春へ

何枚もの色鮮やかな袖が春風に揺れている。この1年全く顔を合わせる機会のなかった同級生たちが一同に集っている。袴たちも1年ぶりに浴びる外の光にはりきっているようだ。

みんながはしゃいでいる。「ひさしぶりー!」「その色似合ってるね!」「一緒に写真撮ろ!!」…もはや涙を浮かべる余裕などなく、色や声が目まぐるしくすれ違ってゆく。再会と互いの着飾った姿に高揚し、軽い感動があちこちで生まれる。便利な言葉だけの会話がそこかしこで沸き起こる。

しかしそんな中にも刹那の沈黙があった。誰もが同じ目をする瞬間があった。「またね」が少し真剣になった。

あちこちで繰り返される16分休符が、一つの音楽が、確かに流れていた。

この春、私は卒業した。

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まいです、ごきげんよう❀

……というここでの挨拶も、どうやらこれが最後のようです。

先日姉から嬉しい話を聞きました。

姉の同僚の娘さんが春から日本女子大学の日本文学科に通うそうなのですが(合格おめでとう!)、ここを目指す決め手の一つが、なんと以前私が出演した学科紹介ムービーだというのです。

特にお母様(姉の同僚さん)がムービーを通して日本文学科に好印象を持ってくれたらしく、近々ZOOMで「入学後の生活など」について娘さん(とお母様)とお話しすることになりました。

学科の印象を好いものにする目的の活動なので、このような形で効果を実感できて嬉しいです。「日文のある意味へんなところ、面白さをもっとアピールしたら良かったなあ」と今の私は思っているのですが…(できることなら撮りなおしたい。卒業したので最早「現役生」ではありませんが)。

日本文学科への愛は前回のブログで語らせてもらったので、今回は入学する方々に向けたお話しをしたいと思います。

とは言っても、「大学ではこんなことがあるよ」「こんなことをするといいよ」という実用的な助言はありません。大学でどれだけのことを学びどれだけ成長できるかは、間違いなく自分自身にかかっているからです。

小中高は、違いました。日本の教育は、決められたことをみんなで取り組むスタイルが根本にあるので、「いつ頃にどんなことをするのか」「それでどんなことを学べるのか」「どういう成長が期待できるのか」がある程度予想することができ、結果が大幅に外れることもありません。みんなが同じことをするので、かえって能力や成長の差は顕著になり、人によっては物足りない環境に、人によっては過酷な状況に置かれることになります。これは自分ではどうしようもできない部分です。アメリカのような飛び級制度は基本なく、意欲に対し供給が不足することもありました。

ですが、大学は違います。

まず、大学生になる頃には様々なツールを使えるようになっています(使いこなせるかは別として)。分からないことを、そのままにするか教授に聞くか…自分で調べるという選択肢があるのです。その選択肢が小学生にはないかと言われたら全くそんなことはありませんが、パソコンや分厚い本や難しい言葉を処理できるようになった自分の「調べる」の深さは、そうでなかった時のそれとは格段に違うでしょう。

そしてその「調べる」行為を存分に応援してくれる設備や環境が、大学にはあります。図書館だけでなく、教授や友人の知識も大いに学びに繋がります。義務教育や試験には、どうしても1つの「答え」がありました。しかし大学で一問一答はしません。学生は必ずしも「答える側」では無いのです。疑問をもち、問を立てる。自分なりに解決していく。普段から問をどれだけ立てたかで、同じ授業を受けていてもそこから得られるものは大きく異なります。

小学校の時と同じように、言われたことをメモし、問いかけに答えているだけでは、「大学の良さ」をいかしきれません。むしろ「言われなかったこと」「説明されなかったこと」にこそ意識を集中させ、疑問を持ってみる。そしてそれを仲間に、教授に話してみる。脳に皺が刻まれていく。おもしろい!と感じる。

そういうことができる場所が大学なのです。

私は、大学に来てはじめて勉強のおもしろさを知りました。

それまでも学校や授業は好きでしたが、そのゴールにある試験と「学び」の行為の乖離に耐えられず、違和感を拭えずにいました。なにも褒められたことではありませんが、受験勉強に身が入ったこともなく、「教科書の太字を覚える」「言葉で説明できても漢字を一字間違えると罰になる」「そうとも読める、で丸はつかない」「薄っぺらい内容でも、文に問題がなければ丸がつく」…といったシステムの歪みに黙って従っている感覚が耐えられませんでした(反抗してもしょうがないんですけどね)(勉強は素直にして損ないですからね)。

そんな私が受けた衝撃のひとつは、大学1年生の古文の授業でした。

受験勉強のためには古文単語をそれこそ一問一答式に暗記し、助動詞の活用形を唱えていましたが、大学1年次の基礎的な授業で教授は「古文単語は分からなければ辞書を横に置いて調べればいい」と言ったんです。

「え!!!そうだよね!!?」となりました。

大学の授業で、「じゃあ〜“あはれ”って現代語訳すると?」なんてことは訊かれません。そんなのは調べればいいんです。むしろ大事なのは、その古文を、「文学作品として」読むこと。どういう心境なのか、この地名がここに登場する意味はなんなのか、どう読めばおもしろいか──。

あ、今まで私って古文を読んでいなかったんだ!!と目からウロコの思いをしたことを今もはっきりと覚えています。

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4月から、入学される皆さん。4月から、進級される皆さん。

今の自分の意欲を、未来の自分が叶えることはできません。ぜひ、学びたい、知りたいと思う気持ちにブレーキをかけず、思い切ってください。そんな危険運転が許されるのは、今だけです。

キーワードは「気になるけどちょっと手間(面倒)」です。興味を持ってのめり込むことはもちろん良いですが、それであれば言われずとも積極的に取り組むでしょう。むしろ「ちょっと手間だなあ」と思うときの1歩こそが、重要です。

この4年間でしたいこと、なりたい姿、自分のなかで「緊急ではないけど実は重要なもの」について考えてみてください。

大学は赴けばそこにあります。 あなたのために建っています。

長期休暇は全部くっつければ1年で半年近くあります。

そんな4年間をあなたはどう過ごしたいですか?

…あなたの選択を心から応援しています。

𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄

ご愛顧、ありがとうございました!!

このブログ部のメンバーは日本文学科から選ばれし最強のメンバーです。

ぜひこれからもブログ部をご贔屓に!よろしくお願いいたします❀

まい

日文は無敵

まいです、ごきげんよう❀

梅の香りに耳を澄ましているうちに、あっという間に3月になった。

卒業論文と就職活動の両立について聞かれることもあるが、その2つを両立した覚えも、しようとした覚えもないのでピンとこない。

二兎追って疲れれば両方とも満足の行かないものになる。どちらかを選べば、「私はこれに専念すると決めたのだから」という意思が自分を肯定する。片方が上手くいくと自然ともう片方に臨む活力が湧く。

「就活か卒論か」。これが早押しクイズだったら「Sh」の文字が聞こえたあたりですぐさまボタンを押して「卒論!」と即答するだろう。

卒業論文。大学4年間の集大成であり、またそれを完成させるまでの過程は、それまでの3年間分に匹敵するほどの急成長が見込める最後の期間だ。

大学に行かせてもらえて、図書館があって、「あなたは自分の選んだものを研究すればいい。学びなさい」と言われることは人生にそうない。この、たった1回きりかもしれない。

ことに就職活動は、自分だけの問題では無さすぎる。どんなに素晴らしい経験をしてきてもそれが相手の求めるタイプと違えば取られないし、他に人が決まっていたらこれまた取られない。落ちたとしても実は自分の心当たりほどの理由もなかったりする。「なぜ私じゃだめだったんですか?」と抜き打ちで聞いて、パッと答えられる面接官がどれだけいるだろう。おそらくあれは基本的には減点方式ではなくて、いい人がいればこの人にしようと決め、その結果必然的に落ちる人が発生するだけだ。就活はお見合い、なんて言うが本当にそうだ。例えばあなたにDさんという恋人ができたとして、Aさんから「自分のどこが駄目だったの?」と聞かれても困るはずだ。あなたはDさん以外の人に対していちいちケチつけたわけではなく、単にDさんがいちばんマッチしたから結果それ以外の人とはお付き合いをしないだけだろう。就職活動も、断られた=自分に問題があるわけでは全くない。このように就職活動は、自分のかけた労力と相手が労力はフェアじゃないのだ。そうは言っても多くの人が自分を否定された気分になり心身を削られ、疲労する。自分のどこが悪かったかを探す作業で疲れない人はいないだろう。

けれども卒業論文はどうだろう。これは一切の責任が自分にある。一見重く聞こえるかもしれないが、頑張ったほど、時間をかけたほどいいものになっていく点はむしろ良心的だ。これと一生懸命向き合ったがゆえの疲れは、疲弊ではない。その疲れを、人は達成感と呼ぶ。

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さて、こんな話をしたのは今回のブログで卒業論文ゼミのお話をするからです。

今このブログを読んでいて、春から日本女子大学の日文生!という方に、卒論の、ひいては日文の面白さを伝えられたら幸いです。

日本文学科のゼミは、主に文学の時代区分で分かれています。『万葉集』などの上代、『源氏物語』などの中古…といった具合です。近現代文学ゼミは2つあり、私はそのうち渡部先生ゼミに所属していました。

本学の卒業論文は3年生から始まります。特に渡部ゼミでは3年生の春には研究対象とする作品を決め、前期のうちに指針を発表したりします。

私は宇佐見りんの『推し、燃ゆ』という作品を選びました。2年生の演習で軽く触れたときに、この作品の面白さをもっと深掘れそう!と思ったことがきっかけです。

渡部ゼミでは細かい期限が設けられ、その度に提出資料・発表資料を用意する必要があります。他ゼミはまだ研究作品を決めきっていないところも少なくなく、その中で自分だけ忙しい気がするとハードな気がしてしまいますが、卒論を完成させてから思うことはとにかく、締切が細かく設けられていてよかったということ。そのおかげで研究から長期間離れることはなく、着実に研究に1年間半をかけられたと思っています。

これは私だけでなく同ゼミの多くの人が言っています。「1年半後に最終提出」と言われているものに都度、自分で締切をもうけて研究していくことはそう簡単ではありません。

忙しければ必然的に優先順位を落としてしまい結果、4年生になってから焦るというパターンも容易に想像できますよね。一見忙しくハードなようで、実は4年生になってから一番余裕を持っていたゼミはうちだったのでは?と思っています。

「アリとキリギリス」でいえば間違いなく「アリ」のゼミ。卒業論文の提出を意識する前からコツコツ準備を勧められる環境が整えられた面倒見の良すぎるゼミです。

私が3年生のときも4年生になってからも、ゼミの100分間はとても充実していてあっという間に過ぎさるようなものでした。

その日の担当者が発表をし終えると、絶え間なく手が挙がり(4年生になった私はもはやても挙げず発言し始めていた)、「ここのこういう解釈は、むしろ〇〇と関連づけられると思うのですがどうですか?」と言ったような鋭い質問や提案、「ここを書くのにこういう論文があったので…」「こういう本を読むと…」という参考資料紹介まで活発に意見が飛び交います。

他のゼミに驚かれるのは、100分のうち最初の20~30分間、発表者が発表を終えてから、質疑応答で平気で60分が経過することです。この時間が本当に有意義で、「そういう風にも考えられるのか!」と学んだり、聞かれた質問に答えられなくても「答えられない=もう少しそこを調べた方がいいんだ」という指針の確認にもなります。

それぞれが得意とすることや取っている授業で学んだことなど、自身の守備範囲を共有してゼミにいる時間に卒論がグッと進むのを感じるだけでなく、自分が発表者ではない時も、発表者の作品を読み込んで自分なりの解釈を共有したり、使えそうな先行研究をその場で調べて提案したりします。

そうしているうちに、そこで調べたことが巡り巡って自分の研究にも生かされたりするんです。授業の最後に渡部先生から隙を突く疑問を投げかけられたり、自分の論の甘さや弱点を指摘され、その場でパッと反論できなかったり「おっしゃる通りです…」となることもありますが、ゼミでそうなるからこそ研究に抜け目が少なくなり、完成度が上がっていきます。

甘えかもしれませんが常に超えるべきハードルが提示されると、方向性を見失わずに安心して進むことができて、私にはとても相性の良いゼミでした。

「卒業論文ゼミ」は間違いなく他の授業とは違う!!と感じられる、良い時間です。

このブログの中で卒業論文は4年間の集大成だと言いましたが、本当にそうで。驚くほどに4年間学んできたことが繋がるんですよ!この感動はなんとも形容しがたい。

本を1冊読んでいて、単語から連想される知識や教養、考え方が、本当にこれまでの大学の各授業で学んできたものなんです。例えば空きコマを埋めるためにとったものでも、必修で取ったものでも、他学科の授業でも、それぞれ真剣に受けてきたものが、1冊の研究に驚くほど関係してきて、今まで点だったものが実は樹形図の1部だったんだ!!と、冷水をかけられたほどの衝撃を受けました。

…そんな中で約1年半かけて私は『推し、燃ゆ』の卒業論文を書いたわけです。

小説を論じるってどんなものか想像つきますか?ここで少し私の例を紹介したいと思います。

例えば私は、(卒業論文に直接書いたかは別として)次のような感じで様々な角度からアプローチを行いました。

・「作品に出てくるアイドルのグループの配色は〇〇教のこの色と重なる。そうすると最後の場面をその宗教における救済に当てはめることができるかもしれない」

・「主人公が生きづらさに苦しむ場面で「肉」、〈推し〉の場面には「骨」という単語が頻出している。このキーワードが当てはまる宗教はないか?」

・「主人公の特性と厚生労働省による障害の定義が一致する。この行動は症例なのでは?」

・「作品に一瞬「ピーターパン」が出てくるが、その原作に当たるとここに意外な共通点が見出せる。主人公はピーターパン症候群とも言えるがそこに終着させていいものか?」

・「「〜のような気がする」「推しという人」など、主人公に曖昧・不自然な言葉選びが見られる。主人公本人の自覚もないが、もしかして〈推し〉と〈上野真幸〉は別に存在するのでは?」

……これだけでも伝わるのではないでしょうか。ひとつの小説を論じるのに、哲学、宗教学、医療、法学、原典への知識など、様々な観点が必要になってきます。もちろん私はそれぞれのプロではないのでどれも軽く聞いた事のある程度、もしくは知らないために気になりもしないポイント、だったりします。卒業論文を書くにあたって、こうして様々な切り口から多様な学問を横断して学習するんです。

先行研究ももちろん、対象テクストのものだけでなく、宗教学・哲学・オタク研究など、あらゆる分野で名を馳せる研究者のものを読みあさりました。

「文学部は本の虫。本を読むことばかりで社会に出て役に立たない」──なんて言う人が未だにいるのであれば、自分の無知を恥じていただきたいものです。

文学はその媒体を中心に、あらゆる学問そして世界に螺旋を広げアクセスする学問なのです。「本が好きこれ面白い」なんて言う生ぬるいものではありません。

またもちろんですが、知識を照らし合わせる以前に、文章を読んだ時にそこに違和感を感じたり、これは何かの比喩ではないかと思ったり、文章ひとつからあらゆる可能性を察知し予測することも必要です。日文のハードルをあげるようですが安心していただきたいのは、本学で日文の授業に積極的に臨んでいれば間違いなくその能力がつくということです。

固定観念にとらわれず複数の角度から物事を考えられること、少ない言葉からその奥にある心情を汲み取ること、短時間で難しい文章を理解すること、相手と円滑なコミュニケーションが取れること。

これは、本当に大学に行って身についたものです。能力が身につくことを自覚することってあまりないと思うのですが、私はこれらに関しては実感がありました。

これで身についた能力を完全に把握できる訳ではありませんが笑、一番手っ取り早く確認できるのは大学入試の問題をもう一度解いてみることです。時間をかけていた国語の問題、一瞬で解けます。理解力と速読力が格段に上がっている証拠です。

ちなみに私はこれまで不得意だった数学(数的推理など)もできるようになりました。それまで問題そのものを理解できていなかったということですね。

──このブログを見て皆さんも思ったのではないでしょうか。「ゼミが活発って話があったけど、すごい人ばかりが集まっているのかな?」と。…これが何よりの証拠です。みんな、真剣に4年間学んできたからこのゼミがあるわけです。たとえこのメンバーでも高校3年生の時に集まっていたら、こんなに活発な話し合いはできていなかったと思います。

ブログ部の人の文章を見てもわかる通り、日文の学生は言葉にプライド、思慮深さをもっています。そういう人たちとする会話は本当に心地よく楽しいです。

言葉を上手く扱える人はコミュニケーションもうまいんですよね。本当に誇らしいです。

ただ、うっかりこの日文の会話のテンションに慣れてしまうと、外で会話した時にテンポに滞りを感じてしまうかもしれません笑。これはあながち冗談ではなくて、その証拠に日文の友だちに言うと激しく同意されます。みなさんも入学後半年くらいたったあたりで言ってみてください。「わかる!!」「日文は話が通じやすすぎるのよ!!」と言われると思います。

……

大学には高額な費用がかかります。ですが学びにはそれだけの、それ以上の価値があります。

人はおよそ、小さいものから大きいものまで35000回もの選択を日々、していると言います。その選択が人生を作っているというわけですが、では選択するのに必要なものはなんでしょうか?……言わずもがな思考です。この思考が偏っていては人生も偏るわけです。あるいはその思考に影響を与えかねない対人関係。それも上手くコミュニケーションを取らなければ築けないものです。

そしてそれを磨く学問は何かと言ったら、文学なわけです。

文学は豊かに文化的に生きる術、自覚的に主体的に生きる思考の要であり、文学史にとどまらずあらゆる分野の情報と教養のとめどない源泉です。

4年間の学びは私の人格形成に十分に影響を与えうるものでした。

そしてその私は、親しい仲間にも恵まれ、知的で楽しく幸せな日々を過ごしています。同期の皆さんに推薦いただき、卒業式の総代も努めることになりました。

この現在を作ったのは、紛れもなく本学の日文での学びです。

我が大学生活に一片の悔い無し!!

かつては第1志望ではなかった本学。ここの卒業生になれることに私は誇りをもって卒業します。

(…卒業判定、出るのはこれからですが笑)

ジブリの時間

駅のホームで無心でお菓子を食べているおばさま。片手で袋を持って遠くを見ながらもう一方の手で袋の底を探り、掴んだそれをまた口に運ぶ。そのまま電車に乗り、座席で引き続き食べている。こういうときに感じる、不思議な気分の名前を私は知らない。

まいです、ごきげんよう❀今回はショートバージョンでお送りします。

人生最後かもしれない春休みを過ごしているため、旅と呼ぶには近場ですがおでかけの機会を増やしています。

先日、初めて三鷹の森ジブリ美術館に行ってきました。ジブリが好きなのですが三鷹は家から遠いため行ったことがありませんでした。姉から話を聞いて、楽しそうだなあと思っていたくらい。

三鷹は東京の中でも緑が身近にあってなんだかゆったりと時間が流れているような街でした。そのおかげか走行中のどの車も必ず道を譲ってくれて(本来はそうすべきですが)、気持ちに余裕のある環境は人を優しくするんだなぁと思ったり。

三鷹駅から美術館までは市営バスが出ていて、ジブリのパッケージのバスもあるとのこと。バス停を見ると停まっているバスの黄色い車体に『となりのトトロ』のメイが描いたような絵が描かれていて「やったね!」と言ったそばからドアが閉まり発進していきました。バス停に着いた頃には通常の赤いバスが私たちを迎えに来ました。

平日にもかかわらず人は多く、予約した入場時間になるまで外で並びます。幸い、この日の東京は風が穏やかで、2月と思えない強めの日射しに後頭部が熱くなっていくのを感じていました。

時計の針が11を指し、ようやく入場。

『となりのトトロ』のキャラクターを象ったステンドグラスのドア、『千と千尋の神隠し』の坊の部屋の天井、冷たい石壁には色とりどりのガラスの照明がやんわり光り、階段を降りていくだけで期待感が高まっていきます。

「美術館」と言ってもジブリの絵や資料が飾ってあるのではなく、どちらかと言うと小さなテーマパークのようで、色々な作品が展示されています。空間もジブリのイメージをくずさない、地中海地方を想起させる生成色の壁や陶器の水道、つんできた小さい花と春の眠たい陽射しが似合うような雰囲気です。

窓が描かれていたりヤモリがいるように見える壁や、だんだん小さくなる扉は遊び心満載。外の椅子にもなぜか回せる取っ手がついていたり、「なくても困らないけど気づくと楽しいもの」がたくさん隠れていました。こういうアイディアを出す作業って楽しいだろうなぁと思います。

そのほか映画が完成するまでに使う道具や、絵コンテ、下書きなどの展示はいつまでもその場で見ていられるようなものばかりです。

行ったことのある方はご存知だと思いますが、ここには小さな映画館「土星座」があり、来場者はそのチケットとしてジブリ作品のフィルムが1枚貰えます。

名シーンという訳ではなく、あらゆる場面のワンシーンなので「どの作品のどのシーン?」となるような一瞬の場面のフィルムであることも少なくありません(少なくとも我が家の姉たちはそう)。…なのですが!なんと私は『ハウルの動く城』の名シーン「なぜ?僕はもう守るものができた。君だ。」の場面のフィルムだったんです!!

ソフィとハウルが見つめあってるシーンで、先日ハウルを見返したばかりだったのもあり感激しました。

ランチは「麦わら帽子」という館内のカフェでいただきました。

通常のカフェよりもお高いですが、「美味しい」と何度も声に出してしまうほど絶品でした。特に新発売の「マンマボスが大好きなスープ」は本当に美味しくておすすめです。

ゆっくりお昼を食べ、西日にあたりながら屋外の展示を見て、のんびりのんびり三鷹駅まで歩きました。

中央線のグリーン車を今は無料で利用できるので、贅沢に利用し、たのしかったね〜また行きたいね〜とうつらうつら喋りながら帰ったのでした。

ジブリに触れると心と時の流れが穏やかになる感覚が私はすきです。

今日はこれで、おしまい。

講師何伝

『風姿花伝』。能の大成者、世阿弥によって書かれた秘伝の理論書。そこには彼の高い理想とそこに到達するまでの決して華やかだけでは無い馬鹿真面目な努力、油断も隙もないシビアな現実を芸能者として生き抜く術が、世阿弥の絶妙なワードセンスとともに語られる。

多くの人が「風姿花伝」という単語を日本史の教科書で知り、マーカーを引かされ、そして少なからず一度は紅茶を想起したはずだ(メジャーな紅茶飲料「紅茶花伝」の影響)。そして多くの人が、それ以来その単語を口にしていない。

語尾が「ん」なのでしりとりで用いることも不可、四字熟語のようでも「温故知新」のように会話に登場させることもなし。

私もつい先日までは、その「多くの人」だった。

日本文学科の授業で「古典文学講義」を受講し、そこで『風姿花伝』を読むことになった。能の理論書、という概要だけ聞くと能を知らない人には理解に困難を要するものかと思う。しかし実際手に取ると、それは人生論であり、競争社会を生き抜く実践書であった。「風」「姿」「花」から想起させられる、可憐で美しいものばかりではなかった。

──お客を楽しませるためには飽きさせないことが肝心。そのために手札は多く持っておけ。

──幼いうちはその見た目や声のかわいさで会場は十分満足するので、演技の完成度にこだわり過ぎず自由に舞うのが良い。

──鬼を演じるのに荒々しくすれば恐怖心を与えるだけであり、女人を演じるのにしおらしすぎては見応えがない。常に観客の意外性を突け。

──技術や才能があっても、知識を蓄えたり「能とは何たるか」という思索を繰り返さなくては駄目だ。

──色々言ってはきたが、誰にでも良い波と悪い波がありいつでも調子がいいなんてことはないのだから、そういう時は無理をせず確実なものを適切にこなすがいい。そうして相手が悪い波に入ったときに切り札を見せれば必勝。

などなど、ここに挙げたほんの一部からでも、孤高の世阿弥が貫いた完璧主義の厳しさ、現実を見つめる目と勘の鋭さ、能への愛と不屈の精神が見て取れる。

……湿度のない風が枯れた綿の木を折るのを見ながら、私はこんな風に言葉を尽くしたくなるような何かが自分にはあるだろうかと思案した。

アルバイトの、塾講師の帰り道だった。唇の端と手の甲に微細な亀裂が入っている。それは暗闇にハクビシンらしきものを見つけた瞬間ピッと切れた。その時、気がついた。

塾講師。

この仕事に向き合う自分の姿勢は、能に向き合う世阿弥と近いものがある、と。

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まいです、ごきげんよう❀

近頃、採用されて一年にも満たない年下の塾講師アルバイターの態度が気になる。

とても真面目とは言えない無責任な姿勢に憤りを感じ、日々彼の授業態度を監視し耳を澄ましては、そういう時にとるべき行動を心の中で唱える。

子どもの前で講師を叱るべきではないと思っている。教師に叱られている教師に生徒は信頼感を抱けない。信頼を失えばどんなに言葉巧みに講義をしてもそこに説得力は宿らず、それはすなわち生徒の学業に影響するからだ。自分にとって信頼できない人でも、それを生徒に悟られてはいけない。

不覚にも、塾講師への私のこだわりはその人にむけて言語化されたことにより、いつしか理論書のように積み重なっていたのだった(もちろん『風姿花伝』には遠く及ばないが…)。

そこで今日のブログには「風姿花伝(ふうしかでん)」ならぬ「講師何伝(こうしかでん)」を記したいと思う。書き出すとキリが無くなるだろう。項目は厳選する。

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一、問う。塾講師は学校教員と何が違うのか。

答う。塾講師と学校教員では教えるものが異なる。学校教員は「内容・情報」を教え、塾講師は「その中でわかっていないこと」を自覚させることが使命である。

それが最適かは別として現在の教員は指導要領に則って教材の内容を伝える。多くの学生にとってそれは初めて耳にするものであり、新出情報としてインプットされる。

塾講師が教えることは、その中で「自分が何をわかっていないか」ということと「勉強の仕方」である。ここでは最も重要な前者について詳しく述べる。

塾では基本的に新しい情報は教えない。補習塾ならなおさらである。大抵、本人が学校で「覚えた」と思っていることの大半が「理解」になっていない。学校では最近習ったばかりのことに範囲を限定してテストを行うので、覚えのいい子はいい点数が出てしまい、この単元は理解したと思ってしまう。そして定期テストで成績が上の下くらいの子ほど、受験期の総合問題を目の前に自分のできなさにショックを受けるのである。この時期になると学校の定期テストでは上位にいなかったような人たちが全国模試で優位になったりする。そして彼らは大抵塾に行っているのである。

繰り返すが塾では、分からないことを自覚させることが肝心だ。英語なら「1文に動詞が1つ」「その動詞は時制・主語で変形する」の2点がわかっているかを確認する。

そこにさえ注意すれば解ける問題を10問解かせる。スペルは分からなければ片仮名でいいとしてとりあえず10問答えさせる。ここで丸つけをして答えを教えてしまっては、塾講師では無い。「間違えた」ことを知るのではなく、「解けなかった」ことを分からせなければ意味がないのだ。

回答を1問ずつ音読させ、「この中の動詞はどれか」「この動詞はなぜこの形なのか」の2つだけを聞く。答えられる子は正解しているが、多くの子が答えられない。そこで励ます。「今分からなかった2つのポイントさえ分かれば英語は簡単にできるようになるんだよ!」

ここで答えは教えない。ここで1問1問の正解を教えてしまったら、その子が理解したかの確認ができず、講師側が今後の方針に困ることになる。その日の授業は「1文に動詞は1つ」「動詞は時制と主語で変形する」ということだけを覚えさせ、最後に冒頭で解いたのと同じ問題を解かせる。

ここで重要なのは「満点」ではなく「今日教えたポイントを間違えていないか」だ。これでできていれば「大きいポイントクリアしちゃったね!!」と褒め達成感を与える。そしてもう一度「この文の動詞はどれ?」「なぜこの形にしたの?」と聞く。これが言えたら「理解」できたということだ。

答えられなければ講師は自身の教え方を振り返る必要があるだろう。

二、問う。勉強の仕方を教えると言っても、単語を暗記していなければ解けないものもあると思うが、その対応はどうするのか。

答う。暗記は生徒本人の問題だと思う人もいるがそれは違う。工夫して脳に働きかけるべし。

人は意識せずとも繰り返し見たものを記憶していたりするものである。席替えをした教室に配り物をする時、いちいち座席を覚えようとしなくても毎朝見ていれば自然と覚えてしまうのが、その例だ。

なので問題を出す際には、その子がよく間違える単語や覚えて欲しいものを繰り返し出すのが良い。問題を出したら生徒が解き終えるまで暇をするのではなく、解く様子を見ることも怠ってはいけない。スペルや単語が分からないという理由で手が止まっている場合はすぐに正しいスペルを教える。1度知ればその後はそれと同じ単語が何度も出てくるので覚えようとさせなくても自然と書けるようになるのである。自力で思い出させることも大事だが、スペルや単語に関しては間違ったものを繰り返し書いて覚えてしまうべきではないので、正しいものをすぐに教えそれを繰り返し視界に入れさせることが大事である。

また複数の単語を一気に覚えさせたいときはフラッシュカード形式も良い。とにかくひとつに時間をかけるのではなく、「一瞬見た」を「繰り返す」ことが肝心なので、余裕があればメモ用紙などに書き起こしカードをめくってあげると良い。

別の生徒を見る関係で1人にそこまで付きっきりになれない場合は、数十秒間タイマーをつけて「この時間内にカードを3周フラッシュしてみて」と言うのも良い。交感神経が働くとき記憶力も上がるという脳の性質を活かして短時間で確実に覚えさせるのである。

また、記憶は暗記したときより思い出した時に定着するので、次の授業など忘れかけている時期にその単語の入った問題を出し、思い出させることも大事だ。

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さてさて、項目をどの順に立てようか思案することでブログの更新日を遅延させて閉まっているので、とりあえず今回は最初の2つを紹介したということでしめたいと思います。

皆さんは、「風姿花伝」ならぬ「〇〇伝」、何か書きたいものはありますか?

嘘みたいにふざけた実話

まいです、ごきげんよう❀

大寒の時期に異例のあたたかさ。おかしな冬に私は動物園に行ったのであります。

埼玉県の東武動物公園という動物園で、ホワイトタイガーの赤ちゃんが生まれたのはご存じですか?

生まれた3頭のうち無事育った2頭の子トラの公開「チビとら見学会」が今月から始まりました。

国内の動物園でも珍しいホワイトタイガーで、しかも期間限定の赤ちゃんトラとなれば、見ない理由はありません。日々、赤ちゃんトラが大きくなってしまっていないかSNSで確認しつつ、観に行く日を相方と決めました。

共用のカレンダーに「東武動物公園🍼🐯」と書き込み、チビとらに並ぶ場所や時間を確認し、一日のスケジュールを立て、ホワイトタイガー柄(正確にはダルメシアン柄)のファッションでトラの好感度も上がるはず、万全の準備で当日を迎えた

…はずでした。

ここからが今日のおはなし。

実は今回の旅は、相方の都合で「チビとら」とは別にもう一つ目的がありまして。

「ぐるり森」というカードゲームをみなさんはご存知でしょうか。私は塾講師をしている際に小学2年生の男の子から知ったのですが、なんと、うちの相方が「ぐるり森」「ガチ勢」だったんです。

相方になってからかれこれ4年経ちますがこれは初耳。少ない情報の中で「ぐるり森=小学2年生」という公式を作っていた私は思わず相方を2度見してしまいました。どうやら昔カードを集めていたらしく、東武動物公園に「ぐるり森」があると知ると目をキラキラ輝かせるのでした。

まさかの入園料とは別に「ぐるり森料」が500円かかるのですが、あの眼を曇らせるわけにもいかず「チビとら」と「ぐるり森」が今回の旅の目的となったわけです。

しかし当日。相方はあんなに持ってくると言っていたカードを自宅に忘れてきました。寝坊して慌てて時間に間に合わせてきたら置いてきてしまったという次第。我々はすでに東武動物公園駅でした。

通常参加者はその日ゲーム内でもらったカードで勝負するので問題はありませんが、手持ちの強いカードで戦いたかった相方。入園料と別でお金払うくらいなんだし、今日の目的の一つだったし。

よし、「取りに戻るぞ!!」

最短で帰ってこられるよう、乗り換えは走ることにし、往復の電車を調べつつ相方と共に自宅に向かいました。

最寄り駅に着き13分後の電車に乗るために駆け足で改札を抜けると、真横でピンポーンという音が。

そういえば気づいた時点で引き返したので相方は改札を抜けていませんでした。

「忘れものでも一回改札でてくださいねえ」と駅員のおじいさん。

改札を抜けたすぐそこでせわしなく足踏みしている私。

落ち着こう。機械でピッとやってもらえば一瞬。そこまでのタイムロスにはならない。さあ、機械、起動せよ!!

「チャージが足りません」

よりによって今ああああ!?私は頭を抱え、相方も慌ててチャージ。まあ、慌てている日は「よりによって今!?」が重なるものです。泣きっ面に蜂とはまさにこれのこと。

さあ、時間はあと10分。相方の家は最寄り駅から近いので走れば間に合う。

走って、走って、相方の家の前で待ち、玄関で靴を履く音、相方の母親の「え~さいて~」という声、ドアがガチャッと開き振り返ると、相方の妹でした。

あやうく「あと5分~!」とガラの悪い取り立て屋を見せるところだった…あぶない…。

「大学行ってくるね~」と言う妹ちゃんに「いってらっしゃ~い」と笑顔で手を振り、開いたドアの音に振り返ると今度こそ相方。

「走るぞ!!」

なんとか、予定通り乗車。チビとらの時間まではまだ余裕があるものの、少しでも動物園に長く居た方がお得だろうと思いほっとしている私の横でなにやら相方が楽しそうにしている。

「なんか変わったと思わない?」

相方の目線に従い足元を見ると、そこにはさっきまでとは違う新品の靴。そういえば今朝届いたけど時間なくて履けなかったって言ってたなあ。……って

いやなにちゃっかり履き替えてるんだよ!!!笑

私が家の前で待っていて妹ちゃんと挨拶している間に、相方は披露したがっていた靴に履き替えていたそうな。大抵のことが漫才でいうボケ扱いになる我々なので、今回も「おい~」で笑い飛ばしました。

「ま!これで気兼ねなく動物園楽しめるし!!あらためてしゅっぱーつ!!」

バタバタのスタートもこれでひと安心。

と思いきや。

東武動物公園駅到着。

無事改札を通過。

改札目の前に看板。

ん。

【東武動物公園は本日休園です】

……

「お~いぃぃぃいいい!!!」

我々の嘆きが駅構内に響き渡りました。

それはやがて笑いとなって、しかたなく「休園」の看板前で笑顔の一枚をパシャリ。そこには愛くるしいホワイトタイガーの赤ちゃんも写っていました。

おしまい。

*****

我ながら、下手な作り話のようですが、これが100%ノンフィクションなんですよ。

お恥ずかしながら、あんなにホワイトタイガーの赤ちゃん情報を調べていたにもかかわらず、開園しているかどうか確認していなかった。休園の可能性をいっさい疑わずカレンダーにいれてしまったわけです。

この悲劇の後日談ですが、次の週に予定の合う日があり、すぐリベンジしました。

平日にもかかわらず「チビとら」公開時間は長蛇の列。1時間ほど待って順番が来ると、列に続いて歩きながら10秒ほど眺めることができました。

かわいかった。でもいっしゅん、一瞬すぎるよ……。

さて、れいの「ぐるり森」到着です。

相方は50枚くらい(?)のカードをなんと「ぐるり森」専用のポシェットに入れ(グッズとかも販売されてるんだ…知らなかった…)、一緒に入場。

「ぐるり森」に並ぶのはみな親子。成人同士は私たちだけです。

ルール説明担当のおにいさんが出てきて「このゲームはやったことありますか?」と訊くと、相方は首から下げた分厚いポシェットを自慢げに見せ「任せてください!!」

隣には目を丸くして硬直する私が。

・・・

「ぐるり森」は迷路を辿りながらクイズを解いていき、全問正解すると専用のゲーム機で敵と戦うことができます。もらったコインを入れると一枚カードがランダムで出てきて、それを機会に読み込ませ敵と戦える……とは言っても、ここまでクイズを頑張って解いてきたのに、まさかの最後は丸いボタンをひたすらバンバン叩くやつで勝敗が決まります。それで敵に勝つと、レベルの高いカード(東武動物公園ではホワイトタイガーをデフォルメした「ホワイトガイア」というキャラクター)がもらえるという仕組みです。あれって、本当に叩く回数が多ければ勝てるのかな…?

相方はと言えば、自前のハイレベルカードがあるので、それを読み込ませ敵と戦うことに。

腰をかがめ、両手指先をボタンに添え、いざ真剣に叩きまくる!!

……

不幸なことに、相方が使った機械は壊れかけかボタンの反応が悪く、相方が押した回数の5分の1くらいしか反応していませんでした。

なんだか、格好のつかない私たち。

どうしようもない笑い声が今日も響くのでありました。

エールというよりメール

まいです、ごきげんよう❀本年もよろしくお願いいたします。

今年はへび年ですね、ヘビと言えば!…なんてお話ししようとも思いましたが、自分の中から出てくることはたかが知れていると思うと書けなくなります。

年末年始、みなさんはどのようにお過ごしでしたか?

私はと言えば、最近の年末年始のなかで最も遊んだ(休んだ)時間になりました。

結婚や一人暮らしで実家を出ている姉たちが帰省しにぎやかになった我が家(声が通らないので喉を張り上げる必要があり声が涸れます)はとても楽しくて、勝手に「家族タイム」と名付けている好きな時間です。

カラオケやゲーム、スポッチャなど普段はしないレジャーを詰め込み、姉妹で盛り上がりました。こちらも普段は行かないサーティワンアイスクリームさんで、18個種類という夢のような大人買いをし、二日にわけて家族で分け合いながら食べました。つまり頭をからっぽにし楽しそうなことをとにかくやってみたという感じです。

……卒業論文の締め切りが年末前で、本当によかったです。年明けだったらこれらの予定を断って黙々と作業しているか、もしくはものすごい罪悪感と重圧を感じながら出かけるという、「二兎追うものは」状態になっていたことでしょう。

年始に祖母のうちへ行くと、ここ数年会えていなかった従妹とも会うことができました。そこで、家族と祖母、従妹兄妹という大人数で「ワードウルフ」という対話型のゲームをしました。

ご存じの方も多いと思いますが、このゲームではひとりひとりにある「お題」が伝えられます。ただし、参加者の中で一人だけ違うお題が伝えられている人がいて、そのことは本人も自覚していません。参加者は決められた時間内で自分のお題について話し合いながら、違うお題が配られているであろう人を見抜くことが肝です。話を聞いているうちに自分が「ウルフ(異なるお題を持っている人)」だと気が付けば、そのことを見抜かれないよう話題を合わせたり、自分が「ウルフ」ではないとわかれば誰かがボロを出しそうな絶妙な質問を投げかけたりします。

このゲームが初めての祖母は、「話し合い」の時間がまだ始まっていないのにお題を見た時点で核心的なアクションをしてしまうことが多く茶の間は大盛り上がりでした。「ああ、おばあちゃんこれきらい」と言ったり、「あ~」と言いながら、ペン回しの仕草をしてしまったり (お題がまさに「ペン回し」だった笑)。「おばあちゃんそれあかん!!」とみんなひっくり返って大笑い。

極めつけは、大多数のお題が「Tシャツ」でウルフのお題が「Yシャツ」だった回。

「このメンバーだったら誰が似合うと思う?」という質問に対し、「Tシャツが似合う人かあ…」と祖母がつぶやき、場が一瞬静まりかえったと思うと、「いや、それ答えやん!」とまたまた爆笑。

全員の頭の上に「?」がつき、「いや、今聞こえちゃいけないものを聞いた気が」と心の中がシンクロするのを感じました。親戚で大笑いできるお正月、いいですね。

*****

拝啓

お元気ですか。年末年始は楽しめましたか。

「そんな呑気なこと言ってらんないよ」とお思いなのが、受験生の皆さんでしょう。

受験生のみなさんに私から言いたいことはただひとつ。「大学生活は自分次第でいくらでも楽しくできる」ということです。

周囲にもあまり話したことがありませんが、受験当時の私にとって本学は第一志望校ではありませんでした。コロナ禍でオンライン授業ばかりだった大学1年次は大学に行っている楽しさというものを感じられず、主な原因は今でこそ「対面の機会がなかったから」と納得していますが、当時は第一志望じゃないからだと思ったこともありました。

しかしどうでしょう。2年生になり、対面の機会が増え、愉快な友にめぐまれ、学びの刺激に触れると、大学生活は一気に、これまでの高校生活とは異なる楽しさに溢れたものになったのです。

そこには自分の少しの工夫や努力もあったでしょう。

より多くの人と関われるよう係や委員会に所属したり、知らない人の近くに座り言葉を交わしたり。おもしろいと思うことには挑戦し、購買で買いたいと思ったパンは買い、空きコマは友達とお菓子をかってめいっぱい喋り……。偉いこと、優れたことではなくても、自分の筆で自分の物語の展開をつくっていたことは確かです。「大学1年の時はこうなって、2年のときはこうなって…」ではなく「2年のときはこうして、3年はこうして…」と、展開は自分の意思が選んだものでした。

今では(2年生になった段階で思っていましたが、)この大学に入って、そしてこの大学で学んでよかったと心から思っています。

高校生までの私には確実になかった思考や価値観。そのほとんどが我が大学生活で得たものです。

そのことをとても尊く感じています。

受験生のみなさま。「この大学に入りたい」という目標も良いですが、それ以上に「こんな大学生活を送りたい」「こんな大学生になりたい」という理想を描くことをおすすめします。楽しいかどうかは、「楽しい」と感じる主体、すなわちあなた自身にかかっているからです。

ぜひ、自分がわくわくする「大学生活」や「大学生像」を思い浮かべてください。

大学そのものよりも、そこで過ごす自分自身に期待してください。

自分の身さえあれば、大学生活も、人生だっていくらでも楽しくする余地があります。反対に言えば身がなくては仕方ありません。ですから、試験に「人生や命をかける」ということはなさらないでください。かけるなら「時間」を。

そしていざ受験する大学に入校する際には、「ここでも楽しいんだろうなあ。さあ私とマッチするのはどこかな~??」という心持ちで行ってみてください。

……そんなこと簡単に言うなよってね。でも本当に、試験においても気持ちの余裕は大事ですから、たとえ本心ではそう思えずとも心の中で唱えてみるのは良いかと思います。

最後に、試験当日の気持ちの余裕を保つために、簡単にできることをお伝えしたいと思います。

①試験当日の一週間前からは、試験前日に寝るであろう時間に就寝し当日起きるであろう時間に起床すること。

②手洗いうがい、きちんとした食事を徹底すること。普段食べ慣れないものを、食べないこと。

③試験当日用リュックに持ち物を詰めておいて、極力物を出し入れしないこと。腕時計は時間があっているか確かめたうえで用意してきましょう。

たいしたことないじゃん、と思うことにこそ焦らされたりするものです。ぜひ、万全の準備が済めばあとは根詰めすぎず、余裕をもって過ごしてください。

みなさんの大学生活がみなさんの想像を超えた素敵なものになることを心から願っています。

敬具

年越し前の返り見

銀杏色の風もようやく過ぎ去り、110デニールの隙間を冷やされた空気が昇ってきます。

気力があれば塗る程度のボディクリーム。それは意外にも肌を守っていたようで、これきちんと塗ってればかなりすべすべになるんだろうなあと思いつつかすかに上がった口角から白い息がたよりなく逃げていきました。

今年のクリスマスは平日なので日中は家族不在、相方とクリスマスを過ごすというこだわりもないので、どうやって気分をあげようかと思案しております。

蝋燭にゆらゆらと照らし出されるピエタを眺めていたらいいのでしょうか。

*****

まいです、ごきげんよう❀

趣味で履修しているデザインの授業(被服学科の科目)で、色をつかってイメージを表そうという課題に取り組みました。色紙と台紙が配られ、100分授業一回で作品を創るというなかなかハードなものでした。

「時期的にもクリスマスをテーマにするのもいいですね」

先生がそう言ったので、私はキリスト降誕をテーマにしようと思い、濃紺の天の下、星の光が射し込む馬屋(と分かるほどに再現はできていませんが、、、)で、おくるみに包まれた赤ん坊がいる作品を創りました。パッと見て何に見えるか姉に訊くと「目玉焼き」と即答され「色違うでしょもっと考えて!!」と矛盾したことを言う羽目になったものです。100分のクオリティ、さて善し悪しはわかりません。

今月の頑張りは何と言っても卒業論文の提出です。

今年度の日本文学科は12月17日が締め切りだったのですが、ラストスパート一か月は、本当に落ち着かないもので、睡眠の質が明らかに悪くなっていました(ゼミの先生にすかさず「それはホットハニーミルクでも飲んだ方がいいですね」と的確なアドバイスをいただきました)。

余裕をもって提出したうえ、ありがたいことに普段の課題と提出方法が同じ(pdf)なのに、提出されているかどうかが恐ろしく気になり、強迫観念に駆られて毎日30回くらい提出確認をしてしまいました。

提出済みのファイルをクリックするたびに出る「もう一度ダウンロードしますか?」という表示が、「(本当に…)もう一度ダウウンロードしますか?(…??)」と疑っているようにさえ見えてくるほどの繰り返し。あそこまで自分の行動を信じられなくなったのははじめてでした。

提出したらしたで、「て、提出したんだからダイジョウブダヨ!!成績が悪いとかはあっても受理されないことは…ナイヨ…!」と、冷や汗を背中に感じながら周囲(いや、本当は自分自身)に言い聞かせる夢を見る始末。恐ろしいですね、、、。

提出したとて卒業判定が出るのは3月なのですが、締め切ってしまいもう何もできない!と思うと、急に肩の荷が下りた心地がし、卒論締め切りを境に、目覚まし時計で起きられなくなっています。堕落。

ダイエットでいうリバウンドというか、自分を戒めていた反作用でめちゃめちゃに自分に甘くなっている…。いや、もう2024年いっぱいまではお疲れ自分!!ということでいいかな。これすらも甘いか。

*****

12月はやはり人と集まる機会が多い月でした。

一つはボランティアサークルでの関東地区・研修合宿です。卒論提出直前の15、16日に開催にも関わらず私は係をやっておりなぜか忙しくしておりました。そういえば中学3年生の時も、私立志望で受験を終えた人たちの中に1人混ざって、公立受験を目前に卒業アルバム実行委員をやっていました。理由は「最後に爪跡を残したいから」。変わらないな自分…いいのかこれで……?

合宿の係はだいたい開催の半年前から週2ペースでzoomをし、研修合宿でのコンテンツ(寄付の実感を感じてもらうためのロールプレイングや寄付金額を上げるための戦略、支部を上手く回していくための思考法のレクチャーなど)を考えます。

かつて関東地区の代表をしていた当時は、全国や関東地区のイベントにもよく出て運営側もしていたけれど、大きな団体ならではの内部事情を知って疲弊し辞めてからは、遠出も不自由になったのもあり全く支部外に出ていませんでした。

その私がもう一度だけ頑張ろうと思えたきっかけは、今年の春に約1年ぶりに地区のイベントに参加したことです。全国のメンバーから地区代表期間を労う寄せ書きをいただき、特に会ったことのないのに書いてくれていた人たちからの「活躍している時期のイベントに出ればよかった」「会ってみたかった」という言葉に胸を打たれました。

期待してくれている人たちがいる。お世辞かもしれないけれど、会ってみたかったと言ってくれる見知らぬメンバーがいる。

そう思い、卒業前にもう一度だけ頑張る気が起きました。もちろん、卒業論文との両立がこんなに大変になってしまうとは想像できていませんでしたが(笑)。

遠出の不安に自律神経が乱れるあまり、入眠の速さが自慢のはずの私が3日連続眠れず(合宿は1泊2日でした)帰宅後は完全に魂が抜けていましたが、当の1日半は、行って悔いのない貴重な時間となりました。色んな人と顔を合わせ、名前を呼び、笑い合い、頭を使い…こういう青春は今後、そう簡単に手に入れられるものではないのだろうと思います。思い出の写真はどれも目の下のくまがひどく悔しいものです(笑)。

なにより、この合宿を乗り切ったことが自分の成功体験になり、外でのストレス耐性がすこし回復したことが喜ばしい!少し負荷のあることをした代わりに、得られるものはちゃんとあるんですね。

…………

人と集まる機会はもう一つ。高校時代の音楽部のご飯会がありました。

卒業以来会っていなかったにも関わらず、同期と後輩2代に声をかけるとなんと9割以上が参加すると言い、まさかの40人規模のご飯会(もはや同窓会)になってしまいました。

久々に会う同期とは近況報告だけであっという間に2時間が経過。すでに活躍しているパティシエ、イラストのうまさでゲーム会社に就職を決めた人、声楽活動を続ける人、大学院に進む人、ホテルのフロントになる人、小学校の教員になる人、子育てをしている人、投資に闘志を燃やす人……。ああ、社会はこうやって確実にいる誰かによって支えられているんだなと実感しました。

みんなが何をしていても、これから何をしようとも元気でいてくれたらそれでいいな。みんなが少なくとも旧友に会ってもいいと思うくらいには元気で、2時間は笑顔をたやさないでいられて、良かったな。

難しいことも偉大なこともなくていい。これでいいよね。

と、思うのでした。

1人の帰り道、みんなの眩しい笑顔の焼き付いた眼の奥から得体の知れぬ涙が流れてきて、生きるってなんて大変なんだろうと思って項垂れてしまう自分とも、やはりうまく付き合っていくしかないのです。

今年の1月1日は、これと同様、途方もない命の行く先に涙を流して迎えてしまったのですが、2025年は晴ればれと迎えられるよう、素敵な年末を過ごしたいと思います。

縁あり私のこのブログを最後まで読んでくださった皆さんにも、いつかの縁のためにまだ出会わぬ皆さんにも、すべての人にとって尊い1年が始まりますように。年越しの足取りが少しでも軽やかでありますように。

脱皮

我が家で歌と言えば、姉だった。

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幼稚園。「北風小僧の寒太郎」で高い声が綺麗と言われ喜んだ。

小学校。校長先生が私にソロ歌唱を披露する機会をくれた。

6年生の謝恩会。音楽の先生が2人分のソロパートのある曲を選び一人は私に、もう一人は私と声の合う人をオーディションで選ぶと言った。その年、姉は東京藝術大学の声楽科に受かった。

中学校。合唱部の顧問に進路を訊かれ「絵が好き」といったら苦笑された。顧問からは気まずいほどに贔屓にされていた。先輩や同期の目の前で「みんながあなたについてこられるかしら」と言った。

でもやはり、我が家で歌と言えば姉だった。私が校内の合唱コンクールでソロに選ばれどんなに一生懸命歌っても、姉のいる家で私の歌が褒められることはなかった。姉がいる時間は、決して風呂で歌わなかった。私の歌に、何かを思われるのがいやだった。

