いま、書きにゆきます

ご無沙汰しております、みちるです。

 

今は風下にいるんです。

 

「今は、と言うと」

 

風上で煙を呑む仕事もあるでしょうから。

朝、昼夕、夜、そしてその後。人々が集まる間、空間に巡らせるための煙を風上で用意することも、風上からの電報に印を捺してあなたの所へ届けることも。
共有を決定されたものについて我々はまだ何も知らないというのに、それでも巡らせなければいけないみたい。君たちと、煙と、文章と、あとは種々の青田風さえあれば。今はそれでよろしい。

願わくば夏の前に、災いの前に、色々の苦しみや賛歌を聞く前にここに来たかった。そう書いても仕方がないと思いながら。

 

(間奏)

 

夏の終わりまでに何が出来るか。何を話し、何を消費し、何処へ進むことができるのか。
とあるトリックのせいで、こういうことを述べてもまったく意味が通り難く理解に優しくない問いが生じてしまう。しかしそれでも問わなければならない。

今から自分が行動するとして、それは何に寄り添いあるいは何を見上げることを前提としたものなのか。多くの人々が知らず知らずのうちにとる”寄り添いながらにして見上げる”態度は空無な「もの」と空無な主体とのセッションだと思ってしまうから、何に”様”を付けるのかもっとふざけながら考えなければいけない。

 

長いようで短かった暮らし―というにはあまりに異常な日常だった―が最終どうであったのかといえば。
水を汲みに立つときにしか整理できない事柄があった。熱唱するときにしか獲得できないものがあった。あなたのギターでしか歌えないロックがあった。あなたとしか呼べなかった猫があった。あなたの隣でしか話せないことがあった。あなたの言葉でしか解決できない問いがあった。あの鏡でしか映せない自意識があった。
いやがうえにも大きくなる心臓の音に聞き耳を立てながら眠り、食べ、学び、歌い、笑い、自分はやっぱり人と共になければいやだとわかった。あなたに、あなたたちに、飽きるまで傍にいてほしい。あなたの言葉を聞いて、あなたに抱擁をして、煙を分け、知を磨き、歌い、眠りたい。

時間こそ短いにしても、よく眠れる日が多かった。
食事を吐くことがなかった。
記憶がクリアになっていく。すべての人名や運動やあらゆる概念は自らを下品に提示することなく、ただまさに今考えたいことに向かって集まってくる。教養の実感とはこういうものでもあるのだと知って、きっと実家の居心地は悪くなるし両親の顔を見続けるのもいやになる。私は心地よい知に満たされた場所をつねに欲している、きっとそうしたものに飢えている。だから、だからまだまだ救ってほしい。私がいやにならないように、熱が冷めないうちに、寂しくならないように、全てを見届けるだけじゃなく、私もまた見届けられるものであれるように。

神の寵児であることが出来るのは、学生の身分でいるうちだけであるらしい。私のきらいな人がそう書いていた。でも、文章を読んでいくらか正しいような気がしている。

私は学生なのだから、まだ学生であれるのだから。
出来るうちに出来ることをしたいね、と。そういう話です。

親愛なる誰かに口づけの真似して火を返すときには、きっとまた違う話ができる。近いうちに、そうできるはずだ。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

本の世界

こんにちは! ましろです。
アイスを1日に何回も食べたくなってしまうほど暑いですね。
一昨日、本を読みました。

久しぶりに本の世界にどっぷりと浸かってとても幸せでした。読んだ本は、原田マハさんの『暗幕のゲルニカ』です。このお話は、ピカソが描いた『ゲルニカ』を中心に過去と現在を行き来しながら話が進んでいきます。人が信念を持ち、生き生きとしていました。何が事実で何がフィクションなのか分からなくなるくらい。それぞれの人物が人生をかけて成し遂げようとする気持ちの熱さに触れ、私の心も奮い立つようでした。

モノクロームで描かれた人々や動物が叫び、逃げまどっている。本の表紙の絵を見るだけでは不思議で不気味に感じましたが、本を読むことで何が描かれているのか知ることができました。無差別に市民が攻撃された空爆の様子です。

そして、それをきっかけにピカソの『ゲルニカ』を見に行きました。本物は、スペインにあるので、私が見たのは、8K技術を使って大きなモニターに絵を映したものです。じっくり見ていくと、ねじれている体の向きや表情がよくわかりました。顎を上にあげ、叫んでいる。馬も鳥も人間も叫んでいる。窓から手を伸ばしても、どこに走っても逃げ場はない。そんな風に感じました。
8K技術のおかげでとても細かいところまで観ることができました。牛の下書きの目が残っているところや、色の微かな違い、経年劣化からか皹のような盛り上がりがあるところまで。

じっくり見れば気づくことがたくさんありました。一方で、分からない気持にもなりました。どこからどこが人間の体で、どこからどこが馬の脚なのか。そもそも胴体は描かれているのか。何度観ても分かりませんでした。結局、私は、分かることは諦めてそのまま帰ってきてしまいました。でも、こうも思いました。空爆されたとき、そこにいた人は、何が何だかわからなくなった。それに、分らないことは、人の興味を惹きつける。人に考えさせるきっかけを与える。あの絵は私の心に残ったまま。ピカソに問いかけられているような気がします。

本を読んで、新たなことを知り、自分の目で見ると、世界が広がったように思います。新たな問や考えが自分の中で生まれます。最近少し離れていたけれど、やっぱり本の世界が好きだし、これからも惹かれ続けるのだろうと思いました。

それではまた。以上ましろでした。

憧れの夏

 1ヶ月半の夏休みも、なんだかのんびりしているうちにさっと過ぎてしまいそうです。

こんばんは、さゆりです。

 みなさんは夏休み、と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。私は田舎ののどかな風景を真っ先に思い浮かべます。ちなみに両親の実家は残念ながらいわゆるとても田舎というわけではないので、大自然の中でぼくの夏休み的な休暇を取ったことがありません。夏目友人帳みたいな世界観で夏を過ごせたら最高なんだけどなぁ。

 前期の授業で魯迅の「故郷」を考察した時、故郷という点に着目して考察することに苦戦しました。一人暮らしをした事がなかったからです。

 地方に実家があって一人暮らしをしている人の意見を聞いて納得する事がかなり多くて、経験してみないと気付けない事もあるということに気付いてはっとした記憶があります。私の場合仮に帰省をしたとしても綺麗な空気や景色があるわけではないのですが、故郷って良い響きですよね。

こういった授業を受けていて、度々思う事があります。

「もっと自分の中に経験の引き出しがあればいいのに!」

知識や考えをまとめて人に伝えるという技術の問題でもありますが、それ以前にこの「故郷」のように経験していないと気づけないことも多いような気がしてしまって……まだまだ多方面で未熟です。

 折角の夏休みなのにいまいち夏らしい事ができていません。そろそろ目白祭に向けて能研の活動が本格始動するので、身体を壊さない程度に頑張りたいと思います。では!

滄海の一粟。

皆さん、こんにちは!ずきです。

本日8月18日は「米の日」。「米」という漢字を分解させると、八・十・八になることから制定されたのだそうです。

先日、久しぶりに実家に帰省しました。実家周辺は山と田園に囲まれた長閑な地域で、近所の田んぼの稲には早くも穂がつき始めていました。まだまだ暑さが厳しいですが、秋の訪れを感じる風景に出会うことが出来ました。

・・・

今住んでいる東京は、高い建物に囲まれた場所が多く、また、実家の周りも標高の高い山々に囲まれていて、どちらも閉鎖的な空間なのです。

開放的な場所に行きたい、旅に出たいという気持ちが強くなりました。

全国各地の様々な場所を調べ、その場所に行った気分を味わって楽しんでいた中、「どうしてもその場所に行きたい」と思った場所がありました。写真に映っていたのは、とある岬に立つ白い灯台。青く澄んだ空を背に立つ姿が強く印象に残りました。灯台という建造物は、山に囲まれた土地に20年近く住んでいた私には馴染みのないものでしたが、なぜかこの建造物が私の心を掴んで離さなかったのでした。

・・・

3000m級の山々に囲まれた町で育った私とは対照的に、父は海辺の町で育ちました。私が行きたいと思った「あの灯台」は、父の故郷と同じ県にありました。ただ、灯台から父の実家までは同じ県内とはいえ、車でも2時間以上かかってしまう距離。私は無理を承知でこの灯台に行きたいことを父に伝えたところ、父の実家に行く前に立ち寄ってくれることになりました。

旅好きな父で良かったと思いました。無理なお願いを聞いてくれて、ありがとう。

・・・

旅行当日。
当初予定していたルートを変更し、出発時刻を1時間ほど早めて家を出ました。運転免許を既に取得している私ですが、諸々の事情で父の車は運転できないということで、運転のお仕事は父にお任せ……。地図や渋滞情報を確認する、食事をとる、寝る、の3つが車内での私のお仕事でした。

この日は渋滞に巻き込まれることは殆ど無く、出発から7時間近くをかけて、ついに灯台のふもとに辿り着きました。天候の心配がありましたが、現地に到着した時間帯はちょうど晴れており、綺麗な海と空を見ることが出来ました。

