ご無沙汰しております、みちるです。
音楽を聴く。人から勧められたアルバムをサブスク上で探すとき、決して胸が高鳴るわけではないというほどの期待を込める。
文章を書く。ブログ部の更新も滞りがちだし、某誌に掲載されるものの第二稿を戻さねばならない、それに卒業研究と夏期課題も、それぞれ着々と推進させなければ。
映画を観る。長編アニメを一気に見るより体力を使う映画などそうそうありはしないものだが、劇場へ足を運ぶという工程が、一人の自分を疲れさせる。
摂取して全身から吐き出す、摂取して全身から吐き出す、この繰り返し。長期休みは人を機械にするのかと思われるが、しかし私にはやるべきことをこなす時間が必要だ。
(間奏)
二週間ほど前、SNSで見知らぬアカウントからのフォロー通知がきた。ハンドルネームとID、そして一人の共通のフォロワーを見て、はてさてこれは一体どこの誰なんだとしばらく考える。全く知らない他人が私に興味を持ってやってきた可能性は普段であればそれなりにあるのだが、そのアカウントと私との共通のフォロワーは私が昨年から現実で付き合いを持っている顔の広い友人であったので、彼の知人の誰かであることは間違いないだろう。
――こう考える間にも、私の中に一つの答えが出ていた。上の条件に当てはまる友人で、確かにIDも彼のあだ名をもじったようなものに見える。そしてアイコンや発信の内容・温度、自己紹介のbio、様々な事項に照らせば、やはり彼ではないかと思われた。
私が彼を「見つける」のは二度目だった。一度目は鴨川の騒ぎの中で、そして今再び。
IDに組み込まれていたあだ名は私たちが呼んでいたものだったが、他の誰かだって同じように呼んだかもしれなかった。私だけが何をわかっただろう。前も、今も、彼の思いが少しでもわかっただろうか。
彼はただひたすらに見つめるだけの「大きな眼」になりたいと、そう書いたことがあった。こっそり一人で喧噪の場を離れ、静かに眺める者でありたいのかもしれない。ただ私に言わせればその傾きの向かう先はおそらく見ることからも離れた「眼」であり、その像は彼の目論見とはまた異なるものなのではないだろうか。
このように詮索した後で何かしら疑問が晴れるようなことはない。私と彼はそういう間柄で、つまり親友でもなければ日常的に連絡を取るでもない、日ごろは殆どまったくの他人、しかしそれでも私にとっては貴重な相手だ。だから私は知りたかった、神出鬼没の彼と謎のアカウントが果たして結びつくかと。
意を決し連絡を取ってみると、そのアカウントはあっけなく彼本人であるとわかった。
不思議なものであれだけの要素が揃っていながら当人に聞くまでは「本当に彼だろうか」と疑っていたのに、「そうです」と返されてすぐに「やっぱりそうか」と得意げに思う。
彼は大学を出て、現在は東海の大学院へ通っているはずだった。
「今どこにいるの」
学校の話でも聞くつもりでそう送ると、
「利尻」
と返してきたから大笑いしてしまった。じっとしていられないのかと思う反面、やはり私は彼のそういうところを尊敬して羨んでいた。
人は誰しも、どうしようもなく遠くへ行きたいと願うことがある。自分を知る者が誰もいないところへ行って、解放されたい。それだけではないはずだ、しかしそれだけだと思ってしまう。彼はただ遠くへ行くというそれ自体を目的とした営為によって、際限なく見える若いエネルギーと故郷を持たない者の精神を表現してみせる、そんなわざとらしい意識もないままにやってみせる。昔から私も似たようなことを試みて、周りの人間よりは幾分か遠くに行ったものだが、思えばそれでも東京、関東、そこいらに鎖で繋がれているようなものであった。私はどこへだって行けるはずで、それでもどこへも行けるようにという可能を求めては動かなかった。だから彼の身軽さを羨ましく思うし、そのまなざしが非常に情けない。
私はTHE YELLOW MONKEYの「楽園」を思いだす。利尻島から道央へと向かってくる彼の旅を忘れて、今度は自分の旅を始めたい。私の煙草はメンソールじゃないし連れていく猫もいないが、それは私の行くことが出来る範囲とは関係がない。
どこかへいってしまいたい、という投げやりな仕方ではなく、どこかへ行くのだ。勝手に。
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる
