寒月雑話

未だ整理の追い付かない祖父の本棚から『梵雲庵雑話』を偶然引き出し、これを私の卒業論文にしようと思ったのは、墨田の桜はすでに緑、亀戸の藤も落ち着きを見せた、4月も後半に差し掛かったころでした。

初めの印象は、理想的な生き方をした人だなという印象でした。既に私の理想的人生モデルは存在していましたが、それ以上に楽しそうに生きた人だなと感じられました。元々、畿内関連の紀行文か、幕末から明治初期にかけての狭間の文芸をやりたいなと、ぼんやり考えていましたから、『百美人』がある寒月はどっちも抑えていて良いなと考えました。西鶴文学を学ぶ必要がありましたが、私は京都の大学で西鶴文学の授業を取ったり、全集を貰ったりしていたぐらい興味はありましたから、むしろ嬉しかったです。しかしそれ以上に、寒月自身に関心をもったというのが、一番の理由でございます。

『梵雲庵雑話』に収められている、主な文章の元は淡島寒月という人です。世のあれやこれを悟った上で、何でもかんでも「面白いね」と言って和かに愛し、これと思ったものは周囲に薦める、非常に無垢で良心的な好事家あるいは趣味家と呼ばれた方です。

寒月の、特に文学史上で凄いところは2つ。ひとつは、埋もれていた井原西鶴を掘り起こし、後世に引き継ぐきっかけを作ったこと。もうひとつは、幸田露伴・尾崎紅葉を代表する文学者に、井原西鶴などの近世文学を伝授したというところです。露伴紅葉どちらかの文章を読んだことがある人は、彼らの文章が西鶴の作品の影響下にあることはご存知でしょう。

簡単に言いますと、寒月がいなければ、私たちは世之介を知らないし、露伴紅葉、そこから連なる一葉鏡花漱石芥川三島、その他西鶴を慕った織田作之助や太宰治等、以降の文学は存在しなかったと言えるのです。違う形で存在していたかもしれませんが、確実に、『吾輩は猫である』の主人公は名前が違っていたでしょう。

祖父の本棚、しかも前列にあったものだし、生涯のネタにするにも相応しいものなのだろうと考え、直ぐに教授に連絡をいたしました。翌週には曳舟、神田、上野を歩きました。連休明けには、以前寒月に関する論文を出した先生が代表の、和洋女子大学硯友社文庫に乗り込みました。我ながら焦りを感じたらしいのです。当時、他にテーマを変えようと悩んでいるゼミ員もいたので、もしその子が同じことを考えていて、奪われたらたまったものではないと。今考えると笑いものですが。

ただ、おかげでまた、様々なものに出逢えました。美味い蕎麦、2枚の桜葉と薄い白い皮でつつまれた、控えめな甘さのこし餡、ことゝいと書かれ座った鳩、風情のある向島芸子の舞。以前から好きだった、浅草の和菓子屋やバーへ、ついでに通うことができたのも良かったところです。他のことを放って、こんなことばかりしていたせいで、家族に卒論一回辞めなさいと言われました。

本格的に執筆にとりかかったのは10月中旬からでした。夏は正直コンディションが調わず、10月7日に書き始めようと思ったら、インフルエンザになったので、翌週から始めたということです。10月末に最後の発表がありましたが、勿論間に合わず、当日は冷や汗をかきながら、淡々と発表した記憶がございます。

最後の発表の後、私は中学生の頃から成長しないんだと、泣く泣く打ち明けたら、他学科の友人が「私はまだ先行研究をまとめている最中だよ」というから、少し安心いたしました。しかし後から、彼女の学科の締め切りは日本文学科のものよりも1カ月ほど後だったことを知り、再び焦る羽目になった。これには流石に酷いと思いましたね。

論文執筆中は色々なことがありました。私は色々と知らないので、図書館やら国会図書館などのデジタル資料やらを沢山見て行ったわけですが、途中で、南翠や梅花の作など面白い作品をつい読み込んだり、デジタル資料越しに「こんな本 を見る奴は 馬鹿だ」「君もねっ」という落書きをみて、自分が少なくとも2人の奴らと同じく迷走していることを嗤ったりしていました。こうして寄り道をしているせいで、ぼんやりと目標として掲げていた、寒月の誕生日―11月17日でした、に第1稿を終わらせるというものは達成できなかったのです。

長時間本かパソコンかを見続けているため、眉間のあたりが常に重く、自動車学校の視力検査では追試を喰らいました。活字は辛うじて読めましたが、崩し字が読めなくなり、近世文学ゼミとしては焦りました。

目薬もアイマスクも効かなくて。目は脳に繋がっているため、そちらの方の疲労も中々。授業に出ることで気分転換を図っておりましたが、気絶するように長時間寝るような日々が続いたのもありまして、これはまずいと、休日は展覧会やゴルフに行ったりして画面から離れました。展覧会などのことは前回のブログで書きました。あれら以外にも色々とやりましたが、寒月は趣味の幅が広いし、きっとあれもこれも面白いから良いよと言ってくれるんじゃないかなと思ったりはしておりました。

寒月の事は春から今まで、ずっと好きだから、幸いでした。もし違ったら、ハロウィン以降は街中で見かける白いひげに敏感だったことでしょう。身内にいたら本当に困るが、昔の血のつながっていない人なので、こうして端から見る分には本当に面白い人でした。

紅葉露伴もそうですが、あの時代の作品や人物に関しては先行研究が少なくて、年表や家系図の整理から始めました。寒月による自作年表があるにはあるのですが、非常に簡潔なものですし、かつ寒月も言うことが時々によって違うことがありますから、信用なるかと言うと、そうとは言い切れません。

私は日本文学科に入って以来の願いとして、作品論をやりたかったので、そこに時間をさきました。寒月というのは、趣味の傍ら、愛鶴軒という、西鶴を意識した雅号で、いくつか小説や俳句を作ったことでも知られます。

初期の作品、『百美人』『けふあす』や、『浅草市の女不思議』あたりは近代の西鶴そのもので、文壇的役割もそこにあったものと考えられます。

そもそも、西鶴が求められたのは、その文体が非常に簡潔な写実手法をもっていたからです。時は言文一致運動の時代。どういった文体で表現していこうかという模索の頃に、西鶴文学に希望を見出した露伴紅葉を代表格とする文人たち。しかし、西鶴の『好色一代男』が生まれてから、明治15年時点でちょうど200年前。かの文豪たちも現在の私たちと一緒で、手にして、すんなりと直ぐに読めるものではなかったのです。特に風俗の違いは大きな壁となりました。文体を学びたいのに内容がわからないから先に進めないとなった時、求められるのは「現代の西鶴」です。寒月は綿密な西鶴研究のもと、そのニーズを見事満たすことに成功したのです。

尤も、寒月は処女作『百美人』を書いた時点では、専ら自身の旅の記録と、西鶴研究の成果として書いてみようとしただけで、悩める文人たちの助けになればなどといったことは無かったのだろうと考えられます。しかし、結果的に、これらが紅葉によって硯友社の『文庫』に「愛鶴軒」という雅号をつけて載せられる運びになったのも、同人の文学活動に役立つテキストとして重視されたからなのでしょう。

『江戸むらさき』第一号で行われた、投票に拠る当時の文壇で重要視すべき人物をランク付けしようという企画、「當世文壇十傑」では香雪(下田歌子)、得知(幸堂得知)、思案(石橋思案)と同票の10票を獲得しております。勿論、上には美妙露伴紅葉、南翠篁村、逍遥、あとは寒月と似たような分類だと宮崎三昧や依田学海が30票を獲得しているのですけれども、このランキングの注目すべきは「寒月」ではなく「愛鶴軒」でランクインしているところでしょう。つまるところ、寒月の作品に対する需要は硯友社に留まることなく、かなりの注目を受けていたと考えられます。

寒月作品を研究するに於いて、寒月が最後に書いた小説、『馬加物語』は特段重視すべき作品です。あれは『百美人』などを沢山書いた明治22年から10年後の明治32年に発表されたものです。西鶴をそのまま受け入れるのではなく、そこからキリスト教であったり、奈良朝趣味であったり、露伴ら友人達の文学作品であったり、アームストロング牧師との交流経験を併せながら、更に咀嚼して、寒月の内から出た作品だと考えます。

寒月は数え年68歳の大正15年2月23日に亡くなったのでありますが、来年はついにそれから100年ということになります。辞世の句は「我れと生き我れと死すも我がことよ その我がまゝの六十八年」「針の山の景しきも見たし極楽の 蓮のうへにも乗りたくもあり」というのでありました。

定職に就かず、ぶらぶらと世俗から離れ、自分の好きなことをして人生を楽しむ人のことを「遊民」といいまして、生前交流があった石川淳が寒月のことを所謂これだと言っている、丸山才一との対談がございます。遊民というのは江戸時代から存在していたものでして、戯作者などはこれに分類されました。しかし、明治時代からそういった者は減って行きました。国家の方向性が遊民が遊民として在るのを難しくさせたのです。寒月はこれに反抗するように、世俗から離れ向島に住んでいたわけですけれども、向島というのは関東大震災で酷い被害を受けたところであります。寒月の住んでいた梵雲庵も全焼、大事なコレクションを全て失ってしまい、恨心終に止まず、2年の内に自身も雪氷と共に溶け消えてまったようです。

ここからは未来を生きる私の予想ですが、淡島寒月翁という人は、安政6年から大正の終わりという期間だからこそ成立し得たのだろうと思います。大正が終わって昭和に入って暫くしないうちに、日本は国家総動員戦に移ります。この段階で遊民という存在は完全に無くなります。更に、趣味もままならなければ、寒月達が愛した芸術の域が戦争に利用されるわけです。それに、その戦争の相手というのが、寒月が若いころ移住したいと思っていたアメリカや、友人の故郷であるイギリスなどですから、もし生きていたら相当苦しんだのだろうと思います。逆に、安政より前に生まれると、裕福な商家の息子とはいえ外国趣味にこんなにも入り浸れたかは不明なところですし、やはり明治の人というところでしょう。

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出来上がった文章を見ると、卒業させてくれるかはともかく、私の色々と遊び暮らした大学生活をよく表していると思います。所々に4年間で学んだことを散らすことができました。これで卒業認定していただければ、私の大学生活は確固たるものとして保証されましょう。まだ提出できてないのですが。

色々と寄り道しがちな私が、コロナ禍を経た2022年、世界に出る前に日本を知りたいのだと、志望書に書いて合格した日本文学科で、同じく世界に出たら「日本のことを皆から聞かれるだろう」と考え、研究を始めた人のことを研究出来たことは、偶然にしては嬉しいことです。

私は決して真面目な人間ではないので、志望理由も、これ以外にも色々あったのですが、当時は確かに西洋趣味で、なんだか一番説明が楽な気がしてこれを選びました。入学してからも、気の赴くままに、面白そうなことは全てやっていこうという気概で、大学生生活を送っておりました。文学に囚われず、社会学、東洋医学、史学、地学、民俗学、心理学、生物学、工学、法学、数学、京都では神社仏閣と教会を往復して。4年になって、Nor ekarri du ardo hau?と遠い国の小さな自治州の言語を呟きながら、日本文学科の学科で取るべき単位が未だ数単位足りないことに気づいた時には、流石に私は何をしているのかと悩んだこともありました。

しかし結局これが本筋で、地図は祖父、道標が教授たちで、その先にいたのが寒月で西鶴といったところなのでしょう。信念徹底、自発創生成り得たということで、本日はこのぐらいにしておきたいと思います。