大変ご無沙汰しております、みちるです。
瞬きをする時間が惜しいんです。
「目玉の干物でも作るのかね」
それもいいでしょう。君、ちょっとこっちに来なされ。
(間奏)
一度。しぱ、と瞬きする間に幾ら呼吸が止まるだろう。
二度。しぱしぱ、と瞬きする間に幾ら光の認識が止むだろう。
我々の働きは存在の限りにおいて止むことがないにしても、その創造力はいつか涸れ果ててしまうものだろうか。
考えたくない事柄、そして考えずにいればきっと生を停止したくなる事柄。
そうそう、光を認識する働きの有無が人間の生死そのものの指標であると語るのは、たしか川端康成の小説であった。
私、明るいところは苦手です。しみったれた根性と疚しさとを照らし出す、[言葉]以外の何者かが恐ろしい。太陽の前に起立するとき感得されるのは、闇の中に立つのと同じほどに強いられた孤独の実感である。酒に弱い私が胃を空にしては呑めないように、気晴らしなしに光と触れ合うのは難しい。しかしこれはいずれ必ず克服される課題である。
先の文章に照らせば、生の条件は孤独の認識であると換言出来る、であれば今度はその積極・消極が問われねばならないでしょう。
先日、江の島へ足を運ぶ機会がありました。
何年前からか、時間が出来たときに(とはいえ年に二度あるかという程度である)ふと一人で鎌倉の方へ遊びに行くようになった。時間も行く場所も適当なものだから、江の島行きもその日の朝に決めた。
現着の頃にはもう日が傾いていて――あの辺りの大通りなどはどこもかも田舎時間でせっせと店を閉めてしまうから――、駅前の施設や露店などを除けばもう中々入れる場所もなく、ふらふらと、名の通り”島”になっているところの植物園を覗いてみることにしました。
いや。植物園、アベックだらけ。なんか想像と違う。どうやらイルミネーションの時期だったらしく、私はここに来ても光を見ることになったうえ、なんだか体温の高い人々の間を人型の氷塊みたいに闊歩せねばならなかった(氷塊人間?)。
冬の夜、ジュース一本買えるくらいの入場料を投げて、寂しげな枝や乾燥した草木を見るのも楽しいだろうになあと悔しがりながら、人々とつま先を揃えられない私は[岩屋]の方へと向かっていました。
昼間であれば海の寸前まで下ったり岩屋の中を探索できるようだったけれど、およそ19時とあってはそれも叶わず。来訪者をまったく想定していない、電燈に至るまでが退勤済みの暗闇が広がっていた。植物園から岩屋の入口まで歩く中で徐々に周囲から人気は消え、ついには一本道になる――それを想えば広がるというよりむしろ、収縮する闇へと導かれていくと言った方が正確かもしれなかった。
”何か”出そうだ、ということよりも「ここで殺されたら見つけられないな」という心配が先立って、恋人と友人に連絡を入れ、ついでに携帯のライトを起動させた。諸君、見ているか。私は無事だよ。
ここで私の装備を紹介しておくと、江の島に入ってから露店で買ったぬる燗と蛸せんべいのごみ。あとは煙草や携帯・財布などを入れた鞄だけ。結論を急げば、夜の岩屋前はほろ酔いで行く場所ではない、ということ。海水との間を情けない柵一本で隔てられたような場所を通る際、風に煽られて危うく”見つけられない”ところでした。ただでさえふらふらしていますから……。
気の狂いそうなほど階段を上り下りした末に、大きな橋に辿り着く。周囲も変わらず暗闇であるものの、目が慣れてきたためか海の方がよほど黒く見える。先刻目の前にあった海岸があんなにも下にある、にもかかわらず岩々に強く打ち付ける波は、橋の上から眺めるほうがより荒く大きい。ざあ、と音がして、怪獣の棲処かと疑うほど高く恐ろしい波が立つ。
「あの飛沫もここまでは届くまい。」
しかし、次の波が作る飛沫はどうでしょうか。海と私は、人類と月の関係ではないのに。もしもこの鼻先に届いたら。
――自分に対して手の届かない位置にある何ものも脅威でないと断ずるのなら、我々は自分たちがなんと極楽の夢に慣らされきっていることかと笑わなくてはいけない。遠くの”海”を憂い、息が出来ないほど痛がる身体を遁世の詩人だと笑うよりも先に。
「寒そうなところだね」
「寒い。温めてよ」
「難し。」目の前にいないからね、当たり前でしょ、と微笑むひとの姿を思い浮かべながら携帯のライトを消した。相手は新宿、私は江の島、べらぼうに遠くもないと分かりながらなんとなく最後になったら嫌だなと思って、ピースに火をつけた(お行儀が良いのでポケット灰皿を持っています)。寒風吹きすさぶ中もたもたカチカチとやる不器用さが愛されるというのは本当だろうか……やっと一吸いするというとき、怪獣の姿は小さくなっていた。こっちは火、君は水、などと解釈することで境界が生まれたのかしらん、とにかく小さかった。小さくなったらそれはそれで怖かった、なんだ夜の海の暴力もこんなものかと思ってしまっていた。
光のあるところへ戻る際、テトラポットを見るたびに浮かぶ或る考えが脳裏をよぎった。即ち、ここにどれだけの人体が沈んでいるのかという話である。何人なのか、という算数ではない。そしてもう殆ど確かめようがない事柄である。
私は生有つ何者にも同情しない。だから、死者で算数をする必要性およびそれが生じてしまう環境を憎む。そうした環境が常に同情を生む。誰かの生の力を強く否定してしまう。いつだって「欲望」が「贅沢品」になる必要はないのよ、ねえ。あなたも、私も。
海はいいものですよ。ただ夜の海は二つも要らないでしょう。私が江の島で見た怪獣だけで、充分です。今度は昼間に見てみたいな。
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる