役に立たない高校生へのアドバイス集

ありがたいことにオープンキャンパス委員にさせていただいて、この間初めて参加してきました。

内部生なので本当に受験に対して知識がないのですが…。

なので全く役立たずのまま終わってしまいました。ちょっとこれはせっかくの立場をもらっているのに悪すぎます。

次回以降はちゃんと聞かれたら答えられるようにまとめておきたい!ということで今回は私が思う「日本文学科に入学して3年、これはやっておけば良かった/これはやるな!」集です。改めて考えてみても、私が答えられるものというと入学が決まってからの話だけなので、こうなりました。これだけの内容ですが、この通り何も物事を知らないほら吹きバカ学生が書いているので、本気にはしないように…。

〜入学時の私の簡単な学業レベル紹介〜

・思春期らしく漢字テストに反感を持ち、毎回再試験に追われる

・現代文法/古典文法ともに苦手、テストは捨てていた。勘で現代語訳をする変な癖がつく。

・近代文学と漢文のみ興味を持つ

・高校2年時英語が最低評価、理系も底辺に近い。しかし第1志望は定員が多く志望者が非常に少ない学科なため、余裕で入学

やっておけば良かったこと1-3位

1位 文法

これに勝るものはありません。全国の皆さん、特に解いたらその場で忘れるような方、他の暗記物は捨てていいので文法はきちんと学びましょう。文学部志望の人は〇行〇〇活用とかすぐに答えられるレベルだとベストだと思います。文法が出来なくて何が困るかというと、授業中の問いかけだとか、うちだと必修科目のテストとかもあるのですが、何よりレポートや論文で現代語訳をするときに困ります。正しくやらないとダメなので、詰みます。

他の人は使い方だけでも覚えて、勘で答えられるレベルになれば大丈夫だと思います。

2位 便覧に出てくるような古典作品を読む

これは合格後で大丈夫。でも、入学後焦って読んでも何も身につかない。附属生はどうせ受かるから今のうちから読んでおくといいよ。

今の大河に登場してくる、紫式部や清少納言など、今に至るような作品書いているような人は当時のインテリオタクしかいません。桐壺といえば長恨歌、香炉峰の雪は簾を高く、と必ずどこかで当時の教養として流行していた前時代の文学が出てきます。この程度なら全然マシなんですけれど、ハッキリそれと書いてなくても、構成や展開やセリフが実は『〇〇』のパロディだった!ということがあります。最初は謎解き感覚で面白いですが、だんだん自己不信になってきます。近代文学は日本の古典にプラス、西洋の古典作品からの引用も入ってくるのでそっちの方が地獄です。自分のためにも下に、今学んでいて読んでおけば/読んでいて良かったもの「個人的」ランキングは書いておきますが、中国古典から暇さえあれば満遍なく全部読むべきだったなと思っています。

☆これだけは目を通しておくと楽だと思ったもの

・白氏文集

・伊勢物語

・古今和歌集

・太平記

☆特に読んでおいて/読んでおけば良かったなと思うもの

・孔子とか中国思想系

・古事記

・万葉集

・日本霊異記

・和漢朗詠集

・今昔物語集

・平家物語

・聖書

・シェークスピアとゲーテの色々

★余力があれば

・大和物語

・住吉物語

・四鏡

・新古今和歌集

・曽我物語

★さらに余力があれば

・枕草子

・土佐日記

・梁塵秘抄

・徒然草

・方丈記

・千載和歌集

・催馬楽/謡曲/狂言/歌舞伎/浄瑠璃/落語の有名作品。新編集に載っているもの。(実際に観るのがベスト)

・浮雲

・蒲団

✴︎ただのおすすめ(近代)

・様々なる意匠

・『敗北』の文学

・日本近代文学の起源

✳︎私には無理だった

・源氏物語全巻

源氏とか特に擦られまくっているから、できれば全部納得いくまで読みたいけれど、本当に時間がかかる。まずは原文で読めと言われるけれど、絶対に途中で投げ出すので、自覚がある人は『あさきゆめみし』などで概要を知るぐらいで良いと思います。本文を読むのは他のを読んでから手をつけた方が良い。

3位 歴史

日本文学志望なら日本史、西洋文学志望なら世界史を選択することが多いのでしょうけども、正直日本人として日本人の歩みと歴史的立ち位置は知っておくべきです。つまり本来は日本史も世界史も、両方とも捨てるべきではない。

というのはさておき、日本文学および日本文化を知るには対象が生まれた時代背景をよ〜〜く知っておくべきです。細かいことまでとは言いませんが、この時代は誰の治世でどんな事件が起こっていたかぐらいは知っておく必要があります。これはイギリス文化専攻にしろ中国文化専攻にしろ何にしろ同じです。そして、4年後何を研究対象にしているかなんてわかりませんから、進む先が決まったのなら、満遍なく対象が存在する国の歴史的知識を得ておくと後々楽だと思います。国立博物館に通うのはかなりおすすめ。

殿堂入り 他言語(英語)

国の機関でありながら国語を捨てて英語教育に力を入れようとしている教育機関のことは、外国から密輸されてきたサルが運営しているんじゃないかと思っていますが、それとは別に、英語は世界の共通語ですので英検2級ぐらいのレベルはキープしておくと後々楽に物事が進みます。就職の話。

これはやるな!1-3位

1位 勘で現代語訳

やらないと思いますが、本当にやるな!いちいち調べて正しく翻訳する癖をつけてください。

98%は当たるとかそういう問題じゃないです、古典を読むなら原文と専門家が書いた現代語訳がついている本で読みなさい。文法身についていない人が安いからと言って現代語訳がついていないものを買うんじゃありません。図書館に通って新編集を読む方が良いです。

2位 古い論文を読む

大抵間違ってます。今の時代、吉田兼好と言うものならコンクリ詰めにされますよ。

3位 本を1から全て読むこと

ぶっ叩かれると思いますけど、時間がない若者にはやっぱりこれ。本って1冊長いじゃないですか。飽きるし、コスパ悪い。読み飛ばしても良いから、とにかく知ってるエピソードを増やした方がいいと私は思います。本1冊に対して原稿用紙10枚ぐらい感想をかけるぐらい、じっくり読むのが好きな人は否定しない、どんどんやってくださいだけれども、正直、全ての本をじっくり読む必要はない!じっくり読んだところで歳取らないとわからないのもたくさんあるし…。3-5行ぐらいすっ飛ばしながらでも、あらすじを知り、そういう世界があるんだってことを知り、そこから何らかの学びがあったり、この人何が言いたいのかわからないなと思ったり、知らない語彙が出てきたらその時点で価格の10倍は得していると思っています。

まとめ

とりあえず本を読むことをおすすめします!本以外にも高校生のうちから映画や舞台など、幅広い分野で知見を得るべきです。1番手っ取り早く、図書館に行けばタダで済むのでとりあえず本です。

これは文系理系関係なく、また中高や大学に進学するかしないかも関係なく、全員がその姿勢を持つべきだと思っています。それに気づくスピードが早ければ早いほどいいってだけです。高校生は早いですよ、少なくとも私よりは。少しだけでも嗜んでいると、人生楽しくなるっぽいですよ、共に楽しみましょう!

本日読みたい本

『プラダを着た悪魔』 ローレン・ワイズバーガー著 ハヤカワ文庫

この映画はおそらく、かなりの人間が観ている名作だと思うし、まだ観てなくとも、現代を生きる女性なら必ず一度は観ておくべきなんじゃないかと思う。

仕事、恋愛、その他の人間関係。どうやって自分なりに両立していくか。マイスタイルはどうやって築き上げていくのか。

形は人それぞれだが、情報が錯綜する現代を生きる私たちは、常に自分だけのスタイルを磨いていき、それに基づいた行動決定をしていかなければならない。

できること

ごきげんよう。まだまだまだまだレポートに泣いているあやめでございます。

なかなか上手に進められず、母には効率の悪さを指摘されてしまいしょんぼりしておりますが、なんとかやっております。が、私は大層いじけたので、ここでは、できないことばかりではなく、できることを書いていこう、という気持ちでおります。私のことを知るいいチャンスですね。あるいは?

地球儀

地球儀をはじめてもらったのは、おじいちゃんに社会の授業が始まったことを嬉々として報告した時だったとおもう。おじいちゃんは特に何も言わずに立派な地球儀を送ってきて、何も知らされていない私は不意のプレゼントにワクワクしながらおじいちゃんからのお届け物の包みを無駄に丁寧に丁寧に剥がしたものである。小学3年生の私には、持つのに苦労する重量感の、持て余す地球儀は、届いたばかりは私が、また弟妹が毎日クルクル回して眺めて、日本はここ、アメリカはここ、イギリスはここ…このグルジア、という国はなんだ?地図だと「ジョージア」になっているぞ?どういうことだ??間違いか??などと遊んだものの、ものの数日で飽きて、それから置き場にも困り、かさばる立体の地球儀ではなく、持ち運びにも保管にも都合のいい平面の世界地図のほうばかり頼って、徐々に部屋の隅へ隅へ追いやられていった。埃をかぶって、私のあの憧れの気持ちも埃をかぶっているようにみえた。年末の大掃除の時だけ、チラッと撫でるように埃をとってやるが、その習慣ももう、中学卒業のタイミングで使わないからと箱にしまって以降、無くなってしまった。

先日、一人暮らしをするんだ、と決意して、持ち物を整理しているときに、箱を開けてはしまい、箱を開けては出して整理して、またしまい、を繰り返すと、ある箱の中から、貰った時と同じくらいヒョイと、その地球儀が私の目の前に現れた。思いがけない再会を果たした、懐かしい地球儀は、今持っても(地球儀にしては)重たく感じた。憧れの重み。地球儀はなにも変わらずクルクル回るだけだった。

小学生の私には一つの仮定があった。この地球儀の中にも人が住んでいるのかもしれない。この地球儀、という地球には、私の住む地球と全く同じ世界が展開していて、その世界にも当たり前に地球儀が存在するのだ。そしてその「地球儀のなかの地球」にある地球儀も、我が地球と同じく無数に存在するのだ。その全てにまた、小さな地球が存在して…とどんどん小さな世界が繋がっているのではないかしら。そして、我が地球もまた、誰か大きな世界の人の一地球儀に過ぎないのではないかしらん。私は大きな人の部屋の机の上で、しゃんと立っている地球儀のなかの、ちいさな人なのかもしれない。そう思って、うっとりと、クルクルしたのだ。

私はこの地球儀を、新居へ持っていくことにした。家族は誰も欲しがらなかったどころか、新居へ地球儀を大事に持っていく私を笑った。私も照れ隠しのために笑った。

水の匂いを嗅ぎ分けることができる。雨が降りそうな匂い、川の水の匂い、水道水の匂い、雨が降った後の匂い、水たまりの(あまりきれいではない)水の匂い。以前に私は青が好きな話を、わりと何度もした気がするが、水も好きなんだな、と思っている。

描出

物語をかこう!と思ったのに、会話文がうまく「生成」できなくて、いつも頓挫してしまう。それでいつも、随筆・エッセイか、もはや詩(それもなんだか、「ポエム」的になる)のような体になってしまう。毎回「この作品は私の中では物語(フィクション)です」と注釈をつけるのも、なんだな興醒めでおせっかいな気がするので、それもできないでいる。いちいち分かっていることを、何度もうるさく言ってくるのは私のすごく嫌なことの一つであるから、私があなたにそれを強要するのが、本当に心苦しく思う。そもそも私がここでおはなしすることは、どれも私の本当の姿、本音ではなくて、脳内の小さい私の訴えを聞いて、ふむ、なるほど?と思いながら、伝聞の気持ちでしたためているものである。コップにかろうじてはまったが、底に落ちないで浮いている氷が、室温で少しずつとけて、水になって、ガラスのそのコップに溜まっていく、私はそれを写しとっているだけ、観察者に過ぎない、そんな気持ちで書いている。ただ、それが前面に押し出されて、私は観察者です!と大声で主張するのは、ガラスのコップと氷ととけた水には関係しないので、黙っていようとおもう。それなのに、ここに書かれていることが観察者フィルターを通したに過ぎない、ただの観察であることは伝わっているのか、隠している筈の私が1番心配になって、気になってしまう。小さな私は雄弁で、普段は言ってはいけないようなことも訴えかけて、憤慨、あるいは狂喜している。みいみい、小さな声で、小さいなりに怒鳴るように訴える。その訴えは本当は、大きな氷、なんて綺麗なものではない。もっと、混じり気の多い、歪な形の、毒々しい、ただのエゴ(「これは私のエゴです」という表現を私は好かない。言葉はそもそも自分本位でしか吐けない、あるいは人間はエゴにしかなれない、という私の哲学、美学がそうさせるのだと思う。もちろん強要したいわけでも「布教」したいわけでもないので、「※個人の感想です。」にすぎないけれど、注釈をつけるつもりで、このことも書いてみました。が、今回は特に「エゴ(利己主義)」的であったため、(これも私の中の小さな人が嫌がる声を聴きながらあえて)この表現を採ろうと思う、こんな考え方はやはりエゴ)だろう。それを、いかに綺麗らしく映し出せるか、それは私の力量によるのだとおもう。私はまだまだ力不足なので、うまくきれいにうつせないでいる。だから「ポエム」な苦しさと未熟さが出るのかもしれない。

現実

驚くほど、現実感がないまま、ここまで生きてきた。いつも「天然」ではなく「不思議ちゃん」と呼ばれてきたのだが、まわりから見てもそうならば、おそらく現実感のなさは、私の感覚だけではなく、思考の面にまで及んでいるらしい。不思議ちゃんといえば、まだ優しい言い方なのだろうが、要するに外れた、ということなのではないか、と思って、浮世離れしたままかなしんでいる。雲の上で霞をたべていれば、かなしむこともないのかもしれない。庵でもこさえて、質素な隠居暮らしを、仕事に就いたこともないのに、したいと思う。これは甘えだろう。大きな世界に出ていくのが怖いから、こう思うのだと思う。

さて、現実感であるが、いつまでも養えないままここまできてしまった。危機感を抱いている。いつまでもふわふわやさしいせかいに籠る訳にもいかない。が、なぜか残念ながら、理解もできなければ興味も一向に湧きそうにもない。ここでやはり「現実感のなさ」を再確認する。そういえば昔から痛みに鈍い気がする。やっと感じた痛みも、我慢して耐えて耐えてうずくまって、なかったことにしてきた気がする。体が発信するSOSを何度も黙殺して、平気なフリをして自分を痛めつけてきたのかもしれない、とうそ寒い気がしてくる。そのクセが功を奏して、私の意見は霧散したのかもしれない。あるいは、感じたことは「なかったことに」されるものだと、私の中でとっくの昔に変換されてしまって、やりたいことは(本当はいくつかあるのに)無いものとされてしまって、気づかなくなってしまったのかもしれない。確かに私は、「描出」のところで書いたように、小さな私の訴えを、聞いたり聞かなかったり、黙殺したりしている。

また、小さな私が使っている言語が、どうやらふつうの日本語ではなさそうなことに、最近気が付いた。もちろん、頭のなかで考え事をするときにきちんとした文法じゃない、ぐちゃぐちゃのままでやっている、ということはよくあることだと思うので、つまり私もその一種だと思っていただきたいのだが、問題は私自身がそれを「通訳」して外の世界に発信している、ということにある。だから、本音を言う(小さな)私と、それを通訳して発信する私、それから多分、それを検閲する私がいることになる。世の中的に、それをいうのはどうなのか……?という理性のパート。こうして、私にもいろいろ種類がありますから、「本当の自分」とははてどれのことなのか、忘れてしまうのです。そんな面倒な手順を踏むから、私は現実味に欠けるのだと、靄の中で思っています。あなたは見つけられるでしょうか。

眠気

ねむい。

ねむい、という感覚は、おそらく頭をもたげさせる大きな力をもっている。甘くて優しい眠気が襲って、脳天からつまさきにむかって包み込んでくる。眠い、とはやさしいかおをした、美男か美女か、であるとおもう。あなたのりそうの(おうじさま・おひめさま)。眠気に溺れる。目が開かない。現に今私は眠気と闘いながらこの文章を書いている。気が狂いそうである。ねむい。