ご無沙汰しております、みちるです。
お別れの季節です。
今日も今日とて私はキャンディーズの「微笑みがえし」をイヤホンで聴きながら街を歩きます。
新たな出会いのための別れではなく、目の前の誰かとの離別。その先のことなんて到底考えられないような寂しさを抱えて歩く。
そして私はほんとうに、長らく連れ添ったあの子と別れたのでした。
「さようなら、昨日の幸福」
そういって二人の並んだ写真を削除する。
「さようなら、明日の苦痛」
そういってあの子にもらった感情を忘れていく。
今度は本当にさよなら。
友人として、あの子と話せる人物でいたい。そう言ってみたはいいものの、私は多分、あの子と関係するのに疲れてしまった。あの子との新しい関係を構築するには、どれくらいかは分からないけれどとにかく時間が必要だった。
そういうことさえ説明できずに、またあの子を苦しめて、責められ、いやになって、投げ出すこともしたくないので、幼子をあやすような柔らかく丁寧な言葉をいくつか選んで発する。
神経質でせっかちで落ち込みやすく言葉にするのが不得手でとても鋭く生きるあの子が、時間に怠惰で無神経で鈍くて言葉と人間とを無意味にも愛していて同じくらい神経質な私に、よく付き合ってくれたと思う。
いやでいやで仕方なかったんじゃないかな。きっと何かあるごとに苛々して、不快に思い、摩耗していたと思う。それでもあの子が私と共に居てくれたのは、そうすることで互いに変わっていけると信じていたからだろう。シリアスになりやすいあの子は私の軽口を嫌い、ユーモアを建前に本音を隠す私はあの子の冷めた態度を嫌った。それでも、少なくとも私にとってあの子は心から尊敬する相手で、今も変わらず美しいと感じている。
あの子という志向性そのものを愛している。
私は、あの子をして初めて、人間を「力への意志」として認識した。
あの子は気高く、それゆえに美しかった。
私はあの子に釣り合うような、高貴なものになろうと努めていただろうか。
私はあの子をほんとうに知ろうとしたか。
私は、やりきれなかった。動いているようなそぶりを見せて、変わろうとしなかった。
下賤。今の私を形容するに適した語。
(間奏)
誰の隣にいても、どんな高さ深さに生きていても、どの貌をして世界に差し向かう場合も、気高くなければいけない。
率直にそう考えられるようになったのは、自分がいかにどうしようもなく項垂れ切った者であるか実感したある瞬間からだった。即ちそれは、あの子と別れ、別々の傘を差して歩いた駅までの道でのことだった。
私はいつまで同じ地点で足踏みしているのか。
変わりたい、変わるぞ、という意気込みだけ見せては幾度も人を失望させてきた。今の自分を愛してくれなんてよく言うけれど、そんなことを望んでも虚しいだけだ。
いつかあの子に違う誰かの口癖がうつって、違う音楽を好きになって、私が憧れるような素敵な誰かと生きていくと決めたとき、一言何か伝えられるようでありたい。
私が言う「愛」はきっと中途半端な形であの子に伝達されており、このままではすべて台無しになってしまう。まだ、きちんと話さなければならないことが沢山ある。
新しい恋なんてしている場合じゃない、と思う。
恋をしている間は、あの子のことなんて考えている場合じゃないと思うはずなのに。おかしいな。
何を諦めて、何を貫くか、いい加減決め切らなければいけない。
大学生の私はいつのまにか誰かと生きていて、いやそれも「いつのまにか」ではいけないのだが、誰かと生きるということを軽薄に把握しすぎた。
私を必要としてとか、かえって私を忘れてとか。
遊びじゃないんだから。
ぜんぶ、ぜんぶ、遊びじゃないんだから。
学問。文字通り学びと問いの次元へと引き戻されるとき、私は安心する。我ながら自分はふざけた奴だと思うけれど、そうじゃない私が生きていて、まだ必死になれる。本気で愛を語り、どんなに無意味で虚しい人生も遊びなしにやれる。
耳ざわりの良い「意味」や「価値」に靡かずに気高く立っていられる。そう確信できる。
私がここを出てあと二年間取り組むのは、そうした態度で力へと向かっていくことである。
私を愛する人も、私を憎む人も、そのどちらをも抱えた誰かも、ごめんなさい。恥ずかしくても、私は生きていくことにしました。まだ青くいられる二年間、今度こそ美しく、そう誓う相手に、あの子とその他すべての「あなた」を選んでも良いでしょうか。
手始めに、度が過ぎるくらい正直になって、資格とか立場とか、何にも気にしないで大声上げて泣いてやる。
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる