ありがたみ

ヘルプマークをつけるようになると、案外つけている人は周りに沢山いることに気がついた。

普通に電車に乗るということがかなり困難になった夏だった。どれだけ楽しい予定でも、移動が付きまとうことで不安になりいくつも予定をあきらめ断った。カレンダーから予定を消している時、もうこの心配をしなくていいんだと心の底から安堵に包まれた。しかしそれは束の間、ひとつ無くなったところで先に続くさまざまな可能性を探し気づけば自ら不安になりにいっていた。電車に長く乗るのはいやなくせに降りたり乗れなかったりをするから、結果的に普通よりも明らかに時間をかけてしまう。がんばってもだめな日は遅刻かドタキャンになる。なんとかして帰る。身体が言うことを聞かなくなった日は、友だちとのご飯の予定で外出している相方を呼びつけた。電車に乗り、私の痙攣する手を相方が優しく握ってくれた瞬間、涙が溢れた。こんなに優しい人の楽しみを奪うことなしに帰ることが出来ない自分が哀しかった。生きることと迷惑をかけることの違いが曖昧になった。

電車をきっかけにそれは癖になり、電車に限らず異常な緊張や不安感に落ち着かない日々が続いた。本当に集中力が落ちた。考えたくないことなのに不必要に考えようとする頭が働き、会話に集中したり心から大笑いしたりできなくなった。当たり前のようにあった感情の動きは、動く余裕があったからこそなのだと知った。相方に会いたいのに外出すると異常に疲れる。外出する前から余計な緊張をし、特技とも言えるほど寝つきが良かったのに眠れなくなる。出かけたいと思えなくなった。履修登録で授業を一コマ入れるたびに電車を想像した。これが電車に乗る回数と比例すると思うととりたいという気持ちに委ねることはできなかった。

今年の夏休みは思えばそんな一面があった。でも一面だと思える今がある。それが全てではなかった。悪いことは記憶に残りやすいけれど、悪いことが目立つ分だけそのまわりには些細な幸せが溢れている証拠だと思う。

今は落ち着いてきている。天気や気分や環境に左右されるし、心配もするけれど、それでも日常の喜びをとりこぼしてしまわないように、今まで以上に自分を大切にすることにしている。

*****

まいです、ごきげんよう❀

暗い始まりに読んでいる方々の不安を煽ってしまっていたらすみません。このように自分のこの状態を言語化できるようになったのは、今、その状態から少し距離を取れているということの良い証拠です。自分の不安を吐露したいのではなく、そこから今ラクになれていることをお伝えし、同じような悩みを抱えている方の一助になれたらと思っています。

最近自分の中で唱える言葉は「未来の自分に任せよう」です。

不安はやはり癖になってしまうもので、不安ではない時に何故か自ら怖い可能性を考えてしまい結局それが原因となって悪いことが実現してしまうという負のサイクルに陥りがちです。

脳に関する本を読んだらしい姉から、悪いことを想像しそうになったら太ももを叩くといいらしいと聞きやってみました。確かにハッと我にかえるのに良さそうです。脳は単純なので外からの刺激が来るとそっちを優先してしまうとか。

このような物理的な刺激とは別に、「未来の自分に任せよう」と思うことにします。「この不安は、本当にそうなったときに、その時の(つまり未来の)自分が考えることなんだから今の自分が考える必要は無い!」と。人に仕事を任せるように、ある意味で無責任になることで不安という荷物をおろします。「考えちゃだめ」と思っても、そう思うほど考えてしまうし、変な話ですが「不安を考えていないと不安」という謎の沼に落ちていることも少なくないので、「考えない」ではなく「後で考える」とすることは、案外自分を落ち着かせるのに良いです。「これはあとで考えればいいや」「今の自分のやることじゃないな」と思っているうちに不安そのものがどこかへ行きます。後期が始まってひとりで大学の最寄り駅まで来られたときは涙が出るくらい嬉しくなりました。やった!やったよ!!!普通にこられたー!と。

なるべく丁寧な気持ち作りをし、疲れやすい心身を癒すために、最近は朝晩欠かさずヨガをやっています。ヨガ自体、呼吸を広げたり体をリラックスさせるのに良いし、ルーティンがあることで丁寧な生活を送れている心地になります。百均で買った小さいノートを自己流にデコレーションし持ち歩き、その日にあった些細ないいことをメモしたりもし始めました(これは以前もやっていたことがあるのですが)。メモのために自然といいことを探すようになるので、不安材料を集めてしまうより日々がずっと明るくハッピーになります。

自分の心を自分でケアする。休むことが必要ならそれでいい。休むことに必要以上に罪悪感を感じにいかない。自分をゆるし、的確な判断をできた自分を褒める。あまり深く考えない、泣きたかったら泣く。

