中学校の頃通っていた塾では、月に1回、有名な文学作品をひとつ取り上げた、「今月の名文」というプリントが配られていた。名文は1ヶ月の間に暗記させられ、月末にテストされた。
それは島崎藤村の「初恋」を扱った次の月で、塾の先生が「先月はリンゴだったけど今月はレモンでーす」と言いながら配ったプリントから始まった。そこには高村光太郎の「レモン哀歌」が載っていた。
その詩は、中学生の私にとって、とても美しく、幻想的に感じられた。
そのプリントに書かれていた高村光太郎の略年譜を見て、ちょっとだけ彼に興味を持った。
ちょうどそのくらいの時期に、NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組で、高村光太郎が扱われた。愛に生きた詩人として、彼の生い立ち、智恵子との関わり、戦争、その後、全て紹介されていた。
それからしばらく彼のことは忘れていたけれど、高校生になって、電子辞書で近代文学をたくさん読むようになってから、やはり『智恵子抄』は押さえておくべきだと思って読み始めた。
でも、読むと悲しくなってしまう。その頃はもう彼についての知識がある程度あったから、光太郎と智恵子のことを考えて、胸が痛くなった。
高校の図書館で「智恵子の切り絵」という本を借りた。
晩年の智恵子の切り絵、もうほとんど会話すらできない状態だったのに、切り絵だけは上手に出来て、それを光太郎に顔を隠したり照れたりしながら恥ずかしそうな見せていた、あの切り絵が、光太郎の詩と共にまとめられた絵本で、小さな宇宙のような世界が広がる本。
巻末には高村光太郎が智恵子について語った文章が載せられていて、それを読むとまた胸が痛くなるのだけれど、二人の愛に感動する気持ちも生まれる。
その頃米津玄師さんがlemonという曲を出して、紅白で歌われるくらい人気になり、大晦日に初めて私はその歌詞を見て、かなり驚いた。これは、レモン哀歌の影響を受けている。彼は絶対智恵子抄を読んでいる。そう思った。「暗闇であなたの背をなぞった その輪郭を鮮明に覚えている」という二番の歌詞、これは、光太郎が智恵子の背中の黒子まで深く覚えていると言っていた、あの詩である。高村光太郎の詩を感じさせる歌が、街中で流れ、みんなに歌われていることを、私は嬉しく思った。
東京に来て、千駄木を散歩している時、そういえばこの辺りに高村光太郎の旧居跡があるはずだと思い、行ってみた。そこにはただ「高村光太郎旧居跡」という看板があるのみで、それ以外何も残っていなかったけれど、周りはたいそうな高級一軒家が並んでいて、なるほどな、と思ってしまった。もしここにあの黒いアトリエが残っていたら、どんなだったろうか。近くに森鴎外記念館があるのも、なるほど。
巣鴨に住む友達に会いに行く途中、早く着きすぎたので、そういえばこの辺には染井霊園、高村光太郎のお墓がある場所があるなと思い出し、自転車を走らせ向かった。雑司が谷霊園とは違って、開けた土地の小高い丘にたくさんのお墓が並んでいて、優しい風が吹いていた。高村光太郎のお墓に行くと、同じに敷地に、光雲のお墓と、智恵子のお墓があった。一緒に、静かに眠っていた。
東京には空がないと言っていたけれど、光太郎と智恵子のお墓の上には、綺麗な広い空が広がっていて、なんだか泣けてきた。よかったね、よかったねと心の中で繰り返した。ずっとここに一緒にいたんなら、さみしくないや。
岩手に行く用事ができたので、同行人に「私は花巻に行きたいです」と言い、レンタカーを借りて高速を飛ばして花巻市に向かった。宮沢賢治記念館の後に、高村光太郎記念館に行った。光太郎は東京生まれ東京育ちだけれど、晩年は花巻で過ごした。記念館は岩手県にある。智恵子が福島出身だから、東北に対してある程度の気持ちがあったのかもしれないが、史実的に彼は、戦争賛美の詩を量産してしまったことに対する懺悔の思いで都会を離れている。
彼は晩年に花巻の簡素な家で暮らしていたことは知っていたが、実際にその家を見てみるとなんかもう、ボロボロだった。簡素というのは実に美化した言い方で、正しく言うならボロ家である。実際、花巻にある光太郎の家を見にきた彼の知り合いなんかはこの家を見て、「これは……へぇ、たいそうな家で…」なんて反応をしたらしい。
この家に2人が住んだことはなく、晩年の光太郎はずっと一人暮らしなのだが、そうやって知り合いが来て、一人で寂しくないかと尋ねられると、「寂しくありません。ここには智恵子がいますから」と答えていたらしい。智恵子展望台というのがあって、山を登ると花巻の街が見下ろせる。そこで星空の下、光太郎は智恵子の名前を叫んでいたというエピソードも残っている。
中学生のころ、塾の方針で半ば無理やり暗記させられたあのレモン哀歌は、私の胸の奥でずっと鳴り響いていて、それは大人になっても忘れられず、事あるごとに私は彼を思い出し、彼のことを考え、気づけば高村光太郎にまつわる主要な名所はほぼ制覇してしまっていた。
私が本学に来たのも、彼らに呼ばれたからなのかもしれない。高村智恵子は本学出身である。青踏の表紙を智恵子が描くこともあった。成瀬記念講堂には、高村光太郎が彫った成瀬先生の胸像が飾られている。
自分がずっと好きだった詩人が少しでも関わっている大学にいることが嬉しい。中学生の頃に彼に興味を持ったおかげで、大学生の私は堂々と本学に通えている。本学にいることを誇りに思えるのは、彼のおかげだ。
僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる。
ああ、その通りである。