たったひとかきで…

ご無沙汰しております、みちるです。

夏休みに入ってから何をする気もおきないんです。

「それは夏休み前から同じでは?」

全然違います!
夏休み前のみちるは活力にあふれ、やる気十分、野心もみなぎり、飛ぶ鳥を落とす勢いで、新進気鋭の……
とにかく夏が悪いんだもんね。ここ数日何にもしてないけど私悪くないし。

こういうメンタリティに一瞬辿り着いても、すぐに「まあ、全部冗談ですけどね…実際みちるが全部悪いので…」になってしまう。助けてください。

そろそろ本格的に書き物へ取り掛からなければいけない時期なのだから、取り掛からなければいけないのだ。最近よく思う、何かをするときにはその行為の原因を出来るだけ遡らないようにする方が集中できる。行為の直近の原因についてはとうに知っていることが殆どだし、わざわざそれらを遡って義務感(笑)や必要以上の重圧(笑)に駆られるくらいなら、初めからそういったことは意識の外へ追い出してやる、ないし隅に置いておいてやるのが自分にとって賢いやり方なのでは?と思うようになった。
それに、書くことの原因について言うのであればそれは「書く身体」というあり方であり、そこから向うへは遡及できないことを私は知っている。
そろそろ集中しよう。

 

(間奏)

 

学部二年の後期から、成績が振るわなくなった。
原因は簡単、授業に出ていないから。
履修しますよと手続きした以上、授業へ出ないのは失礼なのではないかと思うが、そう思うがゆえに、第一回目の講義を休んでしまうとそれ以降はもう出られなくなる。なんか私の知らない間にペアワークとかしてるし、知らない資料が沢山配られているし、なんとなく講義室内で学生の座る座席が決まっていたりする。
高、中、小学生、いつの時期もそうだった。私の欠席日を狙い撃ちするように、その日に授業のグループが出来ていたり、演劇会の役割分担がされていたり、委員がきまっていたりする。そして後になって

「あなたはどのグループに入る?」
「あなたはあなたは誰と組む?」
「どの役をやる?」
「どれに投票する?」

選ぶよう促される。いくつもの眼がこちらを見ている。

「もう皆二人組になっているから、あなたは〇〇グループに入れてもらいなさい」
「なら、この役だけは3人でやってもらいましょう」

今だけだ。今だけ耐えれば、皆忘れていく。そう言い聞かせても無理なものは無理なので、教室の扉の前に数秒立ちはだかったのち、諦める。
小、中学のときには「義務教育の”義務”にはこういう苦しみも含まれているんだ…」と思いながら諦めることを諦めたり、そもそも今ほどそういったことを気にしていなかった気がする。高校に入ると上のような事態が起きたときには保健室へ行くと決めていたし、今は喫茶店や本屋やたばこ屋へ逃げ込んでいる。

教職課程の授業を受ける際、自分のような生徒を目にしたら私はどうするだろうと考える。
私がとろうとしているのは保健室の先生の資格ではなく、国語教員の資格なのだ。文学に、誰かを救う仕事が可能になるのはどんな時だろう。人を騙したり、屈辱的な扱いを受けたり施したりすることは避けたいと思うけれど、果たしてどうなのだろう。
コミュニケーション、と一口にいってもそれらはおぞましいほどの拡がりをもっていて、似たような経験を誰もがしているかと思えばそうでもなかったりする。

逃げる方法を考える前に、困る事態に陥らないための策を講じる方が賢いはずだけど、今から怠惰を治療するのにどれほどの何を賭ければよいのだろうか。私がこの黒く大きな怠惰の飼い主であるかぎり、仮に教員の資格を手にしたとして、それは何の役にも立たなくなるのではないか。

「生きるのに意味なんてないんですから、やりやすいようにやればよいし、そのための足場を常に用意するのがスマートですよ」

頭の中で師はこう言う。実際こう言われたこともあるかも知れなかった。

私が教員を志したのは師のような人間になりたかったからだけれど、誰かのようになるとか何かになるとか、そういった文句がいかに陳腐で不可能で、何の値打ちもなければ素敵な香りも発していないことは私もわかっているのです。勿論、そうした無意味さを認識する必要がない人々は沢山いて、そういう皆さんの夢を笑ったり貶したりするわけではないけれど。しかしもう、”なる”を信じることに自分は真剣にならないだろうとわかった。

今は、勉強がしたいかもしれないから、そのために素敵な成績が必要。
勉強が好きかと言われれば、好きとは断言できないかも知れない。しかし勉強以外の何を自分は好きなのだろうと考えたとき、生きることやそれを助けることはあまり好きでないといえる。しかし勉強も自分にとって相対的に好きであると断じられれば、それだけで私の実存の可能性を増大させ得るものとなってしまう――そのような矛盾を解消したいと思うほど、この問題に熱心じゃないから、この先はありません。
とにかく勉強するためには、授業に出て勉強する必要がある。そもそもこの仕組みが面白すぎるのですが、今期・来期が勝負だと思うと緊張しますね。
こうしていると、「やらなければならないこと」を忘れそうになってしまう。そちらの方も、休暇中に仕上げることにする。

私自身が良くないものなので、内省的になってしまうのは勿論よくない。
人との関わりが希薄な分、こちら側にまなざしを向けてしまう。そう思って接客の必要なアルバイトをしているけれど、今度は関わりの出来た人間に嫌われてしまったかも知れない、いいや絶対に嫌われているという確信に苛まれ、天井から虫が降ってくる虚妄に駆られるので眠れなくなった。翌日の活動に響くので睡眠導入剤を飲むこともできない。私大の実家暮らしでただでさえ負担をかけているというのに、病院へ通う申し出もできない。「みんな多かれ少なかれ、苦しいと思って生きているんだから」と言われてから、両親には笑顔で人生の楽しさをアピールしている。遅刻は出来ないのに、定刻に何かを始めることはもっとできない。人を頼ることを覚えられない、頼ったことでできた恩を返すのは面倒だから。
あとは書くことだけだ。たったひと書きすること、これも出来なくなったら、どこか崇高さを感得できる場所へ行こうと思います。

あなたは知らなかったかもしれませんが、私にとって夏休みはこういう事柄がずっと続く期間なのです。自分の絵を描く合間合間に生活をするのです。
その絵が小説になったり、正三角形になったり、立体的な山々となって次の嵐を用意したりするのです。

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

宇宙飛行士と火

ご無沙汰しております、みちるです。

本を出版したいんです。

「君の手元に、世に出して恥ずかしくないものが一つでもあるのかい」

今から拵えるんですよ、当たり前でしょう。
初めての単行本のタイトルはどうしようか。そう考えるときはいつも、どこかの高名な人類の伝記にかのプロメテウスの名が付されていることを思い出してしまう。自分の―あるいは自分が生きているうちに作られる―本にそんな題を付けることを想像して身震いするか、せめて人と茶を囲む際の笑いの種にと思うばかりです。こういう妄想は自意識をすり減らすのが常だから、だれか優しい人と共有しなくてはもちません。ね、あなたもそう思いますでしょう……。

 

(間奏)

 

何かを記述するとき、形式と内容とが調和している心地よさは誰もが知っているものなのでしょうか。だとすればそれは直観的に?或る種の概念として?
また、すべての物事を、すべての瞬間を、すべての細やかな変化を……あらゆる対象を、世界を直観的に認識する、そんな存在がこちらを見据えて隣にじっと佇んでいるとしたら。我々はどのように振舞うことを―即ちどのように認識されることを望むでしょうか。

「わたしは、自分のことばのすべてが―自分の身振りのすべてが―彼の執念ぶかい記憶のなかで生き続けるにちがいないと思った。無用な動作をふやすことへの恐れで、わたしの動きはにぶらされた。」―J.L.ボルヘス「記憶の人、フネス」

フネスは徹底した認識主体として在り、かえって思考には長けていないと書かれている。私もまた語り手のように、或る一つの形で”直観的細部”を認識されるとき(即ちそれは常に、であるけれども)身の震える恐れを感じるのかもしれない。およそ、不可能なことを―一般的な概念のもとに認識されたいと願うのかも知れない。ただ、自分の知らないことについて容易く信用することの困難を我々は知っているはずで、ならばフネスがプラトン的なものを”一切”排して認識し、あまねく記憶を持ち続けることを我々は疑うだろう。先のテクストにおいて語り手がフネスを信頼したのは、その能力がラテン語の学習において当人に証明されたためであったが、我々はどうだろう。フネスを、或いは何者かを如何にして信じ、何を返すのでしょうか。
プロメテウスの火は贓品ですから、それは「蜆」の外套であり、いつかの3億円でもあり、いつかどこかで誰かの財布から抜かれた一万円札であり、「あなたの心」かもしれない。獲得したものの優越を知る頃には、きっと私たち夜光虫になれる。あなたにはどうか、軽やかな足取りで――それがもう沖へ至ったあとであっても。そこには、盗まれる快楽というものもあるかも知れません。

 

期末試験とレポートが大変なことになっておりますので、今回はこのあたりで失礼致します。
すべてが終わったら、あなたと認識したい私でした。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

ただもの

ご無沙汰しております、みちるです。

恋をしているんです。

「恋人だ」

そう、恋人。僕の大切な恋人も、数千人の前で振り子のように心を揺らして歌う彼も、陽射しに透けてしまいそうなほど白い肌の文学少女も、嗚咽するほど愛しい鯨の歌を詠む長い前髪の作家も、あなたも。私の恋する人に私は恋をしています。だからずっとそわついて落ち着かないし、体の中を放出先のないエネルギーが駆け巡っている。恋は拍動で、エネルギーで、躁鬱だ。

 

(間奏)

 

生まれて死んでいく我々は、二拍子のリズムを刻むのが基本だと思う。リズムは、生のリズムである。
しかし【連続】というものは確かにあって、それは間々、我々のリズムを覆してゆく。発明者曰く、【連続】の持続はきわめて一時的なものらしい。しかし三拍子の生を一度知った者のなかで、リズムが覆されたという実感は生き続けるのではなのか。そして【連続】は、男女の性的・肉体的な繋がりの場においてのみ感じられるのではない。だからこそ言える、だからこそ歌えるのだ。何をってそりゃあ、私たちのエロティシズムと三拍子の生を。

「人が生まれて死ぬって、それは二拍子だと思います」

そう思うなら君はそう生きるがよろしいさ。
はっきり言って、三拍子を志向しない者が―【連続】を志向しない者がーそこに到達することはない。さらに言えば、そもそもリズムを意識しない者には拍子も必要がない。ワルツを踊りたいと思う者だけが私の歌に共鳴して実際に踊りだせば、それが最も良い。

「人が生まれて死ぬって、それは二拍子だと思います」

歌についてそう言われたとき、一瞬だけとても恐ろしくなった。泣き出したくなった。我々は基本的に二拍子の生を生きるのだということは理論としても実感としても理解していたはずだったけれど、”皆の意見”のように聞こえてしまったその言葉は、一瞬で受け止めるにはあまりに悲哀に満ちていて、バケツ一杯に嘔吐しそうだった。

 

とは書いてみているけれど、実際そうではなかったということの方を反省しなければいけない。
私は私のこの歌があまりに好きで、リアリズムの裏返しとしての幻想があまりに愛おしくて心中穏やかでなかったのだ。誰の評がどうだって、この歌を自分以外の人間に見せて聴かせる快楽に勝てるわけがなかった。それに自分の食材を調理をしてもらおうというとき、料理人の手腕を気にしていちいち小言を言ってくる調達主は不格好でしょう。すっと渡してやる潔さがクールだ。

人間というものに恋してから、文学をせではいられなくなった。いくつか書くなり詠むなりしてみた作品はきっとまだ洗練されていないものばかりで、書かなくても良いことばかり、伝えなくても良いことばかり書き起こしてある気がする。きっと世に出したところで誰からも素朴に「いいね」とは思ってもらえないだろうとわかっている。しかし始めてしまったものは仕方なし、モテなくても書かなくては、死ぬし。モテなくてもいいわけでは”全然ない”のだけど。

尊厳とやらを守れそうな範囲でがんばります。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

エロスの走性

ご無沙汰しております、みちるです。

 

金の使い方が下手なんです。

「給料日から数日でもうこんなことに……何をしたらこうも減るのかしらん」

 

入ってきたと思った矢先ひと息に引き出すものだから、多分銀行口座の残高が片方に寄っちゃってる。
自分でも何をどうしたら4日で既に入った給料が半分になっているのかよくわかっていないけれど、おそらく私は金を持つのがあまり好きでない。
嘘を吐けよ……とお思いのあなたもよく考えてみてほしい。金を使うことと金を持つこと、豊かになることと金持ちになること、それぞれの間には大きな溝がある。私はといえば、金を使うことに関しては人並みに好きらしいがしかし金を持ってはいられないのだと思います。
筆者は実家暮らしであるから、たとえ財布の中身がカードとレシートだけになったとしてもすぐさま死ぬということはなさそう。しかしこのままではジュースの一本、それよりも煙草の一箱も買えないとなってくると「いよいよだ……」と血の気が引いてくることもなくはない。なくはないのだけど、そういった局面になってきてからようやく熟考して金を使うようになる。


わかりますか、こんなのはいけません。困ってしまいます。逆を考えれば、懐に余裕がある時にはとくによく検討することなく金を使ってしまうということでしょう。でしょうって、何を他人事みたいに……。何に惹かれるか、何を必要とするかは私の懐具合というよりむしろ私自身によって決定されているため、実際月の何時頃だろうと大きく時期を逸しなければ欲するものはあまり変わらないような気がします。ただそうした対象は常に自分の持っている数字と照らして、つまりいったんは検討して交換されるべきものだというのが通説ですから、金を持っている(といったって当社比である、相対的にはとくに金持ちでも何でもないんだから)タイミングの私は端的に浅慮であるといえる。皆さんからすれば”浅い”んですね。

因みに今月はここからシーシャ台の購入を検討しているので、当初ひっそり目標にしていた貯金はどうやら達成できそうにありません……。定期代を親から受け取っているのにもかかわらず毎月毎月給料日前の「冷や汗期」をしのぐのに使ってしまうので、給料日ちょうどに通学定期を買い、そして残りは書籍代や嗜好品代やタクシー代となる。しかも貯金って金を持つことですから、アタシ、苦手なのよね。なんとなく給料日前に残高が潤っていると「使い切らなくちゃ」という気分になる。
(これでギャンブルとかやっていたら歩く厄災なのですが、時間がないのでやっていません。ギリギリセーフですね。)

 

――お前、頭悪いのか――

 

あなた、私のお財布を管理してください。そういう人を募集しているので。

 

(間奏)

 

エロティシズムと死の肉薄は明白に示されていながら、死がエロティシズムの極点でないこともまた同様の程度によく示されている。
といった話から始めようとしたけれど、自分の名前がない短歌の詠草をみていろいろのことがいやになってしまった。どうしても失敗できない発表を控えてその準備が終わっておらず、加えて或る事情のためその日の歌会は犠牲にした。なので当然今回の詠草に自分の歌はない。
自分で休んでおいて何を言うかと思われるだろうが、これは大変に不思議な感じがする。というのも、これがずっと整うべく待たれてきた土台である気がしてならないのである。自分の歌が組み込まれた詠草――勿論詠草に限らない、例えば自分の記事が載った機関誌や、自分のレポートが載った研究冊子などオムニバスめいたものは特に――は既に疑似的なセックスの場であり、そこに対して我々はもはや鑑賞者となる以上の立場を持たないし持とうとも思わない。しかし自分の歌が載っていない――載ることも可能であったと考えられるのに、である――詠草を目の前にしたとき、一瞬だけ、私は合理性の彼岸へ立った。同時にすべて目的論的に規定されていると考えられているものはその素体を鮮明に暴き出され、普段想像も出来ないような事柄が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
崇高なものの多くは”不調和”と思われながらにして実際は”調和”であったためにその恐ろしさと崇高さとを喪失し、奴隷の少年や乱れ髪の娼婦や靴磨きの男は艶めいてその脳や子宮や心臓や種々の肉器官を私に「召し上がれ」と言って差し出してくれた。愛する人は色々の方法で死んでは生き返り、生きては死に返り、その度私はありもしなさそうな死の後をまたしても鮮明に想像してすすり泣いた。鼻血が出て、何度も胃をひっくり返した。この手紙は、そうしたあとの文章なのです。死なないでいて、と言えずに、誰のものとも知れないで赤い断面を見せつける手首の写真で平素の拍動を取り戻した。

見えなかったものが見えるのは、調和が見えるのは、無限なものの一部を我々が分有するためである。しかしそうであれば我々の有限性をルドヴィコ法の治療のように目を開かせて見せつけるエロティシズムの機能は克服されるべきものなのだろうか。否、そうでないことはここまでの記述で明らかであるはずでしょう。エロティシズムはその機能が働くという事実によって我々の有限性を証明しながら、その機能によって我々が無限なものの一部を腹の奥にしまっていることをわからせる。有限と無限、不調和と調和、そうした両義性に一瞬でも我々を辿り着かせるのがエロティシズムである。

 

[少し先取りしすぎだったみたいだけど……君らの子供にはウケる。]

先取りなんかじゃあないけどね。もう幾世紀も前から真理は見えていたんだから。

 

そのとき私は詠草と一つになりたかった。
他なるものへの走性。性的なものやそうでなさそうなもの、崇高なものや卑近なもの、聖なるものや俗なもの、自分を感じさせるものや感じさせないもの、への走性。エロティシズムは我々の走性から生じている――さしずめそれはサヴァランが指摘した生殖感覚と、あとは一般的に言われる屈曲走性との関わりのうちにある事柄ではなかろうか。
私は詠草のうちに自分がみとめられないという観測結果からエロティシズムを感得したのであり、詠草それ自体から感得したとは中々胸を張って言いづらい部分がある。だからなんだという話なんですけれども。ああまた気持ち悪くなってきた。どうやら心身は養いと休みによって確実に回復するものでもないらしいと最近よくわからされる、養いや休みにもストレスがあり、負い目がある。疚しさの大部分はもう克服しかけていると言えるけれど、世界に疚しさがある限りその連関のうちにある私もまたその疚しさの影響を受けずにはいられないからもうたくさんなんだ。

 

君たちのせいですよ、そんなに「責任」という言葉が好きなら、責任もって私を愛しなさい。私に引き上げられなさい。私を生かしてみせなさい。そんなこともできないからいつまで経っても手紙が届かないんじゃないの。
ねえ、どうなの。
みちる。
答えて――

 
届いているの。
誤魔化さないで聴いてね、次のナンバーは――
 

 

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

ダーウィンとあめりかの葡萄

ご無沙汰しております、みちるです。

 

やりたいことはないんです。

「行きたい場所も食べたいものも将来の夢も、今の君にはないみたいだ」

左様。
書きたいものだって、わかりませんよ?
どうであれ、”こんな”なのは今だけだと信じたい。何もかも能動的に欲せないのであれば知性の敗北である。必要と芸術、などといって或る事柄について分類することさえナンセンスになってしまう。

存在することはこの身体と精神とが働くことであり、あるいは認識することである――だからきっとこんなに存在が恥ずかしい。
”ダサさ”に敏感なのは自分がなりたくないものばかりが世界に横溢しているからで、しかし自分がどうであるかはわからない。困ったものです。

