ご無沙汰しております、みちるです。
どこでも構わないので遠くへ行きたくて、結局映画館へ行く。映画が好きな数人の知人たちと作品の話をするのが楽しみで、私にしては珍しく「期待の最新作」なども観てみたりする。それでも、今どき縦長狭めの雨漏り二箇所、湿った匂いのするシアタールームで半世紀前の作品を眺めるのが自分には合っているのかもしれないと思う。
夏休みの間、親しい人と会う回数より映画館へ足を運んだ回数の方が多かった。一つの館を住処にしていると居飽きてしまいそうだから、いくつもの劇場を転々とする。一本観て、電車に乗り、また一本。たまに移動がかったるくなって、同じ館でポップコーンの余りを消費する。しかし冷静になって「今月食べたポップコーンのキャラメルを溶かしたら何リットルあるんだ」と考え、かなり怖くなる。致死量かもしれない。食料がなければ映画が観られないなんて、そんな馬鹿な話はないが、飲み物を買うとつい、甘いものに手が出てしまう。暗い館内でかつ周囲に人のいない席をとるので誰かにものを食べる場面を見られることが殆どないと思うと、気が楽になるということもあってだろうか。
最近、インプットの時期が続いている。
もうこれはどうしようもなくて、「今の自分の身体は摂取することに適している」と言うほかない。ご飯も食べられるし。
(間奏)
最近また息が出来なくなることが増えた。学生としての自らを意識すると、何かの役に立っているわけでもなく、どれほど呼吸をしても無駄であると結論付けられる。
昨年、知人の紹介で初めて参加した催しは心底楽しかった。自分の持ち物で勝負して、人々の間に生きている感覚を取り戻すことの出来る機会がいかに必要不可欠なものであるかを知った。今年もまたその季節がやってきて、今度は何を書こうか、誰と言葉を交わすことが出来るか、そうしたことを楽しみにしているはずだ。しかしその期待をはるかに凌ぐ不安が全身を苛み、抜け出すことができない。自分以外の何者も近くにはいないから、またしても壁の前に独りで佇み、やるべきことをやるしかない。
やることがあるのは素敵な事ですね。
気楽になれず、やはり遠くへ行きたいと思う。
映画館へ行きたいという意味ではない。
スマホで天気予報を見て、徐々に下がっていく最高気温を確認すると、全身が蒼ざめていくような気がする。体温が下がって背筋が冷えるあの感覚がやってくると、この現状はとても大変なことなのだと、ひたすら焦るようになる。眠ることが出来ないならその時間でPCに向き合うべきだが、PCに向き合うことは決して本質的ではない。加えて、文字数を増やすことよりも、その後で文字数を減らすことの方がよほど本質的である。文章の作成は筋トレのようで、つまり一度しっかり増量したのちに不要なものをそぎ落として体を作る必要があるようだ。増やすことには時間がかかり、減らすことには胆力がいる。夏の間、時間をかけて体を大きくしてきたはずなのだが、増やしては減らしてを細かく繰り返しすぎて何もかもが足りなくなっている。書き連ねた文章を眺めるとまるで痩身の自分を鏡で見ているようで嫌になる。自らの成果に感動できない。すべての体力が尽きる前に、人の間に投げ込まれたい。人間に向かってみたい。しかしそうしている場合でもないことを理解しなければならない。
全て良くなるまで、あとどれほどかかるか。
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる