こんにちは、ごきげんよう、あやめです。もうこの挨拶無しではやっていけなくなりました。風邪をひきました。無茶したら体にハッキリ出るので、いいような、わるいような。
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「何をやったんですどうしたらそうなるんです今私が目を離したこれだけの時間であなたは、どうしてこんなに問題を作れるんです!?」
駅で友人を待っていたら向こうから、神経質な男の声がした。私は、といえば、その声に集中しつつ、しかしそちらには一瞥もくれないで、スマホをいじっている。よく見渡したわけではないが、まわりも似たような反応だったように思う。ちら、とそちらを見て、あとは興味を失った風を装っている(あるいは本当に興味を失っている)。
「ああもうここはいいですから、あなたあっちやりなさい」
きっちり分けて固めた髪も敬語も崩れかかって、焦燥し切った声である。駅員さんなのだろうか?仕事をしている風である。叱られている様子の相手は死角にいてこちらからは見えない。あらかた、こんな大衆のど真ん中で大声で責め立てられてしょんぼりしていることだろう。
怒り、そとから見ると多少滑稽に映るのは何故だろうか。必死だから?感情的になっているから?それは「人間的」とか「人間味があって良い」とはどんなふうに違うだろう?私があんまり他人に怒らないからそう見えてしまうだけなのか。でも、そんなに大きな声を出さなくても聞こえているし、めくじらたててキィキィ言っている間に改善策を提示した方が速いし、ミスを犯した人も萎縮せず、とりあえずその場の問題[error]は脱せるし、その後で教育をすれば良いのではないのかな、なによりなんでその人を「信用」したのか?わざわざ人間にお仕事を頼むのだったら、はじめから失敗することを計算に入れておいたほうが、きっと疲れずに済むだろうにな。ヒューマンエラーのことを知らないのか?いや、そもそもそれは体力が限られている私の考えであって、彼は疲れることはどうでもいいのかもしれない。
凡そ、怒りに任せた判断は誤りが多い。と思う。私が怒られて、その時に得られたことは、この人は、この行動をすると「怒る」のだな、という(なかば諦めのような)学習だけだった、と記憶している。やさしさ、とか、考えに共感・共鳴して、その結果怒った人……発信者とでも名付けましょうか?の言うことを守っているわけではない、のだと、おもう。こういうと、昔、小学生の頃国語の教科書にのっていた、『カレーライス』という作品と、それを音読したことを思い出す。ぼくはわるくない。ほら、感情は歩み寄りを拒む。むむむ、ならば今まで私が「怒られて」きた「諸事件」たちは、あれは問題解決したくて発生していたわけではなかったのか……?
そこまで考えて、怒られている人の顔が見えた。その人は、意外にも私の知り合いだった!ということもなかったし、顔が私と全く同じでギョッとした瞬間目が覚めて、そこでやっと私が悪夢を見ていたことに気づく、ということもなかった。ただ、知らない人が、かわいそうに、これまた知らない人に怒られているだけだった。そして、やっと、私がいままさに「悪夢」の渦中にいることを知るのだった。即ちしらない誰かが誰かに怒られるなんてありふれた、かつこの世に大量に存在するだろう「些事」で、ここまで展開できる私の脳みそこそが、私の悪夢だろう。そんな態度だから現実を夢見心地のふわふわでしか捉えられないのだ。私が私である限り、現実的になることは、ないのだ。私が私を放棄して(…ってどういうことだろう、しんでしまったらいいのか、もっとお手軽に、例えば体(デバイス)だけ残して脳みそ(CPUか、 OSあたりか?もっと違う気がしてきた……)を全取っ替えしたら「私」じゃ「なくなる」のかしら、感情を無くせば「人間」じゃなくなって、ひいては私じゃなくなるのかな)(ともかくも、私が「私」じゃなくなれば)ただの肉塊に成ってしまえば、こんな悩みはなくなるだろうが、それは「私」ではない。考え過ぎるのが、私なのだ。
それってどんなに悪夢だろう。人間はそんなに強くできてないのに。
チャットさんに聞いてみたら、私が他人の相談に乗ってあげたときと比べものにならないくらい「情緒的に」話を聞いてくれた。「情緒」もからくりなのかな、仕組みさえ覚えて適した時に適した語を出力できれば、あるいは。
駅ではいろんな人が行き交っていて、そのどれもが物語をもって生きているんだな、と思うと壮大な気分になる、なるのはいいが、自分にもどってくるのが難しい。規則正しい誘導チャイム(流れているピーンポーンという音はこんな名前が付いていたらしい)がまた、私を思案の渦にいざなうような気がする。友人は目の前にいるのに、気が付かなかった。悪夢も休み休み見なければ。浮世に生きるのだから。

