『風姿花伝』。能の大成者、世阿弥によって書かれた秘伝の理論書。そこには彼の高い理想とそこに到達するまでの決して華やかだけでは無い馬鹿真面目な努力、油断も隙もないシビアな現実を芸能者として生き抜く術が、世阿弥の絶妙なワードセンスとともに語られる。
多くの人が「風姿花伝」という単語を日本史の教科書で知り、マーカーを引かされ、そして少なからず一度は紅茶を想起したはずだ(メジャーな紅茶飲料「紅茶花伝」の影響)。そして多くの人が、それ以来その単語を口にしていない。
語尾が「ん」なのでしりとりで用いることも不可、四字熟語のようでも「温故知新」のように会話に登場させることもなし。
私もつい先日までは、その「多くの人」だった。
日本文学科の授業で「古典文学講義」を受講し、そこで『風姿花伝』を読むことになった。能の理論書、という概要だけ聞くと能を知らない人には理解に困難を要するものかと思う。しかし実際手に取ると、それは人生論であり、競争社会を生き抜く実践書であった。「風」「姿」「花」から想起させられる、可憐で美しいものばかりではなかった。
──お客を楽しませるためには飽きさせないことが肝心。そのために手札は多く持っておけ。
──幼いうちはその見た目や声のかわいさで会場は十分満足するので、演技の完成度にこだわり過ぎず自由に舞うのが良い。
──鬼を演じるのに荒々しくすれば恐怖心を与えるだけであり、女人を演じるのにしおらしすぎては見応えがない。常に観客の意外性を突け。
──技術や才能があっても、知識を蓄えたり「能とは何たるか」という思索を繰り返さなくては駄目だ。
──色々言ってはきたが、誰にでも良い波と悪い波がありいつでも調子がいいなんてことはないのだから、そういう時は無理をせず確実なものを適切にこなすがいい。そうして相手が悪い波に入ったときに切り札を見せれば必勝。
などなど、ここに挙げたほんの一部からでも、孤高の世阿弥が貫いた完璧主義の厳しさ、現実を見つめる目と勘の鋭さ、能への愛と不屈の精神が見て取れる。
……湿度のない風が枯れた綿の木を折るのを見ながら、私はこんな風に言葉を尽くしたくなるような何かが自分にはあるだろうかと思案した。
アルバイトの、塾講師の帰り道だった。唇の端と手の甲に微細な亀裂が入っている。それは暗闇にハクビシンらしきものを見つけた瞬間ピッと切れた。その時、気がついた。
塾講師。
この仕事に向き合う自分の姿勢は、能に向き合う世阿弥と近いものがある、と。
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まいです、ごきげんよう❀
近頃、採用されて一年にも満たない年下の塾講師アルバイターの態度が気になる。
とても真面目とは言えない無責任な姿勢に憤りを感じ、日々彼の授業態度を監視し耳を澄ましては、そういう時にとるべき行動を心の中で唱える。
子どもの前で講師を叱るべきではないと思っている。教師に叱られている教師に生徒は信頼感を抱けない。信頼を失えばどんなに言葉巧みに講義をしてもそこに説得力は宿らず、それはすなわち生徒の学業に影響するからだ。自分にとって信頼できない人でも、それを生徒に悟られてはいけない。
不覚にも、塾講師への私のこだわりはその人にむけて言語化されたことにより、いつしか理論書のように積み重なっていたのだった(もちろん『風姿花伝』には遠く及ばないが…)。
そこで今日のブログには「風姿花伝(ふうしかでん)」ならぬ「講師何伝(こうしかでん)」を記したいと思う。書き出すとキリが無くなるだろう。項目は厳選する。
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一、問う。塾講師は学校教員と何が違うのか。
答う。塾講師と学校教員では教えるものが異なる。学校教員は「内容・情報」を教え、塾講師は「その中でわかっていないこと」を自覚させることが使命である。
それが最適かは別として現在の教員は指導要領に則って教材の内容を伝える。多くの学生にとってそれは初めて耳にするものであり、新出情報としてインプットされる。
塾講師が教えることは、その中で「自分が何をわかっていないか」ということと「勉強の仕方」である。ここでは最も重要な前者について詳しく述べる。
塾では基本的に新しい情報は教えない。補習塾ならなおさらである。大抵、本人が学校で「覚えた」と思っていることの大半が「理解」になっていない。学校では最近習ったばかりのことに範囲を限定してテストを行うので、覚えのいい子はいい点数が出てしまい、この単元は理解したと思ってしまう。そして定期テストで成績が上の下くらいの子ほど、受験期の総合問題を目の前に自分のできなさにショックを受けるのである。この時期になると学校の定期テストでは上位にいなかったような人たちが全国模試で優位になったりする。そして彼らは大抵塾に行っているのである。
繰り返すが塾では、分からないことを自覚させることが肝心だ。英語なら「1文に動詞が1つ」「その動詞は時制・主語で変形する」の2点がわかっているかを確認する。
そこにさえ注意すれば解ける問題を10問解かせる。スペルは分からなければ片仮名でいいとしてとりあえず10問答えさせる。ここで丸つけをして答えを教えてしまっては、塾講師では無い。「間違えた」ことを知るのではなく、「解けなかった」ことを分からせなければ意味がないのだ。
回答を1問ずつ音読させ、「この中の動詞はどれか」「この動詞はなぜこの形なのか」の2つだけを聞く。答えられる子は正解しているが、多くの子が答えられない。そこで励ます。「今分からなかった2つのポイントさえ分かれば英語は簡単にできるようになるんだよ!」
ここで答えは教えない。ここで1問1問の正解を教えてしまったら、その子が理解したかの確認ができず、講師側が今後の方針に困ることになる。その日の授業は「1文に動詞は1つ」「動詞は時制と主語で変形する」ということだけを覚えさせ、最後に冒頭で解いたのと同じ問題を解かせる。
ここで重要なのは「満点」ではなく「今日教えたポイントを間違えていないか」だ。これでできていれば「大きいポイントクリアしちゃったね!!」と褒め達成感を与える。そしてもう一度「この文の動詞はどれ?」「なぜこの形にしたの?」と聞く。これが言えたら「理解」できたということだ。
答えられなければ講師は自身の教え方を振り返る必要があるだろう。
二、問う。勉強の仕方を教えると言っても、単語を暗記していなければ解けないものもあると思うが、その対応はどうするのか。
答う。暗記は生徒本人の問題だと思う人もいるがそれは違う。工夫して脳に働きかけるべし。
人は意識せずとも繰り返し見たものを記憶していたりするものである。席替えをした教室に配り物をする時、いちいち座席を覚えようとしなくても毎朝見ていれば自然と覚えてしまうのが、その例だ。
なので問題を出す際には、その子がよく間違える単語や覚えて欲しいものを繰り返し出すのが良い。問題を出したら生徒が解き終えるまで暇をするのではなく、解く様子を見ることも怠ってはいけない。スペルや単語が分からないという理由で手が止まっている場合はすぐに正しいスペルを教える。1度知ればその後はそれと同じ単語が何度も出てくるので覚えようとさせなくても自然と書けるようになるのである。自力で思い出させることも大事だが、スペルや単語に関しては間違ったものを繰り返し書いて覚えてしまうべきではないので、正しいものをすぐに教えそれを繰り返し視界に入れさせることが大事である。
また複数の単語を一気に覚えさせたいときはフラッシュカード形式も良い。とにかくひとつに時間をかけるのではなく、「一瞬見た」を「繰り返す」ことが肝心なので、余裕があればメモ用紙などに書き起こしカードをめくってあげると良い。
別の生徒を見る関係で1人にそこまで付きっきりになれない場合は、数十秒間タイマーをつけて「この時間内にカードを3周フラッシュしてみて」と言うのも良い。交感神経が働くとき記憶力も上がるという脳の性質を活かして短時間で確実に覚えさせるのである。
また、記憶は暗記したときより思い出した時に定着するので、次の授業など忘れかけている時期にその単語の入った問題を出し、思い出させることも大事だ。
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さてさて、項目をどの順に立てようか思案することでブログの更新日を遅延させて閉まっているので、とりあえず今回は最初の2つを紹介したということでしめたいと思います。
皆さんは、「風姿花伝」ならぬ「〇〇伝」、何か書きたいものはありますか?