今日はまだ京都には帰っておりませんので、夏中の思い出話です。
毎月18日は薬師如来様の御縁日ですので、学校がない限り、さまざまなお寺を参拝しております。
薬師寺、仁和寺と行ってきて、先月の18日は大阪の葛井寺に行きました。SNSでご本尊のお写真を見て、単純に凄え!と思ったためです。
実は関西に来てから大阪は二回目。1人で行くのは初めて。昔家族で行った時に、電車や公園で「おもろい」おっちゃんに出会ってしまい、ほんの少しだけ苦手意識を持っていた…というとても恥ずかしい理由なんですが。
✾✾✾
大好きな阪急で梅田まで、四天王寺で、葛井寺駅で降ります。そこには道頓堀からは想像がつかないほど、ただの住宅街が広がっておりました。
商店街を通過すると、すぐに葛井寺があります。
葛井寺は西国三十三所観音霊場のうち、第五番札所。
ご本尊は十一面千手千眼観音菩薩。
公式サイトによると、
725年(神亀2年)、聖武天皇の勅願によって、稽文會(け もんえ)・稽主勲(け しゅくん)の親子2代にわたり制作され、行基菩薩により開眼せられたと伝えられれます。 堂々とした体躯は奈良時代に流行した脱活乾漆造という技法で造られます。粘土で造った像の原形に麻布を張り漆で固め、漆と木屑を混ぜたもので細かく造形し、粘土を抜き取る。木造や金銅仏に比べて保存が極めて難しく、現存する脱活乾漆仏は大変貴重である。
とのこと。(1)現存する脱活乾漆仏は、この他に、唐招提寺のご本尊などが挙げられますが、公式サイトの言う通り、とても扱いが難しく、これだけで国宝レベルのものです。もう少しみてみましょう。
藤井寺市史 第10巻 [下] (史料編 8 下)に曰く、
三井寺園城寺長吏で天台座主であった行尊(1057~1135)の『三十三所巡礼手中記』には第八番として「剛琳寺」の寺名があげられ、また、覚忠の『三十三所巡礼記』には第九番として「河内国丹比南群、剛琳寺、宇藤井寺、御堂七間、南向、本尊等身ノ千手、願主阿保親王」とみえることから、平安時代後期には観音霊場の一として著名になっていたことがうかがわれる。永正七年(1510)8月の大地震では、堂塔が壊滅したが、本尊だけは無事であった。のち200年余をへて、本尊の千手観音像は半ば失し、金体稍く朽ちなんとする状態となったので、元禄14年に堺の信者の助力をえて、仏師喜多川運長等に命じて修理を施したのであったが、作業は元禄12年11月4日に起工して翌年の7月17日までかかってその功を終えたと前引の覚宥の『再興記』に記している。本尊の後世のものとみられる本体の補強や台座の補修などはこの元禄時の修理によるものであろうと考えられる。
とあり(2)、引かれた『河州丹南郡古子山剛琳寺本尊再興記』の河州葛井寺剛琳寺由緒書を念のため見ておくと、
半失金體稍将朽余住歳卓
錫於此地以来無日不愁之矣
境府有一二信士一日合志来
殷勤語余曰聞説此寺頃日有
本尊再興之事我等幸捨家
資以結勝縁謂願諾之焉余私
渡察時之到走奏其趣於
本山仁和寺御門主以速蒙公
許便令佛匠法橋喜多川運長
等修飾之乃自元禄乙卯十二
十一月四日始工至同庚辰十三
七月十七日全畢其功日幸
以富吉日良辰預屈謂隣山
とあります。(3)
聖武天皇によって造られてから、奇跡的にも全ての形を失うことはないまま、修補だけがなされて今に至るのです。本当にすごいものを観にきてしまいました。
***
境内に足を踏み入れると、ちょうど大護摩祈祷が始まったところで、境内は少し煙たかったですが、タイミングよく来れました。
しばらく見て、拝んで、人が少ないうちに本日の目的である千手観音菩薩坐像にお参りしに行きます。葛井寺の千手観音菩薩座像は、腕が1041本あって、1000本以上の手を持つ千手観音像はこの千手観音菩薩坐像以外にないと言われています。一般的な千手観音さまが42本であるということと比べて見れば、お写真を観なくても、とにかく迫力のありそうな像だと察していただけるのではないかと思います。
いざご対面。やっぱり迫力があって、なのに包み込むようなお優しさを感じる。ああ、ここまで来てよかった。阪急は素敵だったし、もう一度三月に帰る前に行ってもいいな…と思った一方で、違和感を感じました。
この千手観音菩薩坐像、観たことがある。それも複数回、360度全体を観た気がする。
おかしいなと思いつつ、堂内を進んでいると、一冊の展覧会の図録がありました。その時、私の頭の中に懐かしい映像が流れて来たのです。
そう、私は葛井寺の千手観音菩薩坐像を以前見たことがあったのです。それも一度ではありません。
少し前、東京国立博物館で開催された、「仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―」展で、パンフレットを見てこの像が気になったがために、展示中2回(もしかすると3回)足を運んで、毎回長い時間、この千手観音像を眺めていたのです。
置いてあった冊子は違う会のものでしたが、表紙を見た途端、仁和寺展での配置、周りの人や自分の服装、その日の天気まで一気に思い出しました。どうして忘れていたんだろう。「千本以上の手を持つ千手観音像は、本像しか確認されていない。」って書いてあったはずなのに。しかし私の雑魚記憶力のおかげで、もう一度この千手観音菩薩坐像に、こんどは正式な場で出会うことができました。もしかしたら、これも仏様によるご縁…なのかもしれません。
・葛井寺公式サイト
西国第5番紫雲山葛井寺〜国宝千手観音の寺〜 | 日本最初の千手観音
✾✾✾
葛井寺を出た後は、せっかくなので周辺を歩きます。
まずは葛井寺の境内にあるカフェ、『ヴィクリ ディタヴィクリディタ サマデ きりく』。きりく(千手観音のこと)を含めてサンスクリット語ですね。意味はわかりません。三昧しかわかりませんでした。誰か教えてください。それはさておき、葛井寺といえば「葛」!このカフェはお土産用のものも売っているので、やたら重いくせしてさして高くはない葛餅セットを購入。このセット、もう一つ買えばよかったかなと後になって思います。
***
出てすぐ右手、辛国神社。「大阪みどりの百選」に選ばれるだけ、緑が深いというか沢山の木に囲まれた静かな参道でした。確かに、延喜式に名前があります。明治よりずっとこの神社は長野神社という、かつて藤井寺市にあった神社を合祀しています。
藤井市史によると、一間社春日造、軒唐破風付、江戸中期のもので、軒唐破風内と背面妻飾りに力士像が用いられている。力士像は久本寺三十番神堂が初めで、大阪を中心に見出されるも数は少ない(2)という、我々関東の人間からすると、珍しい建物。私は本殿の写真をパシャパシャ撮ることは避けているので、写真がなくてごめんなさい。
・藤井寺市 辛國神社
辛國神社/藤井寺市
・藤井寺市 普通の神社と思ったら大間違い「辛國神社」
https://www.city.fujiidera.lg.jp/soshiki/shiminseikatsu/kankou/kankounannido/19018.html
***
鉢塚古墳の横を通って、まっすぐ。仲哀天皇恵我長野西陵。前方後円墳の形で、柵で囲まれており、柵の近くにはベンチがあって、おじさんが寝ていました。さすが天皇陵。いきなり何の守りもなくあるわけがありません。
日本書記巻第八「足仲彦天皇」の章を要約すると、日本武尊の第二子であり、母は兩道入姫命。容姿端麗で、新潮は十尺。足彦天皇に嫡男がいなかったため即位、熊襲との戦いの最中である九年春の二月、筑紫にて「忽ち身の痛み有り」て、翌日崩御した。52歳であった。理由として、敵の矢が挙げられる。皇后である神功皇后は身重ながらこの戦についてきており、石を腹に当てて自らも戦っていた。そんな皇后は天皇の死後まもなく応神天皇を出産する、とあります。(4)
・宮内庁 仲哀天皇恵我長野西陵
-天皇陵-仲哀天皇 惠我長野西陵(ちゅうあいてんのう えがのながののにしのみささぎ)
今思うと、ここから古市まで頑張っていけばよかったのですが、なにせ夏真っ盛り。本当に暑くて暑くて、藤井寺駅に戻ってしまいました。
✾✾✾
四天王寺に帰った時には、もう日暮れ時だったので、あべのハルカスのお菓子売り場でハルカス限定ケーニヒスクローネの「カスタードのふんわりパイケーキ」を買い、この日の夕食にしました。本当は次の日に持ち越そうと思ったのですが、とても美味しかったのと、片付けが手間だったので、すぐに食べてしまいました。こんな美味しいものを、ハルカスに行かないと食べれないなんて四天王寺の人が羨ましいです。是非いつか東京で四天王寺展などを開催する際は物販で持って来てほしいものです。
(1)日本最初の千手観音紫雲山 葛井寺 https://www.fujiidera-temple.or.jp/ (最終閲覧日2025.3.17)
(2)藤井寺市史 第10巻 [下] (史料編 8 下)藤井寺市 国立国会図書館デジタルコレクション 1993年3月 https://dl.ndl.go.jp/pid/9576703 (最終閲覧日2025.3.17)
(3)『藤井寺市史』第7巻 (史料編 5) 藤井寺市 国立国会図書館デジタルコレクション 1984年3月 https://dl.ndl.go.jp/pid/9575488 (最終閲覧日2025.3.17)
(4)『日本書紀 30巻 [5]』 国立国会図書館デジタルコレクション 慶長15 https://dl.ndl.go.jp/pid/2544344 (最終閲覧日2025.3.17)