「金魚鉢」

まいです、ごきげんよう❀

金木犀の香りに後ろ髪をひかれる季節になりました。

前期の授業では「創作技法論1」を受講し短歌を詠んでいたお話を、以前こちらのブログに書いたかと思います。後期は「創作技法論2」を受講し、作家の中島京子先生のもと800字程度の超短編小説を、毎授業で書いています。今回のブログでは一回目の授業の「人ではないものになってみる」というテーマのもとで書いた作品をご覧いただければと思います。では。

「金魚鉢」
物心は熱風とともにやってきた。自分の一部だと思っていた筒状のなにかがぷっと遠くへいった時、わたしは初めて意識を得た。自分が一瞬にして引き延ばされたような感覚があとからやってきた。周囲の空気が黙って冷やこくなると、私の視界は明瞭になった。

 あの時の熱い、感覚を私は今も忘れずにいる。自分が生まれたようでなにかを生んだようなあの何ものにも代えがたい悦び。叫び声をもう一度あげたいという衝動に近頃よく憑りつかれる。
 しかし日々は穏やかだった。穏やかでやはり冷やこいものだった。私のなかにはいつも水が注がれていてあるときから共に過ごすようになった真っ赤なお魚が、半透明のひれをいつも泳がせている。ときどきそのひれで私を撫でるのがくすぐったく愛おしい。私はこのお魚を好いている。
 ただ、最近になってひとつ心配していることがある。それはこのお魚が、私とお魚とを隔てているこのゆらゆらとした水の中に溶けて消えてしまうのではないかということだ。事実、私の居る場所が暗い廊下から見晴らしの良い窓際に置かれるようになって以来、特にここから見える時計の針が4を指すあたりで、この水の中にお魚の赤色がゆらめきだすようになった。お魚の体温だろうか、私は少し温かな気がして不覚にも心地の良い気がする。でもこのままではあのゆらゆらと誘惑する水の中にこの愛しいお魚は溶けて飲まれてしまうだろう。
 また、掛時計の針が4を指す頃になった。おそるおそる見ると、やはり、お魚のくっきりとしている輪郭はぼやけあたりが赤くきらめいている。
 今だ。私は私の冷えた肌が、溶け出すお魚の体温で火照るのを感じ、その熱を生で感じたいという衝動に任せて体を大きく揺らした。瞬間、視界がぐらりとゆらいだ。

 

 温かい……。薄らぐ意識の中、彼女は床一面に散らばった硝子の粒が夕陽に透けるのを見ていた。その先であの魚がしなやかに横たわっている。そこに美しい輪郭を認め安堵すると、彼女は襲い来る眠気のままに目を閉じた。慌てて降りてきた家の主の、しゃがみこむ影が赤く伸びている。

 魚は冷やこくなっていた。

おかたづけのこころえ

「衣」「食」「住」の中で私が最も大事にしているのは「住」。あとの二つはいくらか興味が湧くようになってきたといった感じである。

日本の文化はおもてなしという意味で「食」をとても大切にしていると心得ている。ヨーロッパ生まれの私はだから「住」に強いこだわりがあるのかと合点していたら、関係ないでしょうと母が笑った。

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まいです、ごきげんよう❀

私は、この姿かたちのない不安をまとわずには生きられない世の中でどうにか幸せになりたいだけです。

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生きること即ち考えるということと、考えを述べるということは──脳が成すままにさせた場合── 一度で数日間動けなくなるほどの体力と精神力を伴います。場合によっては命に関わるほど。

基本的にヒトはある行為によってある何かを消費する生き物であって、思考という行為は自らを消費していくものです。ただ奥へ奥へと考え抜く先に明るい出口がないのは、奥へ進んでいるのだから当然のこと。

そういうわけで私は、思考することのない存在になりたいと今日も思い考えているのであります。

愛する自分がより幸せに生きられるようにするために「住」を整えることはとても大切です。

今日は私の好きな片付けについてお話をします。

片付けは始まった途端それ以外のことを一切考えずとても集中して取捨選択をする(主に“捨”になる)ので驚くほどに心の中が洗練されていきます。私は思い出と物とを自分の中で切り離しているので物に全くと言っていいほど執着がなく、かなり容赦なく物を捨ててしまいます。

最近も「大片付け」をしていて、まず気になった勉強机を粗大ゴミに出してしまいました笑。収納がついている机は私にはよくありません。自分の幸せな生活に必要なものとそうでないものをきちんと考えずとりあえず「収納」してしまうので、生活や心が雑になる種となってしまいます。案の定引き出しの中身で本当に必要な物というのはほんの少しだったので、机はもう少し小ぶりで収納機能のない可愛らしいものを新調することにします。

普段(じゃまだなあ)と思っていながら片付けの時にだけ「思い出」と呼んでとりあえず保管するというのはよくありません。良き思い出が日々「じゃま」になってしまうくらいなら物は手放し、思い出は心に飾るのが吉です。片付けとは過去に片を付けること。意外にも生半可な気持ちでできることではないのです。

ものが減るところまで減り整ったら、初めて「掃除」にうつります。きちんと片付けができていればその部屋には「大切なもの」しかないはずなので、掃除も心地よく行うことが出来ます。

掃除を終えたら窓を開けて香り立つミントティーを入れ部屋をひきしめ、そうする頃には自分の心も磨きがかかり爽やかな風が通っているものです。

片づけを上手にできたら、そこは自分の大切なものしかないお部屋になっているはず。そうしたらそこにいるだけで幸せで丁寧な気持ちになれるのです。

どんなに素敵なドレスを着ていてもどんなに豪華な料理でも、それと出会うお部屋が混沌としていてはもったいない。

「住」。それは心を住まわせるお部屋の話なのです。

真夏の軽井沢

ウェディングドレスをまとう姉の背に星野の青き光さしたる

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まいです、ごきげんよう❀

今年の8月に姉が結婚式を挙げました。

軽井沢の星野にある「石の教会」と呼ばれる場所です。

私は結婚式に出席すること自体が初めてだったのでこの日をとても心待ちにしていました。

白くふわりとしたドレスにつつまれ生花を髪に咲かせた姉は、我が姉ながら本当に美しくてため息が出てしまうほどでした。

その日の軽井沢の天気は曇りでしたが、驚くことに教会でも式場でも新郎新婦が姿を現す間だけは眩しいほどに陽が降り注ぐのです。「神様も祝福してくれてるね」という言葉をこんなに実感を伴って放ったのははじめてでした。これから新たな人生を歩む新郎新婦二人がとても神聖なものに歓迎されていると思わざるを得なかったのです。

とても幸せそうな姉の笑顔がこのうえなく可愛く美しいと感じる最高の挙式でした。

さて、こちらも初めての軽井沢は、埼玉住みの私にとっては8月ではありえない26℃という涼しさで、夏の青葉というよりは新緑といった感じのみずみずしさをたたえた植物がしっとりと呼吸していました。

結婚式のために軽井沢に前泊をする予定だったので、一日目は山を登り「白糸の滝」を見にいきました。

標高の高さに反比例するように気温はぐっと低くなり半袖では肌寒い程でした。

山のなかの自然は、なんだか道路に生えている草木よりもよっぽど「生きている」という感じがみてとれます。

湿った土には苔が蒸していて、そこに土砂に押されて崩れたのであろう一本の横たわる大木を見ると、その美しさに圧倒されてしまうものです。

土砂崩れや地震や竜巻のような自然災害は、もちろん私たち人間にとっては害であるけれど、私たちがここに立つ以前に、この地球が、自然が生きているという証拠なのだと思います。

テレビなんかで映される日本の美しい絶景や秘境と呼ばれる場所は「実はここは土砂により崖が崩れたことで生まれた景色なんです」なんてよく言われます。自然災害は「壊れ」に見えるかもしれないけれど、実はその逆、誕生なのかもしれない。仕方ないなんていっては不快になる人間が沢山いるだろうけど、でも私たちの肌が周期的にターンオーバーするように、地球もプレートを動かし大地をくずし強い風できめをととのえ、やはり生きようとしている。

土砂崩れのあと割れた太い幹から苔が短い根を張りキノコがひだを成しているのを見ると、そんな自然の生命にひれ伏さずにはいられないのです。

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私はもし自分が結婚式をあげることがあればその時はお城で舞踏会を開催したいだなんて考えていましたが、家族同士の温かい距離の近い結婚式もいいなあ。

家族の誕生、自然の誕生、出会いと別れを一度に味わったような夏でした。

宿る

神様がいるから祀るんじゃない。

祀る人がいるから神が宿るのだ。

千葉県のある地域での祭礼が私にそれを教えてくれました。

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まいです、ごきげんよう❀

今年の夏の一つの大きなイベントは、相方が心から愛してやまないお祭りに同行したことでした。

そこは相方の祖母が住む田舎町で、眩しい緑をした山々のほかには、青い空しかないような自然豊かな場所です。

ここでは各地域がそれぞれの神輿を出して町中を回るという伝統的な祭礼が行われていて、そこでの音花火、神輿、お囃子、匂い、空気……全てを、私の相方はこよなく愛しています。

