新年度! 恐ろしいことにわたくし三年生!
もっと恐ろしいのは未だに履修が決まらんことですが……
ついては先人らに倣って新入生へのアドバイスでも書きましょう
定年寸前の先生の授業をとる!
といっても別に定年というものは良い先生にだけ訪れるものでもありませんからこの手立てで必ず当たりの授業が取れるとかいうめでたい確証があるわけでもないのですが(あったらそりゃあいいだろうよ)、しかし日本女子大の教授になるっつったらそうとうなもんだと考えていいと思います。少なくとも彼らは右や左のお嬢さんがたが今までの人生において遭遇した教育者のなかではもっともハイレベルなエキスパートと考えていいわけですからね。かつまた定年間際といったらその頭脳は熟しているに決まっています。教えテクと相性については個人差あるけどそりゃしかたないってもんだ
何より来年にはとれなくなるんですからとっておいたほうがいいと思うんですわー。人生においてマイナス以外の経験が多いに越したことはありません。ましてやその「経験」が大学授業を指すものであるとなれば、危険などはいっさいなく、あるとすれば利益だけ。ええやんけ。ノーリスク・ノーマルもしくはハイリターン。ええやんけ。ただ、なまじそれが良い先生だったりすると「もっと早くにお会いしとうございました」と涙するはめになりますが、それはそれでまた人生の味というもの。ほろ苦さを知ってこその強さ、そして強くあってこその命。そんでもって命に価値を与えるものは優しさ。タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。チャンドラーもそう言っておった。
しかし私まだ今年で定年の先生を調べておりません。アチャー
そもそも定年の先生なんてそう毎年いらっしゃるもんでもないか
とりあえず内部の子は先輩に訊いてみるとよい! 外部の子は、授業など真面目にやってりゃあ二年生以降でもそれなりに挽回が利くものなので、あまり悩み過ぎることなく友達を作るほうに専念するとよい! と私は思いますぞえ
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ドイツ語ぜんぜんできませんでしたけど卒論で何とかドイツ文学できないものかなーと悩んでいます。
日本文学とドイツ文学といえばいやがうえにも浮かび上がってくるのが森鷗外こと森林太郎です。彼を絡めれば恐らく私の望みをかなえるのは容易でしょう。
しかし、
あいつ研究するのだけはいやだよー!
私あいつの人柄嫌いなんだよー!
……と中学のころから嘆いていたのですが、原稿用紙の裏まで『舞姫』への文句と悪態をねちねちねちねち垂れ流し続けることで附属高校文集『樹木と果実』に載せていただいたほか(酔狂な教師がいらしたもんだぜ)、大学に入ってからも同じ技法で近代日本文学史のレポートを乗り越えることができました。いやよいやよも好きのうちっぽくて非常に不本意ではありますが、嫌いを極めるというのも脳味噌の原動力としてアリっちゃあアリなのかもしれません。いやだよまじで!!
なんで私が森鷗外のことをかくまで嫌いかといえば、やつが日本で初めて『ファウスト』を翻訳したとき、原作者であるゲーテ(当時風に言えばギヨオテ)の名前をどこにも書かなかったからです。何しろ明治あたりの話ですから我が目で確認したわけではありませんが、とりあえずはそのはずです。ソースはちくま文庫の『ファウスト』巻末の『訳本ファウストについて』でご確認ください。かいつまんで言えば、日本初の訳書で原作者の名前を書き忘れたことに校正の段階で気付いていながら「まあファウストっつったらゲーテだと言うまでもなかろう」という理由でスルーしたという感じです。私はこの文面を腹に据えかねるあまりそこで本を閉じたので、もしその先で何らかの言い訳が為されていれば憎悪をいくらか取り下げられますが……
だって「ファウストっつったらゲーテ」も何も、当時お前レベルのインテリゲンちゃんども以外にそのカギカッコ内の認識を持つ日本人がどれだけいると思ってんの? 良く言えば無垢・悪く言えば無知蒙昧な人々に新たなものを刻み付けるさい、誤認を伴う恐れがあると分かっていながら物事を為すのって人道的にどうかと思うわ。ていうか正直にいえばちくま文庫があれを森鷗外全集Ⅱとして扱っているのも岩波文庫があれを現代日本文学に位置づけているのもどうかと思ってるわ。まあそれにそぐうだけの学術的価値は確かにあるだろうさ。そりゃ分かるさ。分かるけどだからこそなんでゲーテの名前書かないとかそんなくだらないことでひっかかりポイントを作っちゃったの? 「もし初版のさいゲーテの名を書いていれば……?」などというクソくだらない妄想に私を落とし込むだけじゃないですか。「いれば……?」もへったくれもねえよ。嫌いではありますけどそんな名前のひとつやふたつで揺らぐような代物だとはカケラも思っていませんよ。そんなんだったら日本の文壇見捨てますよ。
ただ、ただそこで四文字ギヨオテと書いてくれてさえいれば……そのささやかな怠慢がおまえへの憎しみの種子となり、今や双葉が生い茂る程度に成長している。ほんと何なんですの? なんでそこでスルーしちゃったの? なんの利益もない措置じゃないですか。あんた私に嫌いになってほしいの? 私のことが嫌いなの? りんたろうのバカ! もう知らん
私はこの文面によって鴎外ファンと言い合いたいわけではないよ。ていうか私もファンだよ多分。
ちなみに鴎外の鴎は偏のかまえの中身がメじゃなくて品(鷗)なんだけどこれは環境依存文字です。
投稿者「azumi」のアーカイブ
ねーはこ
箱根いってきましたの。
附属高の友人たちと。
シャキーン! 街並み!

ズガーン! 友人!

我ながら観光地らしからぬ写真だなおい
三軒茶屋とか行けば余裕でバシバシ撮れるやないけ
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愛と幸福の絶縁
先日、変質者(というと凄すぎるんですが、とりあえず知らない女性)から謎の絡まれ方をしまして、
別に大したことじゃなかったんだけどイヤホンを嵌めたまま誰もいない夜道を歩くものではないと思った。
しかし人間「ブチ殺してやる!」って思うときって別にまったく殺したくはないんですね。演習発表でしくじって「死にたい!」って思ってるとき実際は別に死にたいだなんてことは全然思っていないように(「死にたい!」は、せいぜい「今すぐこの教室から駆け出してそのままバス飛び乗って山手線に乗ってぐるぐるしたい!!」って感じ)……。
つまり「ブチ殺してやる」っていうワードが、「その者の命を断ってやる」ではない意味を持っているわけよ。そしてその「ブチ殺してやる」は日本語訳すると何なのか? と問うてみたとき、一番しっくり来るのは「幸せになってくれ」だった。そしてこの字面だけの殺意と幸せ祈願のあいだにある脈絡を求めた結果としてこの記事の折り畳み以下があるわけなのですが、なんだか字数ばかりが増えて行きまして……ほんとに長いよ!!! プロフィールにも書いてあるけど暇過ぎて死にそうな人だけ読んでね。
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ちなみに↑の「暇過ぎて死にそう」はたぶん「あまりにも興味を惹かれるものがなく、また必要とされてもおらず、精神的な身の置き場がないことから不安をおぼえている」とかいう意味に翻訳できるんじゃなかろうか?
あんまり死ぬとか殺すとかいうワードを避けてもいけねえよなー。意味的に避けるならまだしもその言葉の形・並びから信号的に避けるのではいけねえこりゃいけねえ。言葉狩りの何が惨めかというに、代替案を出せば許されてしまうあたりですよ。もちろん代替案すら許されなかったらそんなにクソいことも世のなかそうそうあったもんじゃねーよ! と思いますが…… 言葉の激しさや汚さを知ることは良識と会話力をはぐくむことを目的に行われる教育の不可避な一環なのであって、つまり目的とする良識がはぐくまれていればわざわざ禁則事項とするまでもないはずではないのかね。一見して過激な言葉も、使いどきを見誤らなければ会話のキャッチボールのひとつに過ぎないはずではないのかね。汚い言葉・激しい言葉は確かにあるが、それの使い時や声の調子を巧みに操ることで弦楽器のようにさまざまな振幅を持たせることが本来理想とされるありかたであって、代替として作られた急ごしらえのスラングで元と同じ意味を伝えているようでは、振幅が増すどころかむしろ単に弦の本数=語彙を減らしただけやんなー。日本語的に損やんなー(別に復権させてほしい禁止用語があるわけではありませんが)。
つまり笑いながら「死ね!」と言うからといって眉を潜めてはならん。その言葉がいい感じのスパイスになってる会話だってありうるのだ。まあ確かに聞き良いものではないし、進んで聞きたいものではないし、「死ねって言葉は言っちゃいけないんだよ!」と言ってる小学生や実は内心言わないように心がけてる女子高生とかは可愛いと思うけど。そして「死ね」に始まる過激めの言葉というのは上記「殺してやる」などと同様、往々にして本心をあらわしません。(「殺してやる」という語をうっかり額面通りにとってセルフ勘違いしたりすることはあるとしても、)普通に生きている人間が本物の殺意を抱く瞬間はないからです。それは様式的な語にすぎません。そうすると翻訳にかける必要が出てきます。そしてその翻訳機の性能が個人によって異なる以上、ほかの言葉に比べればちょっとだけ気を使うべきではあろう。と思っています。
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髪殺油地獄
実は今年の目標は「短いブログを書く」だったのですが、
前回の記事を見てみると完全に忘れてたようである。
でも今回は短いよ!
何せ風邪を引いたからね!
ヘアケアについて書く予定だったのでそれをやる~
といっても多分おなごなら皆やっていようことばかりだと思います。
されども友達とそんな風呂の入り方なんて語り合いませんし、
もしかすると私の入浴めちゃくちゃ変という恐れもなくはないけど、
そういうのいろいろひっくるめて大目に見やがれ! と思います。
ていうかこういうのやるなら私の髪の写真貼るべきだね
(でも貼ったが最後誰ひとり見ないという恐れもあるね)
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堕落はそこで待っている
改めて言うほどのことではありませんが、平易な文章を書くほうがへたに難しぶった文章を書くよりも遥かに難しいものです。
そして、ある文章によって【『目的にそぐうようにその意味合いを示す』という文章そのものの持つ目的】が成就された際には、やはり平易な文章のほうが、へたに難しぶった文章より遥かに価値を持ちますね。
たとえば、村上春樹氏について「あれのどこが面白いんだ」ということを、掃いて捨てるほどゴロゴロしとるファンどもに訊いてみやしゃんせよ。『文章の平易さ』という事項は五指立て終わらぬうちに来るであろう。←何となく私は村上春樹を誉めたくない病にかかっているので言い方に角があると思います。
まあ特徴として挙げられるほどの平易さを特色とする文学というのも在りし日の言文一致運動をほのかに思い起こさせるような感じでいいんじゃ? ない? の? でも言文一致運動が石油タンカーによって行われるフライングボディアタック級の衝撃ならば村上春樹の特色が持つエネルギーなど微風よ微風。微風好きだけど。微風嫌いな人もそうそういないと思うけど。
私は村上春樹が嫌いなのではなく、それに対して付与されるシャレオツなテイストと社会的浮揚力が苦手なだけなんですが、ここまで浮揚しちゃってるともはや成層圏つきぬけて無重力圏に至ってる感じだから、村上は死してなお私の躊躇なく愛せるポジションへ降りてきてくれはしないでしょうね。
なんとなく手元に何冊かはあるのですが、見れば見れようものを見上げず、読めば読めようものを読まず、「ことによると愛せてたのかもしれないのだが」と思いつつ本棚から目をそらして生きるのはそんなに嫌な状況でもない。ので、これもひとつの村上の楽しみ方だと考えています。でもノルウェイの森にひとかたならぬ思い入れを持つ女(※しょうこ)といっしょにいるとたまに読みたくなる……。
なんかこの運びにすると最初の二文章あたり村上を賞賛しているかのようだが別にそういうつもりはないのよ。
でも傍目には言い逃れのしようもないのも分かってるし、自覚してないだけでほんとは村上の話をしてるのか……
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春ではないけど春休みです。
梅は咲いたか! 桜はまだかいな!
ていうか梅すらまだかいな? どうかいな? もう咲いた?
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あけたね
今年初めて書く記事です。
だから言わせろ! 期を逸していようとも!
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくおねがいいたします。
去年ここに同じ趣旨のエントリーを書いてからもう一年になるというわけですね。時の流れはまことに恐い! まんじゅうのごとく恐い! しかし前者は本気で恐い!
こちらにものを書ける、すなわち書かせていただける、そのことの嬉しさを噛みしめつつ、今後も頑張ってまいります。シクヨロ。
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今年は新年早々二度も和服を着せてもらえて非常に満悦しております!
以下のいでたちで皇居参賀してまいりました。
括目せよ。可愛いだろう。着物が。じゃなくて私が。

あるいは私に着られた着物が。着物を着た私が。
今年も皇居には黒山の人だかりがわんさと押し寄せておりました。私べつにああいうところで神道じゃないなら来るなとか日本人じゃないなら来るなとかそういうことはまったく思わないんですけど、背が高いやつはせめて配慮するような雰囲気だけでも見せんかいと毎年思っております。結い上げ髪は言うまでもなくアウアウ、結ってないロン毛もまたノーです。頭頂以上には主張しないほどきロン毛がなぜだめかと言いますと、その毛さえこの世に存在しなければお前の頭頂部から肩までを結ぶ直線によって一辺を構成される三角形部から私が陛下の御姿を拝見できたかもしれないからです。
図解する必要も別段ないかもしれんけど一応するとこういうことです。

この青色部さえなければなあ!
でも「あれさえなければ拝見できる位置に皆さまがおわすんだなあ!」と思うとそれはそれでオツかもしれないなあ。喜びとは見出そうとした者へ来るものなのだ。
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今日は短めに済ますよ! ビコーズあずみんは今年こそ歯切れの良い女になりたいんでな!
夢のまた夢だぜ!
恥を知れ
見て見てー!

昨日の正門は両脇こんな感じでした! そのうえ風のある日だったため、みごと美しくゆっくりと壮大にはためき素晴らしい感じでした。北風小僧の寒太郎はうまいことやってくれましたね。このさまを見るだけで天皇誕生日に授業かましくさりよる日本女子大学への憎しみも吹っ飛ぶってもんでした。これで晴天であればまさしく国旗日和として言うことなかったのですが、そこまで望んではバチが当たるというものでしょう。
それにしても神道の御方でおわします天皇陛下の誕生日の直後にキリスト教の御方でおわしますイエスの誕生日とはまた何という運命のいたずらよ。などと思うと何となく喜ばしい感じなんですが、冷静になってみると24日ってイブですから実際べつに続いているわけではありませんでした! やーんオーマイゴッド!
これで灌仏会(ブッダの誕生日)が12月24日だったらけっこう完璧だった気がします、が、それは旧暦4月8日だそうです! 今年の12月24日はむしろ皮肉なことに仏滅です! やーん南無三! ただし仏滅の語源は「物滅」ですので、単に縁起が悪い日という意味であり、別にブッダの命日という意味ではないそうです。なお仏の命日という意味での仏滅は2月15日です。かすりもしねーよ!
ちなみに天皇誕生日は東條英機ら七名のA級戦犯が巣鴨プリズンで処刑された日でもあります。いつでもどこかで誰かが産まれ、そして亡くなっておられますね。一日経った今日はヴァスコダガマの命日です。
ところで以前、私の先祖が隠れキリシタンだったということをこのブログに書かせていただいたと思いますが、クリスマスを期にあの人たちの末路について親戚に聞いてみたところ、なんだか踏み絵もしなけりゃ殉教もせずに福岡へ逃げおおせて農家を始めていたらしい。おかげでこんにち我が身があるとは思うけど、やっぱりちょっとつまらんですな。世のなかそうそう劇的には運ばないということでしょう。
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スリーパー
割ってない割り箸の先端で脳味噌つつきまわして毛足の短いウニっぽくするような話をするのはもういやなのよ。つまり物事の本質に達することはないし、表層にもせいぜい虫刺され程度のことしかない話ということですよ。もっと実用的な話をしてえのよ私はー。箇条書きとか交えながらよー。
というわけでぽんじょで昼寝する際の話をしましょうかね。といっても授業中にはやりませんしやるなよ。
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しかしそれにしても
春は春眠暁を覚えないし、夏は惰眠を貪るし、秋は食欲を満たして眠くなる秋だし、冬は肥って冬眠するし、そうでなくとも一日の四分の一は寝ているのだと思いますと、日本全国酒のみ音頭(「一月は正月で酒が呑めるぞ~ 酒が呑める呑めるぞ~ 酒が呑めるぞ~」)に眉をひそめてもいられません。眉ひそめたことないけどな。お酒とか好きですし。
なお今調べてみましたところ、今月であるところの十二月は「十二月はドサクサで酒が呑めるぞ~ 酒が呑める呑めるぞ~ 酒が呑めるぞ~」でした。だんだん適当になっていくところがミソの歌なので別にいいんですけど、大晦日とか天皇誕生日とかあるじゃんよ……いやいいけど……
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復権せよ
私も成人の前撮りをしてきましたえ。
着物はとても良かったです。レンタルではないので、これを箪笥のなかに殺さぬためには私か姉が娘なり何なり産まないとまずいわけですが……
撮影:姉。照明の具合のせいもあるんでしょうけどこりゃまたいつにもまして座敷童だな。
伯母が着付けしてくれたので、その最中に番町皿屋敷で井戸に叩き込まれた娘の真似やら能の真似(やたらと襟を持ち上げてなで肩と見せかける)(不遜な話があったもんだよ……)やらと遊びほうけられて面白かったです。←仮にも成人の祝いなんだから少しは成人めいたことをしたらどうなのかと思わないでもない。けどちゃんとしたところで座敷童だしなあ……現代社会におけるイニシエーションの欠落はゆゆしき事態であると自分を顧みて思います。元服したら前髪を剃り落としてた時期はよかったよなぁあ
あと震災の影響で三歳上の姉が卒業式や卒業祝いをオールカットされていたのでその撮影もしました。振袖はそうとう絢爛でしたが、卒業祝いの袴はシンプルなほうが誠実げになる気がします。四年間のうちに高めた学業の結実をそこに見る、といったような感じにするのが良いと思います。ついでに足元を編み上げ革製ショートブーツにするとはいからさんが通りそうな具合になります。
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声に出して読みたい
チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世が来日なさいました!
……などと軽々しくエクスクラメーションマークなどつけていいニュースなのか? もっとおごそかかつ粛然としているべきなのだろうか? そして敬称は宗教系の偉い方だから”猊下”ということでいいのだろうか? ていうかこんなドえらいことが起きたんだから新聞社は号外とか出してもいいのではないか?(出たのか?) ほんとうにすごいこと、ありがたいことと思います。だってねえあなた ご自分の国も大変な状況におられるでしょうにあなたほんと ねえ ご滞在のあいだ猊下に何か失礼などないと良いのですが。主にテレビのインタビューとかで。
チベットというと思い出すのは十三年前のクレヨンしんちゃんの映画(ブタのヒヅメ大作戦)です。それに出てきた最終決戦の地がチベットだったのです。その山の美しさと空の広さと寒々しい地肌は、さながら肉眼で見たかと思うほど胸に焼きついて未だ離れません。行ったこともないどころかどこにあるかすら知らなかったのに思い出の土地のひとつにしてしまえるのだから幼少心理のルール無用っぷりはいいですね。あのころのクレしん映画を見ている子供たちの心は大抵かすかべ防衛隊の一員だったなぁ~最近は私がしんちゃんたちの四倍の齢になっちゃった+そもそも見てないから分からないのですが。
正直に申しましてこれ系の話題は一歩でも足を滑らせたら政治・宗教・野球というタブー三本柱のうち二本をいっぺんに効率よくヘシ折ることになるので、国民的アニメの話題があってよかったなーと今ものすごく思っていますしんちゃんありがとうぼくにラスカルじゃねかった話題をくれて……国民的アニメっつったってあれもともとはどっちかっつうと成人向け漫画だけど。
オトナ帝国の逆襲と温泉わくわく大決戦は「成人向け」という言葉が意味する舳先をみごとに転換してみせた名作であったね。ミュウツーの逆襲もですけど、どうして「逆襲」という言葉を使うのかを考えてみるとなかなかやるせなくなれますね。
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ちなみに先日いらしたブータン国王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク陛下もチベット仏教を信仰なさっておられる。皆さまがた日本に良くしてくださる。ただありがたい。ただただ好きである。あと恥ずかしながら若い娘らしい着眼点で言うならばブータン国王陛下のお顔の美しさはすごいですね人柄が皮膚を通して滲み出ているかのようです。二十歳はまだ若い娘ということでよろしいでしょうか。
現ブータン国王陛下、ダライ・ラマ14世猊下、そして(この流れだとあんまり関係が感じられないかもしれませんが)今はもう儚くなられたマヒタラーティベートアドゥンラヤデートウィクロム=プラボーロムラーチャチャノック太上王はほんとうにご立派な方と思います←やたら長く見えますが口にするぶんには息継ぎがないまま言えるので、じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのうんぬんや、バンコク正式名称(クルンテープマハーナコーンアモーンラッタナコーシンマヒンタラーユッタヤーマハーディロックポップノッパラットラーチャターニーブリーロムウドムラーチャニウェートマハーサターンアモーンピマーンアワターンサティットサッカタッティヤウィッサヌカムプラシット)よりはいくらか楽だと思います。王立マヒドン大学の名の由来となられた方なので単にマヒドン殿下とお呼びしたほうが通じが早い気もします。親王だから殿下でいいのか? でも今は太上王だからなんかもっとほかに敬称があるのか? あるいは臣籍降下なさっているからえーと……まあともかくすごいんですよ~この方は きわめて簡単に言えばタイに医学をもたらした方でしてほんとにブッダみたいなのです。ブッダのみならずジャングル大帝のレオ的でもあるかもしれません。ブラックジャックかもしれませんしきりひと讃歌かもしれません。
ちなみに現タイ国王ラーマ9世(プーミポンアドゥンラヤデート)陛下の宗教は上座部仏教です。我らが天皇陛下といい、自発的に民の尊敬を集める国家元首っていいなーと思います。総理大臣もそんな感じにならんもんかね~伊藤博文のように
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2つ上の段落でしんちゃんに救われたものを自ら捨ててもうしわけないが……
宗教というのは人の考え方の根本に在り得るものであり、それを知るのは物事を察するにあたって有意義と思います。人が(というか私が)何らかの悩みにブチあたった際おうおうにして欲しくなる、そしてそれを担任や父母に相談した際おうおうにして戴けるのは「こういう考え方をしてみてはどうか?」というテンプレートです。そのバリエーションを増やすのは、実際にそのやりかたに則るかどうかはともかくとして自分のためになることであろう。人と話しているときなどには殊に役立ちます。つまり相手の伝えたいことは何であるか、自分がこう言ったら相手にどう解釈されるかを察するにあたって、実に有意義なことなわけです。人の考え方や思い方、つまり在り方というものは、辛さを許容するものであったり楽に向かって努力するものであったりいろいろですが、人による選択の差異を体系的に表出させたら、それは宗教という言葉によって示されるものになるんではなかろうか。選択(=人)が先か宗教が先かというのはあるけど。
普通は知性が自分で指針とすべきルール(=自分の在り方)の大樹なり豪炎なりを、外部刺激を材料にしながら取捨選択し育てていくと思うんだけど、自分が生まれるより先に何らかの宗教があると、知性はもっぱら育ててもらう受動側に回れるので、つまり自力で発想を育てる必要がなくなり、そのぶん別の仕事に手を回せるという利点があるのかもしれん。といっても倫理や常識といったルールが社会にはあまたごろごろしてますから教徒も非教徒も多分まあ最終的にやることはあんま変わらんのですけど、宗教だとそのへんがあらかじめいっぺんにパッケージされているのでお得というイメージがあります。たとえば「マリアさまが見てる→だからみっともないなりをしていてはだめ→タイが曲がっていてよ」というようにです。いいね。ここでマリアさまがいない場合は「他人さまが見てる」になるだけだけど、それだと人のいないところでタイが曲がっていたらいけないという理由になりません。生活の乱れを許す余地が現れてしまうのです。
しかしそこで無教の人のもとに現れる救済策は会津藩の「ならぬことはならぬものです」という金言です。いいね。有無を言わせやしないね。マリアさまや仏さまの存在を常に感じることで自分を律するのが仮言的命令に満ちた生活なら、こちらは一言にして定言的命令の極致って感じなんでしょうか。
これぐらいなら宗教というワードの混じる話をしても良かろうか……ソワッ
君子あやうきに近寄らずと申します。すなわち私はドのつくあほです。