高校。音楽部には憧れるような歌唱力の人が複数いた。自分の声が分からなくなり迷った。努力した。明らかにこの3年間でスキルが身についた。進学する大学も初めは音楽の道を考えた。姉と同じ大学を考えた。

自分の歌に自信がついて、ようやく、姉を素直にうまいと思えるようになった。これまで胸の内で密かにあった一方的なライバル心にも似たものが、宛先を見失って忽然と消えた。姉はうまい。私は姉には及ばないがまあまあうまい。それでいい。当たり前だ。こう思えた時、自分は成長したなと感じた。

芸術をやる人ならわかるかもしれない。芸術家にはしばしば「同担拒否」のようなところがある、と思う。芸術は点数を付けられない。だからこそ自分のやっていることこそ魅力的だと強く信じるしかない。そこに自分と似たようなことをする人間が現れると焦る。点数をつけることはできないけれど、できないからこそどうにかして自分とその人の差を測ろうとしてしまう。一番信じたいはずの自分の価値観で無意識のうちに他人を評価したとき、薄々感じる「自分のよりいいじゃん…」という気づきを恐れる。自分の芸術は自分の価値観で生み出すしかないけれど、その自分の価値観が平然と自分を裏切り自然と他者を羨み妬むことを、恐れる。高校時代の美術専攻の友人も言っていた。「同じ美術の子には排他的になっちゃうんだよね」と。

私もそれに近いものだったのだろう。私はいっぱしの芸術家でもないけれど、少なくともプライドがあり、点数が付かないからこそ人からの声で自信をつけたかった。褒められず拗ねる幼児だった。

反抗期めいたそれを卒業し、大学生になると、私は姉のコンサートを手伝うようになった。スライドを用意し当日は歌に合わせて操作を行う。舞台裏で聴きながら素直に姉の歌をいい、と感じ、この空間をもっとよくするために自分もこの役割を全うしようと思った。その頃になって姉も、私がユースで入っている合唱団を聴きに来ては「うまくなったね」と褒めてくれるようになった。姉も、少なからず「同担拒否」めいた感覚を私に抱いていたのかもしれない。

*****

まいです、ごきげんよう❀

なぜ、こんな話をしたのかというと…先日、姉と「二人で」ちょっとしたコンサートに出演したからです。

地元のおじさんがちょっとしたお祭りで「姉妹のコンサート」を企画してくれ(姉は声楽家ですが私は何の肩書で人前で歌うのだ??とは思いましたが)、引き受けたのが始まりです。

姉の声を聴いて育った私は、当然ながら姉と歌声(声質)が似ておりまして、「ハモる」だろうなとは思っていました。しかし冒頭で書いた通りですので、一緒に歌ったことなどもちろんなく、「我が家で歌といったら姉」なので姉のいる前で堂々と歌うなんておこがましいこと(?)はできなかったのであります。家族のカラオケでさえそんなに楽しくなかったですからね、あの頃はやはり子供でした。

ですが、そこから抜け出しようやく一歩大人になれたこのタイミングで、姉と歌う、しかも人前でコンサートとして歌う機会がやってくるとは、運命を感じずにはいられませんでした。

姉と選曲(秋の童謡など)し、いざ初回の合わせ練習となると、、、こっぱずかしくて思うように歌えません。姉から発声を指導してもらいこれは緊張していないで真剣にやらなくちゃと思い、練習。リハーサルでは対等な姿勢で歌うことができました。

当日は地元のお客さんが沢山訪れ、こどももたくさん来ました。まさかの地域の「長」(市区町村 長)も現れたので挨拶をし、私の懐かしい先生方も来てくれ、小さなコンサートは大盛況のもと幕を閉じました。

当日は、ここ最近の自分の中でも最も喉の調子が良くものすごく気持ちよく歌えましたし、姉も私もリハーサルで全然予定していなかったのに当日の雰囲気と手拍子に合わせて踊り(←「東京ブギウギ」を二部で歌ったのです)、会場も一層盛り上がり、高揚感を味わいました。

全曲を歌い切り笑顔で姉とお辞儀をし拍手を浴びた時、歌においては微妙な関係だった二人が歌でつながったと感じました。何とも言えない、感動が胸にこみあげました。なにかから解放され、なにかが軽くなったのです。

*****

生きていれば意識しても無意識のうちにでも、誰かや何かと自分を比較し、劣等感を感じたり優越感に浸ったりすることがありますが、自分と他人、どちらかを選ぼうとするのではなく、どちらも選べるようになりたい。

そう思う今日この頃です。

それでは。

ディズニー・オン・クラシック

ようやく帰り道がひんやりしてきました。最寄り駅に降りた瞬間、久しぶりに鼻先に冷たい空気を感じるとなんだか胸がわくわくします。帰ったら温かいココアでも淹れようと決めて嬉しくなったり。

きゅんと冷える日は決まって夜空も澄んでいて、星を数えながら帰ってみたりするのです。そうしているとお決まりのあのメロディーが頭のなかをめぐります。

♪輝く星に願いをいえば…

*****

まいです、ごきげんよう❀

先日、相方と「ディズニー・オン・クラシック〜魔法の夜の音楽会〜」というものに行ってきました!

普段クラシックを観にいきたいと言わない相方が、ディズニー好きということもあり「これ行きたい」と言ったのがきっかけ。

「いいね行こう!」と言って、私は父に頼んでチケットが当たるキャンペーンに申し込んで貰いました(お金出してチケット買おうとはしないんかい、というツッコミはさておき)。

そしたらなんと!S席当選!!

申し込んだのを忘れた頃に「当たったよー」と父に言われ歓喜しました。当選した日は相方が友人らとディズニーシーに行く次の日。私は疲れてるとこわるいかなと思っていましたが、相方は「ディズニー行くの日曜になりそうだったんだけど、なんとなく土曜にしたんだよー!!これのためだったのかー!!」と奇跡を起こしたかのような感動に湧いていました。

会場は有明アリーナ。昼過ぎ開演だったので早めにむかい“オシャレなビル”の“フードコート”で「すき家」の牛丼を食べました(笑)。私はそれまで牛丼屋さんのお店で牛丼を食べたことがなく、前々から行きたいと言っていたので、思わぬ形で念願が叶いました。タッチパネルで商品を選び、顔を上げた時にはもう自分の商品が出ていたのでたまげました。すぐ用意していただいたものを「え!?これ私のですか?」とわざわざ確認してしまって申し訳なかったです。

いざ開演。

オーケストラにより『ピーターパン』の「右から二番目の星」などのテーマが流れるように演奏されました。

海外のヴォーカリストたちによる有名なナンバーが続いたあと『スター・ウォーズ』のメドレーに。サーチライトが客席を駆け巡り宇宙を思わせる近未来的なメロディーに会場は包まれます。どうしてこの音色は宇宙らしい、と感じるのだろうと不思議です。会場は高揚感で溢れていました。

今回のメインは『リトルマーメイド』だったので、後半は作中の22曲の演奏・歌唱が続きました。作品に出てくる順番で演奏され、背景スクリーンにはその曲の場面のアニメーションが無音で流れています。

「リトルマーメイド」の主人公は姉妹の末っ子で人間の世界に憧れる人魚、アリエル。海を司る王トリトンの娘でありながら、海の掟をことごとく破り人間や人工物との関わりを続けます。ついにアリエルは人間の王子に恋をしますが、そのことを父に酷く咎められたことをきっかけに海を捨て王子を選ぶことを決め、海の魔女アースラと契約し声を譲る代わりに人間の足をもらいます。幸いにも王子と交流することができますが、うまく行きかけていた恋路はアースラに邪魔をされ、海の王である父や海中の民を巻き込む事態に陥ります。最終的にはアースラを倒すと、人間との接触を禁じていた父トリトンが2人の恋を認め、あらためてアリエルに人間の足を与え永遠の別れを惜しみます。

……いやいや、よく考えたらアリエル身勝手すぎる!!!というものが感想です。幼い頃見ていた時は、アリエルの恋を父トリトンが邪魔をしているように思え、アリエルのコレクションを破壊するシーンは「なんてわからず屋なオヤジなんだ!」と思っていました。…が、今見ると、父トリトンは海の治安を守っているだけで、アリエルが迷惑をかけているに過ぎません。アリエルは自分の願いを叶えるためにかなりの犠牲を払っている(そしてその自覚がない)幼い主人公ですが、父トリトンはやはり娘であるアリエルを愛していて、「娘がいなくなると、寂しい」と呟きます。呟いたのも束の間、アリエルに足を与え微笑むトリトン。トリトン!!……私はこのトリトンに感情移入してしまい、22曲が演奏されるなか涙が止まりませんでした。こんなに生意気だけどそれを上回る愛情があることの美しさと悔しさ。タイトルを「トリトン」にして欲しいです。

生演奏、そして海外の歌手による「原語」での歌唱は本当に充実したものでした。

日本語は1音に1文字しか入りませんが、英語は1音に1フレーズ入れることが出来るので、翻訳前後で歌詞の深みが全く異なります。

例えば「リトルマーメイド」のメインテーマである「パートオブユアワールド(Part of your world)」。日本語では「♪世界へ〜」という歌詞に当たる部分が2度ありますが、英語では1度目が「Part of that world(あの世界に入りたい)」、2度目は「Part of your world(あなたの世界に入りたい)」となっています。エリックという男性に恋をしてからは「人間」ではなく「愛する人」の世界に行きたいという想いに変わっているわけです。

さらに作品の最終場面、人間になったアリエルとエリックを、トリトン含む人魚達が海から見送る場面でもこの曲が流れます。この時歌っているのは人魚たちなので「Part of your world(あなたの世界に入りたい)」の「Your」は「アリエル」を指していることになります。

やはり音楽は原曲にこそ最大限の魅力が詰まっているなあと思います。

ぜひ皆さんも日本語で慣れている曲をもとの言語で聞いてみてください✨

それでは。

をかしきもの

朝は風。布団から出て窓を開ければ、季節の香りが頬骨をかすめていく。秋の金木犀まとう風はなんとも贅沢な気分を味わわせてくれる。

昼は水辺。近所に流れる川に鴨が住んでいるのだけれど、その後ろに幼い鴨が連なるのを見ると愛おしい気持ちになる。せきれいの水浴びも、その姿と散る雫の大きさがあまり変わらないことが微笑ましく思える。

夕は入日。予期せず外出することになった日の帰り道に、柿色の鮮やかに輝くのを見たときの感動は言い表すことができない。たとえその日がふるわなくても、それを見れば悩みもどうでもよい気にさせられるのだから不思議なものだ。

夜は静けさ。月明かりを頼りに寝床にたどりつき、枕に頭をゆだねたときのわずかな音が響くのも良い。昼に干された毛布に包まれるときの幸福感はもちろんたまらないが、顔に近づけたときに寝香水がほのかに香るのも良い。

*****

まいです、ごきげんよう❀

日常にある穏やかな幸せを記したいと思ったとき、ふと清少納言の『枕草子』が浮かびました。感じた趣を筆にまかせて表現する。そうしているうちに『枕草子』のオマージュが完成したわけであります。私の場合はもともと「現代語」で書いているのにもかかわらず現代語「訳」のようなニュアンスに。私は中古作品に添えられる、奥ゆかしく少々丁寧すぎるような現代語訳の韻律が好きです。

こうして一日を振り返ると、特別なことはない、なんてことのない日常の幸せに気づかされます。「特別」というのは「新鮮味」に近いところがあり、それに慣れているか、いないかに左右される感覚なんですよね。旅行先で見た山並みをうつくしいと感じても、それを毎日見て生活している人にとってはただのいつもの景色でしかなかったりするわけですし。私にとっての「旅行先」が「地元」の人もいるのです。

・・・

「”幸せいっぱい”ではなかったけれど、けして”不幸”ではなかった。」「1日1回でも心から笑えたら最高に幸せ」

これは私が最近お気に入りの漫画(自己啓発系?)『メンタル強め美女 白川さん』のセリフです。主人公は25歳のOL「白川さん」。日常の幸せに目を向け不要なネガティブをはねのけることでハッピーな生活を送っている「メンタル強め美女」です。日々多様な悩みやストレスとたたかう会社の仲間たちが「白川イズム」に触れることで心が軽くなっていくのですが、効果は読者まで及び人気を博しています(現在6巻発売中)。以前、私の人生のバイブルとして『魔法のプリンセスレッスン』をご紹介しましたが、この「白川さん」はまさにそれを実践しながら生きているような人なので(著者は異なりますが)、私にもヒットしてしまいました。

私たちが見ている世界にはいいこともわるいこともあるけれど、そのどれを受け取るかは自分で決めていい。作品全体を通して「白川さん」はそれを伝えているような気がします。

日々がんばって生きている自分を大切に、かわいがってあげること。慣れないうちは意識することが必要ですがけして心の負担になることではありません。ここで「プリンセスレッスン」や「白川さん」に影響を受けやすい私の、「自分をかわいがる(違和感があれば「いたわる」でもよいです)ためのおすすめアクション」をご紹介したいと思います。(この文言が、各本に載っているというわけではありません。これは私流になっているので、気になる方はぜひ本をお読みになってみてくださいね❀)

~“疲れた日の!”自分をかわいがる(いたわる)おすすめアクション3選~

*お風呂にキャンドルを用意して、ぼうっとする時間を自分にプレゼントしてみる。

……疲れているときほど他人へはもちろん自分への思いやりが減り雑な扱いをしてしまいがちです。自分の失敗を責めたり、何もかもが面倒で嫌になったり…疲労がとれないどころか増していくばかり。そこで、元気な時に「疲れている日専用プレゼント(ご褒美)」を考えておくと、疲れた時の自分を癒すことができます(疲れているその時は、そんなことを考える余裕がないので元気な時に考えるのがおすすめです。未来のつかれた自分のために!笑)。たとえば「コンビニで1つスイーツを買ってあげる」。普段買わないようにしている人ならなおさら嬉しくなりますよね。「疲れた日。だけどケーキが食べれる日!」と、少しハッピーに変換されるかもしれません。 時間のプレゼントでも良いです。見出しの「お風呂でキャンドルをつけてぼうっとする」は個人的なブームですが、他にも「好きな漫画を読む」とか「アニメを1話見る」とかも最高ですよね。……不思議な事に我々は、疲れているときに”無心で”これらのこと(ケーキを食べる、漫画を見るなど)をすると大きな罪悪感を感じたりします。「あー夜なのに甘いもの食べちゃったー」とか「マンガ読んで遅い時間になっちゃったー寝るべきだったのにー」とか。本来なら好きなことをして嬉しいはずなのに罪悪感もセットでくるとなんだか残念です。でもこれが決めた「プレゼント」だとこの後悔を感じずに済みます。人からプレゼント(しかも自分の好きなもの!)を受け取ったときに「あーついもらっちゃったよー」なんて、後悔したりはしませんもんね。

☆ポイント:金銭面など自分の負担にならない範囲で設定すること!

*いつも憂鬱な気分で通っている道を、休日にのんびりと散歩してみる。

……仕事や、学校、アルバイトなど、いつでもルンルンだったら嬉しいですがなかなかそうはいきません。残業続き、寝不足、人間関係、様々なストレスを感じていたり悪い未来を想像しながら歩いていると、だんだんとその景色自体が「負のオーラ」をまとっているような、「嫌なことを連想させる場所」になってきたりします。おそろしや…。そこで、休日にのんびりとその道をお散歩してみます。らく~な格好でもいいし、大好きなお洋服を着てもいいし、スタイルは自由です。五感をつかってのんびり歩いていると、いつもの川に鴨のあかちゃんがいることに気が付いたりカメが甲羅を乾かしているのを見かけたり(この景色は田舎にいる私だけでしょうか…?)、風が気持ちよかったり背中の陽射しが温かかったり金木犀が香ったり…。いつもの景色がマイナスフィルターなしに見れたとき、足取りは自然と軽くなっていきます。「いつもの通り道」に嬉しいポイントが貯まっていると、落ち込んだ気持ちの日も少し気がまぎれたり。

☆ポイント:天気のいい日、気分がよく時間に余裕のある日に行うこと!もちろん雨の日がすきな人はぜひその日に!雨など降るもをかし、ですね。

*良い香りをまとってみる。

……香りは心まで届くので、ハンドクリームや香水は自分が心から気に入ったものを選ぶことがおすすめ。私は「すごく好きな香りだけどちょっと高価なハンドクリーム」と「そこまでピンとは来てないけどお手頃なハンドクリーム」のうち後者を買ったとき、なんだかんだ使い切らなかったり買い替えたりして、「結局前者のハンドクリームを買った方が安く済んだな」という経験をしたことがあるので、香りものに関しては奮発してもいい、と決めています。気分のいい日やわくわくする予定があるときなどに積極的に使っていると、脳の中で「この香り=幸せな気持ち」という”連想ハッピーセット”が完成します。そうして不安な夜、枕元にひとふきすれば、心が静かに慰められてゆくのです。

……いかがだったでしょうか。最近自分のブログが自己啓発に寄っていることに薄々気づいてはいましたが今回もそのような内容をお届けしました!(笑)

幸せな日常を送りたい、ではなく、日常の幸せを受け取りたいと思います。

それでは、ごきげんよう。