ご無沙汰しております、みちるです。
目薬をさすとき、目と口が一緒に開いちゃうんです。
「一段と間抜けな顔ですね」
いいじゃないか。目薬と私、とあなたしか居ないんだから。
少しだけ休ませてくれ。
・・・
「運命」
少し、昔の話を致しましょう。
冒頭からなんとユーモアのないクリシェ。恥ずかしいよ。
昔といってもそれほど古い話ではない。高校時代、一昨年の春のことです。
見上げる先の唇に突然「運命ですね」と言われた。
思い返せばそれまで誰にも吐かれたことがない台詞だったこともあり、吃驚と動揺と感嘆と、とにかく押し寄せる諸感情の波に私は完全に隷属しました。
突如として「運命」を語られたら、あなたは何と答えますか。
(あなたでなくとも人類であれば誰だって、当時の私よりは上手い返しをなさるでしょう。)
―その時分、私はどうしてしまったのか「ああ、はい」と、へらつきながら返答したのだ!
[大喝采] [喜劇] [閉幕]
なんたる愚劣!IQ8にも満たないレスポンスであります。大変お疲れさまでした。
ここでちょっとした背景情報を付け加えておく。場面は高校棟三階廊下、時刻はおよそ午後4時。校舎の表皮めいたリノリウム、のみならず二足歩行の有機体にまで遍くオレンジ・フィルターが適用される頃合です。
私とその人類(仮称・S)は一地点で出会い、会釈をして二方向へ進みだした。そして一分も経たないうちに再び邂逅したのだった。
「頓智ですか?」
なに、簡単なことです。私とSは長方形の辺めいた廊下の或る一角で別れ、異なる辺を通過して斜向かいの点で合流したというわけ。
そう、これだけのこと。取るに足らない日常の「偶然」(とあなたたちが呼ぶ事象)。
それをSは「運命」と称したのです。
素敵だった。
音楽と哲学を愛し、遊びの余暇に労働し、はっはっはと低い声で笑うナイスミドルのS。交流は決して深くなかったものの、私は博識な彼をまさしく「理想の大人」と称するに相応しい人類だと感じていました。
そんなSから「運命」という”何となく情緒的な語”が飛び出したもんで、完全に信じ込まされてしまったわけだ。そうか、これも運命なんだと。(弁解を加えるならば、高校生の私は運命論に暗く「決定」と「運命」を感覚的にイコールで結びつける独断、薄学っぷりであった。)
・・・因みに「運命」および「決定」の語義等々については木島泰三氏が目的論の観点から上手く整理していたので、以下その著。
自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史 (講談社選書メチエ) | 木島 泰三 |本 | 通販 | Amazon
※木島泰三『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』(講談社、2020年11月)
この一冊を読んでいくうち私は「運命」という語に刺激され、Sの発言を想起した、のでしょう。これはイマの話。
加えてとにかく諸々の(形而上の)都合で、わたくしみちるは「運命」信仰を降りた身なのであります。これもイマの話。
「運命」は幻想である。
斯様に思考するとき、Sの言葉はたんなる欺瞞と解されるだろうか。
いいやまさか。むしろその反対のことが今、起きている。
「運命」が幻であるのなら、私は好んで奇術師になろう。
私は「運命」を花飾りのように表象する。命もなく、香りもない。ただそこに情緒的な美だけが保存されるのなら、生花でなくとも、紫の煙であっても愛したいのです。
どうしようもない言葉遊びだとお笑いになりますか?
しかしこればかりは、私のSに対する一方的な約束であり、敬愛であり、ある種の郷愁である、ということで一つご容赦頂きたく思います。
夜の帳がオレンジ・フィルターを閉じ込めても、言葉遊びは続いていく。
それは私の香水の、金木犀の香りがそうさせるから―などと恥ずかしい言い訳をひとつ。
真面目な皆さん、ごめんなさい。
最後は矢張り、ここまで手紙を読んで下さったあなたにこう書き残すべきでしょう。私たちの出会いも
「運命ですね」
と。ふふ、こうでなくっちゃ、終われないでしょう。
またお手紙書きますね。大好きです。 みちる