ご無沙汰しております、みちるです。
インフルエンザにかかってしまったんです。
「日頃の行い、出ましたね」
否定できないのが一番哀しい。
病納め(やみおさめ)と病初め(やみはじめ)が一緒にきてしまいました。
今は殆ど完治しましたが、しばらく体を動かさずにいたので全身の倦怠感がひどいのと、あまりものを食べない日々が続いたため消化管が働かなくなっていないかが心配。とこんなことを書きつつ夕食に挑んだところ、予想通り駄目でした。
(間奏)
あなたにご飯の話をしたことはあったでしょうか。
ご飯。白米、でなく、食事全般のことです。
何をかくそうこのみちるとご飯の間には切っても切り離せない縁がある。そりゃあ生きていれば誰だってご飯との間に縁の一つや二つできるものでしょうから、特筆すべき事柄でもないのかもしれません。
中学生のころ。
――と遡って書こうかと思っていましたが、何だかほんとうに特筆すべき事柄でないように思えてきましたので、やめましょう。
とにかく色々あり、今私は実家で両親と食卓を囲むことが苦痛だ。
会食恐怖症といって他者と食事をともにすることに苦痛を覚えるケースもあるらしいが、私の場合、家の外で友人と食事をしたり酒を囲むことにはあまり抵抗がなかった。それでも、気楽の度合いで云えば一人でとる食事が圧倒的に優れているのは否めない。
普段は何かと理由を付けて時間をずらして食事をとることが多いのですが、療養中はそうもいかず。数日間頑張ってみたのですが、一週間ほど経った今日になっていよいよ限界を迎えてしまったらしい。
そもそもちゃんとしたご飯を食べることが得意でなく、かといって食べずに生きてはいられないどころか私は人より燃費が悪い(=一度に食べられる量が少ないのにお腹はすぐに空く)ため、好きなタイミングで簡単なものを食べる。
そう、この”好きなときに好きな場所で好きなだけ、食べられるものを食べられる人と食べる”というアナーキーな戦法こそ、私がVSご飯戦で最も有利に立つことのできる仕方なのです。やっと見つけたんです。アルバイトの休憩時間にシーシャ屋のバックヤードにこもり、安いイヤホンでミッシェルガンエレファントを聴きながら120円のコンビニおにぎりを食べるのが、いいんです。
そうなると、毎度両親が設定する時間にリビングの一つのテーブルのうえでテレビを流しながら食事をとることの不自由さが際立つ。誤解を招かないよう補足しますが、みちる母は料理が上手いと思いますし、実家のご飯の味はとても美味しいと思っています。それでも、父親と向かい合う位置に座って食べなければならないというだけで喉を通っていかなくなります。そう、母との食事にはあまり不自由がなく、私は父親と同じ食事の時間を共有するのに耐えられないのだと思います。別にひどい扱いを受けたりとかは全くないので、そこはご心配なさらず。
これを読むあなたには、”反抗期”みたいな感じで受け取られるんでしょうか。まあそれならそれで、そこは、まあいいや、と思います。
私はどうしたいんでしょう。この難を解決するには一人で食事ができる環境に身を移すのがよいのでしょうが、ご飯のために一人暮らしを始めるのは違う気がします。ご飯のために何かをする、というように、ご飯を行動の目的に据えることはしたくない。しかし「おまんま食べるために働く」のも間違ってはいないと思いますが、ご飯に価値があるのではなくて、労働ってその程度なんだ、という感想があります。
今日、もう家族で食卓を囲むのは厳しい、というかその場に私が継続的に居続けるのが厳しいと明確にわかった。
はやく、全快させないと。そうでないと、他の人とも食事をできなくなってしまうのではないかという予感がある。もしかしたらもう、そうなっているかもしれません。なにせ誰かとご飯を食べる機会がそもそも少ないので、そこらへんはよくわからないんですね。
そんなことを考えるより、愛を考えなければいけない。
夢に出る女性への愛と、そうでない愛。
ゼロになってしまうみたいな文章をかいて、全部なしにして、また書いて、今度は誰も書けなかった数を書いて、円周率でスーパーコンピューターを超えることを読ませる地平に落とし込み、今年はみんなをビビらす!!!!!!!!!!!
といったところで、
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる