皆さんこんにちは。みちこです。
今回は久々にトピックを思いついたので、それについて書こうと思います。
トピックは、「言語化には壁がある」「言語化は無理をしてする必要はない(仕事や課題などでしなきゃいけない場合は除く)」ということです。
皆さん、言語化ってできればできるほどいいと思っていませんか…?
実は案外そうでもないんじゃないか、という話をしたいと思います。
私は無論このような場所にいるということもあり、言語化が普通の人よりは得意であると自負しており、周りからも言語化が上手いと言われることもしばしばあります。
その力は紛れもなくここ(日本語日本文学科)で培われたものです。この力に救われたことも多々あります。
しかし、言語化をし過ぎると、それはそれでしんどいこともあります。
そもそも、言語化というのはどのような事象を指すのでしょうか。
私はこれを、「物事を規定する」ことだと思っています。状況、気持ち、説明、解釈…。
物や人の名前以外にも言葉は日常生活の様々な場所に溢れ、あらゆる事象を規定しています。
しかし、本当にそれは「その言葉にしか」当てはまらないものなのでしょうか。
例えば、「悲しい」ことがあったとします。
しかし人によっては、その「悲しい」の大きさは異なりますし、もっと言ってしまえば種類さえも異なるものだと思います。(「嗚咽するほどの涙を催すほどの」悲しさなのか、あるいは「切ない」なのか「やるせない(諦めを含む)」なのか…とこういった塩梅です。)
それを説明する、ということは今私がカッコ内で示した通り、程度を表す言葉を盛り込んで、「悲しい」という感情をできる限り説明しています。
しかし人という生き物は相反する感情を同時に抱くことができるものであるように、必ずしも言葉で規定し、言葉を尽くしたからと言って、それらが形のないもののすべてを表せるわけではありません。
否、「すべてを理解した気になってはいけない」のです。
言語化という武器は非常に便利なものですが、同時に使い方を誤ればただ人を苦しめるだけの凶器にもなりえます。
たとえば、気持ちを分かってほしいだけの人に、現状を説明的に整理する対応は適切ではありません。
相手がその人に求めているのは、話を聞き、相手の気持ちに寄り添うことです。
こういったことを最近私は感じることが多くなり、こうして自戒の意味も込めて記事に仕立てあげた次第です。
要は、この言語化という武器の使いどころを間違えるな、ということ。
言語化ができるからとおごり高ぶり、なりふり構わず使うことはあってはならないということ。
このような結論に集約するかと思います。
というところで、久々に日常の思考の片鱗みたいな記事を書いてみましたが、いかがだったでしょうか。
最近は体調不良の記事ばかりで、あまり暗い話題ばかり続くのもよくないと思い、以前からずっとあたためていたこちらのトピックで記事を書いてみました。
次回はまた、何を書くのでしょうね…。中世の卒論ゼミの中間報告が近い時期ですので、おそらくこのブログ部員の複数人の方がそれぞれ違う視点から記事を書き上げてくれることでしょう。
同じトピックでも違う感想や抱負が湧き上がってくるでしょうから、そんな違いもお楽しみくださったらうれしいです。
それでは、今回はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます!