古典文学のおもしろさ(中世編)

皆さんこんにちは。みちこです。

さて、もう更新が来てしまいました!早いですね~。ブログ部の投稿日にちは基本希望制なので、自分が忙しいと思う時期を避けたりとかそういうことが出来るんですが、いつでもいい!というと、こういうことも起きます。

まあそんな不測の事態に備えておくことも必要なわけで。ということで、今回はなんと、更新記事を出してすぐまた次のブログ記事を書くという暴挙に出ております。

事前準備といえば聞こえはいいのでしょうが、まあそんなことは置いておきましょう。

 

さて、前回は「古典文学のおもしろさ(中古編)」ということで、私がなぜ古典文学にハマったのか、という説明の第1弾として、中古文学にハマるまでの経緯をお話しました。

次は中古から中世専攻までへと歩を進めていくわけなのですが、ここまでで、ずいぶんコロコロと興味が変わっている人間であることが確認できるかなと思います。

そんな人間が日本文学科にいていいのかとお思いになるかと思いますが、大丈夫です!

こんな人間でも日文にはいられますので、ご安心ください!文学しか学べない、日本語学しか学べない!そんなことはありません!他にも、中国文学や図書館情報学も学べますし、日本語教育学も触れることができます!

 

というわけで、そんな多種多様な学びを深めることのできる本学日本文学科は、来年度より「日本語日本文学科」として名称を変更することとなりました!

「名前が変わっただけで何も変わらないんじゃないの?」と言ったことはありません!ちゃんと内容も変わっております!そんな詳細が知りたい方はぜひ、6月15日開催のオープンキャンパスに足をお運びください!前回も紹介したのですが、私も学科選抜の1オープンキャンパス委員として皆さんをお迎えいたしますので、我らが(日本語)日本文学科をぜひよろしくお願いします!

(文学部特設サイトはこちらから↓)

https://www3.jwu.ac.jp/fc/public/unv/humanities/

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さて、早速本題に入りましょうか。(いつも前置きが長くなるのはクセです。)

中古への興味を持った2年の春、私は中古前後の時代のこともよく知りたい!と思い、そのうちの一つである中世文学の授業を取りました。

 

それがこれまた文学史の授業で「中世文学史」です。

まったく知識がない中で授業を履修し、初回授業で先生が言った一言。未だに覚えています。

「リア充から文学は生まれない」

知識が多少入っている今なら分かります。確かに中世は、「リア充」がいません。

「リア充」とはその名の通り、「リアルが充実している(人)」のことです。

皆さん、想像してみてください。中世とは、鎌倉時代や室町時代のことです。

この時代には何が多くありましたか?

---そう、「戦」です。

途中に「戦国時代」という名の時代が通称として存在するように、中世はまさに「戦乱の世」なんです。戦とは時に、政治の権力者も変えてしまいます。トップに立つ人が変われば、政治も変わり、皆の暮らしも変わります。中世とはそんな、「不安定」な時代だったのです。

天皇のような高貴な人達も、その例外ではありません。武力を振るう「武士」が猛威を振るうようになると、天皇の力でもどうしようもないことも起きてしまいます。

そんな、「天皇の力でさえもどうしようもないことが起きる」時代に、その時代に生きる人達が頼ったものは、「文字から生み出されるものたち」でした。

和歌や漢詩、文章を綴ることで、どうしようもない世の中に対する不安などを綴っていく。

それが、「リア充から文学は生まれない」の真の意味なのかな、と私は思っています!

 

そんな言葉に驚きつつ、受けていった授業。

ここでもまた、「知らない」のオンパレードでした。でも「知らない」ことが苦ではなかった。面白かった。もっと学びたいと思いました。

この授業を受けた中で最も影響を受けたのは、「藤原俊成」という(その筋では)有名な歌人です!

この人は「中世歌壇の立役者兼大御所様」という公の立場を持つ反面、妻(の1人)である美福門院加賀さんとのラブラブな長歌だったり、その息子である藤原定家を溺愛したりと家族に甘い一面もある人物です。

 

私はこの「藤原俊成」という男に非常に興味を持ちました。なんでだったのかはよく分からないのですが、おそらく公私のキャラの違いという「ギャップ萌え」が影響しているのだろうと思います。

私はこの男に本当に興味を持ちまして、その日の授業の感想に「俊成で卒論書きたいです」などとつづったような記憶があります。

 

さて、そこから中世への興味は尽きません。そしていつしか、中古への興味よりも中世への興味の方が勝ってしまいました。皆さんもお気付きかもしれませんが、前回よりも今回の方が饒舌なんです。

私にしゃべらせでもしたら一発で「あ、こいつ中世好きなんだろうな…」と分かります。そのくらい私は中世という時代に生まれた文学が好きなんです。

元から日本史が好きで、特に好きな時代は中世(戦国時代のあたり)ではありましたが、日本文学科に入ってまた巡り巡って中世という時代に興味を持つことになるなど誰が想像できたでしょうか。いや、できなかっただろう。(反語)←余談ですが、これ高校とかで流行りませんでしたか?!うちの高校(クラス)だけだったのかな…かなり流行った印象があります。

 

でも結局のところ、私は最終的に卒論を書く上で所属するゼミを、中古か中世のどちらにしようかかなり迷っていました。それこそ、締め切りの30分前くらいまでずっと迷っていたんです。

それなりに事前知識もあり、卒論対象作品や論点が明確に決まっていた「中古」。

対して浅い知識しかなく、卒論対象作品に複数候補があり、論点すら明確に定まっていなかった「中世」。

どちらを選んだ方がいいのか、自分の中ではかなり迷っていました。「どちらの結果になったとしても全力で卒論を書き上げられる自信があったからこそ」悩んでいたんです。

ただそこで、ある方から助言をいただいたんです。

「あなたは中世の話をしてる時の方が楽しそうだね!大変でも絶対楽しめるところに行った方がいいと思うよ!」と言っていただきました。

(その方は私が現在もボランティア活動をしている場所によく食事を召し上がりに来て下さる方で、なかなかに愉快で頼もしい方です。)

結局は、その方の発言が後押しとなり私は「中世」の道へと進みました。

 

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大学3年になって数か月経った今ですが、まったく後悔してません!!!!!

むしろあの時「中世で卒論を書くと決断した私に感謝したいくらい」です。

ゼミの同期からも「楽しそうだね」と言われるほどには学業・研究を楽しませて頂いています!!!

 

正直、入学当初は自分がこんなに学業にハマるなんて思ってもみませんでした。人生どこに何が転がっているのか、何を拾ってみるのか分からんものですね。

 

さて、あまり古典文学のおもしろさについて話してこなかったような全2本立ての紹介でしたが、いかがでしたでしょうか。

なんでこんなにハマったんでしょうね、もう自分でもよく分かりません。でも、ただ一つ分かることは、「あの時の決断は、決して間違ってはいなかった」ということだけです。

 

さて、次回は番外編ということで、今回掘り下げようと思って字数とまとまりがなくなりそうで断念した「藤原俊成」について話そうかなと思います。

彼は私にとって、中世への興味の扉を開いてくれた人物でもあり、個人的にはかなり思い入れのある人ですので、こうしてまとまった文章にして綴ることで考えを整理できたらなと思います。

そしてなんと次回以降の予告もしておこうと思いますが、大本命、現在卒論対象にしようとしている「阿仏尼」について語る回もいずれできたらいいなと思っております。

ほら、中世の人物紹介の投稿だけですでに3つもやろうとしているんです。もう、私の中世愛が並々ではないことがお分かりいただけたでしょうか。

 

というわけで、今回はここまでにします!

最後まで読んでくださりありがとうございます!

古典文学のおもしろさ(中古編)

皆さんこんにちは。みちこです。

さて、私は現在とても多忙の毎日を過ごしておりまして。日々PCと向き合いながら資料を作り、移動中にはLINEで連絡しまくり、みたいなとんでも生活を送っております。

1週間の間に4つの案件を掛け持ちし、奔走していたことに対して心配の言葉を頂きますが、ここで改めて弁解しておきます。

「私は平均5時間は寝ております!!!!!」

なので大丈夫です!タイピングが早くなり、思考回路も早いせいなのか、そこまで時間がかからずに仕事を処理できているので本当に心配ございません!!!!

多方面で心配してくださっている皆さま、ありがとうございます!何かあったら頼らせていただきますので、その際にはよろしくお願いします!(この場を借りすぎている)

というわけで、来る6月15日には、第1回オープンキャンパスが開催されます!

私も様々なところで奔走しておりますし、もちろん他の皆さんや先生方もお忙しいところご協力いただいておりますので、そんな我々精鋭部隊が準備をした渾身のブースをお楽しみください!

 

お申込みや詳細はこちらより!↓

https://www.jwu.ac.jp/unv/admission/open_campus/2025_0615.html

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さて、去年も同じ時期に似たような記事を書いている気がしますが、今回はもう少し「古典文学」に視点をおき、かつ自身も書くことになる「卒業論文」について、あらかじめ思いを整理できたらな、などという魂胆で記してみようと思います。

高校生の皆さんが、大学生になるイメージを少しでも想像できたなら嬉しいです!

それでは始めます。

 

 

私が古典文学にこんなにハマったきっかけは、本学の古典文学に関する授業でした。

当時日本語学を専攻しようと思いながら入った大学内では、「日本語学が難しいな!」と思うことがあり、あえなく専攻とすることを断念。面白さよりも難しさが勝ってしまった私の心中にぼんやりとあったのは、「『更級日記』への興味」でした。

そんなほんの少しの興味から取ってみた授業が、「中古文学史」でした。

こちらは本学専任の教授による授業で、「中古」とは時代区分的に「平安時代」のことを指します。

平安文学といえば古典文学の宝庫!『伊勢物語』や『源氏物語』のみならず、日記文学も充実しております。

『源氏物語』作者の紫式部が書いた『紫式部日記』、よく紫式部と対にされる清少納言の書いた『枕草子』、少しマイナーなところだと『更級日記』作者である菅原孝標女(女と書いて「むすめ」と読む)が書いたとされる『夜の寝覚』などもあります!

仮名文字(現在のひらがなの原型となった文字)で書かれた文学ということで、これらの文学は「仮名文学」とも呼ばれますが、平安時代とはそういった文学が花開いた時代です。

じゃあこの時代のこの文学の何が面白かったのかと言いますと、理由は単純です。

「知らなかったことを知れる」からです。

 

では何を「知らない」のか。

---皆さんは、高校までで学んでいる古典がどれだけ「正しい」ものだと思いますか?

実は高校までで教えられている古典の解釈は本当に一握りでしかないのです!

私が高校生の頃、古典の授業は単語を覚えて、文法を覚えて、この文章の意味はこういう意味だと定義する、そんな空間でした。この空間を私は、古典を好きになる「きっかけとしては」十分だと感じていました。しかし、古典を「単語や文法を覚えるだけの機械的な科目」のように捉えていた節があり、完全には古典の授業を好きになれませんでした。

ただ一人、先生で楽しそうに古典の解釈を話してくれる先生がおり、その先生の授業は好きでした。

その先生は高校2年の時に私のいたクラスを担当して下さっており、そこで私は『更級日記』で作者が『源氏物語』を読みふける、あの有名な場面を学びました。

その時、私は初めて『更級日記』の存在と、「古典の世界にもこんなオタクがいたんだ!」と感動することとなります。

このことが大学入学時までずっと引っかかっていたので、私は中古への少しの興味を手に、「中古文学史」の授業を聴いていました。

 

その結果、まあ面白いこと。高校までの授業とはまるで大違いです。一つに解釈を規定するなんてことは絶対にせず、これまでの研究の中で複数の解釈がなされていることを提示しながらなされていく授業展開。高校では教わらなかった平安時代での常識やエピソード。本当に知らないことばかりなんだな、と思わずにはいられませんでした。

 

そんな世界をもっと知りたくなったからこそ、私は2年生に上がってから中古(平安文学)の「日記文学」へと舵を切り、そちらへの興味を深めようと思いました。

なぜ日記文学に興味を持ったのかは、いわずもがな、記憶の中にずっと残っている『更級日記』への興味からです。

この時は、なんとなく卒業論文を『更級日記』で書く予定でいました。

 

そして念願の2年生。履修登録のタイミングで、「中古の前後の時代も知っておいた方が学びが深まるだろう」と思い、中古を軸に据えた履修登録をしながら、その前の時代である上代(『万葉集』や『古事記』などが書かれた飛鳥~奈良時代のこと)や中世(鎌倉~室町時代のこと)の文学も勉強しようと思い、さらに「漢詩の引用がなされている文学もあるから」という理由で中国文学に関する授業も取りました。

 

今こうしてあげてみると中々全部盛りしたな、と思いましたが、後悔はありません。

日本語学で唯一興味を持った分野に関する授業も取り、相変わらず日本語学への興味も薄れておりません!2年次はあらゆる可能性を考えて、様々な分野の授業を取りました!

 

ということで次は2年生の話へと移っていくのですが、長くなってしまいましたので、ここまでとします。

次回はなぜ私が中世文学へと足を踏み入れることになったのか、そして現在の私の興味はどこへあるのか、その源を自分自身が把握しておくために綴ろうかなと思います!

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

こぼれ落ちても拾っていい

皆さんこんにちは。みちこです。

さて、今回は前回の予告通り、前の記事で書いた謎小説の解説(?)をしようかなと思います!

最近の近況としては、中古自主ゼミで発表のために資料を作っている時間が、苦しくも楽しかったということだけ添えておこうかなと思います。(卒論第二候補の作品だった『更級日記』が題材だったということもあり、愛ゆえの苦しみがあったように思います。

ちなみに今回の発表でかなり色んなことを知れたので、一旦知識欲の蓋は閉じておこうかと思います。)

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(前回の記事はこちらから↓)

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2025/04/20

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皆さんには、このような体験はありませんか?

---バカなこと、分かり切ったことだと思いながらも、それでも試さずにはいられなかったという経験が。

それを時に人は、「まわり道」などと呼んだりします。

実は私は、自分のことをその「まわり道」が出来なかった(許されなかった)人だと思っています。

常に正解を求められているような閉塞感。

それは世間の評価という意味でもそうだし、親が望むような、という意味でもそうだし。

「いい子すぎた」と言ってもいいのかも知れません。実際、私はあまり遊んだ経験がありません。

要領が悪いと言われながら育ってきた私は、「勉強も遊びも全力で!」みたいなことが苦手でした。

いわゆる切り替えが上手くできないタイプです。それ故に、「やるべきこと」という言葉が常に頭の中にあり、それをこなしつつ、間に合わせ程度に遊びを取り入れて生きている。

そんな感じの生活をずっと続けていたように思います。

それが大学に進学して見たらどうでしょう。一気に生活の自由度が上がるではありませんか。

そんな制限の多い環境で育ってきた、という自負がある中で「自分の裁量ですべてを決められる」という生活は私の憧れでした。と同時に、「ここから方向転換が上手くできるかな」という(過度な)緊張もありました。

 

当然と言えばそうかも知れません。しかしやはり、「一歩を踏み出す」というのは最初がひどくハードルが高い。それを超えた先の景色を見ている今からすると、「さっさとそうしてしまえばよかったのに」などと思っています。

別に昔の環境が嫌だったわけでも、今の環境に過度に満足しているわけでもないんです。ただなんとなく、「そういう思いがあった」ということを思い出しながら、これを書いていました。

 

ーーー長年使ってきた鏡を割ってしまった主人公。「割れた鏡はもとに戻らない」「時間はもとに戻らない」そんなことは分かりきっている。だけど、それだとしても、捨てきれない自分の思い(ここでは「長年使った鏡への愛着」がそれにあたる)がある。

「捨てきれない思いを拾ってもいいんだよ」というテーマを念頭に置きながらこの小説を書いておりました。

ここまで書いてきて改めて、私は「枠」に囚われることをあまり好ましく思っていないのだろうと思いました。「制限」されてきたという自負のある反動からでしょうか。

でも、「制限」されてきた環境にいたことを悪くは思いません。だって、そうしないと「枠があることにすら」気づけなかったのですから。

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さて、少し難しい話が増えてきたところで、この話はここまでにしようと思います。

事実更新日を一日過ぎてから書いているので、「早く書き上げねば」という焦りもあります。

 

次回は改めて、「私が古典文学を好きな理由」についてまとめ直してみようかなと思います。

今までこのブログ内で散々申し上げてきた私の飽きることなしの「古典への感情」。

そちらを赤裸々に、そして整理も兼ねて、書いていこうと思います。

 

(いつもが長いのか、今回が短いのか分かりませんが)最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

集めたガラスの破片は元の鏡には戻らない

皆さんこんにちは。みちこです。

もう4月も半ばを超えたらしいです。まっっっったく実感がありません!(笑)

というか、様々な場面で未だ「2年生」と書いてしまいます。もういい加減3年生としての自覚を持ちたいですね~。

授業も本格的に始まりつつあり、自称「日文の授業大好きマン」としては非常に胸を躍らせている毎日です。最近は予定を詰め込みすぎて、大学に長くいられないことが多く、禁断症状が出てるくらいです。まさか大学に長くいられないだけで精神不安定になるとは思いませんでしたよ!

(この問題の本質はちゃんと「忙しい」ことにありますので、皆さん安心してください。なんの変哲もないからくりです。)

 

というわけで本日のお題に移ろうと思います。今回は…少し新しいことをしてみようかな、と思います。

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ーーー鏡を割ってしまった。

それはただの不慮の事故だった。不注意で落としてしまった。ただそれだけのこと。

でも、何か大きな罪でも犯してしまったかのような気分になる。

その音に反応したのか、家族がやってきた。大丈夫?と心配された。私は、特に何ともないと返し、ほうきとちりとりを取ってくる。

割れた鏡の欠片を掃除する前、私はふとこんなことを思った。

ーーー鏡の欠片は、また集めたら鏡になるのだろうか。

そんなことはない、と知っている。知っているけど、何故か試さずにはいられなかった。

そうして手にけがを負うこともいとわずに、私は鏡の欠片を拾い、パズルのようにつなぎ合わせてみることにした。

 

しばらくすると、家族が新聞紙を持ってやってきた。案の定、何をしてるのと言われた。

気になったから試している。そう答えた。バカじゃないのと言われた。

分かってる。バカでも、それでも、私がやりたいといったことはやってはいけないのか。

そう思いながら、新聞紙だけそこに置くように言って、部屋から追い出させた。

 

いつの間にか部屋が薄暗くなっていた。日が傾いたのだろう。私は割れたガラスを元の鏡の形になるように戻すことが出来た。でもやっぱり、ところどころ欠けている。

 

ーーー私は何不自由なく育った。家庭環境も普通。人間関係も、何もかも。今までの人生に不満はない。むしろ「普通すぎる」と言ってもいいくらいだ。もしその人間をガラス細工で表すといったことがあるとしたら、私の形は「きれいな球体」だろう。何も欠けていない、尖ってもいない。特段に磨かれて、透明なわけでもない。そんな、つまらない球体だろう。

 

でも、この鏡は割れてしまった。この鏡は、小さい頃からずっと使ってきた鏡で、私の半身のようなものだ。そんな存在が今、残酷なまでに粉々になった。

別にこの鏡に特段深い思い入れがある訳じゃない。だけど、そこにある喪失感は大きかった。

 

暗くなってきた。もう検証の時間は終わりだ。並べた鏡の欠片をちりとりに入れる。

欠片を新聞紙にくるみ、捨てに行った。

割れた鏡は、もう元には戻らない。だけど、それが検証出来てよかった。あのまま普通に捨てていたら、私の大事な何かまで捨ててしまいそうだったから。

 

少しすっきりした気分になりながら、夕食を取りにリビングに向かった。

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タイトルであるこの「集めたガラスの破片は元の鏡には戻らない」という言葉。

私の造語です(笑)

もしかしたら私が知らないだけで、こういう言葉があるのかも知れませんが、まったく意図はしていません。

これが自分で思いついて中々気に入ってしまったので、今回はこのフレーズから連想してちょっとした小話を書こうと、そう思った次第です。

どうにもネタ出しに難航したので、今回はあえてこういう記事を書きました。

私は自分の生み出す言葉がすごく好きなんです。言葉にできなかったものを、ぴったりと言い当てられた時のあの感覚。パズルをしているかのような。これがずっと忘れられず、気付けば何かを言葉にするのが好きになり、得意になっていきました。

思えばこれも、自分のことが好きになった二つ目の要因かも知れません。(一つ目は絵です。)

 

さてこの小説ですが、なかなかに難解でしたでしょう。私が書く小説は基本的にこういう感じのものばかりです。

一見すると何を言っているのかさっぱり分からないのです。よく言われます、てか、自分で読んでいてそう思います。

でも、自分の中ではきちんと筋が通っているし、設定もきちんと作りこまれているのです。

そういうこと、皆さんにはありますかね…?(こんな話は、以前にもしたような気がしますが…再放送ということで、お許しください(笑))

 

この解説は次回の更新に回すこととします。あまり長くなってもいけないのでね。私のブログは頭を使うし難しいから…(笑)

それでは、そちらの期待を持たせつつ、今回はこの辺で終わりにしようと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

想像の欠片、その名も「知識」

皆さんこんにちは。みちこです。

本記事の投稿日は4月1日。新たな学年の始まりの一日です。

進級した2年生以上の学生は本日、新学年のガイダンス日でした。いよいよですね。

私は春休み中、授業が始まってほしくてほしくて仕方がない、マイノリティー側の学生だったので、こうして新学期が始まってくれた(ようやっと授業が始まってくれる)ことに喜びしか感じておりません。

どうせまた大変だし、忙しいのでしょうが、それを差し引いたとしても好きなことを好きなだけ学べるこの感覚はそう長く味わえるものではないでしょう。しばらくはこの感覚に浸ることとします。

 

さて、本日のテーマは「想像と知識」としました。

これは前に書いた「発想の源」という記事に書いたもの(https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/05/07/)とテーマ自体は似ていますが、観点は違います。この記事は「創作活動における」発想の源というつもりで書いています。

しかし今回は「鑑賞における気づき」という側面が大きいものとなっています。

前者が「アウトプット」だとするならば後者(今回の記事)は「インプット」により近い性質のものだと思って頂けると良いかな、と思います。

などと分かりにくそうなことを並べていても伝わりそうもないので、ご説明しますね。

 

先日、念願叶って能を鑑賞しました。我が学科の中世分野担当の石井倫子先生と、先生の授業を取っていた有志の生徒10数名と共に「武文」を鑑賞してきました。

「国立能楽堂」という東京は千駄ヶ谷にある能楽堂で鑑賞してきました!(あいにくの空模様でした…)

正直「これが能でいいのか!?」という感想を第一に抱きました。

皆さんは「能」というとどんなことをイメージされるでしょうか…?

おそらく大多数の人が「伝統芸能」という名ににじみ出る「お堅い」イメージを思い浮かべると思います。私もそうでした。(石井先生の講義を取って何度も「そうではない」のだと教えられたところで、やはり実物を見ないことにはそのイメージを完全に払しょくすることは出来ませんでしたし…)

では、何がそんなに私を驚かせたのか。

それは、「役者の演技」と「演出」の二つの要素だと私は思いました。

 

①役者の演技

鑑賞していて特に印象に残ったのは「舵取り」の演技でした。かなり現代劇風だったからです。「舵取り」は野村萬斎さんが演じていたのですが、まず登場時からかなり印象に残りました。

この役は登場時から「お調子者」というか「チョイ役」みたいな立ち位置だったのですが、それが私たちがイメージするそれらの役のイメージとピッタリ重なっているように感じました。

先述の通り、能は「お堅い」イメージがどうしても拭えないでしょうからその壁を取っ払って少しでも「親近感」を味わってもらうための「新演出」だったのだろうと思います。

にしてもあれだけオーバーな演技が演目の世界観と離れることもなかったというのは、間違いなく役者である野村萬斎さんの力量であるのだろうな、と(誠に勝手ながら)思いました。

②演出

「火つけ」の演出に特に驚きました!成人男性一人が両手で抱えるくらいの大きな松明(火の部分はおそらく糸か紙かを使用している)が出てきました。まるで現代劇のような形の小道具が能の世界から飛び出してきたことに驚きました!

しかもこの時の火付け役の演者の動きも、能舞台全体を使って「屋敷に火をつける」動きをしており、「新演出」と銘打っているだけあるな…と思いました!

 

「能ってこんなに現代チックでもいいんだ…!」という驚きと共に私は囃子、いわゆる「バックミュージック」にも注目しながら見ていました。

さて、ここからが本題です。(←遅っ!)

演目が始まる冒頭部分、けたたましく鳴る笛の音とともに「武文」は幕を開けました。

この部分は「夜」の部分であるという注釈がついていましたが、夜の殺伐とした雰囲気を開幕の笛の音、小鼓や太鼓(そして打者の声)で表現するというのは中々に想像力が広がる演出をしたな、と思いました。

(ここからは完全に個人の感覚の話になるので、全く共感できない人もいるかとは思いますが、ご容赦下さい。)

開幕の笛は夜に活動を始めるような、鳥の中でも獰猛な部類の鳥の鳴き声であろうと想像しました。それらの動物たちが夜に活動を始め、反対に昼間に活動をして、夜に活動をしない動物たちはそれらの動物たちに狩られないよう、おびえながら夜を越すしかない。私はこんなイメージを抱きました。

(あるいはあれは、「木々が風にこすれて揺れる」音だったかも知れません…少なくとも、「これから起きる事件に対して不穏な要素を暗示するような開幕」であったとは感じました…。)

 

何を言いたいかというと、これは単に「想像力が豊か」という話では片づけられないのではないか、その背景にはその人が得てきたもの、すなわち「知識」があるのではないか、という話です。

これは授業で得た「能楽の知識」のみならず、「物語の知識(どのように展開しやすいか、このような演出がなされる時はこういう意図がある、など)」、あるいは「生物の行動習慣による知識」など様々な知識が「想像」の種となる。そう感じました。

もしかしたら私が「学ぶことが好き」なのも、こういう「想像の糧は知識だ」と無意識のうちに考えていたからかもしれません。最近、引退してしまったサークルの先輩に影響されて作曲の勉強をほんの少しかじっているくらいですから…。納得いくような曲はまだ作れていませんが、そのうち絶対に作ってやる…という思いで気長に学ぼうと思います。

 

さて。こんな話をされて誰が喜ぶのでしょうか(笑)いつにも増して着地点を決めずに書いているため、読みにくいところなどあると思いますが、ご容赦ください。

他にもブログ部員で同じ演目を見に行った方はいらっしゃったと思うので、ぜひ他の皆さんの感想も聞いてみたいところです。

といったところで今回は終わりにしたいと思います。

次回は何を書いているでしょうね…久々に息抜きに推しの話をしても怒られない…よね?

そのうち気が乗ったら書きます(笑)

それでは失礼いたします。最後までお読みいただき、ありがとうございました!

「自主ゼミ」という環境

皆さんこんにちは。みちこです。

さて。晴れて新入部員の方たちの投稿もスタートしましたね!

彼女たちにはこれからどんどん、個性を花開かせてほしいな、と(勝手に)願っております。

しかしこう見ると、私はまあまあ特殊なタイプであることを思い知らされます。ブログと一口に言っても何かを紹介する記事を書く人や、自分の体験したことを日記のように書く人もいます。ですが、私はそのどちらでもないのだなあ、と思います。しいて言うなら私は後者に近い気がしますが、自分の考えが先にくるあたり、自己主張強めなタイプなのだな、と思わずにはいられませんでした。

こんな近況トークは、最近お休み気味の春風のように吹き抜かせていきましょう。(ちなみに最近のマイブームは詩的な表現を普通の文章に混ぜることです。ひどくマニアックな趣味ですね(笑)

この記事でも少し意識して実践してみようかな…)

 

さて。今回は何を話そうかなと思ったのですが、上手いこと文章にまとめられる気がしないので、紹介系の記事を書こうと思います。

今回は、本学特有の「自主ゼミ」活動についてお話しようと思います。

実は私が数多ある文学部(日本文学を学ぶ学科・専攻)から本学に入学を決めたのはこの活動があったからだったりします。

まず、自主ゼミのすごいところは「1年生から入れる」ところです。

本学もそうですが、通常のゼミは3年生から始まることが多いです。つまり、どうしても興味がある分野があったとしても、上位学年になるまでその思いをくすぶり続けることになるのです。

その点、本学のような「自主ゼミ」というシステムがあると学年の制限がないので、自分の興味関心にすぐアプローチが出来る。そんな環境が本学にはあるのです。

「当人たちが選択するか否かにかかわらず環境が用意されている」というのは実は非常にありがたいことでして、かく言う「私も入学の決め手」と言っておきながら実際に自主ゼミに入ったのは2年生からのことです。

1年生の時点では「学びを深めたい分野」が明確に決まっていなかったこともあり、自主ゼミに入るまでの覚悟と熱意はなかったんです。(あとは、初めての大学生活にまだ慣れきっていなかったため、これ以上やることを増やしたくなかった、という消極的な理由もありました。)

それが1年生の後半(年が変わってからだったでしょうか…1月ごろだったと記憶しています)から急にどっぷり中古沼にハマってしまったものですから、大変でした(笑)

ほぼ先の大河ドラマ「光る君へ」の影響とはいえ、まさか高校の頃に少しひっかかっただけの「更級日記」への興味からここまでの熱意を持つ分野へ変わるとは思いませんでした。

 

無論入学当初から興味のある分野が決まっていて、早めにスタートダッシュを切りたいという新1年生は早々に自主ゼミに入ることもできます。こういう人は、「卒論まで視野に入れてるぞ」みたいな熱意と覚悟があるのでそれらを持った上で活動しています。少なくとも私からはそう見えます。

しかし私のような「授業を受ける中で興味を持った分野に関して、さらに知見を深めたい」という種類の人間も、自主ゼミは歓迎してくれます。(つまり、「途中参加大歓迎」ということです。)

 

そしてこの「途中参加大歓迎」というのも、学ぶ姿勢を崩さない上では重要な要素です。

実は私、ゼミは中世になることが決まっているのですが、このゼミとは別に3年生から中世の自主ゼミにも入りました。3年生から普通のゼミも始まるのに自主ゼミも同じ分野のものに入るの?と思ったそこのあなた。日文ではこういうこともできるんです。つまり、「一つの分野に関してさらに学びを深める」ということが。

(ちなみに、1年生の後半頃に興味を持ったあの時の選択を、私は全く後悔していません。確かに結果私は入学当初の選択肢には一ミリもなかった中世ゼミへと足を踏み入れることとなりました。しかし中古への興味がなければ、私の今の中世オタク気質は成立し得ないのです。

中世を学べば学ぶほど、中古時代の文学(源氏物語を筆頭とする物語文学や、蜻蛉日記などの日記文学)が中世文学を学ぶ上で欠かせない存在であることが分かります。これは中古文学への興味がなければ気付くことすらできなかったこと。だから全く後悔していません。むしろ過去の選択に感謝しているくらいです。)

 

さらに、この自主ゼミは複数入ることも可能です。つまり、分野を横断して学ぶことができます。つまり、今の私が中古と中世二つの自主ゼミに入っていることは、何ら問題のないことなんです。

分野の横断、というのは実はかなり学びの得られることでして。先に私が話した「中古への興味があったから中世への興味がある」という現象がまさにそれです。

 

総括いたしますと、日文の「自主ゼミ」という活動は「自分の興味関心の赴くまま、好きを深められる」のです。

学年を問わず先生と学生が一緒になって学びを深めていくこの場所は、間違いなくここの特徴であると思います。

何より私自身はこの自主ゼミという環境があったからこそ、自らの古典文学への興味を確固たるものにできました。そしてひいては「学ぶとはどういうことなのか」、それ自体を学ばせてもらった、とも感じています。

 

というくらいで、今回は終わろうかなと思います。

相変わらず紹介系の記事だというのに、ネタをもらっただけで全然自我大放出してますね(笑)

本当にこの自己主張の強さはどうにかならないものでしょうか…個性強すぎていつか絶対に痛い目を見る時が来そうな予感を察知しながら、ここらで失礼いたします。

次回は何を書いているんでしょうか。趣味でも語りたい話はあるのですが、当分は古典オタクっぷりを大放出させていそうな気もしますので、先になりそうですね(笑)

最後まで読んで頂きありがとうございました!

ないものねだり

皆さんこんにちは。みちこです。

前回は過去のブログ記事の振り返りをしました。去年は2月の後半から新入部員の更新が始まったので、この記事はブログ部2年目最初の記事ということになります。

ちなみに今年度は3月の前半から新入部員の更新が始まる予定なので、読者の皆さんは楽しみにしていてくださるとうれしいです。

私もどんな文章が紡がれていくのか楽しみにしています。

さて。今回は、私が最近考える機会の多いフレーズ・観念である「ないものねだり」について話していこうと思います。

「ないものねだり」だの、「隣の芝生は青く見える」だの、人という生き物は常に他人と自分を比較したがります。私にも覚えがありますし、皆さんにも何かしら当てはまるところがあるのではないでしょうか。

今回は、この「人と比較する」という人間の性とどう向き合っていくかということについてお話していこうと思います。

 

結論から言うと、私は、この「人と比較する」ということが悪いことだとは思っていません。むしろ仕方のないことだよな、と思っています。

この社会はあまりにも「人と比較する」という構造が自然に組み込まれてしまっていますから。むしろ、我々は常に競争し、比較することをこの社会で求められ続けているといっても過言ではない。

受験だの、定期テストだの、企業の成長だの、この社会はありとあらゆるところで「人と比較する」ということを求められています。

なので、比較してしまうことは仕方のないことなのです。

 

そして、「人との比較」から生まれるあらゆる感情を、私は「人間らしいな」とここ最近では感じています。

 

現在私は放送サークルに所属しているのですが、そこでは春と秋の年2回、「番組発表会」というものが開催されます。これは、自分たちで作った映像・音声作品を披露するというものです。

そこで私は「他人に対する嫉妬や憎悪」をテーマとした作品の脚本を書きました。

これを書いている時は本当に楽しかったです。どのキャラクター同士に確執をつけようか、どんな設定にしようかなど様々なことを考えた末にこの台本は出来上がりました。

今の私はあまりこういう感情を抱かなくなってきたので、過去の自分が感じていた思いを少し脚色するなどしてこの台本を作っていたのですが、これをサークルの部員に見せたところ、中々に面白い反響を頂きまして。中でも、部員の一人から「登場キャラクター全員の境遇に共感できる」という感想を頂いた時はうれしかったものです。

こういう設定をあえて選んだ理由として、「他人への嫉妬や憎悪は誰もが感じ得る可能性があるものだから」というものがあったので。

現在は、作品公開に向けて練習を重ねている所です。公開するのが楽しみです。

 

この台本を執筆している時に感じたのが、先ほども言った通り、「ないものねだり」というものは誰しもが陥る現象であり、それ自体は決して間違っている事ではないんだ、ということでした。

誰にでも当てはまる現象であるからこそ、こういう負の感情というのは至極人間らしい、私は常日頃そう思いながら生きています。

ある時から私は「他人と比較する」ことをやめ、それによって感じる嫉妬や憎悪などといった感情からは離れていたので、改めてここで考え直せる機会が出来て良かったと感じました。

無論、小さい単位でなら私は未だに「他人と比較する」ことはしていると思いますし、この現代社会を生きる上でこれは切っても切れないものではあると思います。

ただ、それとどう向き合うか、どう付き合うかはその時々にきちんと考えなければならないものなのだな、と感じました。

 

こんなところで今回は終わりにしようと思います。

あまりうまくまとまらなかったような気がするのですが、まあこんな回があったっていいでしょう。

次回は…再熱したギターか資格勉強か…どちらについて書くのでしょうね。

あるいは、どちらでもないかもしれません。

まあ、お楽しみにということで。それでは、失礼いたします。

最後までお読みいただきありがとうございました!

振り返りのお時間

皆さんこんにちは。みちこです。

さて!満を持して!!振り返りのお時間です!!!前々から予告していた通り、自分の書いてきたブログ記事の振り返りをしようと思います。

実はこの更新でブログ部で記事を書き始めてからまる一年経過するそうです…。せっかくきりがいいので、今回は自分の書いてきた記事をふりかえろうと思います。

なお、合計21もの記事を書いているそうです。すべてにコメントをつけていくのは書いてる私も読者のみなさんも骨が折れそうですが、どうかお付き合いくださいませ…。

追記:今回もバレンタインデーであることには触れませんでした!!!(こう言ってしまうと触れているという矛盾…)

 

【2/20 大学生になって変わったこと】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/02/20/

これがその時の私が一番伝えたかったことのようです。今もそうですが、私はこのブログという、一つのテーマに対して自分の考えを述べる行為がとても好きかつ得意なようです。大学生になって、自分がどれほど変化することが出来たのか、自分の現在地を確かめたかったようですね。

ちなみに、ここで初回から長々と失礼しました、などとほざいておりますが、どんどん長くなっていきます。てかすでにもう次から長いです。手遅れです。はい。

【3/3 My Hobbies―イラスト編―】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/03/03/

ひな祭りだというのに、そのことには一切触れずに自分の趣味とか語りだしてますね~はい。

どれだけ図太い子なのでしょうか私は(笑)

ちなみにこの話は冗談でも誇張でもなく本当の話で、絵を描くようになってから私のモノの見え方は変わりました。そしてこの記事を書いたことを機に、当時の美術部の顧問に連絡したところ、暖かいお返事を頂いたことも申し添えておきます。

【3/20 My Hobbies―ギター編―】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/03/20/

趣味というものに対する私の考え方第2弾ということで、ギター(ひいては音楽)のことをお話しました。今は忙しさにかまけてほぼ出来てないのですが、最近新たにハマった推し(まあ前のブログで言った甲斐田晴さんなのですが…)が定期的に弾き語り配信をなさるほどギターがお上手なので、その影響を受けて時間を見つつやろうかな、という次第です。

ちなみに父には未だに楽器を買ったことがバレていません…もう二年も経ちますよ…(笑)

このままいつまでバレずにいられるでしょうかね…

【4/7 私の「推し方」】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/04/07/

世間一般で言われている「推し」や「推し活」。それらと私の考えは少し違うよ、という話をしました。未だにこの話が分かる人間には出会えたことがありません。多分私の中で、「推し活」の優先順位が自分の活動より低い位置にあるからでしょうね。

【5/7 私の発想の源】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/05/07/

私の創作物に対する発想の源がどこからくるのか、という話です。これまでの趣味や推しの話と少し被るところもあるでしょう。ここらで総括しておいて、こんな話をしたかったのでしょうか。今となっては知る由もありません(笑)

ちなみにここで初めてブログテーマに難航したのも、いい思い出です。

皆さんの「発想の源」はどこですか?

【5/28 ソロ活日記】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/05/28/

一人カラオケ、ジュンク堂書店巡り、池袋駅内のカフェなど一人で池袋を渡り歩いた際の日記ですね。

色々な活動が始まり、人と触れ合う機会が多くなった結果、自分だけの時間が減ってしまっていることに気づき、空きコマに決行した諸行の数々です。

ちなみに私は一人の時間がないと死ぬタイプです。絶対に欲しい。喧騒の中一人で何か別のことを考え込んでいるシチュエーションとかに憧れます。てか、それほぼ私です(笑)

【6/13 日文とは…?―オープンキャンパスに先立って―】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/06/13/

私が日文を学ぶきっかけとなったことや女子大の雰囲気などをオープンキャンパスに先立って紹介した記事ですね。

実は何気に紹介系の記事を綴ったのはこれが初めてだったりします。

あとにちぶんちょう!!!!この子たち本当に撫でまわしたいくらい可愛い…。9の分野に分かれたにちぶんちょうたちには、その衣装や飾りにもきちんと理由があるんです。

それらの理由を学びたい方もぜひ本学へお越しください!

【6/25 忙しい方がQOLは上がるのか…?】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/06/25/%e5%bf%99%e3%81%97%e3%81%84%e6%96%b9%e3%81%8cqol%e3%81%af%e4%b8%8a%e3%81%8c%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9f/

昔から時間の使い方が至極下手だった私が、「やりたい」気持ちだけ先行してありとあらゆる課外活動を増やしたところ、充実した暮らしになっているのではなかろうかというだけの話です。

ちなみに未だに時間の使い方は上手くありません(笑)

【7/7 フィードバックをもらえることの嬉しさ】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/07/07/

バイトのことを話しています。まあまずこんなことを考えながらバイトをしている人間は少数派でしょう。でも、バイトから学ぶものというのは本当に大きいものです。1年近く経った今でも課題があると感じているため、それを解決するにはどうすればいいのかを考えながら日常の生活に取り入れていっています。(なお、ここでも七夕には触れないそうです。)

【7/24 「ルーツ」は知るも話すもおもしろい】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/07/24/

リレーエッセイについての宣伝とともに自身のルーツについて振り返ってみました。ルーツはその人がその人たる所以の詰まったもの。そしてそれを垣間見るのが面白いと感じています。話すことが好きであまり聞き役に回らない私が唯一といっていいほど聞き役に転じられる話題はこれかもしれません(笑)

【8/15 「勉強する」って楽しいんですよ!】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/08/15/

勉強って本来こうあるべきでは?と考えていたことを綴らせていただきました。好きなことを思う存分に学べている私は幸せ者です。そして、「新たな気づき」。これはいつ何時でも、忘れてはいけない大事なことであると思います。(なお、ここでも終戦記念日であることには触れないそうです。)

【8/31 自分の弱さと向き合うことは】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/08/31/

10代ラストに自身の欠点について触れてみました。

この時期は一週間以内に二度しんどいことが起きて、メンタルが死んでた時期です。

どうせならこれをネタにしてしまおうと書いた次第です。結局言葉に出来てる時点である程度は自分の中で解決出来てるってことなんですけどね…。こればかりは未だに正解が出ない。その場その場で向き合っていくしかないのではないかと思います。

【9/15 「理由」を大切に】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/09/15/

私のブログ史上難易度の相当高い記事を書いたような気がします。多分この意味が伝わった人はあまりいないのではないでしょうか。少し抽象的すぎて難しかったと思います。

ここらへんくらいから、どんどん私が「深考」するさまが見られると思います。(なお、「深考」とは私なりの造語です。実際にこのような言葉はないと思います多分…。)

【10/10 日文生と読書】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/10/10/

前回のブログ更新で「次回は言語化について書く」とか言いつつそうしませんでした。この前例が出来てから、もう予告通りに次回の記事が書かれることは少なくなったような気がします。多分2回に1回は外してますね(笑)

読書についてその時思っていたことを記しました。私が読書と言って読む本の対象が年齢とともに変化してきました、みたいな話をしてるような気がします。

【10/29 「徒然なる」読書】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/10/29/

前回の記事に引き続いて、話題は読書。

衝動買いして読んだ本の紹介などをしております。そして隙あらば古典文学の沼に落とそうとしており、この記事から古典オタクっぷりがどんどん発揮されていくことも忘れてはならないでしょう。

(ちなみに、忘れても大丈夫ですよ…?(笑))

【11/13 古典の現パロに挑戦!】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/11/13/

意外や意外、古典の現パロとかいうとんでもなことをついにやってしまいました(笑)

ちなみにここで書いた作品を好きになりすぎて現状卒業論文で題材にしようと思ってます。

【11/29 迷いの境界線】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/11/29/

「迷い」というものに対してさまざまな観点から述べてみた記事。迷い続けるか、切り捨てるか。

この境界線に関して、私は未だに実践の域に達することが出来ていません。

一朝一夕には難しいと分かっていても、目に見えた結果を追い求めてしまう人間の残酷さを垣間見たような面持ちです。

【12/15 努力が手に入れられるものは?】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/12/15/

受験生応援プロジェクトと私が勝手に題している記事の第一弾として、努力と結果の話をしました。

まあでも、正直こんな記事を書かれたところで普通の応援の仕方ではありませんよね…。

本当に私は、人の気持ちを汲み取って何かを返す、ということが苦手なようです。要反省です。

【12/30 年一のプチイベント】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/12/30/

年一のプチイベントと称して、私と母が毎年近所の神社に参拝していることを綴りました。

こういうプチイベントは、皆さんの中にありますか?

【1/11 検証:歌は言葉より雄弁】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2025/01/11/

受験生応援プロジェクト(勝手に名付けてる)の第二段の記事です!第一弾の反省から、私は何も言わずに、私が最近ハマってる推しの曲を紹介して受験生へのエールとさせていただこうという、非常に他力本願なことをしました(笑)

この推しさんについて語る記事もいつか書きたいです!気分によって語る語らないが激しいので、いつになるとは言えないのですが…。

(それと、受験生応援メッセージが本学の公式HPに載ってるよ、という宣伝も僭越ながらさせて頂きました)

【1/29 ソウルメイトとの出会い】

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2025/01/29/

ここでは授業関連のお話として世阿弥の著した『風姿花伝』を取り扱った授業の中から私が特に印象に残った話を記させていただきました!ここだけの話、ブログ部員にもこの授業を取っていた方はいらっしゃると思うので、その方たちの感想も聞いてみたいところです。

そしてこれもまた、受験生応援プロジェクト第三弾と勝手に題している記事ですね…。性懲りもなくよくやってるよホント…。

 

 

 

以上で、私の記事の振り返りは終わりにしたいと思います!

この次の更新からは新たなメンバーも加わって、より一層にぎやかになることでしょう。

ぜひ、彼女らの初舞台をお見逃しなく!

ということで、私はこれで失礼します。

次回は…。もうあまりにも外したことするから予告するのやめようかな…。(笑)

まあ、なんか書いてますよきっと。

というわけで、最後までお読みいただきありがとうございました!

