皆さんこんにちは。みちこです。
本記事の投稿日は4月1日。新たな学年の始まりの一日です。
進級した2年生以上の学生は本日、新学年のガイダンス日でした。いよいよですね。
私は春休み中、授業が始まってほしくてほしくて仕方がない、マイノリティー側の学生だったので、こうして新学期が始まってくれた(ようやっと授業が始まってくれる)ことに喜びしか感じておりません。
どうせまた大変だし、忙しいのでしょうが、それを差し引いたとしても好きなことを好きなだけ学べるこの感覚はそう長く味わえるものではないでしょう。しばらくはこの感覚に浸ることとします。
さて、本日のテーマは「想像と知識」としました。
これは前に書いた「発想の源」という記事に書いたもの(https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/05/07/)とテーマ自体は似ていますが、観点は違います。この記事は「創作活動における」発想の源というつもりで書いています。
しかし今回は「鑑賞における気づき」という側面が大きいものとなっています。
前者が「アウトプット」だとするならば後者(今回の記事)は「インプット」により近い性質のものだと思って頂けると良いかな、と思います。
などと分かりにくそうなことを並べていても伝わりそうもないので、ご説明しますね。
先日、念願叶って能を鑑賞しました。我が学科の中世分野担当の石井倫子先生と、先生の授業を取っていた有志の生徒10数名と共に「武文」を鑑賞してきました。
「国立能楽堂」という東京は千駄ヶ谷にある能楽堂で鑑賞してきました!(あいにくの空模様でした…)
正直「これが能でいいのか!?」という感想を第一に抱きました。
皆さんは「能」というとどんなことをイメージされるでしょうか…?
おそらく大多数の人が「伝統芸能」という名ににじみ出る「お堅い」イメージを思い浮かべると思います。私もそうでした。(石井先生の講義を取って何度も「そうではない」のだと教えられたところで、やはり実物を見ないことにはそのイメージを完全に払しょくすることは出来ませんでしたし…)
では、何がそんなに私を驚かせたのか。
それは、「役者の演技」と「演出」の二つの要素だと私は思いました。
①役者の演技
鑑賞していて特に印象に残ったのは「舵取り」の演技でした。かなり現代劇風だったからです。「舵取り」は野村萬斎さんが演じていたのですが、まず登場時からかなり印象に残りました。
この役は登場時から「お調子者」というか「チョイ役」みたいな立ち位置だったのですが、それが私たちがイメージするそれらの役のイメージとピッタリ重なっているように感じました。
先述の通り、能は「お堅い」イメージがどうしても拭えないでしょうからその壁を取っ払って少しでも「親近感」を味わってもらうための「新演出」だったのだろうと思います。
にしてもあれだけオーバーな演技が演目の世界観と離れることもなかったというのは、間違いなく役者である野村萬斎さんの力量であるのだろうな、と(誠に勝手ながら)思いました。
②演出
「火つけ」の演出に特に驚きました!成人男性一人が両手で抱えるくらいの大きな松明(火の部分はおそらく糸か紙かを使用している)が出てきました。まるで現代劇のような形の小道具が能の世界から飛び出してきたことに驚きました!
しかもこの時の火付け役の演者の動きも、能舞台全体を使って「屋敷に火をつける」動きをしており、「新演出」と銘打っているだけあるな…と思いました!
「能ってこんなに現代チックでもいいんだ…!」という驚きと共に私は囃子、いわゆる「バックミュージック」にも注目しながら見ていました。
さて、ここからが本題です。(←遅っ!)
演目が始まる冒頭部分、けたたましく鳴る笛の音とともに「武文」は幕を開けました。
この部分は「夜」の部分であるという注釈がついていましたが、夜の殺伐とした雰囲気を開幕の笛の音、小鼓や太鼓(そして打者の声)で表現するというのは中々に想像力が広がる演出をしたな、と思いました。
(ここからは完全に個人の感覚の話になるので、全く共感できない人もいるかとは思いますが、ご容赦下さい。)
開幕の笛は夜に活動を始めるような、鳥の中でも獰猛な部類の鳥の鳴き声であろうと想像しました。それらの動物たちが夜に活動を始め、反対に昼間に活動をして、夜に活動をしない動物たちはそれらの動物たちに狩られないよう、おびえながら夜を越すしかない。私はこんなイメージを抱きました。
(あるいはあれは、「木々が風にこすれて揺れる」音だったかも知れません…少なくとも、「これから起きる事件に対して不穏な要素を暗示するような開幕」であったとは感じました…。)
何を言いたいかというと、これは単に「想像力が豊か」という話では片づけられないのではないか、その背景にはその人が得てきたもの、すなわち「知識」があるのではないか、という話です。
これは授業で得た「能楽の知識」のみならず、「物語の知識(どのように展開しやすいか、このような演出がなされる時はこういう意図がある、など)」、あるいは「生物の行動習慣による知識」など様々な知識が「想像」の種となる。そう感じました。
もしかしたら私が「学ぶことが好き」なのも、こういう「想像の糧は知識だ」と無意識のうちに考えていたからかもしれません。最近、引退してしまったサークルの先輩に影響されて作曲の勉強をほんの少しかじっているくらいですから…。納得いくような曲はまだ作れていませんが、そのうち絶対に作ってやる…という思いで気長に学ぼうと思います。
さて。こんな話をされて誰が喜ぶのでしょうか(笑)いつにも増して着地点を決めずに書いているため、読みにくいところなどあると思いますが、ご容赦ください。
他にもブログ部員で同じ演目を見に行った方はいらっしゃったと思うので、ぜひ他の皆さんの感想も聞いてみたいところです。
といったところで今回は終わりにしたいと思います。
次回は何を書いているでしょうね…久々に息抜きに推しの話をしても怒られない…よね?
そのうち気が乗ったら書きます(笑)
それでは失礼いたします。最後までお読みいただき、ありがとうございました!