書を捨てず町へ出なくてもけっこういける

 目白祭でしたね。目白祭で私はパレスチナ人の居住問題・福島県飯館村に関する問題の講演を聞いてまいりました。こうした繊細な問題に対して間違ったことや素っ頓狂なことを言うのも難ですので内容には触れずにおこうと思いますが、複数の意味で他人ごとではないのだと痛感いたしました。
 そして附属高校ではもみじ祭のはずですね。ちょっと検索してみたところ日本全国通津浦々にもみじ祭という名のイベントがあるようです。日本人という人々はどれほどまでもみじ好きなのか。少なくとも私は大好きです。桜と並んで大好きです(なお日本女子大は桜と楓をシンボルとしております)。今年は温かかったせいかまだあまり見る機会に恵まれないのですが、銀杏と並んでそろそろ紅葉してきたでしょうか。
 そんであえて脱線させていただきますが銀杏って美しい名前ですね。銀のあんずですってよ。金枝玉葉って感じ? ポム・オ・ドーロって感じ? でも(普通に生きてるぶんにはあんずのほうが銀杏より出会う頻度に乏しいからそう思うだけなのでしょうけど)あんずのほうが銀杏よりも先に名づけられたっぽいのはちょっと意外ですね。あんずは中国伝来なのか
 いやーもみじね。もみじもみじ。秋の夕陽に照る山もみじ。
 もみじというか楓はまこと雅趣に富んでいます。蟹とか海老を見ると、あんた見る人もない海底で蜘蛛のようにただ這っているだけで一生を終えるべきところであろうになぜこうまで旨い肉を四肢ならぬ八肢に閉じ込めているのかと問い質したくなるものです。あまつさえ茹でると鮮やかな錦の紅色に染まるとかめでたいうえにエロティックなうえに美しい!!! ほんとなんでそうなっちゃったの? そして卵やバターは砂糖・塩・醤油・肉汁いずれに混ぜても素晴らしい調和を見せますが、まことに何あんた? 食べられるために作られたの? (食用のために乳を加工され生まれたバターはともかく卵に関しては、)親鶏はお前にそんな役割を演じさせるためあの小さな総排泄孔を拡げてまで卵殻ひり出したと思ってんの? もし精子さえあればあんただって立派な有精卵になれたかもしれないし、買う人によってはむやみな世話で殺されもせず、大事な客人が来たからといってシメられ葱と煮込まれもせず、白く豊かな尾羽を長く仙人の眉のようにたなびかせた立派な雄鶏となって、日本庭園の鶏小屋の止まり木でコケッコウと絶叫し、新たなる朝の訪れを家人に教えてたかもしれねーのに何なの? 美味しすぎて困惑に絶えない……どうして産まれてこのかた卵のなかしか見たことのないやつが魚沼からやってきた炊き立てのお米や減塩のお醤油とこうまで見事なマッチングをできてしまうのか分からない。お前の遺伝子は遥かなるゲノムのころからこのお茶碗のなかの出会いを知っていたというの?
 と、卵かけご飯を食べながら箸の上下するごとに・米を一粒噛むごとに問い質したくなるものですが、楓や桜といった風物もまた、これで見る人がなかったらどうするの? と心配になるほど美しい。こんなにも美しいものはほかにない。いやあ解せぬね……喜びも悲しみもない木石の分際で、どうしてこんなに美しくなってしまったの? 目に美しく・心を楽しませ・故郷や祖国の象徴となって郷愁の涙を誘うほかに何の仕事があなたにできるの? 大丈夫、しなくていい……何もしなくていい……ただ百年先も変わらずそこにいてくれればいい。かつて私にそうしてくれたように、紅葉に目を楽しませ、木漏れ日に戯れさせ、薄紙をあてた上から寝かせた鉛筆でシャシャシャッとやって樹皮の形態を描き写させ、根を枕にして土の匂いを嗅がせてくれればいいのだ。しかし楓の根は枕にするにはちと細すぎるか。まあいい
 つーかそもそも甲殻類の美味しさも鶏卵の生まれ持った奇跡も桜楓の豊けき美観もみな人間があとから見出したものなんすよね。つまりどこかで何かが変わっていれば、また別のものを対象にしつつ今と同じだけの幸と福とを得た人類’というか人類αであったのかもしれない。と思うと、今もみじを美しいと思う人類に進化したことは間違いなく正解でした。他に正解はあるかもしれませんがこうなったことに対してはまったく後悔・反省のしようもありません。もみじよ染まれ、お前は美しい。……という形容詞的なのは反論を許す表現であるため言い換えると、もみじを愛している もみじというか日本の風物の万物に対して月がきれい(漱石)ですし死んでもいい(二葉亭)ですわ。稲妻も鮎も柳もモンシロチョウもゲーム予約の行列も自動改札もひよこ鑑別業も好きですわ。
 もみじの次は南天や櫟や熟れた柿やそれをついばむヒヨドリが雪に映える時期ですね~待ち遠しいね~ 東京に雪あんま降らないのがいささかあれだけどまあそこは土地柄だからいいの 「東京には雪が乏しい」を含めた光景がわびさびだからいいの
***
 もみじつながりで
 菅原道真公が百人一首に、「このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」と歌っておりますが、きっとさぞかし美しい、これならば神もお喜びくださるであろうと思われるほど美しいもみじに身を化粧した手向山だったかと思うと、その景色を想像せずともそれを詠んだ道真の心を思うだけで胸が清涼と洗われるようですね。もみじが美しいのにくわえてこんな名歌を残されてしまっては幣の一本や二本を忘れたことなどまったくもって屁のつっぱりにもならぬ些事でしょう。
 そして 説明しようにも筆舌が追いつかないのでここはひとつ画面の前にて実地でやってみてください。
 山川に 風のかけたる しがらみは
  流れもあへぬ 紅葉なりけり って口に出して読んでみ!
 千早ぶる 神世もきかず 竜田川
  からくれなゐに 水くくるとは って口に出して読んでみ!
 たまらんね。舌に残るこの余韻まことにたまらんね。これが味ならよだれが出るね。
 ただ聞くだけというのも他力本願的というか貴族的で良き感じですがここであえて自ら舌を動かして発音するとまた体腔に歓喜の満ち満つる感じがしていい。実際に見たことがあるやらないやら定かではないにしろ、どちらにしても概念上のもみじの鮮やかさが、概念上の川面のきらめきが、目もあやなその光景が、この東京砂漠にたたずむ我が網膜に浮かび上がってくるかのようではないですか。一瞬にして幽境の彼方へ連れ去られたような心地がするではないですか。しませんか。するんですよ。
 なお下の歌に含まれている「からくれなゐ」は韓紅とか唐紅とか書きますけど、この場合は唐紅のほうらしいです(衣を染めるベニバナの産地だったから)。紀元前中国の戦国七雄のひとつに韓というのがあるそうなんで、その時代の意味からいろいろ分化したのかもしれんね。そもそも韓国の韓の由来がそれなのかもしれんけどあんまりよくは知らんわね。中国思想をとってたらこのへんも詳しくなるのか?
 んで時は流れて平成の世ですがあえて娯楽だけ前時代に戻し、百人一首かるた面白いです。色あせない面白さ、色あせない美しさ。そして香りの馥郁さ。さすが平安千年の重みは違う…… スパァーン!! と畳を超え襖の果てまで飛ばす勢いで札を取る白熱のマンツー試合も楽しいでしょうし、あえて取点に執着することなく、歌の意味をこうじゃそうじゃああじゃどうじゃこうじゃないそうじゃないああじゃないどうじゃないと話し合いながら片手間に札を探すのもまた楽しいです。飽きたら坊主めくりをすればいいのです。あの単調な感じは気分転換に最適であると思います。

20

 ささやかな話なのですが
 こんにちは は KON NICHI [WA] と発音しますね。で、
 こんにちはー は KON NICHI [WA] だなと思うんだけど、
 こんにちはーん になると KON NICHI [HA] に見える。
 コンニチハーンとかカタカナになったらもう完全にHA以外の何物でもない。これはなぜだ? チンギス・ハーンとかラフカディオ・ハーンによる「ハーンの発音はHA-Nである」という認識慣れが原因なのでしょうか?
 「こんにちわーん」は当然WAとしか読めませんけど、これはたとえ「ん」がついてなかろうと伸ばし棒がついてなかろうと表記的にむかっ腹が立つわ……
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 そういうおよそ重要とは思い難いことを考えているあいだに「大学二年生の夏」という輝かしい字面を持った一時代が過ぎ去って、私は二十歳になりました。あら? 何? どうして私は二十歳になっているの? 誰かが私に魔法をかけたの? 誰かが私の年月をつづら折りにして玉手箱へしまっておいたのがさっきたまたま開いちゃったの? 甚だ疑問です! いいえ! 分かってます! にわかには信じがたいことであるが、人間は生後二十年が経過すれば二十歳になってしまうのだと。酒・煙草・ソープランド(?)・博打・クレカ・クラブへの出入り・そのほかもろもろが可能になってしまうのだと。イニシエーションは自ら求めなければ手に入らないのであると……
 かなり前にしょうこちゃんが「十代最後の日に何をするか」と書いていましたが、私はとりあえずカラオケで酒など引っかけつつ『青春時代』(森田公一とトップギャラン)を熱唱しました。二十歳を迎えた女の行動としてはあまりに凡庸な行動であるといわざるを得ません。いったい何をすればいいのか特に思いつかないがとりあえずカラオケにでも行っておくかプラス二十歳になったからには酒でも呑んでおくか、という、不真面目でなげやりだが戸惑い気味に真面目な姿勢が見え隠れしている。真面目に不真面目とかかいけつゾロリじゃねえんだからほんとやってられんわ…… そのうえこの曲はただの青春時代ではなく卒業半年前という、青春時代の終焉の哀切を謳いあげた名曲なので、つまり私にはまだあと一年半ばかりの余裕があるのでしたー! いろいろ惜しいことである。
 この『青春時代』のサビに『青春時代の真ん中は胸に棘さすことばかり』という歌詞があるんですが、ねーよ。胸に刺す棘ねーよ。誰かよこせ棘をここに。棘の痕ひとつないこの! 胸部の! 清さ! これこそが他のいかなる棘よりも痛く鋭く心を刺す! 蝶のように舞い蜂のように刺す! でもこんな棘はトップギャランの歌う棘ではない…… 「砂汚れひとつない純白のユニフォームなんてかっこ悪いじゃねえか余計なこと(⇒洗濯・漂白)すんなよ母ちゃん!」などとわめく野球少年の気持ちが今とてもよく分かります。
 しかしだからといって手で砂を握りとってゴシゴシ押し付けたところでそれは本当のかっこいいユニフォームではないのです。本当にかっこいいユニフォームを得るためには、光を跳ね返すほどの純白という恥辱に耐えつつグラウンドに立ち、再びアグレッシブなプレーを決めなければならないのだ。そうして彼は本当にかっこいいユニフォームを再び手にすることができる…… ていうかこの少年は少なくとも一度はそういうプレーを決めた経験があるんだから私の例として曳いてきちゃいかんくらいかっこいいのだが などといっても私の生活のなかにそういう少年らと接する機会とかは一切ないので、これはイデア界の少年の話をしているだけです。たぶん実際いっしょに住んだりしたら相当な本数の棘が胸に刺さると思います。よくもわるくもな……
 ともあれ真実の戦いによって得た傷は美しいって話だ
 蛇足:何年か前の中洲には女性用ソープランドが存在していましたが、
  ホスト側の体力の都合上どうしても運営が続けられなかったとかで閉店しました。
***
 カラオケの話を引きずりますが、懐メロ関係で行けば『私がオバさんになっても』を歌う/歌ってもらえばよかったかもしれない(「女ざかりは19だとあなたが言ったのよ」って歌詞があった)。でも二十歳の誕生日に歌うものとしてはいささか微妙な気持ちになるか。女ざかり19っていささか早すぎはしませんか! 肉体以外の部位に目をやることを忘れ果ててはいませんか! まあサイパンに連れて行ったりミニスカートはかせたりしたいんだったら確かに19がいいかもしれんけどよ。これは個人差が激しい話題なのだよ。森高千里が彼女だったらそりゃオバさんになっても若い子に負けることなくミニスカはきますよ。それに早い子は16からさかっているし、長い方なら65までさかっていると思いますよ。さかっているって言い方はちょっと物議を醸すかもしれないけど、実際のところ女が女であるということへの頓着を忘れていながら女ざかりと呼ばれる状態を身の上に招けるかと言えば恐らく否でしょうからよしと…… して…… ほしい!
 女盛りというよりはある意味盛り損ないかもしれませんが、女の時期的な盛りがどうこうという部分に論点があるとすれば、源典侍(と修理大夫)は欠かせますまい。あの部分だけあさきゆめみし何べん読み直したか分からんね……原典を繰り返し読むわけじゃないところが学科的に考えるといささか申し訳ないが大和和紀の描く老女の愛らしさには「あ~修理大夫がそりゃ愛しもするわね~」ってな説得力がふんだんに満ちておってな。私が光源氏だったら友達も女も世間体も地位も何もかも捨てて彼女と修理大夫の死に水をとって葬儀を為し四十九日を済ませてからおもむろにふたりのあとを追いたいくらい可愛いですもの……内侍がというよりはあの夫婦が

わたしのおうちは前頭葉よ

 脳内と現実の齟齬が少ない状態を「居心地が良い」と感じるのではないだろうか。
 といっても、サプライズパーティなどをはじめとして驚きを伴うことによるときめきや喜びもあるのでそうとは限らないとも言えるんでしょうか。サプライズパーティって普及しすぎてもはや別にぜんぜんサプライズじゃないけど。パーティイコールサプライズみたいな感じになってきてしまっているけど。誕生日には軽く友人どものフェイントを覚悟する風潮が既に巷の人々の骨身に染みつつあると思うけど(そしてそれに肩透かしを食らわされて一抹の寂しさを覚える覚悟も……)。
 しかしそのように(=驚きも喜びを生みうるというように)言われたとしたら反論のしようもあります。それというのも、ときめいたり喜んだりすることのできるような驚き(=非脳内オブジェクト)というのは、それを受けて脳内のこれまであった状況を変更することにためらいがないのです。ためらいをなくしてしまえるほどに価値観的な違和がないわけです。1と3のあいだに2がいきなり出てきたら「いきなり」という成分にこそびっくりすれどもそれが「2」であることに驚きやしねーよ。だからこそそうしたポジティブな感情が生まれうるのであって、現実が歩み寄るか脳内が歩み寄るか、いずれにせよ両者の距離が近いことや近くなることを人間は喜ぶんじゃなかろうか? だから仮にはじめはいけすかないと思った環境であろうとも、排気ガスやら下水臭やらチンピラやらの良からぬものがこもった客観的に見てろくでもない環境であろうとも、慣れない環境の居心地は悪く・慣れた環境の居心地は良いのでしょう。それは現実が脳内を浸潤してくれるからです。
 つまり人がより良く生きるには素直な心をもって真面目に勉学に励み、惜しみない内的研鑽に努めればいいわけです。
 ……。
 説得力がねーよ
 毫厘ほどにもねーよ
 あと私の口にそれをいう権利もねーよ
 そしてずいぶんとまたわかりきった結論であることだよ。そんなん頭でわかってても無理なもんは無理よ! 勉学は必ずしも現実に発現しているとは限らないしー。わけても文学などはその最たるものだろうし。しかしながら「それが今ここに書かれているという現実」を現実と見なすことはできるであろう。してみると、文学(←ていうか物語でいいやこれ 情動にせよ文字ひとつの成り立ちにせよ何らかをワンオブ学問として語れる域に立ち入っていないのだ私は)というのは脳内と現実に齟齬があったとき緩衝材にしたり現実の代用にしたりすると良いかもしれない。
 個人的に好きな川柳に加藤郁乎の「サイダーを サイダーの瓶に 入れ難し」というのがあるんですが、これが面白いのは現実と齟齬がまるっきりないところ、そのうえそんな当たり前の光景をなぜかわざわざ五七五に仕立てる不可解な労力が支払われているところでしょう。頭のいい人がちょっとふざけているときの洒脱さがあると思います。そもそもの話をすれば普通サイダーというものは瓶(ペットボトル)からコップ、コップから口腔、口腔から膀胱、膀胱から下水道の一方通行で、ことによってはコップをぬかすかどうかという程度のバリエーションしかないと思うんですけど、なんでこの人はわざわざ瓶に戻そうとしているのか。このささやかな引っ掛かりもこの川柳の面白みだと思います。
 日本人に生まれたからにはより良く善く能く佳く生きたいものだ……

雷さまを下に聴く

 ↑実にしみじみといい曲ですよね……
 日本女子大から富士山って見えるのかな? 今度行ったら確認してみようと思います。ちなみに東京スカイツリーは見えます。(『魔法騎士レイアース』直撃世代だったこともあり)東京タワーが好きだったのであまりスカイツリーに情を持てなかったのですが、建築様式に五重塔のそれを取り入れていることや、3.11のとき作業員がみな無事であったことなどから、今はずいぶん好きになりました。スカイツリーから富士山って見えるのかな?
***
 最近ごはんの話しかしてなかったような気がするので、今日のところは無難にお天気について書こうと思うの。
 つーても基本的な流れは普段とまったく同じですがまあブログちゅうのはそういうもんだべ。
 
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真善美の茶碗

 友達が入院したのでその快癒を祈って一行目を書く
 右や左のだんなさまも良ければ祈っておくれやす
 祈ってとか言った矢先ですけど私自身や家族は特に一神教ではない、というかキリスト教徒ではありません、というか宗教に対して人さまに言うほどの関心やかかわりを持っておりません。今のように運命に対し祈ることはよくありますが神様を認識して祈りという行動に出るわけではないなあ。
 強いて言えばお米には七人の神様がいるので食べ終わらないとばちが当たると思っていますが、この神様がたは御身体こそ小さいものの断じて心の狭い方たちではないので、体調が悪いときなどはお粥をちょっとくらい残してもばちが当たらないことになっている。でもちゃんと食べたら神様が体内からちょっと良くしてくれる。ということに私のなかではなっている。だってお米といったら、実るほど頭を垂れる方たちですよ。傲慢であるはずがないでしょうがよ。冷静にお考え遊ばせよ。そのうえ千歯こきに扱かれたりして大変な運命を乗り越え、いま、炊かれている……ふっくらと……
 遠からんものは魚沼産コシヒカリの神々しく白く輝く玉体を炊けそして見よ、近からんものは脳裏にえがけ。日頃何気なく咀嚼し嚥下し消化しているその美貌を、まじまじと見てしまったが最後、これを食べるのが惜しくなってくるでしょう! そうでしょう! この艶々とした、柔らかく、あたたかく、うれしいものが主食であるということの喜びときたら筆舌につくしがたいものがあろう。うまし国ぞ! ほんと国見をしたときにかまどから煙が立ってたらテンション上がるよなー国民が飢えない国家のなんと素晴らしいことでしょう。この美しい米もて我が祖先の肉体が脈々と作られてきた事実の誇らしさといったら、アントニウスに華麗な宴を見せるため真珠を酢で溶かして飲んだクレオパトラにも負ける気がいたしませんね。そう思うとどうだい、柔らかい真珠のようではないか米というものは。
 
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短いのは携帯だからだ

 携帯から初投稿してみます。手直しはパソコンでします。
 暑さでなのかしらんけどパソコンが壊れちゃってねえ
 えー前回はちょんまげ狂いになっていたため目が濁っていましたが冷静に考えるとTシャツやスーツにちょんまげがそぐわぬ以上これもまたやはり春琴抄で鵙屋琴女の言った籔鶯(=それ自体では成立できない、シチュエーションありきの輝き)なのではあるまいか? ただ、「ちょんまげがそれら洋装にそぐわぬ」という考え方・感じ方もちょんまげが廃れているからこそのものであり、ちょんまげが廃れることなく現代に至っていたら、パリッと糊のきいたワイシャツに流行りの小粋な髷を結い上げたインテリジェンスなサラリーマンなんか大手町にわんさかいたのかもしれません。あらなんかそれはそれで悪くないんでない? ちょっと面白くなってしまうことは否定できないがそのうち目が慣れさえしたらとっても良くなってくると思いますね。文金高島田や桃割を結ったOLはあまり見たくないけど(ああした髪のときに脛やらウエストのくびれやら見える格好をするのはあられもない)。OLはやたら薄い前髪とやたら太い眉とやたら濃い口紅にやたら着膨れするコートでショルダーホンを提げながら、ギロッポンの往来なんかをツカツカと、あまり高くないヒールで歩くのがバブリーで良かろうと思います。バブルに帰りてえな〜帰るも何も体験しておらなんだが
 しかしまあ仮に明治維新をくぐり抜けられたところでちょんまげはきっと世界大戦とかの行軍に不向きとされ廃れることになったであろう。おそらくキェーッとやりあったら数日ないしその日のうちにも帰るなり何なりできよう国内の戦乱や斬り合いに対し、銃剣付き長銃やら鞘入りサーベルやら提げながら幾日も緊張感ある荒野を、胝ができようと肉刺が潰れようとひたすら歩き続けるときたら、その苦労はいかばかりか。もちろんちょんまげなど結っていようものならば軍帽の擦れでほつれにほつれ、きっちりした端整さと清潔感が大事なそれは目もあてがたくなり、自然と士気も下がりゆこう……では開国も戦争もしなかったら果たしてちょんまげは生き残り得たのだろうか? その場合ちょんまげが生き残っても人がどうなるか分かりませんが。
 争い事に向かず外来成分に弱く、まことちょんまげ文化とは繊細なものであることよの……
***
 以上でちょんまげ狂気いったん終了
 なお今アツいのは饅頭狂気ですほんと饅頭こわい。「人肉饅頭」というかなり有名なホラー映画があって、このインパクトある題名からして既に怖いので中身はもちろん見ておりませんが、やはり人肉を饅頭皮におさめるんでしょうなあ。それにあたり挽き肉にするのか角煮にするのか考えるだに恐ろしい。その印象もあって饅頭は怖い。白餡が特に怖い。夏場は冷やしてあるとなおさら怖い。やはりこれも冷やした緑茶といっしょに出されたら失神するほど怖い怖い なお本学の食堂(売店)は、市販品ではありますが、けっこう饅頭ならんでます。怖くて近寄れませんので詳しくはわかりませんけど、酒まんじゅうとか、ひよこまんじゅうと同じ味するけどひよこまんじゅうではない饅頭とか、饅頭じゃないけどよもぎもちとか。見てるだけでも怖いですね!
 ……とか書いたあとに友達から饅頭もらえたらその子は私が嫌いってことになるのでしょうか。むしろ愛されてる気もするね

与作は木を切る

 ここ最近あまりの温度と湿度に着飾る気も化粧する気も失せ、一週間のうち半分くらいは寝間着で学校に来ています。女子としてどうなのよ……江戸時代のおしゃれソウルはどこにいったの? って感じだけど江戸時代は地面がアスファルト舗装されてなかったしヒートアイランド現象もなかったし地球温暖化もしてなかったもの!! ほんと開国するんじゃなかったわあのペルリめ。まあペルリはお上の命令に従ってきただけだしお上はクジラを追っかけてきただけだし開国してなくても他の国というものが存在する以上地球温暖化はしていたと思いますけれども。
 それでさーパソコンも携帯電話もホカホカと熱を持っているもんで悠長にブログを平常の長さまでダラダラ書き流していられないわけですよ。特に充電中の携帯電話の熱さたるやほっこりとろける焼き芋のようだ。セットしておくだけで携帯を冷やしてくれる機械とかないの? と思いましたが、電子機器を冷やすと周囲の水蒸気が結露して携帯に付く→おしゃかになりますからだめでしょうね。じゃあ防水加工携帯ならいけるかな?
 さてそんな暑がりのあなたにおすすめのこのスタイル。
  しまった何がなんだか分からん
 ブログをご覧になっている方々の体感温度を思い、できるかぎり恐ろしい加工をほどこして涼を招きたかったんですが、なんか意外と普通だな……(白眼は自前だよ)
 つまり適当なてぬぐいに保冷剤を三つばかり包んで、うなじに当たるように結ぶわけどすな。この時期にはクソうっとうしい前髪も上げられて一挙両得というわけです。これやってたら(というか母にやってもらったのだが)母に「田吾作だね」と言われましたが田吾作ってこんなんだっけ? これはむしろひょっとこではないのか?
 ただあまりうなじを冷やしすぎても身体によろしくありません(そのうち気が遠くなってきます)のでときどき前後を180度ぐるっと回すことをおすすめいたします。デコを冷やすのもなかなかオツなものです。つまり脳みそを冷やしたいんだな。頭蓋骨ぱかっと開けて水を注いで氷を三つばかり浮かべたい。と思いましたけど想像するだけでキーンとするのでやっぱちょっといやだねそれは。
 ところで精巣がまたぐらから爪の脇にあるささくれのごとく邪魔そうに生えている理由が、「卵巣みたいに体内にあると温まりすぎて精子がことごとく死ぬから」であるというのは有名な話ですが、それならそれでなぜ精巣じゃない棒状部まで外に出すようになったのか+なんで卵子は温かくても死なないのか、というのがちょっとばかり気になりますね。あとそういう理由で外に出せるんだったら脳みそもプランと外に出したいよね。温まりすぎて脳細胞が死ぬわ。
 ……と思ったけど、もしかして現在の人類の形状は、当初ウルトラマンのジャミラみたいな形になってもよかったところを脳みそが熱で死にかねないから肩の上に頭部を突出させたのかもしれません。数あるウルトラ怪獣のなかでもジャミラはすごく特別な感じがするよね……(私ほかの怪獣にも同じこと言ってるけどね……)
 そういや江戸東京博物館に行った。あれはほんとうに素晴らしいですね。人生で三度目くらいになるのですが、行くたびに新しい発見と感動があって、横っ面ブン殴られる思いがいたします。忘れなければ今度はそれについて書きます。

安政アイドル

 6月になったら五月病が治りました。気は心ですね。
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 (※成瀬先生を成瀬成瀬と呼び捨てまくっているのでご注意ください)
 本学の敷地内には正門入ってすぐのところに創立者・成瀬仁蔵の教学理念と学園の歴史を記念する建物がありまして、その名もダイレクトに成瀬記念館といいます。授業が早めに終わったときにはたいてい開館しているのですが、たいていの在校生は恐らく目もくれずに帰るんでないかと思います。
 附属生であれば、雑司が谷にある成瀬の墓とともに中学のころ一度ならず行ったことがあるのではないでしょうか? いや二、三回くらいは行ったろうか。まあその程度の認識ですよ。
 
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世界のすべての命は私

 こんにちは。***より下でする話とはまったくいっさい関係ありませんが、朝顔が非常に好きです。植物というよりは昔の友達として好きです。幼いころは毎年のように植えたり絞ったり染めたり、さんざん遊んでもらったものです。秋になれば枯れて死んでしまうのですが、いつも夏になると生まれ、一夏のあいだにどんどん育ってくれるので、結局はいつも同い年のような認識でした。
 実際のところ一番好きな花は桜で次に菊、その次には杜若やホタルブクロやねこじゃらしやラフレシアやらが群をなしてやって来るので、花としてはそこまで好きというわけではないのですが、こういう親しみは朝顔に対してのみあるものです。確かにまた遊ぼうと思っていたはずなのだが、いったいいつから遊ばないようになったか分からない、そんな部分までまことに生々しく友達めいた存在です。
 思い出があまりに美しくなってしまったのでもう二度と育てませんが、毎年夏が来れば思い出す。遥かな尾瀬。遠い空。水芭蕉ってなんであんな形状してんだ。
***
 個人的に今アツい動詞→「おらびたてる」
 いいよね。おらびたてる。なんとなく山菜の名前っぽいところとか実にいい(多分わらびから来る連想)。私の声帯が角野信郎か水木一郎あたりのそれになるというのならぜひとも町内の祭とかに走っていってマイクを奪い意気揚々とおらびたてたいところです。「おらぶ」だけにはとどまらず、わざわざ活用形を変えて「たてる」まで付けちまうところがまたたまらなく良いですね。センスを感じます。まことにアツいことであると思います。
 たしか『先帝身投』あたりで「戦はいかにやいかに」とか現状を把握していないこと丸分かりなことを言ったせいで知盛卿に呵呵大笑された女御たちが、二位殿がガッと裾持ち上げて安徳天皇のもとへ走る寸前あたりでおらびたてていた……ような……気が……? 初めてここに書かせていただいたブログでも『先帝身投』の話はちょっとだけ(下ネタとして)触れたおぼえがありますが、もうあれを書いてから数ヶ月、そしてあれを習ったのは一年前になるというのだからまことに光陰矢のごとしね……
 
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