ソウルメイトとの出会い

皆さんこんにちは。みちこです。

久しぶりに何を書こうか迷っている、そんな心境を綴るところから始めようと思います。まあ十中八九そうなっている理由がレポート地獄の渦中にいるからというものなのですが(笑)

レポートもテスト勉強も、もっと計画的にやろうよと思う自分と、どうせやらんしな、という自分が両方います。

でも結果的にどうにか何とか出来てしまうのが経験上分かっているので、まあ大丈夫かという目で見ています。こういうこと思ってるからいつまで経っても計画的にできないんですよ…?(笑)

ところで話は変わりますが、大学に入ってからの方が私は勉強している時間が多いです。それはおそらく、履修する授業を自分で決められるからでしょう。おまけに元々責任感が強い性格してるので、自分で決めたことは絶対最後までやり切ります。こうして主体的に何かをする、という経験は本当に大事ですね。でもそのせいで、手を抜くことを知らない人間にはなってしまいました。でも、絶対的に自分が無理をすることもしない。というのも、無理してる時は「無理してるな」と分かるようになったので、無理せず休むようにしてるからです。どんなに忙しかろうと。幸いにも私の趣味はほとんど室内で完結する趣味ですし、根っからの出不精なのでリフレッシュは案外すぐできます。

いい塩梅なんだかよく分かりませんが、とかく無理はしないというのは覚えておきたいと思いました。

 「無理をしない」といえば、後期に受けていたとある講義で世阿弥という人物について学ぶ機会がありました。私はこの講義を通じて、世阿弥のことを勝手に「ソウルメイト」だと思うようになったのですが、その世阿弥も「無理はしなくていいんだ」ということを説いています。

その前にまず、世阿弥がどういう人物だったのかについて講義の内容を借りながら説明しますね。

世阿弥は父の観阿弥とともに能を大成した人物として教科書等にもその名が載っていると思います。

名前くらいは知ってるよ、という方も多いのではないでしょうか。

さてその世阿弥さんですが、これが中々に苦労人でして…。少年時代に時の将軍:足利義満に気に入られて以降、自身の流派を盛り立てていくのですが…時代は移り変わるもの。

将軍が変わると世阿弥たちへの興味は失せてしまい、流派存続の危機に陥ります。そんな中で世阿弥はなんとか自身の流派を再興しようと奔走します。

そうしていくうちに生まれたのが能楽論を説いた書の数々。その中でもこの講義で扱っていた作品は『風姿花伝』でした。

先ほど紹介した「無理しなくてもいいよ」論はこの講義の最終回で紹介されたものでした。

この書の中では「男時(おどき)」と「女時(めどき)」の場合という形で紹介されていました。「男時」は順風満帆な時、すなわち何もかもが上手くいってるな、と思う時のことです。「女時」はそれとは逆の時です。何かをやっても上手くいかない、そんな時のことです。

世阿弥は「女時」の時の対処法について、「無理な努力はしなくていいが、いずれくる「男時」のために力を蓄えておくことは必要だ」と説いています。しかるべき時のために少しずつでも進みながら、時を待ち続ける…。これ、本当に世の真理だと思います。要は、タイミングが悪い時に頑張りすぎちゃ良くないよ、ということなので。体も心も疲弊してしまいますから。

あれ?これって本当に能楽論を説いてる書なの?と思ったそこのあなた。この書の魅力は、「能楽書でありながら現代の我々にも通じることを説いている」ということなんです!

こうしてみると、古典文学というのも案外身近な存在だったりするんですよね…。私はそういう感覚を感じられる瞬間が好きで古典文学が好きになりました。

なんかいつもより言葉がとっ散らかって、順序立てて伝えられていない気がするのですが、ここで私が言いたいのは、「無理をする必要はないんだ」ということです。

無理をして、何か特別なことをしなくていい。等身大の皆さんのままで、向き合うべきものに向き合ってください。それが出来たら上々です。あとで自分をしっかり褒めて、労わって下さい。そういう時間も、時には必要です。

さて、これで受験生へのエールも3回くらいの更新に分けて少しずつ伝えてきたことですし、私も私のなすべきこと(期末課題)をしようと思います。

ちなみに私が世阿弥のことを勝手に「ソウルメイト」だと思っているのは、あまりにも世阿弥の考え方に共感を示せたからです。私のように物事を考えられる人は本当に少ないのだと、常日頃から若干の孤独を感じているので、偉人で恐れ多いですが、勝手に「ソウルメイト」だと思っています。

そして次の更新は何にしましょうか…。最近古典文学が好きで好きでしょうがないので、その話でもしようかな…。ゲームの話にしようかな…。まあ、どうせまた未来の私が話したいことを決めるでしょう。

それでは、失礼いたします。最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

検証:歌は言葉より雄弁

皆さんこんにちは。みちこです。

世間では共通テストまであと数日、というところですよね…。

今どんな気持ちでしょうか。不安・緊張など様々あると思いますが、それらの気持ちはすべてあなたの味方です。全部抱えたまま、挑んでください。皆さんが持ちうる力の全てを発揮できますよう、祈っています。

ーーーもしかしたら、見覚えがある人もいるかもしれません。

実はこんなニュアンスの文章を、寄稿させて頂きました。

本大学の公式HPから「桜の咲くころお会いしましょう」というキャッチコピーの受験生応援サイトに、メッセージを書かせて頂きました。下のリンクの一番上に掲載されているのが私のものです。

(色鉛筆で描いたにちぶんちょうがあるのが私のやつです…。絵を描いている人間だというのにデザイン性が皆無です(笑))

https://www.jwu.ac.jp/unv/admission/cheer/japanese.html

もしかしたら他のブログ部員の同輩や先輩方でこのメッセージを書いている方もいるかもしれませんが、共通テストも近い時期なので、ここらで一度宣伝も兼ねてお伝えしておきます。

さて。今回は受験シーズンも近いということで、「応援」というテーマでお話しようと思います。

といっても、私の言葉で応援するのではなく、別の手法を取りたいと思います。

ーーー私もまさかこんな方法で「推し」を紹介しようとは思ってもみませんでしたよ。

でもちょうどいい機会なので、ここらで紹介しようと思います。

まずはこちらの曲をお聞きください↓(3分6秒だけ耳を傾けて頂ければ幸いです。)

甲斐田晴「才能が無いから何だ」

 

いかがでしたでしょうか。

曲名からすごいですよね、この曲。「才能が無いから何だ」って。曲名を見た瞬間から「あ、これは悩める人の背中を力強く押すタイプの曲だ」と確信しました。

実際そんな曲であることが、お聞き頂ければ分かると思います。

 

ーーーさあ、何を語ろうか。

この曲について語ることもできます。この曲の好きなところとか、歌詞を見ていくとか。

この曲のテーマであろう「才能」についても語れます。

アニメーションの演出とか、そんなテーマでも語ることが出来るでしょう。

しかし私はここで、あえて「何も語らない」という選択肢を取ってみたいと思います。

責任放棄ではありません。「語ってはいけないもの」がこの曲にはあるからです。

ぜひ、自分の中でこの曲を消化してみてください。私からは、何も語りません。

ーーーまあどうせ我慢できなくなって語るのが私の性なので、次回の更新にでも回そうかな、と思います。

しばらくの間、余韻をお楽しみ下さい。

そんなところで、今回は筆を置こうと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

 

 

 

 追伸:私からは、このブログ冒頭部のメッセージと、ご紹介した曲を以って皆さんへの「エール」としたいと思います。

そしてこの「読者の想像に任せる」という書き方は確か、時代を問わず使われるおもしろい手法であったことを密かに思い出しました。

ちなみに私のブログで追伸の項目を設けるのは初…?覚えてないです。いかに私のブログが刹那的な文章で出来ているか分かって頂けたところで、本当に幕を下ろします!さらば!