Show me magic on a rainy day.

「ぼくは魔法使いだからね」
 廃ビルの中で出会ったお姉さんは確かにそう言っていた。

 詳しくは覚えてないんだけど、僕が中学生の頃だから10年くらい前かな、その日は重く灰色の雲が空を覆っていていつ振り出してもおかしくない天気だった。僕は何があったか忘れてしまったんだけど、とにかく家に帰りたくなくていつもの帰り道を一人行ったり来たりしていた。その頃、人と話すのが得意じゃなくてさ、友達はそんなに多くなくて。一人で帰る方が多かったんだ。まあとりあえず、そうしてるうちにスンと独特なアンニュイな匂いが鼻を通って、ああ、降り出すなと思ったら案の定。ぼたぼたと頭を濡らす雨から一時だけでも逃れたくて、建設予定地の看板がいつまで経っても撤去されない廃ビルの軒先に走った。ここは肝試しに使うには新しく、かと言ってここ何年も取り壊しが行われない廃ビルだ。「いわくつき」ではなく土地の権利関係で揉めているらしいとのことを、近所の噂話で聞いたことがある。5階建てのビルというよりはアパートの造りに近いその建物は人が住まなくなった年月に呼応するように、壁紙を剥がし蔦を生やし自然に帰ろうとしているようだった。僕はタイル貼りのロビーの階段に腰かけ、上がる目処の立たない夕立をぼんやりと眺めていた。
「まったく飽きもせずよく降るものだ。そのうち全部沈んでしまうよ」
 すっと通る声が頭上から落ちてきた。さっきまで人はいなかったはずなのに! 反射的に声の方に振り向く。最初に見えたのは長い金色の髪。そして黒いワンピースだった。
「こんにちは、少年。きみも雨宿りか。そうか。止むかも分からないけれどね」
「ええ、こんにちは」
「まあそうだな、仮に止むとして共に待つのも良いだろう。けれどもただ待つのは興がない。どれ、魔法を見せてやろう」
 狼狽する僕を置いてその人は一人でぺらぺらと喋った。立ち上がっても僕の頭上より遥かに高い背丈は男の人を思わせたが、声は女の人のような少し高くてキンと張る声だった。顔は帽子をかぶっていてよく見えなかったが、耳にはキラキラと光るアクセサリーが付いてるのが見えた。
「それ」
 長い髪とその声から仮にお姉さんと呼ぶが、お姉さんは手を振ると、赤いナイロンの花を取り出した。
「これねェ、きみにあげようか。うん、ポケットにももう一輪入れておいたよ」
 お姉さんがそう言うので慌てて制服のポケットを見ると、本物のバラが挿さっていた。
「あげるよ、あげる。まだあるよ」
 お姉さんがハンカチを振る。するとブレスレットくらいの大きさの金色の輪が三つ現れる。それぞれは独立してたが、お姉さんが手首につけてから外すと、繋がっていた。
「ここ持って」
 動転しながらも言われるがままに金色の輪の端を持つ。お姉さんも端を持つ。すると真ん中の輪が炎をあげて消えた。
「まだ」
 お姉さんは輪を回収すると、今度はコインを出した。銀色のコインは全部で5枚。お姉さんが一枚ずつ宙に放る。するとばらばら落ちてきたコインは10枚。
「えっ」
「いい驚き具合だ。こうでなくては」
 お姉さんがコインを拾ってスカーフに入れると、コインは消えてなくなった。
 それから全部は覚えてないけど、確かトランプが飛び交って、ステッキやリングが出たり消えたり増えたり減ったりした。パチパチと光る棒や銀色のナイフがその人の腕の中ではおもちゃのように踊った。僕はその度に拍手をして段々夢中になっていくと同時に、一つの噂話を思い出した。最近、身長が高くて長い金髪の人が近くを彷徨いているらしい。不気味だから近づいてはいけないよ。強くて怖い人だそうだからね。そしたら怖くなってしまって、この魔法がいつ終わるのか気になって、居ても立っても居られなくなってきた。
「どうした? 少年。なんだか元気が無くなってきたね。折角魔法を披露しているのに」
 お姉さんがヘソを曲げたように言う。途端にお姉さんの機嫌を損ねたら何か大変なことが起こるような気もしてきた。
「ああ、そうか。そろそろ雨が上がるんだね。そうだね、きみは雨が上がれば帰るから、仕方ないね」
 お姉さんは汚れたガラスから空を見やった。僕はほっとして胸を撫で下ろした。
「じゃあ、最後に一つ魔法を教えてあげよう。きっとすぐに困ったことが起こってしまうだろう。怖くてどうしようもなく困ったときに唱えてくれ。大きな声で。きっと大丈夫。大丈夫だからね」
 お姉さんは僕の手をとり、ゆっくり文字を書きながら僕に囁きかけた。ハートのマークが着いたお姉さんの細い指がするすると動く。それは異国の言葉のようで、僕は一回では覚えられなくて、もう一度と顔を上げたらお姉さんは消えていた。
 今考えるとお姉さんは魔法使いではなくてマジシャンだと分かる。けれど最後、僕の前からまるで最初から無かったかのように消えたのだけは、本当に魔法のようで信じられなかった。
 呆然としながら廃ビルを出ると、雨に濡れたアスファルトからは独特の匂いが立ち上り、空は雲の切れ間に青が見えるようになっていた。鮮やかな魔法が行われたステージは一切の煌びやかさを捨て、ただの廃ビルとしてそこに立っていた。

 その後、本当に一回だけどうしようもなく困ったときがあって、その魔法を口に出した。それはお姉さんと会ってから1ヶ月後くらいのことで、その日も学校の帰り道だった。いきなり知らない人に腕を掴まれて車に乗せられそうになったのだ。サングラスをかけた怖いおじさんに強い力で掴まれ、周りに誰もおらず僕はどうすることもできずに慌てて唱えた。
「あいの ゆあくらむ ゆうりめんば み とぅ まじしゃんうぃる ぱにしゅゆ」
 そうしたらおじさんたちは当然腕を離した。僕は反動で転けてしまったが、おじさんは僕に構うことなく逃げて行った。どのような魔法が起こったのか僕には分からなかったが、とりあえず助かったのだ。

 どうしてこんなことを話し始めたかというと、思い出したからだ。梅雨に入ってそろそろ夏に向けて衣替えしないと、部屋の掃除もしようかと思いながら駅から歩いているときに雨が降ってきた。そういえば天気予報で雨が降ると知っていたような気もしたが、折り畳み傘を持ってくるのを忘れていた。ぽつぽつと落ちてきたしずくは夏先の雨特有の質量と速度であっという間にざあざあと強い刺激に変わった。参ったなと思い鞄を頭の上に乗せて走りながら、どこか適当な建物の軒先で待とうと考えた。それで寄ったビルの軒先で思い出した。生憎そこはあの廃ビルではなかったが、突然の夕立とアスファルトの香りはあの日を想起させ、そしてふと、魔法を思い出したのだ。
「あいの ゆあくらむ ゆうりめんば……」
 口に出してみて、気づく。これは魔法の言葉では無い。知っている言葉だ。
「I know your crimes. You remember me too. Magician will punish you.」
 私はお前の犯罪を知っている。お前が私を覚えているのと同じように。マジシャンはお前を罰するだろう。
 もしこの魔法が英語であったとしたら、このような意味ではないか。英語を聞きれてない中学生なら、魔法の呪文に聞こえるかもしれない。しかし英語であったとしたら、英語を知っている人にはそのように聞こえたのではないか。
 これは後で調べて知ったことだが、僕の住んでいた地域は相応に治安が悪かったらしい。戸籍も国籍も正体も定かでない人々が多く住み、廃ビルが放置されていようものならすぐに不良の溜まり場か、不良より怖い人達の拠点になっていたぐらいには。それがなぜ、あの廃ビルには手をつけられてなかったのか。なぜそれだけの地域にいて僕は治安が悪いとも知らず、怖い事件に触れたのも一度だけだったのか。
 身長が高いのに気配を悟らせずに後ろに立てる人。消えたと思わせるくらいに素早く動ける人。パチパチと光るスタンガン。銀色のナイフ。耳のピアス。手の甲のハートの刺青。魔法使いと名乗ったお姉さんは、魔法使いではなくて、廃ビルを占拠しようとする怖いおじさん達にも負けない人。そしてそのような怖いおじさんが近所にいることを知っていて、子どもに声をかけてあの魔法を……。
 そこまで考えてふと頭を上げると雨はすっかり上がっていた。今のうちに帰ってしまおう、と足を踏み出す。考え事は深く追求するのをやめた。あの人は魔法使いと言ったから、お姉さんは魔法使いなのだ。

 これは余談だが、家の玄関に飾ってあるバラが一年中ずっと綺麗に咲いていることについて、造花だと思った僕はさして気にしていなかった。しかし部屋の掃除をする際に、そのバラは生花であったことに気づいた。家族に聞いても「あんたがもらってきた造花でしょ」としか答えてくれず、他に覚えはないと言う。僕が覚えている限り、バラをもらった経験は魔法使いからもらったあの日一度きりだ。