ご無沙汰しております、みちるです。
金の使い方が下手なんです。
「給料日から数日でもうこんなことに……何をしたらこうも減るのかしらん」
入ってきたと思った矢先ひと息に引き出すものだから、多分銀行口座の残高が片方に寄っちゃってる。
自分でも何をどうしたら4日で既に入った給料が半分になっているのかよくわかっていないけれど、おそらく私は金を持つのがあまり好きでない。
嘘を吐けよ……とお思いのあなたもよく考えてみてほしい。金を使うことと金を持つこと、豊かになることと金持ちになること、それぞれの間には大きな溝がある。私はといえば、金を使うことに関しては人並みに好きらしいがしかし金を持ってはいられないのだと思います。
筆者は実家暮らしであるから、たとえ財布の中身がカードとレシートだけになったとしてもすぐさま死ぬということはなさそう。しかしこのままではジュースの一本、それよりも煙草の一箱も買えないとなってくると「いよいよだ……」と血の気が引いてくることもなくはない。なくはないのだけど、そういった局面になってきてからようやく熟考して金を使うようになる。
わかりますか、こんなのはいけません。困ってしまいます。逆を考えれば、懐に余裕がある時にはとくによく検討することなく金を使ってしまうということでしょう。でしょうって、何を他人事みたいに……。何に惹かれるか、何を必要とするかは私の懐具合というよりむしろ私自身によって決定されているため、実際月の何時頃だろうと大きく時期を逸しなければ欲するものはあまり変わらないような気がします。ただそうした対象は常に自分の持っている数字と照らして、つまりいったんは検討して交換されるべきものだというのが通説ですから、金を持っている(といったって当社比である、相対的にはとくに金持ちでも何でもないんだから)タイミングの私は端的に浅慮であるといえる。皆さんからすれば”浅い”んですね。
因みに今月はここからシーシャ台の購入を検討しているので、当初ひっそり目標にしていた貯金はどうやら達成できそうにありません……。定期代を親から受け取っているのにもかかわらず毎月毎月給料日前の「冷や汗期」をしのぐのに使ってしまうので、給料日ちょうどに通学定期を買い、そして残りは書籍代や嗜好品代やタクシー代となる。しかも貯金って金を持つことですから、アタシ、苦手なのよね。なんとなく給料日前に残高が潤っていると「使い切らなくちゃ」という気分になる。
(これでギャンブルとかやっていたら歩く厄災なのですが、時間がないのでやっていません。ギリギリセーフですね。)
――お前、頭悪いのか――
あなた、私のお財布を管理してください。そういう人を募集しているので。
(間奏)
エロティシズムと死の肉薄は明白に示されていながら、死がエロティシズムの極点でないこともまた同様の程度によく示されている。
といった話から始めようとしたけれど、自分の名前がない短歌の詠草をみていろいろのことがいやになってしまった。どうしても失敗できない発表を控えてその準備が終わっておらず、加えて或る事情のためその日の歌会は犠牲にした。なので当然今回の詠草に自分の歌はない。
自分で休んでおいて何を言うかと思われるだろうが、これは大変に不思議な感じがする。というのも、これがずっと整うべく待たれてきた土台である気がしてならないのである。自分の歌が組み込まれた詠草――勿論詠草に限らない、例えば自分の記事が載った機関誌や、自分のレポートが載った研究冊子などオムニバスめいたものは特に――は既に疑似的なセックスの場であり、そこに対して我々はもはや鑑賞者となる以上の立場を持たないし持とうとも思わない。しかし自分の歌が載っていない――載ることも可能であったと考えられるのに、である――詠草を目の前にしたとき、一瞬だけ、私は合理性の彼岸へ立った。同時にすべて目的論的に規定されていると考えられているものはその素体を鮮明に暴き出され、普段想像も出来ないような事柄が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
崇高なものの多くは”不調和”と思われながらにして実際は”調和”であったためにその恐ろしさと崇高さとを喪失し、奴隷の少年や乱れ髪の娼婦や靴磨きの男は艶めいてその脳や子宮や心臓や種々の肉器官を私に「召し上がれ」と言って差し出してくれた。愛する人は色々の方法で死んでは生き返り、生きては死に返り、その度私はありもしなさそうな死の後をまたしても鮮明に想像してすすり泣いた。鼻血が出て、何度も胃をひっくり返した。この手紙は、そうしたあとの文章なのです。死なないでいて、と言えずに、誰のものとも知れないで赤い断面を見せつける手首の写真で平素の拍動を取り戻した。
見えなかったものが見えるのは、調和が見えるのは、無限なものの一部を我々が分有するためである。しかしそうであれば我々の有限性をルドヴィコ法の治療のように目を開かせて見せつけるエロティシズムの機能は克服されるべきものなのだろうか。否、そうでないことはここまでの記述で明らかであるはずでしょう。エロティシズムはその機能が働くという事実によって我々の有限性を証明しながら、その機能によって我々が無限なものの一部を腹の奥にしまっていることをわからせる。有限と無限、不調和と調和、そうした両義性に一瞬でも我々を辿り着かせるのがエロティシズムである。
[少し先取りしすぎだったみたいだけど……君らの子供にはウケる。]
先取りなんかじゃあないけどね。もう幾世紀も前から真理は見えていたんだから。
そのとき私は詠草と一つになりたかった。
他なるものへの走性。性的なものやそうでなさそうなもの、崇高なものや卑近なもの、聖なるものや俗なもの、自分を感じさせるものや感じさせないもの、への走性。エロティシズムは我々の走性から生じている――さしずめそれはサヴァランが指摘した生殖感覚と、あとは一般的に言われる屈曲走性との関わりのうちにある事柄ではなかろうか。
私は詠草のうちに自分がみとめられないという観測結果からエロティシズムを感得したのであり、詠草それ自体から感得したとは中々胸を張って言いづらい部分がある。だからなんだという話なんですけれども。ああまた気持ち悪くなってきた。どうやら心身は養いと休みによって確実に回復するものでもないらしいと最近よくわからされる、養いや休みにもストレスがあり、負い目がある。疚しさの大部分はもう克服しかけていると言えるけれど、世界に疚しさがある限りその連関のうちにある私もまたその疚しさの影響を受けずにはいられないからもうたくさんなんだ。
君たちのせいですよ、そんなに「責任」という言葉が好きなら、責任もって私を愛しなさい。私に引き上げられなさい。私を生かしてみせなさい。そんなこともできないからいつまで経っても手紙が届かないんじゃないの。
ねえ、どうなの。
みちる。
答えて――
届いているの。
誤魔化さないで聴いてね、次のナンバーは――
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる