帰郷

PCR検査を受けてきた。病院で行っているような検査ではなく、駅や空港で移動客向けに行われているものだ。PCR検査もビジネスと化していて、今日私が検査を受けた検査所を管轄しているグループは、各地で続々と新店舗をオープンさせている。
ぺっと唾を吐く。これだけで、明日には検査結果がメールで送られてくるそうだ。いま陰性だったからと言って、県を跨いだ移動が許される訳ではない。お盆の帰省原則中止という言葉が、テレビから、ラジオから、街頭のスクリーンから、聞こえてくる。

渋谷でのバイトの帰り道、夜10時、緊急事態宣言のさなか、どの飲食店も煌々と輝いていて、店内は沢山の人で溢れ、マスクなしでお酒を飲み交わし、路上でも酌み交わし、そういう雰囲気にびくびくしながら、私は足速に去った。

路傍に犬ながながと呿呻しぬ
われも真似しぬ うらやましさに

バイト先で同世代の人たちに、そんなにコロナのことばっかり気にしてちゃ若さを無駄にするよと言われた。俺は緊急事態宣言中も渋谷で連日飲み歩いたけど一回もコロナにならなかったし。
また別の人は言う。コロナ禍になって分かったことは、行きたい場所には行きたい時に行かないと、何もできないってことだな。来週沖縄行くけど、来る?

大学生活はコロナと共にある。大学一年生の頃からずっと、何をするにもコロナが付き纏ってきた。私は大学生活というものが何なのか、まだ知らない。2年目の夏が、静かに過ぎてゆく。

その昔小学校の柾屋根に
我が投げし鞠 いかにかなりけむ

5月、父から「ボイスレコーダーは持っていった?」というLINEが来た。私は「持っていったよ」と返信した。そして今日また、「ボイスレコーダーは持っていった?」というLINEが来た。私は笑いながら「持っていったよ」と返信する。

父がボイスレコーダーを欲しがる頻度は、地元で話し合いが行われる頻度と一致している。
私は以前、ブログに田んぼの写真を載せた。あの田んぼは、もうじき埋め立てられ、大きなコンクリート製の建物に代わる。「工業団地化計画」が、私の知らないところで推し進められている。住民の理解を得るための話し合いが、2ヶ月に一回ほどあの公民館で行われているのだろう。

来年の夏にはもう家の前の田んぼは見られないかもしれない。私を育ててくれた緑の波を見るのは、今年の夏が最後かもしれない。世の中に、不要不急のものなど一つもないと、言ってみたい。

ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足軽くなり 心重れり

PCR検査の帰りに、あこちゃんが教えてくれたデパ地下の洋菓子屋に寄る。地元には無さそうな洒落たお菓子を買う。実際は地元のデパ地下でも売っていたり、ネット通販で買えたりするんだろうけど、東京から来た私が渡せば、それはお土産になる。消毒済、と書いた紙を熨斗みたいに貼って渡そうか。少し、冗談が過ぎるか。

家に帰って、先程買ったお土産を一人でむしゃむしゃ食べる。スマホを見ると、航空会社からメールが届いている。……下記の内容を解約いたしました。尚、搭乗日前日のキャンセルは払い戻し対象外となっております。

お盆の帰省原則中止という言葉が、テレビから、ラジオから、耳の奥から聞こえてくる。2年目の夏が、静かに過ぎてゆく。

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく

この文章はフィクションです。実際の団体、人物には一切関係がありません。

道の程

中学校の頃通っていた塾では、月に1回、有名な文学作品をひとつ取り上げた、「今月の名文」というプリントが配られていた。名文は1ヶ月の間に暗記させられ、月末にテストされた。

それは島崎藤村の「初恋」を扱った次の月で、塾の先生が「先月はリンゴだったけど今月はレモンでーす」と言いながら配ったプリントから始まった。そこには高村光太郎の「レモン哀歌」が載っていた。

その詩は、中学生の私にとって、とても美しく、幻想的に感じられた。

そのプリントに書かれていた高村光太郎の略年譜を見て、ちょっとだけ彼に興味を持った。

ちょうどそのくらいの時期に、NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組で、高村光太郎が扱われた。愛に生きた詩人として、彼の生い立ち、智恵子との関わり、戦争、その後、全て紹介されていた。

それからしばらく彼のことは忘れていたけれど、高校生になって、電子辞書で近代文学をたくさん読むようになってから、やはり『智恵子抄』は押さえておくべきだと思って読み始めた。

でも、読むと悲しくなってしまう。その頃はもう彼についての知識がある程度あったから、光太郎と智恵子のことを考えて、胸が痛くなった。

高校の図書館で「智恵子の切り絵」という本を借りた。

晩年の智恵子の切り絵、もうほとんど会話すらできない状態だったのに、切り絵だけは上手に出来て、それを光太郎に顔を隠したり照れたりしながら恥ずかしそうな見せていた、あの切り絵が、光太郎の詩と共にまとめられた絵本で、小さな宇宙のような世界が広がる本。

巻末には高村光太郎が智恵子について語った文章が載せられていて、それを読むとまた胸が痛くなるのだけれど、二人の愛に感動する気持ちも生まれる。

その頃米津玄師さんがlemonという曲を出して、紅白で歌われるくらい人気になり、大晦日に初めて私はその歌詞を見て、かなり驚いた。これは、レモン哀歌の影響を受けている。彼は絶対智恵子抄を読んでいる。そう思った。「暗闇であなたの背をなぞった その輪郭を鮮明に覚えている」という二番の歌詞、これは、光太郎が智恵子の背中の黒子まで深く覚えていると言っていた、あの詩である。高村光太郎の詩を感じさせる歌が、街中で流れ、みんなに歌われていることを、私は嬉しく思った。

東京に来て、千駄木を散歩している時、そういえばこの辺りに高村光太郎の旧居跡があるはずだと思い、行ってみた。そこにはただ「高村光太郎旧居跡」という看板があるのみで、それ以外何も残っていなかったけれど、周りはたいそうな高級一軒家が並んでいて、なるほどな、と思ってしまった。もしここにあの黒いアトリエが残っていたら、どんなだったろうか。近くに森鴎外記念館があるのも、なるほど。

巣鴨に住む友達に会いに行く途中、早く着きすぎたので、そういえばこの辺には染井霊園、高村光太郎のお墓がある場所があるなと思い出し、自転車を走らせ向かった。雑司が谷霊園とは違って、開けた土地の小高い丘にたくさんのお墓が並んでいて、優しい風が吹いていた。高村光太郎のお墓に行くと、同じに敷地に、光雲のお墓と、智恵子のお墓があった。一緒に、静かに眠っていた。

東京には空がないと言っていたけれど、光太郎と智恵子のお墓の上には、綺麗な広い空が広がっていて、なんだか泣けてきた。よかったね、よかったねと心の中で繰り返した。ずっとここに一緒にいたんなら、さみしくないや。

岩手に行く用事ができたので、同行人に「私は花巻に行きたいです」と言い、レンタカーを借りて高速を飛ばして花巻市に向かった。宮沢賢治記念館の後に、高村光太郎記念館に行った。光太郎は東京生まれ東京育ちだけれど、晩年は花巻で過ごした。記念館は岩手県にある。智恵子が福島出身だから、東北に対してある程度の気持ちがあったのかもしれないが、史実的に彼は、戦争賛美の詩を量産してしまったことに対する懺悔の思いで都会を離れている。

彼は晩年に花巻の簡素な家で暮らしていたことは知っていたが、実際にその家を見てみるとなんかもう、ボロボロだった。簡素というのは実に美化した言い方で、正しく言うならボロ家である。実際、花巻にある光太郎の家を見にきた彼の知り合いなんかはこの家を見て、「これは……へぇ、たいそうな家で…」なんて反応をしたらしい。

この家に2人が住んだことはなく、晩年の光太郎はずっと一人暮らしなのだが、そうやって知り合いが来て、一人で寂しくないかと尋ねられると、「寂しくありません。ここには智恵子がいますから」と答えていたらしい。智恵子展望台というのがあって、山を登ると花巻の街が見下ろせる。そこで星空の下、光太郎は智恵子の名前を叫んでいたというエピソードも残っている。

中学生のころ、塾の方針で半ば無理やり暗記させられたあのレモン哀歌は、私の胸の奥でずっと鳴り響いていて、それは大人になっても忘れられず、事あるごとに私は彼を思い出し、彼のことを考え、気づけば高村光太郎にまつわる主要な名所はほぼ制覇してしまっていた。

私が本学に来たのも、彼らに呼ばれたからなのかもしれない。高村智恵子は本学出身である。青踏の表紙を智恵子が描くこともあった。成瀬記念講堂には、高村光太郎が彫った成瀬先生の胸像が飾られている。

自分がずっと好きだった詩人が少しでも関わっている大学にいることが嬉しい。中学生の頃に彼に興味を持ったおかげで、大学生の私は堂々と本学に通えている。本学にいることを誇りに思えるのは、彼のおかげだ。

僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる。

ああ、その通りである。

川祭り

小学校の頃に所属していた地域の子供会では、毎年5月5日に「川祭り」というちょっとした行事を公民館で行っていた。まず、みんなで短冊にお願いごとを書く。それを笹の葉にくくりつける。そして男の子がそれを公民館から1km程先にある川に流しに行き、女の子はそんな男の子たちのために美味しい料理を作って待つ。女の子たちが一生懸命に作った料理を、外から帰ってきた男の子がパクパク食べる。食べ終わったら女の子はお皿洗いなどの片付けをして、その間男の子は自由に遊ぶ。男は外で働き、女は家で家事をする、そういう昔ながらの伝統を大事にするためのお祭りです、と地域で一番偉いおじさんが言っていたのを覚えている。こういう行事を、六年間やった。

中学生になったばかり頃、クラスから5人の応援団員を選出しなければならないことになった。その時に先生は、応援団員になれるのは男子のみです、と言った。なんで女の子は応援団員になれないんだろう、と私は思ったが、誰もそれを質問せず、特に先生も女子が応援団員になれない理由も説明せず、そのまま男子が応援団員となった。
学校行事の度に応援団員は学ランを着て熱い応援をしていた。彼らが一番輝くのは体育祭で、伝統ある演舞を披露する彼らは応援する側でありながら体育祭の主役みたいなものだった。
また、生徒会長も暗黙の了解で代々男子生徒が任命されていた。

高校に入ったら、生徒会長は女性だった。その次の年の生徒会長も女性だった。すると高校2年生の時、私の副担任の先生が、最近は女子ばっかり前に出て良くない、やはり学校は男子が引っ張っていかなければ、というような話をした。その先生は私が体調が悪い時になぜ体調が悪いのか親身になって聞いてくださり、月経痛が原因だと告げたら、そうか、とひとこと言って突然職員室に戻って行った、寡黙で優しい方だった。

小中高、特に何も疑問を持たずに生きてきた私は、女子大に入って驚くことが多かった。初めてフェミニズムというものに触れて、私は心から悲しくなった。自分が今まで女性であるというだけで制限されてきたことがたくさんあったのだと知って、絶望した。今まで自分が自分の意思を尊重して選んできたと思われる道は、実は社会の無言の圧力によって選択させられていた道だと知った。知らない方が幸せだったと思った。知ってしまった以上、女性という性に向き合うしかなかった。

自分が決められた制服のスカートをはいて、何事も男子より後に行動していた時、同じ女子大の友達は、スラックスをはいていたり、好きな服で登校していたり、好きなことを性別によって制限されずに行えていたと知り、湧き上がってきたのは強烈な羨望と嫉妬だった。住んでいる地域が違うというだけで、ジェンダーに縛られて生きてきた過去の自分を可哀想に思った。

中学校の頃の同級生に、久しぶりにメッセージを送った。彼女の弟はまだ私の母校の中学校に通っているようだったから、今でも応援団は男子しかなれないの?と質問してみた。
いや、去年から女子もなれるようになったよ、と返信が来た。母校も変わったな、と思っていたらすぐに彼女は弟とのやりとりを送ってきた。弟くんはこんなことを言っていた。

「やっぱり応援団は男子だけの方が良かった…みたいな空気はあった。演舞のキレも男子の方があったし。」

私の地元の、純粋な少年の言葉だった。
やっぱり応援団は男子だけが良かったよね、という空気を母校初の女性応援団員はどう感じとっただろうか。その後詳しく話を聞くと、その女の子は先生の配慮で応援団員を解任され、ブロック長になったらしい。

今までの話は、ひどい、ものなのか。
私にとっては、ふつう、であった。

私はまだ葛藤している。フェミニズムに傾倒すればするほど、ジェンダー論を突き詰めれば突き詰めるほど、私は自分が社会的に弱い立場である女性という性を持って生まれたことを自覚させられる。屈辱。今まで知らず知らずのうちに女性であるせいで出来なかったことがあったことを思い知らされる。事実を知ることは、幸福か。私は何のために、学んでいる。

ジェンダー学の先生に、思いをぶつけてみると、こんな返信が来た。

 フェミズムを知らない方が,このような社会では「楽に生きられた」かもしれませんが、フェミニズムを深く知ることで「良く生きられる」ようになると私は確信しています。

良く生きる。
私は、良く生きるために、学び続ける。
自分が良く生きられる世の中は、誰かも良く生きられる世の中であるだろうか。

元始、女性は太陽であった。いや元始、誰もが太陽であった。女性は女性でなく、男性も男性でなく、人間はただ人間であった。そこに太陽と月の関係も、光と影もなかった。

私の大事な友人たちが、これ以上性別を理由に自分のやりたいことを制限されないように。
社会に惑わされた人々が、これ以上性別を理由に誰かの行動を制限することがないように。
誰もがよく生きられる世の中を作るために、私は、学び続ける。

一日

ごきげんよう、もこです。
生活リズムが知りたい、と最近高校生に言われたので、実家にいた頃と、一人暮らしを始めてからと、それぞれ書いてみます。

朝5時、起きる。6時からバイトを始める。9時まで働いたら、バイト先でおいしいものを買って、朝ごはんをバクバク食べる。朝ごはんは毎日ご飯と味噌汁。それ以外の朝ごはんを食べる日はない。月曜日と木曜日は1限から授業があるので早めに上がって、帰宅後すぐに授業を受ける。それ以外の曜日は、10:30くらいまで寝て、2限から授業を受ける。授業が終わったら、お昼ご飯を食べる。だいたいパン。午後から授業がある日は、頑張って授業を受ける。ない日は、ごろごろする。課題をすることもあるけど、滅多にしない。課題はぎりぎりまでやらない。焦りがないと、いい課題ができないもんで。余裕がないとできない人と、切羽詰まらないとできない人がいると思う。私は後者。夕方になると、犬と外で遊ぶ。家の庭をかけまわる。しかし、私の庭も随分狭くなったもんだ。昔は、あの田んぼもこの田んぼも、全部私の庭だった。あぜ道を駆け回って、いろんな生き物と遊んだ。最近、目が悪くなったのか、おたまじゃくしも見えない。めだかも見えない。小学校の夏の自由研究を思い出した。家の木に引っ付いていたアゲハチョウのさなぎを7つくらい虫かごに入れて、6匹ちょうちょにして放した。みんな綺麗な羽を羽ばたかせて空に飛び立っていった。あのちょうちょたちの子孫は、今年もこの木にくっついてくれるだろうか。わん!と吠えられてハッと現実に戻る。犬がしっぽを振っている。ボールを投げてやったら、勢いよく追いかけていった。生き物は、かわいい。まだ1歳の犬とめいっぱい遊ぶ。ボールを投げて、走り回って、遊び疲れたら家に入る。これがだいたい18時ごろ。スマホをいじって、お風呂に入ると、姉が帰ってくる。これが21時ごろ。そしたらご飯を食べて、テレビを見る。夜も更けてきたら自分の部屋で恋人と電話して、0時をまわって眠くなったら寝る。
これが大学一年生、実家で暮らすもこの一日。

朝7:30、起きる。慌ててゴミを出す。朝8時までに出さないと怒られるのだ。ゴミを出す場所の近くで掃除をしている近所の方に、おはようございます、と挨拶をする。家に帰って、気分が乗れば味噌汁を作る。朝ごはんを食べて、対面授業がある日だったら学校に行く準備をする。そうじゃない日はゆったり授業を受けたり、二度寝をしたりする。だらだらしているとお昼になる。一人の時にお昼ご飯はあんまり食べない。恋人がいるときはそうめんか、近くのパン屋のおいしいパンを食べる。午後になるとまた授業を受ける。授業の後はスマホをいじったり課題をしたりする。そうして18時になった頃に夕飯づくりを始める。冷蔵庫の食材を見て、何を作るか決める。だいたい恋人が手伝ってくれるので、ロールキャベツとか、コロッケとかも作れる。めんどくさい時はチャーハンとか、豚こま肉をステーキにしたやつとか、もっとめんどくさい時はパスタを食べる。そんなこんなで21時になる。お風呂に入って、期限ぎりぎりになった課題を慌ててやって、0時をまわったら寝る。
これが大学二年生、一人暮らしのもこの一日。

文學爱

ごきげんよう、もこです。
日本文学科に来た理由を思い返してみました。


自分が文学の道に進むとはまるっきり思っていなかった。昔から、読書という言葉が苦手だった。大人たちがあんまりにも「本は読んだほうがいい」と口を揃えて言うので、大人に反抗したかった私は本を読んだら負けだと思っていた。実際、現在も読書は趣味ではないし、好きかと聞かれるとそうでもないと答えている。

私がそこまで本に執着しなかったのには一つ大きな理由がある。それは姉の存在だ。姉はとてつもない読書家だった。学校図書館の年間貸し出し数ランキングなどではいつも姉がぶっちぎり1位だったようだ。6歳離れているので詳しくないが、姉の同級生に、姉より読書する人間は一人もいなかったと思う。

そんな姉と比べると、私は全く本を読まない人間だった。あまんきみこ作品にハマったり、はやみねかおる作品を全て読破したり、ハリーポッターシリーズの分厚い本を全巻熱心に読んだり、今思えば人並みかそれ以上には本を読んでいたが、偉大な姉と比べて、私は本嫌いな子供として扱われていた。(中高生になってから、自分よりはるかに読書経験の少ない人間が世の中にたくさんいると知って驚いたものだった。)

私は文学に興味がなかった。むしろ政治や経済にものすごく関心があった。中学生の頃から、早く選挙権が欲しいと言っていた。内閣閣僚の名前をみな覚えていた。将来は大学で政治や経済を学ぼうと思っていた。文学部に行くなんて思ってもいなかった。

私が中学に入ると同時に姉は大学の経済学部に入った。姉が文学部に行かなかったのにはどんな理由があったか忘れた。ただ姉が文学の道に進まなかったことで、自分の文学に対する枷がひとつ外れたのは確かだ。もし姉が文学部に行っていたら、私はいま文学部に来ていなかったと思う。なんとなく私は姉と別の道を進まないといけないのだと昔から思っていたからだ。

姉が経済を学び、経済に挫折していた頃、私は高校生になっていた。私にとって高校の授業はどれもつまらなくて、授業中はとにかく眠かった。あんまり眠ると怒られるので、私は眠気覚ましに電子辞書をいじった。そこで私は辞書に青空文庫が入っているのを見つけた。これはいいと思った。授業中に小説を読んでいても、先生からは電子辞書で調べ物をしているようにしか見えないし、友達も特に注意しない。その日から私は気に入った本を授業中に少しずつ読み進めるようになった。近代文学との出会いである。

近代文学に触れるうちに、私は文学より文豪に興味を持ち始めた。近代の文豪同士の関係性に惹かれ、彼らのことをよく知るために彼らの小説を読む、という感じになった。国語の資料集を読み込んだ。新潮日本文学アルバムには大変お世話になった。高3の夏までには坪内逍遥〜戦後第三の新人あたりまでの近代文学史がきっちり頭に入っていた。

読書量は姉の足元にも及ばなかったが、文学知識は姉を超え始めた。いつからか私は志望学部の欄に文学とばかり書いていた。志望大学の欄には、東京の、文京区付近の大学の名前ばかり書いた。どんどん文学に引き込まれていき、抜け出せなくなっていた。

思えば高校で初めて近代文学に出会ったわけではなくて、中学校の頃に習ったレモン哀歌や一握の砂、もっと遡ればNHK「にほんこであそぼ」で扱われた名文なんかは、昔から私を刺激していた気がする。少しずつ蓄積されていった文学への興味が、高校で一気に開花しただけなのかもしれない。

そんなこんなで完全に文学に進路を狂わされた私は、現在日本文学科で逞しく勉強している。ちなみに日本文学科では一年生の頃に古文を扱う授業が多くあるが、私は古文が得意なタイプの近代文学オタクだったので苦ではなかった。一応高校生の頃に与謝野晶子訳の源氏物語を読んだり、百人一首を全首覚えたり、とりかへばや物語巻一を全部読んだりしていた。こんな私ですから、日本文学科での勉強が、楽しくないはずがない。大学ではずっと趣味を極めている感じ。

本学に来て良かったと思うのは、ここまで近代にハマっている私でも他の時代の文学を研究してみたいと思うくらい面白い講義を、先生方がしてくれることだ。最推しは近代だが、他の時代も別腹で面白い。そもそも授業の進め方が楽しい。高校までのように、本文を読んで漢字の読みを確認して品詞分解をして、なんてことはしない。作者はなぜこの表現を使ったのか、この言葉が暗に意味するものは何か、伝本で表記が変わったのは単なる書き間違いか否か、今までやってきたことのもっと裏側を追求する。これこれ!これをやるためにここに来たんだよ!という感じがしている。

ただ、私は考えるより行動するが得意なので、文学者にはならない。文学が好きな人より、研究が好きな人の方が、向いていると思う。

最近は文学散歩をしている。たくさんの近代文学が生まれた文京区にある大学に行くのが夢だった。夢叶えり。文学をやりたくて東京にまで出てくるのはすごい行動力だと思う。おかげであらゆる文豪に会えた。お墓の前に行くと、今までは遠い存在だった文豪たちが、実際に生きていたことが実感できる。作られた資料館や記念館とは違う、生の彼らを感じられる。その度に、よかったね、と私は過去の自分に言ってあげる。よかったね、苦労して東京に来てよかったね、過去のあなたが必死にもがいたおかげで、未来の私はあなたが大好きな文学に埋もれて過ごしています。

悩める人へ

こんにちは。もこです。

最近マシュマロに、自分の悩みを送ってくださった方がいました。

入学して2ヶ月経った今、毎日予習や課題に追われる日々に辛さを感じている。第一志望の学校ではなかったのでモチベーションもあがらず、世界史選択だったので日本史の知識を前提とされると絶望する。大学での勉強内容に興味が持てず、マイナスなことばかり考えてしまう。けど折角この大学にきたから、なんとか頑張りたい。だから日本文学科の魅力や、課題の乗り切り方を教えてほしい。

大まかにこのようなメッセージが届きました。

Twitterでの回答は、現在作成中です。
それとは別に、私がこの大学に来て、日本文学科に来てよかったなと感じたことを、書こうかと思います。課題の乗り切り方まで書けるか分かりませんが、参考にしていただけたらなと思います。

まず、先程の悩みを見て、ほとんどの日文生が共感したのではないかと思います。メッセージを送ってくださった方だけの悩みでは、ないような気がします。

また、一年生の頃は必須科目が多く、自分がやりたい勉強がしづらくなっています。そして一年生のうちに基礎を定着させるために、大量の課題が出ます。
よほど日本文学好きでなければ、一年生の頃は大変と感じる人の方が多いのではないでしょうか。
私はよほどの日本文学好きだったので、嬉々として大量の課題をこなしていましたが、これはきっと少数派です。
先輩や友達は意識が高く見えるかもしれませんが、たぶんみんなキレながらヤケクソで課題をやっていると思います。

ただ、日文生は課題の多さにキレながらも、きちんと課題をこなす人が多いと感じます。ここが魅力的だなと思っていました。私が思う学科の良さの一つは、学生の質の高さです。
他学科と混じって行われる教養科目では、積極的に質問したり丁寧な課題を出して活躍する日文生を目にします。二年次以降の演習科目では、一つの文学作品に対して読みを深めるためにみんなが出す意見の鋭さにいつも驚かされます。

学科の雰囲気も魅力的です。演習科目で活発に意見が出るのは、自分の意見を言いやすい環境があるからです。日文には強烈で個性的なキャラを持った人が多くいます。誰もそれを馬鹿にする人はいません。生き生きと、自分らしく過ごしていける環境が日本文学科にはあります。

私は日本文学科に来て、無理をせずに過ごしている自分を発見しました。
周りの目を気にして何かをすることがなくなりました。
一生懸命にやっても馬鹿にされず、むしろ褒められます。ありのままの自分を出しても、腫れ物扱いされません。
この過ごしやすさが、一番の魅力だと思っています。

しかし、メッセージを送ってくださった方は、私が今言ったような学科の雰囲気と学生の良さに気づいているようでした。逆にみんなの意識が高すぎて、置いていかれる気持ちになる、とおっしゃっていました。

たしかに、周りの意識と、自分の意識の差を感じてしまうと、辛くなってしまうかもしれません。ただ、意識が高く見える人たちも、実はそこまでの熱量がなかったりします。私の友人に、通年科目の講義動画の視聴とその感想を溜めまくり、学期末の一月に一年分視聴していた猛者がいますが、二年生も日文で元気に頑張っています。いろんな人の個性を受け入れてくれるのが日本文学科です。いろんな学生がいて、各々好きなように勉強しています。置いて行かれているかもしれないと思わなくて大丈夫です。自分は自分のペースでやっているんだ、と思っていいのです。

さて、そもそも勉強内容に興味が持てなければ、自分のペースもくそもないよ!と言われそうなので、日本文学科で学べる、日本文学の魅力を書こうかと思います。が、先ほども言った通り私は日本文学科の中でもかなりの日本文学ガチ勢なので、参考になる気がしません。(今読み返したらここから日本文学の魅力を一つも書いていませんでした、ごめんなさい)

私は高校の頃に独学で日本文学の知識をつけてから大学に入学しました。だから大学で日本文学ばかり勉強するのは本当に楽しいです。私も本学が第一志望校の大学ではありませんでしたが、あの大学に行けていたらな…なんて思うことはなく、むしろ本学に来て良かったと一年生の頃は何度も口にしていました。

ただ一つ!日本語学だけは苦手で、通年科目でしたがほぼ動画を視聴していませんでした。必修科目なのでよくなかったと思っています…真似しないでくださいね。

まあ私も、あまり興味が持てない分野に関してはこんな感じです。勉強内容に興味が持てなかったら、授業も課題も頑張れないのは当たり前かなと思います。ただそれでもなんとかやっていくと、面白さに気づくことがあります。私は今年も懲りずに日本語学講義をとりました。なんとか頑張っています。
二年生になったら履修にかなり余裕が出てきて、好きな科目を選んで履修できるので、まずはなんとか一年生の間、踏ん張ってほしいな、と思っています。

そして字数的に長くなってきましたが、ここでやっと課題の乗り切り方に触れます。私は一年生の頃、自分の中の原動力が「切羽詰まること」だと気付きました。だから提出期限が5/28の23:55の課題なら、5/28の朝に手をつけました。少しづつ日数をかけてやるのが苦手で、10時間以上一気に集中して終わらせる方が得意と気づいたので、ずっとこうしていました。最近作った近代文学のレジュメも、1日で書き上げましたよ。昨年の中世文学史で提出した期末課題もほぼ1日で完成させました。

私は忙しくないと頑張れない人間だったので、昨年は多い時で週6日バイトをしていました。限られた時間で何かをやることが得意という自分の特性に目をつけて、あえて忙しくし、あえて切羽詰まらせて、課題をやっていました。これが私の課題の乗り切り方です。

また参考にならないことばかり書いている自覚がありますが、人には人のペースがあると伝えたかったのです。本当に参考になる話は、明日の人がしてくれると思うので、そちらを是非。
周りを見ると惑わされてしまうかもしれませんが、世間でいいとされているやり方より、自分に合うやり方の方が長く頑張れると思います。
授業も課題も、ゆっくりやってもバタバタやってもいいし、面倒なら提出しなくても、なんとかなります。自分を追い込まずに、やっていって欲しいなと思います。

日本文学科は本当に素敵なところです。本学の日本文学科に来て良かったと、私は何度も言っています。なかなか参考にならないことばかり書きましたが、私はメッセージを送ってくれた方に、そのままでいいんだよと、伝えたいです。
マイナスなことばかり考えてもいいし、課題が出せない日があってもいいのです。うまい具合に気持ちを発散しながら、まずは一年間、乗り切れることを祈っています。
また悩みがあったら、いつでもブログ部に相談してくださいね。

メッセージを送ってくれた方が、大学生活を楽しめることを、心から祈っております。

もこ

鬱散亭日乗

ごきげんよう、もこです。

こんな夢を見た

東京に来てから本当に色々なことが起こりすぎて頭がついていかない。

上京してからというものここでは書けない色々なことが起こり、4月中旬に一人で不動産屋に出向いた。
そこでまたここでは書けない色々なことが起こり、4月下旬にこのアパートに越してきた。

安いカーペットの上に、日用品が散乱している。

テーブルがないので、ダンボールの上でご飯を食べる。冷蔵庫は在庫がなかったらしく、届くのは5月中旬だそう。ガスの契約をしそびれて、しばらくは風呂に入れなかった。玄関の近くには、ごみ出しの日に間に合わなかったゴミたちが並んでいる。シンクの中に、綺麗に洗われたストロングゼロの缶がある。一度も使われていない洗濯機の白がやけに目立つ。早く物干し用のつっぱり棒を買わなければと思うのだが、なんだか面倒くさい。

頭がかゆくなってきたので、銭湯に向かった。お香が焚かれた粋な銭湯だった。脱衣所では常連と見られるおばさんたちが、空模様の話をしている。彼女らも昔、文学に傾倒したことがあったのだろうか。標準語で話す年配の方に、まだ慣れない。

帰り道、荷風先生のお墓に寄った。東京に来てから、先生のお墓に日参している。高校の頃、すみだ川のニの冒頭に強い影響を受けた。あの頃、授業中は電子辞書で青空文庫ばかり読んでいた。太宰作品をかなり読んだ。藤村の破戒も授業中に読破した。ちまちま読んでいたら1ヶ月以上かかってしまったことを覚えている。国語の資料集が好きだった。資料集に載っていた東京の文学地図を見て、文京区の大学に行くことを決めた。大学2年生の私が雑司が谷墓地に毎日行っていると知ったら、高3の私は飛んで喜ぶだろうな。

そんなことを考えていたら、家に着いた。

ずいぶん私も大人になった。気がつけば保護者の同意を求められる場面はなくなっていた。不動産の契約も、電気、水道、ガスの契約もできた。家具家電も全部自分の口座から支払った。親が払ってくれていたら、日本製の家電になっていただろうか。そんなことを考えながら、海外製の洗濯機を初めて回した。

初めて一人でお米をといだ。安い炊飯器でも、おいしいご飯が炊けた。テレビとテレビ線を自分で繋いで設定したら、ちゃんとテレビが映った。電子レンジのアース線の存在を初めて知った。お風呂のお湯を汲んで、洗濯機に入れる。部屋干しの時は、脱水を長めにかけるといい。シューズボックスは段ボールで手作りできた。ついでに鍋敷きも作った。やっとテーブルが届いた。パスタを茹でてツナと炒めてみた。ヒノキの匂いが残るテーブルで、友人と電話しながらパスタを食べる。案外、一人で生活できるものだな。

荷風先生は、腸に持病があることをもって自分の住むところを「断腸亭」と名付けたらしい。それなら私はこの部屋の名前を、「鬱散亭」としようか。居心地の良い私だけの空間。家事をしながら勉強もするのは大変だけれど、もうすぐ慣れてくるだろう。一人暮らしは、自由で楽しい。明日も荷風先生のお墓に行こうか。そんなことを考えながら布団に潜る。すぐに眠りに落ちて夢を見た。今までの出来事が全て夢である、そんな夢だった。

この文章はフィクションです。実在する人物、地名等とは一切関係ありません。

記憶色

こんにちは、もこです。

故郷を離れました。

東京には空がないという高村智恵子の言葉が、私にはよく分かります。ビルや木々の隙間から見る空は、空ではありません。上を見上げずとも、私を囲むように広がっているこの青こそが、空なのです。
故郷の空は、いつも低いところにありました。

雑司ヶ谷墓地へ行きました。
文豪たちのお墓を探してうろうろしていると、よかったら案内しましょうか、と好好爺に声をかけてもらった。最近は若い女性がいらっしゃることが多いので、よく案内するんですよ、と言う老人の言葉に、訛りは一切ない。
私の年齢も大学も住まいも何も聞かず、淡々と案内だけをする男性の姿に、私は江戸らしさを感じました。

東京には灰色のイメージがありますか?
東京はカラフルでとても素敵です。

1週間のうち、対面授業はたった100分。残り1200分ほどのオンライン授業を受けるには、下宿先という環境は適していません。
ネット環境はいいとは言えず、友人との通話では何度もかけ直す必要があります。壁は厚くないので大声で話すわけにもいかず、双方向の演習授業は不安だらけです。
東京に来てよかったとは、あまり思えないのが現状です。

それでも、東京でしかできない経験をする度に、少しずつ気持ちが変わっていくものなのでしょう。
上野公園の桜を見た時、永井荷風のお墓の前に立った時、高層マンションから漏れる無数の光を見た時。心が跳ねる瞬間はまだ、思いつく限り3つしかありませんが、これが4つ5つ、10、20…数えきれないくらいに増えた時、私は東京に来てよかったと思えているかもしれません。その時、私はどんな私になっているのでしょう。

もうちょっと、東京で頑張ってみようと思います。

きおく-しょく【記憶色】
多くの人が、ある対象の色の印象として記憶している色。

実際の色とは異なる場合がある。

(デジタル大辞泉)

離郷

ごきげんよう、もこです。


ここを離れる日が近づいている。来月の今日、私はもうここにいない。

地元意識というものが芽生えたのは私が小1の頃だった。家から10kmほど離れた小学校に電車で通っていた私は、自分の住んでいるところを田舎と呼ぶと知った。セミも触れない友人らと話して、自分の普通は相手のびっくりだと分かった。同時に、自分の普通はもうすぐ消えつつあることも感じた。無くなる前に、どうにか守りたいと思った。

制服を着て、田んぼに囲まれた田舎道をてくてく帰る。ここには、受験をして、制服を着て、電車に乗って学校にいく小学生はいなかった。家までの一本道、イネはざわざわ揺れ、お前は一人だけ遠くの学校に行って楽しいかとあざ笑う。お前はここでもはみ出し者だと言い合う。うるさい、うるさいと言って、私は走る。イネはざわざわ追いかけてくる。私は叫ぶ。地元の小学校に行かなくたっていいじゃないか、小学生でも制服を着てたっていいじゃないか、電車に乗って学校に行ったっていいじゃないか!私は自分の好きなところで、自分のやりたいことをやるんだ!そして頭でっかちになっても、その頭を支えきれず体を曲げることはない!実るほど、こうべをたれる?笑わせるな!私はまっすぐ自分を支えていける!イネとは、違う!

