ちゃっぴー、でしたか。随分と可愛い渾名がついたモノです。そのくらい私たちの生活には今AIが身近な存在となっていることを、日々ひしひしと感じます。
AIと一口に言っても様々な性質のモノがありましょう。それ故におしゃべり相手であったり、何かを教えてくれる先生であったり……はたまた代わりに仕事をしてくれる相棒でしょうか。兎に角めいめいの付き合い方があるのです。
今日はその中でも生成AIなるモノ。文章から画像、動画……望み通りの創造物を作り上げてくれるようなAI使用のお話をしましょう。
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例えば、就職活動でエントリーシートを書く時。
例えば、学校の課題のレポートを書く時。
例えば、ポスターやプレゼン資料の彩にイラストを加える時。
「それAIでやったら?」「私はAI使ってるよ」「AI使えば一発でしょ」
ここ一、二年で突然そう言われるようになりました。SNSを眺めていればAIを使いこなすための動画が所狭しと並び、プロンプト配布が大手を振って行われ、、、大学の授業でも時代に合わせた使い方を学ぶ機会を沢山いただいたものです。課題としてAIでイラストを生成してみよう!なんて物珍しい指示をいただくこともありました。
そうして実際に使ってみると思い通りの形に出力できるまでになかなかの根気が要ることで面食らってしまったほどです。お上手に使いこなせる方はすごいなあと素直に思います。
その時とある方は「〇〇風に」という指示をAIに出せばそう寄せられると実演してくださり、ジ●リ風だとかビッ●リマンチョコ風だとかそれはもう思いつく限りの面白さを見せてくださったのですが……
私がいざやってみろと言われると、打鍵の度に神聖なナニかへナイフを突き立てているような、己の指先がぐちぐちと肉片を抉り撫でているような。その不快感がまとわりついて消えないのです。本来のどなたかが描かれたであろう、創り上げてこられたであろう創造性を犯す感覚。なんて横暴な侵略、略奪、侮辱。それをその場にいた誰もが平然とやっている恐ろしさに今すぐ叫び出したくなりました。
あぁ、しかし、そうなのだ。時代の流れというものはそうなのです。この国は、文化庁は、「柔軟な権利制限規定」を整備した。「権利者に与える不利益が軽微」であれば権利者の許可なく第三者が好きなようにソレをして良いと。言った。
今時、こんなことに拘って嗚咽を繰り返しているのは紛うことなき時代遅れの人間なのでしょう。この社会を歩く中で自分という人間がいかにマイノリティであるかじくじくと身を焦がすように思い知らされます。
課題や就活に臨む時、なんどもなんども機会はあった。要請もあった。それでもやはり強制された時以外にAIへ触れることがためらわれました。根本的にその恐ろしさと悍ましさ、特に権利問題の歪みに嫌気がさすのです。
もちろん賢い使い方というものはございましょう。モノに罪はなく、全ては使う者のモラル次第です。そして便利さは常に希求されるモノでありあらゆることに世代交代、そして犠牲は付き物です。無自覚にもそういったものを踏みつけて恩恵を享受して、きっと私も生きています。ですから、自分がようやくその技術革新の時代に立ち会ったとき、それを批判する権利なんてないのかもしれません。
ですが、それでもこの拭いきれぬ不快感とやり場のない憤怒、失望を私は文字にします。誰かに一蹴されても鼻で笑われるだけだとしても言葉にします。誰もが納得していると!誰もがその変化を賛美していると!!決して思われたくない。
失望についてもそうです。私が今いるここは文学部。文学という芸術を研究し、そして日々その偉人たちの遺した著作物にお世話になっている。そういった特性もあってか文学的な創作物への扱いはとても丁寧です。だのに、創作物が文学以外になった途端その無関心はどうしたことでしょう。他の芸術作品にだって同様のリスペクトと慎重さを以て然るべきではないのでしょうか。
便利な道具を使うのなら、それをしっかりと御するための知識や良識も伴っていなくては。爆走するスポーツカーに引き摺られて公道を走るような真似はしたくありません。
こういった主張は「食わず嫌い」だとお思いになりますか?いいえ、いいえ、決して私めそれはいけないと思いました。ですから大学では進んでAI活用の講義を受講し、ICT関係の資格も色々と取りました。AI推進派の方のご意見も積極的に拝読して納得する時だってございます。それでもなお、吞み込むことの出来ない蟠りを友人からは「AIアレルギー」だと揶揄されました。大いに結構なことです。
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AIはあなたに創造性を貸し出すことはできても、あなたの一部になることはできません。授けることはできても同化はできないのです。
もし貴方が後輩に仕事を頼む時、簡単な絵で補足をしたらもっと伝わりやすくなるかも。
もし貴方がお世話になった人へ送る色紙にイラストを添えたらもっと華やかに温かいものができるかも。
でもそのいずれも咄嗟の、一瞬間のもの。わざわざAIに頼るのはかえって非効率なもの。
きっと「培った技術」というものはそういう日々の隙間を埋めてくれる存在。
そして簡単に技術が借りられる時代だからこそ考えてみてほしいのです。簡単に手に入るものは簡単に失われます。機械がなけれは何もできないじゃありませんか。
知識は財産、とよく言いますが。あれは不可視の不可侵の財産なのです。それを可視化したAIで取り繕ってしまったら、簡単に奪われる、失うものに成り下がってしまうのでしょう。
今一度考えてみてほしい。貴方が得たいのはその外付けの工事不要の技術なのか、苦難を積み重ねて大工事の末に手に入れる技術なのか。
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さてはて、ここからはもう完全な蛇足です。脱線します。
先程まではイラストが特にわかりやすいからこそ一例としていましたが、それは文章についても同じこと。言葉に著作権や権利を持ち出すことはイラストよりも難しいのですが。せっかくです、権利などというロジカルなお話ではなく主観的で咽せ返るほどの感情論をここに置いておきましょう。せっかく「私」が、書いているのですから。
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言葉を一つ二つ三つ……そうして丹精を込めて並べ立てていく。そんなドミノが、ある時ふと何かのはずみで倒れ始めたら私のことなど追いて行ってしまうでしょう。
そしてドミノの最後。私が意図を以て並べていた言葉たちは、そのラインをほんの板一枚分だけはみ出すのです。
その余剰。余剰こそが言葉の自走だと思うのです。私はそれが見たいのです、それに魅せられているのでございます。
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これこそ文章を作ることの楽しみだと思うのです。自分で意思を持って積み重ねても文章にした瞬間どこかで意図せぬ事故が起きる。完璧ではない文章。完全には扱いきれない言葉たち。その自走。
それらはプロセスあってのもの。ゼロからイチを生み出すからこそ見えるイチテンイチ。
最初からイチだけを正確に出力するAIの文章では立ち会えない面白みです。
こんなことを私は日々考えています。そんな生き方を選んでいます。
頑固でどうしようもない人間だとお思いになりますか?それならば、貴方様はきっと柔軟な人間だ。進んでAIをお使いになったらよろしい。
まどか🐧