先日猫を触りに行きました。
人生で、初めて。猫カフェで。
ずっとイルカもゾウも触ったことあるのに、猫は1回も無いことを気にしてはいたんです。
周りにも飼ってる子ほとんど居ないし、野良は触る気無いし、でも猫カフェに行くのは、人間で言う女の子と話せねーからキャバ行くみてえなもんだろと思って避けていたんです。けどね、猫って犬と違って会う機会すらないんですよ。
腹を括って今月の頭、推し猫がいるという友人と共に、朝っぱらから猫カフェへ。こういうカフェ自体初めてなので、基本料金プラス10分毎に加算形式の料金プランに八幡様周辺の駐車場より高えなと若干白目を剥きつつ、歯医者にあるようなスリッパを履いて、ロッカーに荷物を置き、コーヒー片手に入場。
ご飯前だからみんないるねと友人の言う通り、30分後のご飯タイムのために多くの猫がいました。そう、ご飯前だからみんなそんな活気がないんです。ほとんど落ちているんです。これなら近くに行っても逃げられなさそう!と思うじゃないですか。
でも、逃げる。すっげえ逃げる。背中にそっと手を伸ばすと、あと5センチというところでヌルッと前方に逃げていく。今日は再三注意を受けて、香水を振ってないし、柔軟剤も無香料で来たのに。猫じゃらしの才能もないみたいで、無反応。
そんな中1匹だけ長い間触らせてくれた猫がいまして、それがアメリカンショートヘアーの年長。この猫ずっと特定の場所にいて、逃げねえなと思ったので、全力で無害アピールをしてまずは天中のあたりを中指の第2関節で撫でてみました。
意外に骨を感じる。想像では、ベルーガの頭に毛生やしたようなもんだろうなと思っていましたが、実際には毛、皮膚、すぐ頭蓋骨。あまり暖かくもないし、どちらかというとユニクロのボアジャケット着てるマネキンに近いかも。短毛だから?
頭の次は首根っこ、顎、背中。サワサワ撫でていたら、なんかプープー言いながら寝始めたので、前足を触ってその場を離れました。足は少し暖かかったな。
その間、友人は少し離れたところで推し猫を筆頭に猫を引き寄せていて、猫じゃらしを片手にもう片方では猫を撫で、更には私とアメショーの写真まで撮ってくれていました。ああいうのは天賦の才ってやつなんだろうな。
ご飯タイムを見届けたあとは、しばらくコーンスープを飲みながら、友人と猫の戯れを見ていました。ちょっとでもコツを盗もうと思って。でも、いくら見ても、何がそんな初対面同様の猫をデレデレにさせるのかわからないんですよ。
ようは友人が器用すぎるんだろうと納得し、戯れを邪魔しないよう遠くへ行こうと別方向に目を向けると、さっきのアメショーがいつのまにか、私の2m範囲内に、たった1匹でこちらを向いて座っているじゃありませんか。
あいつ、もしや私を待ってるのか?と、勝手に都合良く解釈した私は、膝から曲げて背を小さくしながら、近づきました。さっきぶりだね、ご飯は美味しかったかな?君だけだよ撫でさせてくれる子は…。
あと数歩というところでアメショーは、私とは逆方向で脚を広げて座っていた、オヤツを持ったおじさんの元へ歩いて行きました。
本日読みたい本
『日本古典と感染症』 ロバートキャンベル編著 角川ソフィア文庫
実はこの猫カフェか、そのあと行ったレストランでインフルエンザを移された。猫カフェでないことを祈る。
コロナを経た私たちには、以前の私たちよりも有利な点が一つある。疫病関連の事象について実感が湧きやすいのだ。
ワクチンなどない時代、どうやって体・気持ち共に乗り越えたのか?どう記録して後世に伝えたのか?探すことはできるけど、いっぺんに知識を吸収したいのなら論文集だよね。
特に疫病に向き合う村人の知恵について書いている太田尚宏氏による論文は特に興味深い。生命誕生のころから今までの人類史全てに言えることだが、我々の習う「歴史」と、地の人の死体が重なり合って出来た「時の流れ」および私たちの「ルーツ」は違うものであり、後者を学ぶことは人間としての生きる意味と生き方について考えるきっかけになる。