「理由」を大切に

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は、「理由」をテーマに話をしたいと思います。

以前に話した、「ルーツ」とも関わりがあり、重なってしまうことも多くあると思いますが、最後まで読んで頂けたら幸いです。

(そしておそらくだいぶ複雑な話なので、分かりにくい話かもしれません…。哲学というか、なんというか…。そんな感じのお話です。)

では、始めます。

タイトルに据えた、「理由」を大切に、という言葉。これは、将来の私への願望でもあります。

私はこの度誕生日を迎え、めでたく20歳を迎えることとなりました。

これは、20になって少し浮かれている私が綴る、ちょっとした希望のような備忘録です。

皆さんは、様々なものの「理由」って意識したことありますか?

今回は、その様々な理由の中でも、いわゆる「自分の思考のクセ」のような「理由」についてお話したいと思います。

なんじゃそれ、と思うでしょう。

例えばのシチュエーションです。

皆さんには、問題集を解いていて、自分が何回も間違えてしまう問題ってありましたか?

このたとえでは想像もつかない、という人は、日常のちょっとしたクセでもいいです。

分からないけどなんかいつも間違えてしまうようなこと(例えば、冷蔵庫の飲み物の位置が覚えられないとか)とか、どうしてもできないこと、失敗し続けていることって、何かありますか?

では、何故それはどうしていつも間違えてしまうんでしょうか?

こう考えても、分からない、って意見がほとんどだと思います。私もそうです。

ただ、こんなものはすぐに答えが出るものでもないでしょう。

だってすぐに答えがでているものなら、私たちはすぐに対策方法を思いつくか、人に聞くなど、何かしらのアクションを取ることが出来ます。(もちろん、それらの「分からない物事」から目を背ける、放っておく、という選択肢もありますが…。)

克服できないようなこと、苦手続きなもの、自分の欠点…

そういったものには、ほとんどのものが「理由」を見つけることが難しいんです。

その「理由を見つけるのが難しい事柄」にどのように向き合っていけばよいのか、というのが今回の記事の核の部分となります。

まず、これがどういうことなのか、何故難しいのか、説明したいと思います。

おそらくですが、「そういったものの理由が分からない」ということは、それが「自分であること」の証拠であると私は考えています。

「分からない」ということは、理屈では説明できないもの、ということ。

つまり、「無意識」の状態なんです。

そしてその「無意識の状態」とはすなわち、「それが自分という存在を形作る要素の一つであるということ」という意味であると私は考えています。

そしてまた、「大切にする」といっても、ただそっとそのままにしておくのも違うと思います。

「大切な宝物のように、自分を大事にする」、そういう意味でもないと思います。

「自分を大切にする」ということの意味は、ただ自分に優しい・甘いだけではなく、経験した苦しいことも辛いことも全部ひっくるめて、いつか「いい思い出だ」と言えるような、未来の自分に胸を張れるような、そんなことだと思います。

「可愛い子には旅をさせよ」ということわざがあります。まさにああいった感じのイメージです。

経験、ひいては歩んできた自分の人生(あるいは過去)そのものが、今の自分・そして未来の自分を形作っていくような、ああいったイメージです。

そして、その「経験」や「過去」あるいは「人生」には、必ず「理由」があるんです。

例えば、親が俳優業をしている子どもがいたとしましょう。

その子どもがたとえ親のように俳優を目指しても、それにはそれ相応の理由がある。

親の姿がかっこいいとか、尊敬する、とか。そしてそれらの感情には「エピソード」という名の「理由」がある。

逆も然りです。親のようにはなりたくないと、その子供が別の道を進んだとしても、そこには、家の環境や親の影響が必ずどこかにある。そしてそれが無意識下で「自分という存在」を形作っていくんです。

ここまで、「自分の存在」は周りの環境や人(あるいは出会った人やモノ)に影響されて「無意識のうちに」出来上がっていくこと、だからこそそれらに「理由」を見つけることが難しいということを説明してきました。

大変に難しいことを説明しているので、ひとりよがりな説明になっていないかすごく心配です。

読む方も大変なカロリーを消費していることを承知のうえ、次にこういったものにどう対処していけばいいのか、現時点での私の回答を紹介しようと思います。

結論からいうと、正直私も現時点では回答が見つかっていません。こんな大口叩いておいて、え?って感じですよね…。

というのも、結局自分の性格を変えることに抵抗があるのか、そもそもこのようにできた性格を変えることが出来るのか、というところもまだ分からないんです。

欠点であるところを無理やり克服したとしても、その時の私に今と同じような長所が残っているのか、残らないのなら変える必要がないのではないか、でも欠点は直したい…。と、堂々巡りをしている状態なんです。今も結論は出てません。難しいですね、人生って。

ただ、上記のような仕組みで「思考のクセ」が出来上がっていると理解できたことはいいことなのかな、と思います。

私はある出来事があってから反面教師にしているものがあるんです。ここでは詳細は伏せますが、そこで気づいたのが「思考のクセ」の仕組みでした。

望んでいなくとも、周りの環境や人の影響を良くも悪くも受けてしまっている、と気づいた時がありました。

なので私は、まずは周りの影響を受けて自分の人格は出来上がっているものだと割り切ることにしました。自分の性格・傾向も、利点・欠点、いいも悪いも自分で変えることが難しいものだと、そう思うことにしました。

じゃあ変える必要がないのか、というとそれは違いますし、どうにかしたいんですけどね…。

まだ迷いがあるから進めていないような気がします。

ただ、これを解決するキーワードがさっき言った「理由」なのではないかとは思っています。

無意識下の自分の性格(あるいは自分という存在)を「理由」という形で「意識」している状態にすることで、自覚の材料にもなりますし、人に話すための素材としても機能します。

自覚したら、あとはもうこっちのもの。どんな感情を抱くか、どんなアクションを取るか、人それぞれです。

この「理由」が大事だと思った直近のエピソードを紹介します。

私は現在、車の免許を取るために教習所に通っているのですが、実技の教習を受けている時に、どうして今のような行動を取ったの?と聞かれる機会が多くありました。

その中で自分の中にあるきちんと理由を説明できると、じゃあ次からはこうした方がいいかもね、とアドバイスをもらえる、ということがありました。この時、「理由」を説明することで、自分の傾向と対策を同時に知ることが出来るんだ!と気付きました。

これはかなり貴重かつ大事な経験なのではないかと思い、今回こうしてとんでもなく難しいテーマで書こうと思いついてしまった次第なのです…。どうかお許しください…。

未だに自分ときちんと向き合うことは出来ていません。ただ、「自分の存在」には何かしらの「理由」があると気づいた今、この「理由」が私自身を理解するために必要なことであり、だからこそ大事にしたいのだ、という決意表明をしながら、本記事を終えたいと思います。

今回は頭の痛くなるような難しいテーマに最後まで付き合って頂き本当にありがとうございました。

少しでも何かが印象に残ってくれたのなら、もうそれで合格だと思います。私自身、現時点では何もかも分からないことだらけですから。これから様々な経験をしていく中で何かしらのカギを掴んでいけるのかな、と思います。

次回は、私からこの「理由」を引き出してくれる「言葉(あるいは言語化)」について記そうかな、と思っています。

それでは、失礼いたします。

自分の弱さと向き合うことは

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は少し趣向を変えて、自分自身を見つめ直してみようという試みの記事にしようと思います。

その理由が、来月4日に誕生日を迎え、20歳になるからです。

つまり、本記事が10代ラストの更新となるわけです。

そのため、これまでの自分をふりかえりつつ、今後の自分に向けての抱負等も語れたらよいなと思っております。

毎度のことながら自分語りが非常に多くて申し訳ございませんが、最後までお付き合いいただけたら幸いです。

それでは、始めます。

今回は趣向を変える、と最初に明言した通り、今までどちらかというとポジティブ要素(≒教訓めいたこと?)ばかり伝えてきたと思うのですが、本記事は自身の欠点に触れてみようと思います。

突然ですが皆さん、自分の長所と短所、どちらの方がより多く思いつきますか?

人それぞれだと思いますが、私は長所の方が多く思いつきます。

それはなぜかというと、「短所を長所に言い換えているから」なんです。

私はいつからか、そうやって生きてきてしまいました。なので今までのブログでも、自身の短所についてあまり触れたことがなかったんです。

簡単に言えば、「逃げていた」んですね。

誰だって自分の短所や嫌なところからは逃げたい、目を背けたいと思うことでしょう。

私も同じです。ずっと逃げていました。

しかし、どうしてもそのようなものと向き合わなければならない時はありますよね。

私にとってはそれが正しく、「今」でした。

私は現在、夏休みを教習所に通うこととアルバイト(飲食店)に時間を費やしています。

そのどちらでも、色々と上手くいかないことが続きました。

バイト先では自分が仕事を上手く回せなかったせいで同じ時間で働いていた皆さんに多大な迷惑をかけてしまったり、車の運転でも、慣れていないこともありますが、色々と見極めることが出来ずに危険性が高い運転をしていたりと…。

例を挙げればきりがないのですが、このように最近の私は失敗続きで、少し傷心気味です。

人によっては、「そのくらいで意気消沈するの!?」とびっくりする方もいるかもしれません。

しかし私の性格上、これがどうしても仕方のないことでして…。

おそらく私の完璧主義者と理想主義者な面がそうさせていると思うのですが、私は人より何かができないことに対してひどく落ち込む性格です。

これでもだいぶ前を向けた方なのですが、昔は落ち込んだらそのままずっとそのことばかり(失敗してしまったという「事実のみ」に対して)を考えてさらに沈んでしまうタイプでした。

皆さんはどうでしょう?自分が失敗続きでどうしようもない時は、どうしますか?

今回私は、この二つのことに関して、それぞれ次のような対処法を取りました。

まず、車の運転についてですね。

車の運転は慣れもあるので仕方ないですが、一度注意されたところはなるべく注意されないように意識はするようにしています。

有効な対策法が、教習内で言われたことをそのまま自分の言葉で言い換えながら反芻して教官に言うことです。(しかし教官がかなりの確率で「今までどんなことを注意されてきましたか?」と聞いてくるので、その際にきちんと答えられるように自分の中で準備しておく、という場面の方が多いですが…。)

次に、バイト先のミスについてです。

その日は上手く回せなくて散々迷惑をかけたという自覚があり、事実注意も受けたので、すごく悔しかったです。(事実上がった後に裏で泣いてしまったので…。泣いたって意味のないことなんですけどね…。今となっては恥ずかしいことをしたな、と思います。)

その後、迷ったのですが、社員さんに自分のどこをどう直せばあの場を上手く切り抜けられたと思うのか聞いてみました。

ありがたいことに、その答えのない問いに親身になって考えて下さり、次に何をどう気を付けたらいいのかをより明確に理解することが出来ました。

今回のこの出来事で、私は色んなことを学ぶことができたな、と思いました。

まず、「分からないなら人に頼ってもいい」ということ。

昔の私ならまず出来なかったであろうことです。というのも私、人に頼るのが本当に下手くそなんですよ。

全部自分で何とかしなきゃ、という気持ちが先行して、人にこれ分からないです、とか、これやってもらってもいいですか?といったことが「言えない」人だったんです。

自分に教える手間も時間も割いてまで人に迷惑が掛かるくらいなら、自分で見て覚えてしまおうというのが私の考えでした。しかしこれで何かが出来た試しなどありません。余りにも自分が不器用(かつ要領が悪い)だという性質を全く考慮していなかったんですよね…。

ちなみに「人に頼ることが出来ない」自分が嫌で悩んでいたこともありました。今も上手く頼れるわけではないので、上手に頼れている人が羨ましいです…。こういう意味では、不器用って、本当に損な性格ですね…。教えてもらえることで何かを得ることもあるのに、その機会を失ってしまっているわけですから…。

とあることを経験して、徐々に人に頼ることを覚えていきましたが、まだまだ「人に頼る」ことにも課題点がありそうです。

そして、「答えのない問いに、急いて結論を出すこともなかっただろうな」ということも少し思いました。

バイト先での話に戻りますが、私は社員さんに聞いてから正直少し後悔しました。

その理由は、前に述べた「人に頼る」ことが苦手なことともリンクしているのですが、何より「人それぞれ答えの違う問いに対して、何故私だけの答えを他人に聞いてしまっているのだろう」という迷いからくるものでした。

結局めちゃくちゃ丁寧に教えてくださって、答えとまではいかないものの、ヒントのようなものを得ることは出来たので良かったものの、相手側からしたら困惑はしてしまっただろうな…とは思いました。

おそらく、学校の勉強のような「答えがある」ものが世の中の全てだと思ってしまっているのが原因だと思います。

社会に出たら、そんなことはまったくなくて、答えどころかヒントすらないような課題に直面するのだろうな、その度にどのようにそれらと向き合っていかなければならないのかを考えていかないとな、と思いました。

ただ、この二つの出来事で共通して言えるのは、「反省を生かすために行動できた」という点は良かっただろうな、というところです。

反省まではしても、行動までは出来なかった過去と今の自分を比較すると、今の自分は少しだけ誇らしく思っています。

さて、ここまでとんでもなく重い話をしてきたという自覚はあります。しかもかなり個人的なことを綴っているという自覚もあります。申し訳ございません。

私はおそらくこんな観点からこんな文章しか書けないので、いつも話が重いんですが、なんか…ホントに…すみません…はい…。

もっと気楽に生きられたらな、と思うこともありますが、もう性質でしょう。付き合っていくしかないのかな、とは思っています。

性質といえば、教習中に教官に言われた言葉の中で、「特性は変えることが難しいから、自分の特性を理解した上でどういう行動を取ればいいかを考えてみて」というものがありました。

この言葉に私は、なるほどな、と思い、少し救われました。

短所は変えるべきものではなくて、受け入れて、カバーしていくものなのだとこの言葉で気づくことが出来ました。

実はここまでしてきた二つの出来事のミソは、どちらも私の短所に関わる話なんですよ。

それは、「同時並行して複数の物事を行うことが出来ない」こと「周りの状況に合わせて臨機応変に対応する」こと。

この二つが本当に致命的に欠如していて。全くできないんです。

車の運転に求められるのは視野を広くもって、危険を避けながら安全に運転することですし、飲食店のバイトに求められる能力も、同時並行して何かをやる(あることをしている間に別の何かができる、といったことです。つまり、「時間を有効活用する能力」のことです。)能力や臨機応変に動く能力なんですよね。

実は飲食店のバイトを始めたのは、自分がこの能力が欠如していると思っていたから、つまり「苦手の克服」をするために始めたことなんです。

前に私はこのブログで、アルバイトは単なるお金稼ぎの手段じゃなくて自身のスキルアップのため、といったことを言っていた記事があったかと思います。

その言葉通り、私は苦手から逃げずに克服するためにこのバイトを始めました。

「苦手から逃げない」と決めたのも、ある言葉がきっかけです。

小学生の時に水泳教室に通っていたのですが、あることが原因で辞めてしまいました。

そのきっかけが中学受験の勉強を始めるから、ということもありましたが、その最たる原因は、「担当の先生が厳しかったから」です。

辞める時、最後の指導が終わったタイミングで、私は先生に今までありがとうございました、と言いに行きました。その時に言われた言葉が、「今後の人生で同じような目にあっても逃げるなよ」だったんです。おそらく辞めた理由を誰かから聞いたか何かで知っていたんでしょう。あるいは、分かっていたのかもしれません。

その時は分かりませんでしたが、結果ずっと覚えているくらいには私の心に残り続けた言葉でした。

この言葉があって、私は大学生になる前に、「やりたいことはすべてやりきる。後悔のないように。苦手からも逃げない。」と決めて様々なことに挑戦している、という次第です。

今、人生で初めて自分の苦手と向き合って、正直しんどいという感想しか出てきません。辛いです。

でも、学びはありました。19年生きてきて、ようやっとここにたどりつきました。

遅すぎますかね?どうでしょう?

もっと早くからこの痛みを経験すればよかったなあ…なんて今では思っています。

10代最後の備忘録は、このような形で幕を閉じたいと思います。

ちなみにこれらすべてのことは、過去1週間以内に起こったことです。

ーーーえ、よくここまで語り通せたな、と?

それは私が聞きたいです(笑)

そんな茶番は良しとして。

次回の更新は…何にしようかな…まあまたその場のノリと勢いで決めます(笑)

それでは、失礼いたします。

「勉強する」って楽しいんですよ!

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は、最近思い始めてきた、「勉強って本来楽しくあるべきでは?」というテーマについてお話していこうと思います。

私は今本学の日本文学科で、主に日本文学について学んでいるわけなんですが、今とても楽しんですよね。

自分の好きなことを学ぶことが出来ているということももちろんあると思いますが、私はそれだけではないような気がしてきました。

なので今回は自分の疑問に自分で答えを出していこうといういわば禅問答のようなブログとなっております。

てか、今まで私が書いてきたブログの中に、禅問答じゃないブログがあったでしょうか。

その答えは皆さまの中にしまっておくこととしましょう。

さて。では、はじめて参りましょう。

勉強って、本来楽しいものであるべきでは?という疑問に私はイエスと自信をもって答えたいです。

いつぞやかに話したかも知れませんが、小さい頃のことを思い出してみてください。

小さい頃、色んな遊びをしませんでしたか?

かくれんぼ、鬼ごっこ、砂遊び、サッカー…

外遊びだけじゃありません。おままごとや人形あそび、絵を描いたりなど…

その中で皆さん独自の遊び方を編み出して遊んだりしていませんでしたか?

こういう、独自の遊び方を編み出す行為って、既存のものに手を加えることでさらに面白く楽しく遊びたい!って思いから生まれたものだと思うんですよね。

こういうことを「勉強」と言ってしまうと少し堅苦しいかも知れませんので、「学習」と言いましょうか。

実は、「勉強」ってこれ(「学習」)と同じようなことを、対象を変えてやっているだけなんですよね。本来なら。

何かしらの方法で新しい知識を知ること、そしてそれを自分がより楽しいと思えるように創意工夫して、自分の中で楽しむ。

だから勉強って、本来もっと単純で、純粋な思いの下に生まれている行為なはずなんです。

私は小さい頃から受験、受験と言われ続けて生きてきてしまったため、この当たり前だけど大事な感情を忘れてしまっていたんですよね…。

ただただ問題を与えられて、それを解いていくだけの苦しい時間…。

勉強なんて問題を解けなかったら苦行に早変わりです。

中学・高校に至るまで、私はずっと「勉強は苦行だ…」と思って生きてきました。

しかし大学に入ってから、私のその概念は早くも覆されることとなりました。

ーーー大学の課題やら何やらが「楽しくて」仕方がないんです。

こないだもレポート課題がなどと言ってひーふー言っており、結局5週間ずっと何かしらの課題に追われて最終的に課題だけで合計で約2万文字程度書いております。

そんな生活を続けている中にも、楽しみなレポート課題・力を入れようと思った課題・書くことがすらすらを浮かんできてしまう課題などは書いていて本当に楽しかったです。

一種の息抜きみたいになっていましたね。

課題すら息抜きと私の口からそんな言葉が出てくる人生が来るとは思いませんでしたけども、これが現実です。

こんなつらい思いをしてまでもなお、「楽しい」と思えるようになったんですよね。

では高校以前の私と今の私とでは何が違うのか。

一番大きいのは、授業内で「新たな視点」を得るということだと思います。

高校以前の授業に、あまり「新たな視点を得る」授業ってないと思うんですけど、大学ではそんなものばかりです。

今まで信じ込んでいた常識から一歩先をいったような新たな視点・新たな理解・新たな解釈が生まれていくんです。そのおかげで今私は当初興味なんてほとんどなかった平安文学への興味の扉を開けることと相なるわけですが、その話は置いておいて。

その「新たな視点」というものを得ると、勉強って限りなく楽しいものになるんですよね。まるで自分の世界が広くなったような、そんな錯覚さえ覚えるようになります。

で、大事なのはここからです。

「新たな視点」ってどのようなところから生まれるんだと思いますか?

ーーー答えは、「自分が主体となって学ぶ事」。これに尽きます。

大学の授業に出ていても、ただそこに座って教授の話をふ~んと聞いているだけじゃ意味がないんです。

そこにちゃんと自分がいるかいないか、というのは本当に大事なことなんです。

だってそうしないと、自分の今まで持っている知識と今聞いている話をどうやって結び付けられるでしょう。

このようなことに気づいてから、私は勉強というものが途端に楽しく思えるようになりました。

私は現在、車の免許を取得するために教習所に通っているのですが、そこで道路標識や道路表示などという存在を学びました。

それを学んでから、街の至る所にある標識や表示を意識して見るようになったんです。

これって、この知識を自分で主体的に学んでいなければ気づきもしないことだし、一生注意の向かないところだったと思うんですよね…。

こう考えると、「学ぶ」というのはただ単に「知識を得る」だけじゃなくて、「自分の世界や視野を広げる、新たな視点を獲得する」ということにつながってくるのではないかと思いました。

そしてね、勉強って実は椅子に座って知識を覚えることだけが勉強じゃないんですよね。

それをバイトから学んだよ~という話は既にしているので、まだ読んでないよ~という方は、よろしければ以下のリンクから読んでみてください。

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/author/namekata/

ここの7/7の投稿がそれに該当します。

なのでね、勉強する能力って、全然学生までで完結することじゃないんですよね。

大人になっても学習する能力って使いますし、むしろ大人になってからの方が使う場面が多くなるかもしれません(笑)

でもそんなこと言ったって目の前の勉強は辛い~という高校生以下の学生さんもいらっしゃるかもしれません。

そうですよね、辛いですよね。お気持ち、お察しします。

できないものを延々とやり続けるのって、すごくストレスのかかることですよね…。

でも、そういう時は少し視点を変えてみてください。

例えば基本事項。

英語なら文法。数学なら公式など、各科目に「常識みたいにされてるけどよく意味も分からず覚えてること」ってありませんか?

そういうのって、なんでそんなことになってるんでしょうね。

こういう「なぜ?」を勉強に取り入れていくと、少し違った景色が見えてくるかも知れませんね。

ちなみにこの方法を取り入れたことで、苦手だった英語の文法が少し楽しいものになった、という経験を私は持っています。

さて、ここいらにしておきましょう。

勉強とは、知識を得て、それを活用することで新たな視点を得て、それで世界の見え方が変わるから面白いんだ、そしてそれは普段常識であると思うことこそ改めて問うてみると何かまた面白いものが見えるかも知れませんね、という話をしてきました。

相変わらず見切り発車で書いているこのブログは、なんと50分程度で書き上げたものになります。

ヤバいですね、私。自己主張強すぎて死にたくなる時は間々あります。

というわけで、今回はこれまで。

次回は…いよいよ19歳ラストの更新となるので、少し早いですが、19年の人生の振り返りと、20年目に向けた抱負を綴るなどしましょうかね…。

どうせまた見切り発車(以下略)

それでは、失礼いたします。

「ルーツ」は知るも話すもおもしろい

皆さんこんにちは。みちこです。

今回も今回とて書きたいことが多すぎて、ギリギリまで決まりませんでした(笑)

私にはこのブログで書きたいことが多すぎるんです。色々な物事に気づく方で、それが私の思考を深めてくれるこの感覚が大好きなので。

色々迷った挙句、今回は、「ルーツ」というテーマでお話をしようと思います。

皆さん、自分のルーツって考えたことありますか?

自分がどのようにして今の自分になりえたか、一度でも考えてみたことはありますでしょうか?

私はいつからか、他人のルーツを聞くことも、自分のルーツを話すことも好きになりました。

人は全員が違うルーツを持つからこそ、同じ機関に所属する、同じ興味を持つ人達同士でも全然違うルートをたどってきている、ということが往々にしてあります。

それを人と話す中で知ることが出来る、ということはこの上なく面白いことだと私は感じています。

そしてこの度、私がこのような記事を書くに至った理由としては、本学で始まった「リレーエッセイ」という企画に由来しています。

少し前から始動していた企画なので、ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、日文の公式noteから、本学教員が「リレーエッセイ」と題して個性豊かな「ルーツ」を書いております。

それぞれの学問領域に先生方の人生がどのように交わっていき、リンクしていくのか、その過程を垣間見ることが出来ます!

この「リレーエッセイ」は以下のリンクから読むことが出来ます↓

https://note.com/nichijo_nichibun

では、こちらの企画に倣いまして、本学日文生・ブログ部員である私の「ルーツ」も綴らせて頂こうと思います。しかし、結構他のブログ記事で小出しにしていることも多いので、内容が被ってしまうと思います。本記事は、いわゆる「まとめ記事」になるかも知れないということを申し添えておきます。

私の文学に対する「ルーツ」を話すにどうしても外せない存在「朗読」についてお話する必要があります。

私は小さい頃から読書が好きだった、というよりかは「朗読」が好きな子でした。

国内・海外問わずおとぎ話を朗読し、「プレイリスト」ならぬ「朗読リスト」を作って、その順番通りに読むのが、小学校低学年頃の私のお気に入りの時間でした。

ちなみに小学校低学年くらいまで、私は「朗読」が好きすぎるがゆえに「黙読」ができない子供でした。

なので、授業中に教科書のここからここまでを読んでください~といわれると小さな声で声に出して読んでいましたね。傍から見たらとても変な子だったのではないでしょうか。(今も中々な変人の一面があると自負しておりますが…(笑))

小学校中学年くらいになると、もう少し字数の多い本を読み始めます。

ハマってた作品などはあまり覚えていませんが、小学校の教室の文庫コーナーにあった本をひたすらに読み漁っていたような記憶があります。ここでもファンタジー系の小説が好きでした。好みは低学年の頃とはあまり変わっていませんね。

小学校高学年頃から、徐々に好きなジャンルが変わっていきます。それは「ミステリー」です。

今でも覚えているのですが、当時「夢水清志郎」シリーズにドハマりして、そのシリーズを延々と読み漁っていました。

私は中学受験をしているので、小学校の高学年ともなるとそちらの勉強が忙しくなってくる時期なのですが、そんなことそっちのけで読んでたこともありました。

ちなみに朗読はずっと好きですよ…?今でも大好きな私の趣味であり、特技です。

さて、中学校に上がると、小学校高学年の延長でミステリーをさらに読み始めます。

ここまでくると一般の小説とかにも手を出し始めていたような気がします。

東野圭吾さんとか、湊かなえさんとか…。いつの時期だったかあまり覚えていないのですが、おそらく中学生でしょう(笑)

ここで私は今年で8年来になるずっと一緒にいる友人からアニメを教えてもらい、そこから自分で声優さんにハマることとなります。

そこから美術部に所属したこともあり、絵やアニメの方に自身の熱情が傾いてしまっているので、中学生時代と小説・文学はあまり語れることがありません…。すみませんが…。

転換期は高校に上がってから。高校二年生の時に古文の授業を受け持ってくれていた先生がきっかけで、『更級日記』に興味を持ちます。

何故興味を持ったかと言うと、これがまた至極単純な話なのですが、更級作者に共感したからです。

『更級日記』には、「『源氏物語』オタク」であった作者のエピソードが綴られています。

その話を高校の授業で教えてもらった際に、私はこの時代にもオタクの子がいたんだ!という驚きを感じ、同時に少し親近感を抱きました。

そこから私は高校の図書館で日記文学のビギナーズクラシックスシリーズや、源氏物語を読み始めます。そこから私は、日記文学に少し興味を持つことになります。

ちなみに私が文学部系統に興味を持ったのは、日本語の方面からでしたので、こちらはサブの理由と言ってしまえばそうですね(笑)

しかしこのサブの理由が結局は今の私を成り立たせていることになりますから、人生分からないものです、本当に(笑)

そして、晴れてこちらの大学に入ることとなりました。

そして、当初興味のあった日本語学の授業に期待を寄せていたのですが…

その授業を受けていくうちに、頭の中にはてなマークが沢山浮かんできてしまいました…。

そこで諦めずに理解しようとする姿勢を見せればよかったのですが、同時期に受講していた中古の文学史の授業で、私は中古文学に興味を持ち始めることとなり…。

しかし日本語学も全ての分野が難しい!と思っていたわけでなく、興味のある分野もあったので、現在それに関連する授業も受講しており、現在期末レポートを鋭意作成中です…。

話を戻して中古文学の話をしますと、その授業を通じて私は、新たな視点を得た、と思ったから興味を持ちました。

高校の古典の授業で日本文学を学ぶことと、大学で日本文学を学ぶこととは全く異なると私は思っています。

大学での日本文学の授業って、それまで自分がこういうものだと教えられてきた、あるいはそう思い込んできたものを180度ひっくり返してくれるんですよ。

それを知る感覚が本当に楽しくて。視野が広がったような心持になるんですよね。

知識欲が満たされていくその快感を覚えてしまってから、私は中古文学に興味を持つこととなりました。

そして、皆さんご存知の!大河ドラマ!これも今の私が非常に影響を受けたものです。

実は、大河ドラマ「光る君へ」は脚本を本学科出身の大石静氏が、和歌考証を本学名誉教授の高野晴代先生がご担当なさっているんです!

そりゃ学科としても一大イベントであると認識せざるを得ません。

私もその時流に乗り、大河ドラマを視聴していたら、見事にはまりまして。

中古文学史を受講して身に付けた知識とドラマの内容とがリンクしていたり、はたまた違っていたりと、様々な要素から見ることが出来、中古文学を学ぶことがさらに楽しくなりました。

結果、私は二年次から「自主ゼミ」という本学特有のゼミに所属することとなり、さらに興味の幅を広げていくこととなりました。

期末レポートの作成も中々架橋に入っている中で本記事を書いているので、今回はここまでとしたいと思います。

ここまで去年度までの話をしましたが、二年前期の授業を受けても面白くて紹介したい授業などまだまだたくさんあるので、そちらも次回以降の更新で改めて紹介出来たらと思います。

ちなみに、本記事の趣旨とは全く関係ございませんが、本日は私が今年から新たにハマり、「推し」になった方の誕生日です!ゆっくりイラストなど描いてお祝いしたいのですが、いかんせんレポートが…(以下略)

いつかその新たな推しさんについても綴る記事を作成したいと思っておりますので、よろしければお付き合いをお願い致します。

それでは、今回はこちらで失礼致します。

ここまで読んで頂きありがとうございました。

フィードバックをもらえることの嬉しさ

皆さんこんにちは。みちこです。

いつ何時も気の赴くままに、ということでこの記事を書いているのがなんと更新日当日の22時です。

一気に書き上げてしまうのが私の書き方なので、途中まで書いてる記事とかあっても結構普通に消しちゃって新しいのを書き直すなんてざらです(笑)

逆に言うとそれだけ綴りたいトピックがあるとも言えますが、それは一旦置いといて。

本日のトピックは、「フィードバックの大切さ」ですね。

年を重ねて、自分が「大人扱い」をされるようになってくるほど、「フィードバック」の大切さを身に染みる機会が増えたな、と感じました。

それを感じているのが主にアルバイトでの出来事です。

私が現在やっているのが飲食店でのアルバイトで、今年の三月から始めたので、今月で約四か月いることになりますかね。

一応その前(つまり一年次)にもアルバイトはやっておりまして、そっちは採点業務を主にしておりました。

どちらの業務でもとても大事な経験をさせて頂いたのですが、この二つに共通して言えることが、今回のテーマ「フィードバック」とつながってきます。

それは、「失敗はしてもいい。ただし、何度も同じミスをしてはいけない」ということ。

そして、「失敗を繰り返さないためにどうすればいいか」ということ。

この二つです。

アルバイトって、ただお金を稼ぐための手段の一端だけじゃないと私は思っていまして、その最たる理由がこの二つのことを学んだからですね。

これはかなり貴重な体験をさせて頂きましたね。自分の今まで持っていた価値観を180度ひっくり返されたようなものですから。

これまでの私は、「失敗はしてはいけないもの」という意識が強く、最初から失敗をしないようにあらゆるリスクを回避して生きてきました。

だから高校以前までの私は、自分が出来る範囲までのことしかしてこなかった。それ以上先に進まないのは、失敗したらどうしようという怖さがあったからです。

でもそんな怖さすら乗り越えたいほどやりたいことを全部やって卒業しようと思った大学入学前。

大学入学後、想定よりも早い時期から採点業務のアルバイトを始めました。

当たり前といえばそうですが、最初は慣れないことばかりで失敗ばかり。

注意はさんざん受けて、バイト先からの帰り道では常に自分反省会を繰り広げていました。

このバイトを始めたのは選択ミスだったか、とか、なんでこんなこともできないのか、と自分を責める行為ばかりしていました。

今なら分かりますが、これは何も「反省」ではないですね。

「反省」って、自分を責める行為とは全くの別物です。だって、そこには何も生まれないですから。

負の感情だけが蓄積していき、前に向けていない。

このブログで前に書いたことがあるような気がしますが、私が普通の人より割と前向きでいられる理由は、母に言われた言葉がきっかけです。

模試か何かで自分なりに対策をしたのにあまり良い点数がとれなくて泣いていたんだったかな…?そんな気がしますが、その時に母に言われた「泣いていても何も変わるわけじゃない。次どうするかを考えないと、成績は伸びていかないよ。」という言葉があります。

この言葉だけを悲しみのうちに聞いていた私は、私の気持ちなんぞ何も分からずに!と突っぱねてしまいましたが、改めて考えてみると本当にその通りだと思います。

この話をもっとさらにさかのぼると、中学受験で塾の先生に言われたこともあります。

過去問を解いてノートに直しをして、それを提出するという宿題があったのですが、そこに必ず「なぜ間違えたのか」と「対策(具体的な方法)」を書かせる先生がいまして。

最初のうちこそ全くかけず、先生に「これは具体的な対策じゃないから。次はきちんと考えて書いてきてね」と何度もダメだしをくらっていましたが、返されていくうちになんとか方法が分かってきた、という経験があります。

それらの項目を中学に進学してからも定期テストの直しノートに書いていたら、いつだったか良いノートの例として紹介されたことがあったような気が…したような?しなかったような?

このような経験があるため、私は人一倍「自責」が無意味であり、「対策を考える」ことの方がよっぽど大事であることを知っていたはずなのですが…。

どうもそれを「机に向かってする勉強」のみに通用することで、「自身が経験して得る学び」には活かされないことだと思っていたようです。

なので始めた当初はバイト先に向かうのが億劫で仕方なかったです。

その後バイトを始めて数か月、大体3~4か月経った頃くらいに、私はバイト先の先輩からあることを教えてもらいました。

一般的に仕事にも慣れ、ある程度業務がこなせるようになって来ないとおかしい時期に、私が中々そうなっていなかったということもあるのでしょうか。

会話の経緯はよく覚えていないのですが、その先輩さんは私に「間違えたところはメモしておいて、移動中とかに見るといいよ」と教えてくれました。

それを聞いた時に、私は「あ、これ…今まで私が勉強でやってきたことじゃん…。」と思いました。

そこでようやく私は「自責」をやめ、本来の「反省・対策」へと思考の路線変更をしていくこととなります。

なので、職を変えた今のバイト先でも私はそれを意識するようにしています。

間違えたところはすぐにメモして、分からないところは人に聞いて。

そしてこれがかなり変わったところなのですが、「何もない時にも思いだす」ということを始めるようになりました。

前のバイト先で働いていた時まではあまりできていなかったのですが、一夜漬けのテストのように、その場しのぎで直前とかにミスを反芻していました。

しかし今のバイト先に変えてからは、意識的になんでもない時でもメニューの作り方や業務方法などを思い出していくようになりました。

思い出す能力ってかなり大事で。それをしないと身に染みていかないんですよね。

自分が忙しい関係で中々シフトに入れていないという引け目がおそらくそうさせたのでしょうが、「シフトに入れない分せめて裏できちんと努力して、一度教えてもらったことは必ずできるようにしておくくらいでいないと。」と思うようになりました。

長々と綴りましたが、これらの経験をしたからこそ、私は「ミスをしても二度と同じことをしないように対策することの方が大事」というかなり大切なことを学びました。

さて、今回のテーマ「フィードバックの大切さ」は実はここからが本題です。

え。これ本題じゃないの?と思われたでしょう。すみません。ここからが本題です。

実は私の勤務先の店長が異動するとのことで、「今までありがとうございました。」という旨の連絡を入れたんですよ。

本当は対面で伝えたかったところなのですが、シフトの都合上それが叶わないので連絡を入れまして。そしたらこれを書き始めたくらいの頃(つまり本日22時頃)に返事が来まして。

そこには、私がこの4か月で頼もしくなってきたことと(おそらくお世辞でしょうが)最後のアドバイスと称して私が接客の時にやってしまっているクセのようなものが綴られていました。

そのクセは、自分では全く気付いていなかったことなので、他人からみるとこう見えているんだと思いました。

こういうことを教えてもらえることって、本当にありがたいことですよね。

おそらく、これから年を重ねるほどそんなことはなくなってくるのでしょう。

年を重ねれば重ねるほど、年齢や立場の壁など様々な要素がジャマをして、このようなアドバイスはもらえなくなってくるのかな、と思うと少し悲しくなってしまいました。

でもだからこそ、今のような経験や人脈を大切にして、吸収できることはすべて吸収しておこうとも思います。

だから大人は言うんですね、「若いうちに失敗をしておけ」と。

前述の通り、私は失敗が未だに怖いと思っている節がまだあるので、失敗をしない(あるいは失敗を経験でカバーできる)年を重ねた大人が羨ましいと感じています。

なので、若いことがいいことだと思わなかったんですよ。昔から、早く大人になりたい、とそればかりを願っている不思議な子どもでした。

ですが、今このような経験をして、若いことがいいこと、というのは「教え導いてくれる『先輩』がいるからいい」のだと思えるようになりました。

さて。今回もだいぶ長いこと自身の体験を綴ってしまいましたね。

自分が知らない人の経験談を聞かされる身にもなれ、と自分への戒めを綴ったところでお開きとさせて頂きます。

次回は特に何書くか決めてませんが、まあどうせこんなことを書くんでしょう。

ここまで自分の考えを自身の経験と結びつけて書いてネタがつきない人も珍しいかもしれませんね。

それでは、失礼します。

忙しい方がQOLは上がるのか…?

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は、今の生活を続けてこれまでの自分と今の自分がどのように変わったのかを確認?していく趣旨の記事となります。

まずは比較として、一年次の私と二年次の私(現在)がやっている活動について記そうと思います。

一年次(2023年度)

学業・サークル(バンド)・バイト(週一回→始めて一か月後に週二回)

二年次(2024年度)

学業・サークル(放送)・バイト(週二回。尚、職種を変更。)・ブログ部(この活動)・オープンキャンパス委員・ボランティア(月一回)・自主ゼミ(中古)

ご覧いただけば分かると思いますが、四つも増えましたね。

なぜこんなに増やしてしまったのだろうと、自分でも驚いております。

今までは、余裕のある生活をしたくて、忙しくなるようなことや、興味のあることに挑戦するといった機会は設けてきませんでした。

そんな私が、急にこんなやりたい気持ちだけでやっている活動がすべてそれなりに回っているのは本当になんでなのでしょう。

今回は、そんな私の疑問に、自分で答えを見つけていく記事となっております。

私の書く記事、ほぼ自分語りしかしていないので、そろそろ何か別のものを紹介する記事でも書きます。てか書かないと、多分私のイメージが、とんでもなく自己主張の強い人間になってしまう(笑)

では、始めていきます。

結論から言うと、自分のキャパシティーが自分が思った以上にあるのだ、ということに尽きるでしょう。

自分で自分のことを理解するのは難しい、とよく言いますが、私はこれだけは自分で理解しています。

「同時並行で物事を処理することがすこぶる苦手な人間なのだ」ということ。

そう思っていたので、無意識に自分で限界の壁を作ってしまっていたんです。

しかし、そんな壁は私の興味の前、そして大学と言う自由な環境の下には通用しませんでした。

大学の空気に感化され、見事に心の赴くままに色々なことに手を出し始めます。

でも当然、最初から勢いよく色んなことが出来たわけではありません。

一年次の前期あたりまでは、学業の様子も分からなかったので、様子見をしつつ(しかしその中でもバイトやサークルは始めていった)、大学の空気にも慣れてきた後期から様々なことを始めていきました。

そこで徐々に肩慣らしをしていってからの二年次前期(現在)という形ですね。

一年次で徐々にキャパシティーを増やしていくという行動をとっていなかったら、今の私はどこかでパンクしてしまっていたかもしれません。

そこである程度の成功体験をしていたからこそ、二年次ももっと幅を広げて挑戦してみようと思えたのかもしれません。

あとはまあ、身も蓋もないことを言いますが、これらの始めたことを続けられているのは私の性格が起因していると思います。

ここで関係する私の性格とは、「一度始めたことは最後までやり遂げる精神(根性)」と「計画性がある」ことの二点です。

ホント、ここまで続けられているのは正直なところ、根性によるものが大きいです。

自分で蒔いた種なのだから、自分でしっかり回収する、そんな自分に対する責任感のようなものもあるからかもしれません。

計画性は…なんか中途半端にあります(笑)

少し話がそれますが、皆さんは夏休みの宿題をいつ終わらせるタイプでしたか?

早めに終わらせるタイプ、最後に焦ってやるタイプ、計画的にコツコツやるタイプ…

ここら辺まではカテゴライズ化されると思います。

しかし、私は正直言って、このカテゴリーのどこにも当てはまりません。

答えは、「夏休みの中ごろ」です。

ーーーなんだこれ、ってなりますよね。

私の夏休みの宿題を終わらせるスケジュールはおおむね、「計画を立てる→一週間くらいは計画通りに進む→途中からずれてくる→再度計画を立て直し、この日までには終わらせると決めて取り返しにいく→ずるずる中だるみしながらおおむね計画通りこなしていき、夏休みの中盤に宿題を終える」という、なんともめんどくさい図式になっております。

中途半端ではありますが、ある程度の計画性は持っているため、様々な予定ややるべきタスクを把握し、逆算して遂行し、軌道修正しつつ、余裕をもって終わらせるという形をとっています。

 成功体験と、私の性格。この二点が、私がここまで倒れずにやってこれた理由かと思います。

で。話はここからなんです。これまでの話は、いわば前説。前座。本当に伝えたい話はここからです。

二年次になってここまで忙しくなった私ですが、そんな私は、今まで苦手だったあることを徐々に克服しつつあるのかも知れない、という話です。

その「苦手なこと」とは、「メリハリをつける」ことです。

今まではなんとなくだらだら頑張り続けることをしていたのですが、今は割と明確に「頑張る時と休憩する時」のメリハリをつけられるようになった気がします。

何故って、やらなければならないことが多すぎるから。だから頑張ってその目標を達成させたときに、頑張れた~!と思えるようになっていったんです。

そして、そんな自分に「ご褒美の時間」と題して、その時間は目いっぱい好きなことをして楽しむ時間を設けるようになりました。

なので最近、課題を家に持ち込まず、どんなに疲れていても極力大学で終わらせるようにしています。

しかしそのお供には、毎回お菓子か飲み物を買っています。

一限から四限まで授業がある日は、四限終了時にまず大学の購買にお菓子や飲み物の調達に行きます。

そのあと、それらとイヤホンでの音楽を楽しみながら課題をするのが二年次から私が編み出したルーティーンです。

これが本当に心の健康には良くて。頑張った~という感覚と、まだ課題あるけど頑張ろう!という二つに気持ちを思い起こさせてくれるので、本当にこのルーティーンは気に入っています。

もし私が忙しくなかったら、こんなルーティーンは編み出せず、この感覚も味わっていなかったのかと思うと、恐ろしくてなりません。

人はある程度は忙しくしておいた方が、自分への学びにつながりますね。

さて。締めの代わりにこの記事のタイトル「忙しくてもQOLは上がるのか…?」について答えましょう。

結論から言うと、上がりました。

忙しいからこそできる経験や感情、充足感は、今後の私の人生にきっと役立ってくれることでしょう。

といったところで、今回は締めたいと思います。

次は少し趣向を変えようかな…?

日文の何かについて紹介しようかしら…。

まだ未定ですが、ここまで私の自分語りに付き合って下さった読者の皆様、本当にありがとうございます。毎度のことながら、ここまで自分のことを語る人も珍しいのではないかと思っております。はい。

最後までお読みいただいて本当にありがとうございます。

それでは、失礼いたします。

日文とは…?-オープンキャンパスに先立って-

皆さんこんにちは。みちこです。

本日は、来る6月16日に本学目白キャンパスで開催されるオープンキャンパスについてのお話をしようと思います。

本当は他にトピックを用意していたのですが、学科の一大イベントである、ということではたと思いつき、こちらの記事を執筆している次第でございます。

今回は、日本文学科に在籍し、(大変光栄なことに)こうしてブログ部員として活動している私が思う、「日本文学科(通称日文:にちぶん)とは」という内容でお話をしていきます。

この記事が、現在進路に迷う高校生の皆さんの一助になれたら幸いです。

 

 まず、私が本学に入学することになった経緯からお伝えしますね。

何回かこちらのブログでも申し上げているのですが、私は中学生くらいから、アニメ・そして声優さん(こっちが本命です)が好きでして。

で、この声優さんと言う存在が後に私の進路にも大きな影響を与えることとなります。

そして中学二年生の頃に、あるお方の存在を発掘することとなります。

それが声優の神谷浩史さんです。

このブログでは地味に初出し情報です(笑)

彼の仕事に対する姿勢、演技、お人柄…。何をとっても素晴らしい方で、今でも尊敬しています。

私はそこから本格的に、声優さんにハマっていきました。

同時に昔から朗読が得意だということもあり、次第に私の夢は声優になることへと変わっていきました。

ですがまあ、声優さんは芸能活動者であって。夢を叶えられる人など、ほんの一握りしかいない。

両親や先生に言っても反対されましたね、案の定。

その迷いのせいで勉強にも身が入らず、結局父に怒られて悪循環に陥ることになります。

そこで私が見出したのが、「日本語を学ぶ」という選択肢でした。

「声優さんは、日本語を伝えるスペシャリストなんだ!だから日本語への理解を深めたら良いのでは!?」

と、発想の転換をしました。

今でもはっきり覚えてます。父に、将来のことをきちんと考えろ、と言われた夜に、そうしようと決意しました。

そこから私は、「日本」に関するあらゆることに興味を持ち始めました。

そして、それを学ぶことができる「文学部」を目指し始めました。

  

 ところで皆さん、本学に、f-campusと呼ばれる制度があるのはご存知でしょうか。

いわゆる大学提携のことで、本学以外に4つの大学と(※記事執筆時の2024年時点)提携が組まれており、希望すれば他大学の授業も取ることが出来るという制度になります!

私はこの制度に興味を持ち、結果的にここで提携を組まれている大学のほぼすべてを志望大学とし、受験しました。

その結果、有名大学さんには残念ながらご縁がなく、ご縁があった本学に入学することとなりました。

 次に、本学に入ってから思った、本学科の特色についてお話したいと思います。

それは「とにかく面倒見がいいこと」ですね。

面倒見がいい、という点に関しては、本学全体の特色と言えるかも知れません。

学業についてはもちろんのこと、キャリアや就職についての講座なども低学年のうちから参加できるものがたくさんあります。

あと、結構書きます。自分の考えを書く機会がかなり用意されているのが本学科の特徴であると私は感じています。

書く機会が多いのは課題が多いということ、と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、そんなことはありません。

むしろ、論理的に文章を組み立てていくという過程はトライ&エラー(つまり何度も書いて提出してフィードバックを受けるという過程を繰り返すこと)をして初めて身に付くものであると感じました。

本学科は卒業論文の提出が学科卒業の必須条件になってきますので、この「文章をまとめる」能力は4年次までにしっかり身に付けていくことになると思います。

一年の頃なんてそれはもう大変でした。まずどこに注目して、何を書けばいいのか、またどのように論を展開すればいいのか、など分からないことだらけでした。

パソコンの前で何度も書いては消し、書いては消し、構成をルーズリーフに書くことをまとめたはいいものの、これで本当に論が通っているのかをもう一度見直したり、友達に見てもらって筋が通っているか確認したり、一日寝かせて次の日に読み直してみたり…常に試行錯誤しながらなんとかレポートを提出してました。

ーーーまあ今もなんですが(笑)

このように、「書く」作業を通して自分の思考のクセを見つけることが出来る、という点は、本学の「書く」機会が多いという特色と直結してくると思います。

高校以前までとは違う、「学ぶ事」を文学を通して学ぶことが出来る場所、それが日本文学科という場所であると私は考えています。

 また、このブログを読んでいる皆さんの中には、女子大ってどうなの…?と思われている方もいらっしゃるかも知れません。

その点についてもお答えしますと、女子大ははっきり言って「めちゃくちゃ居心地がいい」です。

私が中高大と女子のみの環境にいることもあり、だいぶ偏りがある意見かも知れませんが、本当に、めちゃくちゃ居心地がいいんです。

男子の存在を気にしないでキャンパスライフを送るって、想像できないとか、考えられない、と思う人もいると思うのですが、少なくとも異性として意識する存在がいないということは、その人自身をフラットに見ることができることと同義である、と私は常々考えています。

それは、友人同士でも言えますし、自分自身に当てはめることもできると思います。

なので私の周りの人達には、自分と言うしっかりとした軸を持っていて、目標に向かって行動している人が多いです。この資格を取りたいから頑張ってる、とか、自分はこういうタイプだから将来はこれになるんだ、とか。色んな子がいますが、私の所見ではほとんどの子が自分自身のことについてきちんと考えられている子が多い印象です。

これは、今まで私が女子校生活を経験してきた中で言えることです。

 あと、ひとつ添えておきますと、日文、オタクの子が割と多めです(笑)

K-POP好き、ドラマ好き、映画好き、コスメ好き、舞台好きなど。

アニメオタクもジャニオタも当然います。

もうなんでもござれ状態です(笑)

なので、その点はどうぞご安心を(笑)

こういうところは、結構学科の性格が出るところかな、と思っております。

 さて。ここまで色々と言ってきましたが、いかがでしたでしょうか。

改めて申し上げておきますが、これはあくまで私の意見であることを念頭に置いていただけたらと思います。

あ、こういう意見の人もいるんだな、程度に留めておいてくれたら幸いです。

 最後に、学科のオープンキャンパスで何をやるかを簡単にご説明して、今回のブログを締めたいと思います。

来たる6月16日のオープンキャンパスでは、主に5つのことを行います。

①学科説明ガイダンス

②模擬授業

③教員・学生との懇談

④日文貴重書ギャラリートーク

⑤展示

①では、本学に所属する先生方が本学科について解説してくださいます。私の稚拙なこのブログを読むよりも有意義なお話が聴けるでしょう!

②では、本学で日本語を専門に研究していらっしゃる先生が「源氏物語執筆時の発音」というテーマで授業をして下さいます!日本語を学ぼうと思っている高校生の皆さんは必見です!(もちろん、そうじゃない方でも大歓迎です!)

③では、ブース内にいる日本文学科の教員・学生のお話を実際に聞くことが出来ます!

日本文学科に関する質問や、その他の質問でも大歓迎なので、ぜひ色んなことを聞きに来てくださいね!(ちなみに当日私もいます…。スタッフの一人としているので、ぜひ声をかけてくれたら嬉しいです!)

④では、日文専用の図書館を実際に見学することが出来ます!

実は、綺麗で大きなあの図書館の他にも、日文専用の図書室がありまして…。ご興味がある方がいらしたら、ぜひともお誘いあわせの上お越しくださいませ!

⑤の展示では、授業に関する展示や学生の実際の時間割など、様々な内容に関する展示を行っております!この展示は③の場所と同じところでやっていますのでぜひお越しくださいませ!

時間が限定されている企画もございますので、詳細はこちらのHPからご確認くださいませ…

https://www.jwu.ac.jp/unv/admission/open_campus/2024_0616.html

(各企画につきましては、こちらのURLから「当日パンフレット」というPDFをご確認ください…!)

 

 あ、あと忘れてはいけない「にちぶんちょう」についてもご紹介しますね。

この日文には「にちぶんちょう」というそれはそれはかわいい子たちがいます。

本学科で学べる9つの分野ごとにそれぞれ個性豊かな「にちぶんちょう」がおりまして…

こちらの子たちです…!↓

画像の引用元は下のリンクから!↓

https://x.com/jwu_nichibun/status/1542460789873057792

こちら学科内外から大変ご好評いただいておりまして…めちゃくちゃかわいいですよね…!

しかもちゃんと各分野ごとの特徴も出ているという何ともお得なセットでございます…!

オープンキャンパス当日にブースに来ると、至る所でにちぶんちょうが見られるかも知れませんよ…!

 それではこの辺で、締めたいと思います!

最後まで読んで頂きありがとうございました…!

皆さまのご来場を心よりお待ち申し上げております!!

ソロ活日記

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は、この話をしたくて書きました。

タイトルにもあるように、今回は「ソロ活」というテーマでお話をさせて頂きます。

大学生って、思った以上に「ソロ活」がしやすいんですよね。

なぜって、みんなスケジュールがバラバラなので。各々が、それぞれの軸で生活できることが、大学生の良さでもあると思います。

ただ、逆にやりたいことがなくて悩んでしまっている人には、この環境を居心地が悪いと感じてしまうかもしれませんね。

私は、やりたいことがたくさんあった人なので、この環境に変わってもそんなに迷うことはありませんでした。

むしろ、それをどのタイミングで始めるかの方がすごく迷いましたね…。

この「ソロ活」。本当に気ままにできてしまうので、ストレス発散にもなりますし、自分についてよく考えることもできるといういいことづくめな活動でございます。

というわけで、これ以後は、私が授業後に気ままにすごした何日かを日記のような形式で紹介します。

 最初にやりたかったのが、「ひとりカラオケ」です。

友達とカラオケに行くことはあっても、一人でカラオケに行くことは一度もなかったので、これを機にやってみようと思い、大学で授業を受けた帰りに、一人でカラオケに行ってきました。

歌うことでストレスを発散したかった、ということと、ちょうど新しいコンテンツにハマり始めた時期だったので、その曲も歌いたくなっていた、という理由もあります。

結論から言うと、一人で行ったカラオケは、「めちゃくちゃ楽しかった」です。

その一言に尽きます。

何が良かったかって、自分のペースで歌えるし、歌いたい曲も、歌う途中に何を叫ぶかも、自分次第。

(ちなみに私は独り言が多い&デカいタイプです。PCの大画面で推しの曲聴きながら一人で語ってます。30分はしゃべれます。傍から見たらとんでもない人です(笑))

こんなヤバいやつがいても、カラオケルームには一人ですから。何を言われることもありません。

いつもなら、自分の行動を客観視する「もう一人のわたし」のような存在もいたりする(イマジナリーフレンド的なものではなく、あくまで概念のお話です!自分で自分を変な人かのように表現しているような気がしますが…)のですが、そんな存在も、その時だけはなりをひそめてくれました!

つまり、私は本当に自由に、解放された空間と精神状態の中、約2時間のひとりカラオケを楽しみました。

 次にやったことは、「書店に入って好きなだけ気になる本を漁る」というものでした。

皆さんは書店に足を運ぶことは好きでしょうか?

特に、大きな書店に入るときのあのワクワク感!

今日はどんな本に出会えるのか、と毎回ワクワクしながら入っていきます。

今回私が行ったのは、目白キャンパスからもほど近い、池袋のジュンク堂書店さんです!

行ったことのある方なら分かると思うのですが、あそこは本当に大きい書店の一つで、都内でも最大級の規模を誇るといっても過言ではないような大きさの書店です。

地上9階、地下1階という階数もさることながら、ビル一棟分が書店なのですから、その大きさがよくわかっていただけるのではないかと思います。

さて、そちらにお邪魔した私が向かった場所は、角川ソフィア文庫が並ぶコーナーです。確か3階のフロアであったと記憶しています。

この「角川ソフィア文庫」。いわば文学研究の入門書で、文庫版であることから手軽に読むことが出来、「ビギナーズクラシックス」のシリーズが有名な文庫です。

「ビギナーズクラシックス」は、高校の図書館に置いてあることも多いので、古文に興味を持っているよ!という高校生の方は、ぜひ図書館で探してみてください!(ちなみに私の高校にはありました。

なので、高校時代に、ビギナーズクラシックス版の『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『源氏物語』を読んだ記憶があります!)

現在放送中の大河ドラマ「光る君へ」の影響を受け、元々あった平安文学に対する興味が最近さらに強くなったため、関連の書籍を買って読み漁ってみようという魂胆の元、足を踏み入れました。

本棚の中は、時代別に整頓された文学史上有名な作品たちでいっぱいでした。

その中から、私はかねてより興味があった日記文学に関する本を1冊、手に取り、購入しました。

授業の課題や諸々の準備があって忙しく、まだ全部は読めていないのですが、いずれ読破したいなと思っています。

最近は大学の図書館でも、私は本を読むことが増えました。

自分の興味が湧いた本を片っ端から手に取り、その場で立ち読みし、気に入ったら借りて読む、という手法で本を読んでいます。

去年はあまり本を読めていなかったという反省から、今年は定期的にこういう機会を設けてもよいのではないかと思い、行動に移している次第です。

 何故だか最近は、小説よりも論文のような筋の通った文章を読むのが好きになってきました。

昔はあんなにファンタジー小説が好きな子だったのに、どこからこうなっていったんでしょうかね…

それはまたいつかまとめてみることにして、ソロ活に話を戻します。

 最後に語るは、「カフェに行ったこと」です。今回は池袋駅の東武方面にある星野珈琲店に行ってきました。

池袋行きすぎですね(笑) ちなみに冒頭のカラオケも池袋にいきました。

実はずっとカフェ巡りを趣味にしたいと思っており、また二か月くらい前から近所のカフェでバイトし始めたので、それも相まってここからカフェ巡りという趣味を始めてみよう!と思い立ち、足を運んでみました。

店内は暗めで、壁や調度品なども基本的にシックなものばかりでした。

ちゃんとしたレストランに来た時のような感じで、少し背筋が伸びました。

店員さんの接客も、自分が行っているそれとは明らかに違い、戸惑う様子もなくスラスラと丁寧な言葉が出てきていて、すごいな、と尊敬しました。

頼んだものが、2段のパンケーキ(にはちみつをかけたもの)とホットの豆乳ハニーラテ?みたいなものと、追加でアイスカフェオレを頼みました。

追加で頼んだアイスカフェオレの写真は撮るのを忘れたのでありませんが、それ以外のメニューはこんな感じのものです。

右後ろにあるソース(?)がはちみつで、これをお好みでかけて食べる、というスタイルでした。

めちゃくちゃ美味しかったです。

カフェでは何をするでもなく、せいぜいスマホで推しの動画を見ていたくらいなのですが、すごくいい気分転換になりました。

ちなみにこちらのパンケーキ、私が少食ということもあるかも知れませんが、意外とお腹いっぱいになります。(確かこの日の夕ご飯は、量を少なくして食べたかな、と記憶してます…)

今回は、ソロ活について、主にひとりカラオケ、書店巡り、カフェ巡りをしましたよ~という三本立てでお送りしました。

ソロ活をしてみて思ったことは、気の向くままにどこかに行って何かをすることは楽しい!ということでした。

人と一緒にどこかに行って何かをすることが楽しい時ももちろんありますが、ソロ活もソロ活で楽しいところがあったんだな、と改めて感じました。

やはり高校までの、友人と一緒にいることが当たり前!といった雰囲気から、大学に入ってそのような風潮がなくなったことによる影響が大きいのかな、と思いながら今回のブログを締めたいと思います。

まあまあ長くなってしまったかな?どうでしょう。意外と他の部員さんが沢山書くということが判明したので、もうあまり気にしなくなってしまいましたね…。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

私の発想の源

皆さんこんにちは。みちこです。

ブログ部で記事を書き始めて以来、初めてお休みをいただきました。

GWとブログ部、2種類の意味での休み明け文章でございます。はい。

逆にここまで書かない期間が長くなると、何を書いていいのやら悩む、というのが今回の初休みに関する感想です。

ここまで来るのに何度書いては消し、書いては消し、を繰り返したことでしょう。今回はさすがの私でもお手上げです。基本こういうことで悩むのあまりないんですけどね…。

今まで内容的にはじっくり腰を据えて書くような内容の文章が多い上に、私もこれら自体に対して発信することがあまり苦ではないと思っていたのですが…もう出尽くしてしまったのか…?

いや、そんなことはありませんね。

現に、「自分を認めてあげる方法について」とか、「自分の変わった思考の話」とか、話しきれていないことはたくさんあるはずなんですが…。

おそらく、文章を書くのにある程度の時間を要するからであると思いますね。

この記事を書いていること自体に、私は「思考の整理」という意味を見出しているため、自分が納得できる文章でないと、皆さんにお披露目したくない、という思いがあってのことなのかもしれません。

なんだか、締め切り前の作家さんの心情を体験しているかのようです(笑)

というわけで、ブログを書き始めて以来初めての難産文章になることをご理解いただいた上で、次から始まる文章をお読みください。

今回のテーマは、さんざん悩みましたが、「発想の源」というテーマにすることとします。

先にも述べた通り、私は意外とアイディアがポンポン出てくるタイプの人間です。

特に、こと創作物という点においては、ふとした時に頭の中に浮かんできます。

道歩いてる時とか、とにかく一人で何かを考えてる時ですね。

その中で思考を重ねていくうちに、芋づる式に、あれよあれよと様々なアイディアができていき、結果数は多くなっている、という形になります。(アイディアの質はどうあれ、です…。)

そこで今回は、私の頭の中の整理も兼ねて、「私の発想は一体どこから来ているのか」ということについて、お話していきます。

結論から言ってしまえば、私の発想の源は、「音楽」から来ていると思います。

基本的に私は、何をするにつけても必ず何かしらの「音楽」を聴いています。

BGM系もそうですし、歌詞のある曲も当然聴きます。

課題をやる時もそうですし、創作物を作る時はもちろん、実はこのブログを書いている時も、私はずっとBGMを聴きながら書いてきました。

なんだろう…。個人の感覚なんですけど、何かしら音がないと、耳が寂しいんですよね。

その感覚があるので、作業をするたびに必ず音楽を聞いていたら、いつの間にか音楽から感じることを言葉に綴れるようになり、それを創作物の糧にしていったり、気分を整えたり、みたいな使い方をしていました。

なので、元気になりたい時は、はねるような曲調のものを聴くし、感傷的な、少し物悲しい気分になりたい時はそういう系統のBGMをわざわざ選択しています。

気持ちのチューニング、みたいなものかもしれません。

日常知らぬ間に感じているであろうストレスを、イヤホンをつけ、そこから自分のなりたい気分にあわえたBGMを聴くことで、自分の感情を無意識にコントロールしているのかもしれません。

イヤホンから流れる音楽って、閉鎖的な空間だけど、それが私にとって最も落ち着くからかも知れないですね。私は圧倒的イヤホン派で、正直ステレオ派の気持ちが理解できません。音が広がって全体を包み込むようなあの感覚は、何かに抱かれているかのようではありますが、あまりにも空間が広すぎやしませんかね…?と私は思っています。

また、私は一人の時間が絶対に必要なタイプの人間なので、ずっと人と一緒にいると疲れるタイプの人です。

なので、イヤホンから流すことで音を閉じ込めて、自分だけがいる空間を作り出します。そうすることで、音楽の世界にどっぷりつかれる上に、気持ちの整理をしたり、その過程でアイディアまで得られたり。こういった感じで、一石三鳥くらいのフェーズに入ります。

で、曲からインスピレーションを得た私は、さらに自分の中で発想を広げていきます。

ここから先の思考回路に関しては本当にもうよくわからないので説明できないのですが、唯一言えることは、「関連性のあるモノをどんどんつなげて考えていく」ということです。

芋づる式の思考回路、と先ほども言ったように、本当に私の思考回路は「連想ゲームの連続」です。

「脳内マジカルバナナ」を永久に繰り広げていっております。

そうして出たアイディアを、思いついたままにしゃべっていく、というのが一連の流れかな、と思っています。

これに関しては、理解できない人の方が多いと思います。現に私も自分自身が理解できていません。

なので、こと自分の思考回路、ということにおいて言葉で説明するというのは至極難しい、という結論を提示し、この文章を終わりたいと思います。

次はソロ活についてでも書こうかな~。あれは案外楽しいものですよ~。

またテーマは変わるかもしれませんが、そこは悪しからず。

それでは、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

失礼いたします。

私の「推し方」

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は、私の「推し」についてお話していこうかと思います。

とはいえ今回の記事は、いわゆる「推し語り」を展開することに焦点を置いてはいません。

どちらかというと、私にとってその「推し」がどういう存在なのか、どうやって「推して」いるのか、といった形での進行となります。

いわゆる、「私なりのHow toや、ルール」と言った方が近いかも知れません。

そのようなことを、今回は綴っていきたいと思います。

では、始めます!

まず最初に、私の中での「推し」の定義についてお話します。

私の中で、「推し」とは、「自分の人生に影響を与えた人・自分の価値観を180度変えられた」人のことです。

皆さんがいう「推し」にも色々な定義があると思いますが、私の中では、世間一般でいう「推し」の定義は「自分の生活を豊かにしてくれるもの(主に精神的な面で)」という意味かな、と考えています。

その意味では確かに私も「推し」を定めてからというもの、「自分の生活が豊かになったな」と実感しています。

しかし、世間一般の「推し」の定義とはちがう、「自分だけの推しの定義」があるのではないか、と最近思うようになりました。

というのも、複数のオタク友達とお話していて、私の「推し方」は普通の推し方ではないんだな、と感じることが多かったからです。

その多くは、イベントに行ったり、グッズを買うことを「推し活」と呼んでいるのに対し、私の「推し活」はもっと「内向的」です。

オタクとして「推し活」をしたことのある人なら分かる感覚かと思いますが、いわゆる「推しにお金は貢ぐもの!」というあの感覚が、どうにも私の「推し活」には当てはまらなくて。

前者を「外交的」なオタ活と定義するのなら、私はその逆で。「自分に負荷をあまりかけずに推す」タイプの「内向的オタ活」を好む人です。

ではその「内向的オタ活者」である私はどんな推し方をしているのかというと、まず、「負荷をかけるべきものは最低限にとどめ」、「その中から得た着想や学びを創作活動や今後の自分の人生の指標にしていく」という推し方をしています。

文章で表現すると、めちゃくちゃ難しいことのように聞こえますね(笑)

例を挙げて説明していきましょう。

まず、私がどんなものにお金をかけるのか。

ここでは私の推しがどういう存在なのかを説明してからでないと分かりにくいので、先に説明します。

私の推しは、「声優さん」です。基本的に声で演技をする「役者さん」で、「裏方」のお仕事をしている方です。

なので本当は、「裏方」にスポットライトがあたることはないはずなんですが…。どういうわけか昨今の声優さんブームがすごくて、そんな「裏方」の方も「表舞台に出て」きているので、様々なメディアで色んなお話を聞くことが出来ます。

私の「推し方」は、まず、その「お話」を聞くところから始まります。

具体的に言うと、雑誌のインタビューとか、ラジオ番組でのお話とか。そのようなことが挙げられます。たいていはこの二つの方法で情報を得ております。

あとは、CDですね。これは私の中で優先度が一番高いです。私の推しは、本業である声優以外にアーティスト活動(音楽活動のこと)も行っているので、新曲がリリースされると絶対に買います。これだけは何があっても譲れないです(笑)

このCDに関しては、私が単に、大好きな推しの声を聞ける、という意味でももちろんそうですが、後述する「創作活動」の糧にもなってくれています。なのでこのCDは、ほぼ必須の買い物になっています。

そして次に、これらのコンテンツを「消化」していきます。こちらの「消化作業」、まあ感情がジェットコースター状態ですね。いい意味で浮き沈みが激しいです(笑) なお、その感情の変化を感じ取っている時が一番楽しいです。そしてその中で、何か私の心に引っかかるものがあれば、それをすくいあげていきます。

あいにくと、このようにブログを書かせて頂いているということもあり、昔から形のない思いを言語化する能力が多少なりともあったので、それらをまとめていったり、美術部に入っていて絵が描けることもあったので、イラストにまとめてみたり、と自分で感じたままにその思いを「昇華」していきました。

ここで、私の「昇華」方法は2つに分かれます。1つは、推しの言動から私が感じたことを日々の生活で取りいれていったり、意識してみたりといったいわば「理想像に近づくための材料集め」をすること。2つ目は、先ほど少し触れた「創作活動」です。

私の現在の推し(二人おり、一人は中学生から、もう一人は高校生から推し始めました)には、お二人とも本当に色々な影響を受けました。

中学生から推した方の推しには、「何事にも真摯に取り組む姿勢」と、「人を・コネクションを大事にすること」の二つを。高校生から推した方には、「違った価値観を認めること」そして、「視野を広く持つこと」の二つを主に学んだような気がします。

今思えば、どちらも、今の私を作り上げる上で必要不可欠なことでした。推す時期が違っても、例えば逆だったとしても、今の私は作り上げられなかったと思います。

そして、創作活動もまた、私の「推し活」の中では非常に重要な一端を担ってくれています。

今思い返してみて一番すごかった創作活動だと思うのは、「一曲ずつ、その曲をモチーフとしたテーマ小説を書き、さらにそれを連作にして、すべての小説に時系列的・世界観的な繋がりを持たせた」ことですね。

そのアルバムは、推し(高校生から推した方の推しです。ちなみに私の推しは二人とも声優兼アーティスト活動もしてる声優さんです)がアーティストデビューします!というタイミングで作られた「デビューミニアルバム」だったがゆえに、私もリリースされるまで様々な予想をしました。曲名のみが発表されたときには、その曲名からどのような感じの曲かを想像して一人で楽しんでました(笑)

そしていざリリースされたときには喜び勇んでその答え合わせをしましたが…。

まあ、簡単に当たるようなもんじゃあ、ないですね(笑)

でもこれだけ楽しませてくれたこのアルバムに何か恩返ししよう!と軽い気持ちで、アルバムのある一曲をテーマに小説を書きました。

そしたら聞いていくうちに、次から次へと好きな曲が現れていくので、「もうこれは連作小説を作ればよいのでは!?」と思い、小説を書きあげていきました。こうして書き上げた小説たちはきちんと世界観と時間軸が結びついているものになりました。

あの時の時間は本当に楽しかったです。

以上が私の「推しの定義」であり、「推し活」です。

少し分かりにくい文章や構成になってしまっていたかと思いますが、いかがでしたでしょうか。

私にとって「推し」とは、「人生の指標」であり、「私の理想像」であり、「癒しを提供してくれる存在」でもあれば、「新たなアイディアをくれる存在」でもある…。

そんなことだけ分かって頂ければ、この文章の大半の意味は理解して頂けています。大丈夫です。

さて。次のブログは、「私の変化」をもう少し掘り下げる記事にしようかな、と考えています。具体的にどんなことについて話すかはまだ未定ですが、とりあえずそんな大まかなテーマで何かしら執筆しようかと考えています。

長々と失礼しました。おそらく、私史上一番長い記事のような気がします。

お付き合いくださった読者の皆さま、本当にお疲れ様でした。ありがとうございます。

それでは、失礼いたします。