果てしなく広がる海、青く澄んだ空に白い雲、はるか遠くを航行する船……。ここに来るのは初めてのはずなのに、なぜか懐かしい気持ちになりました。

写真だけでは景色の素晴らしさが表しきれないのが残念ですが、この景色を見たらきっと「この場所に来て良かった」と思えるはずです。

そしてこちらが今回訪れた灯台、和歌山県東牟婁郡串本町にある樫野埼(かしのざき・かしのさき)灯台。日本最古の石造り灯台なのだそうです。灯台の周辺には水仙の花が植えられているそうで、花が見頃を迎える冬にもいつか足を運んでみたいと思います。

皆さんも機会がありましたら、訪れてみてはいかがでしょうか。https://www.town.kushimoto.wakayama.jp/kanko/oshima/kasinozaki.html

まだまだ残暑の厳しい時期が続きますので、体調に気をつけてお過ごしください。

素敵な夏を過ごせますように。
それでは、また。

指針

こんにちは、ゆきほです🍵

私は昔から足が冷たくなりやすいタイプらしく、ふと人に足が当たったときに冷たいと驚かれることが多々ありました。自分でも足が冷えやすい方だという自覚はありましたが、でも寒い時ってみんなこのくらい冷たいんじゃない?と思っていたんです。
先日自宅の表面体温計で体温を測っていたとき、ふと足先の体温が気になったため冷え対策ではいていた靴下を脱いでピッと測ってみました。するとなんと体温計の表示が……

32.8℃

えっなんか低くない?おでこで測ったら普通に36.4℃だったんだけど!?人の体温が32℃ってそんなことあるの!?
驚きながらも比較するために母の足先を測ってみたら普通に36℃くらいで、数字にして見たことでようやく自分の冷えの深刻さに気づいてしまいました。これは本格的に何か対策しないと!と思い、とりあえず「足 冷え 原因」と検索したらどのサイトでも「運動不足が原因のことが多い」「筋肉量が足りない」とのこと。
……うわ、思い当たる節が多すぎる。運動は苦手だとか言っている場合ではなく、とにかく何かしらの運動を続けて筋肉量を増やすことが私の喫緊の課題です。

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『「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日』

こちらは俵万智さんの『サラダ記念日』という歌集に収録された歌です。初版は1987年ですが最近テレビで取り上げられていることも多かったため、この歌は聞いたことがあるという方もかなり多いと思います。

私がこの歌に初めて出会ったのは小学校高学年の誕生日のときのこと。
7月6日生まれの私に母が「こういう短歌があるの知ってる?」と『サラダ記念日』の文庫本をくれたことで出会いました。
もう10年近く前のことですが、当時の私は『サラダ記念日』を知らなかったため「私の誕生日ってこういう短歌があるんだ!」と嬉しくなったこと、あとはそれまでよりちょっとだけサラダを食べることが好きになったということも覚えています。

でも私なら「この味がいいね」だけで記念日にしようとは考えられないなと心のどこかで思っていたのが中学生のときのこと。
当時の私は元来の後ろ向きな思考が加速していて、何を見てもとりあえずまずは悪い所が目に入る、どんな言葉も斜に構えて受け取る、口を開けば出てくるのは悪口、というような挙げだしたらキリがないほどネガティブな生き方をしていました。今だってポジティブな性格だとは到底言えませんが、さすがにあれほどではないです。多分今の私と中学生の私を比べたらびっくりされちゃいます。

「この味がいいね」が記念日に思えるように生きたいと思い始めたのが高校生のときのこと。
友人にも環境にも恵まれたおかげで、少しずつネガティブが減速していた私は部活の一環として短歌を詠むことになり、ヒントを求めて本棚に並んでいた『サラダ記念日』に久しぶりに手を伸ばしました。
そうしたら何度も何度も読んだ本のはずなのに、高校生の私の琴線に触れたけど小中学生の私の記憶には残っていなかった歌がいくつもあって。
これからは毎年読もう、と決めて誕生日が近づく度に開くようになったのもこの頃のことです。

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先日本屋さんに行ったとき、単行本の『サラダ記念日』が新刊の本に混ざって平積みで売られているのが目に留まりました。
文庫本があるということは単行本もあるということはもちろん分かってはいたけど、私の中では部屋の本棚にずっとある文庫本の『サラダ記念日』の印象が強かったため思いがけない出会いに嬉しくなり、思わず引き寄せられてしまいました。毎年読んでいた『サラダ記念日』ですが、そういえば今年は発表準備やレポートに追われていたため読めていなかった。

20歳になった大学生の私は『サラダ記念日』を読んで何を感じるのだろう。

部屋の本棚の一番取りやすい特等席に並んだ2冊の『サラダ記念日』を見ていると、何だか心が暖まるようです。

ではまた。

雨の運転☔

こんにちは。れいかです。

今日は8連勤の7日目。……の割にはとても元気です!
モーニングの時間からバイトに入ることが多く、毎朝早起きしているからかもしれません。
毎日のように来店するお客さんも結構いらっしゃって、この1週間で常連さんのお顔やいつも頼むメニューをかなり覚えられました。(笑)

前回の更新の際、「来月、教習所の修了検定です」という話をしたのですが、無事合格することができました。午前中に修了検定を受け、同じ日の午後に仮免学科試験も合格。
仮免許取得できましたー!🙌

ところで皆さん、この前の土曜日のことを覚えているでしょうか……?
そう、台風が来た日です。
私はあの土砂降りの中、初めての路上教習をしてきました☔💦
自動車学校から配られたスケジュール表を見たら時間が夜だったので、さすがに怖いなと思い、キャンセルすることも頭をよぎったのですが、「次いつ乗れるか分からないし……練習になるかもしれないし……」と思い、バイト後に教習所へ行ってきました。

教官から開口一番に「絶好の教習日和ですね!」と言われ、「やっぱりとんでもない日だよな……」と少し後悔しました😅
最初、車の周りを3周しながらタイヤやライトの点検をしたのですが、この点検をしている間、一番雨が強かったです。張り上げた教官の大声がギリギリ聞こえるくらい、猛烈な雨音。
教官は演劇の発声練習でもしているような腹式発声でした。(笑)

雨に降られながらなんとか点検を終え、いざ運転です。緊張の瞬間。
ワイパーはもちろんフル稼働です。思っていたより直線の道路も多く、スムーズに進んでいきました。
「スピード出すの怖いって言ってた割に結構出てるからもっと落としてね~」
路上教習する前は「もっと出して」と言われると思っていたので意外でした。(笑)

ただ、空が暗くなり、ある道で車とすれ違ったときに、対向車のヘッドライトで目の前が真っ白になって、一瞬道が半分見えなくなったのはスリリングでした。
この大雨の影響で対向車が比較的少なく、その点はありがたかったです。

今回のコース(全部で3コース)は、いつも教習所へ向かうバスが通っている道だったので、自分で運転しているのがなんだか不思議で嬉しかったです!

教官は、優しくてガタイが大きい白髪交じりのおじさんでした。
知っている道だったこともあり、「ここ、友達のバイト先なんです。」「私ここで1回だけ働いたことあります。」「僕の家この辺です。」など信号待ちの時に少しお話しする気持ちの余裕はありました😊
2コマ連続で同じ教官、同じコースだったおかげで2回目はかなり落ち着いて取り組むことができて良かったです。

「正直、この雨だったら僕も運転したくない……」と教官が言うくらいの大雨。
初めての路上でハードモードを経験できて良かった!とプラスに捉えることにします。
次は日中に乗る予定なので、また違う景色が見れるのを楽しみにしたいと思います!

最後に、今日は推しの秋のコンサートツアーの当落発表日。
ファンクラブに入ったばかりで今回初めて申し込みをしました。
先ほど17時頃にメールが来て、恐る恐るリンクを開くと……3公演中、1公演当選!
アンジュルムのライブにまた行けることがとにかく嬉しいです♡

「感染しない・させない」をモットーに免疫力を高めつつ、引き続き、卒論・バイト・教習所・サークル・遊び・(部屋の片付け)に勤しむ夏にします🌻


それでは、また。

送り火

 内地はつまらないところだ。神戸の街を歩きながら、貞子はそう思った。街は煤け、人々はボロ切れのような着物を着ている。これから何を信じて生きていけばいいのか分からないのだろう、意味もなく勉強させられている時のように、目の奥になんの光もないような人たちがノロノロと歩いていた。夕焼けに街は真っ赤に燃えていたが、人々の心には情熱ひとつ感じられなかった。

