最近私が意識していることの一つに「頑張る」と言い過ぎない、ということがあります。
私は以前、割とむやみやたらと「頑張る」と使っていました。「きちんとやります」と伝えるには、やはり「頑張ります」という言葉が最適だったためです。けれどもある時、自分の「頑張る」宣言に苦しくなっていることに気が付きました。「頑張らなきゃ」と良くない方向に追い込んでいる、と。
もちろん、今も前と同じように一つ一つ丁寧に取り組んでいますし、会話の流れや文脈、自分がここだと思った時には「頑張ります」と言っています。ただ、「頑張る」と使い過ぎないようになってから少し心が軽くなったのも事実です。また、「頑張る」に代わる言葉、例えば「取り組みます」など、いろんな言葉を模索していると、より自分の感情に近い表現ができるようになった気がします。「言う」「言わない」、「書く」「書かない」の違いで、気持ちが変わることを実感しました。
前にも書いた気がしますが「書く」「書かない」、もっと言えば「書ける」「書けない」の線引きは、このブログを書き始めた大学一年生の終わりよりもはっきり明瞭になったと思います。それは、伝えたいことーブログだけではなく、レポートなどすべての文章についてですがー、感情をより精緻に表現できるようになったからなのかな、と感じています。
実は、一年次に書いたあるレポートがずっとお気に入りで、それを超えるものを書けないと最近まで考えていました。一年生の文章なので、しばらく経った後見返したら間違っている箇所を見つけたりということはあったのですが、論の立て方や文章構成、言葉の使い方が単純に好きだったのです。三年分の学びが蓄積しているから、当然一年次の自分から成長しているのですが、けれども、最近になってやっと、越えられたなと感じられたのです(超えると越えるは区別して書いています)。今も十分に稚拙な文章だけれども、この三年間で知識も語彙もずっと増えたし、興味の幅が広がりました。実感は遅れてやってくるのかもしれないと思った経験です。
夏に、22歳になりました。私は、小さい頃から早く大人になりたいと思っていた子どもだったのですが、最近、自分の年齢や成長に、自分が追い付けていないと思う時があります。私が80年代のアイドルを好きだということは、前からこのブログを見てくださっている方ならご存じかと思いますが、段々と彼女たちが「その」歌を歌っている年齢を越すことが増えてきました。前は、強い共感を持って聞いていた歌詞に対して、今、俯瞰の目を持って、時にひどく冷静に見つめていることに悲しくなる時があります。それは変化なのでしょうが、そういう自分の真実なるものに、自分が自覚できていない、手が届いていない時があるのです。
ああ時の河を渡る船に
オールはない 流されてく
横たわった髪に胸に
降りつもるわ星の破片
薬師丸ひろ子「Woman‟Wの悲劇”より」(作詞 松本隆 作曲 呉田軽穂)より
今まで出会ってきた数多くの言葉の中で、その時その時に衝撃を受けるものがあります。その衝撃は、それを直視するのが怖いほどの眩しさと機微に触れるような繊細さを持って、私に迫ってきます。衝撃の熱さを持ったまま、言葉にするのは勇気のいることです。けれども、冷静になってからでは、私の中にあった迷いや揺れを、まるでなかったかのようにしてしまう気がして……。
今までに触れてこなかった、新しい世界や概念に触れる度、私は自分の人生に抜け落ちてしまったものを感じます。けれども、完璧なものなんてないから、人は時を経ることでいろんなものを補い、それが「降りつもって」いくのだとも思います。
私でなければ出会えなかったものを大切にしていきたいです。そして私の心の内を、「星」の数のような…数多の言葉の中から表現していきたいと思います。