まいです、ごきげんよう❀
梅の香りに耳を澄ましているうちに、あっという間に3月になった。
卒業論文と就職活動の両立について聞かれることもあるが、その2つを両立した覚えも、しようとした覚えもないのでピンとこない。
二兎追って疲れれば両方とも満足の行かないものになる。どちらかを選べば、「私はこれに専念すると決めたのだから」という意思が自分を肯定する。片方が上手くいくと自然ともう片方に臨む活力が湧く。
「就活か卒論か」。これが早押しクイズだったら「Sh」の文字が聞こえたあたりですぐさまボタンを押して「卒論!」と即答するだろう。
卒業論文。大学4年間の集大成であり、またそれを完成させるまでの過程は、それまでの3年間分に匹敵するほどの急成長が見込める最後の期間だ。
大学に行かせてもらえて、図書館があって、「あなたは自分の選んだものを研究すればいい。学びなさい」と言われることは人生にそうない。この、たった1回きりかもしれない。
ことに就職活動は、自分だけの問題では無さすぎる。どんなに素晴らしい経験をしてきてもそれが相手の求めるタイプと違えば取られないし、他に人が決まっていたらこれまた取られない。落ちたとしても実は自分の心当たりほどの理由もなかったりする。「なぜ私じゃだめだったんですか?」と抜き打ちで聞いて、パッと答えられる面接官がどれだけいるだろう。おそらくあれは基本的には減点方式ではなくて、いい人がいればこの人にしようと決め、その結果必然的に落ちる人が発生するだけだ。就活はお見合い、なんて言うが本当にそうだ。例えばあなたにDさんという恋人ができたとして、Aさんから「自分のどこが駄目だったの?」と聞かれても困るはずだ。あなたはDさん以外の人に対していちいちケチつけたわけではなく、単にDさんがいちばんマッチしたから結果それ以外の人とはお付き合いをしないだけだろう。就職活動も、断られた=自分に問題があるわけでは全くない。このように就職活動は、自分のかけた労力と相手が労力はフェアじゃないのだ。そうは言っても多くの人が自分を否定された気分になり心身を削られ、疲労する。自分のどこが悪かったかを探す作業で疲れない人はいないだろう。
けれども卒業論文はどうだろう。これは一切の責任が自分にある。一見重く聞こえるかもしれないが、頑張ったほど、時間をかけたほどいいものになっていく点はむしろ良心的だ。これと一生懸命向き合ったがゆえの疲れは、疲弊ではない。その疲れを、人は達成感と呼ぶ。
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さて、こんな話をしたのは今回のブログで卒業論文ゼミのお話をするからです。
今このブログを読んでいて、春から日本女子大学の日文生!という方に、卒論の、ひいては日文の面白さを伝えられたら幸いです。
日本文学科のゼミは、主に文学の時代区分で分かれています。『万葉集』などの上代、『源氏物語』などの中古…といった具合です。近現代文学ゼミは2つあり、私はそのうち渡部先生ゼミに所属していました。
本学の卒業論文は3年生から始まります。特に渡部ゼミでは3年生の春には研究対象とする作品を決め、前期のうちに指針を発表したりします。
私は宇佐見りんの『推し、燃ゆ』という作品を選びました。2年生の演習で軽く触れたときに、この作品の面白さをもっと深掘れそう!と思ったことがきっかけです。
渡部ゼミでは細かい期限が設けられ、その度に提出資料・発表資料を用意する必要があります。他ゼミはまだ研究作品を決めきっていないところも少なくなく、その中で自分だけ忙しい気がするとハードな気がしてしまいますが、卒論を完成させてから思うことはとにかく、締切が細かく設けられていてよかったということ。そのおかげで研究から長期間離れることはなく、着実に研究に1年間半をかけられたと思っています。
これは私だけでなく同ゼミの多くの人が言っています。「1年半後に最終提出」と言われているものに都度、自分で締切をもうけて研究していくことはそう簡単ではありません。
忙しければ必然的に優先順位を落としてしまい結果、4年生になってから焦るというパターンも容易に想像できますよね。一見忙しくハードなようで、実は4年生になってから一番余裕を持っていたゼミはうちだったのでは?と思っています。
「アリとキリギリス」でいえば間違いなく「アリ」のゼミ。卒業論文の提出を意識する前からコツコツ準備を勧められる環境が整えられた面倒見の良すぎるゼミです。
私が3年生のときも4年生になってからも、ゼミの100分間はとても充実していてあっという間に過ぎさるようなものでした。
その日の担当者が発表をし終えると、絶え間なく手が挙がり(4年生になった私はもはやても挙げず発言し始めていた)、「ここのこういう解釈は、むしろ〇〇と関連づけられると思うのですがどうですか?」と言ったような鋭い質問や提案、「ここを書くのにこういう論文があったので…」「こういう本を読むと…」という参考資料紹介まで活発に意見が飛び交います。
他のゼミに驚かれるのは、100分のうち最初の20~30分間、発表者が発表を終えてから、質疑応答で平気で60分が経過することです。この時間が本当に有意義で、「そういう風にも考えられるのか!」と学んだり、聞かれた質問に答えられなくても「答えられない=もう少しそこを調べた方がいいんだ」という指針の確認にもなります。
それぞれが得意とすることや取っている授業で学んだことなど、自身の守備範囲を共有してゼミにいる時間に卒論がグッと進むのを感じるだけでなく、自分が発表者ではない時も、発表者の作品を読み込んで自分なりの解釈を共有したり、使えそうな先行研究をその場で調べて提案したりします。
そうしているうちに、そこで調べたことが巡り巡って自分の研究にも生かされたりするんです。授業の最後に渡部先生から隙を突く疑問を投げかけられたり、自分の論の甘さや弱点を指摘され、その場でパッと反論できなかったり「おっしゃる通りです…」となることもありますが、ゼミでそうなるからこそ研究に抜け目が少なくなり、完成度が上がっていきます。
甘えかもしれませんが常に超えるべきハードルが提示されると、方向性を見失わずに安心して進むことができて、私にはとても相性の良いゼミでした。
「卒業論文ゼミ」は間違いなく他の授業とは違う!!と感じられる、良い時間です。
…
このブログの中で卒業論文は4年間の集大成だと言いましたが、本当にそうで。驚くほどに4年間学んできたことが繋がるんですよ!この感動はなんとも形容しがたい。
本を1冊読んでいて、単語から連想される知識や教養、考え方が、本当にこれまでの大学の各授業で学んできたものなんです。例えば空きコマを埋めるためにとったものでも、必修で取ったものでも、他学科の授業でも、それぞれ真剣に受けてきたものが、1冊の研究に驚くほど関係してきて、今まで点だったものが実は樹形図の1部だったんだ!!と、冷水をかけられたほどの衝撃を受けました。
…そんな中で約1年半かけて私は『推し、燃ゆ』の卒業論文を書いたわけです。
小説を論じるってどんなものか想像つきますか?ここで少し私の例を紹介したいと思います。
例えば私は、(卒業論文に直接書いたかは別として)次のような感じで様々な角度からアプローチを行いました。
・「作品に出てくるアイドルのグループの配色は〇〇教のこの色と重なる。そうすると最後の場面をその宗教における救済に当てはめることができるかもしれない」
・「主人公が生きづらさに苦しむ場面で「肉」、〈推し〉の場面には「骨」という単語が頻出している。このキーワードが当てはまる宗教はないか?」
・「主人公の特性と厚生労働省による障害の定義が一致する。この行動は症例なのでは?」
・「作品に一瞬「ピーターパン」が出てくるが、その原作に当たるとここに意外な共通点が見出せる。主人公はピーターパン症候群とも言えるがそこに終着させていいものか?」
・「「〜のような気がする」「推しという人」など、主人公に曖昧・不自然な言葉選びが見られる。主人公本人の自覚もないが、もしかして〈推し〉と〈上野真幸〉は別に存在するのでは?」
……これだけでも伝わるのではないでしょうか。ひとつの小説を論じるのに、哲学、宗教学、医療、法学、原典への知識など、様々な観点が必要になってきます。もちろん私はそれぞれのプロではないのでどれも軽く聞いた事のある程度、もしくは知らないために気になりもしないポイント、だったりします。卒業論文を書くにあたって、こうして様々な切り口から多様な学問を横断して学習するんです。
先行研究ももちろん、対象テクストのものだけでなく、宗教学・哲学・オタク研究など、あらゆる分野で名を馳せる研究者のものを読みあさりました。
「文学部は本の虫。本を読むことばかりで社会に出て役に立たない」──なんて言う人が未だにいるのであれば、自分の無知を恥じていただきたいものです。
文学はその媒体を中心に、あらゆる学問そして世界に螺旋を広げアクセスする学問なのです。「本が好きこれ面白い」なんて言う生ぬるいものではありません。
またもちろんですが、知識を照らし合わせる以前に、文章を読んだ時にそこに違和感を感じたり、これは何かの比喩ではないかと思ったり、文章ひとつからあらゆる可能性を察知し予測することも必要です。日文のハードルをあげるようですが安心していただきたいのは、本学で日文の授業に積極的に臨んでいれば間違いなくその能力がつくということです。
固定観念にとらわれず複数の角度から物事を考えられること、少ない言葉からその奥にある心情を汲み取ること、短時間で難しい文章を理解すること、相手と円滑なコミュニケーションが取れること。
これは、本当に大学に行って身についたものです。能力が身につくことを自覚することってあまりないと思うのですが、私はこれらに関しては実感がありました。
これで身についた能力を完全に把握できる訳ではありませんが笑、一番手っ取り早く確認できるのは大学入試の問題をもう一度解いてみることです。時間をかけていた国語の問題、一瞬で解けます。理解力と速読力が格段に上がっている証拠です。
ちなみに私はこれまで不得意だった数学(数的推理など)もできるようになりました。それまで問題そのものを理解できていなかったということですね。
──このブログを見て皆さんも思ったのではないでしょうか。「ゼミが活発って話があったけど、すごい人ばかりが集まっているのかな?」と。…これが何よりの証拠です。みんな、真剣に4年間学んできたからこのゼミがあるわけです。たとえこのメンバーでも高校3年生の時に集まっていたら、こんなに活発な話し合いはできていなかったと思います。
ブログ部の人の文章を見てもわかる通り、日文の学生は言葉にプライド、思慮深さをもっています。そういう人たちとする会話は本当に心地よく楽しいです。
言葉を上手く扱える人はコミュニケーションもうまいんですよね。本当に誇らしいです。
ただ、うっかりこの日文の会話のテンションに慣れてしまうと、外で会話した時にテンポに滞りを感じてしまうかもしれません笑。これはあながち冗談ではなくて、その証拠に日文の友だちに言うと激しく同意されます。みなさんも入学後半年くらいたったあたりで言ってみてください。「わかる!!」「日文は話が通じやすすぎるのよ!!」と言われると思います。
……
大学には高額な費用がかかります。ですが学びにはそれだけの、それ以上の価値があります。
人はおよそ、小さいものから大きいものまで35000回もの選択を日々、していると言います。その選択が人生を作っているというわけですが、では選択するのに必要なものはなんでしょうか?……言わずもがな思考です。この思考が偏っていては人生も偏るわけです。あるいはその思考に影響を与えかねない対人関係。それも上手くコミュニケーションを取らなければ築けないものです。
そしてそれを磨く学問は何かと言ったら、文学なわけです。
文学は豊かに文化的に生きる術、自覚的に主体的に生きる思考の要であり、文学史にとどまらずあらゆる分野の情報と教養のとめどない源泉です。
4年間の学びは私の人格形成に十分に影響を与えうるものでした。
そしてその私は、親しい仲間にも恵まれ、知的で楽しく幸せな日々を過ごしています。同期の皆さんに推薦いただき、卒業式の総代も努めることになりました。
この現在を作ったのは、紛れもなく本学の日文での学びです。
我が大学生活に一片の悔い無し!!
かつては第1志望ではなかった本学。ここの卒業生になれることに私は誇りをもって卒業します。
(…卒業判定、出るのはこれからですが笑)