 貞子が神戸に来たのは、つい数日前のことだった。思えばここ数日は、一年がいっぺんに過ぎ去ったような、そんな日々だった。貞子は大連に生まれ、大連で育った。なに不自由のない暮らしを送っていた。だが日本が戦争に負けたことを知らせるラジオを聞いた日から、大連での生活はすっかり変わってしまった。いつかここを離れなければならない。だが、それがいつになるのかは分からない。宙ぶらりんな生活がしばらく続いた。そして終戦から一年ほどたった頃、引き揚げ船が来るという噂が流れた。ああ、ついにここを離れる日が来たのだと思った。内地は女学校時代の故郷訪問で一回行ったっきりだったから、今どんな状況なのかよく分からない。よく分からない「故郷」に行くくらいなら、ずっと大連にいたいと思った。だがそんなことを言っていても仕方がない。戦争が終わってから、外では中国人が暴動を起こしているし、ソ連兵は家に侵入して金目のものを持っていく。内地に帰るしか選択肢はなかった。
 内地に帰ってきて、大陸は恵まれていたのだと感じた。もう、大連は日本のものではない。日本のものではないからといって、私の生まれた場所でなくなるわけではない。けれど、帰る場所ではなくなってしまった。大連に残してきた父と母のお墓にも、いつお参りに行けるか分からない。気づけば私も内地の人と同じように、希望も何もない顔をして歩いていた。だめだ、だめだ。私は大連生まれなのだ。東京よりも華やかな街で育ったのた。女学校にも通っていたのだ。放課後は友達とタクシーに乗って喫茶店に毎日のように通っていたのだ。家に帰れば、纏足の使用人が「お嬢様」と迎えてくれていたのだ。こんな私が、煤けた街で、土気色の顔をしていてはいけない。

 貞子が家へ戻ると、ちょうどお姉さんが庭に出ていた。
「あら、貞ちゃん帰ってきたの」
「うん、ただいま」
「神戸の街はどう?大連に比べたら田舎だけれど、ここもなかなか悪くないでしょう。まだまだ慣れないこともあると思うけれど、ゆっくりして行って頂戴ね」
お姉さんはテキパキと喋って、家の中へ消えていった。貞子はなんとなく家の中に入る気になれず、土間に座った。ゆっくりと沈んでいく太陽を見ながら、ぼんやりと引き揚げの時のことを思い出していた。
 引き揚げ船に乗る前に、ソ連兵の検閲があるらしいと聞いた。金目のものを持っていることが分かったら、その場で殺されるかもしれない。女だと分かれば、どこかに連れて行かれるかも分からない。貞子は長く伸ばした髪を坊主にし、今までに大連で撮った写真だけを腰に巻いて、引き揚げ船に乗り込んだ。引き揚げ船の中は暗く、暗く、これからどこへ連れて行かれるかも分からない、本当に日本へ帰れるのかも分からない、不安な空間だった。時折船が大きく揺れるたびに、貞子の気持ちも大きく揺れた。この船が日本のどこについても、今までの生活は帰ってこない。きっと今まで経験したことがないような苦労が待っている。それでも、帰るしかない。腰に巻いた写真をぎゅっと抱きしめ、船が到着するのを待った。
 船は博多に着いた。博多は引き揚げ者たちで溢れかえっていた。内地に親族がいる人たちは列車にパンパンに詰められて、それぞれの地方へ向かった。貞子は神戸で暮らすたった一人の姉を頼り、神戸に向かった。
 神戸に着くと、姉は貞子をとても歓迎してくれた。無事でよかった、無事でよかったと、涙を流しながら貞子の坊主頭を撫でた。そして、ここでは自由にしていいからね、と部屋の一室を貸してくれ、貞子の神戸暮らしが始まったのであった。
 初めは物珍しく楽しかった神戸での生活も、次第に居心地の悪いものとなった。街も人も灰色で、活気も何もない。大連で聞いていた内地の様子とはひどく違っていた。姉は貞子に優しく接してくれており、神戸の家での生活に不満はなかった。だが姉も終戦後、生活を切り詰めて暮らしていた。貞子が来たことで、姉一家の生活を圧迫していることは明らかだった。

「あら、貞ちゃん、こんなところに座って何をしているの」
土間に来ていた姉に声をかけられ、貞子は顔をあげた。日は今したがた落ちたようで、あたりは段々と暗くなっていた。
「お姉ちゃん、戦争は、終わったんかねえ」
貞子は呟くように言った。
「そうねえ、暮らしは全然楽にならないし、まだ終わってないみたいよねえ」
「戦争が終わることは、あるんかねえ」
「貞ちゃんが、戦争は終わったと、思った時が、終わった時なんじゃないかしら」
「そういうもんかしら」
「そういうものよ」
姉はもう用はないと思ったのか、暗くなる前に入りなさい、と伝え家の中へ消えていった。
 貞子はしばらく考えていた。戦争は終わったと思った時が、戦争が終わる時。この街に居続け、姉の家に世話になり続けて、果たして戦争が終わったと感じる日は来るのだろうか。自分一人で新しい土地へ行き、仕事を見つけ、生活をしていった方が、もっと面白いのではないだろうか。もちろん大変な苦労が待っているだろうけれど、それでもその苦労の中に、何か見つけられるのではないか。つまらない顔をして、つまらない街で生きていくより、よっぽどいいのではないか。貞子は街を一刻も早く出たくなった。どこへ行っても、内地は内地だから、変わり映えしないかもしれない。けれど、どこかへ行けば、何か変わる気がする。貞子は衝動を抑えきれなくなった。急いで家の中へ入り、荷物をまとめた。大連から大事に持ってきた写真を抱え、今までお世話になりました、と手紙を残し、貞子は家を飛び出した。どこかに着いて身を落ちつけてから、お姉さんにはゆっくり手紙を出そう。私がいるせいで生活は苦しくなっているのだから、無理に止めることはしないだろう。それよりも、今、行動したいのだ。
 戦争を終わらせる。激しい思いを抱いて、貞子は神戸の街を去った。日はすっかり落ち、深い闇が貞子を包んでいた。

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あとがき

 福岡生まれ、福岡育ちのもこです。私が福岡で生まれ育った理由は、引き揚げ船が博多港に着いたから、それだけです。本籍地があるとか、代々福岡に住んでいるとか、そういうことではありません。
 貞子とは、私の父方の祖母の名前です。祖母は私が生まれた時には亡くなっており、私の父も高齢になり記憶があやふやなことから、今回書いた文章にはフィクション性が強い部分も多々あるかもしれません。しかし、虚構を恐れ、何も書かなければ、誰に伝えることもできないと、私は思いました。
 私は自分自身について考える時、自分の背後には必ず戦争というものがぴったり引っ付いているのだと感じます。父方の祖母は大連生まれ、祖父は台湾生まれ、どちらも引き揚げ者です。そして母方の祖母は長崎生まれ、原爆の影響なのか、長崎の親戚はどうも短命です。
 あの時、懸命に生きた人たちのおかげで、私たちは今ここにいます。8月15日は、戦争が終わった日であると同時に、戦争についてじっくり考える日です。私たちの世代にとって、戦争はもう、馴染みのないものかもしれません。しかし、いま私たちが生きていること、このことに思いを巡らせる時、やはり戦争について考える必要があるのではないかと、私は思っています。
 2022年8月15日 もこ

積読

こんにちは、みどです!

凄まじく忙しかった期末テスト・レポート課題をやっつけて、夏休みに突入した方も多いのではないでしょうか?皆さんはこの夏、どんな風に過ごしますか?私は変わらずインドア派ですので、お家の中でクーラーをつけてゆっくり過ごします…。
そんな出不精の私が外出した際に思わず立ち寄ってしまう場所があります。そう、本屋さんです。
本屋さんに行くと心が落ち着くんですよね。休まる場所というか、一息つける場所というか。本に囲まれて、静かで、自分の世界に没頭できる場所、それが本屋だと個人的に思ってます。
先日、本屋に訪れた際に「文庫フェア2022」という文字が目に入りました。もうそんな時期か~!と思い、文庫フェアにて陳列されている本たちを見ると興味がひかれるものばかり…!新潮文庫のフェアでは購入するとステンドグラス風しおりが先着でもらえるため、新潮文庫の本を購入しました。吉本ばななの『キッチン』、夏目漱石の『こころ』、星新一の『妖精配給会社』の3冊を購入しました。ウキウキで、本を片手に家に帰りました…。
それから二週間後、この3冊、まだ手を付けてません。1ページも読んでません。そうです、私は積読大好き芸人です。買った時は「読むの楽しみだなー!!!」ってワクワクするのに、家についた途端、読む気力がなくなってしまうという。あれですよね、服屋さんでめちゃくちゃかわいいと思った服を買って家に持って帰ったらそこまで可愛いと思わなくなる現象と似てますよね!!?そうですか、私だけですか。この3冊の他にも、積読認定されている本たちが山ほど…。こういう癖って治した方がいいんでしょうけど、本屋行くとそんな考えもどこかに飛んで行ってしまいます。
ということで、今年の夏は読書の夏にして、積読放置されている本たちと向き合うことにします。自分だけのプチ読書感想文なんかも書こうかな~、そうしたら楽しいかな~なんて考えながら、今日も本屋に足を運んでいます。
皆さんも、暑さに気を付けて楽しい夏をお過ごしください!

以上、みどでした!

晴れごい

ぶらんぶらん ナスがゆれる
ごろんごろん ジャガイモとれる

あらまあ立派なズッキーニ!
ちがうよ これはキュウリだよ

あらまあキアゲハ幼虫だ
おかげでパセリは裸んぼ

にょきっにょきっ ミョウガがはえる
ずしっずしっ カボチャがそだつ

おひさまサンサン日差しをあびて
みんな大きく大きくなあれ


*****


だいふくです。
みなさんお元気ですか?
コロナが大流行していますね。

わたしは抗原検査を受け、陰性を確認して、田舎のおばあちゃんちに来ています。
実に3年ぶりです。
小さいころから長期休みになると毎回来ていたのに、3年もあいてしまったとは驚きです。
おばあちゃんちでは、畑でいろんな野菜を育てていて、田んぼもあります。
料理で使う野菜は畑でとれるものばかりで、ぱんぱんに大きくなった野菜を見つけては収穫するのが毎日楽しみです。

わたしは東京生まれ東京育ちですが、今、おばあちゃんちの近くにある自動車教習所に通っています。17日で免許をとるスピードプランです!
2週間とちょっとで免許がとれてしまうなんて、、、
明日はついに卒業検定です!!
ここまで順調に晴れが続き、検定前日の今日だけ雨が降りました。ワイパーを使う機会ができてよかったです。

わたしは(自称)晴れ女なので、このまま晴れでおわると思いきや…‼︎
予報によると、検定の時間帯は台風直撃!
かんべんしてくれ〜!!!!!

ということで、、、
「晴れごい」をしました。

手順はこうです。
まず、東の空に向かって正座し、呪文を唱えます。
「晴れの神様ー、明日9時から12時ー、晴らせたまえー、晴れろー晴れろー」

次に、今日は満月ということで、雲に隠れている次が出てくるまで、晴れごいダンスを踊ります。雲を払いのけるように、両手をふってステップをふみます。このとき、口では「晴れ晴れ晴れ晴れ」と繰り返し口ずさみ、全方位を向きながら踊ります。

最後に、月が出てきたら最後の一周をさらに力強く踊り、東の空の月に向かってお辞儀をしておしまいです。

なぜこんな幼稚なことをしているのかって??
本当にそうですよね。
女子大生がいい歳して晴れごいのダンスを踊るだなんて。
ですが、この晴れごい、実績があるんです…‼︎

高校生のころ、部活の遠征で他県に行くことがありました。外で演奏する部活だったので、雨が降ると困るんです。ですが、あいにく天気予報は雷月の雨。おふざけでも何でもいいから晴れてほしいと思い、友達と2人で部活の昼休み中に晴れごいをしたんです。そしたら、晴れごいの効果あってか、前日まで雷つきの雨だったのに、当日は陽が差し込む曇り晴れ。野外での演奏を終え、東京に戻るバスに乗ったころには雨が降ってきました。
明日も、晴れるまではいかなくとも、曇りになるといいなと思っています(笑)

降っても晴れても、卒業検定ではやれることをやるまでですが。
それでも晴れを祈ってねむります。
明日もいい天気になりますように。
それではみなさん、おやすみなさい。

愛を込めて。

こんにちは、あこです。

先日、家族旅行に行ってきました。

避暑地として有名な軽井沢を訪れたのですが、やはりそれなりに暑かったです。

ですが久しぶりに緑に囲まれて、ゆっくり過ごすことができました!

*****

思い返せば、家族で軽井沢を訪れるのは3回目。(学校行事を含めると5回目)

旧軽井沢銀座通りはもちろん、旧三笠ホテルや万平ホテル、軽井沢高原教会、軽井沢タリアセン、軽井沢絵本の森美術館、室生犀星記念館、ハルニレテラス、ミカド珈琲、軽井沢アイスパーク、白糸の滝、雲場池……

観光スポットは今までにかなり巡ったので、今回は軽井沢を拠点として少し遠出(?)しました。

印象的だったのは、信州上田の”稲倉の棚田”です。天候にも恵まれ、稲の深い緑と真っ青な空のコントラストは感動的な美しさでした。それに、空き缶で作った提灯や、前日のお祭りで使用したという松明、手書きのオーナー表(?)などが置かれていて、人の温もりや優しさを感じることもできました。

ーーーーー

そもそも棚田とは、山の斜面や谷間などの傾斜地に階段状に作られている水田を指し、日本にある約250万haの水田のうち、約22万ha(=約8%)が棚田だといわれています。

しかし、棚田は一枚一枚の面積が小さく、傾斜地で労力がかかるため、中山間地域の過疎・高齢化にともなって1970年代頃から減反政策の対象として耕作放棄され始め、今では40%以上の棚田が消えています。

そんな中、1995年には中山間地域の喫緊の課題解決(担い手不足や耕作放棄等)を目的として「第1回全国棚田(千枚田)サミット」が開催され、1999年には、棚田の保全や、保全のための整備活動を推進し、農業農村に対する理解を深めることを目的とした「日本の棚田百選」が農林水産省によって選定されました。

これらを契機として、「日本のピラミッド」や「農民労働の記念碑」ともいわれる棚田の”歴史的文化遺産”としての評価が高まり、日本の原風景として、全国的な保全活動が行われるようになりました。(※参考:特定非営利活動法人 棚田ネットワークHP https://tanada.or.jp/tanadadate/whatstanada/

そしてそれは稲倉の棚田も例外ではなく、年会費の支払いによって棚田での農業体験・収穫した棚田米の受け取りが可能な”棚田米オーナー制度”や体験学習の受け入れに加え、農閑期の田んぼでテントを張り、満天の星の下でキャンプをする”棚田CAMP”や、水を張った田んぼの中でのかけっこやロープ相撲、つまり「どろんこ遊び」で代掻きをする”泥んこASOBI “、五穀豊穣と獣害低減を願うお祭りである”ししおどし”、オープン軽トラやドローンを利用した”棚田ガイド”など、他にない観光アクティビティが展開されています。

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実際に棚田を見たり、稲倉の棚田の取り組みを調べたりして感じたのは、”後世につなぐ”ことの大切さと難しさです。

例えば、今回訪れた”稲倉の棚田”の起源は6世紀から7世紀頃ではないかと言われており、1500年という長い間、人々に受け継がれてきた場所でした。

そして棚田に限らず、昔(といってもだいぶ時代の幅はありますが。)から今に至るまで、誰かから誰かへ、誰かの手によって守られながら継承されてきたものは世界中に溢れています。もちろん、文学作品も然り。

これらは「伝統」とも表され、守るべき・継承すべきものとして捉えられがちですが、実際にその「伝統」を目にすると、「伝統」という言葉や「〜べき」という言葉には違和感を覚えます。そして、当事者と第三者の意識の違いを突きつけられ、自身がその「伝統」に対して、”第三者”として接していることに気づかされます。

“当事者”は、”当事者”意識を持って「伝統」と向き合っている人々は、それらを「守りたい」と思っています。誰かに「伝えたい」、後世に「つなぎたい」と。そしてその根底には、その「伝統」に対する”愛”があり、だからこそ「後世へつなぐんだ」という”使命感”を持っているのだと、思います。

しかし、”当事者”でない人は、”第三者”としてその「伝統」に接している人は、何よりも先に「伝統だから後世につなぐべきなんだ」と考えます。「つなぐべきだ」という”義務感”を抱きながら、「伝統」と向き合っているのです。

もちろん、私たちの周囲にはたくさんの”つながれてきたもの”があって、全てのものに対して”第三者”として接している訳ではないでしょう。

だけれど、たくさんの「伝統」の中で、私が、私たちが、”当事者”として向き合っているものは、どれくらいあるのでしょうか。

「伝統=継承すべきもの」

この公式の頭には、ほとんどの場合、「誰かが」がつくでしょう。

伝統=「誰かが」、継承すべきもの。

「継承したい」と思う”当事者”と、「継承すべき」と考える”第三者”の間には、大きな隔たりがあるのです。

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昔から伝えられてきたものには、たくさんの人の”愛”が込められています。「伝えたい」「つなぎたい」という想いを発信する側と、享受する側と、二つの”愛”が重なり続けて、現在に至るまでつながれてきました。

問題なのは、考えるべきことは、「いかにつなぐべきか」ではなく、「伝えたい」「つなぎたい」と思っている人と、「教わりたい」「自分がバトンを受け取りたい」と思っている人がいるのに、何らかの理由(代表的なものは経済的な事由)によって「つなげない」という状況にあるもの・人がいるということ。

今回の旅行を通じて、”つなげる”ことや”継承する”ことについて、考え直すことができました。

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何もかもを、そのままに後世へつなげるということには、何の意味もありません。今の段階で、私たちの世代で変えるべきこともたくさんあります。変えていくことも、変えないことも、どちらも同じくらい大事なことです。(それに、”つながれてきた”ものだって、不変ではありません。大事なこと・核は変えずに、しかし外側はしなやかに、柔軟に変えながら”つながれてきた”ものがほとんどなのです。)

“変えるべきもの”と”変えざるべきもの”は、本当は少ししかないのかもしれません。「〜べき」と思うのはきっと思い込みで、「〜たい」と思うのが、良い選択なのではないでしょうか。

「〜たい」の想いのもと、本当に「〜たい」のは何かを見極め、その周りをほんの少しだけ変えてあげれば、生きやすくなるのだと思います。

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「昔の方が良かった」なんて言葉があるけれど、私はそんなことは言いたくない。

自分が歳を重ねた時、「こんなに社会は・時代は良くなったんだよ」と小さい子たちに言いたい。

だけれど、その一方で、社会・時代・環境の「良くない部分」に”気がつける”自分でいたいとも思う。

「良くない部分」によって苦しんでいる・悲しんでいる存在に気が付き、「良くない部分」を変えられる自分でいたいと思う。

“つなぐ”ことは、優しくて、暖かくて、難しい。

それでは、また。