あたたかさを求めて

こんにちは。

先日、ブログ部のティーパーティーに参加しました!同じ部員であっても普段はなかなかお互い顔を合わせることがないので、久々(の方とはじめまして!の方もいたなあ)にリアルでお会いできてうれしかったです。そして、対面だからこそ存分に伝わる後輩たちの熱、熱、熱量!正直私が彼女らの後輩になりたい笑。知識も経験も豊富で、明るくてはつらつとしていて、そんでもって親しみやすくて頼りがいがあるなんて、なんて素敵な方々なのでしょう。こういうことはやはり、PC越しでは分かりませんね。

最近特に感じるのが、対面で人と会うことの大切さです。家に1人でいると結構モチベーションを保つのが難しいんですよね。私の場合、隙あらばお布団の中で眠り続けてしまいますし。血流と一緒に頭の回転が悪くなりまして、表情筋の機能していない顔でじっとりどよよんとした生活になってしまいます。この1年を振り返ってみれば、私は教育実習も就職の試験対策も卒論も大学で知り合った友人たちに励まされながら乗り越えてきたのです(卒論はまだ乗り越えきれてないですね)。

同じ目標を持つ人が近くにいると感じることほど、心強いことはありません。そんなことをふと、先日のティーパーティーでは感じました。居合わせた4年生部員でしみじみしていましたけれども、頼もしいメンバーに囲まれて私は幸せ者です。

そうだ、せっかくなので私が①日文に入った理由、②卒論で中世ゼミを選んだ理由を簡単にお伝えしましょう。

①日文に入った理由

元々私は心理学系を志望していました。「このような状況に置かれたとき、人はこのように行動しやすい」といったものを学ぶのがおもしろそうだな―と思っていたのですが、高校の進路学習の中で心理学について調べるうちに「大人数について調べるより、個人とか作品とかを1つずつ見ていく方がおもしろそうだな」とふと思ったのです。国語は結構得意科目で、読書はそれなりに好きで、高校時代は国語便覧を眺めるのが好きでしたので文学がいいかと。日本文学を選んだのは高校で読んだ『徒然草』をはじめ、古典作品がおもしろかったからです。我を忘れるほど何かに熱中する性質はないし、飽き性な私ですが、国語ならやり続けても苦じゃない。「苦じゃない」という距離感が私にとっては重要だった気がします。

②卒論で中世ゼミを選んだ理由

ゼミを選んだ理由として大きいのは、漠然と『平家物語』に惹かれていたからというのがあります。『平家物語』は冒頭を小1で暗唱してから、「祇園精舎」くらいしか分からないくせに私の脳内にずっと住みついている作品です。「敦盛最期」とか「扇の的」とかも授業で扱って、まあそれらが『平家物語』の一部だと理解するのはしばらく後ですけれど、武士の力強さと情に厚い感じが印象に残っていて、結構好きだなと思うのです。ときどきずる賢いことをするのもまた人間らしい気がしまして。

ゼミ選びで決め手となったのは、担当の先生です。2年生までの間に学科の色々な先生の授業を受けましたが、先生によって授業の雰囲気が全く違うことに驚いたものです。また、1年生のときに受けた上代から近現代まで基礎的な部分をつまみ食いするような授業の中で、自分は近現代より古典のほうがおもしろいし肌に合っていると感じていました。1年生のときから中世自主ゼミに入っていたこともあって石井先生にはずっとお世話になっておりましたし、気になる作品は中世の分野だったので、もうゼミは石井先生しかない!と思って中世ゼミを選びました。

大学生活、今思うと色々あって随分濃い4年間だったと思います。でも何か大きなことを成し遂げたわけではなくて、4年間の収穫を格好よく言い表すことは難しそうです。ひとまず今は例によって例のごとく卒論の大変さを感じておりますので、今回はこのへんで。

みなさんもお体にはお気をつけください!

『南総里見八犬伝』はムズくて深い! 〜日文授業日記〜

どうもー!甘くてフルーティな絶品コーヒーに巡り合えたいのり🧸です。

今回は、「日本文学科ってなにを学ぶの?」シリーズ第1弾を開催!

アイコンのテディベア
勝手にシリーズ化✨
授業で学んだことをブログに書いていきます!
(日本文学に寄ってしまうので、日本語学は別の方に託します……。)

重要単語! “時代区分”

まずは、これだけは知っとこう!

授業資料探してまとめてみました。本当におおまかです。 間違っていたらコソッと教えてください🙏 しれっと直します。

日本文学は、時代を基準?に5つの区分に分かれています。(近代と現代は合わせて、“近現代”って呼ばれているよ!)
日本女子大学でもこの分野ごとに授業が開講されているので、頻出単語です!

“講義”と“演習”の違いって?

これも知っておいた方が、ブログを読むときに分かりやすいかも!

講義→先生が前に立って、大勢の学生に教えてくれる授業。高校の授業のイメージでOK!

演習→自分で調べて考えたことを発表する、少人数の授業。議論をしたり、意見交換をしたり、参加型の授業って感じ!

演習授業『南総里見八犬伝』

それでは本題へ。
今回は、「近世文学演習4」で学んだ『南総里見八犬伝』をご紹介!

アイコンのテディベア
近世文学ってことは江戸時代に生まれた文学だね!

そもそも『南総里見八犬伝』ってなに?って方向けに、超カンタンあらすじだけ書いておきます。
(ほんとうにざっくりなので、気になったらネットで調べてください!)

《超×100カンタンあらすじ》
捕らえられた玉梓っていう女の人が、里見家に呪詛を吐きながら処刑される。玉梓に呪われた里見家を救うべく、八犬士が大活躍!

「近世文学演習」では、『南総里見八犬伝』が各章ごとに分けられ、2人ペアになって調べました。
私の担当箇所は、

【第八回】
行者の岩窟に翁伏姫を相す
滝田の近邨に狸雛狗を養ふ

この場面を現代語訳して相関図を作り、気になる点を調べて深掘りしていきました。

この回ですごく面白かったのは、“玉梓って実は悪者じゃないんじゃない?”って意見が出たこと。
玉梓がいなければ八犬士は生まれてないって言われ、たしかにそうかも……?と思いました。

みなさんはどう思いますか??

私は、勧善懲悪の物語なんて特に、悪役がいなきゃ物語は進まないって思っているので、玉梓はヴィランだと思っています! 玉梓って絶対悪者だろ!って。

でも、こんな風に真反対な意見を出してもいいんです!意見がたくさん出て、あーだこーだ話すのが楽しいです。
演習授業だと、調べることより、むしろ発表あとの時間がメインだと思います。

楽しそう!やりたい!って思った方は、ぜひ日本文学科へ!
お待ちしてます〜💗

いのり🧸

わたくしごと:『南総里見八犬伝』との出会い

小学生のとき、角川つばさ文庫の『サトミちゃんちの8男子』シリーズを読んで、その元ネタが『南総里見八犬伝』だと知ったのが、初めての出会いです。

同じく角川つばさ文庫から発売している『南総里見八犬伝』を読んでみたけれど、難しくて挫折してしまいました、、、。
それからは、八犬伝は難しい!というイメージから一度も開かず……。
(今思うと、たぶん小学3年生?くらいに読んだのでそりゃ難しいですよね 😥)

なつかしい本たち。いま読んでも面白い!

そんな『南総里見八犬伝』を大学生になって読むことになるとは!
もう読むことはないと思っていたのに、不思議な巡り合わせですね。

しかし、さすがに大学生になったからといっても、原文はムズい!
あらすじを知るためなら、最初に友達から借りたマンガ碧也ぴんくさんの『八犬伝』が読みやすかったです。変な改変がないし、改変があってもそのことを書いてくれています。
もし内容を知りたいって方はこれを読んでみてください!

全15巻で7巻までKindle読み放題に入っているので気になる方はどうぞ〜!
碧也ぴんく『八犬伝(1)』

🌱コトバ


なにかに本気でとりつかれるってことはさ、みんなが考えてるほど、ばかげたことじゃあないと思うよ

映画「トリツカレ男」
(原作:いしいいんじ『トリツカレ男』より)

Aぇ! groupの佐野晶哉くん目当てで行った映画『トリツカレ男』。それがまさか“人生の1本”になるほどの映画とは、思いもしませんでした。

なんにでも夢中になるトリツカレ男のジュゼッペ。何のためにとか、今後それがどう活きるとか、そんなことは一切考えず、ただただ好きだから夢中になってしまう。そんなジュゼッペが風船売りのペチカに一目惚れして(トリツカレて)……。
というまぶしくピュアなラブストーリー。

私の人生に刻まれる映画って、こんな人になりたい、と思った作品が多いんですよ。
だからジュゼッペは、私のなりたい人のひとりです。
後先考えずに“好き”にがむしゃらになる姿がいいなって。“好き”は自然と自分のモノになって、大切なときに活きてくると思うから。

日本文学科を選び、そして近代文学を選ぶ

皆様こんにちは、今日もつーんと冷えますね。風邪予防のマスクすら防寒具のように思えてきました。
気がつけば師走。私はどうやら大学生という身分をもう3年分も走ってきてしまったようです。


3年生となれば次に来るのは4年生。4年生となれば卒業論文……捻り一つない、けれど効果はバツグンのマジカルバナナが完成しました。胃がキリリ、ギリリッリリ……リ。
そう。弊学の日本文学科は2年生のうちに卒業研究のためのゼミ所属アンケートを行い、3年生からゼミに所属。同じゼミを選んだ4年生の先輩方のお背中を拝見しながら少しずつ自らの卒業研究を練り上げていくのです。なんて計画的なご利用システム。安心ですねぇ、、安心なはずだったのに安心と逸れてしまったような、一面の銀世界という風情のPC画面と向き合っているのは何故なのでしょう。
顔色も PC画面も 冬景色。おお情けなや、わたくし。


Q.これほど懇切丁寧に誂えられた履修システムのレールの上にいながら立ち往生している原因を答えよ
A.怠惰


うん。問うまでもなかった。そうだよ、サボってるのは君だねぇ。
こんな風に一問一答で答えが出せればまだ良いのですが、研究……殊に文学の研究となるとそうもいきません。自分で疑問点を見つけて、自分なりにアプローチをして、けれどその先で皆から頷いてもらえるような結論を導き出す。答えは一つなんかじゃない、問いもそう。広々と自由なので迷子の定義すらムツカシイのです。

そういう時こそ初心に帰るのが大切。
私、そういえば何故日本文学科へ来たのでしょう。




***



師走、となれば年末も目前。帰省のシーズンです。帰省といえば「ふるさと」。皆様は帰りたくなる「ふるさと」の景色がおありでしょうか?私はあります。



その「ふるさと」はちょっと褪せた色合いで、触れると乾いた音がする。雨の日は独特の香りが立つ。
それは私の手のひらに広がっている。

私の「ふるさと」はとある1冊の本だ。いつでもそのインクの世界に帰りたくなる。




えぇ、もちろんふざけてなどおりません。せっかくです。昔話を、させてください。
私は幼い頃から何度も何度も住所が変わる子でした。物覚えが悪くて、覚えたての平仮名も全部鏡文字になってしまうような少女は、自分の住んでいる街の名前すら覚えられないまま。引っ越しのトラックがいつも青色だったことだけを覚えていました。

昔馴染みの街も、幼馴染なんて存在もてんで分からない。誰とどこで知り合ったとていずれ会えなくなるのですから、新しい友達を作ることにも草臥れてしまっていたのでしょう。もしくは致命的に社交性がなかったか。

けれど、オセロもチェスもいつしか自分と対戦することが上手になってきていたし、何より、もっともっと素敵なお友達にも出会えたのがその頃でしたでしょうか。
絵本が大好きだった私は、新しい街で真っ先に図書館の場所だけは覚えていたのです。
その日はなぜか絵本ではなくて何だかもっと大人っぽいものを読んでみたくなって必死に必死にあの頃の少女でも読めるものを探して……そうして出会った奇跡みたいな詩を私は生涯忘れない。

平仮名と長音がこだまして、ハラハラと手のひらに降り注ぐような、寂しい優しい綺麗な詩。
読めない漢字は全部吹き飛ばして、その平仮名の楽譜を幾度となくなぞりました。




それでもまた別れはやってくる。図書館の受付のお姉さんにも、○○ちゃん、なんて名前を近頃呼んでもらえるようになったのに。




気が付けば私はまた、知らない街に立っていた。
歩きなれない図書館を迷宮に挑む勇者の心地で突き進む。「あっ!!」私は初めて図書館で叫んだ。隅っこの一段と埃臭い本棚にその見知った背表紙はいた。真っ直ぐにこちらを見つめていた。
そうだ、私はこの日、人生で初めて「再会」の意味を知った。

それからというもの、少女はどこへ行ってもへっちゃらになった。
どこの街でも必ず私たちはまた会えたから。




***






その詩集にお友達を紹介してもらうように、お隣さんの本もそのお隣さんの本も……と握手を繰り返していたら、いつの間にかその本棚周辺が全部愛おしくなりました。
そこにいらっしゃる皆様が「近代文学」というグループに属するのだと知ったのは随分後になってからでしたが。。この近代文学の古書たちの匂いと背表紙の枯れ具合はどこの書架でもすぐに見つけられましたし、そしてどんな図書館に行っても「「必ず」」置いてあるのです。それが、どれだけ少女を安心させたことか。

だから私は今でもその詩集だけは手元に置いていない。アルバイト代どころか古本屋にでも行けばワンコインで買えるけれど。今までもこれからも図書館の古ぼけた背表紙から旧交を温め続けることでしょう。その詩集が読みたくなったときは私にとって「帰省」の頃合いなのですから。




幕間




・・・なんて、物覚えの悪い女が少々話し過ぎました。昔を懐かしむ時ほど自己が頼りなくなる瞬間はありませんね。自分は自分の人生の脚本も演出も監督も主役も脇役もやっているのだから大変です。下手な回想シーンはカットしましょう、ベタでベッタベタで歯にくっつくわ。こんな駄作じゃ噂話にされかかってクシャミがでるだけよ。
きちんと注釈も入れなくちゃ、はいハ―――ッアクション!!





近代文学


文字通り「近代の文学」……きっと国語の教科書で芥川龍之介の「羅生門」や中島敦の「山月記」なんかに出会ったことがあるでしょう。日本においての「近代文学」はだいたい明治維新から太平洋戦争くらいまで、、、でも大きく見るなら「近現代文学」という括りで現代小説まで含んじゃうかも〜……うーん明確には区切れな〜い…という何とも軟らかくて可愛らしくて情けない感じ。
けれども確かに言えることは。活版印刷が主流になった明治に本格始動した「商業出版」の文化が「商売」としての「言葉」を、可能にした。「言葉」が商品になる時代が来た。

誰かの放った「言葉」が大きな広がりを持って無限に商品に成り続けられる時代が来たのです。
それはもう、実用書だけになんて限られない。娯楽、精神の娯楽としての「言葉」たち。何の実益もない、楽しみのための「言葉」、人を楽しませるためだけのあざとい「言葉」!



明治、大正、昭和……このたった1、2世紀に一体どれだけの世界が動いたことか。
日本では長い鎖国の世が終わり、世界中の異文化・新しい価値観の奔流に飲み込まれていく。刀はペンに持ち替えられ、描く未来図は明るくも暗くもなる新時代。そして近代兵器の……歴史も地図も何もかもを塗り替える戦争。
この100年間はあらゆるものを押し流していった。神は隠され神秘は見失われ権威は息をひそめた。拠り所を喪った人は自己〈ヒト〉を穴が空くほどに見つめるしかなかった。
その視線で身体を射抜き、自己の在り処をシラミ潰しに探すよりほかになかった。空いた穴から抜ける隙間風が過呼吸のように音を立てる。その魂の喘ぎが、生き方の模索が、近代小説には溢れている。

そしてそのいずれもが、究極には「商品」。
ヒトの人生がショートケーキみたいに切り売りされていく。どこまでもその甘みを信じたって良いし、疑ったって良い。〈激動の時代〉と〈人生の切り売りという芸術家の術〉が恐ろしいほどに噛み合った、ヒトの業の凝縮物が近代小説だ。



近代文学は、私にとってそういうもの。知ったから生きやすくなった。知ったから生きにくくなった。
私の肺の左右どちらかは近代文学で出来ているのかも。




***





昔を振り返ってみたけれど、一体いつどこの時点から近代文学の虜だったのかわかりません。
あの詩集に出会った日かもしれないし、あの書棚を愛した日かもしれない。明確な日付は何も思い出せないけれど、気が付いたら私の人生の岐路にはいつも近代文学があった。
だから、やっぱり捻り一つないつまらない答えが、私の自己紹介。


好きな物を好きなままで大人になりたいから
ごく自然に日本文学を選び、ごく自然に近代文学を選んだ
何の変哲もない女子大生です。どうぞよろしく。




いやだわ、見切り発車、聞いてもいない昔話を囀ったと思えば今度は偉そうに講釈垂れて。
きっと必死に目を逸らして今日も眠ろうとしているのね。そうは問屋が卸してくださいません。
初心に戻って与太話まで書いたのだから卒業論文に取り掛かりなさい。

あぁもし、もしも、進路に悩む高校生が読者にいらっしゃるのなら、取りあえずこのトンでもない怠け者のことは参考にしてはいけません。反面教師です。
でも、そう…「好きだから」という理由で何かを決断することに遠慮や迷いを感じてしまう方がいるのなら。そこの一点だけはこの愚か者を試金石として見てやっては頂けないでしょうか。

受験・研究・就活、、、学生がぶつかる現実だけでも「好き」の想いだけではどうにもならないとされるモノはいくらでもあります。それに付随するように「好きな物を好きだと言えない苦しさ」「好きだけでは受け入れてもらえないもどかしさ」、そういうモノに衝突することも無いとは言い切れません。
だからといって「好き」を選ぶことを避けますか。避けてしまうのですか。避ければ、その先で障害物にぶつかることは無いのでしょうか。私はきっと否だと思うのです。
どれほど上手く生きたとて全てが100点で行くことなんてありません。どうしたって失敗はするし、予想外なことだって起きます。けれど、そういう時こそ今まで見えていなかった側面に気が付くことが出来るのです。そしてそういった側面を失敗の度に見つめなおしていけば、いずれ周囲をも説得できるような実用的武器になることでしょう。


アハハ!なんだかそれっぽいこと言ってみたくて格好つけましたが全然ムリ!!
つまりね、多分どんな道を選んでも、きっちり向き合ってこねくり回してりゃそこそこ正解になるんですよ。全部正解だ!なんてトンだ綺麗事?けどまぁ、世界にはこれだけ沢山の人間がいるんです。「正解」だって沢山ないと追い付かないですよ。
ですから、どうせ全部正解なんです、せっかくなら「自分の好き」を「正解」にしてみませんか。



日本女子大学の文学部日本文学科にきて、誰かの「好き」にとても寛容な友人たちに囲まれて、自分が何よりも「好き」な日本文学を全力で味わって、案外就職活動でも役に立っている。
誰がなんと言おうと、私の大学生活は楽しいです!大好きだから!




まどか🐧