イネはもう追ってこない。

田んぼを埋め立てて、大きな道ができると知った。休耕地が増えていた。大好きなじーじが死んだ。近所の犬が続々寿命を迎えた。私が拾ってきた犬も寿命を迎えた。農薬に溺れて、魚が浮いた。何かが変わっていく焦燥の中で、生まれ育った環境を語った作文が最優秀賞を取った。都会に行って、大きな盾をもらった。地元で権威ある高校への入学が決まった。家を出ていた姉が帰ってきた。制服のポケットの中の石ころは、いつの間にか色付きリップに変わった。

ここで過ごす時間は減った。真っ暗な朝に家を出て、真っ暗な夜に家に帰った。休日も自習室に行った。雨水は毎年のように住宅地に流れ込んでいた。背中を丸めて、新しい大きな道を歩く。私は歪んだ理想を追いかけ続けていた。

あの子、東京行くげな。

田んぼを埋め立てて、また大きな道ができると知った。休耕地は、どこかの大企業の流通センターになるらしい。イネもずいぶん大人しくなった。近所のおじさんが、こぞって小型犬を飼い始めた。私は近所で生まれた子犬をもらってきた。変わりゆく環境への焦燥は、もう元には戻らない私のふるさとへの哀情に変わった。大きな道で、毎朝ランニングをする人がいる。この道路ができて便利になったねと母が言う。父はドローン撮影にハマっている。私はどでかい段ボールに、洋服を詰めている。

ここを離れる日が近づいている。来月の今日、私はもうここにいない。

小説と神様

ごきげんよう、もこです。


厚手のコートをクローゼットの奥にしまい込んで、淡い色のブラウスを何枚か出す。その中の一枚に袖を通したら、新作のレーススカートを履く。薄ピンクのリップを塗りなおして、窓を開ける。遠くの山々に雪はもうない。まだ背の低い麦の間から、野良猫が顔を出している。強い風が花粉を運ぶ。私はくしゃみをひとつ。

窓を閉めて、カレンダーを見る。大きく丸がついた日がある。2月20日、今日だ。今日は特別な日なのだ。こんな特別な日には、何をしようか。ちょっといい服を着た。いつもの景色も綺麗に描いた。あとは、おいしいものを食べようか。お散歩でもしようか。いや、愛を語ろう。それがいい。今日は私の大好きな、志賀直哉の誕生日なのだ。

彼との出会いは高校3年生の夏だった。あの頃の私は、参考書になってしまいそうなくらい勉強していたから、人間に戻るために彼の本に手を伸ばした。すぐに私たちは意気投合した。会ったこともない彼に、こんなに心惹かれていいものか、始めは戸惑った。自分だけが彼を好きな気がして不安だった。しかし、この思いは決して一方通行ではないと気付いた。彼に触れれば触れるほど、彼は私にお返しをくれる。見たことのない顔をたくさん見せてくれる。不安になる必要はなかった。彼もまた、会ったことのない私に、深い愛をくれていた。

私はずいぶん彼に詳しくなった。彼の出身地を知っている。彼の母校を知っている。彼の親友の名前だって言える。彼が生きてきた環境は、私とは違う。彼は私に見せてくれる顔以上に、見せていない顔がある。いつも平気な顔をしていて、心で笑って心で泣いている。ねじ曲がっているようでまっすぐで、簡潔に見えて複雑に絡まっている。全部知っている、全部全部知っている。心の距離はこんなに近い。すぐ隣にいる。それなのに、いくら手を伸ばしても、私は彼に、あなたに触れられない。

彼について知れば知るほど、彼と私は違う世界にいることを知った。失恋に近かった。別に彼じゃなくてもいいじゃないかと誰かに言われた。それもそうだと思った。私は忘れられない初恋の人にもう一度会いに行った。懐かしい檸檬の味を思い出した。刺激的な桜桃に酔った。いつのまにか、先の見えない道程に私はいた。一握の砂が手から零れ落ちる。私の手は無力だった。あの時彼に触れられなかった手は、今でも何もつかめない。自分の手を、ぢっと見た。ふと、その手と手を合わせてみた。この手にできることは、何かを拝むことくらいだなと思った。そうして私は彼を思い出した。いや、ずっと忘れられなかった。彼はずっと私の中にいた。皆が言うのは本当だった。彼は神様であった。どうりで触れられないはずだった。

私はまた彼に向き合った。彼はやはりたくさんのお返しをくれた。

私と彼が出会ってから、ずいぶん月日が経った。あの夏の日からずっと、彼のことばかり考えている。彼がいなかったら、私は今ここにいない。彼がいるから、私はいま私でいられる。きっとあなたもそうでしょう?私がいなければ、あなたはあなたでいられない。

もう一度、窓を見る。野良猫はもういない。外に出ると、日差しがあたたかい。毎年2月20日あたりは、4月並みの陽気らしい。東京では、どうだか知らないが。強い風に、くしゃみをひとつ。私は部屋に戻る。
来年の2月20日は、きっと青山に行こう。