ヒガン

ご無沙汰しております、みちるです。

ギターの弦を張りかえるとき、毎回のように思い出すことがある。
見様見真似でバイオリンのチューニングをやってみた幼い自分の左頬を、ぷつんと切れたA弦が掠めていく。当時は何が起きたのかを理解していなかったのだと思う。ただとても近くで風が吹いたのを感じていた。
中学生の頃の記憶。6本の弦をそれぞれ張るときにもどうしてか脳裏によみがえる。
そしてその度、恐れではなく爽やかな焦りのような感覚がやってくる。

 

(間奏)

 

自分が何を恐れていて何を恐れていないのかが分からない。

先日、アルバイト先で初めて意識を失った。突然耳鳴りがして、外の空気を吸うために制服のまま店の扉を出た途端の出来事だった。客席からもスタッフからも見られたくないと思い素早く扉を閉めたところまでは記憶があるが、それを最後に床へ倒れ込んだらしかった。
スタッフの一人が偶然外へ出てきたのですぐに発見されたが、誰にも見られずに倒れることが良いわけがない。しかし誰かに見られて良い訳でもないため、自分はいざというときに助からない側の人間なのだと覚悟を決めるほかない。
意識が回復してから普段の状態に戻るまでには丸一日を要した。その間、肉体には大きな負担が掛かり、立ち上がって姿勢を正すのも苦しかった。勿論、苦しかったのは誰にも見られていないからであって、愛する誰かに見守られていたら苦しくはなかったはずだ。

体内の酸素が減少し続けた場合、意識喪失から8分間回復しなければ二度と戻ってこられない。私は自力で目を開けたとき、そこに自分の理性が関係しているようには考えられなかった。ただ自分の肉体の仕組みのために、きわめて自然に再び光を認識するようになったのだと思った。
自分がどこにいて、誰が近くにいて、それを度外視しても死ななくてよかったと素朴に感じる。しかし再び危険にさらされるかも知れないとか、死ぬかもしれないとか、先の出来事についてとか、そうした事柄の数々を恐怖しているような気がしない。恐怖に関して一切合切が曖昧にさせられている。

自身について、「楽観的にはなれないが目の前の事態を解決する力はないため明るい諦観がある」という状態を基本的なものとして把握している。今回のようなことがあって、この基本状態がスカしでも何でもなくきわめて真剣な真実であることがわかった。
「嫌だけど仕方がない」ことは、行動と覚悟次第でどうにでもなるならどうにかすべきである。これは明白なことだろうが、殊に自分自身の生き死にに関してはどうにもならない場合があまりに多すぎる。それは自分の生命について自分一人で全てを掌握しなければならないためであり、私は人間の生命について余りに知らなすぎる。

金木犀が香ってきた最初の日。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる