ごきげんよう、あやめでございます。
前回はゼミ選択について語ったので、今回はもっとさかのぼって高校時代について書こうかと思います。またもとてつもなく長くなる予感がします。じめじめした内容です。そしていつもの。この作品は事実に基づいたフィクションです。
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忘れもしない出来事というものは、他の誰にも覚えられていないような何の変哲もない一日に起こるものだと思える。ワクワクして一か月前から楽しみにしてカウントダウンした遠足のある10月8日も、隣に住んでいる大学生のお兄ちゃんには全く関係ないことだし、過去最低点を観測した中間考査の社会のテストがあった5月20日も、散歩をしているおばあちゃんには関係がない。私にとって最高の日も、お母さんにとっては最悪の日で、その晩はお母さんの愚痴大会が開催される。私にとって最悪の日も、5歳年下の妹にとっては最高の、縄跳び大会の日で、妹はそこで1位を取って賞状を貰って帰って来た。私にとって最悪の、あの、古典の授業を早退した、それを皮切りに高校に向かう足の重さをこれ以上なく認知した日は、忘れもしない、4月22日の午後であった。微熱が出て、珍しく春にインフルエンザが流行った年だったから、大事を取って早退したはいいものの、怠い体を引きずって帰るには30分に1本しか来ない電車も、花曇りの冷たい空気も、2時間越えの長すぎる通学路も、あまりにもストレスフルな環境だった。そこで私はおぼろげに、あそこに行きたくないと感じてしまったらしいのである。
中学時代の私は、有名な優等生をやっていた。人数が少なく、保護者同士の距離も近い密度の高い地域に住んでいて、そこで優等生をやるというのは、役職総なめをするということに等しい。様々な肩書を背負い、先生方の期待どころか地域丸ごとの期待を背負って、若さのエネルギーを成長一本につぎ込んで、タケノコよろしく、破竹の勢いで成長していた。周囲の成長を押さえつけてでも這い上がるような勢い。勉強も部活も行事も委員会もこなす勢い。友達には何度も羨ましいと言われ、その言葉に彼岸と此岸を隔絶するような重たい杭を感じても、私には「そのほか」の時間がないからゲームばっかりやっているらしいあなたと違って然るべきねとその境界線すらはねのけ、そこのけそこのけ私が通る、と突っ走っていた。この間、純粋でまじりっけのない童話の世界観で生きていた小学生時代のキラキラおめめを棄て、斜に構えて誰にも頼れないという事実に基づかない信念を片手に、この世のすべてを疑ってただ己の力のみを頼りに生きてやろうと思っていたあの頃。テストでどれだけ…たとえ5教科合計で490点台をたたき出していても…100点満点じゃなければ意味がないとして追い込めるだけ自分を追い込んで、まだ足りないまだ駄目だと、追い込むほどに点数が低くなるのにも構わず追い込み、行き先の知れない〈怒り〉みたいな感情を爆発させる毎日であった。あまり自分本体に興味もなく、思い通りに「結果の出せない」「使えない」脳みそを恨んだりした。あのころ欲しかったのは「1」という順位か「100」という点数で得られる数字で、サンタさんにお願いしたのは時間だった。進学する高校すらどこでだってよかった。勉強さえできるならなんだってよかった。強いて選ぶならば一番勉強が出来そうで、愉快で知的なお友達が得られそうな、そして将来の選択肢を広くとれそうな地域で「一番の」進学校に行きたい(行くべき)と思った。最期の模試の結果的に偏差値はぎりぎりだったけれど、通知書の数字がほとんど完璧(体育だけどうしても5を取れなかった)だったおかげで、なんとか目標だったあの地域一の進学校に合格した。
高校時代の私は、中学時代に切望した「時間」を、不登校になるという方法で手に入れた。代わりに、中学時代にその時間を使ってやりたかった数々の「タスク」が、ことごとくできないコンディションになった。読書がしたかった。勉強がしたかった。いろんなことを知って吸収してそれをつかって積み木遊びがしたかった。かんたんなパズルを解くような気持ちで、学校のワークを解きたかった。もっと知りたいことがあった。ボールが真っ直ぐ飛ぶことを、数式で表せるってどんな気持ちだろう。大好きな合唱が数字で見られたらどれだけ面白いだろう。世界中の事柄を知れるようになったら読むべき文字数が何文字増えるだろう。あの山にかかる雲の正体を知れたら「くもをつかんだ」気持ちになれないだろうか。このあふれ出る気持ちを誰か他の人に伝える手段として漢詩を詠めるようになったら、どんなにか!しかしこれらの情熱の火は、あの日古典の授業を早退したあの日にフッと消えてしまった。
不登校時代はまったく苦しい日々だった、と今になってようやく認めることができている。当時は「苦しい」ということを自覚することすらままならなかった。誰かに何か危害を与えられたわけでもないのに、大した理由もなく、くるしいふりをして、ずる休みをする、卑怯なやつだと、自分を認識していた。毎日仮病を使って、そのうちなんだか本当に苦しいような気がしてきて、目の前が真っ暗になって、おっとやりすぎたかな、と思ってしゃがんでみたら、駅に居た善良なおばさまに駅員さんを呼ばれたこともあった。出席日数を稼ぐために、「文化祭だけ出席するヤツ」になって、そこでよせばいいのに所属していた部活動の発表を一生懸命やって、ようやく発表が終わったから控室になっていた暗くて誰も来ないパソコン室の床にしゃがみこんでいるうちに、手足はおろか顔面とお腹がしびれてきて、誰も来ないだろうと思ってそのまま横になってみたら、ひんやりして喧騒がすごく遠くなった気がして、なんだかすごく心地よくて、このまま誰にも気づかれないまま寝てしまいたい気になって、ぼんやりしていたことがあった。無論あっけなく友達にみつかって、あれよあれよといううちに大事になって、保健室の先生に「またお前か」という嫌な顔をされているのに気づかないふりをしつつ、ここまで来てもまだ立ち上がる気力がわいてこず、後は野となれ山となれと思ったこともあった。その日は救急車で搬送された。大したことない仮病で搬送されて、恥ずかしくて嫌になったけれど、搬送されてもなお、起き上がる気もまた起きなかった。次の日はまた休んだ。
この調子で満足に通学することもなく、欠席か遅刻か早退を繰り返して、毎朝母に「行くの?行かないの?」と問われるたびに「朝」を強烈に感じては、コピペしたみたいに進展のない毎日を嘆いていた。読書も勉強も、そもそも文字が読めなくなってできなくなった。判読する前に脳みそが限界を迎えて、集中力が極限まで削れていた。これでもまだ仮病だと思っていた(今だってただの思い込みだったような気がしてやまない)私は、毎晩じぶんを呪って、その呪いの効果は抜群で、次の朝も最悪の日のスタート地点に立っていることになった。
たまに行く高校で楽しみな授業は、数学と地学だった。ただし数学は基礎の授業を欠席して、応用の授業だけ出席したりしていたから、まるきりなにを言われているか分からない日もあった。それでも楽しみだった。他の授業もさすが進学校、大体が予習と復習が必須の内容だったから、一人だけまったく置いて行かれた人として存在してゐた。隣の人やらグループで取り組む課題はことごとくご迷惑をおかけしたし、私が所属するグループは必ず一人少ない状態で進行していた。かわいそうで申し訳ないことだった。情けなくてひとでなしだと思った。そして、中学時代に夢想したような「愉快で知的なお友達」は、どこにもいなかった。私はわたしが外れ値であることを自覚した。
開けない夜はない。止まない雨はない。四季は巡る。やがて春が訪れる。これらはあの頃極端に嫌った言葉群である。このつまらなくて苦しいふりをした面白みのない私の青春は、青くなる前に枯れ果てて、春なんて幻想なんだと思うことで自分を守っていた。止まらない脳みその回転に身体が負けて、自己否定が溺れかけの私の一把の藁であった。ぬくぬくのお布団の中に居ながら、自分が何者でもないと想像して泣いて、夕飯の時間になって呼ばれて、夕飯を美味しく食べて、布団に戻って来て、家族に属しておいて、何者でもないとはなんだと思い返しては想像力のなさを嘆いて泣いて、泣いている時間と労力が無駄だと泣いて、この間2時間半、通学できちゃったな、と冷静な視点を持ちながら、面白くなってきて泣きながら笑って、脱水症状になって気絶するように眠った。
どうしても成績がよかった理科を手放したくなくて、周囲の大反対をつっぱねて国公立志望を出した。担任の先生に何度も呼び出されて、出席数が足りなくなってきたら自分だけじゃなくて母親も呼び出されて、劣等生を通り越して問題児になっているのに、国公立。とりあえず数学と理科の勉強をして、授業が演習になった高3の2学期からは遅刻しながらも欠席を減らして通学して、のらりくらり、共通テスト本番は模試で軒並み高得点だった国語と伸びてきた数学がここにきて大コケしつつ、他は過去最高点を取ったため、進学は叶った。
大学進学してからは、どうしても「あの頃」に戻りたくない、という一心で例えば体力づくりとか、気持ちの整理とか、自分の取扱説明書をつくってみるとか、そんなことをしていた。多分、こういうことはもっと若いうちに終わらせておくべきだったんだろうなと、湧いて出てくる邪念をほうきで掃きだしながら。幸い、文字が読めるようになったから、それをつかってあの頃何が起きていたのかを、大好きな「学習」を使って認識したり振り返ってみたりした。誰にも明かしてはならない、こんな発想バレてはいけないと信じていたこれら不登校時代の記憶を、こんな不特定多数のみなさまの前で打ち明けれらるようになったのも、大学四年間の集大成としては上々の結果なのかもしれない。
ご存知でしょうか、これまでの人生において、一番年を取っているのは今この瞬間なのです。しかしながら、これからの人生において、一番年若いのはまた今この瞬間なのです。何を想像しても明日は来るし、であれば踊らにゃ損、という算段が成り立ちそうです。例えばお先真っ暗であることを嘆いて、自分のかわいそうなさまを強調して、あったかくておおきい存在、誰であってもいいからかわいそうだったねと言ってくれる存在を探り当てて、抱きしめてもらえるように訴えかけることはもちろん可能です。そう言う存在が実在するかどうかは別として。例えば私の物語の主人公は私であるのだから、他でもない私が悲劇のヒロインであることは自明で、これによってあなたに私が悲劇のヒロインですよと自己紹介することも可能です。「あなた」がどう思うかは別として。だけれど、このへんちくりんなおばけの私は、かようにして「おばけ」を自称するに至りましたし、おばけとして浮遊すれば(私の物語の主人公であることすら「抜け出せれば」)楽しく存在できることを知りました。分相応かは別として。
結局、中学時代の私がサンタさんにお願いしたかったのは、本が読めるという事だったようです。おばけになってから、ずっと前にサンタさんはプレゼントを届けてくださっていたことに気が付きました。どうしてこれまで気がつかなかったのか。それは、私が、クリスマスプレゼントは枕もとの靴下の中のお届けだと思い込んでいたからです。そうではなく、玄関前の置き配でした。灯台下暗し。我思う∴我有り。以上大長編でお送りいたしました。私の半生物語を、日本史Bの教科書をもじって「自分史B」とか生意気な名前をつけてお届けしました。お付き合いいただきありがとうございました。また次回。


