのか、なんなのか、どこかへスタコラ逃げてしまった。これではせんせいに実態をお見せできない。今日も表向きの私をお伝えするにとどまるのだろうか。深層も真相も、表現できないことを、曖昧に悩みながら。

読書遍歴?

ごきげんよう、あやめでございます。

夏休みが、あっという間に過ぎていきました。夏休みはとても足がはやいのですね。全速力でした。

今年の夏休みは、私にしてはマア楽しめたのではないかと思われますが、根が出不精でありますから、高は知れております。ただ、

①自動車学校に通い始める②大阪・関西万博に行く③科博に行く④内定者懇親会に行く⑤家族旅行に行く⑥早起きが(ほんの少しだけ)できるようになる⑦夏バテになる⑧熱中症になる

をしたので、バリエーションは豊かと思われます。たのしいなつやすみでした。

万博は、暑いうえ人が多く、さらには新幹線酔いをしてしまったため、終始力ない、へなへなの声しか出ない人になっていました。

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本日はブログ部員同士のおしゃべり会が、zoom開催でありました。

そこで私が「今日更新分のブログのネタがおもいつかない…」などと申したところ、今日のおしゃべり会でのことを書けばいい、というお声をいただいたので、そのようにしようと思います。

最上級生のくせに誰よりもきょどきょどしたぎょろ目で参加させていただいた、本日のおしゃべり会でありました。私にはやっぱり3人以上の会合は緊張するものらしいですが、学びが多く、また参加したいとも思いました。たくさん発言をする人、ちょうどいい塩梅のぴりっとした気の利いたフォローをする人、話を盛り上げる人、刺激を与える人、といったように、私以外はみんな「会話上の役割」を担っているようにみえて、「ァ」という気持ちになりました。私もえいやと就活のはなしをしてみたりしましたが、とってつけたような「先輩風」みたいでいやでした。

マアつまらない私の感想はさておき、おしゃべり会で「あやめさんはどんな御本を読みますか」というご質問をいただき、美容系YouTuberみたいに紹介したけれど見えにくかっただろうなと思って、改めて私の読む本、もといのうみそを流出させてみようかと思います。私の読む本は日本文学科らしさはあまりなく、フィクションですらないのですが、私が書いたことをみなさんが後々ブログで拾ってくれる…らしいことをおっしゃってくださったため、その言葉を信じて書き進めて参ります。

私の「語り」が多くなってしまって、つまらないのではないかとおびえながら、どうにか面白くなるように努めて、参ります。

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私が読む本は「考える筋力になりそうなもの」だと思われます。プロテインでしょうか。勿論フィクション作品だって、「考える筋力」のとても良い養分になりますが、私は一度「筋トレ」の方法を知ってみたいと思っているらしく、フォームを知るために「考えの枠」ごと習得できるようなものを選んで読む傾向にありそうです。一生懸命人に紹介するべく、ああでもないこうでもないと自室の本棚をひっくり返してそんなことを思いました。

本及びそれについての私の反応をご紹介をするつもりですが、内容を言うのは「ネタばれ」だと思いますし、上手な紹介はもう誰かがしているンじゃないかな…という具合に私がへっぴり腰なので、ごく簡単にするに留めておきます。よかったら…読んでみてくださいね……

思考法系

最も「筋トレフォームを学び取れる」分野であると思います。具体的には直近1年で以下のような数冊を読みました。読破できていないものもあるので「カッコづけ」ですが。

「頭のいい人が話す前に考えていること」著:安達裕哉(ダイヤモンド社)

「あたまのいいひと」になれるのかも!などと思って読みました。話す前に考えることを知っておけば、面接とか、今後お話しする直前に「ア」と思い出せればいいなと思って手に取ったのです。こうやっておススメすると「あたくしは頭が良いのです」とアピールしているみたいでいやですが。

読み終えて、話し方や話すことに関する思考法以外のおおきなことを学び取れたため、やはり「考え筋力を鍛えるトレーニングのフォーム」を学べたように思えました。そもそも「考える」とは何か、「話す場」で何が起きているのか、そのうえでじゃあどうしたらよいのだろうか、ということを学べました。

「仕事のできる人がやっている減らす習慣」著:中村一也(フォレスト出版)

仕事もやったことがないのにこんな本、と思われるのでしょうか。私はシンプルに荷物が多く、また悪い意味で考え事が多い人物なので、「手放して減らす」ということを目指して読みました。来春には引っ越しをする予定なので、その際に効果が表れているといいなと思います。

「ムダをへらす」ということや「仕事ができる」ということ、「バランスをとる」ということを学べたように思います。

「人生は「気分」が10割――最高の一日が一生続く106の習慣」著:キム・ダスル、訳:岡崎暢子(ダイヤモンド社)

お察しの通り、私はじめじめ高湿ネガティブおばけなため、「気分が10割」だとしたら大変困るのですが、しかしそれを否定できず「タシカニ…」とぐぬぬの顔になったので、読むことにしました。どんなふうにして自分のご機嫌を取るものなのか、学びたいと思います。読破できておりません。

私が一人でゐたら思いつかないだろう発想が並んでいたため、刺激的だなと思っております。視点の角度を改めてくれる一冊だと思いました。

知識系

考え方というより、考える材料としての「知識」を仕入れるために読んだものです。好みがバレてしまうため、本当に恥ずかしいです。

「本当の自由を手に入れる お金の大学」著:両@リベ大学長(朝日新聞出版)

お金の亡者でありますから、私は昔から「おかね」関係の知識は大好物のおばけでやらせていただいております。それに伴ってつけておきたいおかねの知識。生きて行くのに絶対に必要な知識だと信じて読みました。「本当の自由」なんて書かれたら読んでしまいます。

カラー印刷、イラスト多めで書かれておりますから、吸収するのがやりやすかったです。著者の方はYouTubeチャンネルを開設されているらしいので併せて学べておもしろかったです。

「行動経済学が最強の学問である」著:相良奈美香(SBクリエイティブ株式会社)

以前のブログでもちょっと触れたように思います。「最強の学問」と言われては興味が引かれてしまいます。分厚かったので読み切るのに苦労するかと思われましたが、知らないことづくしで楽しく、すぐ読み終えてしまいました。変わり者の自分について、私を取り巻く「他人」の皆様について、新しい角度から見てみたくて手に取りました。考え方のクセについて、それをどう「活かすのか」について学べました。

「あなたを疲れから救う 休養学」著:片野秀樹(東洋経済新報社)

2年生のころにブログで触れた気がしますが、私は休み方もへたくそでありますし、特に「眠る」ことがへたくそであります。上手にやすむということは私にとって悲願であります。ただ、そのやりかたや作法を知らないな、「休養学」というのがあるなら知ってみたいなと思って読みました。読み終えて、「休養学」の奥深さ、重要さに気が付き、知識を活かせるよう自分で実験してやろうという発想で居ります。実験が成功するように頑張ります。

番外:昔よんでいた本

フィクションとか、一年以内ではないけれどこんなもの読んだこともある部門として設けました。これに限らずいろいろ読んだはずですが、あまり思い出せませんでした。

「少年と犬」著:馳星周(株式会社文藝春秋)

映画化したらしいですね。管見すぎて存じませんでした。私は2020年の直木賞受賞時に本屋で見つけ、(珍しく)手に取って気まぐれに読んでみて、面白すぎて一晩で読み切りました。手に取って、けちんぼの私が一冊を大事に買って、買いながら、あんまり「流行最先端」みたいなものにはビビッて手が出せないタイプなので、我ながらちょっとミーハーみたいだなと思いつつ、でもしかし本屋に3回通ってまだ気になるんだからぜったいに読むんだぞと思いました。一晩で読んで、ミーハーとかの自意識の気持ちは忘れていました。なるほど、事象をこんなふうに書くことができるんだな、という学びの多い面白い作でした。犬がどうなってしまうのか、追いかけたくて読み切ったともいえると思います。

読んだ頃はど真ん中不登校時代なのでとても活字が読めない時期でしたがこれだけは読めました。そういう意味でも私に影響を与えた作だと思って挙げてみました。それにあまりに「フィクション」がなかったので…

「なぜ、地形と地理がわかると幕末史がこんなに面白くなるのか」監修:大石学(株式会社洋泉社)

中学生時代、なんだか幕末…新選組…のあたりに凝っていた時期がありました。情報を集めたくてしょうがなくて、一生懸命関係ありそうな本を集めていたものです。ついには修学旅行で京都に行き、新選組のゆかりの地へ、何も知らない班員を強引に引き連れて回りまくって、ガイドさんのありがたいお話しを、「全部知ってた」とかスカしたつまらないことを言うに至っております。こういう、粋がっていた最悪の記憶があります。

さて、その時代に読んだ一冊です。当時幕末史を「かっこいい先人が大活躍した」みたいな、アバウトでヒーロー譚と勘違いした捉え方をしておりましたが、この一冊では地形、地理を用いて「実際はどうだったのか」を再現しようという試みがなされておりました。【学問】として幕末史に触れられる、良い機会になりました。また読みます。

「燃えよ剣(上)」「燃えよ剣(下)」著:司馬遼太郎(新潮文庫)

それまでもっぱら児童向けの本やら絵本やらを読んでいたため、文体・展開・内容すべてに圧倒されて、震えました。こんなに粋なかっちょいいひとがいるのか…!と。私は昔から本は一回読んだらもう大方は覚えてしまうというつまらない理由で繰り返し読めないタイプなのですが、この作だけは何遍も擦り切れるまで読みました。いい思い出です。多分、当時中二の私のちょっと中二病な部分に刺さったのだろうと考察しております。当時は知らずに読んでおりましたが、今では大家の大作であることは重々理解できているつもりですから、また読んで「創作」というものを学んでみようかと思います。

◆◆◆

なにだろう、やっぱりダメだったんじゃなかろうか、という冷や汗が止まらない思いであります。べらべら偉そうにしゃべってみました。きょどきょどしております。

自分が読む本を知らせるという事は、自分の脳みその中身を知らせることに似ていると思いましたし、自分の脳みその中身を知らせることがここまで恥ずかしいことだと思わなかったので、おしゃべり会中に「やって」と言われて、「やって」なんて言って貰えてうれしくなってしまって、例によって安請け合いで軽い頭を「ウン」と縦に振りましたが、だからあとには引けませんが、かなり後悔しました。恥ずかしすぎるので、どなたでもいいので後を引き継いではくれませんか。

なさけない語尾でなされる断末魔でした。

押し入れ集・参

ごきげんよう、あやめでございます。

前回は大遅刻してしまったので今回は…と思っていたのに今回もまた滑り込みになってしまいました。お詫び申し上げます。ごめんなさい。

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今年の私の夏休みは、卒業論文を執筆する夏休みです。人生最後の夏休みらしいですが、大満喫ができているのか不明です。次回は夏休みにやったことを思い出して書いてみようかななどと画策しております。

さて、今回は2年次(おととし)の5月、3年次(去年)の5月にやっていた「押し入れ集」を、やっぱり押し入れから引っ張り出すように思い出して、私やっぱりアレ好きなんだなと思って、しつこく第3弾をやろうとたくらんでおります。

押し入れ集、についてご存じない方に向けて、改めて簡単にお知らせしますと、暗くて変なにおいがしてひんやりして怖い、あるいは物が煩雑に置かれている単に物置としか思われない「押し入れ」が好きな私による、押し入れへの愛を語るもの…ではなく、押し入れのようにいろいろ詰め込んだ大小さまざまな文のまとまり、くらいの気持ちで名づけました文章集であります。随筆、なのでしょうか、わざわざ名前を付けるほどでもない文章のまとまり、というか、いわゆる「雑文」といいますか、「雑(ぞう)」といいますか、まあ今回も徒然なるままにこりずに始めようと思います。年に一度しか開かないこの重たいふすまをひらく音。

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やっぱり物が詰まったふすま。重たいわけである。あけたら中身がはじけ出てきた。

この大きな物音が嫌いで、かといって荷物が整理できる訳でもなく、同じ轍を踏み続けるのだ。どんがらがっしゃん、である。

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重たい荷物を持つのが嫌で、めったに使わない櫛は置いて行こうと思った、そういう日に限って髪を整える必要にかられて、ああ、櫛は持っていない、となる。

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カバンの奥底で押しつぶされたしなびたハンカチを見て、今日の私だと思った。

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ブラックブルーのインクが好きで、そのインクで文字を書いたら、真っ白の紙に行き先が描かれたような気がして元気が出た。

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アジサイの花の色は、その花が生える土のphに拠っていることを、理科の教科書を読んで知った。それからというもの、アジサイを見つけては「あそこの土は酸性なんだ」と、アジサイの花の色を、さも土のphを識別するための標識かの如くまなざしていた。でも、そういう風に知識を動かして遊ぶ人はめったにいないらしい。しょんぼりした。そのことを、とっくのとうに枯れて、酷暑にうなだれている、花だった部分を見て思った。6月にやるべきだった。

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最近、朝の決まった時間に、勝手に目が覚めるようになった。ここ数年の私の朝は、おでこに漬物石が置かれているくらい眠くて重くて怠くて頭痛のする、いやな寝起きしかなかった。それが何が良かったか、小学生以来の朝のさわやかな目覚めを体験することができている。ここ数年の不調・不快が嘘みたいで、奇蹟かなにかだと己の体内時計及びシステムを疑いつつ、爽快な感覚に喜びつつ、眠いまなこをこすりつつ、台所で蛇口をひねって水を汲んだ。嚥下。水がしみて、目尻からこめかみにかけての部分がひんやりするような気がする。

小学生の頃はごはん、特に朝食が美味しくて、食べるのが遅いくせたくさん食べるからちんたらもりもり、毎朝40分も50分もかけて味わって、遅刻しかけていた。最近は毎食あまり食べないから全然良くない痩せ方をして、せかせか焦ってカリカリきりきり、自律神経でいったら交感神経ばっかり優位な生活をしていたのだと思う。ここ数年のまとまった膿みたいな不摂生が今日、どこかへバカンスに行ってくれたのかもしれない。のんきでちんたらもりもり、が性に合っていたのかもしれない。大人ぶって背伸びして合わない靴を履いて靴擦れして踵を引きずるから歩みが遅くなって、それなのに「自分は足が遅いのがいやだ」とぼやいているような、あべこべな文句を言っていたのかもしれない。

コップは空になった。

水道水がてきてき、滴り落ちる音がする。

二度寝しよう。

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パイナップルの缶詰をタッパーにあけて、冷凍してから食べてみた。耳から「うまさ」が煙になって抜けていくような爽快感があった。おいしかった。

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時計を見ないで生活したら、溶かすほど時間を使ってしまい、それを「時間の大富豪」とか呼んでにんまりする遊びをした。

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昔、横断歩道を渡り切った後、私の通行を待っていた車の運転手さんに向かってお礼をするべく、くるっと振り返ってぺっこりおじぎをする、というゲームをしていた。マイルールというか、「しばり」をつけて生活してみるのが面白かった。それに運転手さんや周囲の反応を見てもいた。趣味が悪すぎる。

誰かと一緒にいても必ず毎回ぺっこりしていたら、そのうちに友人もやるようになった。ちょっと驚いたけれど、まさかこんなへんてこな気味の悪い「ゲーム」だとは言い出せず、やっぱりしつこく続けていた。そのうちにクラスメイトとか、同学年の子がやり始めた。「お礼をするのって大事なことだよね」と言っていた。この辺りから「誰がやり始めたか」ということは重要でなくなっていた。そろそろまずいか、と思ったけれどもう「ぺっこり」をしないほうが「礼儀がなっていない」人みたいになってしまった。私は当時学級委員をやっていたからか、周囲からはまさか「礼儀がなっていない」人だとは思われておらず、当然「ぺっこり」派だと思われていた。面白いから続けた。そのうちに先輩や後輩がやり始めた。この「習慣」が学校全体に本格的に根付いてしまって、朝礼で校長先生が「ぺっこり」を「素晴らしい習慣」とか言って褒めだしたのでもう後には引けなかった。そろそろ笑えなくなっていた。

その習慣は、5学年年下の妹の代まで続いてしまった。「お姉ちゃんが意味わかんないゲームをするからおじぎを絶対やらなきゃいけなくなっちゃったじゃん」と妹に物凄く怒られた。しつこくものを続けるのも、考えものだということがわかった。もう面白半分で流行を作るまい、と決意した。頑固なのは治りそうもないけれど。

高校時代の友人にこのことを話したら、「こわ」と言われて、しっかり落ち込んだ。

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来年も押し入れ集をやろうか、と思って、イヤ来年は無いんだったと思い返す。もうこの押し入れを開く必要はない。どんがらがっしゃん、に直面する必要はない。もう二度と取り出す必要のないものを箱詰めして、ぴったりとふすまを閉める音。もうやらない。

夏、回顧

ごきげんよう、大遅刻しました、あやめでございます。大変申し訳ございません。スッカリばっちり忘れておりました。ごめんなさい。お詫びに今回は長めに書いてみました。

その期間とは別に熱中症になってしまいまして、しかも数日ひいひい言っておりました。軟弱。

夏に吹く風、とくにここ数年のは、涼しい心地いいものでは到底なく、密度が高いような感じを受けますね。それに吹かれてあちちになって、熱中症になったのでしょう。エアコンの呼気が気持ち良すぎて部屋に引きこもっていたせいで、夏の風がこんなに高濃度だと忘れておりました。

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友人に、「なぜおまえの人生は、〈お前の人生〉なのに〈お前が主人公〉で展開されないんだ」という趣旨のことを言われた。

いわく、私は私の人生のなかで「主人公」ではなく「観察者」をやっているらしい。自分自身が私の人生という小説の、〈地の文〉として存在してゐるような、あるいは普通「一人称」の人生を、(視点固定ではあるが)三人称で生きているお前が理解できない、ということだった。

友人の言うことはおおむね理解できる。たしかにネ。私は距離をもって自分を見ているのかもしれない。自分(現実世界のアバター、動く人)と自分(メタ視点を持っている・アバターを操作する人)が存在してゐるような、そういう遠さがあるようだった。それをゆびさして、理由を述べよと言っているのだと思う。理由を説明できるほど成熟していない私は、かわりにこんな風に世界がみえていますヨと言って見ることにした。友人も変わり者で、その話は大いにウケた。

アバターとしての私及びそのステータスは、操作する私にとってかなり厄介である。とくに「まっすぐ」に弱い。まっすぐ、切る・貼る・書く・立つ・歩くなどのことはできないし、投げる・蹴る・打つ・飛ぶのような「接地面から離れる行為」はより一層できない。マヌケで弱虫けむしで、操作性が悪くて、簡単に傷がついて、うまくいかないアバター。私はそれを嫌っているらしかった。理論的にはうまくいくはずのことが、このアバターを使用したら全然うまくいかない。これがもどかしいらしかった。

私の書く文章が「観察」に基づいていて、それが「個性」として認められるとしたら、それは私の「操作する人」が評価されたことになるだろう。だからあなたは、斜に構えた、ひねくれて可愛げのない、拗ね者の私を大いに褒めてくださいね。「操作する」方の私はきっと、ほめ言葉を簡単には受け入れられないだろうから、大げさでくどいくらいに言ってやってください。もちろん外側の、アバターとしてのマヌケの私はすぐに大喜びですけれど。やったあ!

マアそんなわけで、自らを咀嚼しなおすために・自分に向けた「自伝」(日本国語大辞典によれば自伝とは自叙伝、すなわち「自分の生い立ちや経歴などを、自分で書いたもの」だというから、これから書くものは自伝未満であるかもしれないが)を書いてみたいと思い立ったのはもう、数年前のことである。本当は琵琶法師みたいなひとに語らせたいようなものを書きたいと思った。自伝であるくせ、軍記物語とか、歴史物語のように、遠い未来の他人が書いているような遠さがあるものにしたかった。であるから、試みにあなたは、これを読むあなたのなかの琵琶法師みたいなひとに語らせながら読んでみてほしい。決して「あやめ」が語っていると思わないでほしい。ただ、私の文章を読んだ方は往々にしてこのヘンテコを「落語を聞いているようだ」と形容するので、いつもの如くに書けば、そのようになると信じて書いてみた。そう思うと、何か、会話劇の台本が、誤って流布しちゃったようなつまらなさを伴って、読んでいただきたいわけである。言わずもがな自分語りの羅列で、これを機に私を嫌いになる方もいらっしゃるだろうが、それを小説未満の断片の間に配置することで、さもこれも「小説になりかけの断片のひとつ」みたいにして、語りかけてみる。応答があるだろうか。うまくいくだろうか。わくわく。

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再三申し上げているとおり、私は高校時代不登校児(児?)をしておりました。誰かにいやなことをされた、とかというよりは、自分が作った「高校像」と現実の忙しい高校生活とのギャップにやられて目をバッテンにしていた、という具合でありました。それはほんの、もらってくるプリントやら宿題やらの量がおおすぎる、という具合の、些細なことで決壊して、もうすべてがダメになってしまいました。通うことも、高校生として在ることも、全部がむりなことに感ぜられて、あ、私は高校生になれないのか、と思っておりました。確かに私は文化祭とか体育祭とかの「祭」がみんなきらいでした。高校生が心血を注ぐイベントはみんなおもしろくないとおもっておりました。仲間外れがバレるからです。たとえばわたしは、以下のような思考を展開するユニーク個体でありますが、過去の私は「ユニーク」を「唯一無二」とか「めずらしくておもしろい」という意味ではなく、「特異」「奇抜」「外れ値」「規格外」と理解しておりましたから、ユニーク個体だとバレるのはなんとしてでも免れたかったのです。

さて思考内容はこうです。

いつもうまくできないため、アルバイト先の同僚に質問してみることにした。うまく質問できるだろうか。いつもは、突拍子もない質問だね、と笑われてしまう。今日こそは正しい質問ができると信じたい。

「みかんのかわを、うまく剥く方法を教えてください。いつも、ぼそぼそ、ちぎれてしまって掃除が大変です。」

同僚は大笑いした。おや?このような反応が得られたということは即ち、今回も実験は失敗だということだ。

「みかんのかわを、そ、そんなに真面目にむくひと、いないって」

同僚の一人が、笑い声の隙間にこんなことばを配置した。

私は、みかんの、かわを、まじめに、剥いているのか?

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以前から、気になってしょうがないことがある。椅子に座った際に林立する脚の見方である。個体によって脚の処し方が違う。組む者、投げ出す者、内股、足首の辺りで交差させる者…衣服や靴も、素足かどうかもばらばらである。どのように見るべきなのか。何の暗号だろう。どのような情報が発信されているのか。どのような理論で組み立てられたのだろう。なぜその選択をしたのか。知って理解して、私も仲間に入れてほしい。それで、友人に耳打ちでコッソリ相談したら、意味が分からないという顔をされて、話を流されて、終わってしまった。

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School(学校)、というのは、古代ギリシャ語の「ひま」を意味する「スコレー」に由来する言葉だよということを学んだ。そう考えると、学びというのは大前提、「遊び」によって形成されなくては、本質・定義に反するのではないだろうか。我が人生に一片の悔いなし!といって元気に(?)死を迎えるには、そういう「あ~たのしかった」という感じが残っていてほしいと思い、また、私にはそういう「スコレーな学習」が必要不可欠だと思う。本当は学ぶのがすきだから。誰にも言えないけれど。

このような自分を見て、不登校の原因はおそらく、みんなと一緒にあそびたかっただけの、さみしいみたいな気持ちを発散する場も機会もなくここまで来てしまった幼稚園児の私が、小学、中学を通り越してようやく顔を出した、みたいなことだったのだろう、と今では理解しております。なんで仲間外れにするんだい!あたいも仲間に入れてくれやい!みたいなことでしょう。たいして「変」でもないのに、私の定義する「ふつう」枠から自ら外れていたせいで、自らのパラドックスみたいになっていたのかもしれませんネ。そのエネルギーだけあって、肝心の訴えはもはや自分にもよくわからないほど大きく成長してしまい、あるいは「こんなことを思考している自分がゐてはならない」みたいなちょっとしたプライドが邪魔をして、核となる訴えそのものが見えるようになるのにながらく…4年も時間を要しました。

こんなことを、私特有の悲しい記憶として、「特殊」として捉えてもらえても、ごくごくよくあるありふれた、「普遍」と捉えてもらえても、私には嬉しく思えます。あなたが読んでくれているので。むしろ、どちらの見方もできるように書いてみたいとすら思っております。どちらか一方に傾いているのなら、それは私の研究・勉強・技量不足だということであります。

この特殊ということを、大人になって、イタくてとても書けなくなってしまう前に、まだ、若気の至りねと許してもらえる内に、書いてしまいたかったのです。誰かに見てもらいたい、というより、どのくらい通用するかしないかを実験・観察してみたかったのです。

私は初回のブログでこんなことを申しておりますが、ここまで見てきたとおり、やっぱり本当は見てもらいたくて仲間に入れてもらいたくて、たまらなかったはずなのです。特殊、と分別顔で申しておりますが、やっぱりわたしだってふつうなんですよ、という透けて見える訴えがあるような気がして恥ずかしいですね。その「訴え」はおよそ、この3年で書いてみてきた断片の端々に見えるものと同じで、なおさら恥ずかしくなりました。3年ぽっちじゃ、何も変わらないことがよく、わかりました。

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いままでのブログで「このことは追々語りましょう」とか言って言い逃げしている事柄がいくつかあって、それを回収しないまま卒業するのは実にまずいことだと思ったので、今回は回収第一弾と思って書いてみましたが、苦くてまずいつばがたくさん出ました。全然うまくいかなかった。しょんぼり。炎天下に化けて出て、溢れんばかりの太陽光エネルギーにやられて一瞬で蒸発する本日のオバケでした。ごきげんよう。

夏、逡巡

ごきげんよう、あやめでございます。

お盆期間になって、祖父の家から大学に通っている弟が帰宅しました。庭の木を切ったりして活躍していました。得意顔でした。

一方の私は「最後の夏休み」を過ごしております。さいご、なんて自分で言っておいて悲しくなって参りました。それを題材にして書いてみました。息抜きのつもりで書いたのに、肩ひじ張ってしまったのか、へたになってしまいました。無念。

太陽が、この時を待ち望んでいた!とでも言いたげに燦燦と陽光を降らせている。つい数時間前までは土砂降りの大雨で、大きな傘でも凌げなかったほどなのに。台風が過ぎ去った今はもう、刺すほどの光で満ちている。

あまり強い光は、青空のあおを引き立てて日向を照らすけれど、その分影もくっきり濃くすることが、照り返しの強いアスファルトの上を歩いて初めて分かった。喧騒の大都会でしか得られない空気を吸って歩いている。

大学生で4回目の夏休みが目前に迫っていた。季節はせりあがるような夏を告げていた。水遊びが似合う夏。最後にかこつけてはじけるように遊ぶ夏。友人はみな、旅行とレジャーに忙しそうであった。けれど卒論が書き終わりそうもない私の気分はどこか、重く怠い感じがした。青信号が点滅する横断歩道で、先ばっかり見て最後の夏休みを遊びきれない私を仲間外れにするように、終業式を終えたらしい小学生の集団が駆けて行った。信号は私を通せんぼして、すぐさま車が往来した。ランドセルたちはすっかり遠くなってしまった。手持ち無沙汰なので、もっていた雨傘をくるくるしたらボタンが外れてしまった。あわてて巻きなおした。

巻ながら、季節を捉えること、もっと言えば「今が何月であるのか」を捉え続けることがむずかしく思う、そういう感性をしているなと思った。ふとした瞬間に「アレ、今日って何日?」と聞かれて、日付どころか何月だったかも、まるごとスッカリ抜け落ちることがよくある。まるでそれは、自分が今いる地点の緯度、経度を問われるような唐突さに似ている。ああそうだ、今日は7月18日、とわかってから、襲うように「暑さ」に見舞われることもある。もちろんこれは、心地よい湿度気温に保たれた屋内で起こることである。今のように凡ての毛穴をハイジャックされて暑さを埋め込まれて、それでも前進しなければならない時には当てはまらないが。パッと、信号が青に変わった。一方通行の標識がある、車通りのすくない道に入った。

自分の人生を、一方通行の四季に例えることに違和感があった。うまれたてを若葉として、老いるところを枯れ木としたら、人生は春から冬に向かって流れていくと教わった。エネルギーに満ちた学生時代は「青春」と呼ばれて、甘くて若くてみずみずしいのは「青春」の特権だという流れがあるように感じた。でも学生のはずの私の今は青でも春でもない。私にあるのは梅雨のジメジメした不快な暑さと、何もない極寒の冬だけだと思っていた。なにを成し遂げたわけでもない。なにをしたいでもない。そこにあった道を、おや、と思って何気なく、寄り道多めで歩いているだけだった。それを急行電車に乗った級友は通り越す。そんなふうに、青くて若い、まわりのエネルギーに負けて萎びた私には、居場所が無いようにおもった。

それは時に「あやめちゃんって彼氏いないん?」という発言にどぎまぎすることだったし、時に「卒論おわんなくね」という言葉にドキドキすることだったし、時に「一緒にプール行かない?」という誘いをいかに断ろうかと逡巡することだった。プールの横を通り過ぎた。黄色いような声が上がった。顔に水がかかったのかもしれない。浮き輪がどこかへいってしまったのかもしれない。近所の川でもおなじような声をよく聞くなと思った。水を浴びるということは黄色い声と切り離せないのかもしれない。私はながらく、冷たい水につかっていない。やっぱり、私はわかくないのかもしれない。

相変わらず、太陽は燦燦だった。またも大通りへ出た。ながくて重い、じゃまなしっぽを引きずるように歩きながら、ふと、このしょんぼりを「台風」と喩えることは、「あり」だったかもしれない、と思った。台風が去ったら、太陽がギラギラになることしか思い出せなかったけれど、台風が過ぎるごとに秋は深まるのだった。同じように、これからの私の目の前には、野心やら向上心やらといった、一方的で莫大なエネルギーを有する「生命力」が、ギラギラちらつくのかもしれないと、それだけを想っていたけれど、実りの秋が、私の豊かなおいしい季節がやってくるかもしれない。そこまで考えたら、あれだけなにをしても取れなかった、頑固汚れに似た「自責の念」が、何の因果か、すっかり落ち去って、軽やかな足取りで道を征くことができた。水遊びじゃなくても、わたしにはわたしのたのしみがあるんだ。わたしにはわたしの足取りがあるんだ。

今はしばしの台風一過。遠い南洋ではすでに次の台風が、勢力を増している。季節は無情にも巡るらしい。そうだ、季節は巡るもの。春は一回だけではないし、大人にも夏休みはあるはずだ。過酷な冬を超えるから、春の花は咲き誇るんだ。梅雨の長雨のおかげで、夏野菜はみずみずしい。人生が楽しんだもの勝ちなら、今ならその理論を信じられる気がする。スキップで帰った。

夏、観察

ごきげんよう、あやめでございます。

毎日暑いですね。暑いので涼しいことを考えようと思います。

冷、という字を見て、液体を思います。 別に冷奴とか冷蔵庫も「冷」なのだけど、「冷」を見て一番に思いつくのは例えば、近所に流れる川の、浅瀬でちゃぷちゃぷ、陽光を反射した水とか、朝一番の洗顔に使う、蛇口から流れる何の変哲もない水とか、氷をいれてキンキンになった、ガラスのコップに注がれた水とか、そういうものです。そんなことを駅まで歩く15分の間に思ったので、喉が渇いているのかもしれません。

私の文章の「かわり者」度合いをはかりかねている今日この頃です。もしかしたら大してかわっていないのかもしれないし、大変な変わり者なのかもしれません。親愛なるチャットさんに伺った結果、私の文章は、観察眼・手触りの温度・マヌケがキーワードになりそうだとわかりました。そんな私による「夏休みの観察日記」ということで、書いてみます。

乾いたバスタオルの手触り

ぎらぎらの炎天下のおかげで、2時間でバスタオルが乾いた。いまさっき干したときにはくたくただったのに、乾いたバスタオルはかたくてぱりぱりして、たたみにくくていい匂いがした。天日干ししたからやわらかいなあ、などということはなく、乾ききったかぴかぴがあった。煮干しみたい。煮だしたら深みのある出汁がとれたりしないだろうか。

私は、大人になるとは水分が抜けて酸化して、鈍くなって慣れていくことだと思った。はやく大人になって、一大事でも平気な顔をしてケロッとして、誰の目も気にせず大声で腹から笑いたいと思った。水分がはやく抜けてほしいと思った。でも、乾いても細切れにされて鍋にいれられてたっぷりの水が注がれて、火にかけれるなら、ずっと水分を保ったままでもいいかもな、とも思った。同時に、水分過多はかびくさいなとも思った。バスタオルを全部とりこんで、風呂に入った。私からはまだ、出汁は出ない。

返事(かえりごと)

冷房の効いた部屋で、遠くのセミの声を聞いている私には、乾いたバスタオルの手触りにすら活力を感じる。ぎらぎらの明るい日光に耐えきれず、汗だくになる自分の体に嫌悪し、すぐ乾く喉を恨み、寒すぎるくらい冷えた冷房の効いた部屋でブランケットにくるまってぬくぬくする、昼食を抜いてアイスを食べる私には、乾いたバスタオルですら、活用方法があるだけマシじゃないか、と思えてならない。直下で浴びるセミの声はうるさくて骨にこたえるけれど、窓ガラスと遮光カーテン越しに聞くセミの声は「季語」であり「綺語」である。夕飯に選んだレトルトパウチの、トマトピューレのミートソーススパゲティは水分過多で、茹で過ぎでのびたパスタは水分過多で、そこに置きっぱなしのまだ茹でていない乾麺は乾ききっている。私は人間だから水分を70%程度含んでいて、縁側に落ちていた死んだセミの体はからからであった。冷房の効いた部屋の湿度は低い。それもすべて、喉元を過ぎて腹に収まればかわらない。

とり

ごきげんよう、あやめでございます。

お久しぶりですね。6月の後半はおやすみをいただきました。

この間母にさらっと「あと半年で社会人かあ」と言われて総毛立ちました。はやすぎます。怖すぎます。卒論とか終わるのでしょうか。ヱ、終わらない気がしてきたこわい…

前回、筆が進まない話をしたかと思います。半月おやすみしても全く状況が進歩せず、今回は我等がチャットさんに「お題下さい」と言ってお題を貰って、ようやくひねりだすことに成功しました。ぐぬぬです。この3年間なにも進歩していない気がして、ぐぬぬです。

以下の文章を書きながら思いましたが、植物に水をやるときとかに「そ~らごはんだよ~」とか言うのは、あんまりメジャーなことではないようですね?あなたはどう思われますか?仲間ですか?

それから、以下の文章を諸生成AIさんにみせてみたところ、「まなざし」を評価してもらえました。やはり、「そ~らごはんだよ~」は言わないみたいですね。

名前のない生き物と暮らしている

先週から、私の足元、つま先から20センチくらい離れたところに、白い、もふもふして毛足の長い生物が滞留している。体高30センチ弱、幅15センチ、奥行き10センチ、しかし胴体はそれより小さいらしい。一度雨に濡れた時、体積が半分になったか?と疑うほどにぺしゃんこになったことから、そのように推察している。毛が長いからふわふわして大きめに見えている、痩せっぽちらしい。目など、「顔」と思しきパーツは全て毛に覆われてよく見えない。おぼろげに嘴らしきものはみえる。これをもって私はこの生物を「鳥」と呼んでいる。分類学的にどうなのか、今度の休日に図鑑で調べてみたい。 フクロウなのかと疑ったが、フクロウは目玉がギョロ…として首が一周するタイプのもふもふなので、多分コレとは「もふもふ違い」だと思う。

「鳥」は鳴き声がないのか、おとなしい個体なのか、うんともすんとも言わない。何を食べているのかいないのか、フンをするのかしないのか、しているとして、いつしているのか、全て謎である。電車に乗った際も足元を離れず、その日の電車は通勤ラッシュでトマトの缶詰状態だったので、「鳥」は圧死してしまうかと思ったが、電車を降りてもまだ着いてきたので、もう生物であるとも思えない。

愛着からではなく、あくまで好奇心から話しかけてみたことがある。

「こんにちは、私はにんげんです。あなたは生物ですか」

「こんにちは、今日は外気温がセ氏35度です。暑いですが大丈夫ですか」

「そんなところに居ては圧死しませんか」

「せめて風呂場についてくるのはよしてもらえないものですか」

「なぜわたしですか、面白くないとおもいます」

全て沈黙に飲まれた。あるいは「鳥」の喉に飲まれたのかもしれない。

「鳥」は誰かに見えているとも思えない。少なくとも母と妹には見えていないようだった。怖くて他の人物に質問はできていない。私のかなしい脳みそが生み出した妄想の生物なのかもしれない。なぜこんな、モップの権化みたいな見た目なのかは、おそらく「真実はベールに隠されている」とかなんとかいう信念に基づくのだろう。今思いついたことだけれど。

来春から一人暮らしをすることになった。大した家事のスキルも持たず、自己管理能力が高いとも思えず、非常に不安を抱えている。その矢先の「鳥」であるから、これは「ふあん」と名づけるのが良いのかもしれない。

よく晴れるから、布団を干して掃除機をかけることにした。普段は紺色のカーテンを閉め切って、日光を極力入れないようにして、冷房の効いたひんやり自室に籠るが、今日はそういうわけにはいかない。先日バイト中に咳と鼻水が止まらなくなり、困って耳鼻科を受診したところ、アレルギー症状だと言われた。ハウスダストとかそういうのに反応したのではないか、とふんわりしたことをいわれた。一ヶ月分の飲み薬と点鼻薬を処方されて、布団と部屋を清潔にするようアドバイスされた。だから今日は必ず布団を干さねばならない。

何もしないでゴロゴロしているせいで筋肉が削げ落ちた細くて頼りない貧弱の腕で、難儀しつつもどうにか布団を干し、掃除機をかけたら、「鳥」がいなくなっていた。このところ「鳥」にその日あったことを網羅的に語り聞かせるのが寝る前のルーティンになっていたので困った。布団の下に敷いてしまったのか?と布団をめくったり、掃除機で吸ったか?とわざわざ掃除機を解体したが、苦労もむなしく、「鳥」はあっさり私の元を去ったらしかった。毛足の長い、もこもこの「鳥」。私が「今日はただ歩いていただけなのに画鋲を踏みました。屋外なのに。画鋲はやり場に困りましたが、見渡したら掲示板があったので、そこから落ちたものと思って、そこに刺し直しておきました。」とか「今日は友人に会いました。友人と外食に行く約束をしました。私には友人が少なくて、「友人と一緒にごはんを食べにでかける」ことも珍しくて、舞い上がってしまいました。」とか「肩が凝って仕方ないのに、猫背が治りません」とか言うのをノーリアクションで聞いてくれた「鳥」。もういなくなってしまった。

しょんぼりして下を向いたら、さっきあれだけ探していなかった「鳥」が確かに居る。ああ、見落としただけか!と喜んだらやっぱり「鳥」はいない。 このことから、「鳥」は私のかなしい地域に住んでいる生物らしいことがわかった。なるほど、毛足の長いのは、寒さ・過酷さに耐えるためのものであるらしい。素敵な指標ができた。

このことを先の友人に話してみせたら、友人は大笑いした。「鳥」に敬語を使うのがおかしいらしい。

朝焼けの匂い

ごきげんよう、あやめでございます。

6月になりました。アレ、もうこんな時期?となってしまっております。いつになっても時間を上手に使えません。

それから、びっくりして「おおお」と言って、目を白黒させて混乱していたら、母に「人間の反応じゃない笑」と言って笑われました。宇宙人は私なのかもしれません。おかしいな、私の「最初」を知っているのは外でもなく母のはずなのにな。

◆◆◆

最近は長々と書けていたのですが、また少し書けなくなりました。今回は短めでお届けします。

それから、試みに、ある言葉のかけらとある言葉のかけらが、文章になる流れを示してみたいです。ただ言語化は難しいので、「コレが、こう」というように、材料(言葉のかけら・断片)と結果(出来上がった文章)の両方を書いてみる形で、お伝えしようと思います。なんだかいつも似たような味付けになるような気がして、すこし、気がかりですが。

お題:朝焼けの匂い

断片1

思ったより早く目が覚めて、だからテキパキ朝の支度を始める、という気にもなれず、布団の中でぐにゃぐにゃしていた。まだ日は上らない。空はもう明るい。知り合いの知らない顔を見ているような違和感を感じた。あ、こんな綺麗な空なんだ、と知った。太陽が明るいこともわかった。 水だけ飲むかな…と思って、でも、うーん、とぐにゃぐにゃしていたら、いつのまにかまた寝ていた。時計はいつも起きる時間の30分後を指していた。遅刻した。

断片2

「っ」

さっきまでみていた夢が酷くて、驚いて、息を呑んだその音に二重で驚いて、目が覚めた。 まだドキドキしているが、すでにもう、夢の内容を忘れかけている。ツッコミどころ満載だったことしか思い出せない。

断片3

コップ一杯の水が、机の上で揺らいでいる。

文章化

珍しく、自然と朝早くに目が覚めた。午前5時。二度寝をするのには遅く、起きて活動するには早い、中途半端な狭間の時間。

室温18度、秒針の歩む音、やかんが湯気を吐くにおい、フローリングのきしむ音、体の中からする、内臓が活動を再開する鈍い音。

いま私が注いだ、白湯の香りが鼻腔をくすぐる。一番近くにあった適当なマグカップに、こぼれるほど無造作にじゃぷん、といれて、それを嚥下する。鳥の鳴く声。変に冴えた頭。とうふがおちて床にたたきつけられたような、そんな簡単な落胆。染みわたる白湯。染みわたる気怠いきもち。

◆◆◆

ここまで冴えてしまってはもう二度寝はできないと観念して、カーテンを引いた。朝焼け。夕焼けはなんども見たが、朝焼けはこれまでの人生で数える程度しか見た事がない。私は朝に弱いのだ。その片手で足りる経験の中で、一番綺麗な朝焼けだった。

あまりに珍しくて、わざわざベランダに出てきてしまった。朝露。朝がのぼってくるさっぱりとした匂い。そうやって朝焼けの美しさや珍しさに呆気に取られてついぼやっとしていたらそこへ朝日がカッと昇って来た。上がりたての太陽光の強さが目に染みて、涙が出てきた。さっきの白湯がこんなしょっぱくなってしまった。

◆◆◆

泣き出したら止まらないのが私である。泣くまでが長いので、一度泣いてしまったらしつこい。もう15分も涙が止まらない。別に大したことはないのだけれど、昨日も今日も明日も私は養分不足で萎びるのだと思えてくる。私の養分は教養と哲学とジョークだ。私に勉強が足りない。私に知的好奇心を満たす営みが足りない。それは冷め切った白湯と似た切迫感がある。であるからこそ、生まれたての陽光が「そんなことで悩むくらいならやればいいのにね」と哀れんで笑う声が聞こえて、それに拗ねて泣いている。私には私の事情がある。

◆◆◆

涙は乾くとぱりぱりする。サラサラ流れる鼻水が不快だ。大したことないのに泣いてしまった事実にしょんぼりして、わかりやすく肩を落として「しょんぼり」の顔をしてみる。鏡に映った私は全く「しょんぼり」ではなかったけれど、私には「しょんぼり」なので良いことに、したい。朝ごはんには早過ぎるけれどお腹が空いたので冷やご飯を適当に握っておにぎりを頬張る。病院の先生には「元気に生きてるなら大丈夫。明日生きるか、死ぬかの世界もあるのだから、あなたはずっと、大丈夫」と言われてしまった。完治ではなく、対処。解決ではなく、迂回。敵対ではなく、保留。人間世界は意外にも、そのくらいでないと「生き延びられない」らしい。私は今まで、完璧を目指して登山をしていたわけだから、その言葉の数々は私を無かったことにするみたいで嫌だった。

「いやだったな」

鼻声で一言、わざと声に出して言ってみた。

ず、と鼻を啜る音も続けて鳴らしながら。

◆◆◆

それを認めたら急に安心して眠気がやってきた。眠気にはきっと長い腕が付いている。それに抱きしめられて赤ん坊のように、眠ってしまう。大した時間は眠れないのに、深く、頭から落っこちるように、ぐったりと。目覚ましがむなしく、私の頬に訴えかけるように一人で鳴いている。

◆◆◆

起きた。起きたら、いつも起きる時間の30分後の時間を、時計がさしていた。遅刻した。