人生短くはないから、その中で病気になったりものすごい転機が訪れたり色んな変化がある。今の私も、自分の生きてきた年数でみたら、こんな調子なのはほんのわずか、なんとも思ってこなかった平凡な幸せの方がずっと長いし、これからもそうしていける時間がある。こうなって良かったとまでは思えないし思う必要はないけれど、人の優しさを知れたし、辛い気持ちはどんどん口に出していいこと、素直に泣くと驚くほど気持ちが軽くなることなど、価値のある気づきを得られたのはとてもお手柄だと思います。人間、焦るほど視野が狭くなり孤独感に苛まれるけど、勇気をだして視野を広げてみると、優しい世界に気がついて、それだけで心が軽くなったりする。何かあってもそういう人たちが周りにいるんだから大丈夫と、無条件に安心できたりします。

色んなことがありますよね。これからも。そうすると「良かった時に戻りたい」なんて思ったりするけれど「戻る」ことが一番の幸せとは限らない。不安なことと対峙したら、それを忌避するのではなくて、それと上手く向き合いながら“新しい幸せな生き方”を見つけたらいいと思います。それを楽しめたら素敵ですよね。

大学最後の後期が始まりましたが、ちゃんと、楽しいです。行き帰りの疲労感はもちろんゼロにはなりませんが、そんなの程度が違うだけで今までだってそうだったはず。疲労の程度が変わったなら、回復の程度も変えてあげて自分を幸せにする選択肢を選ぶ。

最近は夜も眠れるし、学校も、友達と会うのも楽しみです。電車も目的地までまっすぐ行けることが増えたしそうでなかったとしても自分を責めなくなりました。楽しいことを心から楽しいと思うことも出来ます。先日姉と行った「大地に耳をすます」という美術館の企画展示もとても楽しめました。感動する余裕が心に生まれていました。

*****

誰よりも身近な存在である自分を、誰よりも自分が大切にしてあげようと思える今日この頃です。

これを読んでくださったあなたの今日が明日が、素敵な日になりますように。

ごきげんよう。

秋来ぬと

ついこの前まで熱い眼差しを見せていた太陽ですが、気がつけば首をかしげてどこか物憂げな表情をするようになりました。橙が灯るカフェで頬ずえをついている誰かの横顔みたい。

そんな寂しくも焦がれる秋の予感は夕暮れ時にふと姿をあらわします。

たとえば小さな枯葉が道路に脈を引っかけるおと。

たとえばコオロギが羽を擦り合わせるおと。

たとえば空に薄く伸ばされた雲のいろ。

こう思うと秋は“擦れる”季節です。枯葉やコオロギや雲が、うっすらと自分を引きずって擦れ、黄色や藍や白のかすれた跡を残していく。

それは夏への憧憬か。それとも手放す勇気を持てず握られている小さな思いか。

枯葉や私のどこか後ろ髪引かれる思いが、淡い輪郭のまま、秋の帰り道に長い長い影を伸ばしている。

私の引きずるものは何色をしているんだろう。

*****

まいです、ごきげんよう❀

「普段どんなことを考えているの?」「大学の友だちや相方とはどんな話をするの?」

そんな質問をされるといつも返答に困ります。先日コーチングの得意なある方とお茶をした時もこの手の質問を受けました。

ええっと、地球を出て火星に行く話、あの人はこういうシチュエーションになったら何をしてそうとか、、友人同士で互いの人生のやたら具体的な設定を考えたりとか!あとは…

あれ、もしかすると私(たち)って普段現実的な話をしていないのではとそこで気が付きました。世の女子大生はどんな会話をするんだろうねという疑問はこれまでの友人たちとの会話で幾度と出たものの解決された試しはなく、私たちはおしゃれなカフェとかじゃなくてドリンクバーで楽しく一生を終えるとか、腰が痛いだの足が冷えるだので盛り上がれるとか、お茶で酔えるとかすぐさまそういう話題(?)に移ってどのコミュニティよりも騒いでいました。そんな環境にいたので自分が「普通」な会話をしていないことをさほど気に留めていませんでしたが、先日ようやく、冒頭のような質問をされた時の答え方がわかりました。

「いつも空想上の話をしています。」 

自分はめっちゃその会話入りたいけど傍から見たらさぞかしきもいんだろうね、と質問相手は笑い、続けてこう言いました。

「あなたは現実の世界に居すぎると悲しみに溺れてしまうから、空想の世界に行くんだね」

あぁそうか。確かにそうかもしれない。

想像あるいは空想の世界には無制限の自由と幸福があるような気もする。

「翼になりたい」という定番の合唱曲の歌詞に歌っていた当時も激しく共感していたけど今の方がずっと奥深くに染みてくる気がします。

近頃の自分はなんだかつまらない。そう思っていたのですが、そういえばそのような想像の世界で生きる時間が短くなっていたように思います。

この大空に翼を広げて飛んでいきたいよ 悲しみのない自由な空へ翼はためかせゆきたい

鳩とスカート

終戦の日に描いた絵は、そういえば白い鳩だった。一切の意図はなかったが、昨年描きかけていた俯く女を塗りつぶした私はそこに、1羽の白い鳩と五つの碧い朝顔を描いていた。

この絵がいつ完成するのかは分からない。

*****

まいです、ごきげんよう❀

昨年、相方の祖母の家で『サマーウォーズ』の「小磯健二」ポジションを経験してきた私は2度目の小磯健二になる予定だったのですが、天候もあり今年は断念しました。

旅行のために直前まで予定を空けていた3日間が丸ごと空白になったので、久しぶりにキャンバスに絵を描いてみたり、映画を観たりと我ながら優雅に過ごしました。

新しい試みとして服飾への挑戦があります。幼い頃から面倒を見てもらっている近所のおばさんがスカートを手作りしていると聞いたので、母と一緒に習いに行くことにしたのです。

お店に布を買いに行き、理想のスカートを思い浮かべながら生地を選びました。華やかな色から落ち着いたもの、大きな模様からシンプルなデザインまで魅力的な生地の数々がずらりと並んでいる様は胸をときめかせました。

表現活動が趣味の私はその手段として服飾も選択肢に入れていました。作ってみたい衣装をデザインし、実現はそう遠くないと胸を高鳴らせていましたが、いざスカート作りを始めてみると「そう簡単にはいかない」の連続でした。

そういえば小学生の家庭科でのエプロン作りも、パーツが繋がればいいという考えから雑に完成させていた私。とにかく完成系を早く見たいので丁寧さより何より早さを重視していた私。エプロンの縫い目にまざまざと表れる私の性格…。

忘れていましたが私はコツコツ丁寧に作業することが苦手です。あわよくば衣装も作りたいなどという考えは洋裁の難しさを良く知らないからこそ出たのでした。こういう考え、漢文とかで説教されそうだな…。

おばさんが「簡単よ」という作業に悲鳴をあげ、指サックを指輪のようにはめていたら使い方が違うと笑われ、前のめりになりすぎてミシンにおでこをぶつけ…洋裁の道、なんて険しいんだ。

…完成はもうすぐです。あとチャックをつけてウエストをどうにかするだけ、、。完成したら自慢しようと思うので私に会う可能性のある方はご承知おきください。裾はよく見ないでください。とりあえず、すごいねと言っていただけますと幸いです。

*****

オマケ

千葉を断念したため相方との宿泊行事は今のところ横浜のみとなったわけですが、いざ文字に起こそうとするとさて何を書いたらいいのやら、特別何かをしていないことに気がつきました。

あちこちの移動は疲れてしまうので宿で遊べるようプール付きのホテルにしたのですが、何時でも遊べるのかと思いきや完全Web予約制で一日ひと枠までとのこと。昼と夜と入る予定が夜のみになってしまいました。プールとはいえ遊泳禁止。覚悟はしていましたが周囲は写真を撮るために来たグループばかり、ポーズを決めて順番に撮りあっている彼らの波に完全に乗れない我々は、水中でゆらゆらしている足の指をかわいいとか言いながら撮っているほかありませんでした。本当に絵で描くワカメみたいな形になって見えるんですよ足の指1本1本が。これが意外とかわいくて…って、このくらいにしておきます。波に乗れないことは十分わかりました。

ホームページから受けた印象より狭いこともあって、ゆったりお喋りをする予定は自然と消滅しました。全身で泳ぐでもなく写真で盛り上がるでもない我々は地味に寒くなり他よりひと足早く上がりました。旅の思い出は残念ながら以上です。

8月も後半ですが、大学生はあと1ヶ月近く夏休みがあるようなもの。さあてどう過ごしましょうか。考えているうちに終わってしまわないよう気をつけないとですね。

小雨女の夏休み

雨女、じゃなくて小雨女。

自己紹介でこれを言わなかったらそろそろ罪になりそうです。

*****

まいです、ごきげんよう❀

今回は家族旅行のお話をしたいと思います。

冒頭の通り、私はどうやら小雨を振らせる力を宿しており(友人らからは「空の神様を怒らせる何かを捨てたのでは」と言われている)、この夏もやはり私が楽しみにしている用事は小雨が降っております。

前回のブログで軽くお話しした大学の友人たちとのお泊り会でもちらほらと雨粒が顔にあたり、傘をさすかささないか何とも言えない天気を招いてしまいました。

そして先日の家族旅行先、那須でも。

しかし今回は小雨ではなく雷雨だったので……私は関係なかった、としてよろしいですかね。二日間とも昼頃大雨が降り外に出られないほどでしたが、幸いどちらも昼食時だったので助かりました。

山の中の雷ってそれ自体がこだましているようで、平野で聞くのとはまったく違う音がします。響くような広がるような鈍く重たい音色が木々に吸収されながら、耳もとに届いてきます。

家族で行くのは7年ぶりとなる栃木県那須旅行。自然が多くてとても好きなのですが、土地柄、車なしではまわることが難しいためこれまで自主的に行くことはありませんでした。お盆前で道が空いていることもあり埼玉の自宅から二時間弱でついてしまいました。気になる方も多いと思うので聞かれる前にお答えしますが、車で観たのは「インサイドヘッド1」です。

今回の旅の大きな目的は、藤城清治美術館とモンキーワールドパークに行くことでした。順に紹介するので那須旅行に興味のある方はぜひ参考にしてみてください。

藤城清治美術館。これはその名の通り藤城清治さんが得意とする多くの影絵が展示されている常設の美術館です。子ども心や想像力を育みながら、100歳になってもなお愛と平和への祈りを込め作品を手掛けている方です。影絵の作品が光を放つボードにくっついた状態で展示されており、どれも輝きを放つ生きた作品として眼に焼き付いていきました。どれだけ近づいても切り貼りした紙の集まりとは到底思えない繊細さと色合いに、一枚一枚、息を呑むほどの感動を覚えました。

大きな作品は奥行きのある鏡で四方を囲まれ、下には水を張った状態で展示されています。鏡や水に作品が映り込み、平面では表せない円環的な世界観に浸ることが出来ました。

藤城清治さんの代表的なモチーフである「小人」と「ネコ」。あらゆる作品で時に大胆に時にひそやかに現れ、いたずらな笑みをうかべて愉快に踊っています。笑い声や鼻歌が聴こえてきそうな躍動感。これもやはり作品を写真で見るのでは伝わらない「光」の効果だと思います。

興味深かったのは、各作品についている解説です。一般的な美術館では解説者により客観的な情報や鑑賞がかかれていますが、この美術館はほとんどが藤城清治さん本人によるものでした。そして、「この作品は僕のお気に入り」「一番好き」「好きな作品なのでもう一度作り直した」といったコメントが沢山あるんです。「一番」という言葉をを何度見たかしらんと思いました。

自分の作品を本当にこよなく愛し、家族のように愛のある眼差しで見つめることができる。本当に素敵だと思いました。生みの親である自分がまず誰よりもこの作品を大切に想い、それを惜し気なく出すことが出来る。創造するうえで何よりも大切で、そしてそう容易ではないことだと思います。

藤城清治美術館。森に囲まれた、憩いの場です。

*****

続いてモンキーワールドパーク……那須と言ったらサファリパークじゃないの?と思われるかもしれませんが私が好きなのはもっぱらこちらです。

なんてったってリスザルやワオキツネザル、エリマキキツネザルなどと触れ合うことができるんです。

リスザルがたくさんいる部屋に入ると、たちまち肩や頭に飛び乗られ、思わずしゃがんだ膝の上でおなかを見せてころころ転がられたりします。みんな小さくて目が大きくてまさにベビーシェマ、という感じですがその中でも親指をしゃぶっている本当のベイビーもいたりして……猫カフェとかで癒される方は好きだと思います。おさるさんは遊んでもらえるのが嬉しそうなので愛くるしくてなかなか離れられません。

7年前に行ったときの写真の私は、手が最大限に伸びきっていてどうやら怯えていたようですが、今年の写真は眉がハの字になってはいるもののかなりおさるさんと触れ合えていました。大満足です。

モンキーパークではおさるさんのほかに象に会うこともできます。というか乗ることができるんです。

今回の旅では最後にサービスとして象使いさんが象を傍に連れてきてくれ、まさにtrunk、長い鼻を触ることができました。うるんだ優しい瞳と大きくぶ厚い皮膚に触れると、私の知らないいつかの大自然、皮膚のしわに刻まれた歴史が脳内に飛び込んでくる心地がしました。

何事も、観るのも良いけれど、やはり可能であれば触れることがとても大切ですね。

それまで完全に外界であったものが自分の感覚の内に染み込むことで、どこか他人事ではない気になります。まったく異なることを知りながら、遠いどこかで我々は繋がっている、という気さえしてくるのです。生きているものの体温がなにかを喚起させるのかもしれません。

*****

小雨女の那須旅行。

雨が降っても緑が美しいのが自然の良いところです。

この夏、どこかお出かけを考えている方はぜひ訪れてみてくださいな。

それでは。

ホットスプリング・サマー

アロマ香る玄関に足を踏み入れ床の冷たさを感じながら歩いていくと、徐々にいぐさの香りに変わっていく。

ここの休憩処でくつろぐ自分の幸福感を想像しながらのれんをくぐる。温かい空気が今度は独特な香りを運んでくる。

温泉。

心身に癒しを与える憩いの場。

今月はたまたま、この2週間で二度訪れました。温泉=一種の行事だと思ってるくらいの私にとってはこの頻度は「多い」に値します。

まいです、ごきげんよう❀

先日、相方を連れて地元の温泉宿で1日まったりしてきました。それぞれひとりの時間を楽しんだのち、足湯に集合しコーヒー牛乳を片手に脱力しました。

温泉はどちらかと言うと苦手と言っていた相方は私より早く出てくるに違いないと思っていたところ、出てきていなかったので温泉内で何かあったのではと本気で心配しました。

そんなことつゆも知らず、ほかほかと出てきた相方は、どうやら温泉が思いのほか良かったらしく、ご満悦の様子でした。

足湯でぼーっと飛んでいくセミを見たりして、「今年のセミは小さいねえ」「暑いからかねえ」なんて言ってる私たちは若者のエネルギーを全て温泉に溶けだしてしまったかのようでした。確実に減っていくコーヒー牛乳だけが、私たちの若さを保証していました。

*****

2回目の温泉は、大学の友人たちとでした。全く異なる場所ですが、レンタルスペースでお泊まり会を計画した我々は近くの温泉施設に向かいました(レジャースポットとかで遊ぶほどの体力は我々にありませんでした)。

そこは時間制限が厳重で、1時間プランの場合1分でもすぎたらフリータイムの値段にまで跳ね上がるという説明を受けたので大慌て。「急いでこ!!」「ほぼオリンピックだね!」と盛り上がっていると(主に私)着替え室でもう少し静かにするようにと注意を受け、大変恥ずかしい思いをしました。

盛り上がりすぎで注意されるなんて、修学旅行の小学生の部屋か!!と思わずツッコミたくもなりますが、つっこんでしまっては否定する術もなく困るのでやめておきましょう。

幸い1時間以内に出てくることはでき、その中でもお風呂は全種類網羅することができました。

この旅行については話せばキリがないのですが、このブログ部にも旅行メンバーが数人いるのでそのうちの誰か1人くらいは書いてくれるのではと思います。

私から言えるのは

・オリンピック(しかも録画放送)を見て遅刻する人がいた

・餃子を作るパーティーという名目だったのに既製品を買った

・次の日は徒歩圏内のカラオケに行き食パンをかじった

あたりでしょうか。この旅行のポイントを簡潔にまとめると以上の3点かなと思います。

あつーいあつーい夏ですので、温泉など、適度に癒しの予定を用意しておくことをおすすめします。

それでは𑁍

逸らさない夏

薄暗い室内に突如オレンジ色の光線が点滅する。人型のシルエットにも光が当たり、拍手。友人の顔が、笑った顔がそこにある。

人生の大半、歌とともに歩んでいる私の周りにはもちろん、その道を選び極めている人たちがいる。しかしその友人は違った。

音楽は好きだろうけど、高校時代「同業者」ではなかった。大学も音楽系にいったわけではない。なのに、今彼女は、肩から下げたギターに手を添えマイクの前で歌っている。口ずさんでいる。彼女の気持ちや人生や魂を込めている。

弾き語りというジャンルでゆくゆくは名を馳せたいと、小さなライブ会場でファンを確かなものにしていく彼女は美しかった。

運動神経がよく活発で、でも実は感傷的で人情深い彼女のことだから、「表現」の世界へ行ったのは何も意外なことではなかった。

しかしなんだろう、とても嬉しい、すごいよ、と拍手を送った分だけ私は悲しくなった。

すごいねと言った分だけ、拍手をした分だけ、私の「観客」としての輪郭が明確になっていく。私は観客Aとして自立していく。もはや「同業者」などと言えない。

私は本当は何がしたいのか。

私は何か大事なものを見て見ぬふりをしていた気がする。

声楽家の姉を持つ我が家で「歌」と言ったら姉だった。なんとなく「キャラ被り」はなしだった。小学校や中学校の音楽の先生に声楽の道を勧められ、将来そちらの道に行きたくなった時のためにピアノを習ってみるのはどうかと母が提案してくれ、私はどう思っていたのか、今はもう思い出せない。ただ「音楽は趣味だから学ぶことはない」と言っていた。それが正解のような気もした。

絵画も好きだった。イラストは描いても絵の具を使う人は我が家にいなかった。「まいちゃんは絵」だった。どちらかと言えば絵を学ぶ可能性はあると思った。でも高校は人文学に進んだ。

高校には美術系の学生もいて、「絵を学んでいる」人たちはやっぱり美味かった。油絵の具で汚れたジャージを着て、行事の前日には黒板アートを描いていた。中学校までは自分が担っていた「絵を描く役割」は必要なくなった。上手い人たちはいくらでもいた。

同時に私は安心した。自分が人文系であることに安堵した。

「人文系なのに絵を描ける」というレッテルにすがった。今だってそうだ。歌の世界に本当に飛び込めば私は特別ではないのだろう。「歌手じゃないのに上手い」という評価は歌手じゃないからもらえるものだ。

でも、それでいいのだろうか。

私はたまらなくずるい気がする。

いつも自分が優位に立てるフィールドを選びそこに居座っているだけ。ここを一歩飛び出せば大海原、面舵いっぱい切れる自信など無く、出航しない船に乗り潮騒に耳をすませている。向こうの景色は私には関係のないことにする。

*****

まいです、ごきげんよう❀

薄々感じていながらもなんとなく目を逸らしてきたことって誰しもあると思います。

私はまさにそうで。何をやっても基本的に楽しめるのが私の長所ではあるのですが、楽しさや充実感でごまかして本当にやりたいことを後回しにしてきた気がします。

弾き語りでライブなどに出はじめた友人は、私の書く詩で歌を書きたいと言ってくれました。

そのとき私は想像しました。

その子に詩をあげればその子はきっと賞賛してくれる。でもその喜びはどのくらい私を満たすかな。

私の作品を他人にあげてしまって、そのとき私はどう感じるのかな。

想像すると、いや、私も歌う身だし音楽をつけるなら自分がいいなと思いました。

早速自分の詩に曲を付けていきました。正確には詩ではなく「歌詞」を作るところから。

これを歌ってミュージックビデオを撮って、世に出してみようかな。楽しそうだな。いや、バックミュージックつけられないな。私、楽器演奏できないんだった…

最近では楽器がなくても曲を作れるアプリなどがあるのでまずは自力で試してみようかなと思います。なんでも1人でやっているとどんどん排他的になってしまうから、大丈夫かしらと懸念はありつつですが。

*****

この夏は、自分の好きなことに正直に向き合い時間を使おうと思います。もちろん就職活動も必要ですが、自分の好きなことや本当にやりたいことを考えることは少なくとも私の人生においてとてつもなく重要な気がしていて。自然と就職活動にもプラスの影響があるとさえ思っています。

いつからか、諦めるくせがついていました。コロナからかな?それとも、元から?適度に脱力しているのが格好良い気がしてしまうのは遅れてきた思春期でしょうか。そういえばなんで思春期って春を思うと書くのだろう。綺麗な意味だといいけれど、どうかな。私は常に流動的であるはずの人の感情を「過程時期」で区切ることが好きではありません。「思春期だからこういうのは嫌がる」「反抗期だから生意気」……って、順序が逆じゃないですか?そもそも「○○期」という言葉は日常で用いるものなのかなと疑問に思います。

話が逸れました。

この夏は自分のやりたいことに向き合うことが目標!

「やりたいこと」でありながら、いざそれをやるというのは、私にとってはかなり難しいことな気がします……が、ぜひここにおいては話を逸らさず、生きてみようと思います。

耳に小さなスピーカーをさしこめば、桃源郷のせせらぎに浸かることが出来る。

澄んだ空気が体を透明にして、静かに溶けていく。音色に染まりながら溶けていく。

*****

まいです、ごきげんよう❀

近頃、心の中が穏やかです。

不得意な電車、最近はイヤホンをはめてヒーリングミュージックを聴いています。自律神経を整えるとか脳の疲れが取れるとか効能をタイトルにしたリラックスミュージックたち。プラシーボ効果で生きてきたといっても過言では無い私にはとても効果がありました。これまでイヤホンをする習慣は全くありませんでしたが、涼しい車内でハープの音色や鳥のさえずりを聴いていると不思議と心に凪が訪れ、力んだ身体が許されていきます。

電車に乗っているのはわたしの肉体で、わたしはどこか遠くの森の木漏れ日にいるんだ。

想像力というもののおかげでわたしは今日も息をしています。

*****

ズボラな私が日焼け止めを塗るようになったらそれは「サマーウォーズ」の時期になったということです。

細田守監督の「サマーウォーズ」は私にとって夏の風物詩になっています。

今年は15周年ということで、つい先日、姉と共に「サマーウォーズ」のフィルムコンサートに行ってきました。

ここで言うフィルムコンサートとは、映画を上映しながら劇中の曲をその場で生演奏するという形態のコンサートです。

とても贅沢な時間でした。有名なナンバーが演奏された瞬間、テンションボルテージがぐわっと上がり思わず姉と顔を合わせてにやにやしてしまいます。コンサートだけれどサマーウォーズに限ってはタオルをぶんぶん回したい感じです笑

盛り上がる曲はもちろんですが、良かったのはそれら以外のBGMを生演奏で聴けたことでした。ストーリーに合わせて緊張が高まった瞬間、指揮者がふっと手を上げ弓が動き出すと、そうかここでこんな曲が流れてたんだと新たな感動に出会いました。

映画の本編終了後、物語の山場である「こいこい」のシーン(観たことのない方すみません)が再度映され、観客たちでライトを灯して「なつき」を励まします。エンドロールに自分の名前を流してもらえるという特典もありました。

大満足のコンサート、様々な映画とコラボレーションしているのでまた行きたいと思います。みなさんもぜひ。その時は会場のどこかで私がにやにやしているかもしれません。

耳元のハープが奏でる音のおかげか視界がだんだんと細くなってきました。暗号を書いては困るのでここら辺で目を閉じたいと思います。

それでは。

今日が幸せになる魔法

雨で気分が落ち込むこともあるこの頃。
身の回りでは喉だけやられる風邪が流行しており、私も1週間ほど悩まされました。

今日は、そんな日をごきげんな日にできるとっておきの魔法の話をしたいと思います。

*****

まいです、ごきげんよう❀
私が中学生の時から大事にしているマイバイブルのお話です。

それは上原愛加さんという方の書いた『世界一!愛されて幸せになる魔法のプリンセスレッスン』という可愛いタイトルの本(自己啓発系)です。
薄ピンクを基調とした表紙に、ブランコにのるちいさなプリンセスのイラストが描かれたそのデザインは中学生の私の心をつかむに十分でした。

その本は当時の私なりに悩んでいたものから私を解放し幸せを教えてくれました。
「プリンセスなんて子どもじみたこと」とは一度も思いません。今も“お守り”として常に持ち歩いているこの本ですが、「子どもじみたこと」が書かれているのではなく「子どもでもわかるような言葉で」大事なことが沢山書かれているんです。

むしろいくらか成長した今の方が、たしかに…そうだなぁ…と胸に染みるのを感じます。先日この本を久しぶりに読んだ時は突如こころの窓が開け放たれたような衝撃が走りました。とたんに私はもっと楽に幸せになっていいんだという優しい風が流れ込んできました。

その本には幸せになるための「魔法」が順を追っていくつか書かれているのですが、このブログではこの本の中で大前提となる“自分の扱い方”をご紹介します。

それは、自分を「プリンセス」として大切に扱うということです。
なにもドレスを着たり、おほほうふふと言うわけではありません。


たとえば、こんな話。

たまたま取ったお皿が欠けていたとき「自分だからまあいっか」と妥協したりはしませんか?もしそれが「大切な人にだったら」、「こっちの綺麗な方使って」なんて言ってとっさにお皿を変えるんじゃないでしょうか。


そう、私たちには無意識のうちに「自分だからこの程度でいい」と自分を無下に扱う癖がついていたんです。
そこを変えていくのが「自分をプリンセスとして扱う」ということです。プリンセスがしっくりこなければ「推し」でも身近な大切なあの人、でもかまいません。なにかを選択する時、自分に言葉をかけてあげるとき、あらゆるときにその「大切な人にだったらどうする?」と考えてそれを実行する。そうすることで自分のことを自分で満たすことができるのです。

この本の表紙に書かれている「ときめきの風に運ばれてここからすべてがうまくいく!」という文言。一見うさんくさいと思ってしまうかもしれませんが案外そんなこともないんです(というかまったくそんなことないんです)。

自分で自分を満たす幸せにするということは単純なようで実はできていないこと。

それができるとまず自分の心身の調子が良くなり、そうなると自然といい人が集まり(幸せそうな人いたらなんか話しかけたくなりますよね)、欲しかった情報もおのずと集まりやすくなる。自分が幸せでいると、周りの人の気持ちも穏やかになり(逆に自分がいらいらしてると自然と伝染しますよね)、結果的に物事がうまく運ぶようになる。こういうのって全然あることだと思うんです。


ストレスやミスやなんか上手くいかないマイナスな気持ちは、実はもともとのマイナスな気持ちが招いている、その悪循環に陥っている…なんてこともあるわけで、案外、幸せで心に余裕がもてていたら大したことでもなかったりするものです。
自分の気持ち次第で、ひとつの出来事がプラスにもマイナスにもなりうるなら、絶対プラスの方がいいですよね。

大変な時、つらい時こそ自分を幸せにするということが、実は全ての歯車を動かすカギだったりします。


天気の曇りがちな六月、気持ちの落ち込むこともありますがぜひ、そんな自分を「プリンセス」だと思って、その人にしてあげるように存分に甘やかして幸せにしてあげてください。甘いもの買ってあげようとかカラオケ行こうとか疲れてるしぐっすり寝ちゃおうとか。

罪悪感なんて感じることはありません。だって、あなたが幸せになってめいわくな思いをする人なんていませんから。
むしろあなたの幸せが広がり、その人にとっても思いもよらない良い日になるかもしれません。

今日という日は自分次第でいくらでも素敵な日になる。

そんな希望を込めて、今日のブログをしめますね。では。

新たな一年

ぽつりぽつり

雨が降る

遠くの踏切の音が

雨粒ひとつぶひとつぶを震わせる

街が響く

人々は気付かぬうちに

ひとつの音楽に集約されていく

私の涙も集約されていく

*****

まいです、ごきげんよう❀

関東地方はまだ梅雨入りしていないようですが、天気予報には傘マークが多くなってきています。

私の地元ではカタツムリの出没頻度が増え、川沿いの一本道は(カタツムリの方がサッと避けてくれることは無いので)気をつけながら歩いています。

そんな梅雨前の5月は私の誕生月でもあります。

今年のはじまり──2023年から2024年になる瞬間──は不思議と涙が止まらなかったのですがなんと今年は誕生日になる瞬間もそうでした。普遍的な時の流れがわざわざ区切られ生まれた、昨日と今日、旧と新の狭間にいるときのなんとも言えない空虚さに自分という1人の人間の生の存続を感じずにはいられないのです。それは昨日にも今日にも属せない孤独感のほか何者でもありません。

人はなぜ生まれてきたのか。

多くの人が、正解のないその問と向き合ったことがあるはずです。その答えは都度変わるかもしれないしそもそも答えを出すことに特別意味がないかもしれません。ですが、

「お誕生日おめでとう」

私はその言葉をくれる人の眼に、私の生まれてきた意味を実感しました。人は、愛し合うために生まれてきたのだと思いました。

人は誰かの愛に触れた時、感情が言葉になるよりも先に安堵し幸せになります。愛を失った時、絶望し孤独になります。まわりからも自分自身からも愛がなくては健やかに生きていくことはできません。

「人は愛し合うために生まれてきた」と言うひとつの答えはマザーテレサや瀬戸内寂聴さんが出したものでもあります。これを正解とする必要は全くもってありませんが、お金や物質や条件ではないところに幸せの本質がある、そう思えることで私はだれかを愛しまた誰かの愛を受け取ることができているのだと思います。

誕生日のことを「私の生まれた日」と表しますがこの「生まれた」は自発ではなくて受け身なのではないかとふと思いました。

確かに私が生まれてきたことそしてここまで生きてきたことは紛れもなく素晴らしいことです。ですが、私は母に「産まれた」のであって、そうなると誕生日という日は「母が私を産んだ日」だと思った方が良いという気がしてきました。誰にとっても、ではありません。私にとっては、ということです。

来年の誕生日からは、私から周りの人に感謝を伝える日にしたいと思います。私のことは私自身が祝えばいいんです。ここまで生きてきたねと。

日付ではありません。私の気持ちに、新しい一年が始まったようです。

乱反射する休日

乱反射する光を感じて顔を上げると、窓の向こうに海が見える。

海だよ!

喜びを分かち合うべくいそいで振り返ると、そこには水影の中で心地よさそうに眠る顔があった。

仕方ない。写真に残してあとでレポートしてやろう。

終点までお世話になった電車を降りると、からっとした日差しが涼しい風とともにやってきた。

反射的に下を向くと排水溝から湯気が昇っている。

向こうに海があるけれどこっちのは熱いよ。過去に誰かがそう言ったのだろうか、そう思いつつ駅に書かれた「熱海」の文字にカメラを向けた。

*****

まいです、ごきげんよう❀

今年のゴールデンウィーク、皆さんはどのようにお過ごしでしたか。私は相方とともに熱海旅行に行ってまいりました。

休暇というと、ショッピングやオリエンタルランドなど商業施設を訪れる人も多いと思います。私はと言えば、商業施設より自然が多いところでお散歩とか美味しい空気を吸うだとか、そういった時間を過ごしたくなります。

今回の旅もそうでした。

一日目は、かつての3大別荘でのちに文豪たちに愛された宿となった「起雲閣」を訪れました。

閑静な和館の窓には「大正硝子」という特殊なガラスがはめられ、外の庭園がまるで水面の中にあるかのように少しゆらめいてみえます。

ヨーロッパの山荘風の洋間もあり、扉に施された緻密な彫刻やステンドグラスが和館とはまた異なる雰囲気を醸し出し、魅了されます。

私も相方も各部屋の展示物や説明書きをじっくり見るので、気づけば同じタイミングで来館・来室したはずの人たちがいなくなり、貸切状態で観覧することができました。

起雲閣を出て来宮神社を参拝し、樹齢2000年を超えるという大楠(おおくす)を見に行きました。この大きな楠を見上げてきた人がいったいどれほどいるのでしょう。私はおよそ20年、この楠はおよそ2000年を生きている。そしてこの先の2000年をも生きていくのかもしれません。

*****

私たちが熱海を訪れた日はなんと「熱海サンビーチ」で海上花火大会が行われる日でした。

ホテルでお風呂と夕食を済ませ、ホテルの浴衣に下駄を履き、サンビーチまで歩きました。

打ち上げ花火、とても好きなのですが、近頃の花火大会はどこも混雑してとても行けないので、豪華な花火を見るのはとても久しぶりでした。

いつもは手元の四角い光ばかり見ている大勢の人が、みんな、空を仰ぎ見ている。

穂を引く大きな花火に無意識の感嘆が漏れる。

なんて、素晴らしいんだろう。

日常では感じることのない大きな音の衝撃に体は少し震えているけれど、恐さにも似た美しさがそこにあるのです。

火の神が空に弾けている。叫んでいる。美しい。恐れ多い。小刻みに震える眼の縁出涙も震えている。隣には相方がいる。

幸せだ。私は幸せだ。

そのありがたみに頭が下がる思いで、最後の花火を見届けました。

*****

ゴールデンウィーク。何がゴールデンなのか、休暇の長さなのか、お金の回りなのか分からないけれど、長くなくてもお金をたくさん使わなくても、もっと単純なことで満たせる心が我々の中にあるのかもしれません。

そうしたらいつだって、輝かしい日になるのかも。そうなのかも知れません。