エールというよりメール

まいです、ごきげんよう❀本年もよろしくお願いいたします。

今年はへび年ですね、ヘビと言えば!…なんてお話ししようとも思いましたが、自分の中から出てくることはたかが知れていると思うと書けなくなります。

年末年始、みなさんはどのようにお過ごしでしたか?

私はと言えば、最近の年末年始のなかで最も遊んだ(休んだ)時間になりました。

結婚や一人暮らしで実家を出ている姉たちが帰省しにぎやかになった我が家(声が通らないので喉を張り上げる必要があり声が涸れます)はとても楽しくて、勝手に「家族タイム」と名付けている好きな時間です。

カラオケやゲーム、スポッチャなど普段はしないレジャーを詰め込み、姉妹で盛り上がりました。こちらも普段は行かないサーティワンアイスクリームさんで、18個種類という夢のような大人買いをし、二日にわけて家族で分け合いながら食べました。つまり頭をからっぽにし楽しそうなことをとにかくやってみたという感じです。

……卒業論文の締め切りが年末前で、本当によかったです。年明けだったらこれらの予定を断って黙々と作業しているか、もしくはものすごい罪悪感と重圧を感じながら出かけるという、「二兎追うものは」状態になっていたことでしょう。

年始に祖母のうちへ行くと、ここ数年会えていなかった従妹とも会うことができました。そこで、家族と祖母、従妹兄妹という大人数で「ワードウルフ」という対話型のゲームをしました。

ご存じの方も多いと思いますが、このゲームではひとりひとりにある「お題」が伝えられます。ただし、参加者の中で一人だけ違うお題が伝えられている人がいて、そのことは本人も自覚していません。参加者は決められた時間内で自分のお題について話し合いながら、違うお題が配られているであろう人を見抜くことが肝です。話を聞いているうちに自分が「ウルフ(異なるお題を持っている人)」だと気が付けば、そのことを見抜かれないよう話題を合わせたり、自分が「ウルフ」ではないとわかれば誰かがボロを出しそうな絶妙な質問を投げかけたりします。

このゲームが初めての祖母は、「話し合い」の時間がまだ始まっていないのにお題を見た時点で核心的なアクションをしてしまうことが多く茶の間は大盛り上がりでした。「ああ、おばあちゃんこれきらい」と言ったり、「あ~」と言いながら、ペン回しの仕草をしてしまったり (お題がまさに「ペン回し」だった笑)。「おばあちゃんそれあかん!!」とみんなひっくり返って大笑い。

極めつけは、大多数のお題が「Tシャツ」でウルフのお題が「Yシャツ」だった回。

「このメンバーだったら誰が似合うと思う?」という質問に対し、「Tシャツが似合う人かあ…」と祖母がつぶやき、場が一瞬静まりかえったと思うと、「いや、それ答えやん!」とまたまた爆笑。

全員の頭の上に「?」がつき、「いや、今聞こえちゃいけないものを聞いた気が」と心の中がシンクロするのを感じました。親戚で大笑いできるお正月、いいですね。

*****

拝啓

お元気ですか。年末年始は楽しめましたか。

「そんな呑気なこと言ってらんないよ」とお思いなのが、受験生の皆さんでしょう。

受験生のみなさんに私から言いたいことはただひとつ。「大学生活は自分次第でいくらでも楽しくできる」ということです。

周囲にもあまり話したことがありませんが、受験当時の私にとって本学は第一志望校ではありませんでした。コロナ禍でオンライン授業ばかりだった大学1年次は大学に行っている楽しさというものを感じられず、主な原因は今でこそ「対面の機会がなかったから」と納得していますが、当時は第一志望じゃないからだと思ったこともありました。

しかしどうでしょう。2年生になり、対面の機会が増え、愉快な友にめぐまれ、学びの刺激に触れると、大学生活は一気に、これまでの高校生活とは異なる楽しさに溢れたものになったのです。

そこには自分の少しの工夫や努力もあったでしょう。

より多くの人と関われるよう係や委員会に所属したり、知らない人の近くに座り言葉を交わしたり。おもしろいと思うことには挑戦し、購買で買いたいと思ったパンは買い、空きコマは友達とお菓子をかってめいっぱい喋り……。偉いこと、優れたことではなくても、自分の筆で自分の物語の展開をつくっていたことは確かです。「大学1年の時はこうなって、2年のときはこうなって…」ではなく「2年のときはこうして、3年はこうして…」と、展開は自分の意思が選んだものでした。

今では(2年生になった段階で思っていましたが、)この大学に入って、そしてこの大学で学んでよかったと心から思っています。

高校生までの私には確実になかった思考や価値観。そのほとんどが我が大学生活で得たものです。

そのことをとても尊く感じています。

受験生のみなさま。「この大学に入りたい」という目標も良いですが、それ以上に「こんな大学生活を送りたい」「こんな大学生になりたい」という理想を描くことをおすすめします。楽しいかどうかは、「楽しい」と感じる主体、すなわちあなた自身にかかっているからです。

ぜひ、自分がわくわくする「大学生活」や「大学生像」を思い浮かべてください。

大学そのものよりも、そこで過ごす自分自身に期待してください。

自分の身さえあれば、大学生活も、人生だっていくらでも楽しくする余地があります。反対に言えば身がなくては仕方ありません。ですから、試験に「人生や命をかける」ということはなさらないでください。かけるなら「時間」を。

そしていざ受験する大学に入校する際には、「ここでも楽しいんだろうなあ。さあ私とマッチするのはどこかな~??」という心持ちで行ってみてください。

……そんなこと簡単に言うなよってね。でも本当に、試験においても気持ちの余裕は大事ですから、たとえ本心ではそう思えずとも心の中で唱えてみるのは良いかと思います。

最後に、試験当日の気持ちの余裕を保つために、簡単にできることをお伝えしたいと思います。

①試験当日の一週間前からは、試験前日に寝るであろう時間に就寝し当日起きるであろう時間に起床すること。

②手洗いうがい、きちんとした食事を徹底すること。普段食べ慣れないものを、食べないこと。

③試験当日用リュックに持ち物を詰めておいて、極力物を出し入れしないこと。腕時計は時間があっているか確かめたうえで用意してきましょう。

たいしたことないじゃん、と思うことにこそ焦らされたりするものです。ぜひ、万全の準備が済めばあとは根詰めすぎず、余裕をもって過ごしてください。

みなさんの大学生活がみなさんの想像を超えた素敵なものになることを心から願っています。

敬具

年越し前の返り見

銀杏色の風もようやく過ぎ去り、110デニールの隙間を冷やされた空気が昇ってきます。

気力があれば塗る程度のボディクリーム。それは意外にも肌を守っていたようで、これきちんと塗ってればかなりすべすべになるんだろうなあと思いつつかすかに上がった口角から白い息がたよりなく逃げていきました。

今年のクリスマスは平日なので日中は家族不在、相方とクリスマスを過ごすというこだわりもないので、どうやって気分をあげようかと思案しております。

蝋燭にゆらゆらと照らし出されるピエタを眺めていたらいいのでしょうか。

*****

まいです、ごきげんよう❀

趣味で履修しているデザインの授業(被服学科の科目)で、色をつかってイメージを表そうという課題に取り組みました。色紙と台紙が配られ、100分授業一回で作品を創るというなかなかハードなものでした。

「時期的にもクリスマスをテーマにするのもいいですね」

先生がそう言ったので、私はキリスト降誕をテーマにしようと思い、濃紺の天の下、星の光が射し込む馬屋(と分かるほどに再現はできていませんが、、、)で、おくるみに包まれた赤ん坊がいる作品を創りました。パッと見て何に見えるか姉に訊くと「目玉焼き」と即答され「色違うでしょもっと考えて!!」と矛盾したことを言う羽目になったものです。100分のクオリティ、さて善し悪しはわかりません。

今月の頑張りは何と言っても卒業論文の提出です。

今年度の日本文学科は12月17日が締め切りだったのですが、ラストスパート一か月は、本当に落ち着かないもので、睡眠の質が明らかに悪くなっていました(ゼミの先生にすかさず「それはホットハニーミルクでも飲んだ方がいいですね」と的確なアドバイスをいただきました)。

余裕をもって提出したうえ、ありがたいことに普段の課題と提出方法が同じ(pdf)なのに、提出されているかどうかが恐ろしく気になり、強迫観念に駆られて毎日30回くらい提出確認をしてしまいました。

提出済みのファイルをクリックするたびに出る「もう一度ダウンロードしますか?」という表示が、「(本当に…)もう一度ダウウンロードしますか?(…??)」と疑っているようにさえ見えてくるほどの繰り返し。あそこまで自分の行動を信じられなくなったのははじめてでした。

提出したらしたで、「て、提出したんだからダイジョウブダヨ!!成績が悪いとかはあっても受理されないことは…ナイヨ…!」と、冷や汗を背中に感じながら周囲(いや、本当は自分自身)に言い聞かせる夢を見る始末。恐ろしいですね、、、。

提出したとて卒業判定が出るのは3月なのですが、締め切ってしまいもう何もできない!と思うと、急に肩の荷が下りた心地がし、卒論締め切りを境に、目覚まし時計で起きられなくなっています。堕落。

ダイエットでいうリバウンドというか、自分を戒めていた反作用でめちゃめちゃに自分に甘くなっている…。いや、もう2024年いっぱいまではお疲れ自分!!ということでいいかな。これすらも甘いか。

*****

12月はやはり人と集まる機会が多い月でした。

一つはボランティアサークルでの関東地区・研修合宿です。卒論提出直前の15、16日に開催にも関わらず私は係をやっておりなぜか忙しくしておりました。そういえば中学3年生の時も、私立志望で受験を終えた人たちの中に1人混ざって、公立受験を目前に卒業アルバム実行委員をやっていました。理由は「最後に爪跡を残したいから」。変わらないな自分…いいのかこれで……?

合宿の係はだいたい開催の半年前から週2ペースでzoomをし、研修合宿でのコンテンツ(寄付の実感を感じてもらうためのロールプレイングや寄付金額を上げるための戦略、支部を上手く回していくための思考法のレクチャーなど)を考えます。

かつて関東地区の代表をしていた当時は、全国や関東地区のイベントにもよく出て運営側もしていたけれど、大きな団体ならではの内部事情を知って疲弊し辞めてからは、遠出も不自由になったのもあり全く支部外に出ていませんでした。

その私がもう一度だけ頑張ろうと思えたきっかけは、今年の春に約1年ぶりに地区のイベントに参加したことです。全国のメンバーから地区代表期間を労う寄せ書きをいただき、特に会ったことのないのに書いてくれていた人たちからの「活躍している時期のイベントに出ればよかった」「会ってみたかった」という言葉に胸を打たれました。

期待してくれている人たちがいる。お世辞かもしれないけれど、会ってみたかったと言ってくれる見知らぬメンバーがいる。

そう思い、卒業前にもう一度だけ頑張る気が起きました。もちろん、卒業論文との両立がこんなに大変になってしまうとは想像できていませんでしたが(笑)。

遠出の不安に自律神経が乱れるあまり、入眠の速さが自慢のはずの私が3日連続眠れず(合宿は1泊2日でした)帰宅後は完全に魂が抜けていましたが、当の1日半は、行って悔いのない貴重な時間となりました。色んな人と顔を合わせ、名前を呼び、笑い合い、頭を使い…こういう青春は今後、そう簡単に手に入れられるものではないのだろうと思います。思い出の写真はどれも目の下のくまがひどく悔しいものです(笑)。

なにより、この合宿を乗り切ったことが自分の成功体験になり、外でのストレス耐性がすこし回復したことが喜ばしい!少し負荷のあることをした代わりに、得られるものはちゃんとあるんですね。

…………

人と集まる機会はもう一つ。高校時代の音楽部のご飯会がありました。

卒業以来会っていなかったにも関わらず、同期と後輩2代に声をかけるとなんと9割以上が参加すると言い、まさかの40人規模のご飯会(もはや同窓会)になってしまいました。

久々に会う同期とは近況報告だけであっという間に2時間が経過。すでに活躍しているパティシエ、イラストのうまさでゲーム会社に就職を決めた人、声楽活動を続ける人、大学院に進む人、ホテルのフロントになる人、小学校の教員になる人、子育てをしている人、投資に闘志を燃やす人……。ああ、社会はこうやって確実にいる誰かによって支えられているんだなと実感しました。

みんなが何をしていても、これから何をしようとも元気でいてくれたらそれでいいな。みんなが少なくとも旧友に会ってもいいと思うくらいには元気で、2時間は笑顔をたやさないでいられて、良かったな。

難しいことも偉大なこともなくていい。これでいいよね。

と、思うのでした。

1人の帰り道、みんなの眩しい笑顔の焼き付いた眼の奥から得体の知れぬ涙が流れてきて、生きるってなんて大変なんだろうと思って項垂れてしまう自分とも、やはりうまく付き合っていくしかないのです。

今年の1月1日は、これと同様、途方もない命の行く先に涙を流して迎えてしまったのですが、2025年は晴ればれと迎えられるよう、素敵な年末を過ごしたいと思います。

縁あり私のこのブログを最後まで読んでくださった皆さんにも、いつかの縁のためにまだ出会わぬ皆さんにも、すべての人にとって尊い1年が始まりますように。年越しの足取りが少しでも軽やかでありますように。

脱皮

我が家で歌と言えば、姉だった。

—————————

幼稚園。「北風小僧の寒太郎」で高い声が綺麗と言われ喜んだ。

小学校。校長先生が私にソロ歌唱を披露する機会をくれた。

6年生の謝恩会。音楽の先生が2人分のソロパートのある曲を選び一人は私に、もう一人は私と声の合う人をオーディションで選ぶと言った。その年、姉は東京藝術大学の声楽科に受かった。

中学校。合唱部の顧問に進路を訊かれ「絵が好き」といったら苦笑された。顧問からは気まずいほどに贔屓にされていた。先輩や同期の目の前で「みんながあなたについてこられるかしら」と言った。

でもやはり、我が家で歌と言えば姉だった。私が校内の合唱コンクールでソロに選ばれどんなに一生懸命歌っても、姉のいる家で私の歌が褒められることはなかった。姉がいる時間は、決して風呂で歌わなかった。私の歌に、何かを思われるのがいやだった。

高校。音楽部には憧れるような歌唱力の人が複数いた。自分の声が分からなくなり迷った。努力した。明らかにこの3年間でスキルが身についた。進学する大学も初めは音楽の道を考えた。姉と同じ大学を考えた。

自分の歌に自信がついて、ようやく、姉を素直にうまいと思えるようになった。これまで胸の内で密かにあった一方的なライバル心にも似たものが、宛先を見失って忽然と消えた。姉はうまい。私は姉には及ばないがまあまあうまい。それでいい。当たり前だ。こう思えた時、自分は成長したなと感じた。

芸術をやる人ならわかるかもしれない。芸術家にはしばしば「同担拒否」のようなところがある、と思う。芸術は点数を付けられない。だからこそ自分のやっていることこそ魅力的だと強く信じるしかない。そこに自分と似たようなことをする人間が現れると焦る。点数をつけることはできないけれど、できないからこそどうにかして自分とその人の差を測ろうとしてしまう。一番信じたいはずの自分の価値観で無意識のうちに他人を評価したとき、薄々感じる「自分のよりいいじゃん…」という気づきを恐れる。自分の芸術は自分の価値観で生み出すしかないけれど、その自分の価値観が平然と自分を裏切り自然と他者を羨み妬むことを、恐れる。高校時代の美術専攻の友人も言っていた。「同じ美術の子には排他的になっちゃうんだよね」と。

私もそれに近いものだったのだろう。私はいっぱしの芸術家でもないけれど、少なくともプライドがあり、点数が付かないからこそ人からの声で自信をつけたかった。褒められず拗ねる幼児だった。

反抗期めいたそれを卒業し、大学生になると、私は姉のコンサートを手伝うようになった。スライドを用意し当日は歌に合わせて操作を行う。舞台裏で聴きながら素直に姉の歌をいい、と感じ、この空間をもっとよくするために自分もこの役割を全うしようと思った。その頃になって姉も、私がユースで入っている合唱団を聴きに来ては「うまくなったね」と褒めてくれるようになった。姉も、少なからず「同担拒否」めいた感覚を私に抱いていたのかもしれない。

*****

まいです、ごきげんよう❀

なぜ、こんな話をしたのかというと…先日、姉と「二人で」ちょっとしたコンサートに出演したからです。

地元のおじさんがちょっとしたお祭りで「姉妹のコンサート」を企画してくれ(姉は声楽家ですが私は何の肩書で人前で歌うのだ??とは思いましたが)、引き受けたのが始まりです。

姉の声を聴いて育った私は、当然ながら姉と歌声(声質)が似ておりまして、「ハモる」だろうなとは思っていました。しかし冒頭で書いた通りですので、一緒に歌ったことなどもちろんなく、「我が家で歌といったら姉」なので姉のいる前で堂々と歌うなんておこがましいこと(?)はできなかったのであります。家族のカラオケでさえそんなに楽しくなかったですからね、あの頃はやはり子供でした。

ですが、そこから抜け出しようやく一歩大人になれたこのタイミングで、姉と歌う、しかも人前でコンサートとして歌う機会がやってくるとは、運命を感じずにはいられませんでした。

姉と選曲(秋の童謡など)し、いざ初回の合わせ練習となると、、、こっぱずかしくて思うように歌えません。姉から発声を指導してもらいこれは緊張していないで真剣にやらなくちゃと思い、練習。リハーサルでは対等な姿勢で歌うことができました。

当日は地元のお客さんが沢山訪れ、こどももたくさん来ました。まさかの地域の「長」(市区町村 長)も現れたので挨拶をし、私の懐かしい先生方も来てくれ、小さなコンサートは大盛況のもと幕を閉じました。

当日は、ここ最近の自分の中でも最も喉の調子が良くものすごく気持ちよく歌えましたし、姉も私もリハーサルで全然予定していなかったのに当日の雰囲気と手拍子に合わせて踊り(←「東京ブギウギ」を二部で歌ったのです)、会場も一層盛り上がり、高揚感を味わいました。

全曲を歌い切り笑顔で姉とお辞儀をし拍手を浴びた時、歌においては微妙な関係だった二人が歌でつながったと感じました。何とも言えない、感動が胸にこみあげました。なにかから解放され、なにかが軽くなったのです。

*****

生きていれば意識しても無意識のうちにでも、誰かや何かと自分を比較し、劣等感を感じたり優越感に浸ったりすることがありますが、自分と他人、どちらかを選ぼうとするのではなく、どちらも選べるようになりたい。

そう思う今日この頃です。

それでは。

ディズニー・オン・クラシック

ようやく帰り道がひんやりしてきました。最寄り駅に降りた瞬間、久しぶりに鼻先に冷たい空気を感じるとなんだか胸がわくわくします。帰ったら温かいココアでも淹れようと決めて嬉しくなったり。

きゅんと冷える日は決まって夜空も澄んでいて、星を数えながら帰ってみたりするのです。そうしているとお決まりのあのメロディーが頭のなかをめぐります。

♪輝く星に願いをいえば…

*****

まいです、ごきげんよう❀

先日、相方と「ディズニー・オン・クラシック〜魔法の夜の音楽会〜」というものに行ってきました!

普段クラシックを観にいきたいと言わない相方が、ディズニー好きということもあり「これ行きたい」と言ったのがきっかけ。

「いいね行こう!」と言って、私は父に頼んでチケットが当たるキャンペーンに申し込んで貰いました(お金出してチケット買おうとはしないんかい、というツッコミはさておき)。

そしたらなんと!S席当選!!

申し込んだのを忘れた頃に「当たったよー」と父に言われ歓喜しました。当選した日は相方が友人らとディズニーシーに行く次の日。私は疲れてるとこわるいかなと思っていましたが、相方は「ディズニー行くの日曜になりそうだったんだけど、なんとなく土曜にしたんだよー!!これのためだったのかー!!」と奇跡を起こしたかのような感動に湧いていました。

会場は有明アリーナ。昼過ぎ開演だったので早めにむかい“オシャレなビル”の“フードコート”で「すき家」の牛丼を食べました(笑)。私はそれまで牛丼屋さんのお店で牛丼を食べたことがなく、前々から行きたいと言っていたので、思わぬ形で念願が叶いました。タッチパネルで商品を選び、顔を上げた時にはもう自分の商品が出ていたのでたまげました。すぐ用意していただいたものを「え!?これ私のですか?」とわざわざ確認してしまって申し訳なかったです。

いざ開演。

オーケストラにより『ピーターパン』の「右から二番目の星」などのテーマが流れるように演奏されました。

海外のヴォーカリストたちによる有名なナンバーが続いたあと『スター・ウォーズ』のメドレーに。サーチライトが客席を駆け巡り宇宙を思わせる近未来的なメロディーに会場は包まれます。どうしてこの音色は宇宙らしい、と感じるのだろうと不思議です。会場は高揚感で溢れていました。

今回のメインは『リトルマーメイド』だったので、後半は作中の22曲の演奏・歌唱が続きました。作品に出てくる順番で演奏され、背景スクリーンにはその曲の場面のアニメーションが無音で流れています。

「リトルマーメイド」の主人公は姉妹の末っ子で人間の世界に憧れる人魚、アリエル。海を司る王トリトンの娘でありながら、海の掟をことごとく破り人間や人工物との関わりを続けます。ついにアリエルは人間の王子に恋をしますが、そのことを父に酷く咎められたことをきっかけに海を捨て王子を選ぶことを決め、海の魔女アースラと契約し声を譲る代わりに人間の足をもらいます。幸いにも王子と交流することができますが、うまく行きかけていた恋路はアースラに邪魔をされ、海の王である父や海中の民を巻き込む事態に陥ります。最終的にはアースラを倒すと、人間との接触を禁じていた父トリトンが2人の恋を認め、あらためてアリエルに人間の足を与え永遠の別れを惜しみます。

……いやいや、よく考えたらアリエル身勝手すぎる!!!というものが感想です。幼い頃見ていた時は、アリエルの恋を父トリトンが邪魔をしているように思え、アリエルのコレクションを破壊するシーンは「なんてわからず屋なオヤジなんだ!」と思っていました。…が、今見ると、父トリトンは海の治安を守っているだけで、アリエルが迷惑をかけているに過ぎません。アリエルは自分の願いを叶えるためにかなりの犠牲を払っている(そしてその自覚がない)幼い主人公ですが、父トリトンはやはり娘であるアリエルを愛していて、「娘がいなくなると、寂しい」と呟きます。呟いたのも束の間、アリエルに足を与え微笑むトリトン。トリトン!!……私はこのトリトンに感情移入してしまい、22曲が演奏されるなか涙が止まりませんでした。こんなに生意気だけどそれを上回る愛情があることの美しさと悔しさ。タイトルを「トリトン」にして欲しいです。

生演奏、そして海外の歌手による「原語」での歌唱は本当に充実したものでした。

日本語は1音に1文字しか入りませんが、英語は1音に1フレーズ入れることが出来るので、翻訳前後で歌詞の深みが全く異なります。

例えば「リトルマーメイド」のメインテーマである「パートオブユアワールド(Part of your world)」。日本語では「♪世界へ〜」という歌詞に当たる部分が2度ありますが、英語では1度目が「Part of that world(あの世界に入りたい)」、2度目は「Part of your world(あなたの世界に入りたい)」となっています。エリックという男性に恋をしてからは「人間」ではなく「愛する人」の世界に行きたいという想いに変わっているわけです。

さらに作品の最終場面、人間になったアリエルとエリックを、トリトン含む人魚達が海から見送る場面でもこの曲が流れます。この時歌っているのは人魚たちなので「Part of your world(あなたの世界に入りたい)」の「Your」は「アリエル」を指していることになります。

やはり音楽は原曲にこそ最大限の魅力が詰まっているなあと思います。

ぜひ皆さんも日本語で慣れている曲をもとの言語で聞いてみてください✨

それでは。

をかしきもの

朝は風。布団から出て窓を開ければ、季節の香りが頬骨をかすめていく。秋の金木犀まとう風はなんとも贅沢な気分を味わわせてくれる。

昼は水辺。近所に流れる川に鴨が住んでいるのだけれど、その後ろに幼い鴨が連なるのを見ると愛おしい気持ちになる。せきれいの水浴びも、その姿と散る雫の大きさがあまり変わらないことが微笑ましく思える。

夕は入日。予期せず外出することになった日の帰り道に、柿色の鮮やかに輝くのを見たときの感動は言い表すことができない。たとえその日がふるわなくても、それを見れば悩みもどうでもよい気にさせられるのだから不思議なものだ。

夜は静けさ。月明かりを頼りに寝床にたどりつき、枕に頭をゆだねたときのわずかな音が響くのも良い。昼に干された毛布に包まれるときの幸福感はもちろんたまらないが、顔に近づけたときに寝香水がほのかに香るのも良い。

*****

まいです、ごきげんよう❀

日常にある穏やかな幸せを記したいと思ったとき、ふと清少納言の『枕草子』が浮かびました。感じた趣を筆にまかせて表現する。そうしているうちに『枕草子』のオマージュが完成したわけであります。私の場合はもともと「現代語」で書いているのにもかかわらず現代語「訳」のようなニュアンスに。私は中古作品に添えられる、奥ゆかしく少々丁寧すぎるような現代語訳の韻律が好きです。

こうして一日を振り返ると、特別なことはない、なんてことのない日常の幸せに気づかされます。「特別」というのは「新鮮味」に近いところがあり、それに慣れているか、いないかに左右される感覚なんですよね。旅行先で見た山並みをうつくしいと感じても、それを毎日見て生活している人にとってはただのいつもの景色でしかなかったりするわけですし。私にとっての「旅行先」が「地元」の人もいるのです。

・・・

「”幸せいっぱい”ではなかったけれど、けして”不幸”ではなかった。」「1日1回でも心から笑えたら最高に幸せ」

これは私が最近お気に入りの漫画(自己啓発系?)『メンタル強め美女 白川さん』のセリフです。主人公は25歳のOL「白川さん」。日常の幸せに目を向け不要なネガティブをはねのけることでハッピーな生活を送っている「メンタル強め美女」です。日々多様な悩みやストレスとたたかう会社の仲間たちが「白川イズム」に触れることで心が軽くなっていくのですが、効果は読者まで及び人気を博しています(現在6巻発売中)。以前、私の人生のバイブルとして『魔法のプリンセスレッスン』をご紹介しましたが、この「白川さん」はまさにそれを実践しながら生きているような人なので(著者は異なりますが)、私にもヒットしてしまいました。

私たちが見ている世界にはいいこともわるいこともあるけれど、そのどれを受け取るかは自分で決めていい。作品全体を通して「白川さん」はそれを伝えているような気がします。

日々がんばって生きている自分を大切に、かわいがってあげること。慣れないうちは意識することが必要ですがけして心の負担になることではありません。ここで「プリンセスレッスン」や「白川さん」に影響を受けやすい私の、「自分をかわいがる(違和感があれば「いたわる」でもよいです)ためのおすすめアクション」をご紹介したいと思います。(この文言が、各本に載っているというわけではありません。これは私流になっているので、気になる方はぜひ本をお読みになってみてくださいね❀)

~“疲れた日の!”自分をかわいがる(いたわる)おすすめアクション3選~

*お風呂にキャンドルを用意して、ぼうっとする時間を自分にプレゼントしてみる。

……疲れているときほど他人へはもちろん自分への思いやりが減り雑な扱いをしてしまいがちです。自分の失敗を責めたり、何もかもが面倒で嫌になったり…疲労がとれないどころか増していくばかり。そこで、元気な時に「疲れている日専用プレゼント(ご褒美)」を考えておくと、疲れた時の自分を癒すことができます(疲れているその時は、そんなことを考える余裕がないので元気な時に考えるのがおすすめです。未来のつかれた自分のために!笑)。たとえば「コンビニで1つスイーツを買ってあげる」。普段買わないようにしている人ならなおさら嬉しくなりますよね。「疲れた日。だけどケーキが食べれる日!」と、少しハッピーに変換されるかもしれません。 時間のプレゼントでも良いです。見出しの「お風呂でキャンドルをつけてぼうっとする」は個人的なブームですが、他にも「好きな漫画を読む」とか「アニメを1話見る」とかも最高ですよね。……不思議な事に我々は、疲れているときに”無心で”これらのこと(ケーキを食べる、漫画を見るなど)をすると大きな罪悪感を感じたりします。「あー夜なのに甘いもの食べちゃったー」とか「マンガ読んで遅い時間になっちゃったー寝るべきだったのにー」とか。本来なら好きなことをして嬉しいはずなのに罪悪感もセットでくるとなんだか残念です。でもこれが決めた「プレゼント」だとこの後悔を感じずに済みます。人からプレゼント(しかも自分の好きなもの!)を受け取ったときに「あーついもらっちゃったよー」なんて、後悔したりはしませんもんね。

☆ポイント:金銭面など自分の負担にならない範囲で設定すること!

*いつも憂鬱な気分で通っている道を、休日にのんびりと散歩してみる。

……仕事や、学校、アルバイトなど、いつでもルンルンだったら嬉しいですがなかなかそうはいきません。残業続き、寝不足、人間関係、様々なストレスを感じていたり悪い未来を想像しながら歩いていると、だんだんとその景色自体が「負のオーラ」をまとっているような、「嫌なことを連想させる場所」になってきたりします。おそろしや…。そこで、休日にのんびりとその道をお散歩してみます。らく~な格好でもいいし、大好きなお洋服を着てもいいし、スタイルは自由です。五感をつかってのんびり歩いていると、いつもの川に鴨のあかちゃんがいることに気が付いたりカメが甲羅を乾かしているのを見かけたり(この景色は田舎にいる私だけでしょうか…?)、風が気持ちよかったり背中の陽射しが温かかったり金木犀が香ったり…。いつもの景色がマイナスフィルターなしに見れたとき、足取りは自然と軽くなっていきます。「いつもの通り道」に嬉しいポイントが貯まっていると、落ち込んだ気持ちの日も少し気がまぎれたり。

☆ポイント:天気のいい日、気分がよく時間に余裕のある日に行うこと!もちろん雨の日がすきな人はぜひその日に!雨など降るもをかし、ですね。

*良い香りをまとってみる。

……香りは心まで届くので、ハンドクリームや香水は自分が心から気に入ったものを選ぶことがおすすめ。私は「すごく好きな香りだけどちょっと高価なハンドクリーム」と「そこまでピンとは来てないけどお手頃なハンドクリーム」のうち後者を買ったとき、なんだかんだ使い切らなかったり買い替えたりして、「結局前者のハンドクリームを買った方が安く済んだな」という経験をしたことがあるので、香りものに関しては奮発してもいい、と決めています。気分のいい日やわくわくする予定があるときなどに積極的に使っていると、脳の中で「この香り=幸せな気持ち」という”連想ハッピーセット”が完成します。そうして不安な夜、枕元にひとふきすれば、心が静かに慰められてゆくのです。

……いかがだったでしょうか。最近自分のブログが自己啓発に寄っていることに薄々気づいてはいましたが今回もそのような内容をお届けしました!(笑)

幸せな日常を送りたい、ではなく、日常の幸せを受け取りたいと思います。

それでは、ごきげんよう。

ありがたみ

ヘルプマークをつけるようになると、案外つけている人は周りに沢山いることに気がついた。

普通に電車に乗るということがかなり困難になった夏だった。どれだけ楽しい予定でも、移動が付きまとうことで不安になりいくつも予定をあきらめ断った。カレンダーから予定を消している時、もうこの心配をしなくていいんだと心の底から安堵に包まれた。しかしそれは束の間、ひとつ無くなったところで先に続くさまざまな可能性を探し気づけば自ら不安になりにいっていた。電車に長く乗るのはいやなくせに降りたり乗れなかったりをするから、結果的に普通よりも明らかに時間をかけてしまう。がんばってもだめな日は遅刻かドタキャンになる。なんとかして帰る。身体が言うことを聞かなくなった日は、友だちとのご飯の予定で外出している相方を呼びつけた。電車に乗り、私の痙攣する手を相方が優しく握ってくれた瞬間、涙が溢れた。こんなに優しい人の楽しみを奪うことなしに帰ることが出来ない自分が哀しかった。生きることと迷惑をかけることの違いが曖昧になった。

電車をきっかけにそれは癖になり、電車に限らず異常な緊張や不安感に落ち着かない日々が続いた。本当に集中力が落ちた。考えたくないことなのに不必要に考えようとする頭が働き、会話に集中したり心から大笑いしたりできなくなった。当たり前のようにあった感情の動きは、動く余裕があったからこそなのだと知った。相方に会いたいのに外出すると異常に疲れる。外出する前から余計な緊張をし、特技とも言えるほど寝つきが良かったのに眠れなくなる。出かけたいと思えなくなった。履修登録で授業を一コマ入れるたびに電車を想像した。これが電車に乗る回数と比例すると思うととりたいという気持ちに委ねることはできなかった。

今年の夏休みは思えばそんな一面があった。でも一面だと思える今がある。それが全てではなかった。悪いことは記憶に残りやすいけれど、悪いことが目立つ分だけそのまわりには些細な幸せが溢れている証拠だと思う。

今は落ち着いてきている。天気や気分や環境に左右されるし、心配もするけれど、それでも日常の喜びをとりこぼしてしまわないように、今まで以上に自分を大切にすることにしている。

*****

まいです、ごきげんよう❀

暗い始まりに読んでいる方々の不安を煽ってしまっていたらすみません。このように自分のこの状態を言語化できるようになったのは、今、その状態から少し距離を取れているということの良い証拠です。自分の不安を吐露したいのではなく、そこから今ラクになれていることをお伝えし、同じような悩みを抱えている方の一助になれたらと思っています。

最近自分の中で唱える言葉は「未来の自分に任せよう」です。

不安はやはり癖になってしまうもので、不安ではない時に何故か自ら怖い可能性を考えてしまい結局それが原因となって悪いことが実現してしまうという負のサイクルに陥りがちです。

脳に関する本を読んだらしい姉から、悪いことを想像しそうになったら太ももを叩くといいらしいと聞きやってみました。確かにハッと我にかえるのに良さそうです。脳は単純なので外からの刺激が来るとそっちを優先してしまうとか。

このような物理的な刺激とは別に、「未来の自分に任せよう」と思うことにします。「この不安は、本当にそうなったときに、その時の(つまり未来の)自分が考えることなんだから今の自分が考える必要は無い!」と。人に仕事を任せるように、ある意味で無責任になることで不安という荷物をおろします。「考えちゃだめ」と思っても、そう思うほど考えてしまうし、変な話ですが「不安を考えていないと不安」という謎の沼に落ちていることも少なくないので、「考えない」ではなく「後で考える」とすることは、案外自分を落ち着かせるのに良いです。「これはあとで考えればいいや」「今の自分のやることじゃないな」と思っているうちに不安そのものがどこかへ行きます。後期が始まってひとりで大学の最寄り駅まで来られたときは涙が出るくらい嬉しくなりました。やった!やったよ!!!普通にこられたー!と。

なるべく丁寧な気持ち作りをし、疲れやすい心身を癒すために、最近は朝晩欠かさずヨガをやっています。ヨガ自体、呼吸を広げたり体をリラックスさせるのに良いし、ルーティンがあることで丁寧な生活を送れている心地になります。百均で買った小さいノートを自己流にデコレーションし持ち歩き、その日にあった些細ないいことをメモしたりもし始めました(これは以前もやっていたことがあるのですが)。メモのために自然といいことを探すようになるので、不安材料を集めてしまうより日々がずっと明るくハッピーになります。

自分の心を自分でケアする。休むことが必要ならそれでいい。休むことに必要以上に罪悪感を感じにいかない。自分をゆるし、的確な判断をできた自分を褒める。あまり深く考えない、泣きたかったら泣く。

人生短くはないから、その中で病気になったりものすごい転機が訪れたり色んな変化がある。今の私も、自分の生きてきた年数でみたら、こんな調子なのはほんのわずか、なんとも思ってこなかった平凡な幸せの方がずっと長いし、これからもそうしていける時間がある。こうなって良かったとまでは思えないし思う必要はないけれど、人の優しさを知れたし、辛い気持ちはどんどん口に出していいこと、素直に泣くと驚くほど気持ちが軽くなることなど、価値のある気づきを得られたのはとてもお手柄だと思います。人間、焦るほど視野が狭くなり孤独感に苛まれるけど、勇気をだして視野を広げてみると、優しい世界に気がついて、それだけで心が軽くなったりする。何かあってもそういう人たちが周りにいるんだから大丈夫と、無条件に安心できたりします。

色んなことがありますよね。これからも。そうすると「良かった時に戻りたい」なんて思ったりするけれど「戻る」ことが一番の幸せとは限らない。不安なことと対峙したら、それを忌避するのではなくて、それと上手く向き合いながら“新しい幸せな生き方”を見つけたらいいと思います。それを楽しめたら素敵ですよね。

大学最後の後期が始まりましたが、ちゃんと、楽しいです。行き帰りの疲労感はもちろんゼロにはなりませんが、そんなの程度が違うだけで今までだってそうだったはず。疲労の程度が変わったなら、回復の程度も変えてあげて自分を幸せにする選択肢を選ぶ。

最近は夜も眠れるし、学校も、友達と会うのも楽しみです。電車も目的地までまっすぐ行けることが増えたしそうでなかったとしても自分を責めなくなりました。楽しいことを心から楽しいと思うことも出来ます。先日姉と行った「大地に耳をすます」という美術館の企画展示もとても楽しめました。感動する余裕が心に生まれていました。

*****

誰よりも身近な存在である自分を、誰よりも自分が大切にしてあげようと思える今日この頃です。

これを読んでくださったあなたの今日が明日が、素敵な日になりますように。

ごきげんよう。

秋来ぬと

ついこの前まで熱い眼差しを見せていた太陽ですが、気がつけば首をかしげてどこか物憂げな表情をするようになりました。橙が灯るカフェで頬ずえをついている誰かの横顔みたい。

そんな寂しくも焦がれる秋の予感は夕暮れ時にふと姿をあらわします。

たとえば小さな枯葉が道路に脈を引っかけるおと。

たとえばコオロギが羽を擦り合わせるおと。

たとえば空に薄く伸ばされた雲のいろ。

こう思うと秋は“擦れる”季節です。枯葉やコオロギや雲が、うっすらと自分を引きずって擦れ、黄色や藍や白のかすれた跡を残していく。

それは夏への憧憬か。それとも手放す勇気を持てず握られている小さな思いか。

枯葉や私のどこか後ろ髪引かれる思いが、淡い輪郭のまま、秋の帰り道に長い長い影を伸ばしている。

私の引きずるものは何色をしているんだろう。

*****

まいです、ごきげんよう❀

「普段どんなことを考えているの?」「大学の友だちや相方とはどんな話をするの?」

そんな質問をされるといつも返答に困ります。先日コーチングの得意なある方とお茶をした時もこの手の質問を受けました。

ええっと、地球を出て火星に行く話、あの人はこういうシチュエーションになったら何をしてそうとか、、友人同士で互いの人生のやたら具体的な設定を考えたりとか!あとは…

あれ、もしかすると私(たち)って普段現実的な話をしていないのではとそこで気が付きました。世の女子大生はどんな会話をするんだろうねという疑問はこれまでの友人たちとの会話で幾度と出たものの解決された試しはなく、私たちはおしゃれなカフェとかじゃなくてドリンクバーで楽しく一生を終えるとか、腰が痛いだの足が冷えるだので盛り上がれるとか、お茶で酔えるとかすぐさまそういう話題(?)に移ってどのコミュニティよりも騒いでいました。そんな環境にいたので自分が「普通」な会話をしていないことをさほど気に留めていませんでしたが、先日ようやく、冒頭のような質問をされた時の答え方がわかりました。

「いつも空想上の話をしています。」 

自分はめっちゃその会話入りたいけど傍から見たらさぞかしきもいんだろうね、と質問相手は笑い、続けてこう言いました。

「あなたは現実の世界に居すぎると悲しみに溺れてしまうから、空想の世界に行くんだね」

あぁそうか。確かにそうかもしれない。

想像あるいは空想の世界には無制限の自由と幸福があるような気もする。

「翼になりたい」という定番の合唱曲の歌詞に歌っていた当時も激しく共感していたけど今の方がずっと奥深くに染みてくる気がします。

近頃の自分はなんだかつまらない。そう思っていたのですが、そういえばそのような想像の世界で生きる時間が短くなっていたように思います。

この大空に翼を広げて飛んでいきたいよ 悲しみのない自由な空へ翼はためかせゆきたい

鳩とスカート

終戦の日に描いた絵は、そういえば白い鳩だった。一切の意図はなかったが、昨年描きかけていた俯く女を塗りつぶした私はそこに、1羽の白い鳩と五つの碧い朝顔を描いていた。

この絵がいつ完成するのかは分からない。

*****

まいです、ごきげんよう❀

昨年、相方の祖母の家で『サマーウォーズ』の「小磯健二」ポジションを経験してきた私は2度目の小磯健二になる予定だったのですが、天候もあり今年は断念しました。

旅行のために直前まで予定を空けていた3日間が丸ごと空白になったので、久しぶりにキャンバスに絵を描いてみたり、映画を観たりと我ながら優雅に過ごしました。

新しい試みとして服飾への挑戦があります。幼い頃から面倒を見てもらっている近所のおばさんがスカートを手作りしていると聞いたので、母と一緒に習いに行くことにしたのです。

お店に布を買いに行き、理想のスカートを思い浮かべながら生地を選びました。華やかな色から落ち着いたもの、大きな模様からシンプルなデザインまで魅力的な生地の数々がずらりと並んでいる様は胸をときめかせました。

表現活動が趣味の私はその手段として服飾も選択肢に入れていました。作ってみたい衣装をデザインし、実現はそう遠くないと胸を高鳴らせていましたが、いざスカート作りを始めてみると「そう簡単にはいかない」の連続でした。

そういえば小学生の家庭科でのエプロン作りも、パーツが繋がればいいという考えから雑に完成させていた私。とにかく完成系を早く見たいので丁寧さより何より早さを重視していた私。エプロンの縫い目にまざまざと表れる私の性格…。

忘れていましたが私はコツコツ丁寧に作業することが苦手です。あわよくば衣装も作りたいなどという考えは洋裁の難しさを良く知らないからこそ出たのでした。こういう考え、漢文とかで説教されそうだな…。

おばさんが「簡単よ」という作業に悲鳴をあげ、指サックを指輪のようにはめていたら使い方が違うと笑われ、前のめりになりすぎてミシンにおでこをぶつけ…洋裁の道、なんて険しいんだ。

…完成はもうすぐです。あとチャックをつけてウエストをどうにかするだけ、、。完成したら自慢しようと思うので私に会う可能性のある方はご承知おきください。裾はよく見ないでください。とりあえず、すごいねと言っていただけますと幸いです。

*****

オマケ

千葉を断念したため相方との宿泊行事は今のところ横浜のみとなったわけですが、いざ文字に起こそうとするとさて何を書いたらいいのやら、特別何かをしていないことに気がつきました。

あちこちの移動は疲れてしまうので宿で遊べるようプール付きのホテルにしたのですが、何時でも遊べるのかと思いきや完全Web予約制で一日ひと枠までとのこと。昼と夜と入る予定が夜のみになってしまいました。プールとはいえ遊泳禁止。覚悟はしていましたが周囲は写真を撮るために来たグループばかり、ポーズを決めて順番に撮りあっている彼らの波に完全に乗れない我々は、水中でゆらゆらしている足の指をかわいいとか言いながら撮っているほかありませんでした。本当に絵で描くワカメみたいな形になって見えるんですよ足の指1本1本が。これが意外とかわいくて…って、このくらいにしておきます。波に乗れないことは十分わかりました。

ホームページから受けた印象より狭いこともあって、ゆったりお喋りをする予定は自然と消滅しました。全身で泳ぐでもなく写真で盛り上がるでもない我々は地味に寒くなり他よりひと足早く上がりました。旅の思い出は残念ながら以上です。

8月も後半ですが、大学生はあと1ヶ月近く夏休みがあるようなもの。さあてどう過ごしましょうか。考えているうちに終わってしまわないよう気をつけないとですね。

小雨女の夏休み

雨女、じゃなくて小雨女。

自己紹介でこれを言わなかったらそろそろ罪になりそうです。

*****

まいです、ごきげんよう❀

今回は家族旅行のお話をしたいと思います。

冒頭の通り、私はどうやら小雨を振らせる力を宿しており(友人らからは「空の神様を怒らせる何かを捨てたのでは」と言われている)、この夏もやはり私が楽しみにしている用事は小雨が降っております。

前回のブログで軽くお話しした大学の友人たちとのお泊り会でもちらほらと雨粒が顔にあたり、傘をさすかささないか何とも言えない天気を招いてしまいました。

そして先日の家族旅行先、那須でも。

しかし今回は小雨ではなく雷雨だったので……私は関係なかった、としてよろしいですかね。二日間とも昼頃大雨が降り外に出られないほどでしたが、幸いどちらも昼食時だったので助かりました。

山の中の雷ってそれ自体がこだましているようで、平野で聞くのとはまったく違う音がします。響くような広がるような鈍く重たい音色が木々に吸収されながら、耳もとに届いてきます。

家族で行くのは7年ぶりとなる栃木県那須旅行。自然が多くてとても好きなのですが、土地柄、車なしではまわることが難しいためこれまで自主的に行くことはありませんでした。お盆前で道が空いていることもあり埼玉の自宅から二時間弱でついてしまいました。気になる方も多いと思うので聞かれる前にお答えしますが、車で観たのは「インサイドヘッド1」です。

今回の旅の大きな目的は、藤城清治美術館とモンキーワールドパークに行くことでした。順に紹介するので那須旅行に興味のある方はぜひ参考にしてみてください。

藤城清治美術館。これはその名の通り藤城清治さんが得意とする多くの影絵が展示されている常設の美術館です。子ども心や想像力を育みながら、100歳になってもなお愛と平和への祈りを込め作品を手掛けている方です。影絵の作品が光を放つボードにくっついた状態で展示されており、どれも輝きを放つ生きた作品として眼に焼き付いていきました。どれだけ近づいても切り貼りした紙の集まりとは到底思えない繊細さと色合いに、一枚一枚、息を呑むほどの感動を覚えました。

大きな作品は奥行きのある鏡で四方を囲まれ、下には水を張った状態で展示されています。鏡や水に作品が映り込み、平面では表せない円環的な世界観に浸ることが出来ました。

藤城清治さんの代表的なモチーフである「小人」と「ネコ」。あらゆる作品で時に大胆に時にひそやかに現れ、いたずらな笑みをうかべて愉快に踊っています。笑い声や鼻歌が聴こえてきそうな躍動感。これもやはり作品を写真で見るのでは伝わらない「光」の効果だと思います。

興味深かったのは、各作品についている解説です。一般的な美術館では解説者により客観的な情報や鑑賞がかかれていますが、この美術館はほとんどが藤城清治さん本人によるものでした。そして、「この作品は僕のお気に入り」「一番好き」「好きな作品なのでもう一度作り直した」といったコメントが沢山あるんです。「一番」という言葉をを何度見たかしらんと思いました。

自分の作品を本当にこよなく愛し、家族のように愛のある眼差しで見つめることができる。本当に素敵だと思いました。生みの親である自分がまず誰よりもこの作品を大切に想い、それを惜し気なく出すことが出来る。創造するうえで何よりも大切で、そしてそう容易ではないことだと思います。

藤城清治美術館。森に囲まれた、憩いの場です。

*****

続いてモンキーワールドパーク……那須と言ったらサファリパークじゃないの?と思われるかもしれませんが私が好きなのはもっぱらこちらです。

なんてったってリスザルやワオキツネザル、エリマキキツネザルなどと触れ合うことができるんです。

リスザルがたくさんいる部屋に入ると、たちまち肩や頭に飛び乗られ、思わずしゃがんだ膝の上でおなかを見せてころころ転がられたりします。みんな小さくて目が大きくてまさにベビーシェマ、という感じですがその中でも親指をしゃぶっている本当のベイビーもいたりして……猫カフェとかで癒される方は好きだと思います。おさるさんは遊んでもらえるのが嬉しそうなので愛くるしくてなかなか離れられません。

7年前に行ったときの写真の私は、手が最大限に伸びきっていてどうやら怯えていたようですが、今年の写真は眉がハの字になってはいるもののかなりおさるさんと触れ合えていました。大満足です。

モンキーパークではおさるさんのほかに象に会うこともできます。というか乗ることができるんです。

今回の旅では最後にサービスとして象使いさんが象を傍に連れてきてくれ、まさにtrunk、長い鼻を触ることができました。うるんだ優しい瞳と大きくぶ厚い皮膚に触れると、私の知らないいつかの大自然、皮膚のしわに刻まれた歴史が脳内に飛び込んでくる心地がしました。

何事も、観るのも良いけれど、やはり可能であれば触れることがとても大切ですね。

それまで完全に外界であったものが自分の感覚の内に染み込むことで、どこか他人事ではない気になります。まったく異なることを知りながら、遠いどこかで我々は繋がっている、という気さえしてくるのです。生きているものの体温がなにかを喚起させるのかもしれません。

*****

小雨女の那須旅行。

雨が降っても緑が美しいのが自然の良いところです。

この夏、どこかお出かけを考えている方はぜひ訪れてみてくださいな。

それでは。

ホットスプリング・サマー

アロマ香る玄関に足を踏み入れ床の冷たさを感じながら歩いていくと、徐々にいぐさの香りに変わっていく。

ここの休憩処でくつろぐ自分の幸福感を想像しながらのれんをくぐる。温かい空気が今度は独特な香りを運んでくる。

温泉。

心身に癒しを与える憩いの場。

今月はたまたま、この2週間で二度訪れました。温泉=一種の行事だと思ってるくらいの私にとってはこの頻度は「多い」に値します。

まいです、ごきげんよう❀

先日、相方を連れて地元の温泉宿で1日まったりしてきました。それぞれひとりの時間を楽しんだのち、足湯に集合しコーヒー牛乳を片手に脱力しました。

温泉はどちらかと言うと苦手と言っていた相方は私より早く出てくるに違いないと思っていたところ、出てきていなかったので温泉内で何かあったのではと本気で心配しました。

そんなことつゆも知らず、ほかほかと出てきた相方は、どうやら温泉が思いのほか良かったらしく、ご満悦の様子でした。

足湯でぼーっと飛んでいくセミを見たりして、「今年のセミは小さいねえ」「暑いからかねえ」なんて言ってる私たちは若者のエネルギーを全て温泉に溶けだしてしまったかのようでした。確実に減っていくコーヒー牛乳だけが、私たちの若さを保証していました。

*****

2回目の温泉は、大学の友人たちとでした。全く異なる場所ですが、レンタルスペースでお泊まり会を計画した我々は近くの温泉施設に向かいました(レジャースポットとかで遊ぶほどの体力は我々にありませんでした)。

そこは時間制限が厳重で、1時間プランの場合1分でもすぎたらフリータイムの値段にまで跳ね上がるという説明を受けたので大慌て。「急いでこ!!」「ほぼオリンピックだね!」と盛り上がっていると(主に私)着替え室でもう少し静かにするようにと注意を受け、大変恥ずかしい思いをしました。

盛り上がりすぎで注意されるなんて、修学旅行の小学生の部屋か!!と思わずツッコミたくもなりますが、つっこんでしまっては否定する術もなく困るのでやめておきましょう。

幸い1時間以内に出てくることはでき、その中でもお風呂は全種類網羅することができました。

この旅行については話せばキリがないのですが、このブログ部にも旅行メンバーが数人いるのでそのうちの誰か1人くらいは書いてくれるのではと思います。

私から言えるのは

・オリンピック(しかも録画放送)を見て遅刻する人がいた

・餃子を作るパーティーという名目だったのに既製品を買った

・次の日は徒歩圏内のカラオケに行き食パンをかじった

あたりでしょうか。この旅行のポイントを簡潔にまとめると以上の3点かなと思います。

あつーいあつーい夏ですので、温泉など、適度に癒しの予定を用意しておくことをおすすめします。

それでは𑁍