≒03:30

ご無沙汰しております、みちるです。

眠れない夜が続くんです。

「対面授業も増えてきたんだ、生活を整えなくては駄目だね」

左様。
二限の開始に間に合わないかも知れない、そんな恐怖はいつだって馬鹿にできない。もう「乗り換えでスーパープレイを発揮した場合に限り遅刻を免れるだろう」なんて予測を立てながら冷や汗を拭う地下鉄の30分間を反覆するのは御免だ。

というわけでやっと『眠られぬ夜のために』(岩波)を買いました。
というわけで、ではない。重々承知しておりますが。藁にもすがる思いで、ヒルティにもすがる思いで、いいやヒルティは藁でないのですが。加えてえらく正直に”眠られぬ夜”を思索の時に充ててはますます眠れなくなるのでは?
いやいや、眠たいことを言っていないで――

(間奏)

「実在の絶対的レベルがを再び見いだそうとすることが不可能であるのは、幻想を演出するのが不可能であるのとまったく同じ次元の事柄だ。幻想はもやは有り得ない、なぜなら実在がもはや有り得ないからだ。これがパロディー、ハイパーシミュレーション、あるいは攻撃的シミュレーションに問われる政治問題の全てだ。」※1

コーヒーに注がれた少量のミルクは、一瞬にしてすべてを台無しにしてしまう。あの底なしの黒さを殺すには、たった一滴のミルクの渦巻きで十分なのである。そしてすべてはコーヒーと同じ運命をたどる。真実も、人間自身でさえ。

ただ、固有名詞だけが、シニフィアンだけが、形容することによって形容することが出来なくなるこのものだけが、こうしたものから遁れられる。しかしそれは残りでしかない。それは実在とイコンの関係がたどる螺旋の終着点だ。そこには均質的な空間と、そこに転がる様々な残りしかない。
――「ない」と言ったことは何たる誤謬だろう、そこではもう存在論すら不可能なのだ。

例えばコーヒーのカップを指で掴み、口元まで持っていって啜る。それは「投企」という仕方で理解され得るが、これも何か――例えば走る、という動作の――一つのアナロジーでしかない。存在論が不可能なのは、形而上学がそれに先立つからではなく、もはや「ある」ということもメタファーだからだ。

もはや何も「ある」とは言えない。それでも、今目の前にコーヒーのカップが見えるのは、一体なぜなのか。ただ漠とした現実だけが、  。ただ、  。空白を埋めることはもうできない。空白が文章を不完全にし、「残り」にする。あったものが、台無しになっていく。もはやそれを止めることも、それに抗うこともできない。
指の間から零れ落ちるミルクが、振動しながら広がっていく。

(間奏)

【「みちる」が私を参照しなくなる日はくるのかしら。】

「眠たいことを言っていないで、はやく眠りたまえよ」

眠られぬ夜のためのボードリヤールなんて、ご勘弁願いたい。
ただ何となく一章だけでも繙いてやるかという気持がした…ヒルティと彼の遺影、もとい二冊の袖に鎮座する”著者の写真”を枕元に並べて。

明日は10時50分。うまくやるのよ?と。

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

※1:著/ボードリヤール、訳/竹原あき子『シミュラークルとシミュレーション』P28(法政大学出版局、1984年)