イレギュラー

まいです、ごきげんよう❀

日は4時台に暮れ、まだ授業があるのにもうベッドに入るくらい夜になった気がしてしまいます。今、目の前には紺色の空に黄色い月が、振り返れば滲んだ夕焼けがあります。ちらちらと顔を上げると、その度に月の位置は高くなっているのですが、いったいいつの間に昇っているのでしょう。じーっと見ていると動く様子はないので、目を逸らしている隙にスっと北極星の方向へスライドしているに違いありません。ほら、たった今さっきまで電線の影が月に重なっていたのにもう電線を避けている。

月を見ると、なんとか、今年の秋を感じることができますが、やはり今年はいつものような哀愁がたりません。随分と長いこと暑い日が続き、と思うと息が白く凍る日があったので、上野では桜が狂い咲き、紅葉は色づいていくことなく疲れたように枯れてしまいました。

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今月の半ば、相方とともに長瀞旅行をして参りました。予定していたのはライン下り、ロープウェイ、紅葉公園お散歩、川辺のお散歩……ともしかすると若者らしくないのんびりプランでしたが、問題はお天気でした。私、“小雨女”なんです。「雨女」でもなく「雪女」でもなく「小雨女」。私が前々から予定していたお出かけなどはたいてい小雨が降る。そして週間予報も──なぜかピンポイントにそこだけ──雨。

幸い、雨は自宅を出る際に地元で小雨が降っていた程度で、長瀞に着くと一日目は曇りで済みました。ライン下りは天気が良い方が楽しいはずなので、次の日が晴れると期待して一日目は岩畳を散策し、お蕎麦を食べ、ロープウェイで山を登りました。紅葉はあまりしておらず、かといって青々ともしていない…。木々は見頃ではありませんでしたが、標高が高いとその分空気は透き通り、電光も目立たない落ち着いた景色になります。

ところで相方と私は高校が一緒でした。たまたま遠足で長瀞に行き当時の写真があったため、相方を同じ場所に置き写真を撮りました。高校一年生の頃は“かわいいキャラ”で行こうとしていた相方はとても背が低かったのですが、“かわいいキャラ”はあっさり卒業(失敗?)し、今ではすっかり後ろの看板を隠してしまうほどに成長。親でなくともビフォアフターを見て、成長したなあと感心してしまったものです。

一日目の目玉であったロープウェイは2人で乗るもの(観覧車的なもの)を想像してしまっていたのですが、まさかの50人乗れるということでこちらもまさかの“立ち”で乗ることになりました。ゆったり紅葉を見ながらお話するという計画はおろか、まさか満員電車状態になるとは思いもよりませんでした(笑)。

次の日。念願の太陽光を浴びることが出来ました…!小雨女の名を早く捨てたいものです。ライン下りは川の水が少なくいつもよりスリルが足りないとの事でしたが、ロープウェイで体験するはずだった「ゆったり」を、こちらで体験することが出来ました。日焼けで黒光りしたおじさんが船をめいっぱい漕ぎ、語尾が「なんだあ⤴︎」と必ず上がり調子になりながら長瀞の豆知識を語ってくれる様子がとても格好よく印象に残っています。高速道路が発展したことで、観光客が増えても、宿泊客が減ってしまったそうです。日帰りできてしまうからですね。そういえば長瀞の森の中では、かつて栄えてたことが伺える派手な宿の看板などが錆びているのをいくつも見かけました。

帰る前に食べた天ぷらの油にあたったのか、自分史上トップレベルの腹痛に襲われ1時間に1本の秩父鉄道を泣く泣く途中で降りたことについては多くは語りません。終わり良ければ…の逆だったような気もしますが、相方がいたので良しとします。待ち時間で相方に「ちいかわ」を布教しました。……つまり、ここに関しては書くことがありません(笑)。

私たちはなぜか格好つかないのがいつものお約束です。まあ平和ならいいですね。驚かれるとは思いますが、今年の紅葉はあまり綺麗さを楽しむことはできないというのが、このブログの結論です。

……

それでは。

地名と物語

まいです、ごきげんよう❀

こちらのブログの中で「私の父は“満員電車は魂のぶつかり合いだ”と言っている」という記事を見かけました。すごい。

私はその「魂のぶつかり合い」にあっさり負けるタイプなので、満員電車は耐えられません。満員電車で酸欠になり人生で初めて走馬灯を見た日から、電車は座っていないと不安になるようになりました。そのため今は、一限のある日のみ定期券外ですが空いている路線で行っています。そういえば先程ちらっと出た走馬灯の話ですが、それは、これまでの経験の中から生き残る術を探す本能なのだと何処かで聞いたことがありますが、これはどうやら本当です。私が電車で気絶しかけたときも、(小学校のマラソンの後に倒れた時はどうやって死なずに済んだんだっけ…)というようにこれまでの「具合悪くなったけど生き残った経験」が次々と脳裏に浮かびました。

みなさんも降りれない電車内で具合が悪くなった時は、勇気をだして言ってみましょう、「誰か席を変わってください」と。先日はそれでなんとか乗り切れました。絶対変わってくれる人がいます。

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前述の通り、いつもと違う電車に乗ると聞き馴染みのない駅名が耳に残ります。なんでこういう名前になったんだろう。どういう意味だろう。駅名、地名、その何気ない疑問から物語を立ち上げてみるとおもしろいものです。

ということで、どうぞ、「水射る青年」。

 左腕を地面と平行になるように真っ直ぐと持ち上げ、肩甲骨の高さが一直線になるように反対の腕も持ち上げる。首を伸ばし胸を開くように力一杯腕を引くと反発しようとする力がギリギリと二の腕の筋に響いてく。その力が限界まできた瞬間手を開く。ヒュッと鋭い音を立てた矢が冷えた空気を切り裂くように飛んでいく。

 走る男の足の裏から土煙が立っては風に散らされていく。かき分けたススキの中に黄金がかった緑色の物体が艶としている。
よし、と口内でつぶやく。矢を引き抜くと、男は雉の脚をちょうど爪同士が当たるようにして握り持ち上げた。そのまま歩こうとすると皮の伸びきった首がぶらぶらと揺れ嘴がふくらはぎを薄く引っ掻くので、やはり両手で抱えることにする。でかい男の汗ばんだ胸に首をもたげてる雉のそれは、まるで人間の赤子のようだった。
帰路の途中、男は妙なものを見た。土手に誰かがしゃがんでいる。その誰かは足元にあった弓を手にするとすくと立ち上がり、突然水面に向かって矢を放った。魚を捕る仕草ではない。奇妙なやつだと思いながら男はその場を後にした。

 家に戻ると、男は思わずため息をついた。乾いた泥がこびりついた床、根がちぎれて無惨に転がる植物の遺体。ちょうど一ヶ月ほど前にこの村を襲った暴風雨による被害跡である。この村には年に一度か二度、暴風雨が訪れる。そして必ず近くの川が氾濫し村人の生活は泥まみれになる。土地を離れさえすればいいと去っていく者もいるが、生まれ故郷を捨てるということは、この家を離れるということは、実際は簡単なことではない。
 本来ならあるはずの戸は下の方が腐って外れたため、この家は吹き抜け状態である。捕ってきた雉をどさっと前へ投げ置くと、男はしばらく眠りについた。

 何日かすぎて、男はまた狩りに出かけた。ここ最近にしては暖かいからか、人通りが比較的多い。すると見知らぬ子どもが3人、おじさーん!と黄色い声で叫びながら男のもとへかけてきた。
「おじさん弓もってる。もしかしてあのオトコのこと知ってる?」
「あの男って誰だ」
「ほら!あのひとだよ!」
子どもが一斉に指さした先はいつもの土手だった。よく見るとそこに一人の青年がいる。先日の雉狩りの帰りに、男が見かけた「誰か」であった。
「知らないなあ。でもどうしてそんなことを聞くんだい」
「だってあいつヘンなんだよー」
「いつも水に映る自分に向かって矢を放つんだっ」
「自分のことをテキだと思ってるんだよねきっと!」
子どもたちは自分たちの言ったことになぜか大笑いをしながら、じゃあねーと走って行った。男はその青年が水に向かって弓を引く真剣な眼差しを見た。あの目を知っている。あれは狩人の目だ。あいつはふざけたやつなんかじゃない。

 それから男は毎日あの土手を見に行った。見に行けば必ずあの青年がいる。そしていつも、真剣な目で水面を睨んでいる。
そうして一年近く経ったある日、その青年は突然姿をあらわさなくなった。朝見ても夜見てもその姿はどこにもない。それが数日続けば男もすっかりその青年のことなど忘れてしまった。それより、間近にせまるあの暴風雨の到来に怯えていた。
 だがどうだろう。今年の暴風雨はいたって軽く、川の氾濫はおろか、少しの濁りさえなかった。次の年も、その次の年も、あの恐怖は訪れない。村は少しづつ、発展していった。

 村が以前より大きくなりにぎやかになると、村に新たに名前をつけようということになった。話し合いの場に男は弓を片手に立ち寄った。いくつもの声がいくつもの案を投げる。その時、ある老人のつぶやきが男の眼を覚まさせた。
「この村がこのように発展したのは、繰り返されていた災害がなくなったからだ。あの川にいた疫病神を、誰かが射抜いたのだろうねえ。」
男の脳裏にあの青年の横顔が浮かぶ。

——よって、この村の名はいみず、射るに水と書いて射水とする。


富山県射水市

それぞれのハロウィン

ハッピーハロウィン!

……原型がお盆であることを思うとなんだか奇妙な気がします。そうは言ったものよ私周辺では、10月31日は実質お菓子の日。「トリックオアトリート」の「トリック」はさておいて、「トリート〜♪」と言いながらお菓子を渡し合う新たなイベントが誕生しました。「トリート調達しないと!」「一方通行トリートだけどごめんね」という言葉が、まるで何年も使い馴染まれた言葉のように飛び交うのが、我々の日常であります。

まいです、ごきげんよう❀皆さんはハロウィンと聞いて何を思い出すでしょうか。

小学生の私は、「子ども会」という地域の会が開くハロウィンイベントを毎年楽しみにしていました。百均で買ったマントとハットで魔女になった次の年、手作りのカチューシャと矢印型のしっぽで小悪魔になり、小学5年生になると、いよいよ器用な母親を召喚し赤ずきんの衣装を作らせ、次の年はアリスを作っていただきました…笑 途中からおとぎ話になっていることの指摘はよしてください。ビジュアルを大事に思うお年頃だったのでしょう。(写真に残っている私は、“パン食い競走”のように吊るされたお菓子に、信じられないほど全力で食らいつくという、ありえないアリスの姿で写っています。友だちはちゃっかり隣で控えめのピースをしているというのに…。)

ちなみに二十歳を過ぎた今年は、相方とカボチャのお菓子でも作ろうとしていたのですが、11月に延期になるという始末…。

ここ10数年間の私のハロウィンで一貫していることといえば、「もはや10月31日にこだわっていないこと」と「お菓子イベントだと思い込んでいること」の2点だと思います。 

そういえば今年は例のメープルクッキーを食べてないなあ。カナダとKALDIに売っているので、どちらか近い方で買ってこようと思います。

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さて、今年の10月31日は火曜日でしたね!

私は三限までの授業を終えた後、六本木ヒルズの「ブラック・ジャック展」を訪れました。贅沢なほど数々の漫画の原稿、手塚治虫の医学生時代のノートなど、見応えのあるものばかりでした。森ビルの52階で開催されていて、ご存知の方はおわかりになると思いますが、あそこはあまり広くないんです。ですがその中にしきつめられた沢山の資料を見ているとみっちり二時間は、経過してしまいます。

手塚治虫ならではの、愛らしいイラストと、医師免許を持った彼だからこそ描ける専門的なストーリー、命に対する問や葛藤はいつの時代の人の心にも刺さる重たくそして鋭いものがあります。

どうしてもハロウィンと結びつけると、ブラック・ジャックはちょっと仮装みたいです。

今年のハロウィン(当日)はいつもとは一味違うものになりました。

言ってしまえば、今日だって明日だって自分しだいで記念日になる。

オリジナルイベントいっぱいの幸せな大学生活を送りたいです。

「金魚鉢」

まいです、ごきげんよう❀

金木犀の香りに後ろ髪をひかれる季節になりました。

前期の授業では「創作技法論1」を受講し短歌を詠んでいたお話を、以前こちらのブログに書いたかと思います。後期は「創作技法論2」を受講し、作家の中島京子先生のもと800字程度の超短編小説を、毎授業で書いています。今回のブログでは一回目の授業の「人ではないものになってみる」というテーマのもとで書いた作品をご覧いただければと思います。では。

「金魚鉢」
物心は熱風とともにやってきた。自分の一部だと思っていた筒状のなにかがぷっと遠くへいった時、わたしは初めて意識を得た。自分が一瞬にして引き延ばされたような感覚があとからやってきた。周囲の空気が黙って冷やこくなると、私の視界は明瞭になった。

 あの時の熱い、感覚を私は今も忘れずにいる。自分が生まれたようでなにかを生んだようなあの何ものにも代えがたい悦び。叫び声をもう一度あげたいという衝動に近頃よく憑りつかれる。
 しかし日々は穏やかだった。穏やかでやはり冷やこいものだった。私のなかにはいつも水が注がれていてあるときから共に過ごすようになった真っ赤なお魚が、半透明のひれをいつも泳がせている。ときどきそのひれで私を撫でるのがくすぐったく愛おしい。私はこのお魚を好いている。
 ただ、最近になってひとつ心配していることがある。それはこのお魚が、私とお魚とを隔てているこのゆらゆらとした水の中に溶けて消えてしまうのではないかということだ。事実、私の居る場所が暗い廊下から見晴らしの良い窓際に置かれるようになって以来、特にここから見える時計の針が4を指すあたりで、この水の中にお魚の赤色がゆらめきだすようになった。お魚の体温だろうか、私は少し温かな気がして不覚にも心地の良い気がする。でもこのままではあのゆらゆらと誘惑する水の中にこの愛しいお魚は溶けて飲まれてしまうだろう。
 また、掛時計の針が4を指す頃になった。おそるおそる見ると、やはり、お魚のくっきりとしている輪郭はぼやけあたりが赤くきらめいている。
 今だ。私は私の冷えた肌が、溶け出すお魚の体温で火照るのを感じ、その熱を生で感じたいという衝動に任せて体を大きく揺らした。瞬間、視界がぐらりとゆらいだ。

 

 温かい……。薄らぐ意識の中、彼女は床一面に散らばった硝子の粒が夕陽に透けるのを見ていた。その先であの魚がしなやかに横たわっている。そこに美しい輪郭を認め安堵すると、彼女は襲い来る眠気のままに目を閉じた。慌てて降りてきた家の主の、しゃがみこむ影が赤く伸びている。

 魚は冷やこくなっていた。

おかたづけのこころえ

「衣」「食」「住」の中で私が最も大事にしているのは「住」。あとの二つはいくらか興味が湧くようになってきたといった感じである。

日本の文化はおもてなしという意味で「食」をとても大切にしていると心得ている。ヨーロッパ生まれの私はだから「住」に強いこだわりがあるのかと合点していたら、関係ないでしょうと母が笑った。

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まいです、ごきげんよう❀

私は、この姿かたちのない不安をまとわずには生きられない世の中でどうにか幸せになりたいだけです。

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生きること即ち考えるということと、考えを述べるということは──脳が成すままにさせた場合── 一度で数日間動けなくなるほどの体力と精神力を伴います。場合によっては命に関わるほど。

基本的にヒトはある行為によってある何かを消費する生き物であって、思考という行為は自らを消費していくものです。ただ奥へ奥へと考え抜く先に明るい出口がないのは、奥へ進んでいるのだから当然のこと。

そういうわけで私は、思考することのない存在になりたいと今日も思い考えているのであります。

愛する自分がより幸せに生きられるようにするために「住」を整えることはとても大切です。

今日は私の好きな片付けについてお話をします。

片付けは始まった途端それ以外のことを一切考えずとても集中して取捨選択をする(主に“捨”になる)ので驚くほどに心の中が洗練されていきます。私は思い出と物とを自分の中で切り離しているので物に全くと言っていいほど執着がなく、かなり容赦なく物を捨ててしまいます。

最近も「大片付け」をしていて、まず気になった勉強机を粗大ゴミに出してしまいました笑。収納がついている机は私にはよくありません。自分の幸せな生活に必要なものとそうでないものをきちんと考えずとりあえず「収納」してしまうので、生活や心が雑になる種となってしまいます。案の定引き出しの中身で本当に必要な物というのはほんの少しだったので、机はもう少し小ぶりで収納機能のない可愛らしいものを新調することにします。

普段(じゃまだなあ)と思っていながら片付けの時にだけ「思い出」と呼んでとりあえず保管するというのはよくありません。良き思い出が日々「じゃま」になってしまうくらいなら物は手放し、思い出は心に飾るのが吉です。片付けとは過去に片を付けること。意外にも生半可な気持ちでできることではないのです。

ものが減るところまで減り整ったら、初めて「掃除」にうつります。きちんと片付けができていればその部屋には「大切なもの」しかないはずなので、掃除も心地よく行うことが出来ます。

掃除を終えたら窓を開けて香り立つミントティーを入れ部屋をひきしめ、そうする頃には自分の心も磨きがかかり爽やかな風が通っているものです。

片づけを上手にできたら、そこは自分の大切なものしかないお部屋になっているはず。そうしたらそこにいるだけで幸せで丁寧な気持ちになれるのです。

どんなに素敵なドレスを着ていてもどんなに豪華な料理でも、それと出会うお部屋が混沌としていてはもったいない。

「住」。それは心を住まわせるお部屋の話なのです。

真夏の軽井沢

ウェディングドレスをまとう姉の背に星野の青き光さしたる

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まいです、ごきげんよう❀

今年の8月に姉が結婚式を挙げました。

軽井沢の星野にある「石の教会」と呼ばれる場所です。

私は結婚式に出席すること自体が初めてだったのでこの日をとても心待ちにしていました。

白くふわりとしたドレスにつつまれ生花を髪に咲かせた姉は、我が姉ながら本当に美しくてため息が出てしまうほどでした。

その日の軽井沢の天気は曇りでしたが、驚くことに教会でも式場でも新郎新婦が姿を現す間だけは眩しいほどに陽が降り注ぐのです。「神様も祝福してくれてるね」という言葉をこんなに実感を伴って放ったのははじめてでした。これから新たな人生を歩む新郎新婦二人がとても神聖なものに歓迎されていると思わざるを得なかったのです。

とても幸せそうな姉の笑顔がこのうえなく可愛く美しいと感じる最高の挙式でした。

さて、こちらも初めての軽井沢は、埼玉住みの私にとっては8月ではありえない26℃という涼しさで、夏の青葉というよりは新緑といった感じのみずみずしさをたたえた植物がしっとりと呼吸していました。

結婚式のために軽井沢に前泊をする予定だったので、一日目は山を登り「白糸の滝」を見にいきました。

標高の高さに反比例するように気温はぐっと低くなり半袖では肌寒い程でした。

山のなかの自然は、なんだか道路に生えている草木よりもよっぽど「生きている」という感じがみてとれます。

湿った土には苔が蒸していて、そこに土砂に押されて崩れたのであろう一本の横たわる大木を見ると、その美しさに圧倒されてしまうものです。

土砂崩れや地震や竜巻のような自然災害は、もちろん私たち人間にとっては害であるけれど、私たちがここに立つ以前に、この地球が、自然が生きているという証拠なのだと思います。

テレビなんかで映される日本の美しい絶景や秘境と呼ばれる場所は「実はここは土砂により崖が崩れたことで生まれた景色なんです」なんてよく言われます。自然災害は「壊れ」に見えるかもしれないけれど、実はその逆、誕生なのかもしれない。仕方ないなんていっては不快になる人間が沢山いるだろうけど、でも私たちの肌が周期的にターンオーバーするように、地球もプレートを動かし大地をくずし強い風できめをととのえ、やはり生きようとしている。

土砂崩れのあと割れた太い幹から苔が短い根を張りキノコがひだを成しているのを見ると、そんな自然の生命にひれ伏さずにはいられないのです。

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私はもし自分が結婚式をあげることがあればその時はお城で舞踏会を開催したいだなんて考えていましたが、家族同士の温かい距離の近い結婚式もいいなあ。

家族の誕生、自然の誕生、出会いと別れを一度に味わったような夏でした。

宿る

神様がいるから祀るんじゃない。

祀る人がいるから神が宿るのだ。

千葉県のある地域での祭礼が私にそれを教えてくれました。

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まいです、ごきげんよう❀

今年の夏の一つの大きなイベントは、相方が心から愛してやまないお祭りに同行したことでした。

そこは相方の祖母が住む田舎町で、眩しい緑をした山々のほかには、青い空しかないような自然豊かな場所です。

ここでは各地域がそれぞれの神輿を出して町中を回るという伝統的な祭礼が行われていて、そこでの音花火、神輿、お囃子、匂い、空気……全てを、私の相方はこよなく愛しています。

過疎化、高齢化の進む地方でのお祭りをどうにかして繋げたいと、相方は祭礼のメンバーに加入していました。

コロナ明け4年ぶりの祭礼は、直前までの台風予報も打って変わり晴天のもとで行うことができました。

前夜祭。

神輿の進路を決める軸を操作する人、支える人、交通整備をする人……。

まるで戦隊モノのように、それぞれの神社のばってんを身に付けた男性女性が自分のポジションを全力でつとめます。

大きな掛け声と鮮烈な横笛の音色が2種の太鼓の太い音に煽られると、屋台蔵から大きな神輿が姿を現します。

高い陽に目を細めながら、溢れ出る汗を額のねじり鉢巻に染み込ませながら、人々はよく焼けた肌で太陽の光を照り返し、町を回る神輿を仰ぎ見ていました。

その目の先で陽光を吸収してより輝いてゆく神輿の威厳に、思わず息を呑みました。 

そうか。

信じ、祀り、伝う……。これが神を生んでいるのか。

動ける人が少なくなり、惜しくも町を回ることのなくなった屋台蔵に眠る神輿は、こんなにも生き生きとした神の叫びを宿してはいないだろう。

尊いもの。町の民がいくつになっても守り抜こうとしてきたものの尊さを、私は教わりました。

当日。

朝早くに町中に響き渡る音花火に目を覚まし、クーラーでひんやりとした畳に沁み込んでゆく蝉の声に耳を澄ましていました。

ところで私は相方の祖母の家に泊めてもらっていました。相方の祖母、家族、叔父、従妹とともに過ごす二泊三日は、とても新鮮で、そして充実していました。

みなさんは、映画『サマーウォーズ』を観たことがあるでしょうか。はい、という方には伝わると思いますが、もちろん私は「小磯健二」ポジションです。

畳に座り豪華なお昼ご飯をみんなで囲んで食べ、前夜祭のように神輿を引き、日が暮れて、浴衣に着替えると、またあの神輿のもとへまいります。

私の相方はと言えば、足袋を履いてばってんを締め、ばちを握って大太鼓をたたいています。自らお囃子の一部となり、豆のできる手のひらに、震動の響く二の腕に、筋の張る足に、大好きな”祭り”を共鳴させ、まったくいい眼をして太鼓をたたくのです。

もちろん私はこれを見に来たようなものなので(笑)、このシャッターチャンスを逃すわけにはいかないのですが、思いのほか格好の付いた姿にまじまじと撮影することの気恥ずかしさを感じ、周囲の景色なども映したりなんだかやたら動く動画を撮ってしまったことに少々反省しています。

お囃子を奏で終え、打ち上げ花火を眺め、もう一度響いた3発の音花火……。

その時間があっという間に、眩しい記憶となっていました。

さて、4年ぶりのお祭りに極度の緊張で連日食欲をなくしていた相方は、翌朝満足した様子でごはんを頬張っていました。寝言では相変わらず「みこし…みこし…」と言っていたけどね。

明るい家庭と親戚や地域の方の温もりを感じる田舎の空気は美味しくて、体に心に優しく沁みわたりました。

ごちそうさまでした。おかわり、させてください。

暑さ < 温かさ

まいです、ごきげんよう❀

夏を思い浮かべるとものすごくワクワクするのにいざ過ごしてみると、暑い……。

AEDの使い方をあらためて確認したり、自分こそ熱中症にならないようにおとなしくしたり、いざ来てみると一筋縄ではいかないのが日本の夏です。

もちろん今年の夏もクーラーに頼っていますが、暑いからと言って涼しくなれば楽ということもないのが難点です。クーラーの部屋にいないわけにはいかないけれど、長い時間いると足が重た~くなってくる…。ほんでもって朝起きると喉が痛くなっていたりして、現代の体と自然がいかに調和していないのかを実感します。

そんなときに行きたくなったのが!温泉です。

私はのぼせやすいので、以前は暑くてくるしい温泉がすきじゃなかったのですが、最近は癒しの時間としてとても好きになりました。

普段の家のお風呂のお湯は体のまわりにお湯があるという感じがするのですが、源泉のお湯は皮膚に染み込んでくるような心地がします。露天につづく内風呂では外からの爽やかな夕風におでこが冷やされてとても気持ちが良いです。外にいたら熱い風だったのに温泉に浸かっていると涼しく感じる。同じものでも角度の違いでこうも感じ方が変わると思うと、人は想像力を欠いてはならないなあと思ったりします。

いちど給水休憩をとったのち、もう一度入りなおしたことを思うとかれこれ1時間半は温泉にいました。ぬるい微炭酸のお湯にながいこと浸かり、サウナは20秒でリタイアし、水風呂はふくらはぎまで入れたのも頑張った方。サウナと水風呂の繰り返しで「ととのう」感覚は体験できないのですが、少しぼんやりふやけた体で湯上りし、ござの敷かれたお休み処で眠たくなるのはとても幸せな時間です。

ああ、一人暮らしするようになったら、温泉つきの家がいいなあ…なんてぼやぼやと思いながら夢を見る。

夏の疲れがあるからこその癒しがあるのかもしれませんね。

暑さは事前の対策をすることが多いと思いますが、対策してもつらいのが暑さ。ぜひ夏バテ「予防」に加えて「事後くつろぎ」の時間を過ごしてみてください。では。

卵、考え事、心

気づけばこんな詩を書いていた。

  「卵」

  卵を食べたいとき

  人は殻を割り

  そのなかの「何か」は

  それ以上になれずしんでゆく

  世のなかには

  心の殻を割りたいという人がいる

  彼らは気づいていない

  割れば中身はしぬと言うことを

  あなたが割るのはあなたが食べたいからだということを

  殻が自ら割れたとき 生まれ

  割られたとき 死ぬ「何か」がそこにある

  「何か」が生まれることを望むなら

  できることは温めること

  それだけ

*****

まいです、ごきげんよう❀

良いことだと信じているからこそ、視野が狭くなり気づけばエゴになってしまう…。

そんなことは日常によくある話ですね。

言葉は伝えるものではなく伝わるもの。

どう伝えようとしてたとしても、伝わった意味でしか言葉は存在することができない。

言葉は難しい。だからこそ面白い。

でもやっぱり、言葉は常に苦しいのです。

考える癖がデフォルトにあると、少しでも楽になることを求めて感情や言動を単純化させて思考よりも先に動くというおかしな、でも生きるために不可欠な癖がつきます。

幸せなことやうきうきしたとき、それが表出するまでのわずかな時間に思考してしまったら最後、簡単にもどってくることはできないので、いつでもアンテナをぴぴんと立てて、「ハッピーセンサー」が反応すれば即座にそれを表出させます。

そうするとささいな楽しいことをきちんと心に積み重ねていくことができるんです。

今年の夏に私の姉妹が結婚をするのですが、最近はその日のためのドレス選びに心をはずませています。

砂糖菓子みたいな白銀の粒が光る、薄水色のドレス。

光沢のあるかばんをもってボレロを羽織れば、気分はプリンセスです。

幼い頃、ディズニープリンセスの映画をよく観ていたのですが、観るたびに私は「いつになったら舞踏会の招待状が来るんだろう」と思っていました。どうやら今の自分よりもう少し大人になると来るっぽいな、と思っていたのですがさて。いざ「もう少し大人」になってみると、「舞踏会」がやってこないことに気が付きました。あれはおとぎの国のお話なのか……。

しかし考えてみれば、洋風の結婚式はドレスで行くし招待状も来る!!舞踏会(は、やらない気がするけど)ここで来たか~!!と楽しみで仕方ありません。

自分が結婚式を挙げるときはお城で舞踏会を開きたいなとうきうきしながら、姉妹の挙式の日を待ちわびています。

やっぱり心ときめくものって大事ですよね。

小さい頃に心躍らせたものは、大人になってもやっぱりきゅんと来るものです。

心躍らせる夏が、いよいよやってくる。

私はビタミンを沢山たくわえたフレッシュな体で、今年、この夏と踊りたい。

濃ゆい日のこと

嵐は夏の予感。

水滴が激しく地面に打ちつけられる音の正体を暴く、青白い雷光。

夏の到来を告げる雷神の、目に痛いほどのまばゆさが美しくて堪らない。

我が物顔で社会を生きる人間たちに自然が見せつける圧倒的な優位の真実。

牙を剥き叫び悲鳴の涙を流し洗い流された分子の一粒一粒を輝かせていく、嵐という大地の主張に、皮膚が呼応する。

本当はみんな、ずっと昔は、ひとつだったということを肌が感じている、そんな気がする。

呼吸する自然のその呼吸に生きる人間。

思いを馳せずにはいられない、夏の夜の雨。

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まいです、ごきげんよう❀

6月は紫陽花畑に行ってきました。

同じ時期にラベンダーも見頃を迎えますが、ラベンダー畑は紫陽花ほど数がなく、遠かったのでまたいつかの楽しみにしています。

紫陽花といったら青や紫がまっさきに思い浮かばれますが、実はひと玉ひと玉 色も形も異なって個性があるんです。

真っ白で鞠のようなもの、ピンク色で大胆なもの、うすあおで天使の輪っかのようなもの……花びらに見えるひだに誰かが水彩絵の具を垂らしたような、淡い滲み。

葉脈をびっしりと広げみずみずしい葉の緑。

ああここでカタツムリになって私、紫陽花のすべすべした肌に寄り添っていたい。

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紫陽花は相変わらずの方、つまりは相方と行ったのですが、遅刻する相方を待つ間、近くの商業施設で開催されていたハワイアンフェスティバルに足を運びました。

ハイビスカス色のビーチサンダル、マンゴー色のポロシャツ、海色のスカート、太陽色の耳飾り……。

出店のどこを見ても目が覚めるような華やかな色が溢れていて、……ハワイって、ハワイっていいな!!!!と笑、私の心もビビットになりました。

こんなにも純粋で幸せな色は、それを見てきた人にしか生み出せない。ハワイの自然には日本のそれとはまた別の魅力が宿っているという証拠です。

出店だけでなく、ステージ上でフラダンスのショーも行われていました。

生でフラダンスを観るのは人生で初めてでしたが、一瞬にして心を奪われました。

平和の踊り、フラダンスを舞う人々の指先はまるで波を撫でているよう、揃えられた指先のなめらかな動きが一度として空気を切らない優しさに溢れていました。

自然と心に流れ入るハワイの独特な音楽とフラダンス、ぜひ沢山の人に観ていただきたいです。

夏バテしてしまいそうなので今日はこのへんで。