レイナルド・アレナスにはまっています。
アレナスは『夜明け前のセレスティーノ』で弱冠二十歳にしてデビューし、その後『めくるめく世界』『白いスカンクどもの館』などを著したキューバの作家で、反スターリン・反カストロでした(たぶん)(よくわからないしあんまりわかりたくはない)。思想犯として収監されたのちにアメリカへ亡命し、エイズの合併症に罹患したことを嘆いて服薬自殺しました。
遺作となった自伝『夜になるまえに』はハビエル・バルデム主演で映画化されていますが、本書において外すことのできないテーマである噎せ返るような同性エロティシズムが、仕方がないことだとは思いますが(あれ全部映してたらゲイ向けブルーフィルムになりおる)、ずいぶん減っているのでやはり本で読んだほうが良いように思われます。
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あとジョジョの奇妙な冒険(四部)を読んだ! 面白い面白いって言われてたけど本当に面白かった!
もし手塚治虫にこれを読ませることができたなら荒木飛呂彦にものすごい皮肉言いそうだなって思いました(手塚さまは面白い漫画家に嫉妬しまくるし対抗意識燃やしまくっていたということで有名)
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京王百貨店の駅弁大会に行っ
てないけど親に買ってきてもらいました。
テスト前にそんな悠長なところに行けるものか!
そしてブログも短めですごめんなさい。テスト前だからね!!
炙りサーモンいくら寿司弁当とてもおいしかったです。
白身魚の刺身か何かにドゥルドゥルした餡かけ状のもの、いわば
松前漬けの昆布だけ取り出したかのような形状のものをかける弁当が
これまで食べたなかで一番おいしかったんだけど完全に詳細忘れた。
地方も食材も完全に忘れた。悲しいことです。いったい何者なんだ。
駅弁と言えば牛肉どまんなかですが、あいつだめ。
すごくおいしいけど駅弁大会じゃなくても米沢じゃなくても
いつでもどこでも売ってくるその魂が天晴れながら気にくわん。
でもほんと美味。肉もさることながら里芋がいいんだなこれが
先々週あたりは伊勢丹で京都展だったかな?
人生通してきななにいくら貢いだか忘れましたが、
さすがにもう飛びつくほどではないですね。
しかしやはりあのきなこアイスには抗えないものがあるね。
京都展・北海道展・イタリア展・駅弁大会
これがある限り新宿における百貨店巡りはやめられません。
古書展も楽しいけどあれは似たようなの結構あるからな……
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課題のために映画『FATHERLAND』(ケン・ローチ監督)を鑑賞しました。
面白かった。思想的に賛同するかは微妙だがメッセージ性のある作品は良い。
あともっとドイツについて勉強しても良さそうだと思いました。
日本文学に絡められない限りはただの趣味だがな。趣味が勉強ってEじゃん?
私が好きなそのへんのドイツの(というかナチの)話はあるんだけど
やたらヒトラー贔屓とか言われている類なので紹介するのはよそう……
とりあえずファウストとワーグナーはおさえておこうね皆さまがたよ
なお我が思想上の適当さは(近年つとに)半端じゃないから
逆さ吊りにして振ったところで何も出ないわよ カラカラと音のするだけよ
おめでとうござい
ますらお
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前と後にサーと言え
何かここ最近は特に新しく読んだ本もないし新しく観た映画もないんですけど別に新しいものばかりを知ることが命の意味ではないと思っていますのでもちろん別に問題はないといえます。有意義か否かということであれば無意義に寄るかもしれませんが、既に愛して今も愛して今後も愛するもののなかに停滞して穏やかに過ごすことの心地よさは大変に乙なる美酒の味わいであると思います。同じ本ばっかり読むし同じ映画ばっかり見るけどそれをしているときの充足感といったらあたかも隠居したあとであるかのようではないか? そうでもないか? だけど私はそうだと思うの。
たとえばそれはゲバ棒とヘルメット。暴徒たちの足音。埃。首に巻き付けたタオル、セーターとジーパンに身を包んだ化粧っ気のない娘たち……もちろん私にそういう思い出はありませんけど、そういういかにも時代的なものを思い出せることは羨ましいですね。実際にやっていたころは情熱に満ちていたにしても、情熱に満ちていた時代を思い出すときの心は情熱ではないものによって満たされている。激しくはないが冷たくもないものによって満たされている。ひっそりとあたたかである。さういふ齢を私はとりたひ。
なんで例に学生運動が出てきたかというと『実録・あさま山荘への道程』でメガホンをとっていたあの若松監督が亡くなったからです。結構前になりますが……ご冥福をお祈り申し上げます。
正直好きかどうかといったら「(『ファウストの悲劇』のプログラムを読んだときの開口一番が)ちょっと! 若松のやつが何でここにいるの!」という感じだったのですが、あの日の舞台挨拶で確かに私の前にいた方が、今はもうおられないのかと思うと、言葉にするべきか否かちょっくら迷いたくなるような思いが胸に湧き出します。心よりご冥福をお祈り申し上げます
私にはあの闘争の日々の思い出こそありませんが、学生服のままシアトル新宿へあの映画を見に行ったことは少なくとも私の若いころの思い出になりました。楽しかったよ~という感想でいい映画かどうかはわからんがほんとうに楽しかったし多分死ぬまで忘れないよ~ あの映画自体はもう二度と見たくないけどそう思わせるだけのパワーを持つことは若松の想定の範囲内でしょうから、この程度の失礼はお許しくださると信じておるよ。
若松は三島由紀夫の映画も撮っているので日文の子は観てるかもしれませんね
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ナインペタン
今日は日文科の(あるいはブログ部の)先生のご厚意から能楽を観る機会を得たよ。
演目は『鞍馬参り』と『松山天狗』だったよ。
かつて花のみやこから遠流の刑に処されてしまい、会いに来てくれるものといえば天狗ばかりであったという崇徳院の霊が、こんにち(仁安時代(1166-1168)なので、崇徳院崩御の二~四年後ね)となってようやく訪れてくれた西行法師の慰めを喜んで、その礼にと舞いを披露するも、舞っているなかでかつての苦しみを思い出して半ば怨霊のごとく性を変え、雷を落としたり嵐を招いたりの大盤振る舞いを為すが、そこに現れたかつての友である天狗・相模坊の慰めにより、その怒りと狂乱をおさめて晴れやかに姿を消す……
みたいな感じ。
というとさも穏やかな終幕であるかのようだが、実際この天狗の慰めというのは「あなたに楯突いた者たちをきっと蹴り殺して来てさしあげますから、どうぞご機嫌を直してくださいましな」という感じのことを言っていたので何ともはや。ここで相模坊が「やめて崇徳院! 昔の優しかった(かどうかは知らないけど)あなたに戻って!」とかなんか特撮怪獣映画のヒロインが言いそうな雰囲気のことを叫んでいれば、あるいは口さえ利かなければどうであったか。仮にそうであれば、かつて唯一みずからを支えてくれた友の姿に正気を取り戻して消えてゆく……という、やや陳腐ではあるかもしれないが心温まるハッピーエンドが待っていたのではないか。
ところがどっこいこの作者ときたら敢えてそのようには終わらせず、この天災のごとく激しい文言をスタンバらせているのである。この文言によって慰められる(←可能)崇徳院の御心、慰められる(←受け身)ことができてしまう崇徳院の御心の荒涼たる有り様を思うと、最後そのお怒りをおおさめになるシーンの何と悲痛であることよ。
人が死んでしまうということの何が悲しいかといえば、その地点を最後として、いっさい変化することができなくなるところである……というのは別に私が考えたことではありませんけど、いま言わんとしたいのはそこよ 恐らく先述したようなクソ陳腐なリリカルエンドは崇徳院にとってありえないのだ。なぜかというに、彼が死んだその時点・地点において天狗たちは、その存在だけで彼を慰め得るほどのものではなかった(これは天狗たちに及ばぬところがあったというよりは崇徳院サイドの問題っぽい気がする)からである。
などと思いますと、「自分たちは崇徳院にとってそのような認識にすぎなかった」ということをまざまざと突きつけられていながら、なんでこの天狗たちはこうまでして崇徳院を慰めにかかってきてくれてるの? 私が相模坊だったらその突きつけにショック受けておうち帰って泣きながら風呂入って寝て友達の縁ブチ切ってるところだよ……
しかし改めて聞くところによりますと、「白峯に住まう相模坊の天狗とは、すなわち崇徳院自身の化身である」という説があるそうです。つまりあの雷や嵐は天狗に姿を変えただけであり、雷鳴が止み暴風が途絶え、演者がしずしずと姿を消して舞台に静謐が戻ったあとも、崇徳院が下界に仇なすものであることは変わっていないのだろうか。……と思うとなんか暗いね。されどもこの静けさ虚しさ愛しさ寂しさ悲しさ美しさの融和が能の魅力であるといえば、多分その一端くらいは担ってると言えそうね。融和というか万華鏡的な共鳴? 可愛さが増せば悲しさが弥増し、悲しさが増せば恐ろしさが弥増し、恐ろしさが弥増せば……という感じでまた可愛さに戻ってきてループして反響して最後は静寂に立ち返る。水飢饉の水琴窟のようである。
西行の歌を喜ぶ崇徳院は可愛いけどそれだけにかわいそうだったな~
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これまでに習った能のなかでは『野宮』がスキスキスー
静かであるが激しく、穏やかであるが地獄のようです。
ベタどころの話じゃないけど改めて『附子』は面白いよね。幼子が見ても面白い演目があるっていいことよ。未だにおいしいものを食べると「さてもさてもうまいフィナンシェじゃ」とか誰にともなく呟きたくなるほどにDNAへ焼き付いています。
あと落語だけど、じゅげむじゅげむごこうのすりきれ~を全部言えるのがステータスになり得るような小学生社会って最高だったな! と最近よく思います。今でも一応は言えるけど、だから誰に誉められるということもなく、もちろん競ってくれる人もおらなんだ。
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私は自分が酔っぱらっているときの文章が大嫌いだがなぜかブログ担当日のたび飲んでいる。能楽堂帰りにいただいたドイツビールおいしゅうございました。ケストリッツァー!!! 詩人ゲーテが愛したというビール!!! ライプツィヒ(ファウストとメフィストフェレスが最初に連れだって外出したときの目的地)(を含む地方ってだけの話ではあるが)産のビール!!! これを飲まずに何を飲もうというのか。字面だけでも涎が出るようですね。
どうでもいいけど私は酔うと非常に機嫌が良くなります。いま非常に機嫌が良いです。
K
今なんとなく読み直してみたんだけど前のホメエロスの話は少しわかりづらいですね。つまり、「こんな下らないうえにシモいネタを、畏れ多くも文豪の、それも全集を相手にブチかますバカがいるというのだから、この学校わりと居心地よさそうだな~」と思ったことで私は安心したのです。ほかにも何か日本女子大のローカル下ネタがあったら教えて頂けると幸いです。以上、在校生向けの私信でした。ひでえ私信だ……
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先月初頭あたりに世田谷パブリックシアターで『K.ファウスト』を見てきた!
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ぱぱぱぱんげあ
こんばんは! あずみんだよ!
メールから投稿してみます! 前もやったことあったかすら……
今日は一日中お祭り騒ぎで疲労困憊し、そのうえ足腰が立たぬほど飲んでしまい(いちおう学校の面子を慮って説明させていただくとこれは酒量が多かったわけではなく体質と酒種のミスマッチによることである)、お布団から動けない、したがってパソコンに触れられないので、メール更新ができるのはありがたいことです。そしてまた著しい眠気に苛まれてもおりますので、メール更新ができるのはありがたいことです。とか書きながらうっかり寝たので→結局はアルコールの減退を待ってパソコンから書いているので→ここまでの文章あんま意味ないので→読まなくていい
なおバンビ並みにプルプルする足はともかくとしても頭は正気のつもりですが、狂人は己のことをして常人と称するものだとはよく言われることです。私の自意識も然りであります。およそ信用できたものではありません。では一文前・二文前に記述したような自覚(=自意識は信用できない)を持ってさえいればそれは信用されえる自意識たりえるんだろうか? っつったら別にそんなこたないよな……そうそうメンコひっくり返すように白黒はっきりつくもんではないよな……「私が正気ではない」と分かっていても、同時に「私は正気である」と感じているわけなんだものな……。こんなんしちゃだめと分かってっけどDANDAN心惹かれてく不倫のラブみたいなもんよな。違うか
あんまり的を得てない引用
「私と狂人の唯一の違いは、私が狂っていないということだ!」

わが若かりし日の愛用ダリさまマグカップ
それにしてもコギト・エルゴ・スム=「(思惟する)われ思うゆえにわれあり(と思惟する)」の言い返せない感じすごいね(実際はカントやフッサールがバリバリと言い返しているそうですが)。正気の成立や倫理の不在や何かの是非などという曖昧な部分にはいっさい触れず、在るや否やというこのメンコじみた白黒はっきりっぷり(そうです今日はメンコをやって遊んでいました) たまりませんよ。格言(?)となるだけのことはありますね。脳味噌はどのような活動をするにせよ常にみな迷路のなかをさまようが、だからこそこの珍しくもバキッとした発言がグイグイ来るんでしょうね。
しかしあれデカルトまで誰も思いつかんかったん? 漱石の猫がなんかそういう主旨のことを言ってた気がしなくもないが私はあんまりあいつのこと信じてないんでな……結局あいつも猫だしな……。←これを驕り高ぶった人間の増上慢と考えてくだすってもいいけどあれ書いたのは人間だしな……。
***
思考のさいは、シナプスが道を作るのか、
もしくは既に用意されている道のうえをシナプスが従って歩くのか。
シナプスではなくニューロンだったかもしれんけどまあそれ系の脳内物質がですよ。考えるだけ無駄感がありますが。そして「シナプスが作った道をシナプスが従って歩く」ということにすると、まあ確かにそうですよねってことでうまいこと折り合いがつきそうだが、なんかおもしろくないよね。でもまあ確かにそうなんだよ。既存の道ということはその道を作ったのって何だったのって話になるわけでしてそうなるとシナプスの業績であることを認めざるを得ない。
高村光太郎パロディ的に言えばぼくの前に道はある。ぼくのあとにも道がある……ぼくの作った道がある…… 原文と比較した若々しさと清々しさの急激な減退には眩暈すらおぼえますね。つーか高村的道程においては『道半ばに立つ』ということがありえないですね。もし仮に立とうものならばうちゅうのほうそくをみだす凄まじい罪悪のように感ぜられます。
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前回わざわざ次のブログのテーマ(『K.ファウスト』の感想と『ロミオとジュリエット ヴェローナの子供たち』の感想とセイという音のすがすがしさ)を考えてたのに完全にパーだよ。これは酒というよりも熟睡が悪いね。しかし熟睡を招いたのは酒だからあいつも完全なシロだとは言えませんね。とりあえず今月の後半でそれはやろうと思いますがどっちにしろもう公演おわってますね。面白かったよ~~~(自慢ですすみません)
コスモ(ス)
今日は小紋を纏って日女祭の華道を手伝った。
ウィッグは金髪おかっぱでした。山崎バニラか!
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華道の先生(友達のお母さま)に聞いたところによれば、
お花の世界には宇宙がございます。いや茶道にもあるけど。
つか大体の「道」ってつくものには宇宙がある。すげえ。
したがって宇宙の幽冥を徹する華道と
地上の美感を究めるフラワーアレンジメントとは
根本的に目指すところが異なるため、
それらをイコールに翻訳するわけにはいきません。
いったいどうしたものでしょう。
翻訳というと思い出すのが
『ファウスト』(の話しかしてないね最近)です。
第一部の最初のほうでファウストが聖書を翻訳するのですが、
「太初に言有り」という一文に彼は反骨精神を示すのです。
己は「言」というものをそれほど尊重する気になれぬ。
己の精神が正しく活動しているとしたなら、
ここでは別の語を選ばずばなるまいな。
「太初に意ありき」ではどうであろうか。
筆が滑りすぎぬように、
第一行をじっくり考えねばなるまい――
森羅万象を創り出すものは「意」であろうか。
いや「太初に力ありき」としなければなるまい。
だがそう書きながら、すでに何者かが
それでは不十分だと己の耳に囁く。
ああ、どうにかならないか、
そうだ、うまい言葉を思いついた。
こうすればいい。
「太初に行(おこない)ありき」。
という感じで結論を出します。
いやまあ~何ていうかこっちの素直な気持ちとしましてはこういうやつに自分の好きな本の翻訳はあんまし委任したくねえわと思わなくもない(なぜなら聖書のように明確極まりない正典があり、またそれを買い求めて読む人の状況を考えれば、それは書いてあるとおりに訳すべきものであるからだ……現代でやるなら『超訳』とかつける類のものか)(私は超訳ものがあまり好きではありませんのでファウストの行為にこうした名を与えることは本意にあらず)……が、自分にとってのほんとうの意味を追求して言葉を改め、意義を改めるその姿勢は実にたまらんよね。未だ老人の姿でありながらのちの英雄性の片鱗を早くもチラ見させているファウスト博士よ。すばらしい。
つまり、自分のなかでまだ眠っているxなる未知の思想に、aなる既知の何がしかをぶつける。そのことによって「はぁ~それはちがくね???」と思う。そのことによって「xはaではない」と判明することになる。また同様に、bをぶつけることによって「まあ概ね同意であるがこの点については賛同しかねる」と思う。そのことによって「xは概ねbである(が、より正確性は求められる)」と判明することになる。このようにして徐々に正確なxの姿を観測することへと近づいてゆく。つまり、この世の知恵に無駄な摂取はあんまりないよね。
などと思いますと、世のなか悪くないですね。享楽ではなく研鑽と鍛錬に価値を見出すことによって、却って世のなかを優しく感じられるようになるのである。私もその境地に辿り着きたいと切に思ってはおりますが、なかなかどうして難しいものです。踊念仏などという腑抜けた愉快なやりかたがある一方で、滝に打たれるとか焼けた石のうえ裸足で渡るとかいうトチ狂った修行方法を最初に考え出したやつは確実に世間体を気にするタイプの露出系マゾだろうと昔は思っていましたが、今なら彼の気持ちも分かるような気がいたします。ていうか前もこういう話を書いた気がします。書いたよね? どうだっけ? まあ今日また改めて新鮮にそう思ったから書かせていただきますけども……
んで結局フラワーアレンジメントと華道はどう訳せばいいんだろうね。この場合ことに問題なのは華道だ。あの禁欲的で深淵的で近付きがたい雰囲気をどうやって英語に持ち込めばいいか。そもそもそうした概念は共通的に存在するのな? だってあれはもはや言葉そのものが持っている魔性の迫力があると思いませんか。楽師に使い込まれてきた琵琶が百鬼夜行の夜には魔力を帯びて陽気に踊り出すがごとく、人々から長いあいだ気品もて使い込まれてきた言葉が高貴さと魔力を具え始めるのは自然なことではあるまいか。そしてそうしたもの、つまり年季と情念の下敷きを要求される印象をそのまま外国語に換言することができるのか。いま和英辞書を見てみましたがやはり案の定Art of flower arrangement。くそが! そこには宇宙が感じられんわ!
新渡戸稲造はシヴァリーが武士道と言ったけど、あれ正確にはジャパニーズシヴァリーって書かないと辞書的にはただの騎士道って意味になるっぽいし、大して参考にはならなさそうです。うーん。それにつけてもこうして向き合った際に感ぜられるのは「道」という言葉の深さよ。恐らくは中国思想的な印象も混じっていることでしょう。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」……とは高村光太郎の『道程』ですが、この始まりのスタンザのなんと晴れやかで誇らかで光に満ちていることか。名にし負わばいざ詩を詠まん光太郎って感じ。「道」という漢字の示すところと、今回のブログとは関係ありませんが、「セイ」という音の示すところは、ずいぶんと人々に愛され彩られているものだなぁとしばしば思います。
***
ファウストの舞台とロミジュリの舞台に行ってきました。
おもしろかった! 今度話す! でもセイという音の話もしたい……
ーロス
超どうでもいい話(微妙に下ネタ)
附属中学に入学した当時私は大変緊張しており、
割と連日のように図書室へ行っていたのですが、
ふと世界文学全集の背表紙に目が留まりました。
ホ
メ
|
ロ
ス
本来ならばこれが正しい姿です。
しかし心ない生徒によってペンでいたずらされ、
ホ
メ
エ
ロ
ス
こうなっていた。ヒャッホー!!!
おかげで緊張が和らぎ、結果なかなかの青春を過ごせました。
感謝してもしきれません。どうもありがとうございました。
あの落書きはもう何らかの手立てで直されちゃったかなー
それもいささか寂しい話ですが、
かつてここに私を慰めてくれるものがあった、
それが私を慰めようと生じたわけではないにせよ、
実際それによって私は慰められ、癒された。
ということを、他の誰でもなく私が知っているのである……
これよりも素晴らしいことがほかにあろうか? いやない!
しかしそれはそれとして
写メくらい撮っておくべきだったのも確かだ!
***
続きで北村透谷の話をするけど私の知識はまだまだ付け焼き刃です。これからハンダ付けするよ!
でも透谷やってたらストレスのあまり(かな?)髪の毛を引っこ抜きまくる癖ついたから卒論は別の人にしたほうがいいのかもしれん……
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フォーエバートゥエンティーワン
今日はなんだか驚異的なほど書くことがなく困る……
・あさって21才になります。およそ信じがたいことです。
いつまでもあると思うな童の特権。失って初めて分かる大切さ。
どうしようかな~ カラオケで歌う曲でも考えようかな~?
去年は『青春時代』を歌ったんすけどあまり20歳らしくなかった。
『メルモちゃん』あたり歌ったほうがまだふさわしかったようだ。
・私は卒論を『ファウスト』でやりたいと考えているのですが、
独語はまるで分からないし森鷗外ぜんぜん好きじゃない。
でも森鷗外の悪口を言いまくるとものすごくスカッとするし、
他の嫌なことは大体忘れられるので、やっぱ好きなのか?
逆に言えば、好きだと言うとイライラするし嫌なことを思い出す。
だから絶対認めたくはない。私は! あいつが! 嫌い!
でもあいつが戦地から家族に宛ててしたためた手紙は良いね。
良いだけに腹立たしい。あ~りんたろうのバッキャロー
絶対おめーに触れることなく卒論終わらせてやっからな むりかも
ほんと別冊太陽の鷗外特集が面白くてむかつく。にくい。
・恋といえば芥川の恋文で心躍らせるの超楽しいです。
彼の末路を知っているとときめくどころじゃなくなる……
かと思いきや、文章自体が人を悶絶させる力を有しているのか
それほど問題はありませんでした。何度読み返してもたまらない。
恋文ってことは小説より気合入れて書いてるかもしれんわけで
そう思うとすごいよね。あの恋文ひとつで卒論できるんじゃ?
なお私はやらない。文ちやんへの嫉妬の炎で悶絶しかねないからだ。
・夏なのでたまには初心に帰り宮沢賢治をたしなんでいます。
やはり永訣の朝は凄まじい。覚悟のうえで読まねばならない。
『あめゆじとてちてけんじや』だけでも正直割と泣きそうになる。
なんという12文字なんだろうか……恐ろしいほどだ……
最期の言葉(オキシフルをしみこませた脱脂綿で身体を拭きつつ)
「ああ、いい気持ちだ。ああ、いい気持ちだ」
たったこれだけの素朴な言葉もまた一篇の詩のごとし。