こんにちは、あこです。
最近、12時頃に目が覚めます。ええ、お昼の。目覚まし時計を3回セットしたこともありました。それでも、ダメ。起きたら、お昼なんです。
一番怖いのは、夜更かしをしているわけではないということ。”早寝遅起き”状態です。つまり、ただただたくさん寝ているってことです。2月8日に2,3年ぶりの5時起きをしたのですが、その次の日から12時起きが続いています。そろそろ7時に起きたいです。切実に…
*****
3日後の2月23日は、曽祖母の命日です。昨年の2月23日に、彼女は98歳で亡くなりました。そのことは3月のブログでも書いたけれど、今回も少しだけ触れさせてもらいたいと思います。
以前書いたように、私の曽祖母はパワフルな人でした。もちろん、彼女も人間なので体の「老化」は訪れていましたが、そういった姿を私があまり”見ていない”というのもあって、私の中の彼女は昔のままです。それは、私が彼女の「老化」と”向き合わなかった”ことの表れだとも言えるでしょう。否定は、できません。だけど、私には、できませんでした。
先日、ブログでお祖父様の話をしている方がいらっしゃいました。そして彼女のブログの中に、「亡くなってから、もっとこうしておけばよかったという後悔はなかった」という一文がありました。その文章を読んだ時、私は自分が後悔していないことに、そして後悔という発想がなかったことに気づいて、困惑しました。なんて言ったらいいのかわからないし、なぜかはわからないけど、「後悔」の2文字が、頭から離れなくなりました。
*****
曽祖母は祖父母と住んでいたから、祖父母の家に行けば曽祖母がいた。曽祖母と祖父母と私の母は母が結婚するまで一緒に暮らしていたから、彼らは元々”家族”だった。曽祖母と祖母と母、そして私という4世代のつながりが見えた。”曽祖母と曾孫”の関係だったし、彼女の曾孫は8人いたけれど、曽祖母から私まで一本の線になっているような気がしていた。だから、思入れもあった。でも、彼女の晩年はあまり会いにいかなかった。曽祖母は好きだったけど、そうじゃ無くなるのが、怖かったから。そういう感情になるかもしれない自分を認めたくなかったから。それなのに、”後悔”なんて考えなかった。
*****
こういう言い方をすると、私が後悔したがっているのだと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、そうでは無いんです。後悔していないことに安堵しているわけでも、後悔しなかったことを後悔しているわけでも、無いんです。ただ、後悔という”選択肢”がなかった。後悔しなかったことと、後悔という”選択肢”がないことは、同じなようで、ちょっとだけ違うのではないでしょうか。
*****
人の「死」を意識するのは、人生で2回目でした。1度目は、小学校3年生の時。
私には歳の近い弟がいますが、彼は私が幼稚園生の時から入退院や手術を繰り返していました。でも私にとっては単なる弟だったし、「病気だからかわいそう」とか「病気だから優しくしなきゃ」とかなんて思ったことは、全くなかった。むしろ「ちょっと体が弱いからってチヤホヤされよって」「何がかわいそうなんだ」「ずっと母親を独り占めするなんてズルイじゃないか」と、被害妄想と嫉妬と羨望とよくわからない悔しさとでいっぱいでした。
それでも、私が小学3年生の時、弟は大きな手術をすることになりました。まだ9歳とは言え、幼稚園生よりは成長していたので、私も少しだけ大人で(←多分…)、それまでとはちょっとだけ違う感情だったのを覚えています。「死ぬかもしれない」なんてはっきりとしたことは思わなかったし、「死」がどういうものなのかなんて、全然わからなかった。でも、「死んじゃえ」とか「死ね」という言葉は誰に対しても言ってはいけない言葉だということは、知っていました。「死」はわからなくても、「死」を「し」と捉えることはできるくらいの年齢ではあったと思います。
*****
弟が手術を受ける前に、彼のメッセージを吹き込んだボイスレコーダーを弟の担任の先生に持って行った。その中に、「レモン味のカンチョウが〜」というフレーズがあった。私が事前に聞いた時には、「なんでやねん」と突っ込みながら笑ったけれど、弟の先生は終始神妙な面持ちで、「レモン味のカンチョウ」にも全く笑っていなかった。ただ、椅子に座って、なんとも言えない表情で、ボイスレコーダーから流れる弟の声を聞いていた。なぜか哀しくて、寂しかった。
*****
もちろん、私は弟のことを心配していなかった訳ではありませんでした。手術が失敗すると思っていた訳でもありません。でも、成功すると信じていた訳でもないし、「なるようになるさ」と思っていた訳でもありませんでした。松任谷由実の「守ってあげたい」の歌を1人父の部屋で聴いてみたり、手術の日は弟の服(確かパーカー)をこっそり着て登校してみたりしたこともありました。でも、そういう「行動」は思い出せるけど、当時の「感情」や「想い」は思い出せません。当時どんな想いだったのか、なぜそういう行動をしたのかは、全く覚えていないのです。
*****
先のブログを読んだ時、曽祖母が亡くなった時には全く思い出さなかった小学3年生の時の記憶が、ふっと甦ってきました。”後悔”という2文字によって、二つの事柄が、ふわっと、でも確実に手繰り寄せられました。その理由は、わかりません。もしかしたら、覚えていない当時の感情は、曽祖母を亡くした時の感情に似ていたのかもしれません。そしてそれは”後悔”がキーワードなのかもしれません。曽祖母と弟は性別も年齢も状況も(結果も)違うけれど、潜在的な”何か”や”共通点”があるのかもしれません。
*****
人は生まれたら絶対に死ぬということは、今も昔もわかっています。年齢を重ねた先には死があり、病気や手術はいつでも”死”と隣り合わせであるということも。そしてそれは当然私も同じであり、だからこそ”後悔のないように”生きようと思っています。でも、”後悔”を意識する一方で、その中身/内容は、よくわかっていません。何をしたら後悔するのか、何をしなかったら後悔するのかは、私は日々意識していません。
私は、「ちゃんと生きる」とか「悔いの残らないように」という言葉を使いがちです。意識して使っている訳ではないし、「ちゃんと生きる」ってどんな生き方よって、自分でも思っています。だけど、後悔を恐れている一方で、もし明日自分が死んだとしても、もし明日誰か親しい人が亡くなったとしても、後悔という選択肢は、ないと思います。もちろんすごく悲しいし、受け入れられないと思うけど、そういう選択肢はないから、後悔はしないと思います。
*****
「誰もみていなくてもお天道様は見ているからね。」の「お天道様」のような、「神様はなんだって知っているよ。」の「神様」のような。私にとって”後悔”はそういう存在です。見ているけど、見ていない。知っているけど、知らない。あるけど、ない。
「それはあこが若いからだよ」とか、「結局「こうしたい」って思ったことを全部叶えてきたんじゃないの」とか、「後悔しないこととなんら変わりはないじゃないか」と、言われるかもしれません。そして、それはその通りなのかもしれません。
あるけど、ないけど、やっぱりあるのかもしれない。でもやっぱり、ないのかもしれない。
今の私には、それで十分です。
*****
今日はいつも以上にまとまりませんでした。きっと、私の中で消化できていない”何か”が、まだあるのだと思います。でも今は、これ以上は、もう無理です。ごめんなさい。
それでは、また。