過疎化、高齢化の進む地方でのお祭りをどうにかして繋げたいと、相方は祭礼のメンバーに加入していました。

コロナ明け4年ぶりの祭礼は、直前までの台風予報も打って変わり晴天のもとで行うことができました。

前夜祭。

神輿の進路を決める軸を操作する人、支える人、交通整備をする人……。

まるで戦隊モノのように、それぞれの神社のばってんを身に付けた男性女性が自分のポジションを全力でつとめます。

大きな掛け声と鮮烈な横笛の音色が2種の太鼓の太い音に煽られると、屋台蔵から大きな神輿が姿を現します。

高い陽に目を細めながら、溢れ出る汗を額のねじり鉢巻に染み込ませながら、人々はよく焼けた肌で太陽の光を照り返し、町を回る神輿を仰ぎ見ていました。

その目の先で陽光を吸収してより輝いてゆく神輿の威厳に、思わず息を呑みました。 

そうか。

信じ、祀り、伝う……。これが神を生んでいるのか。

動ける人が少なくなり、惜しくも町を回ることのなくなった屋台蔵に眠る神輿は、こんなにも生き生きとした神の叫びを宿してはいないだろう。

尊いもの。町の民がいくつになっても守り抜こうとしてきたものの尊さを、私は教わりました。

当日。

朝早くに町中に響き渡る音花火に目を覚まし、クーラーでひんやりとした畳に沁み込んでゆく蝉の声に耳を澄ましていました。

ところで私は相方の祖母の家に泊めてもらっていました。相方の祖母、家族、叔父、従妹とともに過ごす二泊三日は、とても新鮮で、そして充実していました。

みなさんは、映画『サマーウォーズ』を観たことがあるでしょうか。はい、という方には伝わると思いますが、もちろん私は「小磯健二」ポジションです。

畳に座り豪華なお昼ご飯をみんなで囲んで食べ、前夜祭のように神輿を引き、日が暮れて、浴衣に着替えると、またあの神輿のもとへまいります。

私の相方はと言えば、足袋を履いてばってんを締め、ばちを握って大太鼓をたたいています。自らお囃子の一部となり、豆のできる手のひらに、震動の響く二の腕に、筋の張る足に、大好きな”祭り”を共鳴させ、まったくいい眼をして太鼓をたたくのです。

もちろん私はこれを見に来たようなものなので(笑)、このシャッターチャンスを逃すわけにはいかないのですが、思いのほか格好の付いた姿にまじまじと撮影することの気恥ずかしさを感じ、周囲の景色なども映したりなんだかやたら動く動画を撮ってしまったことに少々反省しています。

お囃子を奏で終え、打ち上げ花火を眺め、もう一度響いた3発の音花火……。

その時間があっという間に、眩しい記憶となっていました。

さて、4年ぶりのお祭りに極度の緊張で連日食欲をなくしていた相方は、翌朝満足した様子でごはんを頬張っていました。寝言では相変わらず「みこし…みこし…」と言っていたけどね。

明るい家庭と親戚や地域の方の温もりを感じる田舎の空気は美味しくて、体に心に優しく沁みわたりました。

ごちそうさまでした。おかわり、させてください。

暑さ < 温かさ

まいです、ごきげんよう❀

夏を思い浮かべるとものすごくワクワクするのにいざ過ごしてみると、暑い……。

AEDの使い方をあらためて確認したり、自分こそ熱中症にならないようにおとなしくしたり、いざ来てみると一筋縄ではいかないのが日本の夏です。

もちろん今年の夏もクーラーに頼っていますが、暑いからと言って涼しくなれば楽ということもないのが難点です。クーラーの部屋にいないわけにはいかないけれど、長い時間いると足が重た~くなってくる…。ほんでもって朝起きると喉が痛くなっていたりして、現代の体と自然がいかに調和していないのかを実感します。

そんなときに行きたくなったのが!温泉です。

私はのぼせやすいので、以前は暑くてくるしい温泉がすきじゃなかったのですが、最近は癒しの時間としてとても好きになりました。

普段の家のお風呂のお湯は体のまわりにお湯があるという感じがするのですが、源泉のお湯は皮膚に染み込んでくるような心地がします。露天につづく内風呂では外からの爽やかな夕風におでこが冷やされてとても気持ちが良いです。外にいたら熱い風だったのに温泉に浸かっていると涼しく感じる。同じものでも角度の違いでこうも感じ方が変わると思うと、人は想像力を欠いてはならないなあと思ったりします。

いちど給水休憩をとったのち、もう一度入りなおしたことを思うとかれこれ1時間半は温泉にいました。ぬるい微炭酸のお湯にながいこと浸かり、サウナは20秒でリタイアし、水風呂はふくらはぎまで入れたのも頑張った方。サウナと水風呂の繰り返しで「ととのう」感覚は体験できないのですが、少しぼんやりふやけた体で湯上りし、ござの敷かれたお休み処で眠たくなるのはとても幸せな時間です。

ああ、一人暮らしするようになったら、温泉つきの家がいいなあ…なんてぼやぼやと思いながら夢を見る。

夏の疲れがあるからこその癒しがあるのかもしれませんね。

暑さは事前の対策をすることが多いと思いますが、対策してもつらいのが暑さ。ぜひ夏バテ「予防」に加えて「事後くつろぎ」の時間を過ごしてみてください。では。

卵、考え事、心

気づけばこんな詩を書いていた。

  「卵」

  卵を食べたいとき

  人は殻を割り

  そのなかの「何か」は

  それ以上になれずしんでゆく

  世のなかには

  心の殻を割りたいという人がいる

  彼らは気づいていない

  割れば中身はしぬと言うことを

  あなたが割るのはあなたが食べたいからだということを

  殻が自ら割れたとき 生まれ

  割られたとき 死ぬ「何か」がそこにある

  「何か」が生まれることを望むなら

  できることは温めること

  それだけ

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まいです、ごきげんよう❀

良いことだと信じているからこそ、視野が狭くなり気づけばエゴになってしまう…。

そんなことは日常によくある話ですね。

言葉は伝えるものではなく伝わるもの。

どう伝えようとしてたとしても、伝わった意味でしか言葉は存在することができない。

言葉は難しい。だからこそ面白い。

でもやっぱり、言葉は常に苦しいのです。

考える癖がデフォルトにあると、少しでも楽になることを求めて感情や言動を単純化させて思考よりも先に動くというおかしな、でも生きるために不可欠な癖がつきます。

幸せなことやうきうきしたとき、それが表出するまでのわずかな時間に思考してしまったら最後、簡単にもどってくることはできないので、いつでもアンテナをぴぴんと立てて、「ハッピーセンサー」が反応すれば即座にそれを表出させます。

そうするとささいな楽しいことをきちんと心に積み重ねていくことができるんです。

今年の夏に私の姉妹が結婚をするのですが、最近はその日のためのドレス選びに心をはずませています。

砂糖菓子みたいな白銀の粒が光る、薄水色のドレス。

光沢のあるかばんをもってボレロを羽織れば、気分はプリンセスです。

幼い頃、ディズニープリンセスの映画をよく観ていたのですが、観るたびに私は「いつになったら舞踏会の招待状が来るんだろう」と思っていました。どうやら今の自分よりもう少し大人になると来るっぽいな、と思っていたのですがさて。いざ「もう少し大人」になってみると、「舞踏会」がやってこないことに気が付きました。あれはおとぎの国のお話なのか……。

しかし考えてみれば、洋風の結婚式はドレスで行くし招待状も来る!!舞踏会(は、やらない気がするけど)ここで来たか~!!と楽しみで仕方ありません。

自分が結婚式を挙げるときはお城で舞踏会を開きたいなとうきうきしながら、姉妹の挙式の日を待ちわびています。

やっぱり心ときめくものって大事ですよね。

小さい頃に心躍らせたものは、大人になってもやっぱりきゅんと来るものです。

心躍らせる夏が、いよいよやってくる。

私はビタミンを沢山たくわえたフレッシュな体で、今年、この夏と踊りたい。

濃ゆい日のこと

嵐は夏の予感。

水滴が激しく地面に打ちつけられる音の正体を暴く、青白い雷光。

夏の到来を告げる雷神の、目に痛いほどのまばゆさが美しくて堪らない。

我が物顔で社会を生きる人間たちに自然が見せつける圧倒的な優位の真実。

牙を剥き叫び悲鳴の涙を流し洗い流された分子の一粒一粒を輝かせていく、嵐という大地の主張に、皮膚が呼応する。

本当はみんな、ずっと昔は、ひとつだったということを肌が感じている、そんな気がする。

呼吸する自然のその呼吸に生きる人間。

思いを馳せずにはいられない、夏の夜の雨。

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まいです、ごきげんよう❀

6月は紫陽花畑に行ってきました。

同じ時期にラベンダーも見頃を迎えますが、ラベンダー畑は紫陽花ほど数がなく、遠かったのでまたいつかの楽しみにしています。

紫陽花といったら青や紫がまっさきに思い浮かばれますが、実はひと玉ひと玉 色も形も異なって個性があるんです。

真っ白で鞠のようなもの、ピンク色で大胆なもの、うすあおで天使の輪っかのようなもの……花びらに見えるひだに誰かが水彩絵の具を垂らしたような、淡い滲み。

葉脈をびっしりと広げみずみずしい葉の緑。

ああここでカタツムリになって私、紫陽花のすべすべした肌に寄り添っていたい。

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紫陽花は相変わらずの方、つまりは相方と行ったのですが、遅刻する相方を待つ間、近くの商業施設で開催されていたハワイアンフェスティバルに足を運びました。

ハイビスカス色のビーチサンダル、マンゴー色のポロシャツ、海色のスカート、太陽色の耳飾り……。

出店のどこを見ても目が覚めるような華やかな色が溢れていて、……ハワイって、ハワイっていいな!!!!と笑、私の心もビビットになりました。

こんなにも純粋で幸せな色は、それを見てきた人にしか生み出せない。ハワイの自然には日本のそれとはまた別の魅力が宿っているという証拠です。

出店だけでなく、ステージ上でフラダンスのショーも行われていました。

生でフラダンスを観るのは人生で初めてでしたが、一瞬にして心を奪われました。

平和の踊り、フラダンスを舞う人々の指先はまるで波を撫でているよう、揃えられた指先のなめらかな動きが一度として空気を切らない優しさに溢れていました。

自然と心に流れ入るハワイの独特な音楽とフラダンス、ぜひ沢山の人に観ていただきたいです。

夏バテしてしまいそうなので今日はこのへんで。

喝采


吸った息が吐かれることなく呑まれていったのも束の間、泡が溢れるように途端に沸き起こる拍手、拍手、拍手……。

人々が手のひらを力強く打つたびにささやかな毛細血管、ちぎれ、ちぎれ、ちぎれ……。

紅く、熱くなった手のひらがじんと痺れるのを自覚しながら、控えめに弧を描く彼女の手へエネルギーを送るように、拍手、拍手、拍手……。

私は、拍手という音楽が何よりも好きだ。

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まいです、ごきげんよう❀

先日、家族で「ベルリン交響楽団withフジコ・ヘミング」という、オーケストラピアノコンサートを観に、東京芸術劇場に赴きました。

多くの観客の来訪目的になっているのは、なんと言っても御歳90歳のピアニスト、フジコ・ヘミング。

交響楽団によるオープニング、「フィガロの結婚」序曲が終わるとステージは暗転し、歩行補助カートを押す曲がった背中が静かに、静かにステージ中央まで歩みを進める音が響きました。

その音が止まりカートを押していた手がピアノ椅子に捧げられた瞬間、スポットライトが彼女を三角錐状に包み照らしました。

一瞬。

コンマ零零零1秒、誰もがはっと息を呑み、直後、割れるような拍手の波。

歩行を補助されながら歩いてきた婦人が、黒い艶やかなドレスを身に纏い微笑んだ瞬間の言われようの無いオーラ!!

知らぬ間に瞳に釘を打たれた私たちは、その後の交響楽団との共演中も彼女から眼を離すことができませんでした。

ソロ演奏された、「トロイメライ」と「カンパネラ」。

奏でられる力強い音色とその奥深さは、

90歳とは思えないとも、90年間生きたからこそとも言えるエネルギーの表出でした。

ああ、彼女と、彼女に送られる拍手の尊さに激震する心がここにある。

人々が思いの丈を、感動を、心をその拍手に託して表現し奏でている。 私はコンサートの、拍手という演奏が何よりも好きです。

誕生した日

まいです、ごきげんよう❀

風邪は万病の元、と言いますが道理でこの言葉が廃れないわけだと思いました。

と言いますのも、21歳の誕生日を迎える少し前から風邪をひき始めると、そこからは満身創痍でありました。

5月は毎年体を壊すので警戒はしていましたが、最高気温31℃の次の日が15℃という、凄まじい気温差に体はやはり耐えられませんでした。風邪をひき免疫力が落ちると熱が出て、それを引き金にこれまで見て見ぬふりをしていた疲れがどっと押し寄せて途端にバランスが崩れてしまうわけです。

悲しみを背負う悲しみ 悲しみが誰にもあるとわかる悲しみ

21歳になった朝に詠んだ短歌です。

こんな具合に気分が落ち込んでいた私ですが、誕生日という日はやはり特別で、私の誕生を、魂を祝ってくれるのでした。

今日は、誕生日のストーリーを通して私の周りの、素敵な方々を紹介したいと思います。

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友人。

私が教室に来るより先に居て、おめでとうの言葉をかけてくれる人。

テーマパークのチケットをくれて一緒に行こうと言い、未来の思い出と楽しみをプレゼントしてくれる人。

泣けない苦しさを優しさで飽和させて溢れさせてくれる人。

  幸せの原材料に悲しみがあると教えてくれる友だち

恋人。

予約したお店で驚かせたいくせに早く言いたいという葛藤に悩む、愉快な人。

私の誕生日を誰よりもわくわくと待っている人。

私の誕生に、「おめでとう」よりもたくさんの「ありがとう」を言ってくれる人。

  そこにあなた あなたがそこにいるだけで そこ という字にかぎかっこ付く

家族。

私を産み21年間育ててくれた人。

私の誕生を喜び、お祝いのために集合してくれる人。

私を信じ許してくれる大切な人。

  誕生日ケーキのように人数分わけても あまる家族の優しさ

私。

21年間生きてきた人。 

色んな人からおめでとうと言ってもらえる幸せな人。

これからも生きたいと思えた人。

本は

本は静かに、慰めてくれる。

話を聞いてくれるわけじゃない。むしろ話したかった何かをそっと忘れさせてくれる。

白いページを一枚めくるごとにそれまであった何かが拭われていく。

そして「わたし」は私から離脱しその空席に本の声が居座る。

本は静かに、慰めてくれる。ただ静かに、そこにいるだけ。

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まいです、ごきげんよう❀

言葉は形のないものですが不思議と質量がありまして、心の中で生まれ発せられることのなかった言葉たちが胸から喉のほうまでぎゅっと詰まると——本当に喉が痛むんです。

言いたいこと、言いたいのかわからないけど浮かんだ言葉、そうしたものを発さなかったとき、本当に喉を傷めます。そのまま風邪になることもしばしば。

まだ発せられていない、だから「ない」はずの言葉は、たしかに私の中で生きている。うごめいて私の隙をついて飛び出そうとしたり、どんなに息を吐いても上がらず奥でふさぎこんだり。やっぱり彼らは生きている。

そんなとき、「対処する」ということは私にはあまり合いません。たとえそれが解放というプラスにつながるものだとしても、対処しようとする時点でそこに膝までどっぷり浸からないといけない。それはやっぱり息苦しい。

そこでいいのが「忘れる」ということです。

そんな簡単に忘れられるなら悩んでないわ!というつっこみがあるかもしれませんが、いやいやあるんですよ。本という手段が。

あえて小難しい本や頭を使う本でなくっていいんです。スカッとするアクションものだってよし、キュンキュンする恋愛ものだってよし、ミステリーだってなんだって、とにかく今の自分とは違う境遇に置かれた主人公で、いい意味で深く考えず読み易ければそれでよし。

私は最近、有川浩さんの『図書館戦争』を読みハマり、「自分を忘れる」という時間の心地よさを知りました。嬉しいところで単純に笑い、怒り湧き起こる場面で眉間にしわを寄せ、ドキドキするシーンで純粋に胸を高鳴らせ……そうしているとそうか、心って案外単純でそして綺麗なんだということを思い出します。こまめに拭き取ってやらないと、感情ひとつひとつがどこか濁ったものになってしまう。

本のページをめくることは、心の余計なフィルターを一枚一枚はがしていくようなものなのです。

次巻を読んだらすぐ友人に報告し、あのシーンがいいだのあのセリフは最高だのと盛り上がる。そのときには、私が誰で、何をしていて、普段なにを思っているかなんて必要ない。

その本を読んでいる時、正確には「わたし」は不在になのだから。 本を読む楽しみ、本を語る楽しみ、本は私を静かに励ましてくれる。