あなただけは輝いていてほしい。お願いですから。
今なら、これと似た願いを私に向けた人の思いがわかるのではないか。改善論・第三の認識において。

 

(間奏)

 

私には生活に対する真剣さが足りないらしい。
いやあ、これでもマジメに物事へ取り組んでいるはずですが?無い眼鏡を押し上げて私は言う。

学問に対して、あるいは或る種の探求に対して私が真剣であることは、自他共に認める事柄であるらしい。しかし生活に対してはといえば先述の通り ”がんばりましょう”なのだそう。おそらくそうしたことを言ってくる人々は私の遅刻癖(Lv.99)や食事・睡眠の”省略”、ごみの捨て方のテキトーさ、クッキングスキルの欠如などについてそれを矯正してくれようとしているのだろうと思う、いいやそう思わずにはよく知らない学生や教授やその他周辺からのお叱りに耐えられない。

「そんなんじゃ就職できないよ」とか「学生の内は良いかもしれないけどね」などと言われるたびに、皆と同じタイミングで就職するつもりはなし、余計なお世話だぜと思ったことは幾度もあった(皆、愛してるけど)。
しかし今やそんなことを言っている場合でもない、そもそも成績が危うい(気がする)のです。とりわけこの時期はコンディションが妥当になることが殆ど有り得ないことを経験的に知っているから、冷や汗も脂汗も出まくりかきまくりである。勿論勉強したくないのではない、むしろそれは喜んでしたい。しかし授業へは中々行けない、これは床から起き上がれないことに加え「直前の授業の面子で議論していたら次の授業が半分終っていた」みたいなことが原因だったりもする。そう、道徳的な人々からすれば私は正真正銘の駄目人間であり、なんならクズ、といったところであろう。
そう言われるほどの怠惰っぷり、病みっぷりであるとわかっていながらやめられない、しかし罵倒されることの快楽と罵倒する人を表象する際の強迫との間で混乱することだけは一人前にやってのけるから、つまりヤバいんだ。
誤解しないでいただきたいのは、何も私はこういうことを書いてあなたの共感能力に訴えかけ暗い気持ちにしたいわけではないということ。全部、笑ってほしいんだ。

 

「みちる、このままじゃハイルナーだよ」

「あなたはなにか勘違いをしていませんか。ハイルナーは”立派な人間”になったそうだよ、これは誰にとっての立派さだと思う?」

「そこじゃなくて、もっと前。学校辞めそう、ってこと」

 

うーん。しっかりしなきゃね。ホント、思ってます。
私は勉強することと文章を書くことと人を愛することを諦めたときにこの生を手放しますが、であればそれ以外のことをさっぱり諦めながら生きても良い、ということではないんです。なりたいものなど何もない、といいながらも必要に駆られて(一般に使用する表現としての「そうせざるを得ないから」)何かになろうとするのなら、それはなりたいものだと言えてしまう(これ、永井均で読んだことあるな……)——あるいは、何にもなりたくないと望むことも出来るだろうが。だからまずは、そこへ向かう方法論を組み立てなければならない。本来はもっと早く、自分を真剣に反省したときからこの課題に取り掛かるべきだったんです。……そうしないから”本物”ってことなんだったら、救いようがない。いいや救ってほしい。例えば進化論者の老博士よ、私を人間生活に適応させてくれ(この調子、この人ってどんな状況に陥ってもふざけるのは止めないんだろうな)。

――そんでごくナチュラルに私、クズだとされている?ええ、それは――

 

黙れ!

 

負け犬めいたところが可愛さです。加えて、お察し頂けたかもしれませんが私は自身をクズだと判断してはいません。優等生でもないけれど、やっぱり現状をマジに深刻な事態として把握していないからでしょう。まあ、反省の如何も今後次第ですね(健康診断で毎回これ、言われます)。ひとまず明日の授業へいくためにしっかり眠ることにしましょう。
あなたは是非、その感想と笑いをとっておいてくださいね。

 

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

見見ず

大変ご無沙汰しております、みちるです。

 

腹をくくらねばならないようなんです。

「曖昧な態度でいるのがいけないというのは、誰のための思いなのかはっきりさせておく必要があるんじゃないかね」

誰のためでもないでしょう。
あなたのためでも私のためでもない。誰かの、何かのためではないんです。そりゃあ、きっかけをもたらした何か、はありました。だけどその人の、その事物のためではない。最早そうするほかないので、腹をくくると言っているんです。
というかほら、こうして書くことこそ一つ腹をくくること、回復なのです。

私はよく、「そうせざるを得ないからそうしている」と言います。それはこのブログ上だけでなく、(あなたに想定される)日常生活においても。

 
《君は本が、文学が、哲学が、お好きなんですね》
 

ある人が少しの驚きを混ぜてそう言ったとき、「読み、書き、文学や哲学をして生きるしかない、というのがワケですよ」と情けなさそうに返したのをよく覚えている。
彼は私の書いた”からだ”についての文章をいくつか読んでいたし、私の推薦でスピノザなんかを読んでいた(こういう叙述が多くの場合その対象者に快く思われないことは私が最もよくわかるとさえ思う(「君にはわからないか」というのと似たものがある)。しかし私が彼に落胆したり彼を責めようとさえしたのは、このやりとりがあった瞬間だけであると誓う。それでも取り返しのつかないことではあるのだけど)。
私は自らの生について、その態度を洒落にするのがいけないことだと思ったことがない。だから上のような発言が平気で飛び出すのだ。しかしまあそんなことはさておいて、我々はその瞬間一つのすれ違いを起こしていたのである。

 
《なるほど、大学の勉強ですか。お互い、中々大変だ》
 

大変なのは今この状況だよと言いたかったけど、帰り支度をしていた人間をそれ以上引き留める訳にもいかないと思ってしまった。
つまり彼は私の「そうするしかない」を何かに要請され、ないし強制されてそうすることにしているという風に解釈したのである。そこまでは正しいとしても、私にそれを強いるものは教育機関なのだと合点したのが誤りだった。現に私は学生だからそのように連想するのも自然であるかも知れないけれど、学校よりもっと身近なものに、すなわち自分自身を”始め”としたものに強いられているという風には思わなかったらしかった。
”ふいんき”を「雰囲気」と訂正することならいくらでもできるのに、なぜ私はここで認識の誤りを指摘できなかったんだろう。そう、今でも後悔することがある。見ないふり、聞かないふりもできない不器用さのためにこうも頭を抱えているのだとしたら、自分の馬鹿さはやっぱりこういうところにあるんだろう。

 

(間奏)

 

今回はここで終わってもいいかと思ったんですが、鎮痛剤の効きがよろしいのでもう少し書いてみることにしましょう。話題はそうですね、文章を書くことについてとか。

あなたは、どういったときに文章を書きますか。学校の課題で、お仕事で、うんうん言いながら偉い誰かに丁寧なメールを拵えたり、あるいは同人活動において、エッセイや小説やブログなんかを書くんでしょうか。

聞くところによれば、どうやら多くの人はなにか機会があって初めて文章を書くらしい(?)。私は違う、と言いたいわけではないけれど、そう思えば実際人よりはその機会が多いんじゃないかと思う。
中学時代、学校機関紙を扱う組織を任されて同世代による色々の文章を読んできた。その時は自分も同じくらい書いていて、高校入学以降その機会が無くなってからもなんとなく書く癖だけが残った。当初からものを書くこと自体は「そうせざるを得ない」ためにしているとしても書いた文章自体は目的論的に把握されるのが常だということは予感していたし、それはきわめてプラスの方向に把握されていた。であるからこそ、文章は目で追われるものでありながら声に出されるものでもあり、そうであるなら嗅がれたり味わわれたり触れられたりするものでもあり得るのだとわかった。そして見る文章、読む文章、触れる文章など、文章の宛先や書く対象・内容に応じてそれらをかき分けたり融合させながら楽しんだ(これは現在も変わらないスタンスだと思う)。

とりわけ何を書くにしても視覚的な情報と音声面の情報に気を配ると納得のいく文章が出来やすいという気付きは、度々スピーチをしたためる機会を頂いていたことによるものだろう。今もなおあらゆる文章は音声への気遣いなしに成立しえないものだと信じているし、目の前の文章がいかにそこへ配慮したものであるか、そうでないかは、それ自体が明らかにするものなのだ。

文章を書くことが好きか、という質問にあえて答えるなら、好きだ、と思う。今取り組んでいる小説やそうでない様々の文章も、私にとって良いものであることに疑いはない。たとえ書くことによって自分が苦しめられるような事態が迫っても、書くことが好きだと言える気がする。
あなたに届けるこのブログも、そう”言う”私が綴るものであるとわかったほうが安心できるものになるでしょうし。
眠気がきたので、今日はこのへんで。

 

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

”遥遠”の肖像

大変ご無沙汰しております、みちるです。

 

住んでいる家のことが気に食わないんです。

「何故。いいじゃないか、治安はさておきそれなりに都会の住宅街のどこか。どうしてか20年間自室がないものの、申し訳程度に君の本棚もあって、大きな鏡は三つある。」

そんなことじゃないのよ、構造、文字通り”かまえ”と”つくり”さ。
とりわけ今は、窓が南向きなことが気に食わない。

私は、どこかの令嬢みたく窓から射し込む朝陽で目を覚ましたりしない。良くないものが空気中を遊飛する世の中になってからも自分で換気をするのは面倒だし、洗濯物は母親が干すのを応援する係。日に焼けたくないので紫外線は嫌いだし、私の体は新しい空気と同じ程度に、長く室内に滞留した籠った空気も好むのだ。
何が言いたいかって、つまり私の生活に窓が必要になるシーンといえば表の空模様や風の吹きを見て外出の格好を決める時か、はたまたなにか思うことがあって、イメージがあって、視覚的に開けているという条件が必要になるときくらいだということ。ね、だから何も常に南向きである必要はないでしょう。そして今は後者の”必要”で、北向きの窓を欲している。

北の方には、大げさに言えば想い人みたいな、そんなひとがいるらしい。恋人でも家族でもないその女の文章を、私は一年余りに亘って読み続けた。
今の私は文学部に所属している身だけれど、正直身近に読める文章を書く人間は少ない。何も書く能力がないと言っているのではなし、むしろそういったことで見ればこの部の書き手をはじめ優秀な者は多いはずだ。ただ、私にとって、私の身体にとって魅力的に感じられる文章やその書き手となるとぐんとその数は落ちるという話である。読める文章――ずっと読んでいても苦じゃないとさえ思われる文章とその書き手を発見することは困難を極めるけれど、私はその困難のなかで、輝くものを確かに見た。それが、彼女の筆であった。

面倒くさいのはいやだから簡潔に述べておきます、この文章はその輝きに対して贈る、無法者の私による拙い敬意であり、憧れであり、愛であり、一滴の憎しみであると。「はるか」という元・ブログ部員にまつわる批評であり、恋文であると。

 

(間奏)

 

一度、知人の書いた短編小説を読んだ。ほんとうに悪くない文章だったけれど、私は全ての肯定的なレビューの後に「しかし、はるかさんの文章にはかなわないね」と不誠実な逆説を加えたくなってしまっていた。知人の文章は一人の青年がある日突然人に化けた飼い猫と交流して云々といった物語だった。はるか氏の文章においても人間と言語を操る動物との交流は間々描かれるので、比較は避けられなかったのだ。

――と、語り始める前に。あなたがもしはるか氏をご存じないとしたら、先ずはそこから説明する必要がありますね。

大学生活や日常の出来事、趣味や文学についてなどテーマは不問。部員たちが当番制で毎日1記事更新するwebメディア「新・当世女子大生気質」(2010年4月1日~)にて、2018年度末(2019年1月27日)より執筆を開始した部員こそ、件のはるか氏である。
執筆するにあたっての禁止項目は政治・宗教についての言及と未成年飲酒/喫煙の事実的描写のみとあって、部員ごとに語る内容もテンションも様々である(断っておくが私は既に成人しているので、或る記事にて煙草呑みの習慣を告白したことに問題はない)。とはいえその前提の上でもはるか氏のスタイルは一味違っていて、というのも彼女の記事はその殆どが掌編小説なのである。
「みちる」の記事についてもあなたへ宛てた手紙であるという点、また語ることへの或る意識を一つの形式に落とし込んである点はスタイルの特殊性という一側面で氏のブログと共通する部分があろう。しかしはるか氏は、私がこのような形式を採る際に施すような陰湿な仕掛けを必要としない。彼女は自身と自身の文章についての説明にいやらしい韜晦も婉曲も必要とせず、時にただ生身の人として語ってみせる。であるからこそ創作・小説のパートにはある種の誠実が宿り、読み手もまた真剣になることを要請される。
氏は最後のブログ記事『桜狂いと書き狂い』にて「このブログの内容、主に創作部分を印刷会社に依頼して本としてまとめるつもりだ。」と語っているが、一冊の本に付される著者の”まえがき”や”あとがき”と同様の効果をはるか氏自身の生身の――もしくはそれに近い――語りがもたらしていると考えれば、創作部分だけでなくそれ以外の記事もいくつか抜粋し、時系列順にまとめて書籍にするべきではないかというのが素直な感想であった。まあ、”主に”が量的にどの程度を指すかは推測しかねるので何とも言えない。加えて、短い期間ながら氏のブログを夢中で読んできた私のナラティブに照らせばこの要望は必然であるが、実際本になるのならそれ用に書き下ろす”あとがき”があるはずだ(え、ありますよね……?)。そう考えれば矢張り、この要望は私だけのものにしておくほうがよい。私にはホラ、恋心があるのだからね。

 

ここまではるか氏について創作/小説の形式を採る奇抜さという点で語ったが、氏の小説の精髄はまた別に、即ち日常―非日常という二元的な把握に対して脱構築を仕掛けることで生み出される幻想性にこそあると言いたい。
勿論、文体の重さ/軽さを内容に合わせて自在に扱う技術や、童話や児童文学やあるいは星新一などに熱心な幼少期を過ごした読者の顔を綻ばせるような設定、どこか優しくまた優れた文章の流麗さ、これらがなべてはるか氏の巧みさであることについては論を俟たない。そう、文章が上手い。上手いことをわざわざ語ろうという気も起らないほどさり気なく上手いのである。
ただ、上手さや読みやすさ、上澄みの美しさだけではないことも明らかであり、その妙として第一に挙げられるのが上に述べた幻想性だろうというわけだ。日本近代文学において”幻想文学”といえば泉鏡花や江戸川乱歩、我が愛しの澁澤龍彥も当てはまろうし、佐藤春夫『西班牙犬の家』などはつい声を漏らして笑ってしまうほど卓越している。しかしそれでは、はるか氏の文学がこうした作家たちの後をなぞるようなものであるかと問われれば、必ずしもその限りではないだろう。彼女の作品はもっと現代風――まさに”当世女子大生気質”というわけか——で、最もイメージしやすいところで言えば川上弘美が近いだろうと思う。川上においては言わずと知れた傑作『蛇を踏む』や『神様』などにみられる人ならざるものとそうでないものとの人語交流、これははるか氏のいくつかの作品にも見られるシーンである。そしてむしろそうしたシーンが生む効果、即ち我々のよく知る日常とまったく想像のつかない非日常の風景とがテクストの進行に伴い時間的流れをもって渦を巻くように融け合っていく……そのような融解の働きこそが”幻想”の正体であり、私が指摘したい川上とはるか氏の通ずる部分でもある。そう、なにも幻想文学の仕事はただ神秘的な世界の表現に尽きるのではなく、川上や氏のテクストに見られる上のような”働き”もまた肝心の条件、ではないだろうか。無論、はるか氏の”融解”は人間とそうでないもの(人型生物、動物、人間化した動物、人工知能etc……)の交流を通してのみ仕掛けられるわけではなく、時に平凡そうな犯罪者の一人語りのなかで、ときに月から来たという後輩との帰り道で、あるいは人間と思わせておいて鱗を持つ亜人のようなキャラクターと気さくな知人たちの交流のうちで、まるで真夏の縁側で盥の氷が融けるようにじわりじわりと流れが生じ、力が働いて、終いには絶対に何か僅かな謎を残したまま融け合っていくのである。このテクストの流れに読者は乗せられ、幻想に酔いすら感じながら文字通り掌に乗せられるような短い旅を経験することになるのだが、ブログにおけるなんとなくの紙幅とペダントリーを裸足で蹴とばすはるか氏の筆致のおかげか、その酔いすらもどこか心地よいのである。

 

さて。あくまでブログ部員としての投稿記事においてのみ判断するとしても、はるか氏の小説は幻想文学とSFとのあわいに立っていそうで、しかしその実いずれのジャンルにも中々分類し難いものを感じさせる(恥ずかしながら筆者はそもそも”幻想文学”のレンジの広さに日頃より白目をむいてたまげている)。それに、ジャンル分けをしてやろうという試み自体がナンセンスである、と、ここではそのように結論付けても良いだろうと思う。
また最後にはるか氏の或る一つの作品について、あなたに紹介するくらいの軽い気持ちでコメントを加えたい。誰だって気に入りの作家の気に入りの作品を指さして”(私が考える)最高傑作!”と言いたい気持ちは少なからずあるだろうと信じて……。
或る作品といったのは即ち『空虚的プラスティック・ピンク』についてである。ぎらぎらとした極彩色の世界で語り手[ワタシ]と[アナタ]の短い対話が展開される本作は氏の作品のうちでもとりわけ簡潔にまとめられたものであり、同時にとりわけ深遠な一作である。生花を知らない登場人物や人工太陽といったアイテムはSFめいた世界観を連想させるが、対話の舞台は「閉鎖的な空間」としか記されておらず、この表記それ自体が恣意的な解釈――解釈はつねに恣であらざるを得ないとしても――を拒みこちらに対し凄んでいる気さえするのだが、ここにくどくどしい世界説明でも加えようものの一息に駄作の谷へ身を投げることになりかねない。……そのような条件の上でもはっきりと看取されるのは、[ワタシ]と[アナタ]の間にある或る種の駆け引き、二人の精神的な上下関係、そして読者の目の回るほど警抜で毒々しくさえある鮮やかな描写の数々。

「ガラスのマドラーの先でぐじゅぐじゅに潰され身が溢れ出したレモンは、ワタシの行く末を彷彿とさせる。あの酸性の液体がアナタの喉に消えていくなら、ワタシもそうなのだろう。」

[ワタシ]は[アナタ]に精神的に屈服している。しかしそんな[ワタシ]もいじらしい反抗として、[アナタ]を造花のハイビスカスに喩えてみせる――この場面は非常に素敵だ、「目についたモノをそのまま言った」という[ワタシ]の語りに照らしてみると、どう、直前にある当人の台詞に自動作用を感じずにはいられまい。しかしながら[ワタシ]の言葉による反抗も、最終場面における[アナタ]の行動によってひらりと躱されてしまう。
こうして眺めてみると、作品題『空虚的プラスティック・ピンク』は即ち[ワタシ]が[アナタ]を”そのように”造形してやりたいという反抗心でありながら、本物のハイビスカスを知らない[アナタ]と造花を本気で重ねた結果としての同情にも似た虚しさなのではないか。そして後者の虚しさと、さながら女神像について語るように[アナタ]を語る[ワタシ]の語りとによって[ワタシ]自身の虚しさは逆照射される――虚しい対象に価値を観るのはナンセンスであり、美しく虚しい対象に価値を観るのはそれ自体ひとつの空虚であろう。しかしながらそこには美しさがある、この強力な事実を明らかにした語り手の功績ははかり知れない。
私は氏の作品に触れてこんなにも大きな不安に苛まれたことはなかったが、同時にこれほど可憐に感じられたもの本作が初めてであった。故にどうにか同じ部員であるうちに本作についてのコメントだけでも御目に触れる機会を頂きたかったものだが……否、すべては私の力不足である。
このブログがはるか氏本人へ届くことよりも、私は今画面を見つめるあなたにどうか氏の文学を味わってほしいと願う。

「三秒で忘れる記事の三秒間、私の好きに作った文章を、面白く思ってもらえたら。」

花曇りの空のもと、今はもう桜の花弁がはらと落ちるのを数える時分。風に煽られて、何だかんだ三秒ほどは空中を踊っているものだなあと、ぼんやり見つめていました。
明日すぐにとは言わずとも、桜はきっと来年も咲くんです。それに、一度視界を去っただけで簡単に忘れられるものでもないでしょうし。忘れたくても、そちらのほうが中々難しいものです。

北向きの窓を空想しながら。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

或る海岸の接近

大変ご無沙汰しております、みちるです。

瞬きをする時間が惜しいんです。

「目玉の干物でも作るのかね」

それもいいでしょう。君、ちょっとこっちに来なされ。

(間奏)

一度。しぱ、と瞬きする間に幾ら呼吸が止まるだろう。

二度。しぱしぱ、と瞬きする間に幾ら光の認識が止むだろう。

我々の働きは存在の限りにおいて止むことがないにしても、その創造力はいつか涸れ果ててしまうものだろうか。
考えたくない事柄、そして考えずにいればきっと生を停止したくなる事柄。

そうそう、光を認識する働きの有無が人間の生死そのものの指標であると語るのは、たしか川端康成の小説であった。
私、明るいところは苦手です。しみったれた根性と疚しさとを照らし出す、[言葉]以外の何者かが恐ろしい。太陽の前に起立するとき感得されるのは、闇の中に立つのと同じほどに強いられた孤独の実感である。酒に弱い私が胃を空にしては呑めないように、気晴らしなしに光と触れ合うのは難しい。しかしこれはいずれ必ず克服される課題である。
先の文章に照らせば、生の条件は孤独の認識であると換言出来る、であれば今度はその積極・消極が問われねばならないでしょう。

先日、江の島へ足を運ぶ機会がありました。
何年前からか、時間が出来たときに(とはいえ年に二度あるかという程度である)ふと一人で鎌倉の方へ遊びに行くようになった。時間も行く場所も適当なものだから、江の島行きもその日の朝に決めた。

現着の頃にはもう日が傾いていて――あの辺りの大通りなどはどこもかも田舎時間でせっせと店を閉めてしまうから――、駅前の施設や露店などを除けばもう中々入れる場所もなく、ふらふらと、名の通り”島”になっているところの植物園を覗いてみることにしました。
いや。植物園、アベックだらけ。なんか想像と違う。どうやらイルミネーションの時期だったらしく、私はここに来ても光を見ることになったうえ、なんだか体温の高い人々の間を人型の氷塊みたいに闊歩せねばならなかった(氷塊人間?)。
冬の夜、ジュース一本買えるくらいの入場料を投げて、寂しげな枝や乾燥した草木を見るのも楽しいだろうになあと悔しがりながら、人々とつま先を揃えられない私は[岩屋]の方へと向かっていました。

昼間であれば海の寸前まで下ったり岩屋の中を探索できるようだったけれど、およそ19時とあってはそれも叶わず。来訪者をまったく想定していない、電燈に至るまでが退勤済みの暗闇が広がっていた。植物園から岩屋の入口まで歩く中で徐々に周囲から人気は消え、ついには一本道になる――それを想えば広がるというよりむしろ、収縮する闇へと導かれていくと言った方が正確かもしれなかった。
”何か”出そうだ、ということよりも「ここで殺されたら見つけられないな」という心配が先立って、恋人と友人に連絡を入れ、ついでに携帯のライトを起動させた。諸君、見ているか。私は無事だよ。
ここで私の装備を紹介しておくと、江の島に入ってから露店で買ったぬる燗と蛸せんべいのごみ。あとは煙草や携帯・財布などを入れた鞄だけ。結論を急げば、夜の岩屋前はほろ酔いで行く場所ではない、ということ。海水との間を情けない柵一本で隔てられたような場所を通る際、風に煽られて危うく”見つけられない”ところでした。ただでさえふらふらしていますから……。
気の狂いそうなほど階段を上り下りした末に、大きな橋に辿り着く。周囲も変わらず暗闇であるものの、目が慣れてきたためか海の方がよほど黒く見える。先刻目の前にあった海岸があんなにも下にある、にもかかわらず岩々に強く打ち付ける波は、橋の上から眺めるほうがより荒く大きい。ざあ、と音がして、怪獣の棲処かと疑うほど高く恐ろしい波が立つ。

「あの飛沫もここまでは届くまい。」
しかし、次の波が作る飛沫はどうでしょうか。海と私は、人類と月の関係ではないのに。もしもこの鼻先に届いたら。
――自分に対して手の届かない位置にある何ものも脅威でないと断ずるのなら、我々は自分たちがなんと極楽の夢に慣らされきっていることかと笑わなくてはいけない。遠くの”海”を憂い、息が出来ないほど痛がる身体を遁世の詩人だと笑うよりも先に。

「寒そうなところだね」
「寒い。温めてよ」
「難し。」目の前にいないからね、当たり前でしょ、と微笑むひとの姿を思い浮かべながら携帯のライトを消した。相手は新宿、私は江の島、べらぼうに遠くもないと分かりながらなんとなく最後になったら嫌だなと思って、ピースに火をつけた(お行儀が良いのでポケット灰皿を持っています)。寒風吹きすさぶ中もたもたカチカチとやる不器用さが愛されるというのは本当だろうか……やっと一吸いするというとき、怪獣の姿は小さくなっていた。こっちは火、君は水、などと解釈することで境界が生まれたのかしらん、とにかく小さかった。小さくなったらそれはそれで怖かった、なんだ夜の海の暴力もこんなものかと思ってしまっていた。

光のあるところへ戻る際、テトラポットを見るたびに浮かぶ或る考えが脳裏をよぎった。即ち、ここにどれだけの人体が沈んでいるのかという話である。何人なのか、という算数ではない。そしてもう殆ど確かめようがない事柄である。
私は生有つ何者にも同情しない。だから、死者で算数をする必要性およびそれが生じてしまう環境を憎む。そうした環境が常に同情を生む。誰かの生の力を強く否定してしまう。いつだって「欲望」が「贅沢品」になる必要はないのよ、ねえ。あなたも、私も。

海はいいものですよ。ただ夜の海は二つも要らないでしょう。私が江の島で見た怪獣だけで、充分です。今度は昼間に見てみたいな。

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

円周率と狂客

ご無沙汰しております、みちるです。

円周率、割り切りました。

「あれは割り切れないのが売りでしょうが。一応聞きましょう、君の見解」

円周率――ぴったり”2”でした。

「そんなわけないでしょう3で手打ちで大モメだったんですよ」

・・・

「これ、変じゃないか。どうも聞き覚えのあるやり取りが――具体的にはそう、お笑いコンビ金属バットの漫才で聞いたようなやり取りが」

何!?あのお笑いコンビ金属バットの漫才……M1グランプリ敗者復活戦連続出場のあの金属バットの漫才……確かに言われてみれば”丸”と”2”が私を取り囲むようにわらわらと転がっている。

「君、ちょっとたすけて、でっかい2と丸で両手がふさがってしまいました!」

関係ないけど昨晩は暖房つけっぱなしで寝てました。口がカピカピです。

「あ、もう終わりなんですね」

ハイ。でっかい2と丸で両手がふさがった男がどうなるのかはさして重要でないですが、金属バットと真空ジェシカが面白いのでぜひ、というダイレクト・マーケティング……。

(間奏)

情報の伝達を諦められた、そうわかる瞬間が明確にあった。君にはわからないよなあ、と。

そういわれると「わかるよ」と反感感情が芽生えるから良くない。厳密には”わからない”、共有不可能である、という事実は目の前に迫っているのに。

コミュニケーションにおいては、相互に”間隙”が生じるのが常である。むしろそれは礼儀作法と言っても過言でないのではないかと思う。
間隙、隙(すき)。策略的になれば、相手に付け込ませるための間隙をあえて用意することも出来てしまう。間隙を見出せない相手とのコミュニケーションは非常に難しいものがある、志向するところが見当たらないから。

その間隙が、確たる不理解として落とし込まれる場合がある、それが先程のあれ。あれ。もどかしいな、しかし説明を加えることも諦めてしまったら本当に死んでしまうよ。

「Esprit、どう訳す?」

それは精神だ。
それは機智だ。

君って奴は本当にどうしようもないんだな。
そこが売りさ。

Espritをきかせて。
街灯に、文学に、暴食のモネスティエに、鳴れど響かぬvaporwaveに、史上最高の!花束を。

今日もpeaceが一箱消える。

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

ズタ袋と歯車

ご無沙汰しております、みちるです。

恩師に合わせる顔がないんです。

「またなにかやったんですか」

逆ですよ、何もしてこなかった。
画面越しに振袖姿を披露しても、スーツを着て参上しても、結局この二年間ほとんど成長していない気がする、おそらく実際そうなのだろう。

今年こそは。これはそう、「今日こそは」よりもまだ望みがあるように感じます。
何かになろうなどとは言いません。せめてぴたりと噛みあう幾ばくかの歯車を集めて、毎日幽かな音を立てながら回していきたいものです。

(間奏)

突然ですがあなたはもうBLEACH・獄頤鳴鳴篇を読んだか。
いまや世は劇場版呪術廻戦で色めき立っている、色めき立ちっぱなしだというのに(勿論こちらも履修済みですが)、ここにきて超有名タイトルに再没入しております、みちるです。

久保帯人原作の『BLEACH』についてはもはや誰もが一度くらいは耳にしたことがある名だろうということで説明も省略させて頂きますが、これが昨年で20周年を迎えたというから驚きです。もう連載自体は終了し本年秋ごろに最終章のアニメ放送を予定している本作でありますが、昨年突如として週刊少年ジャンプに一本の読み切り(?)が掲載されたのでした――それが冒頭でご紹介いたしました「獄頤鳴鳴篇」というわけです。

これからお読みになられる方もいらっしゃると思いますからストーリーへの過度な言及は避けたいところですが、読後に残ったのはとても一人では抱えきれない感情だったということを先ず伝えておきます。
幼少期にアニメを観ていた記憶がよみがえると共に、好きだったキャラクターたちが生のコンテンツとして再び動き出した高揚と同時に辛さが襲い来る、うわあ、どうして……。

ここにきて、20周年の節目を迎えて、BLEACHの”巧みさ”を再確認しております。原画展に読み切り、そしてアニメ新シリーズ(とそれに際したティザーPV群)と怒涛の情報量。サブカル筋が鍛えられていくのをじわじわ味わっている感じ。

読み切りの話からはじめましたが、初の原画展もこれまた勢いがあって素晴らしく。みちるはもう週末に二度目の来訪を予定しておりますが、まだの方は是非!ファンの方は出来ればご友人などとご一緒に行かれるのがおすすめです、泣いてしまうので。私は新旧隊長格の立ち絵で三回泣きました。

つい最近知人などと「二次元の初恋」について議論を交わす機会があり、私は迷わず「HUNTER×HUNTERのヒソカです」と答えた覚えがありますが、おそらく同時期にBLEACHとも出会っているので平子真子か浮竹十四郎と答えるのも一つの手だったかと一人で反省したのでした。これ今回終始作品を知っている層にしか伝わらなくて申し訳ない。あなたは如何でしょう、何を言っているんだという感がありましたらすみません。

これもどこかで書いたやも知れませんが、やはり生のコンテンツを眺める楽しさというものがあるのです。リアルタイムで進行する物語を追いかけるのにはかなり体力が要ります(と感じる時点で斥けられない衰えを痛感します)が、期待の分だけリターンも大きいと感じるようになっているのです。
とにかくそういうわけですから、マユリ・ザエルアポロ戦と浮竹/京楽・スターク戦を読み返しつつ平子の崩れがちな作画に思いを馳せ、週末に備えたいと思います。ちなみにこの記事、ダントツで過去一番不安です、内容が。こんなにぶっ飛ばして大丈夫なのでしょうか、お姉さんは心配です。

今は色々と書かねばならないものが溜まっておりかなり修羅を極めている時期ですが、こういう時こそ力の強いものを息抜きコンテンツとして用意しておくのがよい。ひと記事書いたら素敵なアニメを3話か素敵な映画を一本観る、など……いやはや参考になりませんが。
とにかくあなたも期末試験やレポートや受験やその他諸々、抱えているものを降ろしきるまで一緒に頑張りましょうね。気張っていくぜ!

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる