大学四年生

書くことがないわけではないし、草稿は9月3日に一度できた。しかし内容に納得ができず、4日にまた新しく書いた。それでも納得できず、5日の更新日にブログを投稿できなかった。それで今日は何日だい?本来の更新場所であるWordPressの方は日付がいじれるので、誰がなんと言おうと5日に更新したことにできる。それがnoteにも更新することになって、遅刻がバレることになった。大学四年になるまでは、遅刻なぞしたことがなかった。それがどっこい、四年になってから遅刻ばかり。更新日に更新できたことがない。二年の頃、全然更新日を守らない先輩を見て、なぜあの人は更新日にブログを更新しないのだろうなどと思っていた。しかも更新しても全く中身のない内容で、やる気がないのかと思っていた。そして卒業する頃になって、なかなか更新日に更新できずすみませんでしたなんて言って卒業していて、つくづく不思議だったのが、今になって痛いほど分かる。大学四年生、何かと忙しい。もう三年もやっていればブログに対する熱量も初期ほど薄れ、こんな醜態を晒している。しかし断じて更新が嫌だとか書くことがないとかそういうわけではなく、むしろ更新日というのはずっと自分の頭の中にこびりついていて、その日に向かってああでもないこうでもないと文章をこねくりまわしているのだ!それでもってもいつの間にか更新日を大幅に過ぎており、結局は駄文駄文駄文の繰り返し。

3日の草稿では卒業袴を着て家族と前撮りをした話を書いた。こんな話大学四年生にしかできないし、後輩のためになるしいい内容だと思って細々書いたが、なんだが勢いがなくなったところでどうにもならず、そのままにしてしまった。こんな形で紹介するより、よっぽど内容を細々書いたブログの方が後輩のためにはなるのだ。しかし書かない。自分は自分のために文章を書いているのだなあと感じる。

4日に書き直したブログでは打って変わって最近流行りのmbti診断について書いた。これもまた細々と説明して書いたのだが、つまらなくなってやめた。自分のことなんて自分だけが知っていればいいと思ったからだ。私はこの心理テストのおかげで、少し救われたことがあったのだが、殊更書く気にもなれなかった。

それで今日のブログである。あまりに酷いと思う。あまりに酷くても投稿するしかないのだ。前に書いた通り、私は糞真面目なので、更新日をすっぽかすということができない。駄文でもなんでもいいから、恥を晒し、投稿するしか道はない。

大学四年生である。卒業論文は2000字書いた。頭の中にあと10000字ある。頭である程度完成させられれば、後は文字を打つだけなので、安心しきっているが、3年生の頃に提出した論文の時に同じことをやっていざアウトプットするときに想定の10倍時間がかかり、徹夜で作業した結果知恵熱を出した。今回もそうなりかねん。でも実際に文字を打つ作業より、頭で考える時間のほうがはるかに大事だから、とにかく考えるようにしている。バイト中も頭の片隅に卒論の題材を置いていて、論理を組み立て直している。

いい論文が書けなかったら卒論提出日を守らないのか?そんなことはない。どんな駄文でも出すだろう。ではなぜブログは遅刻する?許されると思っているのだろう。駄文を駄文のまま世に出す訓練をしなければ、卒業できない可能性も高い。だから今日はこんな一発書きの文章を投稿してみようと思う。

大学四年生である。最後の学生生活を消費している。

特大サイズに気を付けて

こんばんは。せっかくの夏休みなので、2,3日家でゆっくり過ごすことにしました。思い返せば8月は毎日のようにどこかに出かけていたんですよね。家でまったりする時間もたまにはいいですね。

今、ロジックがマイブームです。イラストロジックなどとも呼びますね。最近ではスマホのアプリでも遊べるようですが、私は雑誌のページを切り取って、シャーペンと消しゴムを握りしめて解いています。

ロジックとの出会いは小学生の時です。母がやっているのを隣からのぞき込んで、ルールを大体覚えて、小さくて簡単そうなものから始めました。1つ解けたら少し大きなものを。また1つ解けたらまた少し大きなものを。と繰り返していたはずが、いつのまにかブームは過ぎ去ってしまいました。数えてみると、ブームが去ってからもう10年ほど経つようです。

それが先日、大学生の夏休みになって少し時間ができたタイミングでふとロジックの存在を思い出しました。「ブームはまたいずれやってくる」と言って本棚の奥深くに封印していた雑誌を久々に引っ張り出してきました。もう何年前の7月号なのか分かりませんが、その中からジブリのアニメーションキャラクターがテーマでちょっと大きめの問題を雑誌から切り離して始めてみました。70×80、☆5の特大版です。

もう大学生だから、ちょっとくらい大きいのだって解けるはず!となめてかかったのが間違いでした。気を付けて解いているつもりでもぴょこっとミスが見つかる。訂正箇所が分からず、考え考え、1度消しゴムで消してリセット。よし今度は間違えないぞと思いながら慎重に進めていく(つもりで)もまたかみ合わない箇所がある。考え考え、再び消す。この繰り返しなのです。しかも同じところでつまずく。塗っては消し塗っては消しを繰り返すために、消したはずの鉛筆の跡が残って、もうどこに印をつけたのか分からなくなりそうです。ロジックさん、なめてかかってすみませんでした。

ふーー。やっと先につながりそうです。それでは、またとりかかってきますね。

腰を据えず

 すごく久しぶりにブログを書いている気がします。というかパソコン作業すら久しぶりな気がします。みなさまお元気ですか。私はこの夏ずっと部活をしていました。今は絶賛腰痛中です。本当に痛い、膝も痛い、股関節も痛い。関節が終わっている。

 将来の事、考えたことありますか。私はあまりありません。考えたくないなと思っている節も大いにあります。全力で今を生きている、なんて言えば聞こえはいいですが、今しか見たくないし先の事考えても結局その時なるようにしかならなくな~い?と思って生きています。なんと楽観主義なのか。適当、とも言います。
私は昔から絵を描くのが好きで、ここ何年かは特にちゃんと上手くなりたいな~と思ってまあまあな量を描いています。恐らく頻度にしたら毎日に近いと思われます。まあでもそれは趣味の範疇でしかなくて、それでどうにかなろうとは考えていないしどうにかなれるとも思ってなくて。もしこれで食べていこうと思っていたらそもそも日文には入ってなかったでしょうね。でも、絵上手かったら人生が豊かになるからめちゃめちゃ練習してます。基本的には楽しいし、上手くいかない~、苦しい~!って時でも最終的に良いものができたりレベルアップに繋がったりすればそれは収穫だし。そんなことやってる暇があったら将来の事考えたらもっと勉強しろ!あれやれこれやれ知識を付けろいろんな経験を積め!!!って自分でも思わない訳ではない。けど!絵描くの、やめらんねぇ~!たとえこれが将来何の役にも立たないとしても!っていう感じで私は毎日怠惰に生きていますね。もうやりたいことだけやって生きていきたいよ~!到底許されないですね~。

 今回久しぶりだったということで普段どんなテンションでブログを書いているか全部忘れ今考えていることをそのまま書きなぐったのですが、そろそろ腰の限界が来ていて座っていられないので終わっていいですか。今回はいつもに比べだいぶ短い上に尻切れトンボですが腰痛に免じて許してください。では。

フレンズ

ご無沙汰しております、みちるです。

 

もし誰もが自分の数字を持っているのだとしたら、あの人は《8》だと思う。
共に生きるなかで、彼の良し悪しの理由を《8》に求めることは有り得ない。ただ《8》だ、《8》かもしれない、漠然とそう感じているにすぎない。

 

「そうであるならば君は」

 

私は《8》でありたいし《12》でありたい。実際は殆ど分からないままだが、ある瞬間にふと確信が訪れて自らが《》であることが明らかになる。
それはおそらく流動的で、必ず不随意的である。
私はいつもその瞬間を、確信を待っている無機物だった。

 

(間奏)

 

大学院の出願時期が迫っており、必要書類の準備に追われている。またしてもぎりぎりになって終わりが見えない危機的状況に陥り、焦れば焦るほど足が、全身が映画館の方角へ向いてくる感じがする。脳が痺れて、

「そろそろ映画が観たい」

口に出てしまう。しかし一服するより映画一本の方が遥かに長いのは当然で、後者は作業の休憩時間としてはあまりに長い。
それでも耐え切れない平日、地元の館で新作一、二本分のチケットを買って座席に着く。私は広い上映室であればF列、狭ければD・E列の中央で観ることにしている。加えて基本的に両隣二席は無人の状態であることが好ましく、むしろこちらの条件の方が優先される。これらをもとに座席を選択すると、何となくたった一人でスクリーンを独占している気分になれるので快い、場合が多い。私自身、他人の立てる音が気になってしまう質なので自分がポップコーンを咀嚼する音が周囲にどのように・どの程度聞こえてしまっているか、近くに他の客がいるとそれが気になってしまって注意が削がれるのだ。

座席に腰かけて上映前の予告を眺めながら、平日の昼から夕にかけて――一般的に定時前とされる時間帯。この作品をわざわざ見ようとするのは一体どんな顔をした人々なのだろうと気になってこっそり辺りを見回すことがある。作品によってご老人ばかりのときもあれば女性や学生風の団体が多い場合もあり、総じて人が少なければ少ないほど銘々に対して自分と同じものを感じやすい気がする。

高校時代は月に一度必ず劇場で新作映画を観るという縛りを自らに課していたが、コロナ禍による家籠りのため徐々にその習慣は失われ、大学三年次にはすっかりサブスクで月に一本観るかどうかという具合になっていた。思えば小説や哲学書、論文等読まなければならないものが増え、それらをアウトプットする機会もコンスタントに与えられるようになってきたため映画に対する熱も冷め始めていたのかもしれない。
それがこの半年間で再び昂り、月に五本以上の映像を消化するようになったのは、ひとえにホラー映画というジャンルのおかげだと思う。昨年冬にジョーダン・ピール監督作「NOPE」を鑑賞し、これは久々に音と画で驚かせ恐怖させてくるホラーが登場したな、と心底嬉しくなった。怖くない、驚かない、意外ではない、しっとりとしたホラーが増加の一途を辿っていると感じていた私は、現代映画界におけるホラーというジャンルの傾向や新作の数々をもっと確認したいと思うようになった。そして同時に、怖いと感じるホラーに出会いたいと思うようになった。

面白い映画、であればいくらでもあるだろう。どうしようもなく退屈で下手な映画が腐るほどあるだけに良作は秘宝の如き輝きを放つ珍しいものであるように思われるが、ある程度の教養があったり映画を頻繁に観るような人間であれば優れた作品を探すことはそれほど難しいことでもない気がする。
ただ、怖い映画を探すのは難しい。これは例えば(実際に涙を流して)泣ける映画を探すのと同様、同じ刺激に対しても感情を揺さぶられる度合いは各人で異なるという理由もある。実際、誰かが怖いという感想を残した作品も、私にとってはそうでないという場合が多すぎる。自分が特に何を恐怖するかを認識することは、恐怖できるほど作品世界にのめり込むことが出来るような場面づくり、設定、演技などがあるかという作品側の問題と同程度に重要である。
私は暗闇が怖いし失敗が怖い。ちょっと開けられた扉や夜道で聞こえるもう一つの足音も怖い。明るすぎる部屋や太陽も怖く、大勢で歩く女性たちも怖い。大人が怖い。父が怖い。不協和音が怖い、平成のリコールCMが怖い。あなたに見られるのが怖い。私はこんなにも多くの対象が怖い、こんなにも恐怖と親しいのにも関わらずどうしてスクリーンに映る世界には鮮烈な恐怖がないのだろう。

怖がらせすぎる映画には客が入らないうえ、映倫の年齢指定の問題が発生する。そこそこの恐怖感を演出するというとりわけ邦ホラーに見られる傾向については、こうした背景に鑑みると仕方がない部分もあるのかも知れない、と半ば諦めてしまいそうになる。
ただ、そうした事情を取り払って開き直った映画が非常に強いということは、事実として認められるべきだ(本来ここでは夏を前にしてごく少数の館で上映された『テリファー 終わらない惨劇』を参照すべきであるが、またの機会に譲る)。

恐怖の探究は止むことがないが、そうした目的を抜きにしても観たい映画は尽きない。劇場への用事が無くなったかと思えば、二週間ほど経つとまた気になる新作が登場する。そういった有様なので、ついに地元の館のポイントカードを買った。五本観ると一本無料の特典がもらえるらしいということで、このままだとひと月で一度特典をもらうことができてしまう

恐怖の探究は止むことがないが、そうした目的を抜きにしても観たい映画は尽きない。劇場への用事が無くなったかと思えば、二週間ほど経つとまた気になる新作が登場する。そういった有様なので、ついに地元の館のポイントカードを買った。五本観ると一本無料の特典がもらえるらしいということで、このままだとひと月で一度特典をもらうことができてしまう。が、後期が始まればそういう訳にもいかないだろう。数字と共に、記号と共に過ごす数か月が始まる。そしてその前に、今PCの別ウィンドウで開いているWord文書を完成させなければならない。そう、私は急がなければならないのだ。映画館を出るときも、いよいよ床に就いて眠るときも、何かを終わらせるとき、「あれをやらなければならない」と焦らなかったことがない。

序破急の 急 の部分。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる