TONER

ご無沙汰しております、みちるです。

洗うか、洗われるか。という問題があるんです。

「「洗い」は、洗礼なのか。性行為なのか。」

その二つの選択肢はまったく別の方向を示している。
すなわち「洗い」はそれでしかないということを前提とするならば前者であろうし、「洗い」がそれ以外のものを表現する隠喩であると考えるならば後者であろう。そうとは云っても前者の考えは今日突然湧き立ったものだからよくわからない。
しかし、数年間考えてきた事柄が解決しようとしているのだからまともに向き合わなければいけない。「洗い」は或る批判の先に拵えられた実践なのか、それとも僧職者へ向けられたイコンなのか。何と共に描いてもゼロにならない「愛」であることに間違いはないと思うけれど、計算式の結果は結果としてあるのであって、それが描かれる場自体は別に存在させられることを忘れてはならない。

 

(間奏)

 

こんなことばかり考えて、起きてから眠るまで読んで書くだけの生活。話すことも考えることも身体化されていて、起きることや眠ることは実感として全くそれらの対極にある。読んで書いてをやることは、その中間くらい。
私の身体は書くしかない身体なのに、書くという行動は完全に身体と密着していない。つまり私の生はやっぱり何にも保障されていないということです。

あなただってそうですよ、あなたの実存だって何にも保障されていないし、足元には何もない。
その不安に苛まれて駄目にならないために最も手っ取り早いのは、人が人を生かすメカニズムのうちに取り込まれることです。出来て当たり前のことを当たり前にこなし、普通や平均に執心しないながらも過激なものには触れ合わない――そうすれば自ずと普通な感じになりますから。
平均化教育への反動は現代の精神病患者をあぶり出し、平均化教育の名残りがあぶり出された彼らをそのままにする。”普通”へと治療することも、そのままの有り様で社会へ参入することも許さない。それは治療が杜撰なため、適切でないためであり、また社会という動物の系譜に照らせば”普通”への志向がひとつの適応であるといえるためでしょう。そして彼らが異常であることを社会は容認し始めている、私たちが、いいえ私が、おかしいということを許されている。勿論、近づくことは許されないけれど、生きることを社会に許されている。私という実存への報復は私を生かすなかで達成されるのだ。

しかしこれでは大多数が不安で駄目にならないとして、我々は大多数を駄目にしないそのメカニズムによって、駄目であるという判断を下されてしまう。

それでは元も子もなくないか。

ジャン=ジャックの一般意思が政治的背景を当然に考慮して案出されたものだとして、現代社会にみとめられる一般意思は精神医学的背景を前提として形成されるのかもしれない。だってそう思わざるを得ないほど、不健康はそこらじゅうで膨らみ続けているじゃないか。
これはニーチェ以降の元も子もなさなのか、否、神の死以降のそれなのか――否、愚問である。すべて宇宙即ち己、自身によって決定されたことなのだ。しかし社会を己として鑑賞するには、社会はあまりに遠く私と隔たっている。
あまりに遥か、あまりに霞み、あまりに、あまりに色のない。

デカルトが死に、ベルクソンが死んだ世界。ケッチャムが死に、バロウズが死んだ世界。キューブリックが死に、澁澤龍彥が死んだ世界。彼らは生活のなかで忘れられる。研究の功績がなんだ、アカデミックがなんだ。私たちは彼らを誰も彼もに忘れさせないようには出来ないじゃないか。それなのに、忘れられずにしぶとく生き続けている全体主義者たちがいるというのは、あまりに残酷じゃないですか。
しかしそれでも我々を生かしてくる社会に、”生かされない”という方法で抗うのはクールじゃない。それは抗う者の運動の停止を意味するのみであり、大きな全体にとっては何の痛手でもないのだから。ああ、なぜこんなことを書かなければならないのでしょう。誰も、数であってはならないはずだ。それなのに。
私たちは、もっと賢くやらなければならない。21世紀の私たちは。

ブログ部で執筆するにあたって、政治・宗教の話題はタブーであるという説明を受けたことをよく覚えていて、そのきまり自体に了承して私はここにいる。ただ、政治的な身体については話をしなければいけない。どこどこのセクトがどうとか岸田政権がどうとかアベマスクがどうとか、そういう話がしたいわけじゃない。今自分が立っている場所を知らないことも考えないことも綴らないことも、ひどく危険だと言いたい。特定のセクトや思想に誰かを扇動するような文章だけは、上の禁止の存在理由というか趣旨に反すると踏んで書かずにきたし、これからもそんなものを書きたくはない。実際、私は「政治」の話をしたことはない。しかしあくまで政治”的”であること、政治的なものの話を、実存に関わる範疇内でやることはあります。そうしたことを検討しなくて良いのは、何も望まない者だけなので。
社会の中で生きようが或いは外側で生きようとしたって、何かを望むのであれば我々は適切に自分の置かれた位置と、己の実存とを見据えなければならない。それは勿論、我々自身の仕方でなくてはかないません。生活の素敵なことを書けるならそうしたいし、そうできるときはそうするでしょう。そうでないから、毎度あなたを困らせる話ばかり綴るのかも。

あなたにルンプロの気持ちがわかりますか。
私にはわかりません。
あなたにうまくやっている人の気持ちがわかりますか。
私にはわかりません。
私にわかるのは、そうですね、例えば適応から外れて、元も子もなくなって、駄目にされてしょんぼりした気持ちとか。だからちゃんとしようと思う。普通に頑張ろうという仕方では失敗するから、誰かと一緒に、そして、元も子もなさの前に項垂れてしまった人たちのためにも。

書いているうちに、これは誰かの受け売りだよなあということが意識されたりする。同じ物を見ようとすると、ついそこを見る者の轍を踏んでしまうことがある。

最近のインターネットでは千坂恭二の影響からか、バクーニンのつけた轍――それも再三踏まれたそれ――を踏みなおそうとする者たちの姿が見られる。どんなに偉大な者を追ったとしても、どんなに卑俗な者を求めたとしても、誰もかも変わらない。私はそうしたものを目にするたびに、自分もまた同様に誇らしく同時に恥ずかしいと断じられる存在なのだろうと想像する。
しかし私たちは或る轍を目にすれば、それを付けた者の人格を知ろうとするだろう。そういう健康さが、今もまだ息をしている誰かと誰かの間にも必要なのだとは思う。そう、私はボルシェビキを追いかけている場合じゃないのだ――実際、追いかけてもいないし。何かを追うのと同じだけのエネルギーをもって、煙草であなたに口づけなければいけない。

そう、ずっとこういう内容を書きたかった。また別のメディアで書く機会がありそうだから、アイデアが煮詰まったらそちらで更に筆を尽くすことにする。

今回は少し書きすぎてしまったかもしれません。飽き飽きさせてしまっていたらいやだな。
そういえば、一般入試ももう殆ど終わる頃でしょうか。思い出したように云ってはみたものの、まったく入試に関係のある内容ではありませんでしたね。
しかしみちるは受験生の皆さまを陰ながら応援しております。受験が終わった後にまず何を読むか、そう考える方とはお友達になれそうです。日本文学科にいらっしゃる方は、小林秀雄とか読んだらいいんじゃないですか。終わったらやりたいこと、入学したらやりたいこと、色々考えちゃいますね。

入学時点での必須教養みたいなものも正直無いと思いますし、春休みの間に急いで頭よくなる必要はないです。ご友人と沢山遊んだり、なんか、そう、色々したらいいんじゃないですか。
ちなみに文学部日本文学科は、思想哲学やら文学理論やらに興味がなくても文学をやるようになればなんやかんや楽しいと思います。私も入学前はブランショやド・マンやらについて語ることができなければ人権を失ってしまうのではないかと恐怖して付け焼刃の知識を装備して挑んだものでしたが、実際はロラン・バルトの名を知らなくても問題なく生きていける場所ですし、第一、知らなかったことはそこから知っていけばよいだけですから。皆、私より数段うまいこと大学生をやっていて羨ましいくらいです。彼女ら曰く、ほどほどに学び、遊び、交流するのがコツとのことです。最初に書き綴った通り、私にはそれができる人の思いがわかりません。全然うまくはやっていないと思うし。それに今もまだ知らないことだらけだ。それでもこういう”コツ”を(決して私に宛ててではなく)囁いてくれる知人はできましたし、コミュニティに期待してみるのも人によってはありなんじゃないですか。

あなたへ向けてものを書いているはずが、気が付けば「新入生」という一つの情況に己を投影して遊んでしまっていました。今回はここらへんで失礼したいと思います。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる