如月

 2月に入ってから朝電車の中で「この子はきっと私大入試に行くんだ……」とか、「この親子は中学入試だな……」とか思いながら移動しています。えらい、本当に頑張ってほしい。自分が中学受験した日の朝とか大学の入試で緊張して胃が痛かった時のこととか、あれやそれやを思い出しますね。

 わたくし硬式庭球部に所属しているのですが、2月3月に大会があることもあり、春休みは精力的に活動しています。ちゃんと朝と呼べる時間に起きて運動してご飯もたくさん食べて。大学生にしては割と健康的な生活を送っているのではないでしょうか。授業がある時期よりは気持ち生活リズムが整っているような気がします。
 2月7日はシングルスの試合があり、また明日はダブルスに出場します。そう、これは7日より前に書き準備をしておいた文章……。

 2月になると思い出すのは受験のこと、部活のこと、そして高校の修学旅行のことなんかですかね。行き先がカンボジアだったんですが、まあ鮮明に覚えています。よく海外行くと価値観変わる、みたいなこと言うじゃないですか。実際それは結構あるんじゃないかな〜と思っていて、特に私は行く場所によって変わる幅が全然違ったなと思います。中学の時の修学旅行先はカナダだったんですがその時は視野が広がった感じはありつつもそこまで大きく価値観変わった、みたいな感じではなくて。文化、気候、自然なんかは当たり前に日本と異なりますが、生活水準に関しては少なくとも私が見た範囲ではカナダと日本は似たり寄ったりなんですね。そこが大きかったかなと思います。逆にカンボジアに行った時は価値観というか考え方、物事の捉え方がガラッと変わりました。世界のこと、人間のこと、知ってるつもりで何も知らなかったんだな〜と感じました。時期的に入国、帰国制限がかかるギリッギリのタイミングで行ってきたのですがこの経験はすごく大事にしたいな、行けてよかったな、と思う修学旅行でした。本気でいちから語ろうものなら何時間かかるか分からないので詳細はもし機会があればそのうちお話しすることがあるかも、と思っています。すごく貴重な経験で興味深い旅だったな。
ひとつだけ、確実に変わったのは、カンポットの胡椒農園に行ってから胡椒が好きになったことですかね。胡椒の匂いが好きになりました。

 何年前の今頃こんなことしてたな、っていう話って事ある毎に、いや事なくてもなんとなくしたりするじゃないですか。カンボジア行ってきたエピソードは自分の中でかなり強烈な思い出になったことが多く、私はこれを一生擦るんだろうなと思っています。ネタが切れたらこの時の話をちょっとずつ切り崩しながらブログを更新するかもしれません。では。

さ行の独り言

まいです、ごきげんよう❀

今日はつぶやいていきたいと思います。

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「さ」探しもののアリカは基本単純。

先月、私は友人と「脱出ゲーム」に挑みました。様々なトリックを暴きながら謎を解きあかして密室から脱出するという体験型アトラクションです。狭い部屋で制限時間が50分ときたら余裕と思っていましたが、いやいやヒントカードを頻繁に召喚させタイムギリギリで脱出という出来。焦りすぎて何度頭をぶつけたことか。つまりは、とても楽しかったです。おかげで「脱出しに行ってくる」という大矛盾の言葉にはまりました。前日まで少し気分が沈んでいた私とその要因を理解し、金箔をまぶすように明るく照らしてくれた友人。あなたのその謎はまだまだ解けないし、脱出できそうにありません。

「し」森羅万象は実は一つなのかもしれない。

 「きのこの山」が「山」か「里」かわからなくなったときは「きのこが山の形をしてる」と覚えればいいんだとふと思った時、とても感動しました。きのこは山の形をしていてその集まりも山の形をしていてそしてそれは山にある、ということは、山は沢山の大小の山の集まりといえるし、きのこは実は一つの山という生き物の一細胞ともいえる……?随分と昔に思ったことがある。一本の樹の枝の形と、一枚の葉の葉脈はとても似ている。その木々が集まっている様子も葉脈に似ている。人が腕を広げると樹に似ている。人の血管も葉脈に似ている。海に住んでいる魚の体の中には海のように水が溜まっている。人の体の中にも水が溜まっている。樹の幹の中にも一葉の中にも溜まっている。人の涙は雨のようだし、生き物は風を吹くことができる。すべてのものは実は同じ現象の繰り返しで、あるいは一つの呼吸であり生命であるのではないか。名付けなければこの世のものはすべて一つだったのかしら……。答えがないところに思考の楽しみはあるのだからここで終わらせたって責めないでください。

「す」澄みきった空が鋭く裂けている。そこでは大地の声がこだましている。

 今月の5日、私は合唱の大会のため初の山梨県へ行きました。やはり驚くのは高速道路の向こう側の富士山の圧倒的な大きさ。私の知っている、お菓子のアポロの水色バージョンみたいなそれとは別物の、厳格で逞しい構えの象色の岩山。車を降り空を仰ぐと、遥か昔からいる神様への尊敬のような気持ちが無条件にあふれ出てきます。すごい、とか綺麗じゃなくて「ありがとうございます」と言いたくなるような不思議なありがたみ。ああそうか、私はずっと昔からこの人に伝えたかったんだ。

「せ」“青春”の文字にはたくさんのハードルがある。

「そ」それでは今日はこのへんで。良い夢を。

今こそパワーを発揮せよ

こんにちは、さゆりです。

 私は最近観劇に行っていない舞台オタクですが、気になって仕方ない作品があります。

それは源氏物語をテーマに用いた舞台!!

なんと初日が今日。元タカラジェンヌの皆様方が.5のキャラクターを演じるという異例の舞台でして、キャラクター達が出陣する舞台の設定が源氏物語なんですね。発表された時は驚きすぎて目玉が飛び出るかと思いました。

しかも推しのビジュアルがとんでもなくかっこよくて…………見た目、仕草、芝居、歌、細やかな箇所まで全てが完璧な皆様方、もう若手俳優が演じるよりかっこよくて美しいのではというレベルでビジュアルが良すぎて滅多に買わないグッズを思わず購入してしまう程です。

流石、タカラヅカ・クオリティ。既に元ジェンヌの方が推しではあるのですが、今年は宝塚の舞台を一本観に行きたいという目標もあるので自ら沼に浸かりにいきたいと思います。

 テーマが源氏、キャストが全て女性であるというのは事前に情報が出されていましたが、初日の配信が終わってからは「『あさきゆめみし』を読んで!」「源氏予習しておいて!」という声が多数あがっているので知識がないと内容が理解しにくいご様子。普通、いきなり予習しろと言われてもあまりにも長すぎてどこから手をつけたらいいのか分からないですよね。

今までは歴史がメインの作品で文学にはほとんど関わりがなかったので、ここでは蓄えた知識が役に立たないなぁなんて残念に思っていましたが、今こそ中古好き日文生の力を発揮する時。こつこつ積み重ねてきた知識で考察ができるっていいですね。まさか観劇の考察で役に立つとは思っていませんでした。

感想を眺めていると「美しすぎてもはや美の暴力」とのことで、舞台写真を見れば一目瞭然ですが漏れなく全員かっこよすぎるんですね。舞台上の空間がお耽美…………しかも脚が長すぎてみんな股下が3メートルぐらいある……………………

残念ながら現地のチケットは取れなかったので大楽配信参加組ですが、推しの美の輝きを存分に浴びる為にも今から源氏を復習しておこうと思います。

では、また!

なんとかなる

こんにちは、みどです!
ブログ記事を書けるのも指で数える回数になりました。寂しいなぁ。
という訳で、今回は私の大学生活を振り返ることにします。
最期の大学生活が始まった四月の頃、卒業単位に満たしていない単位数に頭を悩ましながら、最後の履修登録を行ったのを思い出しました。単位が足りるか何回も何回も確認して、あの時間が一番つらかったです😿
先日、私の大学生活最後のレポート提出を終えて、「これで最後か~」というしみじみした気持ちと「しっかりレポート書いたんで、ぜってえ単位くれよな…!!」という卒業がかかった命乞いの気持ちで、感傷に浸る間もなくささっと提出ボタンをクリックしました。

私の大学四年間、ほ~んとうに、怠惰だったなあと感じます。本当に。
高校生までの学生生活、いいこちゃんムーブしすぎた反動が、大学生活で返ってきたのかな…と思います。親元や地元を離れて、一人暮らしを始め、自由な時間が増えた分、自分で行動したり選択する機会が増え、それがしばしば自分にとってストレスになる事がありました。それがきっかけで、学校生活では単位を落としたり、日常生活では体調を崩しやすくなったり、物忘れが激しくなったり鬱っぽくなったり…。私にとっては、この四年間は学業だけでなく、子どもから大人になる自分の身体や精神の変化が顕著にあらわれた学生生活だったな…と思います。ただ、それはマイナスなことだけじゃなくてプラスになった面もあって。自分と向き合う時間が増えて、「自分ってどんな人間なんだろう」「自分は何になりたいんだろう」と自問自答することによって、自分を理解し、内側から自分のことを好きになれたような気がします。

そんな、精神的に激動の四年間を過ごしたわけなのですが、四年の後期まで必修の第二外語の単位を取ってなくてまーじで焦りましたが、なんとか取れた(と信じたい)……
逆にですよ。四年の後期までこんなのほほんとしてても、単位足らなくて焦ってヒィヒィ言ってても、なんとかなります、きっと。生きてれば何とかなる。これ読んでる下級生、安心して👍
そして、この時期に読んでくれているかは分からないですが、受験生!
この時期はメンタル弱くてやられちゃうかもしれないけど、そんな時は深呼吸。一息ついて自分を鼓舞して。みんなならやれるよ。大丈夫。これまでの努力が実を結ぶよ。もしダメだったら…なんとことは、ダメだった時に考えればいいよ。絶対なんとかなる。頑張れー!

以上、「なんとかなる」マインドのみどでした。

運とタイミング

こんにちは、とみーです。

この頃北風が強くて困ります。私の部屋は北向きにあって、しかも家の北側には乾いた畑。窓際が砂埃祭ですし、風の音で目覚めることもしばしばです(笑)
冬は好きな季節ですが、この風だけでは止まってくれればなぁと思う日々です。

さて。大学四年生の生活を振り返ると、やっぱり卒論!就活!となりますね。
私は卒論は割と順調に(?)調べて書くこともできて、本当に中世ゼミに感謝感謝…といったところなのですが。就活は本当に酷かったです(笑)
といいますのも、私が最も優先させたかった条件が

・基本的に自転車30分(駅まで自転車20分なので職場に直接行きたい)
・実家通い全国転勤なし(埼玉県内の東京ベッドタウンのさらにベッドタウン)
・土日祝日年末とか普通に休み
・そのほかなんでもばっちこい

という感じで、とてもワガママだったんですね。
で、地元は工業や製造業はまああるけど…くらいなので、色々考えて、コミュ力とかは自信あるし、公務員め~ざそ!クレーム対応慣れてるし、残業あってもまあ一生頑張れる! と。

で、あんまり準備しないまま夏採用で大失敗。謎の鋼のメンタルで半年待って冬の二次募集で合格!(一月末の出来事)

こんな粘り勝ちできる人もいるので、夢や条件を妥協しすぎず、皆さん、頑張ってください! 大丈夫! 私の人生のモットーは「人間万事塞翁が馬」、我が家の家訓は「人生は運とタイミング」です。

受験生の皆さんも、これから就活に挑む皆さんも! 縁と運とタイミングと自分の努力を信じてがんばってください!

それでは、また。

TONER

ご無沙汰しております、みちるです。

洗うか、洗われるか。という問題があるんです。

「「洗い」は、洗礼なのか。性行為なのか。」

その二つの選択肢はまったく別の方向を示している。
すなわち「洗い」はそれでしかないということを前提とするならば前者であろうし、「洗い」がそれ以外のものを表現する隠喩であると考えるならば後者であろう。そうとは云っても前者の考えは今日突然湧き立ったものだからよくわからない。
しかし、数年間考えてきた事柄が解決しようとしているのだからまともに向き合わなければいけない。「洗い」は或る批判の先に拵えられた実践なのか、それとも僧職者へ向けられたイコンなのか。何と共に描いてもゼロにならない「愛」であることに間違いはないと思うけれど、計算式の結果は結果としてあるのであって、それが描かれる場自体は別に存在させられることを忘れてはならない。

 

(間奏)

 

こんなことばかり考えて、起きてから眠るまで読んで書くだけの生活。話すことも考えることも身体化されていて、起きることや眠ることは実感として全くそれらの対極にある。読んで書いてをやることは、その中間くらい。
私の身体は書くしかない身体なのに、書くという行動は完全に身体と密着していない。つまり私の生はやっぱり何にも保障されていないということです。

あなただってそうですよ、あなたの実存だって何にも保障されていないし、足元には何もない。
その不安に苛まれて駄目にならないために最も手っ取り早いのは、人が人を生かすメカニズムのうちに取り込まれることです。出来て当たり前のことを当たり前にこなし、普通や平均に執心しないながらも過激なものには触れ合わない――そうすれば自ずと普通な感じになりますから。
平均化教育への反動は現代の精神病患者をあぶり出し、平均化教育の名残りがあぶり出された彼らをそのままにする。”普通”へと治療することも、そのままの有り様で社会へ参入することも許さない。それは治療が杜撰なため、適切でないためであり、また社会という動物の系譜に照らせば”普通”への志向がひとつの適応であるといえるためでしょう。そして彼らが異常であることを社会は容認し始めている、私たちが、いいえ私が、おかしいということを許されている。勿論、近づくことは許されないけれど、生きることを社会に許されている。私という実存への報復は私を生かすなかで達成されるのだ。

しかしこれでは大多数が不安で駄目にならないとして、我々は大多数を駄目にしないそのメカニズムによって、駄目であるという判断を下されてしまう。

それでは元も子もなくないか。

ジャン=ジャックの一般意思が政治的背景を当然に考慮して案出されたものだとして、現代社会にみとめられる一般意思は精神医学的背景を前提として形成されるのかもしれない。だってそう思わざるを得ないほど、不健康はそこらじゅうで膨らみ続けているじゃないか。
これはニーチェ以降の元も子もなさなのか、否、神の死以降のそれなのか――否、愚問である。すべて宇宙即ち己、自身によって決定されたことなのだ。しかし社会を己として鑑賞するには、社会はあまりに遠く私と隔たっている。
あまりに遥か、あまりに霞み、あまりに、あまりに色のない。

デカルトが死に、ベルクソンが死んだ世界。ケッチャムが死に、バロウズが死んだ世界。キューブリックが死に、澁澤龍彥が死んだ世界。彼らは生活のなかで忘れられる。研究の功績がなんだ、アカデミックがなんだ。私たちは彼らを誰も彼もに忘れさせないようには出来ないじゃないか。それなのに、忘れられずにしぶとく生き続けている全体主義者たちがいるというのは、あまりに残酷じゃないですか。
しかしそれでも我々を生かしてくる社会に、”生かされない”という方法で抗うのはクールじゃない。それは抗う者の運動の停止を意味するのみであり、大きな全体にとっては何の痛手でもないのだから。ああ、なぜこんなことを書かなければならないのでしょう。誰も、数であってはならないはずだ。それなのに。
私たちは、もっと賢くやらなければならない。21世紀の私たちは。

ブログ部で執筆するにあたって、政治・宗教の話題はタブーであるという説明を受けたことをよく覚えていて、そのきまり自体に了承して私はここにいる。ただ、政治的な身体については話をしなければいけない。どこどこのセクトがどうとか岸田政権がどうとかアベマスクがどうとか、そういう話がしたいわけじゃない。今自分が立っている場所を知らないことも考えないことも綴らないことも、ひどく危険だと言いたい。特定のセクトや思想に誰かを扇動するような文章だけは、上の禁止の存在理由というか趣旨に反すると踏んで書かずにきたし、これからもそんなものを書きたくはない。実際、私は「政治」の話をしたことはない。しかしあくまで政治”的”であること、政治的なものの話を、実存に関わる範疇内でやることはあります。そうしたことを検討しなくて良いのは、何も望まない者だけなので。
社会の中で生きようが或いは外側で生きようとしたって、何かを望むのであれば我々は適切に自分の置かれた位置と、己の実存とを見据えなければならない。それは勿論、我々自身の仕方でなくてはかないません。生活の素敵なことを書けるならそうしたいし、そうできるときはそうするでしょう。そうでないから、毎度あなたを困らせる話ばかり綴るのかも。

あなたにルンプロの気持ちがわかりますか。
私にはわかりません。
あなたにうまくやっている人の気持ちがわかりますか。
私にはわかりません。
私にわかるのは、そうですね、例えば適応から外れて、元も子もなくなって、駄目にされてしょんぼりした気持ちとか。だからちゃんとしようと思う。普通に頑張ろうという仕方では失敗するから、誰かと一緒に、そして、元も子もなさの前に項垂れてしまった人たちのためにも。

書いているうちに、これは誰かの受け売りだよなあということが意識されたりする。同じ物を見ようとすると、ついそこを見る者の轍を踏んでしまうことがある。

最近のインターネットでは千坂恭二の影響からか、バクーニンのつけた轍――それも再三踏まれたそれ――を踏みなおそうとする者たちの姿が見られる。どんなに偉大な者を追ったとしても、どんなに卑俗な者を求めたとしても、誰もかも変わらない。私はそうしたものを目にするたびに、自分もまた同様に誇らしく同時に恥ずかしいと断じられる存在なのだろうと想像する。
しかし私たちは或る轍を目にすれば、それを付けた者の人格を知ろうとするだろう。そういう健康さが、今もまだ息をしている誰かと誰かの間にも必要なのだとは思う。そう、私はボルシェビキを追いかけている場合じゃないのだ――実際、追いかけてもいないし。何かを追うのと同じだけのエネルギーをもって、煙草であなたに口づけなければいけない。

そう、ずっとこういう内容を書きたかった。また別のメディアで書く機会がありそうだから、アイデアが煮詰まったらそちらで更に筆を尽くすことにする。

今回は少し書きすぎてしまったかもしれません。飽き飽きさせてしまっていたらいやだな。
そういえば、一般入試ももう殆ど終わる頃でしょうか。思い出したように云ってはみたものの、まったく入試に関係のある内容ではありませんでしたね。
しかしみちるは受験生の皆さまを陰ながら応援しております。受験が終わった後にまず何を読むか、そう考える方とはお友達になれそうです。日本文学科にいらっしゃる方は、小林秀雄とか読んだらいいんじゃないですか。終わったらやりたいこと、入学したらやりたいこと、色々考えちゃいますね。

入学時点での必須教養みたいなものも正直無いと思いますし、春休みの間に急いで頭よくなる必要はないです。ご友人と沢山遊んだり、なんか、そう、色々したらいいんじゃないですか。
ちなみに文学部日本文学科は、思想哲学やら文学理論やらに興味がなくても文学をやるようになればなんやかんや楽しいと思います。私も入学前はブランショやド・マンやらについて語ることができなければ人権を失ってしまうのではないかと恐怖して付け焼刃の知識を装備して挑んだものでしたが、実際はロラン・バルトの名を知らなくても問題なく生きていける場所ですし、第一、知らなかったことはそこから知っていけばよいだけですから。皆、私より数段うまいこと大学生をやっていて羨ましいくらいです。彼女ら曰く、ほどほどに学び、遊び、交流するのがコツとのことです。最初に書き綴った通り、私にはそれができる人の思いがわかりません。全然うまくはやっていないと思うし。それに今もまだ知らないことだらけだ。それでもこういう”コツ”を(決して私に宛ててではなく)囁いてくれる知人はできましたし、コミュニティに期待してみるのも人によってはありなんじゃないですか。

あなたへ向けてものを書いているはずが、気が付けば「新入生」という一つの情況に己を投影して遊んでしまっていました。今回はここらへんで失礼したいと思います。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる