ごきげんよう。まだまだまだまだレポートに泣いているあやめでございます。
なかなか上手に進められず、母には効率の悪さを指摘されてしまいしょんぼりしておりますが、なんとかやっております。が、私は大層いじけたので、ここでは、できないことばかりではなく、できることを書いていこう、という気持ちでおります。私のことを知るいいチャンスですね。あるいは?
地球儀
地球儀をはじめてもらったのは、おじいちゃんに社会の授業が始まったことを嬉々として報告した時だったとおもう。おじいちゃんは特に何も言わずに立派な地球儀を送ってきて、何も知らされていない私は不意のプレゼントにワクワクしながらおじいちゃんからのお届け物の包みを無駄に丁寧に丁寧に剥がしたものである。小学3年生の私には、持つのに苦労する重量感の、持て余す地球儀は、届いたばかりは私が、また弟妹が毎日クルクル回して眺めて、日本はここ、アメリカはここ、イギリスはここ…このグルジア、という国はなんだ?地図だと「ジョージア」になっているぞ?どういうことだ??間違いか??などと遊んだものの、ものの数日で飽きて、それから置き場にも困り、かさばる立体の地球儀ではなく、持ち運びにも保管にも都合のいい平面の世界地図のほうばかり頼って、徐々に部屋の隅へ隅へ追いやられていった。埃をかぶって、私のあの憧れの気持ちも埃をかぶっているようにみえた。年末の大掃除の時だけ、チラッと撫でるように埃をとってやるが、その習慣ももう、中学卒業のタイミングで使わないからと箱にしまって以降、無くなってしまった。
先日、一人暮らしをするんだ、と決意して、持ち物を整理しているときに、箱を開けてはしまい、箱を開けては出して整理して、またしまい、を繰り返すと、ある箱の中から、貰った時と同じくらいヒョイと、その地球儀が私の目の前に現れた。思いがけない再会を果たした、懐かしい地球儀は、今持っても(地球儀にしては)重たく感じた。憧れの重み。地球儀はなにも変わらずクルクル回るだけだった。
小学生の私には一つの仮定があった。この地球儀の中にも人が住んでいるのかもしれない。この地球儀、という地球には、私の住む地球と全く同じ世界が展開していて、その世界にも当たり前に地球儀が存在するのだ。そしてその「地球儀のなかの地球」にある地球儀も、我が地球と同じく無数に存在するのだ。その全てにまた、小さな地球が存在して…とどんどん小さな世界が繋がっているのではないかしら。そして、我が地球もまた、誰か大きな世界の人の一地球儀に過ぎないのではないかしらん。私は大きな人の部屋の机の上で、しゃんと立っている地球儀のなかの、ちいさな人なのかもしれない。そう思って、うっとりと、クルクルしたのだ。
私はこの地球儀を、新居へ持っていくことにした。家族は誰も欲しがらなかったどころか、新居へ地球儀を大事に持っていく私を笑った。私も照れ隠しのために笑った。
水
水の匂いを嗅ぎ分けることができる。雨が降りそうな匂い、川の水の匂い、水道水の匂い、雨が降った後の匂い、水たまりの(あまりきれいではない)水の匂い。以前に私は青が好きな話を、わりと何度もした気がするが、水も好きなんだな、と思っている。
描出
物語をかこう!と思ったのに、会話文がうまく「生成」できなくて、いつも頓挫してしまう。それでいつも、随筆・エッセイか、もはや詩(それもなんだか、「ポエム」的になる)のような体になってしまう。毎回「この作品は私の中では物語(フィクション)です」と注釈をつけるのも、なんだな興醒めでおせっかいな気がするので、それもできないでいる。いちいち分かっていることを、何度もうるさく言ってくるのは私のすごく嫌なことの一つであるから、私があなたにそれを強要するのが、本当に心苦しく思う。そもそも私がここでおはなしすることは、どれも私の本当の姿、本音ではなくて、脳内の小さい私の訴えを聞いて、ふむ、なるほど?と思いながら、伝聞の気持ちでしたためているものである。コップにかろうじてはまったが、底に落ちないで浮いている氷が、室温で少しずつとけて、水になって、ガラスのそのコップに溜まっていく、私はそれを写しとっているだけ、観察者に過ぎない、そんな気持ちで書いている。ただ、それが前面に押し出されて、私は観察者です!と大声で主張するのは、ガラスのコップと氷ととけた水には関係しないので、黙っていようとおもう。それなのに、ここに書かれていることが観察者フィルターを通したに過ぎない、ただの観察であることは伝わっているのか、隠している筈の私が1番心配になって、気になってしまう。小さな私は雄弁で、普段は言ってはいけないようなことも訴えかけて、憤慨、あるいは狂喜している。みいみい、小さな声で、小さいなりに怒鳴るように訴える。その訴えは本当は、大きな氷、なんて綺麗なものではない。もっと、混じり気の多い、歪な形の、毒々しい、ただのエゴ(「これは私のエゴです」という表現を私は好かない。言葉はそもそも自分本位でしか吐けない、あるいは人間はエゴにしかなれない、という私の哲学、美学がそうさせるのだと思う。もちろん強要したいわけでも「布教」したいわけでもないので、「※個人の感想です。」にすぎないけれど、注釈をつけるつもりで、このことも書いてみました。が、今回は特に「エゴ(利己主義)」的であったため、(これも私の中の小さな人が嫌がる声を聴きながらあえて)この表現を採ろうと思う、こんな考え方はやはりエゴ)だろう。それを、いかに綺麗らしく映し出せるか、それは私の力量によるのだとおもう。私はまだまだ力不足なので、うまくきれいにうつせないでいる。だから「ポエム」な苦しさと未熟さが出るのかもしれない。
現実
驚くほど、現実感がないまま、ここまで生きてきた。いつも「天然」ではなく「不思議ちゃん」と呼ばれてきたのだが、まわりから見てもそうならば、おそらく現実感のなさは、私の感覚だけではなく、思考の面にまで及んでいるらしい。不思議ちゃんといえば、まだ優しい言い方なのだろうが、要するに外れた、ということなのではないか、と思って、浮世離れしたままかなしんでいる。雲の上で霞をたべていれば、かなしむこともないのかもしれない。庵でもこさえて、質素な隠居暮らしを、仕事に就いたこともないのに、したいと思う。これは甘えだろう。大きな世界に出ていくのが怖いから、こう思うのだと思う。
さて、現実感であるが、いつまでも養えないままここまできてしまった。危機感を抱いている。いつまでもふわふわやさしいせかいに籠る訳にもいかない。が、なぜか残念ながら、理解もできなければ興味も一向に湧きそうにもない。ここでやはり「現実感のなさ」を再確認する。そういえば昔から痛みに鈍い気がする。やっと感じた痛みも、我慢して耐えて耐えてうずくまって、なかったことにしてきた気がする。体が発信するSOSを何度も黙殺して、平気なフリをして自分を痛めつけてきたのかもしれない、とうそ寒い気がしてくる。そのクセが功を奏して、私の意見は霧散したのかもしれない。あるいは、感じたことは「なかったことに」されるものだと、私の中でとっくの昔に変換されてしまって、やりたいことは(本当はいくつかあるのに)無いものとされてしまって、気づかなくなってしまったのかもしれない。確かに私は、「描出」のところで書いたように、小さな私の訴えを、聞いたり聞かなかったり、黙殺したりしている。
また、小さな私が使っている言語が、どうやらふつうの日本語ではなさそうなことに、最近気が付いた。もちろん、頭のなかで考え事をするときにきちんとした文法じゃない、ぐちゃぐちゃのままでやっている、ということはよくあることだと思うので、つまり私もその一種だと思っていただきたいのだが、問題は私自身がそれを「通訳」して外の世界に発信している、ということにある。だから、本音を言う(小さな)私と、それを通訳して発信する私、それから多分、それを検閲する私がいることになる。世の中的に、それをいうのはどうなのか……?という理性のパート。こうして、私にもいろいろ種類がありますから、「本当の自分」とははてどれのことなのか、忘れてしまうのです。そんな面倒な手順を踏むから、私は現実味に欠けるのだと、靄の中で思っています。あなたは見つけられるでしょうか。
眠気
ねむい。
ねむい、という感覚は、おそらく頭をもたげさせる大きな力をもっている。甘くて優しい眠気が襲って、脳天からつまさきにむかって包み込んでくる。眠い、とはやさしいかおをした、美男か美女か、であるとおもう。あなたのりそうの(おうじさま・おひめさま)。眠気に溺れる。目が開かない。現に今私は眠気と闘いながらこの文章を書いている。気が狂いそうである。ねむい。











