ご無沙汰しております、みちるです。
蝶のように舞い、蜂のように刺すんです。
「なぜ今それを?」
まさに今頭に浮かんだフレーズを文字に起こしてみました、何の意図もないと思われます。しかしこういうのもアリでしょう。うむ、ザブトン!
さて、この手紙を読まれているあなたは今どこにいて何をなさっていたところ?―「“ここ”にいてお粗末な手紙を読んでやっている」だなんて野暮なことを仰らないで。
私はと申しますと、拙宅にて落雁を食べつつ或る文章をしたためているのでございます。
小さな花の形をした落雁を一つ摘まみ上げ、ぽりぽりと噛み砕く。甘い粉の付いた指を屑籠の上で擦り合わせたらキーボードに打ち込み、また暫くして一つ食っては粉を落とし、パチパチと打つ・・・そして屑籠にもう一つ落雁を作れるほどの粉が積もったとき、私はやっと一つの章段を書き上げたようでした。
文章を、それもとりわけ短篇小説およびエッセイの体裁で好き勝手に書き連ねる。特に目標があるだとか日々の息抜きないし楽しみにやっているとかいうわけではなく、ただ書くことしか出来ないからそうしているのです。
「今回は金魚の話かい」
さいですよ。金魚、熱帯魚、メダカ―とにかく掌に納まる大きさの魚は数多書いてきた。
数年前は花愛でる人を描くのが楽しくて仕方がなかった。今はそう、魚愛でる人を描くことにひどく執心している。
一応これでも日本文学科に所属している私ですから、批評理論なんかを勉強したりもするわけ。そうして獲得したものがいざ自分で創作をやるというとき中々“使え”てしまう。使えたところでどうにもなりはしないのですけれどね。
書き手側にとっての批評理論は技巧のためのアイテムではなく飽くまで描くものへ向かうためのいち方法ですから、そうそう使えなくたって構わなかろうと思ってしまいます。
商業テクストを扱わない一般生物の視野だと言われてしまえばそこまでなのですけれど。
(間奏)
さて、骨壺に入れた落雁も残り少なになって参りました。
「骨壺に落雁。低級の模倣品だね」
はあ、そりゃあ悪うございました。
いいじゃないかよ、書くのは自由(自由!)だってみんな言ってんだから。誰を真似た格好と仏頂面も今は笑って抱きしめて欲しい気持。
「みちる」の名だって、きっと誰かのもの。
この原稿があがれば夏になる頃です、夏になる頃だから、また金魚を飼ってみようかしら。
金魚を飼ったら煽情的に揺らぐ尾が美しいだろう。
金魚を飼ったら色のない夏の家に鬼灯のようなその紅がよく映えるだろう。
金魚を飼ったら落雁の粉を水槽に落とせるから素敵だろう。
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる