ごきげんよう、あやめでございます。
前回宣言していた通り、下手な近況報告みたいなことを少ししてみようと思います。
春休み中は2月の中旬に上野の科学博物館の特別展へ行ったり、3月上旬、下旬の二回も能鑑賞へ出かけたり、していた程度で、あとは就職活動をしてへとへとになっていました。4月になってからは前回申し上げた通り新入生オリエンテーションの委員をやったりしました。刺激的ですね。オリエンテーション委員の仕事は、正直自分をたくあんかなにかの漬物だと錯覚するくらい、添え物になっていました。みなさんありがとうございました。本当に。
こんな感じで心を忙しく(せわしく?)していたら、なぜか筆が乗りにのって、たくさん文章片が生成されたので、いくつか御覧に入れようかと思います。ながいので、ちょっと読んだらおやめになるのをおすすめします。テレビを長時間見ないでね、テレビからは離れてみようね、の勧告と同じです。
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1
電車で隣に座った人から、聞いたことの無い異音が聞こえて、でもそれをジロジロみるのは失礼だからと、チラッと目の端で異音の原因を探って、探り損ねて、そうやってもたついているうちに隣の人は降車してしまった。4月、卯月、April、新年度。気温が上がって、移動性高気圧によって天気が周期変化して、植物が息を吹き返したように・逃げ場を探すかのように怒涛に咲き誇る、春。電車の中には人の足が林立し、それらが身にまとう衣類はやや明度が上がる、春。電車の溶媒たる空気感は冬のそれより密度が下がって、どことなく軽やかで爽やかな雰囲気が漂う、春。どこからともなくやってきて、大したことないようにサラッと偉業を成して、そしてすぐに貼り付くような湿度をもった夏に居場所を奪われる、それでも「どこ吹く風」の顔をした、一瞬間の、春。目を閉じる。春が聞こえる。即ち、新入の人々の希望と不安の声が聞こえる。どこの団体にも、あたらしくはいる、ということはおそろしくて、そしてすこし喜ばしいことであるようである。かく言うわたしだって、新品のカチコチリクルートスーツで肩が凝っている。まだ伸びていない皮のハイヒールで足を痛めている。電車が終点に滑り込む。ドアから人が、逃げ出すように、溢れ出る、春。
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2
乾燥した完全な大人になるということは、「俗化」するということであり、言い換えれば「順応」するということだと考察しました。大人になって、好き嫌いが減るのは味蕾が鈍化するからだ、という記事を見かけて驚いて、それじゃまるで「鈍化」だと思いました。それでも、たとえば嫌いな食べ物が減ってなんでも美味しく食べられるなら鈍化だって悪いことではないと考えなおしました。それどころか、大人になってもまだ好き嫌いして偏食な、不健康な食事をしている者の方がよっぽど拗ねた「こどもっぽい」ことである、と言われれば、全くその通りではないでしょうか。なんて。それに、きっと大人になったら好みも変わるのでしょう。なにせ、たくさんの味を経験することになるのだから。
何であっても、甘くて柔らかくて美味しいものは「新」がつく。じゃがいもも、きゃべつも、たまねぎも。それか成長しきっていないものである、たけのこのような、ふきのとうのような、はちのこのような。わたしはたべたらどんな味がするのだろう。大きさは規格外に大きくなっているが、中身は全く成熟していない、どっちつかずのボヤけた味だろうか。それなら、それで、そういうものには押し並べて醤油か味噌みたいな、ガツンとした、全てをかき消す調味料が、よく合うのだから、食卓には並ぶだろうか。一つはっきりしているのは、茹でていただくと良いだろう、ということ。
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3
ずっとパソコンのブルーライトとにらめっこをしていたので、いい加減ドライアイになった。さっき弟に「うわ、目めっちゃ血走ってら」と言われたので見た目も悪くなっている。目だけに。
「ちゃっちゃと片付けちゃって」 母に昼食を早急に平らげるよう指示されるのを右から左に聞き流し、午後は大学に出かけるのを憂鬱に思う。高校生の妹は朝から晩まで様々なるアクティビティをこなしているのを間近にみて知っているのに、大学生とはなんと素敵なご身分だろう。と、今日はたまたまお休みの母に言われて、そうなのかな、と思う。自認とは、そんな外からの言葉で構成される。
