フィードバックをもらえることの嬉しさ

皆さんこんにちは。みちこです。

いつ何時も気の赴くままに、ということでこの記事を書いているのがなんと更新日当日の22時です。

一気に書き上げてしまうのが私の書き方なので、途中まで書いてる記事とかあっても結構普通に消しちゃって新しいのを書き直すなんてざらです(笑)

逆に言うとそれだけ綴りたいトピックがあるとも言えますが、それは一旦置いといて。

本日のトピックは、「フィードバックの大切さ」ですね。

年を重ねて、自分が「大人扱い」をされるようになってくるほど、「フィードバック」の大切さを身に染みる機会が増えたな、と感じました。

それを感じているのが主にアルバイトでの出来事です。

私が現在やっているのが飲食店でのアルバイトで、今年の三月から始めたので、今月で約四か月いることになりますかね。

一応その前(つまり一年次)にもアルバイトはやっておりまして、そっちは採点業務を主にしておりました。

どちらの業務でもとても大事な経験をさせて頂いたのですが、この二つに共通して言えることが、今回のテーマ「フィードバック」とつながってきます。

それは、「失敗はしてもいい。ただし、何度も同じミスをしてはいけない」ということ。

そして、「失敗を繰り返さないためにどうすればいいか」ということ。

この二つです。

アルバイトって、ただお金を稼ぐための手段の一端だけじゃないと私は思っていまして、その最たる理由がこの二つのことを学んだからですね。

これはかなり貴重な体験をさせて頂きましたね。自分の今まで持っていた価値観を180度ひっくり返されたようなものですから。

これまでの私は、「失敗はしてはいけないもの」という意識が強く、最初から失敗をしないようにあらゆるリスクを回避して生きてきました。

だから高校以前までの私は、自分が出来る範囲までのことしかしてこなかった。それ以上先に進まないのは、失敗したらどうしようという怖さがあったからです。

でもそんな怖さすら乗り越えたいほどやりたいことを全部やって卒業しようと思った大学入学前。

大学入学後、想定よりも早い時期から採点業務のアルバイトを始めました。

当たり前といえばそうですが、最初は慣れないことばかりで失敗ばかり。

注意はさんざん受けて、バイト先からの帰り道では常に自分反省会を繰り広げていました。

このバイトを始めたのは選択ミスだったか、とか、なんでこんなこともできないのか、と自分を責める行為ばかりしていました。

今なら分かりますが、これは何も「反省」ではないですね。

「反省」って、自分を責める行為とは全くの別物です。だって、そこには何も生まれないですから。

負の感情だけが蓄積していき、前に向けていない。

このブログで前に書いたことがあるような気がしますが、私が普通の人より割と前向きでいられる理由は、母に言われた言葉がきっかけです。

模試か何かで自分なりに対策をしたのにあまり良い点数がとれなくて泣いていたんだったかな…?そんな気がしますが、その時に母に言われた「泣いていても何も変わるわけじゃない。次どうするかを考えないと、成績は伸びていかないよ。」という言葉があります。

この言葉だけを悲しみのうちに聞いていた私は、私の気持ちなんぞ何も分からずに!と突っぱねてしまいましたが、改めて考えてみると本当にその通りだと思います。

この話をもっとさらにさかのぼると、中学受験で塾の先生に言われたこともあります。

過去問を解いてノートに直しをして、それを提出するという宿題があったのですが、そこに必ず「なぜ間違えたのか」と「対策(具体的な方法)」を書かせる先生がいまして。

最初のうちこそ全くかけず、先生に「これは具体的な対策じゃないから。次はきちんと考えて書いてきてね」と何度もダメだしをくらっていましたが、返されていくうちになんとか方法が分かってきた、という経験があります。

それらの項目を中学に進学してからも定期テストの直しノートに書いていたら、いつだったか良いノートの例として紹介されたことがあったような気が…したような?しなかったような?

このような経験があるため、私は人一倍「自責」が無意味であり、「対策を考える」ことの方がよっぽど大事であることを知っていたはずなのですが…。

どうもそれを「机に向かってする勉強」のみに通用することで、「自身が経験して得る学び」には活かされないことだと思っていたようです。

なので始めた当初はバイト先に向かうのが億劫で仕方なかったです。

その後バイトを始めて数か月、大体3~4か月経った頃くらいに、私はバイト先の先輩からあることを教えてもらいました。

一般的に仕事にも慣れ、ある程度業務がこなせるようになって来ないとおかしい時期に、私が中々そうなっていなかったということもあるのでしょうか。

会話の経緯はよく覚えていないのですが、その先輩さんは私に「間違えたところはメモしておいて、移動中とかに見るといいよ」と教えてくれました。

それを聞いた時に、私は「あ、これ…今まで私が勉強でやってきたことじゃん…。」と思いました。

そこでようやく私は「自責」をやめ、本来の「反省・対策」へと思考の路線変更をしていくこととなります。

なので、職を変えた今のバイト先でも私はそれを意識するようにしています。

間違えたところはすぐにメモして、分からないところは人に聞いて。

そしてこれがかなり変わったところなのですが、「何もない時にも思いだす」ということを始めるようになりました。

前のバイト先で働いていた時まではあまりできていなかったのですが、一夜漬けのテストのように、その場しのぎで直前とかにミスを反芻していました。

しかし今のバイト先に変えてからは、意識的になんでもない時でもメニューの作り方や業務方法などを思い出していくようになりました。

思い出す能力ってかなり大事で。それをしないと身に染みていかないんですよね。

自分が忙しい関係で中々シフトに入れていないという引け目がおそらくそうさせたのでしょうが、「シフトに入れない分せめて裏できちんと努力して、一度教えてもらったことは必ずできるようにしておくくらいでいないと。」と思うようになりました。

長々と綴りましたが、これらの経験をしたからこそ、私は「ミスをしても二度と同じことをしないように対策することの方が大事」というかなり大切なことを学びました。

さて、今回のテーマ「フィードバックの大切さ」は実はここからが本題です。

え。これ本題じゃないの?と思われたでしょう。すみません。ここからが本題です。

実は私の勤務先の店長が異動するとのことで、「今までありがとうございました。」という旨の連絡を入れたんですよ。

本当は対面で伝えたかったところなのですが、シフトの都合上それが叶わないので連絡を入れまして。そしたらこれを書き始めたくらいの頃(つまり本日22時頃)に返事が来まして。

そこには、私がこの4か月で頼もしくなってきたことと(おそらくお世辞でしょうが)最後のアドバイスと称して私が接客の時にやってしまっているクセのようなものが綴られていました。

そのクセは、自分では全く気付いていなかったことなので、他人からみるとこう見えているんだと思いました。

こういうことを教えてもらえることって、本当にありがたいことですよね。

おそらく、これから年を重ねるほどそんなことはなくなってくるのでしょう。

年を重ねれば重ねるほど、年齢や立場の壁など様々な要素がジャマをして、このようなアドバイスはもらえなくなってくるのかな、と思うと少し悲しくなってしまいました。

でもだからこそ、今のような経験や人脈を大切にして、吸収できることはすべて吸収しておこうとも思います。

だから大人は言うんですね、「若いうちに失敗をしておけ」と。

前述の通り、私は失敗が未だに怖いと思っている節がまだあるので、失敗をしない(あるいは失敗を経験でカバーできる)年を重ねた大人が羨ましいと感じています。

なので、若いことがいいことだと思わなかったんですよ。昔から、早く大人になりたい、とそればかりを願っている不思議な子どもでした。

ですが、今このような経験をして、若いことがいいこと、というのは「教え導いてくれる『先輩』がいるからいい」のだと思えるようになりました。

さて。今回もだいぶ長いこと自身の体験を綴ってしまいましたね。

自分が知らない人の経験談を聞かされる身にもなれ、と自分への戒めを綴ったところでお開きとさせて頂きます。

次回は特に何書くか決めてませんが、まあどうせこんなことを書くんでしょう。

ここまで自分の考えを自身の経験と結びつけて書いてネタがつきない人も珍しいかもしれませんね。

それでは、失礼します。

Writing

 人生には「うお~~~何もやりたくね~~~~~」のタイミングってあるじゃないですか。最近暴力的と言っていいほどの暑さが続きうんざりしております。外出するのにかなり気合が必要なんですよね。真っ昼間に外歩くのとかってもはや誇張ではなく決死の覚悟だなと思っています。人類、水を持ち歩こう。なんなら塩飴とか塩分タブレットとかも持ち歩こう。日傘も持ち歩こう。頑張って夏を乗り切りましょうね。

 正直暑いを言い訳にしたら世の中の暑さに負けず生きている方々に顔向けできないレベルなんですが、本当に何をするにもやる気がでなくて。今人生でかなり「寝る」をやる時間が長い怠惰な生活を送っています。で、そんなことをしているためブログに書けるようなこともなくない?となるわけなんですね。まあこの私、書くことないなをネタに書くこともしゅっちゅうなので非常に慣れております。書くことないネタに走ることに躊躇がない。迷いなく舵を切れます。ただ、書くことないをネタにし続けてきた結果そんなにパターンもなく、そろそろジリ貧感は否めない。手札がだいぶ薄ーくなって、札というかもう厚さはティッシュくらいかもしれない。かき集めかき集め行数を稼いでいきます。小学生の頃の夏休みの日記みたいなね、しかも毎日ちゃんと書いてなくて後でまとめて書く時の。あの頑張って思い出しながら記憶の欠片を伸ばし伸ばし文字数をかさましする、それでもって小学生ならではのたどたどしくて同じ内容を何回もぐるぐる書いちゃうみたいな。今日の更新はそんな感じなので、まあ正味言ってしまえば内容なんてあるかないかくらいの雰囲気ですがこれを読む人間がいらっしゃるなら語感を楽しんでください。ほら、近代の作家とかも書くことがないことをネタに随筆のような文章書いたりするじゃないですか、それが許されるなら私も許されたい。
 私の感覚ではあるんですが、書くことがないよ~で本当に何も書けない人って日本文学科には少ないような気がしていて。当たり前と言えば当たり前ですが「日本文学科」で勉強したいと思う人間ってある程度日本語だとか文章だとかに強くて、「書くこと」をどうしようもなく苦手としている人はそもそもこの分野を選ばないのかなと思います。私は逆に数字とか英語とか運動とかには弱い。で、書くことを不得意としていない人間は書くことがないのになにかを書かなければいけない時、なんとなくなんとかするんですよ。でも私が数字や英語や運動を不得手としているように書くことを不得手としている人間もいて。私先日、反省文の書き方を教えたんですよ。色々ふわっと濁しますが、中学生に「反省文を書かなきゃいけないけど書くことがもうないからどうすればいいか」と聞かれて。まあこの場合は得意/不得意以前に書き方が分からないというところもあったんでしょうけれども、大学入ってからは書ける人間が多かったので「書けない」に久しぶりに遭遇したような気がします。言葉や内容を引き出しつつ書き方の枠の部分だけを教え、私の言ったことをそのまま書かないように、押し付けないように注意を払うのはなかなか難しかったです。文章としては正しくはないが、本人から出た言葉や文章はそのまま尊重して残すべきかなあ、みたいな塩梅って、難しすぎる。しかも高校の時の同級生の文章添削してた頃とはまた勝手が違いますからね。書けるようにサポートするのってこんなに難しかったっけと思いながら見守っていました。感覚でなんとなくできることがあなたの得意なことだよと教えてもらったことがあり、私は割とそれが文章にあたるんですが人によってそれぞれ異なるなあ、面白いなあと思います。その中学生が得意な運動は私はてんでダメですし。世の中色んな人間がいますね。

 そんなこんなで今回もまた感覚で書いてきましたが、そろそろもうネタ切れになってきているのでちゃんとネタを仕入れられるような生活を送らなければ……と反省しております。真面目な話私はもう少し人間生活を頑張った方が良い。ちゃんと生きます。次回への決意が出たところでだいぶ苦しいので終わらせていただきますね。では。

六無斎

なかなかネタが溜まらないでいるあやめでございます。前回まずい思いを大いにしたのにもかかわらず、授業の発表の準備エトセトラによって全然ネタが集まりません。マルチタスクが全くできない私。やることに忙殺されついに目玉が飛び出ました。飛び出ません。軽率にうそをつくのは止します。ごめんなさい。ネタが無いの。

さて、こんな調子でありますから、お目汚しをかます前に、今回は短く、私なりのさわやかさでお送りしたいです。さて、どこまで「それっぽく」できるでしょうか。この梅雨真っ最中の、実際に湿度高めな自室から、湿度を下げたわたくしがお送りいたしましょう、さアあやめの文章湿度は果たしてさがるのか。

青色のビーズと青色のビー玉と水道水を瓶詰めにして、コルクでしめて、かざっています。たぶん、前にもガラスやら瓶やらが好きだと言っていますが、その趣味が高じて、瓶をそのまま飾っています。青の瓶詰めです。あおが好きなのでしょう。

赤色のリボンを赤色の封筒にかけて、赤いインクで書いた手紙を貰いました。これではいささか血液を彷彿とさせるような言い方になってしまった気がいたしますが、そうではありません。どぎつい赤、ギラギラ力が湧いてくる、そういう赤ではなく、ただ、ピンクではなく、甘い赤色。赤いわりに力がないように見えて、やさしくて好きだな、とおもっています。差出人は不明でした。アラ不穏。

緑色の木が緑のカーテンをした窓いっぱいに広がっている、新緑が気持ちいいことも以前書きましたが、常緑樹のふかい緑は、見慣れるとそれなしではやっていけない安心があります。そこに霧がかかって、水墨画の世界観を現実に目の当たりにできます。緑と墨は似ているのでしょうか。

紫色の気配がする、と友人にいわれた、紫色のわたしであります。ほんとうは原色になりたかった。でもやっぱりプライドをぶらさげていきてしまう、ちなみに「アヤメ」の花ことばは一説によると「希望」や「信じる者は救われる」だそうです。なんと、あなた、信じてくれますか?こんなに疑わしいのにね!

やっぱりどうしても湿度が上がった、本日のあやめは雨にせいで頭痛がしている中お送りいたしました。ご機嫌麗しゅう。

何年も前、振り返ります

皆さま、こんにちは。

ようやく暦の上でも夏を感じる月に突入しました。体感ではとっくの昔に夏真っ盛りですが、最近は雨が降ったり、曇りだったりと梅雨みたいな時期もありましたね。あれ、梅雨ってなんだっけ。ムシムシと快適とは言えない暑さに苛まれつつ、これから来る本格的な夏に向かって泣き叫びたい気持ちになります。

さて、学生の私たちにとっては1年で1番待ち侘びる【夏休み】が迫ってきています。講義も残り片手で数えられるほど。期末レポートの存在は一旦置いておきます。楽しみですね。

しかしながら、私にはあと1つ発表が残っています。涙。学籍番号順なので誰に文句を言うわけではないですが、卒論ゼミでの発表なので頑張りたいところです。

ここまで書いて思い出しましたが、3年次から中国思想文学ゼミに所属になりました。

恐らく初出し情報です。

ゼミ決定後両親や友達に「中国文学やるんだ〜」と報告するとみな一様に「日本文学科だよね?」と不思議そうな顔をします。

…そうですが何か?

中国文学といっても紀元前から現代までその幅は広く、何をやればいいのやら。

先輩方の発表も多岐に渡り非常に参考になるとともにどれも魅力的で悩ましいのですが、

私は中国近代文学の父、魯迅の作品もしくは近現代文学についての研究をしたいと考えています。

理由は様々ですが、発端は中学生の頃。 

私の在住する市は、毎年交流の一環で姉妹都市の中学校に派遣団として行く中学生を募集しています。

好奇心旺盛だった私は派遣団に応募して、魯迅の故郷、紹興市に行くことになりました。

初海外でドキドキしていたのを今でもよく覚えています。

派遣の主な目的は現地の中学生との交流!ということで、紹興市の中学校にお邪魔し、音楽と美術の授業を受けたり、一緒にお昼ご飯を食べたりと楽しい思い出を重ねていきました。

日本との違いは何だったのだろうと思い起こすと、やはり人の多さでしょうか。敷地内を見るとどこを見ても人、人、人。全体(だったのか定かではありませんが)の運動の時間を見学したときには人の多さにもはや笑うしかありませんでした。あとは音楽の時間に踊って身体を動かしたり、給食を食べるための場所があったりと一般的な公立中学校で過ごしてきた私には驚きの連続な中学校生活でした。

そんな合間にもちろん観光も沢山し、紹興市の目玉と言えば「魯迅」が生まれ育った生家なのでした。現在は観光スポットとして、資料館的な役割を持ち、魯迅に関する様々な悦明が書かれていました。私が当時の感想としては、歴史的な建造物や装飾が異文化を味わえる素敵な場所だなと魯迅については特に思うところはなかったのですが、今となっては昔の自分凄いところ行ったな!と感動ものです。

 紹興市は水の都とも呼ばれ、近代化した都市のなかにも歴史的な街並みのなかにも水との関わりが見える素敵な場所でした。もう一度行きたいというのが、中学生のころからの願いです。次回は紹興酒も味わえますね!新型コロナウイルスの影響で海外旅行が若干億劫になってしまいましたが、そろそろ本格的に動きだしてもいいかもしれません。

 振り返ると6年近く前の思い出が今、こうして私の興味関心に繋がっていることが不思議で、それ以上にストンと納得いくもののように思います。何かを知りたいと思うとき、人は大体過去の経験に引っ張られるということを現在進行形で実感中です。なんてことないと感じることも未来の自分に役立つかもと思うとほんの少しだけ頑張れそうです。

夏本番、時間はたっぷりある中で何をするかゆっくり考えたいですね。

今回もお付き合いいただきありがとうございました!夏休みまでお互い乗り切りましょう!!

「無意味なことはないですよ!どんなことにも因果があって、すべては必然です!」(『あんさんぶるスターズ!』、春川宙)

朗報

 偶然流れてきた一本の動画。タイトルを見ると、あるアニメの名前がありました。

『魔法騎士レイアース』

その動画は、レイアース再アニメ化のPVでした。

 こんにちは、あかりです。ただいま大急ぎでブログを書いています。まさか、私がこよなく愛するアニメがリメイクされるとは!これはもう布教するしかない。今から布教しまくって友達全員沼に沈めてやる!というわけで、今日は私が激推しするアニメ『魔法騎士レイアース』(以下レイアース)についてお話いたします。

 社会科見学で東京タワーにやってきた獅堂光、龍咲海、鳳凰寺風。それぞれ違う学校の生徒で、たまたまその場に居合わせた三人ですが、エメロード姫により異世界セフィーロへ召喚されます。セフィーロはエメロード姫によって支えられる、思いが力になる世界。その姫が囚われの身となったことで、セフィーロは存亡の危機に瀕していました。光、海、風の三人は伝説の「魔法騎士」となって異世界を救う旅に出ます。原作は「なかよし」で連載された漫画でしたが、30年前にアニメ化。後にレイアースが放送された時間に『名探偵コナン』が入ります。

 「なかよし」で連載されていたということもあり、ビジュアルは少女漫画よりで主人公が変身して剣や魔法を駆使して戦う少女、というあたり「なかよし」の読者層を意識した要素盛りだくさんですが、巨大ロボに搭乗したりなど、普通の少女漫画とは一線を画すのがレイアースの魅力です。それもそのはず、レイアースを世に出したのは『コードギアス』のキャラクターデザインを担当し、『カードキャプターさくら』を生み出したCLAMP。少女漫画の要素はありながらもロボットでの戦闘シーンはこれ本当に少女向けですか?と疑いたくなるレベル。ロボットのデザインも気合が入ってて(特に顔)、2期は普通にロボットアニメとしても楽しめます。魔法を放つときの技バンクもかっこよくてかつシンプルな呪文なので小さい女の子が観てもわかりやすく、視聴者層への配慮が窺えます。何よりストーリーが良い。レイアースは登場人物が多いにも関わらず、主人公周りは勿論、一人一人の心理描写が敵も含めて丁寧で、それぞれのキャラクターが抱えているものが見えてとにかく内容が深いんです。

 そしてレイアースといえば主題歌。主題歌が本当に名曲揃いで、1期のオープニング「ゆずれない願い」はレイアースという作品を象徴する曲といっても過言ではありません。闘志湧き上がる歌でありながら「出し切れない実力は誰のせい」というオープニングにおける光ちゃんのカットと相まって葛藤を感じさせる歌詞。でも、「ゆずれない願いを抱きしめて」という言葉は異世界セフィーロで旅をする主人公たちそのものであり、レイアースという作品をそのまま歌にしたような曲です。さらに歌詞の中には「海の色が紅く染まっていく」「このまま風にさらわれたい」「色褪せない心の地図光にかざそう」と、魔法騎士の3人の名前が入っているんです。気づいたときは「神か?」という感想しか出てきませんでした。アニメの主題歌は、プリキュアシリーズのように歌詞の中でタイトルが出てくることはあっても、主人公の名前が入っていることってあまりないですよね。少なくとも、私が今まで観てきた作品の中にはありませんでした。でもレイアースはタイトルではなく「光」「海」「風」の名前は歌詞に入っているんです。発想が天才。センスが光り輝いています。「光」「海」「風」は2期のオープニング「キライになれない」でも「くじけそうになったら涙を風が連れ去ってくれるよ」「宇宙の瞳からあふれだす光が包んでくれるよ」「未来へ広がる海きっと輝くよ」と出てきて、こちらは主人公3人が伝説の魔法騎士である前に普通の女の子であることを思い出させてくれるような曲になっています。

 と、ここまでレイアースについて語ってきましたが、結局語彙力に乏しい私が布教したところで作品の魅力はせいぜい1割程度(下手したらそれ以下)しか伝わりません。なので観てください。どのアニメでもそうですが観ないとレイアースをわかったとは言えません。ユーチューブで1期の1~3話まで公開されているのでとりあえずそっち観てください。それで沼に片足を突っ込んだらそのまま溺れてください。名作なのに知名度が低くて、周囲の人間で知っている人が殆どいなくて悲しいんです。リンク貼っておくので観てください。お願いします。それではまた次回。ありがとうございました。

【1~3話パック】魔法騎士レイアース「伝説のマジックナイト始動」「沈黙の森の創師プレセア」「謎の美少年剣士フェリオ」(1994) (youtube.com)https://www.youtube.com/watch?v=bZ5APwDTEvY

探究心

こんにちは、ゆきほです🍵

先日、9月から12月にかけて行われる推しのツアーの抽選申し込みが始まりました。

東京公演はツアーの最後で12月16日。

まあどうせこんな先の予定なんて分からないし、いっか申し込んじゃお!と予定を書き入れるためにスケジュールアプリを開いたら。東京公演翌日の17日に。書いてあったんですよ。

「卒論締切」

急に襲いかかってきた現実が怖くなったので、関東圏内の別の公演に変更して申し込みました。

前期の終わりもそろそろ見えてきて戦いています。

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去年、私は人生にさらなる笑いを求めて劇場にお笑いを見に行くようになりました。

ここ数ヶ月はごたついていてあまり行けていませんでしたが、safariの「よく閲覧するサイト」に各地の劇場がズラッと並ぶレベルでちょこちょこ公演情報を確認しては、これだ!と思ったものを今も見に行っています。

そして周りにはいつも「どんな日常を送っていたらこんなに面白いことが思いつくんだ!?!?」と思っちゃうくらいに、持ち前の語彙力とセンスを笑いに全振りして話してくれる天才的な友人たちがいます。学食や百年館前で変な時間に笑い崩れている人がいたら、空きコマにお喋りしていて何かしらがツボにはまった私である可能性がなかなかに高いです。

これだけ笑いに恵まれた環境にありながら、私はまた思ってしまったのです。

「人生にもっと笑いがほしい……!!」

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4年生になった私は、人生にもっともっと笑いを求めて落語を見に行くようになりました。笑いに対する向上心だけやたらと高すぎますね。

4月に友達に誘われて三遊亭好楽さん(笑点のピンクの人です)の喜寿記念の落語会を見に行って「落語超面白い!!!!」となり、先月末に親と別の落語家さんの独演会を見に行きました(超地元なので詳細は内緒です)

元々笑点は毎週楽しみに見ていて、後楽園ホールに収録を見に行ったこともありますが(1回の収録で2週分収録する中で、私が行った回では演芸のコーナーが中川家と当時司会だった歌丸さんの落語だったことがめちゃくちゃ自慢です)、落語ってこんなに面白かったんだ!!とびっくりしています。

今は寄席に行ってみたいなと思いつつ、どこに行けばいいんだろう……と夜な夜な調べています。何となく大相撲と雰囲気が似ているような気がするので、近いうちに行っているかもしれません。

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私は人と関わっていく上で、”何に対して大笑いできるのか”ということや、”ブラックジョークをどこまで許せるのか”というような、笑いに関する感性の近さってものすごく重要なんじゃないかなと考えています。

例えば「これは許せない」「これは苦手だ」という嫌なことについてなら、相手と違っていても『私は大丈夫だけどこの人はこれが苦手らしいから気をつけよう』と自分の意思である程度譲歩することができます。しかし笑いについてはそうはいきません。

私だったら相手が「この話、面白いだろ」と言わんばかりの態度で超超超つまらない話をしてくるのがすごく嫌ですね。基本的にはツボが浅いので箸が転んでも笑っちゃいますが、あからさまに笑いを取ろうとしてつまらないこと言ってきた場合は例外です。
『お前の笑いのレベルなんてこの程度だろ?』と思われているような気がしてイライラするので、愛想笑いも即やめます。

逆に私が面白い!と思って大笑いしていたときに「それってどこが面白いの?」と言われてしまうことや、「そんなこと言うなんて不謹慎だ」と怒られてしまうのもすっごく嫌です。しかもそれは私と相手との感性の違いによるものなので、「なんでそんなこと言うの!?」と責めることもできません。こちらが興ざめして終わりです。

笑いのツボが近いってことは、同じことで一緒に笑うことができる。一緒に笑うことができるということは、一緒にいると楽しい。

本当にそれだけのことですが、私にとってはすっごく大切なことです。

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7月生まれなので、今日まさにメールでバースデークーポンがたくさん届き、ちょっと嬉しい気持ちになりました。何でも良いから買い物がしたいです。

ではまた。