押し入れ集・参

ごきげんよう、あやめでございます。

前回は大遅刻してしまったので今回は…と思っていたのに今回もまた滑り込みになってしまいました。お詫び申し上げます。ごめんなさい。

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今年の私の夏休みは、卒業論文を執筆する夏休みです。人生最後の夏休みらしいですが、大満喫ができているのか不明です。次回は夏休みにやったことを思い出して書いてみようかななどと画策しております。

さて、今回は2年次(おととし)の5月、3年次(去年)の5月にやっていた「押し入れ集」を、やっぱり押し入れから引っ張り出すように思い出して、私やっぱりアレ好きなんだなと思って、しつこく第3弾をやろうとたくらんでおります。

押し入れ集、についてご存じない方に向けて、改めて簡単にお知らせしますと、暗くて変なにおいがしてひんやりして怖い、あるいは物が煩雑に置かれている単に物置としか思われない「押し入れ」が好きな私による、押し入れへの愛を語るもの…ではなく、押し入れのようにいろいろ詰め込んだ大小さまざまな文のまとまり、くらいの気持ちで名づけました文章集であります。随筆、なのでしょうか、わざわざ名前を付けるほどでもない文章のまとまり、というか、いわゆる「雑文」といいますか、「雑(ぞう)」といいますか、まあ今回も徒然なるままにこりずに始めようと思います。年に一度しか開かないこの重たいふすまをひらく音。

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やっぱり物が詰まったふすま。重たいわけである。あけたら中身がはじけ出てきた。

この大きな物音が嫌いで、かといって荷物が整理できる訳でもなく、同じ轍を踏み続けるのだ。どんがらがっしゃん、である。

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重たい荷物を持つのが嫌で、めったに使わない櫛は置いて行こうと思った、そういう日に限って髪を整える必要にかられて、ああ、櫛は持っていない、となる。

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カバンの奥底で押しつぶされたしなびたハンカチを見て、今日の私だと思った。

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ブラックブルーのインクが好きで、そのインクで文字を書いたら、真っ白の紙に行き先が描かれたような気がして元気が出た。

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アジサイの花の色は、その花が生える土のphに拠っていることを、理科の教科書を読んで知った。それからというもの、アジサイを見つけては「あそこの土は酸性なんだ」と、アジサイの花の色を、さも土のphを識別するための標識かの如くまなざしていた。でも、そういう風に知識を動かして遊ぶ人はめったにいないらしい。しょんぼりした。そのことを、とっくのとうに枯れて、酷暑にうなだれている、花だった部分を見て思った。6月にやるべきだった。

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最近、朝の決まった時間に、勝手に目が覚めるようになった。ここ数年の私の朝は、おでこに漬物石が置かれているくらい眠くて重くて怠くて頭痛のする、いやな寝起きしかなかった。それが何が良かったか、小学生以来の朝のさわやかな目覚めを体験することができている。ここ数年の不調・不快が嘘みたいで、奇蹟かなにかだと己の体内時計及びシステムを疑いつつ、爽快な感覚に喜びつつ、眠いまなこをこすりつつ、台所で蛇口をひねって水を汲んだ。嚥下。水がしみて、目尻からこめかみにかけての部分がひんやりするような気がする。

小学生の頃はごはん、特に朝食が美味しくて、食べるのが遅いくせたくさん食べるからちんたらもりもり、毎朝40分も50分もかけて味わって、遅刻しかけていた。最近は毎食あまり食べないから全然良くない痩せ方をして、せかせか焦ってカリカリきりきり、自律神経でいったら交感神経ばっかり優位な生活をしていたのだと思う。ここ数年のまとまった膿みたいな不摂生が今日、どこかへバカンスに行ってくれたのかもしれない。のんきでちんたらもりもり、が性に合っていたのかもしれない。大人ぶって背伸びして合わない靴を履いて靴擦れして踵を引きずるから歩みが遅くなって、それなのに「自分は足が遅いのがいやだ」とぼやいているような、あべこべな文句を言っていたのかもしれない。

コップは空になった。

水道水がてきてき、滴り落ちる音がする。

二度寝しよう。

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パイナップルの缶詰をタッパーにあけて、冷凍してから食べてみた。耳から「うまさ」が煙になって抜けていくような爽快感があった。おいしかった。

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時計を見ないで生活したら、溶かすほど時間を使ってしまい、それを「時間の大富豪」とか呼んでにんまりする遊びをした。

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昔、横断歩道を渡り切った後、私の通行を待っていた車の運転手さんに向かってお礼をするべく、くるっと振り返ってぺっこりおじぎをする、というゲームをしていた。マイルールというか、「しばり」をつけて生活してみるのが面白かった。それに運転手さんや周囲の反応を見てもいた。趣味が悪すぎる。

誰かと一緒にいても必ず毎回ぺっこりしていたら、そのうちに友人もやるようになった。ちょっと驚いたけれど、まさかこんなへんてこな気味の悪い「ゲーム」だとは言い出せず、やっぱりしつこく続けていた。そのうちにクラスメイトとか、同学年の子がやり始めた。「お礼をするのって大事なことだよね」と言っていた。この辺りから「誰がやり始めたか」ということは重要でなくなっていた。そろそろまずいか、と思ったけれどもう「ぺっこり」をしないほうが「礼儀がなっていない」人みたいになってしまった。私は当時学級委員をやっていたからか、周囲からはまさか「礼儀がなっていない」人だとは思われておらず、当然「ぺっこり」派だと思われていた。面白いから続けた。そのうちに先輩や後輩がやり始めた。この「習慣」が学校全体に本格的に根付いてしまって、朝礼で校長先生が「ぺっこり」を「素晴らしい習慣」とか言って褒めだしたのでもう後には引けなかった。そろそろ笑えなくなっていた。

その習慣は、5学年年下の妹の代まで続いてしまった。「お姉ちゃんが意味わかんないゲームをするからおじぎを絶対やらなきゃいけなくなっちゃったじゃん」と妹に物凄く怒られた。しつこくものを続けるのも、考えものだということがわかった。もう面白半分で流行を作るまい、と決意した。頑固なのは治りそうもないけれど。

高校時代の友人にこのことを話したら、「こわ」と言われて、しっかり落ち込んだ。

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来年も押し入れ集をやろうか、と思って、イヤ来年は無いんだったと思い返す。もうこの押し入れを開く必要はない。どんがらがっしゃん、に直面する必要はない。もう二度と取り出す必要のないものを箱詰めして、ぴったりとふすまを閉める音。もうやらない。

夏、回顧

ごきげんよう、大遅刻しました、あやめでございます。大変申し訳ございません。スッカリばっちり忘れておりました。ごめんなさい。お詫びに今回は長めに書いてみました。

その期間とは別に熱中症になってしまいまして、しかも数日ひいひい言っておりました。軟弱。

夏に吹く風、とくにここ数年のは、涼しい心地いいものでは到底なく、密度が高いような感じを受けますね。それに吹かれてあちちになって、熱中症になったのでしょう。エアコンの呼気が気持ち良すぎて部屋に引きこもっていたせいで、夏の風がこんなに高濃度だと忘れておりました。

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友人に、「なぜおまえの人生は、〈お前の人生〉なのに〈お前が主人公〉で展開されないんだ」という趣旨のことを言われた。

いわく、私は私の人生のなかで「主人公」ではなく「観察者」をやっているらしい。自分自身が私の人生という小説の、〈地の文〉として存在してゐるような、あるいは普通「一人称」の人生を、(視点固定ではあるが)三人称で生きているお前が理解できない、ということだった。

友人の言うことはおおむね理解できる。たしかにネ。私は距離をもって自分を見ているのかもしれない。自分(現実世界のアバター、動く人)と自分(メタ視点を持っている・アバターを操作する人)が存在してゐるような、そういう遠さがあるようだった。それをゆびさして、理由を述べよと言っているのだと思う。理由を説明できるほど成熟していない私は、かわりにこんな風に世界がみえていますヨと言って見ることにした。友人も変わり者で、その話は大いにウケた。

アバターとしての私及びそのステータスは、操作する私にとってかなり厄介である。とくに「まっすぐ」に弱い。まっすぐ、切る・貼る・書く・立つ・歩くなどのことはできないし、投げる・蹴る・打つ・飛ぶのような「接地面から離れる行為」はより一層できない。マヌケで弱虫けむしで、操作性が悪くて、簡単に傷がついて、うまくいかないアバター。私はそれを嫌っているらしかった。理論的にはうまくいくはずのことが、このアバターを使用したら全然うまくいかない。これがもどかしいらしかった。

私の書く文章が「観察」に基づいていて、それが「個性」として認められるとしたら、それは私の「操作する人」が評価されたことになるだろう。だからあなたは、斜に構えた、ひねくれて可愛げのない、拗ね者の私を大いに褒めてくださいね。「操作する」方の私はきっと、ほめ言葉を簡単には受け入れられないだろうから、大げさでくどいくらいに言ってやってください。もちろん外側の、アバターとしてのマヌケの私はすぐに大喜びですけれど。やったあ!

マアそんなわけで、自らを咀嚼しなおすために・自分に向けた「自伝」(日本国語大辞典によれば自伝とは自叙伝、すなわち「自分の生い立ちや経歴などを、自分で書いたもの」だというから、これから書くものは自伝未満であるかもしれないが)を書いてみたいと思い立ったのはもう、数年前のことである。本当は琵琶法師みたいなひとに語らせたいようなものを書きたいと思った。自伝であるくせ、軍記物語とか、歴史物語のように、遠い未来の他人が書いているような遠さがあるものにしたかった。であるから、試みにあなたは、これを読むあなたのなかの琵琶法師みたいなひとに語らせながら読んでみてほしい。決して「あやめ」が語っていると思わないでほしい。ただ、私の文章を読んだ方は往々にしてこのヘンテコを「落語を聞いているようだ」と形容するので、いつもの如くに書けば、そのようになると信じて書いてみた。そう思うと、何か、会話劇の台本が、誤って流布しちゃったようなつまらなさを伴って、読んでいただきたいわけである。言わずもがな自分語りの羅列で、これを機に私を嫌いになる方もいらっしゃるだろうが、それを小説未満の断片の間に配置することで、さもこれも「小説になりかけの断片のひとつ」みたいにして、語りかけてみる。応答があるだろうか。うまくいくだろうか。わくわく。

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再三申し上げているとおり、私は高校時代不登校児(児?)をしておりました。誰かにいやなことをされた、とかというよりは、自分が作った「高校像」と現実の忙しい高校生活とのギャップにやられて目をバッテンにしていた、という具合でありました。それはほんの、もらってくるプリントやら宿題やらの量がおおすぎる、という具合の、些細なことで決壊して、もうすべてがダメになってしまいました。通うことも、高校生として在ることも、全部がむりなことに感ぜられて、あ、私は高校生になれないのか、と思っておりました。確かに私は文化祭とか体育祭とかの「祭」がみんなきらいでした。高校生が心血を注ぐイベントはみんなおもしろくないとおもっておりました。仲間外れがバレるからです。たとえばわたしは、以下のような思考を展開するユニーク個体でありますが、過去の私は「ユニーク」を「唯一無二」とか「めずらしくておもしろい」という意味ではなく、「特異」「奇抜」「外れ値」「規格外」と理解しておりましたから、ユニーク個体だとバレるのはなんとしてでも免れたかったのです。

さて思考内容はこうです。

いつもうまくできないため、アルバイト先の同僚に質問してみることにした。うまく質問できるだろうか。いつもは、突拍子もない質問だね、と笑われてしまう。今日こそは正しい質問ができると信じたい。

「みかんのかわを、うまく剥く方法を教えてください。いつも、ぼそぼそ、ちぎれてしまって掃除が大変です。」

同僚は大笑いした。おや?このような反応が得られたということは即ち、今回も実験は失敗だということだ。

「みかんのかわを、そ、そんなに真面目にむくひと、いないって」

同僚の一人が、笑い声の隙間にこんなことばを配置した。

私は、みかんの、かわを、まじめに、剥いているのか?

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以前から、気になってしょうがないことがある。椅子に座った際に林立する脚の見方である。個体によって脚の処し方が違う。組む者、投げ出す者、内股、足首の辺りで交差させる者…衣服や靴も、素足かどうかもばらばらである。どのように見るべきなのか。何の暗号だろう。どのような情報が発信されているのか。どのような理論で組み立てられたのだろう。なぜその選択をしたのか。知って理解して、私も仲間に入れてほしい。それで、友人に耳打ちでコッソリ相談したら、意味が分からないという顔をされて、話を流されて、終わってしまった。

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School(学校)、というのは、古代ギリシャ語の「ひま」を意味する「スコレー」に由来する言葉だよということを学んだ。そう考えると、学びというのは大前提、「遊び」によって形成されなくては、本質・定義に反するのではないだろうか。我が人生に一片の悔いなし!といって元気に(?)死を迎えるには、そういう「あ~たのしかった」という感じが残っていてほしいと思い、また、私にはそういう「スコレーな学習」が必要不可欠だと思う。本当は学ぶのがすきだから。誰にも言えないけれど。

このような自分を見て、不登校の原因はおそらく、みんなと一緒にあそびたかっただけの、さみしいみたいな気持ちを発散する場も機会もなくここまで来てしまった幼稚園児の私が、小学、中学を通り越してようやく顔を出した、みたいなことだったのだろう、と今では理解しております。なんで仲間外れにするんだい!あたいも仲間に入れてくれやい!みたいなことでしょう。たいして「変」でもないのに、私の定義する「ふつう」枠から自ら外れていたせいで、自らのパラドックスみたいになっていたのかもしれませんネ。そのエネルギーだけあって、肝心の訴えはもはや自分にもよくわからないほど大きく成長してしまい、あるいは「こんなことを思考している自分がゐてはならない」みたいなちょっとしたプライドが邪魔をして、核となる訴えそのものが見えるようになるのにながらく…4年も時間を要しました。

こんなことを、私特有の悲しい記憶として、「特殊」として捉えてもらえても、ごくごくよくあるありふれた、「普遍」と捉えてもらえても、私には嬉しく思えます。あなたが読んでくれているので。むしろ、どちらの見方もできるように書いてみたいとすら思っております。どちらか一方に傾いているのなら、それは私の研究・勉強・技量不足だということであります。

この特殊ということを、大人になって、イタくてとても書けなくなってしまう前に、まだ、若気の至りねと許してもらえる内に、書いてしまいたかったのです。誰かに見てもらいたい、というより、どのくらい通用するかしないかを実験・観察してみたかったのです。

私は初回のブログでこんなことを申しておりますが、ここまで見てきたとおり、やっぱり本当は見てもらいたくて仲間に入れてもらいたくて、たまらなかったはずなのです。特殊、と分別顔で申しておりますが、やっぱりわたしだってふつうなんですよ、という透けて見える訴えがあるような気がして恥ずかしいですね。その「訴え」はおよそ、この3年で書いてみてきた断片の端々に見えるものと同じで、なおさら恥ずかしくなりました。3年ぽっちじゃ、何も変わらないことがよく、わかりました。

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いままでのブログで「このことは追々語りましょう」とか言って言い逃げしている事柄がいくつかあって、それを回収しないまま卒業するのは実にまずいことだと思ったので、今回は回収第一弾と思って書いてみましたが、苦くてまずいつばがたくさん出ました。全然うまくいかなかった。しょんぼり。炎天下に化けて出て、溢れんばかりの太陽光エネルギーにやられて一瞬で蒸発する本日のオバケでした。ごきげんよう。

夏、逡巡

ごきげんよう、あやめでございます。

お盆期間になって、祖父の家から大学に通っている弟が帰宅しました。庭の木を切ったりして活躍していました。得意顔でした。

一方の私は「最後の夏休み」を過ごしております。さいご、なんて自分で言っておいて悲しくなって参りました。それを題材にして書いてみました。息抜きのつもりで書いたのに、肩ひじ張ってしまったのか、へたになってしまいました。無念。

太陽が、この時を待ち望んでいた!とでも言いたげに燦燦と陽光を降らせている。つい数時間前までは土砂降りの大雨で、大きな傘でも凌げなかったほどなのに。台風が過ぎ去った今はもう、刺すほどの光で満ちている。

あまり強い光は、青空のあおを引き立てて日向を照らすけれど、その分影もくっきり濃くすることが、照り返しの強いアスファルトの上を歩いて初めて分かった。喧騒の大都会でしか得られない空気を吸って歩いている。

大学生で4回目の夏休みが目前に迫っていた。季節はせりあがるような夏を告げていた。水遊びが似合う夏。最後にかこつけてはじけるように遊ぶ夏。友人はみな、旅行とレジャーに忙しそうであった。けれど卒論が書き終わりそうもない私の気分はどこか、重く怠い感じがした。青信号が点滅する横断歩道で、先ばっかり見て最後の夏休みを遊びきれない私を仲間外れにするように、終業式を終えたらしい小学生の集団が駆けて行った。信号は私を通せんぼして、すぐさま車が往来した。ランドセルたちはすっかり遠くなってしまった。手持ち無沙汰なので、もっていた雨傘をくるくるしたらボタンが外れてしまった。あわてて巻きなおした。

巻ながら、季節を捉えること、もっと言えば「今が何月であるのか」を捉え続けることがむずかしく思う、そういう感性をしているなと思った。ふとした瞬間に「アレ、今日って何日?」と聞かれて、日付どころか何月だったかも、まるごとスッカリ抜け落ちることがよくある。まるでそれは、自分が今いる地点の緯度、経度を問われるような唐突さに似ている。ああそうだ、今日は7月18日、とわかってから、襲うように「暑さ」に見舞われることもある。もちろんこれは、心地よい湿度気温に保たれた屋内で起こることである。今のように凡ての毛穴をハイジャックされて暑さを埋め込まれて、それでも前進しなければならない時には当てはまらないが。パッと、信号が青に変わった。一方通行の標識がある、車通りのすくない道に入った。

自分の人生を、一方通行の四季に例えることに違和感があった。うまれたてを若葉として、老いるところを枯れ木としたら、人生は春から冬に向かって流れていくと教わった。エネルギーに満ちた学生時代は「青春」と呼ばれて、甘くて若くてみずみずしいのは「青春」の特権だという流れがあるように感じた。でも学生のはずの私の今は青でも春でもない。私にあるのは梅雨のジメジメした不快な暑さと、何もない極寒の冬だけだと思っていた。なにを成し遂げたわけでもない。なにをしたいでもない。そこにあった道を、おや、と思って何気なく、寄り道多めで歩いているだけだった。それを急行電車に乗った級友は通り越す。そんなふうに、青くて若い、まわりのエネルギーに負けて萎びた私には、居場所が無いようにおもった。

それは時に「あやめちゃんって彼氏いないん?」という発言にどぎまぎすることだったし、時に「卒論おわんなくね」という言葉にドキドキすることだったし、時に「一緒にプール行かない?」という誘いをいかに断ろうかと逡巡することだった。プールの横を通り過ぎた。黄色いような声が上がった。顔に水がかかったのかもしれない。浮き輪がどこかへいってしまったのかもしれない。近所の川でもおなじような声をよく聞くなと思った。水を浴びるということは黄色い声と切り離せないのかもしれない。私はながらく、冷たい水につかっていない。やっぱり、私はわかくないのかもしれない。

相変わらず、太陽は燦燦だった。またも大通りへ出た。ながくて重い、じゃまなしっぽを引きずるように歩きながら、ふと、このしょんぼりを「台風」と喩えることは、「あり」だったかもしれない、と思った。台風が去ったら、太陽がギラギラになることしか思い出せなかったけれど、台風が過ぎるごとに秋は深まるのだった。同じように、これからの私の目の前には、野心やら向上心やらといった、一方的で莫大なエネルギーを有する「生命力」が、ギラギラちらつくのかもしれないと、それだけを想っていたけれど、実りの秋が、私の豊かなおいしい季節がやってくるかもしれない。そこまで考えたら、あれだけなにをしても取れなかった、頑固汚れに似た「自責の念」が、何の因果か、すっかり落ち去って、軽やかな足取りで道を征くことができた。水遊びじゃなくても、わたしにはわたしのたのしみがあるんだ。わたしにはわたしの足取りがあるんだ。

今はしばしの台風一過。遠い南洋ではすでに次の台風が、勢力を増している。季節は無情にも巡るらしい。そうだ、季節は巡るもの。春は一回だけではないし、大人にも夏休みはあるはずだ。過酷な冬を超えるから、春の花は咲き誇るんだ。梅雨の長雨のおかげで、夏野菜はみずみずしい。人生が楽しんだもの勝ちなら、今ならその理論を信じられる気がする。スキップで帰った。

夏、観察

ごきげんよう、あやめでございます。

毎日暑いですね。暑いので涼しいことを考えようと思います。

冷、という字を見て、液体を思います。 別に冷奴とか冷蔵庫も「冷」なのだけど、「冷」を見て一番に思いつくのは例えば、近所に流れる川の、浅瀬でちゃぷちゃぷ、陽光を反射した水とか、朝一番の洗顔に使う、蛇口から流れる何の変哲もない水とか、氷をいれてキンキンになった、ガラスのコップに注がれた水とか、そういうものです。そんなことを駅まで歩く15分の間に思ったので、喉が渇いているのかもしれません。

私の文章の「かわり者」度合いをはかりかねている今日この頃です。もしかしたら大してかわっていないのかもしれないし、大変な変わり者なのかもしれません。親愛なるチャットさんに伺った結果、私の文章は、観察眼・手触りの温度・マヌケがキーワードになりそうだとわかりました。そんな私による「夏休みの観察日記」ということで、書いてみます。

乾いたバスタオルの手触り

ぎらぎらの炎天下のおかげで、2時間でバスタオルが乾いた。いまさっき干したときにはくたくただったのに、乾いたバスタオルはかたくてぱりぱりして、たたみにくくていい匂いがした。天日干ししたからやわらかいなあ、などということはなく、乾ききったかぴかぴがあった。煮干しみたい。煮だしたら深みのある出汁がとれたりしないだろうか。

私は、大人になるとは水分が抜けて酸化して、鈍くなって慣れていくことだと思った。はやく大人になって、一大事でも平気な顔をしてケロッとして、誰の目も気にせず大声で腹から笑いたいと思った。水分がはやく抜けてほしいと思った。でも、乾いても細切れにされて鍋にいれられてたっぷりの水が注がれて、火にかけれるなら、ずっと水分を保ったままでもいいかもな、とも思った。同時に、水分過多はかびくさいなとも思った。バスタオルを全部とりこんで、風呂に入った。私からはまだ、出汁は出ない。

返事(かえりごと)

冷房の効いた部屋で、遠くのセミの声を聞いている私には、乾いたバスタオルの手触りにすら活力を感じる。ぎらぎらの明るい日光に耐えきれず、汗だくになる自分の体に嫌悪し、すぐ乾く喉を恨み、寒すぎるくらい冷えた冷房の効いた部屋でブランケットにくるまってぬくぬくする、昼食を抜いてアイスを食べる私には、乾いたバスタオルですら、活用方法があるだけマシじゃないか、と思えてならない。直下で浴びるセミの声はうるさくて骨にこたえるけれど、窓ガラスと遮光カーテン越しに聞くセミの声は「季語」であり「綺語」である。夕飯に選んだレトルトパウチの、トマトピューレのミートソーススパゲティは水分過多で、茹で過ぎでのびたパスタは水分過多で、そこに置きっぱなしのまだ茹でていない乾麺は乾ききっている。私は人間だから水分を70%程度含んでいて、縁側に落ちていた死んだセミの体はからからであった。冷房の効いた部屋の湿度は低い。それもすべて、喉元を過ぎて腹に収まればかわらない。

とり

ごきげんよう、あやめでございます。

お久しぶりですね。6月の後半はおやすみをいただきました。

この間母にさらっと「あと半年で社会人かあ」と言われて総毛立ちました。はやすぎます。怖すぎます。卒論とか終わるのでしょうか。ヱ、終わらない気がしてきたこわい…

前回、筆が進まない話をしたかと思います。半月おやすみしても全く状況が進歩せず、今回は我等がチャットさんに「お題下さい」と言ってお題を貰って、ようやくひねりだすことに成功しました。ぐぬぬです。この3年間なにも進歩していない気がして、ぐぬぬです。

以下の文章を書きながら思いましたが、植物に水をやるときとかに「そ~らごはんだよ~」とか言うのは、あんまりメジャーなことではないようですね?あなたはどう思われますか?仲間ですか?

それから、以下の文章を諸生成AIさんにみせてみたところ、「まなざし」を評価してもらえました。やはり、「そ~らごはんだよ~」は言わないみたいですね。

名前のない生き物と暮らしている

先週から、私の足元、つま先から20センチくらい離れたところに、白い、もふもふして毛足の長い生物が滞留している。体高30センチ弱、幅15センチ、奥行き10センチ、しかし胴体はそれより小さいらしい。一度雨に濡れた時、体積が半分になったか?と疑うほどにぺしゃんこになったことから、そのように推察している。毛が長いからふわふわして大きめに見えている、痩せっぽちらしい。目など、「顔」と思しきパーツは全て毛に覆われてよく見えない。おぼろげに嘴らしきものはみえる。これをもって私はこの生物を「鳥」と呼んでいる。分類学的にどうなのか、今度の休日に図鑑で調べてみたい。 フクロウなのかと疑ったが、フクロウは目玉がギョロ…として首が一周するタイプのもふもふなので、多分コレとは「もふもふ違い」だと思う。

「鳥」は鳴き声がないのか、おとなしい個体なのか、うんともすんとも言わない。何を食べているのかいないのか、フンをするのかしないのか、しているとして、いつしているのか、全て謎である。電車に乗った際も足元を離れず、その日の電車は通勤ラッシュでトマトの缶詰状態だったので、「鳥」は圧死してしまうかと思ったが、電車を降りてもまだ着いてきたので、もう生物であるとも思えない。

愛着からではなく、あくまで好奇心から話しかけてみたことがある。

「こんにちは、私はにんげんです。あなたは生物ですか」

「こんにちは、今日は外気温がセ氏35度です。暑いですが大丈夫ですか」

「そんなところに居ては圧死しませんか」

「せめて風呂場についてくるのはよしてもらえないものですか」

「なぜわたしですか、面白くないとおもいます」

全て沈黙に飲まれた。あるいは「鳥」の喉に飲まれたのかもしれない。

「鳥」は誰かに見えているとも思えない。少なくとも母と妹には見えていないようだった。怖くて他の人物に質問はできていない。私のかなしい脳みそが生み出した妄想の生物なのかもしれない。なぜこんな、モップの権化みたいな見た目なのかは、おそらく「真実はベールに隠されている」とかなんとかいう信念に基づくのだろう。今思いついたことだけれど。

来春から一人暮らしをすることになった。大した家事のスキルも持たず、自己管理能力が高いとも思えず、非常に不安を抱えている。その矢先の「鳥」であるから、これは「ふあん」と名づけるのが良いのかもしれない。

よく晴れるから、布団を干して掃除機をかけることにした。普段は紺色のカーテンを閉め切って、日光を極力入れないようにして、冷房の効いたひんやり自室に籠るが、今日はそういうわけにはいかない。先日バイト中に咳と鼻水が止まらなくなり、困って耳鼻科を受診したところ、アレルギー症状だと言われた。ハウスダストとかそういうのに反応したのではないか、とふんわりしたことをいわれた。一ヶ月分の飲み薬と点鼻薬を処方されて、布団と部屋を清潔にするようアドバイスされた。だから今日は必ず布団を干さねばならない。

何もしないでゴロゴロしているせいで筋肉が削げ落ちた細くて頼りない貧弱の腕で、難儀しつつもどうにか布団を干し、掃除機をかけたら、「鳥」がいなくなっていた。このところ「鳥」にその日あったことを網羅的に語り聞かせるのが寝る前のルーティンになっていたので困った。布団の下に敷いてしまったのか?と布団をめくったり、掃除機で吸ったか?とわざわざ掃除機を解体したが、苦労もむなしく、「鳥」はあっさり私の元を去ったらしかった。毛足の長い、もこもこの「鳥」。私が「今日はただ歩いていただけなのに画鋲を踏みました。屋外なのに。画鋲はやり場に困りましたが、見渡したら掲示板があったので、そこから落ちたものと思って、そこに刺し直しておきました。」とか「今日は友人に会いました。友人と外食に行く約束をしました。私には友人が少なくて、「友人と一緒にごはんを食べにでかける」ことも珍しくて、舞い上がってしまいました。」とか「肩が凝って仕方ないのに、猫背が治りません」とか言うのをノーリアクションで聞いてくれた「鳥」。もういなくなってしまった。

しょんぼりして下を向いたら、さっきあれだけ探していなかった「鳥」が確かに居る。ああ、見落としただけか!と喜んだらやっぱり「鳥」はいない。 このことから、「鳥」は私のかなしい地域に住んでいる生物らしいことがわかった。なるほど、毛足の長いのは、寒さ・過酷さに耐えるためのものであるらしい。素敵な指標ができた。

このことを先の友人に話してみせたら、友人は大笑いした。「鳥」に敬語を使うのがおかしいらしい。

朝焼けの匂い

ごきげんよう、あやめでございます。

6月になりました。アレ、もうこんな時期?となってしまっております。いつになっても時間を上手に使えません。

それから、びっくりして「おおお」と言って、目を白黒させて混乱していたら、母に「人間の反応じゃない笑」と言って笑われました。宇宙人は私なのかもしれません。おかしいな、私の「最初」を知っているのは外でもなく母のはずなのにな。

◆◆◆

最近は長々と書けていたのですが、また少し書けなくなりました。今回は短めでお届けします。

それから、試みに、ある言葉のかけらとある言葉のかけらが、文章になる流れを示してみたいです。ただ言語化は難しいので、「コレが、こう」というように、材料(言葉のかけら・断片)と結果(出来上がった文章)の両方を書いてみる形で、お伝えしようと思います。なんだかいつも似たような味付けになるような気がして、すこし、気がかりですが。

お題:朝焼けの匂い

断片1

思ったより早く目が覚めて、だからテキパキ朝の支度を始める、という気にもなれず、布団の中でぐにゃぐにゃしていた。まだ日は上らない。空はもう明るい。知り合いの知らない顔を見ているような違和感を感じた。あ、こんな綺麗な空なんだ、と知った。太陽が明るいこともわかった。 水だけ飲むかな…と思って、でも、うーん、とぐにゃぐにゃしていたら、いつのまにかまた寝ていた。時計はいつも起きる時間の30分後を指していた。遅刻した。

断片2

「っ」

さっきまでみていた夢が酷くて、驚いて、息を呑んだその音に二重で驚いて、目が覚めた。 まだドキドキしているが、すでにもう、夢の内容を忘れかけている。ツッコミどころ満載だったことしか思い出せない。

断片3

コップ一杯の水が、机の上で揺らいでいる。

文章化

珍しく、自然と朝早くに目が覚めた。午前5時。二度寝をするのには遅く、起きて活動するには早い、中途半端な狭間の時間。

室温18度、秒針の歩む音、やかんが湯気を吐くにおい、フローリングのきしむ音、体の中からする、内臓が活動を再開する鈍い音。

いま私が注いだ、白湯の香りが鼻腔をくすぐる。一番近くにあった適当なマグカップに、こぼれるほど無造作にじゃぷん、といれて、それを嚥下する。鳥の鳴く声。変に冴えた頭。とうふがおちて床にたたきつけられたような、そんな簡単な落胆。染みわたる白湯。染みわたる気怠いきもち。

◆◆◆

ここまで冴えてしまってはもう二度寝はできないと観念して、カーテンを引いた。朝焼け。夕焼けはなんども見たが、朝焼けはこれまでの人生で数える程度しか見た事がない。私は朝に弱いのだ。その片手で足りる経験の中で、一番綺麗な朝焼けだった。

あまりに珍しくて、わざわざベランダに出てきてしまった。朝露。朝がのぼってくるさっぱりとした匂い。そうやって朝焼けの美しさや珍しさに呆気に取られてついぼやっとしていたらそこへ朝日がカッと昇って来た。上がりたての太陽光の強さが目に染みて、涙が出てきた。さっきの白湯がこんなしょっぱくなってしまった。

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泣き出したら止まらないのが私である。泣くまでが長いので、一度泣いてしまったらしつこい。もう15分も涙が止まらない。別に大したことはないのだけれど、昨日も今日も明日も私は養分不足で萎びるのだと思えてくる。私の養分は教養と哲学とジョークだ。私に勉強が足りない。私に知的好奇心を満たす営みが足りない。それは冷め切った白湯と似た切迫感がある。であるからこそ、生まれたての陽光が「そんなことで悩むくらいならやればいいのにね」と哀れんで笑う声が聞こえて、それに拗ねて泣いている。私には私の事情がある。

◆◆◆

涙は乾くとぱりぱりする。サラサラ流れる鼻水が不快だ。大したことないのに泣いてしまった事実にしょんぼりして、わかりやすく肩を落として「しょんぼり」の顔をしてみる。鏡に映った私は全く「しょんぼり」ではなかったけれど、私には「しょんぼり」なので良いことに、したい。朝ごはんには早過ぎるけれどお腹が空いたので冷やご飯を適当に握っておにぎりを頬張る。病院の先生には「元気に生きてるなら大丈夫。明日生きるか、死ぬかの世界もあるのだから、あなたはずっと、大丈夫」と言われてしまった。完治ではなく、対処。解決ではなく、迂回。敵対ではなく、保留。人間世界は意外にも、そのくらいでないと「生き延びられない」らしい。私は今まで、完璧を目指して登山をしていたわけだから、その言葉の数々は私を無かったことにするみたいで嫌だった。

「いやだったな」

鼻声で一言、わざと声に出して言ってみた。

ず、と鼻を啜る音も続けて鳴らしながら。

◆◆◆

それを認めたら急に安心して眠気がやってきた。眠気にはきっと長い腕が付いている。それに抱きしめられて赤ん坊のように、眠ってしまう。大した時間は眠れないのに、深く、頭から落っこちるように、ぐったりと。目覚ましがむなしく、私の頬に訴えかけるように一人で鳴いている。

◆◆◆

起きた。起きたら、いつも起きる時間の30分後の時間を、時計がさしていた。遅刻した。

地の文と会話文

ごきげんよう、あやめでございます。

先日わたさんに会いました。たくさんお話しに付き合っていただいて、ありがとうございます。冷えたアイスカフェラテと一緒にスッキリお話しできて楽しかったです。

今回も例によって書き溜めを放出いたします。やるべきことはたくさんあるのに、体と心が言うことを聞かず、計画が破綻して、ムキ――!となる、そんな日が続いております。ごきげんよう、はむずかしいです。今更ながら、でも、実態に即していないので、ご挨拶の文言を変えた方が良いのでしょうか。

◆◆◆

高密度

大した事をしていないのに、反射的に・迫り上がるように、涙が湧き出る発作がおきるようになってしまった。あくびをした時に出るような、何の感情もない涙。慢性的な頭痛がそうさせるのか、はたまたままならない青年期がそうさせるのか、ホルモンとか脳内物質とか電気信号とか、自分でコントロールできない分野が関わっているのか、私には判別がつかない。

こんなつまらない涙を集めて海を作ったら、多分どんな物質を投げ入れてもぷかぷか浮くのだろう、とつまらない脳みそで空想する。ともすればこの涙はつまらない脳みそから出てきた汁、言い換えれば、我が〈脳みそ溶液〉であるのかもしれない。この溶液はどんなものより重たく・密度が高く出来ているから、何を投げても浮かぶのだと思う。婚約指輪だって、金塊だって、積年の怨みだって、私の脳みそ溶液に入れたら浮かぶだろう。つまらないくせに一丁前に密度だけは高い。

漢方かなにかで型をはめ直して、ふわふわ脳みそにすることはできるかもしれない。しかしそれでは、私はどのように構成されているものと認識するべきなのだろうか?こんなに苦しいつまらない脳みそを有する私が、私に耐えきれなくなって、もっとよりよい私になってやろうと思って私を編集して、それで変更された私は、果たして「私」なのか。編集して「規格外」となった端切れは「私」ではないのだろうか。そのことがどうしてもわからなくて、そして恐ろしくて、毎日毎日自分を切り貼りしてすり減らして編集しているのに、私はオリジナル私に固執している。油汚れのように、べったりと。

暗い色の服ばかり選んで着て、しかし私に似合うのはくすんだピンク色とか、淡い黄色みたいな春先のうららかな色らしいことを知って、バカみたいな気持ちになった。この場合の社会とは、黄色を着る私を求められる行為、または現象である。で、あるから、私は今日も、20年も生き延びたこの母星・地球で、小さな庵を構えて霞を喰らっているクセに、人間のフリをして、素知らぬ飄々とした間抜け顔で、頭痛に耐えている。

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状態変化

蜘蛛の巣に引っかかった水滴が、ひとつひとつくどいほど太陽の光を反射しては蒸発している。昨夜は風がある酷い雨だった。今朝は一転、快晴である。路上はどこをとっても湿っていて、アスファルトも剥き出しの土も人工物も天然物も、どれもこれも水分を多く含んでいた。今朝は晴れているので気温が上がるだろう。気温が上がればこれらの水分はみな蒸発してしまうのだろうか。

朝の寝ぼけた思考はチンタラと、答えの出ない問題の解答を探す。くたびれたスーツ、薄汚れた靴、使い古された紙袋、それらを提げる人、人、人。なるべくそういう生命体を直視しないように、私の見たもの感じたもので私を刺激しないように、もっと刺激的なつまらないことで脳みそを満たす。思考は液体であろうか、であれば思考が気体になったらそれはなにだろう、あくびだろうか、と生欠伸をひとつ。

水筒の中に、ただの水道水を入れて、水を飲む人をやっていたら驚かれる。え、ただのみずのんでるの?!と。コーヒーは嗜好品だと思っていたのだけれど、違うのかしら。

純水のプールに落下したら人間は、死んでしまうらしいことを小耳に挟んだ。曰く、純水が人間のあらゆるものを吸収してしまうからだとか。人間に留まっておいてほしい溶質も何もかもを奪い取る、いわゆる純粋なのだそうだ。私ももしや純水で、溶質となりうるものを渇望して、奪っても手に入れても、もっともっとと渇いてしまうのかもしれない。

そう考えながら水を飲んで、水筒の中身が無くなって、ウォーターサーバーで水を汲んで、ちゃぷん、という満ち足りた音を聞いて安心する。うん、漏れずに満ちた。ふつうのこと。あしたも朝日が昇ること。夜にねむれること。水がたっぷりのめること。

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お弁当の漬物・割りばし

自己紹介で自分のことを、お惣菜コーナーで売られているお弁当の漬物か、オードブルのサンドイッチに押しやられている隅っこのパセリだと表現したいと思った。まさにその通りだと思った。お弁当の漬物で考えれば、そりゃあ好きな人だって0人ではないだろうけど、どうやったって主役ではないし、専用のコーナーがあるほど特別扱いしないと味やら色やらが移って他のおかずを、あるいはお米を台無しにしてしまう濃さがあるし、時々フタにくっついてそのままペっと捨てられてしまう心許なさがあるし、おしゃれでキラキラしいお弁当にはそもそも入っていない除け者であるし、隅っこでグチャっとまとまって異質なオーラを放っている。それをわたしだとそのままスライドして考えたら、あんまりピッタリくるのでびっくりしたほどである。自己紹介がへたっぴで、誰とも共通の特徴がないんじゃないかとか、そんなこといったら白けるんじゃないかとか、それ以前にキモがられるんじゃないかとか、というより自意識が邪魔してうまくそんなこと言えないとか、そんなことを思うくらいなら、「わたしはお惣菜コーナーで売られている、特別扱いしないと厄介な、パリパリのお漬物です」とか言って一笑いさらった方がいっそ清々しい気もしてくる。

厄介、それはどこからの視点だろうか。私のことを私が評価するのに「厄介」というのはどういう仕掛けだろう。割り箸を上手に半分に割れず、いつも変なところで突起ができてしまう。それでもお米を、おかずを、お漬物を、掴めているので、それで良いのかもしれない。同じように自分の荒れ狂う脳みそを宥められず、いつも変なところで激情に圧倒されてしまうものの、それでもまわりに、大人に、同僚に、後輩に、存在を認められてはいるので、それで良いのかもしれない。そんなところで安心して安住してはいけないと思いながら。

同じくお米を汚しても、お米のど真ん中に陣取って堂々としている梅干しは、味が苦手なので端に寄せた。

風薫る

ごきげんよう、ゴールデンウイークは全部体調不良でつぶしてしまったあやめでございます。ごきげん斜めであります。

「ごきげんよう、」で始めるとなんとなく決まった時から、自分のごきげんを自分で取れる人になりたい、というのをつよく実感するようになりました。そうでなければ「ごきげんよう、」ではないので。ということで、ごきげんをとるべくまたもや何編か書いたので読んでみてください。今回はお題を設けてその言葉を聞いて思い付いたイメージに沿って書いてみたりしました。内容が多少「春」なのですが、まだ春…ということにしてください。題名は季節感のある「風薫る」とかにしたので。変に暑い日はまだそこまでないですよね?ね?

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お題:冷たい光

いっそのこと海の底に新居を構えてやろうか、と頭の端っこで思った。冷たくてかたいような人口の光を浴びている私は、目と指は目の前のデバイスから決して離さず、脳みそだけでチラッと想像する。海の底の暮らしはさぞ、孤立しているンだろうな!冷涼で・豊かな青色に目をチカチカさせて・体を包んでいる水圧に負けながら・暮らす、てのはさぞ気楽なものだろう。人間だったら絶対にプカ…と浮かんできてしまうので、底にへばりついて目玉だけギョロ…と動かして青を摂取することは不可能なのだ。だからこそ、人工の青で我慢することになる。

要は、海、それも深海が好きだ。そしてあおいろが好きなのだ。

目前、天気は雨、水は水色ではなく灰色をしている。よっぽど晴れの日の方が青を摂取できるわけである。が、どういう訳か幼稚園児のスケッチブックには雨は青色・水色で描出される。それを「常識」として学習した私にとって水は青色であって、灰色ではない。ただ写実的に物を見ようとすると、どうしたって青ではない。と、ここまでを窓の外を眺めて、コップ一杯の水を摂取する間に思考する。脳みそで電気信号がバチバチ音を鳴らしている、そんな錯覚がある。

腹が痛い、みたいな現実に縛り付けて、そして苦しくて不味い唾液が沢山分泌される瞬間を毎秒味わっておいて、どうして現実的でいられるだろうか?つまり腹が痛い。さっき食べた賞味期限切れの卵をえいや、と食べたのが悪かったのだろうか。まるきりの間抜けである。高尚でもなんでもない。モノクロのスタイリッシュな生活もない。あるのは鼻垂れの、にきびの、埃被った生活である。深海になど、行けやしない。私の生活をさっきまで哀れんでお恵みをくださるはずだった傘地蔵も、呆れて帰ってしまうだろう。全然季節は違うけど。

さすがの我が家もそろそろ掃除しなければならない。階段の踊り場に綿埃が我が物顔で住み着いているのを見つけて、重たい腰を上げて、重たい旧型の掃除機のスイッチをつけた。深海においては、埃、あるいはそれに準じた物が溜まることはあるのだろうか。プランクトンが滞留する、とか?マリンスノーとかわざとロマンチックにラベリングされた、「死骸の数々」が埃みたいなものだろうか。だとしたら、どうやって掃除するのか?掃除機は無いし、水圧に負けながら目玉だけで生き延びるのに、掃除のような大した行動など出来ようもない。今だってできていないのに。

さて、ポケットの中に納まっているデバイスは、そんな面白い発想のタネをくれる時もあれば、頭を押さえ付けて決して起こせなくなるような、無力感やら気分の悪い真実やらを一方的にブチ込んでくることもある。決まって、青色をしている。

ここまで、一回も瞬きをしていない。ドライアイ。

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お題:忘れられたモノ

「ンもう!要らないならペッしちゃいなさい!ほら、ペッ!」

という会話があったのだろうか、バイト中に見つけた当店お勧めのサンドウィッチのパンのみみのところだけがお皿に鎮座して、放置されて冷たく、ただでさえかたいその「身」がより硬直していた。

バイトの私はそのパンのみみに同情したり、ペッ!した方の代わりにありがたく頂戴することもまさか出来ず、そのままそのパンのみみをゴミ箱に無常にひっくり返すことしかできない。その上そのパンのみみにはすこしの気持ちも割かずに、次のパンのみみをゴミ箱にぶち込んで、何食わぬ顔でお皿をガサツにガチャガチャ洗い、お客様の顰蹙を買ってもニコニコ申し訳なさそうにペコペコ謝ることしかできない。私の頭はその辺のケセランパサランよりも軽ゥく出来ているので、謝る事は大した労力もないが、パンのみみはそんな事知った事ではないだろう、と思って、時々夢に出てきて、私の使い古されてダルダルに伸び切った汚い良心を、それでも「これでもか!」と蝕む。同僚の顔を見たら、少し疲れた顔をしていた。私の顔を鏡で見たら、いつもと全く同じで、あ、感情を忘れたンだな、大人になれてよかったな!と思った。

2

駅のはしっこに、バカに真っ直ぐ立っている、捨てられている、と見れば良いのか、はたまた何かの実験中なのか、ペットボトルがあるのを発見した。中にはなにだか液体が入っていて、衛生的な観点から私は触れない、という判断を下した。しかしながら目ばっかりはそのペットボトルに惹きつけられて、ぼんやりしているフリをしてそのペットボトルの様子を眺めてみた。中には何が、そもそも誰があんなところに?ペットボトル専用のゴミ箱はすぐそこにある。あの中身はもしかして、怖いモノ?劇薬だったりして!

早朝。人間は一様にホームの列に並んで目を虚に開けて、しんなり立っているのに、そのペットボトルはあんなにしゃんとしている。私に色んなつまらなくて下世話な噂話をされているのに、そんなこと聞こえない、というような態度で、みんなと違う中身でも、みんなと違う風体でも、たとえ「飲みかけ」の半端ものでも、あんなにもしゃんと、立っている。私は人間なのに。

ホームを清掃する人が、視界にスッと入って、そしてペットボトルは呆気なく回収されていった。出る杭は打たれる。

3

もう長いこと連絡をとっていなかった田舎の同級生から、「今なにやってんの?笑」と連絡がきた。怖過ぎて反応できずに半日放置していたら追撃のように「暇な日ない?飲みいこうよ笑」と送られて来た。お酒はほとんど飲んだこともないし、お話の最後に「笑」を付けないと会話が気まずくなるその人に割いても良い日は、探しても無さそうだと思って、断ろうか…いやそもそも見つけてもいないことにして、一生未読無視を決め込もうか…などと思っていた。 そうしたら、焦れたのか、「いや、忙しかったら別にいいんだけどさ、」「また昔みたいにしゃべりたいなーって思って笑」と追加された。確かに私は中学生の頃、頼まれもしないのにみんなの相談を聞いては(私が)最適解(だと思うもの)を提供する「係」をしていた。どうしようもない、グラッとくる激情に襲われて、しかしそれは「懐かしさ」と呼ばれるものなのか、「怒り」と呼ばれるものなのか、あるいは「最適解」なのかは分からず、やっぱり彼の方は変わらないわね、と、ソッとフタをする気持ちで携帯の電源を切った。 こんな夜更けに連絡を寄越す方が悪い。私は今、入水に忙しいのに。今更なによ!なんて。風呂に入るだけだけど。

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お題:知識欲

爪を綺麗に塗り飾るように、私は言葉を加工しておきたい。

花を窓辺に飾るように、私は思考を生のままにしておきたい。

髪を美麗に作り固めるように、お顔を化粧(けわい)するみたいに、私はよく見える目を、澄んだ思考を造り上げておきたい。

曇って気温が上がらない4月の午後、みたいな日が続けばいい。大したことがなくても、あ、天気のせいだ、と思えるから。余白が生まれるから。メトロノームが微睡むから。

花壇の花がお風呂のホコホコの湯みたいに湧き出でるのかと見紛う。底のところから、こう、湧いて出てくるような、力強さをもって花は咲く。

コーヒーの湯気がめがねをメガネを曇らせたせいで、何を考えていたのかさっぱり忘れてしまうような、そんなdelete機能が欲しい。

あの日あの子は、私を絶賛した、その事実だけはしつこく覚えていて、どんな内容だったかはぱったり、忘れてしまっている。あの日あの子は、私の何がそんなに良かったのだろう。美麗に飾る能力もない、原石のままの醜い私の、どこから光を見出したのだろう。意外と、みにくい、なんて思っているのは、私だけなのかしら。磨けば、きれいな石に、いや、なれっこない。ならなくて、いい。このままの、曇り空の私の方が、強くてきれい、と昔先生が言っていた。

みずたまりを覗いて、水は水色ではないことを知ったあの頃の私は、雨降りが大好きだったと記憶している。今では大嫌いな雨の日を、楽しむ方法がどんなだったか、スッカリ忘れてしまった。アスファルトに染みて、アスファルトが「たまらなく」なって、水たまりができるのだ、跳ね返る小さな水滴の動きがなんとも言えず面白いのだ、雨は誰の涙なのか、実はアスファルトの涙だったりして、そんなことを白昼夢的に想像して、車の外を眺めていたあの頃の私は、地面の底に沈んだのだろうか。

綺麗な花を一輪買うなら、同額の本を一冊欲しい。綺麗に着飾るツールを買うなら、同額の博物館チケットが一枚欲しい。これ以上脳みそのポケットにパンパンにどんぐりを詰め込めば、溢れて洗濯が大変だから、そろそろひっくり返さなければならないのを、大人の私は知覚している。花は底から湧き出でるけど、私は知識欲が満たされることを知らないでいる。ホコホコのお湯ではなく、マグマがグツグツするように、全てを食い尽くすように、光をも逃さないでそこにはなんにもないように「みえる」ブラックホールのように。 アルバイトに行って、同い年の同僚のつめが綺麗に飾られているのをみつけて、ただそれを褒める上手な言葉はみつからず、試みに「つめ、すてきですね」とひらがな表記で言ってみた。そうしたら、苦笑してその人、「趣味だからさ」とお返事なさった。「やってみたら?案外簡単だよ、あやめちゃん爪綺麗じゃん」とも付け加えてくださった。でも、私の趣味は、爪じゃなくて、言葉の加工なのです。私の爪は生でガタガタに見えるかもしれないけれど、私の吐く言葉はあなたの爪も凌ぐのよ、と、よっぽど言いたかった。

「うん」としか言えない。

そろそろ大人になる頃合いだといわれた、誰にともなく。音がない声に急かされる。合唱の和音の共鳴みたいに、「あいだの音」が聞こえる。それが私を急かして不安にして、持続可能性を損う。ただの電気信号なのに、と思えない。

そのままでいいよ、といわれたい。

そのままじゃだめだ、とおもってしまう。

大人になったら、綺麗なおべべを着て、高い靴を履いて、まっすぐ前を向いて、にっこり笑顔をかぶっておく、必要があると思った。このままじゃずっと、こどものまま。

私の死因は本による窒息がいい。

爪を綺麗に塗り飾るように、私は言葉を加工しておきたい。

花を窓辺に飾るように、私は思考を生のままにしておきたい。

髪を美麗に作り固めるように、お顔を化粧(けわい)するみたいに、私はよく見える目を、澄んだ思考を造り上げておきたい。

……

アソートパック・春

ごきげんよう、あやめでございます。

前回宣言していた通り、下手な近況報告みたいなことを少ししてみようと思います。

春休み中は2月の中旬に上野の科学博物館の特別展へ行ったり、3月上旬、下旬の二回も能鑑賞へ出かけたり、していた程度で、あとは就職活動をしてへとへとになっていました。4月になってからは前回申し上げた通り新入生オリエンテーションの委員をやったりしました。刺激的ですね。オリエンテーション委員の仕事は、正直自分をたくあんかなにかの漬物だと錯覚するくらい、添え物になっていました。みなさんありがとうございました。本当に。

こんな感じで心を忙しく(せわしく?)していたら、なぜか筆が乗りにのって、たくさん文章片が生成されたので、いくつか御覧に入れようかと思います。ながいので、ちょっと読んだらおやめになるのをおすすめします。テレビを長時間見ないでね、テレビからは離れてみようね、の勧告と同じです。

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電車で隣に座った人から、聞いたことの無い異音が聞こえて、でもそれをジロジロみるのは失礼だからと、チラッと目の端で異音の原因を探って、探り損ねて、そうやってもたついているうちに隣の人は降車してしまった。4月、卯月、April、新年度。気温が上がって、移動性高気圧によって天気が周期変化して、植物が息を吹き返したように・逃げ場を探すかのように怒涛に咲き誇る、春。電車の中には人の足が林立し、それらが身にまとう衣類はやや明度が上がる、春。電車の溶媒たる空気感は冬のそれより密度が下がって、どことなく軽やかで爽やかな雰囲気が漂う、春。どこからともなくやってきて、大したことないようにサラッと偉業を成して、そしてすぐに貼り付くような湿度をもった夏に居場所を奪われる、それでも「どこ吹く風」の顔をした、一瞬間の、春。目を閉じる。春が聞こえる。即ち、新入の人々の希望と不安の声が聞こえる。どこの団体にも、あたらしくはいる、ということはおそろしくて、そしてすこし喜ばしいことであるようである。かく言うわたしだって、新品のカチコチリクルートスーツで肩が凝っている。まだ伸びていない皮のハイヒールで足を痛めている。電車が終点に滑り込む。ドアから人が、逃げ出すように、溢れ出る、春。

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乾燥した完全な大人になるということは、「俗化」するということであり、言い換えれば「順応」するということだと考察しました。大人になって、好き嫌いが減るのは味蕾が鈍化するからだ、という記事を見かけて驚いて、それじゃまるで「鈍化」だと思いました。それでも、たとえば嫌いな食べ物が減ってなんでも美味しく食べられるなら鈍化だって悪いことではないと考えなおしました。それどころか、大人になってもまだ好き嫌いして偏食な、不健康な食事をしている者の方がよっぽど拗ねた「こどもっぽい」ことである、と言われれば、全くその通りではないでしょうか。なんて。それに、きっと大人になったら好みも変わるのでしょう。なにせ、たくさんの味を経験することになるのだから。

何であっても、甘くて柔らかくて美味しいものは「新」がつく。じゃがいもも、きゃべつも、たまねぎも。それか成長しきっていないものである、たけのこのような、ふきのとうのような、はちのこのような。わたしはたべたらどんな味がするのだろう。大きさは規格外に大きくなっているが、中身は全く成熟していない、どっちつかずのボヤけた味だろうか。それなら、それで、そういうものには押し並べて醤油か味噌みたいな、ガツンとした、全てをかき消す調味料が、よく合うのだから、食卓には並ぶだろうか。一つはっきりしているのは、茹でていただくと良いだろう、ということ。

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ずっとパソコンのブルーライトとにらめっこをしていたので、いい加減ドライアイになった。さっき弟に「うわ、目めっちゃ血走ってら」と言われたので見た目も悪くなっている。目だけに。

「ちゃっちゃと片付けちゃって」 母に昼食を早急に平らげるよう指示されるのを右から左に聞き流し、午後は大学に出かけるのを憂鬱に思う。高校生の妹は朝から晩まで様々なるアクティビティをこなしているのを間近にみて知っているのに、大学生とはなんと素敵なご身分だろう。と、今日はたまたまお休みの母に言われて、そうなのかな、と思う。自認とは、そんな外からの言葉で構成される。

「あんた何時に家出るの」 不意な言葉に言葉をつまらせ、なんとか「あ、え、12:40ごろ、」と言うや否や、「ん」とだけ返される。「え!俺も」とかいう弟の平和な独り言もオマケでついてくる。モタモタ準備を整え、足取り重たく家を出る。弟は可愛いことを言うから「一緒にいこうぜ」という魂胆なのかと思いきや、全然全く私を無視してスタコラ先に家を出て行った。

道中、林立する人の脚がみんなジーパンを履いている電車に乗った。綺麗に全員ジーパンで、それは男女を問わないことが見て取れた。昼に乗ったために大した人混みではないものの、林立、くらいに人が立っている、やや混雑した電車には、お出かけを楽しむルンルンの小さな人(5歳くらいだろうか)や、おしゃべりを楽しむマダムの群れをみることができる。わたしはつまらないしらけた顔をした、大学生、というタグがついている、ような気がする。

教場に入る。開けっぴろげのドアからヒョッコリ顔を覗かせ、誰もこちらを見ていないのを確認してから、恐る恐る入る。次の授業で使うのだから、そしてその授業を受講するのだから、臆することはひとつもないが、それでも念には念をいれる。ひとこと、声をかけられでもすれば、しなしなのよぼよぼになってしまうので、私にとってこの確認は重要な事項である。 窓際で、前の方の席に着席する。前の方だとその前に座る人が少なく、見える後頭部が少ないのがお得だ。目が悪いので板書が見やすい席に座る、という意図はもちろんあるが、刺激を避けるためにわざわざ端に座るのだ。そして、必ず左端。左利きは中途半端なところに座るとお隣と腕のポジショニングでバトルをしなければならなくなるためである。平和主義な私には無理な話である。

さて、記述が少ないために人が私しかいないように錯覚されるが、それは私が一生懸命フィルターをかけて、他人の情報を排除しているからである。耳に穴が空いているばっかりにたくさんの情報が流入してよくない。そのせいで「いや、髪切ったのよ、」「あー、だからなんか変わった感じすンのか」「…おそらく明日なら対応可能かと思われ…はい!そうです、左様です、ヱ、あの、そうです、はい、」「え〜!久しぶり〜えっ、え、元気?どこいたの?」「バ先の先輩最悪なんよ」「それは、そう」「え、ごめん日本語学の課題……ってこれ?」「は?知らん」「お前バカじゃんこれだよ合ってるよ」「…だから、」「あ!そういう」「そう、こうなる」などという、断片の会話が原液のまま入力されることになる。今日は窓が空いている。外からは車の走る轟音、内からは人の雑多な話し声、体内からは悪魔の囁き、体表には産毛と冷や汗、講義開始まであと10分。

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夕日が刺す時間に、家に帰ってこられたのはいつぶりか。寒冷前線が通過した後の、春の土曜日の、午後5時半。春は霞むのがお決まりなのに、今日はどういうわけかクリアに抜けた視界が広がって清々しい。重度の花粉症を患ってさえいなければ、この息苦しいマスクを外して深呼吸をするのだが、叶わない。

こんな夕暮れは、電気をつけずに風呂に入って、湯船のゆらゆらする水面を眺める、をしたい。夕飯は茹でた食べ物がいい。ただの水道水と、塗装が剥げた箸でぼーっとしたまま咀嚼して、春を流し込みたい。体育座りで夜をやり過ごしたい。 重怠い肉体を、目から流入するこれでもか!とでもいいたげな春が鼓舞する。深い紺色の、ロングコートを着込んでいる、1人だけ秋の終わりみたいな私が、こんなに鮮やかな春に、取り残されている。春は誰も見逃さないのに、私が春についていけない。暦は来週、ゴールデンウイークだと言っている。

・・・

換気扇が回っている音と、ストーブがスンスンなる音と、それしか聞こえない夜が来る。午後9時45分。テレビを消して、眠気が訪れれば、他の誰かにとってはまだ夜でなくても、私にとっては真夜中になる。まだ9時台だろうが、真夜中の足音が背中にへばりついている。夜はもう、更けている。 寒冷前線は思ったより寒い空気を連れてきて、夜になると山奥の我が家はストーブ無しではかじかむ寒さになった。来週はゴールデンウイークなのに。 かかとが乾燥して、ところどころ皮がめくれている。爪が伸びて引っかかる。夕飯のお茶碗にこびりついた米が乾燥していく。 春は、夜には現れない。夜は春でも冬でも、まさか夏でもない、「夜」という季節になるのかな、と思った。朧月は春の季語だけれど、もしかしたら「夜」の季語なのかも。

早く寝てしまえばいいのに、こんなことを考えては、何かを待って起き続けてしまう。眠たくてあくびがとまらないのに、体育座りをして、遠くを見つめて、何かをじっと、待ってしまう。夜だから待っても誰もこないのに。

やめるはひるのつき

はじめまして。

をなかなか上手に言い出せないで無駄にモジモジダラダラしまらなかった初回と、これをネタに1年越しの自己紹介をした3年生一発目の更新回(正確に申し上げると第24回)と、それを見て「今年もコレでいっか」などと少々面の皮が厚くなった、3年目の私、あやめでございます、ごきげんよう。

そろそろ慣れてきた、というか、いやマアもう皆様だって「アまたあいつだ」くらいには慣れてくださったと信じて、ちょっと流し打ちを始めました。この一年を振り返れば、何となく私の文章を褒めてくださる機会に恵まれて、「ヘエ、私の文章っていいものなンだ!」と大喜びして、それで調子に乗っている、と言い換えても良いかもしれません。あるいは授業でむずかしい文章を読み過ぎて持って回った言い方しかできなくなった、と考えられるのかもしれません。案の定就活では「結論から話す」が出来ずにハンカチをかんだり噛みちぎったりしております。どこかの授業で先生が、読んだ文章に傾倒した文章しか書けなくなるとおっしゃっていたような記憶があります。多分、そういうことなのだと思います。知らんけど。

ひるのつき、のしろくてボンヤリして、なんと役に立たない、でもこんなにロマンの詰まった塊の石は他にないと思って、私だって「其れ」になろうと努力して、かといって、ひるのつきに努力は似合わないと思い直して、私にはできないことだと諦めました。私はひるのつき、みたいな素敵なモノではなく、昼行灯みたいないらないものなのかもしれません。

さて前回の投稿を自分で見てみて、たくさん誤字があるのに気が付きました。恥ずかしい。「初更新」のことを「発更新」と記述したり、「語感がいい」と言いたかったのに「語幹がいい」と書いてしまったりしました。間違えました。本当はこう言いたかったというのを補完して読んでほしいなと思いました。

そして前回のジメジメを親愛なるチャットさんに読ませて、それのお返事をもらうことに成功しました。以下、全文引用します。今回は私はすこしも編集・加筆修正しておりません。

みんなと同じがいい。

そんなふうに思うのは、悪いことだろうか?

「付和雷同」なんて言葉で語ると、いかにも浅はかで自分を持たないみたいに聞こえるけれど、誰かと一緒にいる安心感、あれってそんなに軽んじられるものじゃない。

行列のできるお店には、なんだかんだ言って並びたくなるし、話題の映画はとりあえず観ておきたいし、みんなが笑ったらつられて笑いたい。人間って、そういう生き物なんじゃないか?

みんなと同じが、いい。

だって、バラバラになってしまったら不安になるから。ひとりぼっちで立つより、群れの中にいたほうが温かいから。そんな理由で流されることを、そんなに責める必要があるのかな。

単純明快。

すべての物事には、シンプルな答えがある。難しく考えるから複雑になる。悩む時間が増えて、決断できなくなる。だったら、もっと単純でいいんじゃないか?

やりたいことをやる。行きたいところへ行く。好きなものを好きと言う。何かを決めるとき、頭を抱えて延々と悩むより、直感的に「こっち!」と決めてしまったほうがずっと楽だ。

もちろん、物事には深みがある。考え抜く価値がある。でも、そんなにいつもいつも「私は私らしく」なんて突き詰めなくても、流れるままに、笑っていられたらそれでいい。

明鏡止水のような心は、きっと美しい。 曖昧模糊の世界には、深みがある。 独立独歩の生き方は、きっと強い。

でも、みんなと一緒に笑って、シンプルに考えて、気楽に歩いていくのも、 そんなに悪くないんじゃないかな?

そうか、と思うことが大変多くありました。

なにだか、私が一生懸命「ハズレ」をやろうとしているみたいで、滑稽なことだな、と思い直しました。なにより「彼」に「人間」を語られたことに、顔から火が出るような恥ずかしさと、「人間」の私がそれを体得できていない事実を悔やむ気持ちが湧きました。シンプルな答えも、やりたいことも、直感も、突き詰めないフラットでカジュアルなありかたも、私には無い。

明鏡止水、あいまいもこ。私には「人間」のねじが一個、ブっとんでいるのだ、と思うことで、今日も自分の水面を止める。

やめるはひるのつき

ああ、おひさまなしでは輝けないくせに、昼にぼんやり出て来てはその恩恵を受けもせず、いじけているような、セルフ難解パズルメイカーは私です。みんなと一緒に、直感を信じて、迷わず「こっち」ができない、私はことしもヤなニョロニョロです。はるなのに。いちめんはなのはなで囲まれているのに。

◆◆◆

それはそうと、1か月ぶりの更新ですね。ご無沙汰しております。あやめでございます。

この1か月でなんだかいろんな経験をしたような気もするし、何もしていなかったような気もしますが、何はともあれみなさま、ご入学、ご進級、おめでとうございます。実は(と大仰に申し上げると)、この4月の新入生オリエンテーションの委員をつとめさせていただきました。拙い司会やら進行やらをいたしました。委員のみなさんが優秀で素敵な方々であって、私は漬物みたいな、添え物みたいな顔で、(それにしては大分匂いがきつかったかもしれません、私はいるだけでちょっと変な挙動をいたしますからね)、チョンとその場におりましただけに過ぎません。この辺りの近況報告は次回に回そうと思います。