「あんた何時に家出るの」 不意な言葉に言葉をつまらせ、なんとか「あ、え、12:40ごろ、」と言うや否や、「ん」とだけ返される。「え!俺も」とかいう弟の平和な独り言もオマケでついてくる。モタモタ準備を整え、足取り重たく家を出る。弟は可愛いことを言うから「一緒にいこうぜ」という魂胆なのかと思いきや、全然全く私を無視してスタコラ先に家を出て行った。
道中、林立する人の脚がみんなジーパンを履いている電車に乗った。綺麗に全員ジーパンで、それは男女を問わないことが見て取れた。昼に乗ったために大した人混みではないものの、林立、くらいに人が立っている、やや混雑した電車には、お出かけを楽しむルンルンの小さな人(5歳くらいだろうか)や、おしゃべりを楽しむマダムの群れをみることができる。わたしはつまらないしらけた顔をした、大学生、というタグがついている、ような気がする。
教場に入る。開けっぴろげのドアからヒョッコリ顔を覗かせ、誰もこちらを見ていないのを確認してから、恐る恐る入る。次の授業で使うのだから、そしてその授業を受講するのだから、臆することはひとつもないが、それでも念には念をいれる。ひとこと、声をかけられでもすれば、しなしなのよぼよぼになってしまうので、私にとってこの確認は重要な事項である。 窓際で、前の方の席に着席する。前の方だとその前に座る人が少なく、見える後頭部が少ないのがお得だ。目が悪いので板書が見やすい席に座る、という意図はもちろんあるが、刺激を避けるためにわざわざ端に座るのだ。そして、必ず左端。左利きは中途半端なところに座るとお隣と腕のポジショニングでバトルをしなければならなくなるためである。平和主義な私には無理な話である。
さて、記述が少ないために人が私しかいないように錯覚されるが、それは私が一生懸命フィルターをかけて、他人の情報を排除しているからである。耳に穴が空いているばっかりにたくさんの情報が流入してよくない。そのせいで「いや、髪切ったのよ、」「あー、だからなんか変わった感じすンのか」「…おそらく明日なら対応可能かと思われ…はい!そうです、左様です、ヱ、あの、そうです、はい、」「え〜!久しぶり〜えっ、え、元気?どこいたの?」「バ先の先輩最悪なんよ」「それは、そう」「え、ごめん日本語学の課題……ってこれ?」「は?知らん」「お前バカじゃんこれだよ合ってるよ」「…だから、」「あ!そういう」「そう、こうなる」などという、断片の会話が原液のまま入力されることになる。今日は窓が空いている。外からは車の走る轟音、内からは人の雑多な話し声、体内からは悪魔の囁き、体表には産毛と冷や汗、講義開始まであと10分。
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4
夕日が刺す時間に、家に帰ってこられたのはいつぶりか。寒冷前線が通過した後の、春の土曜日の、午後5時半。春は霞むのがお決まりなのに、今日はどういうわけかクリアに抜けた視界が広がって清々しい。重度の花粉症を患ってさえいなければ、この息苦しいマスクを外して深呼吸をするのだが、叶わない。
こんな夕暮れは、電気をつけずに風呂に入って、湯船のゆらゆらする水面を眺める、をしたい。夕飯は茹でた食べ物がいい。ただの水道水と、塗装が剥げた箸でぼーっとしたまま咀嚼して、春を流し込みたい。体育座りで夜をやり過ごしたい。 重怠い肉体を、目から流入するこれでもか!とでもいいたげな春が鼓舞する。深い紺色の、ロングコートを着込んでいる、1人だけ秋の終わりみたいな私が、こんなに鮮やかな春に、取り残されている。春は誰も見逃さないのに、私が春についていけない。暦は来週、ゴールデンウイークだと言っている。
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換気扇が回っている音と、ストーブがスンスンなる音と、それしか聞こえない夜が来る。午後9時45分。テレビを消して、眠気が訪れれば、他の誰かにとってはまだ夜でなくても、私にとっては真夜中になる。まだ9時台だろうが、真夜中の足音が背中にへばりついている。夜はもう、更けている。 寒冷前線は思ったより寒い空気を連れてきて、夜になると山奥の我が家はストーブ無しではかじかむ寒さになった。来週はゴールデンウイークなのに。 かかとが乾燥して、ところどころ皮がめくれている。爪が伸びて引っかかる。夕飯のお茶碗にこびりついた米が乾燥していく。 春は、夜には現れない。夜は春でも冬でも、まさか夏でもない、「夜」という季節になるのかな、と思った。朧月は春の季語だけれど、もしかしたら「夜」の季語なのかも。
早く寝てしまえばいいのに、こんなことを考えては、何かを待って起き続けてしまう。眠たくてあくびがとまらないのに、体育座りをして、遠くを見つめて、何かをじっと、待ってしまう。夜だから待っても誰もこないのに。