こぼれ落ちても拾っていい

皆さんこんにちは。みちこです。

さて、今回は前回の予告通り、前の記事で書いた謎小説の解説(?)をしようかなと思います!

最近の近況としては、中古自主ゼミで発表のために資料を作っている時間が、苦しくも楽しかったということだけ添えておこうかなと思います。(卒論第二候補の作品だった『更級日記』が題材だったということもあり、愛ゆえの苦しみがあったように思います。

ちなみに今回の発表でかなり色んなことを知れたので、一旦知識欲の蓋は閉じておこうかと思います。)

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(前回の記事はこちらから↓)

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2025/04/20

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皆さんには、このような体験はありませんか?

---バカなこと、分かり切ったことだと思いながらも、それでも試さずにはいられなかったという経験が。

それを時に人は、「まわり道」などと呼んだりします。

実は私は、自分のことをその「まわり道」が出来なかった(許されなかった)人だと思っています。

常に正解を求められているような閉塞感。

それは世間の評価という意味でもそうだし、親が望むような、という意味でもそうだし。

「いい子すぎた」と言ってもいいのかも知れません。実際、私はあまり遊んだ経験がありません。

要領が悪いと言われながら育ってきた私は、「勉強も遊びも全力で!」みたいなことが苦手でした。

いわゆる切り替えが上手くできないタイプです。それ故に、「やるべきこと」という言葉が常に頭の中にあり、それをこなしつつ、間に合わせ程度に遊びを取り入れて生きている。

そんな感じの生活をずっと続けていたように思います。

それが大学に進学して見たらどうでしょう。一気に生活の自由度が上がるではありませんか。

そんな制限の多い環境で育ってきた、という自負がある中で「自分の裁量ですべてを決められる」という生活は私の憧れでした。と同時に、「ここから方向転換が上手くできるかな」という(過度な)緊張もありました。

 

当然と言えばそうかも知れません。しかしやはり、「一歩を踏み出す」というのは最初がひどくハードルが高い。それを超えた先の景色を見ている今からすると、「さっさとそうしてしまえばよかったのに」などと思っています。

別に昔の環境が嫌だったわけでも、今の環境に過度に満足しているわけでもないんです。ただなんとなく、「そういう思いがあった」ということを思い出しながら、これを書いていました。

 

ーーー長年使ってきた鏡を割ってしまった主人公。「割れた鏡はもとに戻らない」「時間はもとに戻らない」そんなことは分かりきっている。だけど、それだとしても、捨てきれない自分の思い(ここでは「長年使った鏡への愛着」がそれにあたる)がある。

「捨てきれない思いを拾ってもいいんだよ」というテーマを念頭に置きながらこの小説を書いておりました。

ここまで書いてきて改めて、私は「枠」に囚われることをあまり好ましく思っていないのだろうと思いました。「制限」されてきたという自負のある反動からでしょうか。

でも、「制限」されてきた環境にいたことを悪くは思いません。だって、そうしないと「枠があることにすら」気づけなかったのですから。

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さて、少し難しい話が増えてきたところで、この話はここまでにしようと思います。

事実更新日を一日過ぎてから書いているので、「早く書き上げねば」という焦りもあります。

 

次回は改めて、「私が古典文学を好きな理由」についてまとめ直してみようかなと思います。

今までこのブログ内で散々申し上げてきた私の飽きることなしの「古典への感情」。

そちらを赤裸々に、そして整理も兼ねて、書いていこうと思います。

 

(いつもが長いのか、今回が短いのか分かりませんが)最後まで読んで頂き、ありがとうございました!