大変ご無沙汰しております、みちるです。
住んでいる家のことが気に食わないんです。
「何故。いいじゃないか、治安はさておきそれなりに都会の住宅街のどこか。どうしてか20年間自室がないものの、申し訳程度に君の本棚もあって、大きな鏡は三つある。」
そんなことじゃないのよ、構造、文字通り”かまえ”と”つくり”さ。
とりわけ今は、窓が南向きなことが気に食わない。
私は、どこかの令嬢みたく窓から射し込む朝陽で目を覚ましたりしない。良くないものが空気中を遊飛する世の中になってからも自分で換気をするのは面倒だし、洗濯物は母親が干すのを応援する係。日に焼けたくないので紫外線は嫌いだし、私の体は新しい空気と同じ程度に、長く室内に滞留した籠った空気も好むのだ。
何が言いたいかって、つまり私の生活に窓が必要になるシーンといえば表の空模様や風の吹きを見て外出の格好を決める時か、はたまたなにか思うことがあって、イメージがあって、視覚的に開けているという条件が必要になるときくらいだということ。ね、だから何も常に南向きである必要はないでしょう。そして今は後者の”必要”で、北向きの窓を欲している。
北の方には、大げさに言えば想い人みたいな、そんなひとがいるらしい。恋人でも家族でもないその女の文章を、私は一年余りに亘って読み続けた。
今の私は文学部に所属している身だけれど、正直身近に読める文章を書く人間は少ない。何も書く能力がないと言っているのではなし、むしろそういったことで見ればこの部の書き手をはじめ優秀な者は多いはずだ。ただ、私にとって、私の身体にとって魅力的に感じられる文章やその書き手となるとぐんとその数は落ちるという話である。読める文章――ずっと読んでいても苦じゃないとさえ思われる文章とその書き手を発見することは困難を極めるけれど、私はその困難のなかで、輝くものを確かに見た。それが、彼女の筆であった。
面倒くさいのはいやだから簡潔に述べておきます、この文章はその輝きに対して贈る、無法者の私による拙い敬意であり、憧れであり、愛であり、一滴の憎しみであると。「はるか」という元・ブログ部員にまつわる批評であり、恋文であると。
(間奏)
一度、知人の書いた短編小説を読んだ。ほんとうに悪くない文章だったけれど、私は全ての肯定的なレビューの後に「しかし、はるかさんの文章にはかなわないね」と不誠実な逆説を加えたくなってしまっていた。知人の文章は一人の青年がある日突然人に化けた飼い猫と交流して云々といった物語だった。はるか氏の文章においても人間と言語を操る動物との交流は間々描かれるので、比較は避けられなかったのだ。
――と、語り始める前に。あなたがもしはるか氏をご存じないとしたら、先ずはそこから説明する必要がありますね。
大学生活や日常の出来事、趣味や文学についてなどテーマは不問。部員たちが当番制で毎日1記事更新するwebメディア「新・当世女子大生気質」(2010年4月1日~)にて、2018年度末(2019年1月27日)より執筆を開始した部員こそ、件のはるか氏である。
執筆するにあたっての禁止項目は政治・宗教についての言及と未成年飲酒/喫煙の事実的描写のみとあって、部員ごとに語る内容もテンションも様々である(断っておくが私は既に成人しているので、或る記事にて煙草呑みの習慣を告白したことに問題はない)。とはいえその前提の上でもはるか氏のスタイルは一味違っていて、というのも彼女の記事はその殆どが掌編小説なのである。
「みちる」の記事についてもあなたへ宛てた手紙であるという点、また語ることへの或る意識を一つの形式に落とし込んである点はスタイルの特殊性という一側面で氏のブログと共通する部分があろう。しかしはるか氏は、私がこのような形式を採る際に施すような陰湿な仕掛けを必要としない。彼女は自身と自身の文章についての説明にいやらしい韜晦も婉曲も必要とせず、時にただ生身の人として語ってみせる。であるからこそ創作・小説のパートにはある種の誠実が宿り、読み手もまた真剣になることを要請される。
氏は最後のブログ記事『桜狂いと書き狂い』にて「このブログの内容、主に創作部分を印刷会社に依頼して本としてまとめるつもりだ。」と語っているが、一冊の本に付される著者の”まえがき”や”あとがき”と同様の効果をはるか氏自身の生身の――もしくはそれに近い――語りがもたらしていると考えれば、創作部分だけでなくそれ以外の記事もいくつか抜粋し、時系列順にまとめて書籍にするべきではないかというのが素直な感想であった。まあ、”主に”が量的にどの程度を指すかは推測しかねるので何とも言えない。加えて、短い期間ながら氏のブログを夢中で読んできた私のナラティブに照らせばこの要望は必然であるが、実際本になるのならそれ用に書き下ろす”あとがき”があるはずだ(え、ありますよね……?)。そう考えれば矢張り、この要望は私だけのものにしておくほうがよい。私にはホラ、恋心があるのだからね。
ここまではるか氏について創作/小説の形式を採る奇抜さという点で語ったが、氏の小説の精髄はまた別に、即ち日常―非日常という二元的な把握に対して脱構築を仕掛けることで生み出される幻想性にこそあると言いたい。
勿論、文体の重さ/軽さを内容に合わせて自在に扱う技術や、童話や児童文学やあるいは星新一などに熱心な幼少期を過ごした読者の顔を綻ばせるような設定、どこか優しくまた優れた文章の流麗さ、これらがなべてはるか氏の巧みさであることについては論を俟たない。そう、文章が上手い。上手いことをわざわざ語ろうという気も起らないほどさり気なく上手いのである。
ただ、上手さや読みやすさ、上澄みの美しさだけではないことも明らかであり、その妙として第一に挙げられるのが上に述べた幻想性だろうというわけだ。日本近代文学において”幻想文学”といえば泉鏡花や江戸川乱歩、我が愛しの澁澤龍彥も当てはまろうし、佐藤春夫『西班牙犬の家』などはつい声を漏らして笑ってしまうほど卓越している。しかしそれでは、はるか氏の文学がこうした作家たちの後をなぞるようなものであるかと問われれば、必ずしもその限りではないだろう。彼女の作品はもっと現代風――まさに”当世女子大生気質”というわけか——で、最もイメージしやすいところで言えば川上弘美が近いだろうと思う。川上においては言わずと知れた傑作『蛇を踏む』や『神様』などにみられる人ならざるものとそうでないものとの人語交流、これははるか氏のいくつかの作品にも見られるシーンである。そしてむしろそうしたシーンが生む効果、即ち我々のよく知る日常とまったく想像のつかない非日常の風景とがテクストの進行に伴い時間的流れをもって渦を巻くように融け合っていく……そのような融解の働きこそが”幻想”の正体であり、私が指摘したい川上とはるか氏の通ずる部分でもある。そう、なにも幻想文学の仕事はただ神秘的な世界の表現に尽きるのではなく、川上や氏のテクストに見られる上のような”働き”もまた肝心の条件、ではないだろうか。無論、はるか氏の”融解”は人間とそうでないもの(人型生物、動物、人間化した動物、人工知能etc……)の交流を通してのみ仕掛けられるわけではなく、時に平凡そうな犯罪者の一人語りのなかで、ときに月から来たという後輩との帰り道で、あるいは人間と思わせておいて鱗を持つ亜人のようなキャラクターと気さくな知人たちの交流のうちで、まるで真夏の縁側で盥の氷が融けるようにじわりじわりと流れが生じ、力が働いて、終いには絶対に何か僅かな謎を残したまま融け合っていくのである。このテクストの流れに読者は乗せられ、幻想に酔いすら感じながら文字通り掌に乗せられるような短い旅を経験することになるのだが、ブログにおけるなんとなくの紙幅とペダントリーを裸足で蹴とばすはるか氏の筆致のおかげか、その酔いすらもどこか心地よいのである。
さて。あくまでブログ部員としての投稿記事においてのみ判断するとしても、はるか氏の小説は幻想文学とSFとのあわいに立っていそうで、しかしその実いずれのジャンルにも中々分類し難いものを感じさせる(恥ずかしながら筆者はそもそも”幻想文学”のレンジの広さに日頃より白目をむいてたまげている)。それに、ジャンル分けをしてやろうという試み自体がナンセンスである、と、ここではそのように結論付けても良いだろうと思う。
また最後にはるか氏の或る一つの作品について、あなたに紹介するくらいの軽い気持ちでコメントを加えたい。誰だって気に入りの作家の気に入りの作品を指さして”(私が考える)最高傑作!”と言いたい気持ちは少なからずあるだろうと信じて……。
或る作品といったのは即ち『空虚的プラスティック・ピンク』についてである。ぎらぎらとした極彩色の世界で語り手[ワタシ]と[アナタ]の短い対話が展開される本作は氏の作品のうちでもとりわけ簡潔にまとめられたものであり、同時にとりわけ深遠な一作である。生花を知らない登場人物や人工太陽といったアイテムはSFめいた世界観を連想させるが、対話の舞台は「閉鎖的な空間」としか記されておらず、この表記それ自体が恣意的な解釈――解釈はつねに恣であらざるを得ないとしても――を拒みこちらに対し凄んでいる気さえするのだが、ここにくどくどしい世界説明でも加えようものの一息に駄作の谷へ身を投げることになりかねない。……そのような条件の上でもはっきりと看取されるのは、[ワタシ]と[アナタ]の間にある或る種の駆け引き、二人の精神的な上下関係、そして読者の目の回るほど警抜で毒々しくさえある鮮やかな描写の数々。
「ガラスのマドラーの先でぐじゅぐじゅに潰され身が溢れ出したレモンは、ワタシの行く末を彷彿とさせる。あの酸性の液体がアナタの喉に消えていくなら、ワタシもそうなのだろう。」
[ワタシ]は[アナタ]に精神的に屈服している。しかしそんな[ワタシ]もいじらしい反抗として、[アナタ]を造花のハイビスカスに喩えてみせる――この場面は非常に素敵だ、「目についたモノをそのまま言った」という[ワタシ]の語りに照らしてみると、どう、直前にある当人の台詞に自動作用を感じずにはいられまい。しかしながら[ワタシ]の言葉による反抗も、最終場面における[アナタ]の行動によってひらりと躱されてしまう。
こうして眺めてみると、作品題『空虚的プラスティック・ピンク』は即ち[ワタシ]が[アナタ]を”そのように”造形してやりたいという反抗心でありながら、本物のハイビスカスを知らない[アナタ]と造花を本気で重ねた結果としての同情にも似た虚しさなのではないか。そして後者の虚しさと、さながら女神像について語るように[アナタ]を語る[ワタシ]の語りとによって[ワタシ]自身の虚しさは逆照射される――虚しい対象に価値を観るのはナンセンスであり、美しく虚しい対象に価値を観るのはそれ自体ひとつの空虚であろう。しかしながらそこには美しさがある、この強力な事実を明らかにした語り手の功績ははかり知れない。
私は氏の作品に触れてこんなにも大きな不安に苛まれたことはなかったが、同時にこれほど可憐に感じられたもの本作が初めてであった。故にどうにか同じ部員であるうちに本作についてのコメントだけでも御目に触れる機会を頂きたかったものだが……否、すべては私の力不足である。
このブログがはるか氏本人へ届くことよりも、私は今画面を見つめるあなたにどうか氏の文学を味わってほしいと願う。
「三秒で忘れる記事の三秒間、私の好きに作った文章を、面白く思ってもらえたら。」
花曇りの空のもと、今はもう桜の花弁がはらと落ちるのを数える時分。風に煽られて、何だかんだ三秒ほどは空中を踊っているものだなあと、ぼんやり見つめていました。
明日すぐにとは言わずとも、桜はきっと来年も咲くんです。それに、一度視界を去っただけで簡単に忘れられるものでもないでしょうし。忘れたくても、そちらのほうが中々難しいものです。
北向きの窓を空想しながら。
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる
