大変ご無沙汰しております、みちるです。
腹をくくらねばならないようなんです。
「曖昧な態度でいるのがいけないというのは、誰のための思いなのかはっきりさせておく必要があるんじゃないかね」
誰のためでもないでしょう。
あなたのためでも私のためでもない。誰かの、何かのためではないんです。そりゃあ、きっかけをもたらした何か、はありました。だけどその人の、その事物のためではない。最早そうするほかないので、腹をくくると言っているんです。
というかほら、こうして書くことこそ一つ腹をくくること、回復なのです。
私はよく、「そうせざるを得ないからそうしている」と言います。それはこのブログ上だけでなく、(あなたに想定される)日常生活においても。
《君は本が、文学が、哲学が、お好きなんですね》
ある人が少しの驚きを混ぜてそう言ったとき、「読み、書き、文学や哲学をして生きるしかない、というのがワケですよ」と情けなさそうに返したのをよく覚えている。
彼は私の書いた”からだ”についての文章をいくつか読んでいたし、私の推薦でスピノザなんかを読んでいた(こういう叙述が多くの場合その対象者に快く思われないことは私が最もよくわかるとさえ思う(「君にはわからないか」というのと似たものがある)。しかし私が彼に落胆したり彼を責めようとさえしたのは、このやりとりがあった瞬間だけであると誓う。それでも取り返しのつかないことではあるのだけど)。
私は自らの生について、その態度を洒落にするのがいけないことだと思ったことがない。だから上のような発言が平気で飛び出すのだ。しかしまあそんなことはさておいて、我々はその瞬間一つのすれ違いを起こしていたのである。
《なるほど、大学の勉強ですか。お互い、中々大変だ》
大変なのは今この状況だよと言いたかったけど、帰り支度をしていた人間をそれ以上引き留める訳にもいかないと思ってしまった。
つまり彼は私の「そうするしかない」を何かに要請され、ないし強制されてそうすることにしているという風に解釈したのである。そこまでは正しいとしても、私にそれを強いるものは教育機関なのだと合点したのが誤りだった。現に私は学生だからそのように連想するのも自然であるかも知れないけれど、学校よりもっと身近なものに、すなわち自分自身を”始め”としたものに強いられているという風には思わなかったらしかった。
”ふいんき”を「雰囲気」と訂正することならいくらでもできるのに、なぜ私はここで認識の誤りを指摘できなかったんだろう。そう、今でも後悔することがある。見ないふり、聞かないふりもできない不器用さのためにこうも頭を抱えているのだとしたら、自分の馬鹿さはやっぱりこういうところにあるんだろう。
(間奏)
今回はここで終わってもいいかと思ったんですが、鎮痛剤の効きがよろしいのでもう少し書いてみることにしましょう。話題はそうですね、文章を書くことについてとか。
あなたは、どういったときに文章を書きますか。学校の課題で、お仕事で、うんうん言いながら偉い誰かに丁寧なメールを拵えたり、あるいは同人活動において、エッセイや小説やブログなんかを書くんでしょうか。
聞くところによれば、どうやら多くの人はなにか機会があって初めて文章を書くらしい(?)。私は違う、と言いたいわけではないけれど、そう思えば実際人よりはその機会が多いんじゃないかと思う。
中学時代、学校機関紙を扱う組織を任されて同世代による色々の文章を読んできた。その時は自分も同じくらい書いていて、高校入学以降その機会が無くなってからもなんとなく書く癖だけが残った。当初からものを書くこと自体は「そうせざるを得ない」ためにしているとしても書いた文章自体は目的論的に把握されるのが常だということは予感していたし、それはきわめてプラスの方向に把握されていた。であるからこそ、文章は目で追われるものでありながら声に出されるものでもあり、そうであるなら嗅がれたり味わわれたり触れられたりするものでもあり得るのだとわかった。そして見る文章、読む文章、触れる文章など、文章の宛先や書く対象・内容に応じてそれらをかき分けたり融合させながら楽しんだ(これは現在も変わらないスタンスだと思う)。
とりわけ何を書くにしても視覚的な情報と音声面の情報に気を配ると納得のいく文章が出来やすいという気付きは、度々スピーチをしたためる機会を頂いていたことによるものだろう。今もなおあらゆる文章は音声への気遣いなしに成立しえないものだと信じているし、目の前の文章がいかにそこへ配慮したものであるか、そうでないかは、それ自体が明らかにするものなのだ。
文章を書くことが好きか、という質問にあえて答えるなら、好きだ、と思う。今取り組んでいる小説やそうでない様々の文章も、私にとって良いものであることに疑いはない。たとえ書くことによって自分が苦しめられるような事態が迫っても、書くことが好きだと言える気がする。
あなたに届けるこのブログも、そう”言う”私が綴るものであるとわかったほうが安心できるものになるでしょうし。
眠気がきたので、今日はこのへんで。
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる
