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 今なんとなく読み直してみたんだけど前のホメエロスの話は少しわかりづらいですね。つまり、「こんな下らないうえにシモいネタを、畏れ多くも文豪の、それも全集を相手にブチかますバカがいるというのだから、この学校わりと居心地よさそうだな~」と思ったことで私は安心したのです。ほかにも何か日本女子大のローカル下ネタがあったら教えて頂けると幸いです。以上、在校生向けの私信でした。ひでえ私信だ……
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 先月初頭あたりに世田谷パブリックシアターで『K.ファウスト』を見てきた!

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 カール・ジムロックの人形劇『ファウスト博士』がベースとなっています。なお日本で日本人によって日本語で上演された演劇ですと、ゲーテ版ファウストは白井晃と筒井道隆が同じく世田谷パブリックシアターで演じた『FAUST ワルプルギスの音楽劇』、マーロウ版ファウストは蜷川幸雄が野村萬斎とBunkamuraのシアターコクーンで演じた『ファウストの悲劇』で見ることができます(なおすべてアレンジが加えられた内容なので必ずしもそれを正確になぞっているということはありません)。ほかにも『ファウスト地獄変』とかいろいろあるけど観る機会には恵まれておりません。
 というか白井ファウストすら観られませんでした。観たい!!! ものすごく観たい!!! DVDをなぜ出さぬ!!! あれ観られるなら悪魔に魂ひとかけなら売ってもいい!!!!
 とりあえず感想をざっくり箇条書きにしてみましょう。ちなみに前から二番目という素敵な席だよ。
・舞台の構造
 舞台の床を限界まで下げてある(舞「台」ではない)ため、天井が高い。空間が巨大。要所要所に加えて要らない所でまでサーカスやってましたから、高さにせよ広さにせよこれくらいは必要なんでしょう。空中ブランコは観客の頭のうえまで来る。
・紙芝居屋
 冒頭の紙芝居屋のくだりの意味がわからない。「たとえ意味がわからなくても割と許される感がある、そんな無限を擁する混沌の領域であることがすべてのファウスト物語を取り巻くオーラだと言えなくもないかも~」とかいうことをしかつめらしい文体で書かなければいけない気もするが、そもそもあれは教会の教訓本(という体裁を取りながら教会の眼を潜り抜けて人々を楽しませるための民衆本)なので、目に見えて明らかに無駄な部分というのはあんまりあるべきじゃないんじゃない……かな……? それとも私が気付いていないだけで実は意味があったのかしら。
 なおその流れで行くとサーカス団が執拗に出て来る意味もわからなくなりそうだが、あれは「これまでの(学者一筋で生きてきたころの)ファウスト博士にもっとも縁のなかった世界」を示しているからいいのです。ただちょっと出過ぎじゃないかとも思いましたが、わざわざフランスから来させたんだし仕方ないんじゃね。
・史実ファウスト
 ファウストがシュタウフェン城の実験室で金を錬成しているところに始まって、ファウストがシュタウフェン城の実験室を爆発させるところに終わります。最初と最後を史実によって繋げることで包み紙に覆われているキャンディーのごときまとまりがあるように感じられるかもしれませんが、むしろこれのせいで混沌(誉めてない)になっている気がしました。なんとなくなので説明はできません。すみません。
・笹井ファウスト
 老人時代は完璧だと思いますが、若返ったあとは別の役者でもいいのではないか?
 とは割とよく思うんだけど、なぜか大抵のファウストは同じ人が老若を演じていることが多い気がする。若返り後を違う俳優が演じたのは『悪魔の美しさ』のジェラール・フィリップとルネ・クレールくらいではないでしょうか(なおこれは「若く美しいメフィストと老いさらばえたファウストが容姿を交換する」というやり方で若返るので俳優の数は増やさずに済むというナイスローコスト仕様でした)。若人が老ファウストを演じたのちに特殊メイクを脱ぎ捨てて若ファウストを演じるのならまだ分かりますが……思えば『ハウルの動く城』で倍賞が若ソフィーを演じたとき、老人による老若ひとり二役の難しさを思い知ったものですよ。笹井の演技自体は素晴らしかったと思うけどやっぱり老人は老人よねー。元気な老人かガチの老人かってだけの話に見えるよ。
 しかしそれを考えながら見てみますと、あのサタデーナイトフィーバー的ファッションやメイクやヘアスタイルは、きわめて分かり易い笑いどころであると同時に、老いたものが必死で若さを求める姿の滑稽さ・醜悪さを表現しているのかもしれません。それがこの「若さ」に纏わる部分だけだと、ジムロック版ファウスト博士という人物が持つ主旨や主題はそうした(いわば『ベニスに死す』のアッシェンバッハ的な)おセンチメンタリティーには含まれてねえよ! ボケが! って感じになってしまうのですが、その後に待ち受けている神を裏切ったものが必死で救済を求める(しかし自ら信仰を取り戻すことはしないため、たとえば「働かんけどメシくれ」と言うのと同じ、まったく利己的な要求をしている)姿の無様さへ向けての予兆だと考えると、なかなか悲劇的で素敵だと思います。
 結論としては、「老いた俳優が若い美男子を演じる」という無理な状態も、作品のメッセージを伝えることに成功しているので悪くなかった。
・串田メフィストフェレス
 ヤクザっぽいよ……わざとやってるんでしょうけど……箒の柄のように体重減らしてきてよ……あと片脚は義足だから足音変えてよ……。メフィストがヤクザっぽいイメージだというのは百歩譲ってまあ分かるんですが、あの体格とあの顔立ちとあのしゃべり方ではヤクザっぽいのを超えてただのヤクザだ。オペラだったらバスボイス出さなくちゃいけないから多少のデブもやむなしと思いますけど、これ演劇よ。マイクついてるじゃないのよ。しかしここで串田の見た目がおっさんだとかいうところに文句を垂れすぎていると「おまえはファウストとメフィストにドイツ版東海道中膝栗毛を求めているのか」と問うてくる己が生じるのでそろそろ黙る(割とその通りなんですが)。
 なおラストの抱擁は多少やりすぎだと思った。「なんでこれしんみりしてるんだっけ?」とよく分からなくなった。う~ん
・雛形パルマ/マルタ
 雛形あきこさんのお名前はクレヨンしんちゃんで知りました。しんちゃんの気持ちも分かるほどお綺麗でした。
 パルマ公妃は『ファウスト』の系譜においてはたいてい不倫なるときめきでファウストをたぶらかす悪魔として登場し、一定の時期(多分ゲーテが第一部を発表する時期)まではヘレナの次にレギュラー登場していたダークヒロインだったのですが、最近はとんと見ないイメージ。
 あの鳥は何だったのかというのがちょっと気になるけど、まったく思い当たりません。アホウ鳥か何かか?
・小日向カスペル
 彼はジムロック版にだけ見られるキャラクターです。
 愚かな道化の役割ですが、ラストでリアリストの面をあらわにします。つーかそこまででもずっとデクの基礎は割とリアリスト的だったんだけど、そのうえに乗っている行為が行為だったので、彼の家がどんな基礎のうえに建てられているのか微妙に気付きづらい。ただ今回は無駄に謎めいた存在としての設定(として解釈されかねない台詞)が多く耳につくようなシナリオだったせいか、彼にまつわる部分の片付け方があまり綺麗ではないように思われる。アウアーハーンとの関わり合いが尻切れトンボなのは原作からしてそうでしたから仕方ないと思うけど。
 ファウストがカスペルの愚かさにつけ込んで彼を身代わりにし助かろうとするシーンが個人的にはファウストの醜さと哀れさのハイライト、ひいてはジムロック版ファウストのハイライトであると考えているのですが、かの演出においてはそのシーンが微妙にコメディっぽく見えるかもしれません。ただ小日向が恐くすると本気で恐いんでそれくらいのほうがいいのかな? 原作ではファウストの地獄堕ちを尻目に彼が嫁さんのグレートゥルと踊り狂うシーンで終わる(はずな)のですが、今回は嫁の出番なしでした。そのため、根無し草の大馬鹿に見えたカスペルこそがつまらぬながらの仕事とささやかながらの収入と不仲ながらの嫁を手に入れ、あらゆる学問を手にした大先生であったファウストがすべてを失って後悔と絶望のなか地獄に堕ちる、というコントラストは今回多少の欠損を見ました。
 ちなみにゲーテ版がないころに書かれた話だからカスペル嫁の名前とマルガレーテのあいだには何の関連性もありません。
 なお演劇の話からは離れますが、
 ここでは「手に入れた側」であるカスペルでさえそれほどいいものを手に入れたわけでもありません。このまま夜警の日々を繰り返して命をすりつぶしてゆき、いつかはつまらぬ市井のひとりとして死んでいくだけです。本書は民衆を楽しませるべくして著された作品であるはずなのに、その最後はあたりまえの人生というものへの静かな絶望を感じさせる終わり方になっているわけです。即ち、「それより上のものは手に入れられないかもしれないが、それより下などいくらでもあるのだからね」という消極的な慰めと諌めと諦めがそこにはあります。
 先にも書きましたがフィクションとしての『ファウスト』は最初、教会の眼を盗みながら悪魔との旅を面白おかしく描く夢いっぱいの物語として発生したと言われています。それがカスペルの持つカンテラの、ファウストの果てしない堕落を照らしつけるわけでもない薄暗い光によって、再び「教会の訓戒書」という役割に還ってきているのが、どこか悲しく、そして魅力的だと思います。
 ……などとシメらしいことを言いましたが、ついでに書き添えておきますと、ここでカスペルの放つ光がまばゆすぎるとファウストの人生のドン底悲劇な味わいが薄まってしまうというのもあるでしょう。それでは意味がありません。つまり、「あんなに薄汚くて惨めで楽しくもないものですら俺には絶対に手に入れられず、そして羨ましくて仕方がない」って気持ちのなかで苦痛に満ち満ちた死を迎え、永遠に苦しみ続けるっていう展開こそが、いわゆるファウストの劫罰であり、民衆をウルトラサディスティックな法悦に楽しませてくれる最高の見世物小屋なのです! すばらしい!! つまり教会の訓戒と人民の法悦は、その内部接続の不道徳さを教会が無視できるのなら充分に同居し得るのである。やった~有りうべくはずもないと思われていた友情の実現だイエ~イ
 もっともこの演劇に関して言えばラストだけ明確な改変を加えてあるため一応ハッピーエンドでして、それはそれで希望ある良い終焉だとも思ったのですが、あの嗜虐的な絶頂を待ち構えていた身としてはなんとなく寂しい気もしました……(´・ω・`)ショボン でもたまにはこういうファウストもいいよね。ただ日本製ファウストってやたら終わり方がハートフルな気がする(もちろん宗教的土壌の奔放さもあるだろうが、手塚治虫の残した影響もあるとしたらすごいな……)。
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 とりあえず書きたいことは書いた